やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

かけ算の順序問題の解説と、かける数/かけられる数に見る人間の認識

※現在この記事について賛否……というか九割九分九厘が"否"の方で色んな意見が飛び交っていることを受け、補足の記事を書いています。お待ちください。いや、やる気が失せたので待ってもすぐには出ません。

 

かけ算という操作は非常に奥が深い。というか、僕には正直よく分からない。
「かける数/かけられる数」の話は、生きていたら一度くらいは聞いたことがあるだろう。「3人の子供に2個ずつパンを分けるとき、全部でいくつ必要か」という文章題に対応する式として「3×2=6」を書くことが、果たして間違いなのかどうかという問題。結論を言えば、一般的な「かける数/かけられる数」の立場からすると、これは間違いとなります。
頭の悪い人間は自分の無知を棚に上げて「どうして駄目なのか」を考えようとせずに教育機関を責めたりする(発端のツイートでは「気が狂っている」とされていた)のだけれど、途中までは少し考えれば誰でも分かる話だと思うので、説明してみようと思う。

前提条件として、かけ算には交換法則が成り立つので、3×5も5×3も同じ15という数字を導く。ここはたしかにその通り。
その上で、あくまで"社会生活における約束事"として、かけ算の書く順序に意味を設定する文化がある。前に来るものを"かけられる数"、後ろに来るものを"かける数"とし、それぞれが1つあたりの数と、それがいくつ分あるかを表す。言葉で書くと抽象的にならざるを得ないので、視覚的に書いてみる。
図1「◯◯ ◯◯ ◯◯」→2×3
図2「◯◯◯ ◯◯◯」→3×2
ここに意義を唱える人は少ないのではないか。2個の塊が3つあるので、2×3。3個の塊が2つあるので、3×2。通常、この"塊"のことを"かけられる数"と呼び、立式の際には前側に置かれる。「2に、3をかける」ならば、2がかけられる数で3がかける数となる。

先述の文章題「3人の子供に2個ずつパンを分ける」というケースを図にしようと思ったら、多くの人は図1を選ぶと思う。だから、このケースに対応する式は3×2ではなく「2×3」なのだ。深い話なので詳しくは後回しにするが、人間の認識として「子供よりもパンの方が距離的に近くてひとまとめにしやすい」から、図2にはなりにくい。
文章の中で数字の出てくる順番が逆なので紛らわしいが、これが割り算ならどうだろう。「3人の子供に12個のパンを分けるとき、1人あたり何個か」という問いに対して、順番通りに並べて3÷12と書く人はいないだろう。それは割り算の数字の順序に意味があり、割る数と割られる数が意味的に区別されているからだ。かけ算においてはたまたま交換法則が成り立つから頭の中で逆転させても同じ結果が出るだけで、本来この両者は区別するべきものである……というのが「かける数/かけられる数」の立場だ。


ここからはさらにもう一歩踏み込んで話をしてみる。ここまでの話で分かった気になれた人は、読まなくていいかもしれない。こんがらがって「やっぱり分からないや」となる可能性も高いので、理解を深めたい方だけお付き合いいただければいい。

そもそもの話この順序問題というのは、かけ算と言っても項が2つの時に限られたものだ。項という表現は正確ではないが、数学に詳しくない僕は残念ながら他に適当な言葉を知らない。要は「2×3×5」のように3つ以上の要素をかける場合には、同様の取り決めはあまり顔を見せなくなるという話。立体の体積を求める場合の「縦×横×高さ」という順などは時折使われるが、2要素の時ほど強いものではない。あえて文章題をつくるのであれば「2個のパンを3人へ、1日おきに5回配る」みたいな構造になるだろうか。3要素になると途端に脳の処理能力が追いつかなくなり、順序など割とどうでもよくなってしまう。
先程ちらっと匂わせたが、同じ「3人の子供に2個パンを分ける」ケースでも「◯◯◯ ◯◯◯」→3×2の図にすることは不可能ではない。「3人の子供に1つずつ配ると、2巡する」という捉え方をすればいい。Wikiには「トランプのように配る」と書かれている、言い得て妙だ。数字と単位の組み合わせパターンを挙げてみると、以下の4つとなる。
 1.パンを2個ずつ3人に分ける(2×3)
 2.パンを3個ずつ2人に分ける(3×2)
 3.パンを2人に1つずつ、3度配る(2×3)
 4.パンを3人に1つずつ、2度配る(3×2)
かけられる数とかける数を分かつのは、基本的には先述もしたが「どちらがよりひとまとめにしやすいか」だと思われる。この辺りまで来ると、問題の根っこが明確になってくる。これは数学の問題というよりは人間の問題……人がどのようにして世界を認識するかという、極めて文系的な話なのだ。

 

小学校を飛び出すと単位同士をかけたり割ったりするというややこしい概念が出てくるらしい。
m^2(平方メートル)とかm/s(メートル毎秒)とかならあの頃から何気にあったけど、m/s^2(加速度で分かるよね)なんかはもう既に僕の理解を超えている。文系なので物理はなんとなくしか知らない。
例えば2本1セットの棒が3セットあるときに下のようにならないのは何故? 普段は、6[本]と捉えているのが不思議でならない。
2[本]×3[セット]=6[本・セット]
対して、割り算は意識することが多い。 "一人あたり2枚"のような表現はよく使う。
10[枚]÷5[人]=2[枚/人]
m×m=m^2というのは、あくまで「1辺を1mとする正方形の面積を1m^2とする」という定義だから成り立つものなのであって、そうでない場合に"単位の二乗"という概念は果たしてアリなのか?
2[g]×3[g]=6[g^2]という式を想像したとき、g^2とは一体何を表す単位なのだろう、そもそも「かける3グラム」とはなんだと。"日常的意味から離れる"ことが許されるなら、ひとつの抽象概念としてこういう(無意味に近い)ケースを考えることも可能になってしまう。(10/21注:質量×質量という概念は既にあるらしいです。他の無意味と思われる操作に置き換えて読んでください)
かけ算の時は異単位同士でかけたが、2[個]+3[本]のように加減でやると、それって「2個と3本」で変わらないのでは? それとも5[個+本]?
表記はなんでもいいとして、それが一体何を意味するかを考えると、あえて僕が表現するなら5[つ]となる。異単位同士なら、共通させられるより広い単位に変えようと努力する。そんな無茶くちゃなことがあるかと思うかもしれない。そもそも助数詞と単位は分けて考えるべきなのかもしれない。

 

究極的な話ひとまとめにできるものなどなくて、「りんごが2個」という状況は無限と同じく、形而下では本質的には有り得ない。りんごはりんごでも ふじ と つがる かもしれないし、同じふじでも重さや大きさ,甘さに色など、どうしても差異は生まれる。仮に物質的には全く同質だったとしても、置いてある位置などによってりんごAとA'に区別することが可能だ。にも関わらず"2個"などという共同幻想が成り立つのは、いくつもの違いに目を瞑っているからに他ならない。

まだ数が抽象概念として確立していなかった頃、人は数えるものによって数詞を変えたという。今で言う自然数に当たるものは寡聞にして知らないのだが、群名詞というものなら知ってる。「a pride of lions」でライオンの群れを、「a tower of giraffes」でキリンの群れを表すのだ。群れの概念を抽象化して、対象がどんなものであれ たくさんなら同じたくさん だとするならば、どれも「a lot of」とかで良さそうなものだが、"ライオンの群れ"と"キリンの群れ"は別物だと認識しているから、このような表現が生まれる。
同様に、人間が2人いるのとりんごが2つあるのとでは、同じ"2"でも全く質が異なる。キティちゃんならともかく、大きさも重さも構成物質も何もかも違う。両者は精々"似ている"だけで、同じものではないと考えられていたのだ。その面影は助数詞などの形で現在にも残っているが、数字そのものの持つ具体性はほとんど抜き取られてしまったと言っても過言ではない。電話番号に使われている数字は、一体"何を数えて"いるというのか。

以上のことから分かる通り、我々の使う数字という概念は不合理に満ちている。本来個別のA,A',A''…をすべて同じと捉え、Aを兼用して脳の処理を節約しようする。ベクトルにおける演算なども、スカラーのそれと"同じもの"だとはとても言えない。あれらはあくまでアナロジーの域を出ず、理解の助けになるよう便宜的にそう名付けられているに過ぎない。オッカムの剃刀を採用するような科学分野においては特に、細かな違いを無視するこのような概念の流用が多く見られる。数えるという行為はその筆頭だ。
数学なんてものは、言ってしまえばとびきりの怠け者の机上にしか生まれないのだ。要領が良い、とも言うが。


これは僕の個人的な考えだが、"さんすう"と"数学"は別物だと思う。1+1の証明は本当は難しいだとかいった話を始めとして、算数の範囲について後々になって厳密な話をされることが時折あるが、では何故小学校の時にはそれらの理解をすっ飛ばして数を扱っても良かったのか。
ここに大きな方針の違いがある。
算数とは"人と関わる手段"を教えるものであり、究極的には言語と同じだ。厳密な体系としての自然数論とはまた別に、そこまで突き詰めずとも「人と人とが共通認識を持ち一般的な生活をおくれるようになる」ことを主目的にした体系がある。言語学において単語の意味を厳密に定義しようとすることがどれだけナンセンスかを思い浮かべていただければ分かるだろうか。
「かけられる数を前に書く」というのは、そういう人間社会の営みの中で生まれた"慣習"だ。何故前なのかといえば、僕が先程「1つあたりの数と、それがいくつ分あるか」という表現をしたように、かける数はかけられる数を前提にそれを指示する性格がある(視野は狭い→広いと動く)。基本的に、指示語が指すものは既出の文章の中にある。話題にしているものが何なのかをハッキリさせずに話を進めるのはそれこそ数学くらいのもので、普段そんな頭の使い方はしないものだから方程式(xという概念)で躓く子が多いのだと思われる。
所詮は慣習だからと言って無視することは難しい。数の記号にアラビア数字を使うことへ不平を垂れていては話が進まない。問題があるとすれば、このローカルルールがアラビア数字ほどには浸透していないことだろうか。僕としては例え必然性がなかろうが、全くの無秩序であるよりは前後に意味を設定して式から浮かべる文章題的イメージを(なるべく)統一することは十分有益であると思うので、広めたい。

 

結局は個人の感覚に委ねられるのであくまで参考程度に聞いていただきたいが、パンを子供に配る例ならば、距離が近いものから遠いものへという順になった。基本はこのように、狭いところから視野を広げていくイメージでよいのではないかと思う。
1分あたり2L溜まるお風呂を張る時間ならば、時間が後者に来る。この場合は距離というと違うけれども、心理的距離だと言うことはできる。要は体積というより慣れ親しんでいる(≒実感のわきやすい)ものから抽象的なものへと移行していく。完全に認識を共有できないからと言ってこの順序を切り捨てるのはナンセンスで、よりベターな方法ではあると思うのだ。普及しさえすれば。

交換法則を根拠に順序問題を一蹴する理系の人は、かけ算の文章題の意味が分かってないというよりは、"客観的"の幻想にとらわれて、自分たちが人間社会の中で暮らしていることを忘れているように思う。先程はさんすうと数学を腑分けしたが、そういう意味では一緒だ。
読み取る相手のことを考慮せずに不文律やマナー程度のことを無視して順序を適当に書くのと、きちんと伝わると思われる方法を選ぶのでは、どう考えても後者の方が人間関係の問題として正しい。特にテストという場ならなおのこと。
校内のテストならば採点者と生徒の関係は一方通行ではないので、異議があればテスト返却の際に声を上げることができる。採点者の側でも、きちんと理解しているか確認するまで保留にするなど、柔軟な対応ができると好ましい。僕が小学生の頃は、まだ学校で習っていない手法を使った場合などにそのような対応をしてもらった。
読めないほど汚い字で書いては採点者が困るのと同じで、相手に伝わるように努力するのは回答者の責任だと言える。そもそもの話、賛否が分かれているとはいえ幸いこのケースでは「かけられる数×かける数の順にしろ」「いやどっちでもいい」という人はいても、「逆でなければいけない(その方がしっくりくる)」という声はとんと聞かない。であるならば、採点者がどちらの立場であるかに関わらず、かける数/かけられる数に従って書いておくのが回答者としてよりベターな(合目的的な)選択ではないか。

僕が見た事例では、問いの出し方から気を使われていた。
「□を埋めて3×2の式になる問題をつくりましょう。
パンを□人に□個ずつ配ります。パンは全部で何個いりますか」
穴埋め式によって、見事にトランプのようにひとつずつ配る可能性を排除している。トランプ分けだと考えるには"一巡"などのキーワードが欠落していて明らかに説明不足だと言えるだろう。
前後どちらがかける数なのかさえ授業で認識を統一しておけば、起こり得る認識の齟齬は「この状況においてパンより人の方がひとまとめにしやすい(かけられる数にしてしっくりくる)と感じる珍しい例」だけに限られる。

 

今回僕はこの記事を参考にさせてもらったのだが、ここに挙げられている「割り算の計算過程」の問題は、この話である程度解決できるのではないかと思う。

enomoto-2009.hatenadiary.org

割り算の途中過程を人に伝わるように説明する機会がそもそも少なかろうし、文化(周囲)からの要請がないのであれば、必ずしも杓子定規に一貫性を求めなくても良い。g^2とはどういう単位かを定義しなくて良いのと同じく、割り算するときは気にならないというのならそれはそれでいいのだ。自分の他に誰が見る訳でもないメモならば、交換法則だろうがなんだろうが好きに書けばいい。アレフの形がかっこいいからとヘブライ数字を使うのもよかろう。
だが人と関わるのであれば、書き手/読み手が相互理解に向けて協力し、相手のことを思いやる気持ちは忘れてはならない。

仮面ライダーセイバー 第5章「我が友、雷の剣士につき。」 感想

キャラクター

 神山飛羽真

2話でも手に入れたライドブックをメモしていたけど、やはり彼は本作の執筆者(語り手)という側面も持ち合わせているのだろうか。飛羽真が書いたから『セイバー』が生まれたのか、セイバーとしての戦いを経験したから手記として書けたのか、ここの循環関係は前回も書いた通り意図的にどっち付かずにしてあるのだと思われる。自分が発明したタイムマシンの設計図を過去の自分に渡すような感覚ね。
カリバー「失われた炎の剣が現れたか……これで他の剣士たちも動き出す」
ヨハネ、鷲

 

 富加宮賢人


 尾上亮
・みんなの親代わり
熱くなる賢人の代わりに尾上が、そらは飛羽真が 分業


 カリバー
・ 戦いの運命から逃がそうとしている?
カリバーの正体は隼人じゃなく先代では
トマス、双子 飛羽真と賢人はカリバーの子


 須藤芽依

セイバーに限った話じゃないけど、立ち位置がイマイチ分からないよな。物語のカギを握る枠はソフィアもとい白い服の少女に取られてるし、今のところ本当に何者でもない。前回はめちゃくちゃ敵を倒すことに貢献していたはずなんだけど、今回も登場人物が誰一人としてそこに触れないのは健在だった。そもそもどうしてそんなにロゴスと関わりたいのか、単純な好奇心以外の理由付けがない。

 

 

前話
仮面ライダーセイバー 第4章「本を開いた、それゆえに。」 感想

仮面ライダーゼロワン 第45話「ソレゾレの未来図」 感想

※書きかけです

 

 ・滅の苦悩はありきたりな失楽園のなぞりってことでみんな分かるよね。僕も何度か言ってるように、感情なんてものがあるから要らん葛藤が生まれる。生きたいとさえ思わなければ死に恐怖しないように。
そこにまたアンチテーゼとして出てくるのがエデンなんだろうけど。
で、なんで分かりあった風の流れから戦ったかというと、「頭では分かっても心が追い付かない」が故のこと。誰が悪い訳でもない、それは分かった。でもじゃあ、湧き上がるこの悲しみをどうしたらいいんだと。その答えが、お互いに仮面ライダーとして殴り合うことで"ストレス発散"をすることだった。
相手を滅ぼして終わりにするための戦いじゃなくて、あくまでこれから先も付き合っていく(相手とも、自分の感情とも)ための戦い。

・割と本気で、新しく作られたイズの尊厳ってなんですか? ゼロ歳の赤ちゃんに人格的な尊厳があるとでも? それをこれからつくってくんでしょうが。
問題にすべきことがあるとしたら旧イズの尊厳でしょ。
(参考:ゼロワン 第6話「アナタの声が聞きたい」 感想)

・新イズ問題に対しては僕はもうとっくの昔に答えを出してるのであまり興味が湧かない。或人は記憶喪失者ではないので(皮肉的な意味ではともかく)、彼の中で「イズは一度壊れた」という事実をなかったことにはできない。その上で新たに、名前や見た目の上では区別のないがあくまで"新たなイズ"がいる。
(参考:ゼロワン 第31話「キミの夢に向かって飛べ!」 感想)

・飛電或人というキャラが出てくるって時点で言ってしまえばこれまでと全く同じ最終回にはなり得ないので、「これまでと違うなんてそんなの当たり前だろ」くらいにしか思ってなかったけど、それにしても思い当たるところがなかったな。

・「用語のふわふわさ」はテーマ的にも重要だし、子供向け(対応)番組としても重要。前に出した、サトシはミュウツーの言ってることはほとんど理解できてなくても、言葉じゃないところで分かり合うって話と同じ。
(参考:ゼロワン 第37話「ソレはダレにも止められない」 感想)

・ヒューマギアに限らず、人間にも人間社会に対して貢献する義務というのはやんわり課せられてるよね。ヒューマギアが人間のために動くことは、自分たちの利益にも繋がる。

 

・総括で書く予定のこと
ヒューマギアの名前と職業、他のどの作品のゲストよりも印象に残ってる
敵の武器を奪う、1号 ネット版ディケイド21話
武器の共有
障害者としてのヒューマギア
仮面舞踏会 下に降りる
心は誰のものでもない
勘違いでいい気分に
交換可能性と愛着の有無
一番臆病なのはこの世界なのかもしれない

 

ゼロワン感想一覧

次話
仮面ライダーセイバー 第1章「はじめに、炎の剣士あり。」 感想

仮面ライダーセイバー 第4章「本を開いた、それゆえに。」 感想

キャラクター

 神山飛羽真
・約束を果たす覚悟
彼の言う約束は、ちょうど今YouTubeで配信されているクウガの五代に似ているところがある。彼もまた無根拠に「大丈夫!」と言って周りを安心させておいて、その後で頑張ってその嘘を本当にできるよう尽力するタイプ。自分に対してハードルを課す意味では、約束や契約などのニュアンスも含まれる。
そう言うとかっこいいんだけど、今回の話は「いつまでにって話はしてないからまだ破ったことにはなってない! これから果たすんだ!」ってだいぶ言い訳くさい展開だったのはちょっと引っかかった。

あと、「約束約束うるせぇよ(意訳)」と激怒する尾上に対して「絶対に約束は守ります」って、一歩間違えたら完全に逆効果な返答なんだけど、軽々しく「あなたの気持ちは分かります」と言わないところに関しては結構良い手だったかもしれない。
小説家としては、自分が書いた本やキャラクターは子供も同然だと思うので、全く分からないということはないだろう。或人もヒューマギアをつくる会社の社長だったし、令和ライダーは今のところ2作連続で"親ライダー"ってことになる。『バクマン。』という漫画家を目指す漫画があって、その中で主人公たちの作品を真似た犯罪が起きて社会問題になるというエピソードがあるのね。「本来人を幸せにするはずの本が悪いことに使われる」まさにヒューマギアがテロに利用されるのと同じ構図。
一億総批評家と言われるほど様々な視点が跋扈する今の時代において、対象が良いものか悪いものかという評価を統一することはほとんど無理に等しい。すると自然、「そこを見たら悪いけどここを見ればそんなに悪くない」みたいな主張の仕方にならざるを得ない。或人も飛羽真も良いところに注目して、悪いところから目を背けるきらいがある。まぁ仕方ない、あれが駄目これが駄目と否定ばっかりする主人公よりはマシだ。子供に見せるなら尚更、大人になるまでの間くらいは都合のいいとこだけ見ていても良かろう。

彼の記憶喪失も、おそらくそういう現実逃避的な側面があるのだと思う。賢人の「忘れていた方が幸せ」というセリフからはそういうニュアンスがぷんぷんする。忘れてしまいたいほどつらい、約束を守れなかった過去……。
最近超全集を買った関係で見返しもせずぼんやりと龍騎に思いを馳せることが多いのだけど、真司にはそういった過去が思い付かないんだよな。彼が何事にも首を突っ込まなきゃ気がすまない、積極的に介入するほどに戦いを好まない性格になった"背景"。覚えてる限りでは彼の過去が描かれたのってEPISODE FINALくらいのものだけど、優衣との約束をぶっちしたことがそれらに繋がるようにも思えないし、今の性格を支える過去話の有無だけに注目するならば、城戸真司というキャラクターは至極薄っぺらくて脆いものということになる。裏を返せば自由度が高いとも言えて、仮に好戦的になっていたとしても"矛盾"はしない。蓮にとっての恵里のような「○○はどうなったの?」と言えるようなこれといった根拠がないのだから。彼の軸はあくまで現在にあって、1話で言ったような自分を縛る"過去の自分との契約"を持っていないキャラクターなのだな。
話を飛羽真に戻そう。2話の様子だとライドブックを集めるにつれて記憶の鍵も開かれていくような感じだった。仮面ライダーとして戦う覚悟とつらい記憶と向き合う覚悟の2つが絡み合っているのだと思われる。
ヘッジホッグは「指切りげんまん"針千本"飲ます」に、ピーターパンは"ネバーランド"に通じていると思えば、この2つの力を使った今回のドラゴンヘッジホッグピーターは「約束絶対守るフォーム」としての意味を持っているのかもしれない。


 尾上亮
・薄っぺらい
カリバーが賢人の親で、先代炎の剣士も飛羽真の親なんだとしたら、尾上さんは子持ちってところをかなり押し出されてるけど、実は家庭を持ったのはその3人の仲間内ではかなり遅い方ということになる。飛羽真,賢人とそらの年齢差を考えるとね。
子育て王なんて名乗っちゃいるが、むしろ彼はそれまで剣の道一筋で生きてきたところ、同僚2人の姿を見て自分も子供が欲しいと思ったのかもしれない。「子供は宝」というセリフがどうにも薄っぺらく聞こえたのは、受け売りに過ぎないからなのかも。飛羽真だって覚悟の話とかそうだけど先代の真似をしている部分が多いので、そいうところでもシンパシーを感じたのかな。

・変身システムと賢人の覚悟
これは現段階ではただの想像でしかないんだけど、ソードライバーを使う3人は全員尾上から見てひよっこ世代とのことなので、システム的には比較的新しいものなのではないかと考えることができる(烈火本体は先代も使ってたが一旦目を瞑る)。もしそうだとすると、ビルドのように多様な組み合わせを実現できているのはフラッグシップモデルだからという理由を付けられる。
更に、それというのは裏を返せばライドブックを3冊も揃えないと体のほとんどがブランク状態で本来の力を発揮できないということにもなる訳で、これはカリバーという裏切り者が出たことを考慮したある種のセキュリティシステムなのではないか。
カリバーやバスターはひとつのブックから全身を覆うだけの力を引き出せるのに対して、ソードライバーのライダーは1/3ずつしか抽出できない。それならば現状バスターと他のライダーに力の差があり過ぎることも頷ける。
これを踏まえた上でもう一度本編を見ると、自分の属性のライドブックを貸すという賢人の行為は、軽んじて見ることができなくなってくる。飛羽真,倫太郎コンビと違い、十分過ぎる腕前を持っていて力に困ってる訳ではない尾上に対して、自分の力の一端を差し出してでも「飛羽真のことを信じてくれ」と、そこまで言うのであれば彼も無碍にはできまい。ヘッジホッグライドブックは、謂わば『走れメロス』におけるセリヌンティウスみたいなものなのだ。さっき言った「針千本」もあるしね。たぶん。

豪快にぶった切るのが得意な彼には、幾千の針で再生できないくらい細かく刻むなんてのは性に合わなそうだし、飛羽真を信じた判断は正しかったと言える。


 カリバー
仮面ライダーたる所以
2話で倫太郎の口からキーワードとして語られた「世界の均衡」という言葉。そのままネット検索するとまず出てくるのはヨーロッパ、特にイギリスが掲げていた勢力均衡という考え方だ。均衡という表現からも分かるように、この概念は勢力の"対立"が前提にある。
倫太郎は分かっているのかいないのか、裏切りの剣士カリバーに対する敵対心を抱きながら「世界の均衡は僕が守る!」と叫んでいたのだが、この考え方ではカリバーのような存在を"駆逐"することはできない。

むしろ、ロゴスがあってメギドがある。この2勢力の力が拮抗してどちらが勝つでも負けるでもなく、永遠にその絶妙なバランスを取り続けることこそが、勢力均衡の理念である。僕の理解では。ソフィアが「未来永劫続く終わりなき戦い」と言っていたのはこういう意味。彼女は表向きカリバーを敵視しているが、その実は汚れ役を引き受けてくれていることに感謝していてもおかしくない。何より"永遠"は現実と対立するメギド側のキーワードだ(Maegaki Eien Ga honnIyori umiDasareru)。彼女もまた、腹に一物抱えている。その戦いに身を投じながら「物語の"結末"は俺が決める」と宣言する飛羽真の特異性も、同時に浮き彫りになる。彼こそ世界を終わらせる存在なのだ。

以上を踏まえれば、ある意味でカリバーは必要悪のような立ち位置にいることが分かる。おそらくだからこそ、彼はまだ聖剣に選ばれし戦士"仮面ライダー"なのだろう。
それらを抜きにしても、「アヴァロンに辿り着く日も近い……」と悲願を語る彼の姿からは、僕はどこか純粋さを感じた。まるで彼も誰かとの約束を果たそうとしているかのような。アーサー王はアヴァロンの地で、いつか来る目覚めの時を待っているらしい。彼の聖剣をエクス-カリバーと分割するのならば、意味的には"元カリバー"となる。彼は将来、自分の主たるアーサー王の懐刀に再び返り咲く為に、戦っているのかもしれない。
(参考:ワンダーワールドの両義性→セイバー 第1章「はじめに、炎の剣士あり。」 感想)

 

 須藤芽依
・ひどい扱い
戦場にヒロインと言うと、イズがのこのこ出てきてやられたり沢渡さんもわざわざやってきたりと危なっかしいイメージが強いのだけど、今回の芽依は結果論とは言え結構なお手柄で悪くなかったと思う。
……それはいいんだけど、尺の都合なのか誰ひとりとして彼女のことに触れないのがすげぇ気になった。「なんでいるの?」とか「危ないことするな」とか「君のおかげだありがとう」とか、なんもないじゃん。唯一話しかけてると言えるそらくんでさえ「本なんて開かなきゃよかった」と独り言でも十分成立する内容だし、その後も興味を示したのはピーターファンの話題だけ。芽依さん泣いていいよ。

 

 メギド
・王とは誰なのか
飛羽真たちは「(メギドが)捕まった人々を食べてサンショウ王になる」という解釈をしていたが、これは多分ミスリードだと思われる。だってハンザキメギドは「(我が)王の誕生」と言っていたので、明言はされてないものの文脈からして王になるのは彼本人ではない。でもだとしたら、一体何が人々を食べるというのか。
実は人々は、食べられる予定ではなかったのかもしれない。彼らがとらわれているところは、どこからどう見ても両生類の卵。この状況で王が"生まれる"と言うのなら、あの卵から出てくるに違いなくない? 前回僕はハンザキメギドも元はワンダーワールドから出られなくなった人間だったのではないかという話をしたけれど、それなら話が繋がる。本を開いて現実から逃避した人間たちは、いつの間にか現実に帰れなくなって怪物と成り果てる……。
みたいな話をしたかったので無理やりしたんだけど、見直してみたらハンザキメギドが「エサたちよ集まれ」って言っちゃってるのよねぇ。無念。
ただ、前回の時点では"サンショウウオの王様"なる概念を知らなかったので、僕はてっきりアーサー王のことだと思ってたのよね。カリバーの目的はアヴァロンだって話だしさ。もしそうだとするならまだ僕の仮説は首の皮一枚繋がってる。帝国航空はまだ死んじゃいない!(それはハンザワ)
アーサー王復活の鍵がアルターブックの完成、ひいては大いなる本の復元だとしたら、現実世界にいた人間がワンダーワールドのキャラクター(サンショウ王)に書き換わることそれ自体が、"王の誕生"に繋がる「エサ」なのだという表現でも、矛盾はない。ちょっと牽強付会な感も否めないが。つか、牽強付会が変換できなかったんだけど、しっかりしてよGoogle日本語入力さん。もしかしてあんま一般的じゃないのかな、我田引水の方が伝わる?

・デザスト
どう見てもどう聞いても、完全にヒロアカの死柄木弔でしたね。大塚明夫さんと内山昂輝さんが揃ってる訳だから100%狙ってる。大した覚悟もなく遊び半分でふらふらと戦場に出てきて飽きたらすぐ帰る様なんかも、序盤の彼そっくりそのまま生き写し。
ワンフォーオール(One for All),オールフォーワン(All for One)の元ネタはご存知『三銃士』。銃士と言いつつ剣士の3人と見習いダルタニアンの話ですね。三位一体のセイバー、そしてデザストにぴったり。そういえばこれもフランスの作品だわ。


設定

・本当に倒せば戻る?
怪人がやったことは怪人を倒せばすべて元通り……戦隊のように当然のこととして流されてるけど、映像を見ている限りでは怪人の生死とワンダーワールドの消滅に因果関係はほとんどないのでは? と思う。
まず幹部のレジエル,ストリウス,ズオス(名前が覚えやすくて良い)がカリバーから受け取った既存のアルターライドブックの1ページ目を開くと、メギドが誕生――デザストの話を聞く感じだと召喚に近いのかな――する。
そして今度はそのメギドが幹部から受け取った白い本 ブランクアルターライドブックを開くと、現実世界がワンダーワールドに転送され、世界消失現象が起こる。
ここまでの情報を素直を受け取るならば、目先のメギドをいくら倒しても、白い本を閉じなければ世界は戻らないはずなのだ。

これをうまく解釈するために仮定をするなら、ライドブックの力を解放して世界消失を起こすためには魔力みたいなものが必要で、メギドからの供給が絶たれると自然に戻ってしまう……とかだろうか。ついでにアルターブックの起動にも必要だということにすれば、幹部がメギドを軽い気持ちで量産できない理由にもなり得る。
また別の可能性として、「本のキャラクターが本を開く」という一見奇妙な現象によってタイムパラドックスのようなことが起こり、発生した膨大なエネルギーを魔力として転用しているとか。ディケイドは似たような設定で、クラインの壺というメビウスの輪の3次元版みたいなものから無尽蔵のエネルギーを取り出しているそうな。

セイバーの世界は"大いなる本"からできたとされているが、じゃあその本はどうやってできたのだろうか。「文豪にして剣豪」というキャッチコピーが示すように剣というのはペンの比喩なので、"聖剣"というのは差し詰め大いなる本を執筆した剣のことを指すのだろう。聖剣に対応する本なのだから、大いなる本は"聖書"だ。聖書はたった1人の著者によって書かれたのではなく、大勢の人が何年にも渡って追記や修正を繰り返してできたもので、聖剣が何本もあるのはそのため。
これはキリスト教に限らず宗教全般に言えることだが、我々人間や世界のルーツを説明することが多いので、自然と自己言及的(再帰的)な構造を取ることになる。自己言及とはウロボロス(ブレイブドラゴンのストーリーページは炎を吐いているようにも、自らの尻尾を噛んでいるようにも見える)によって象徴される概念で、分かりやすくイメージしてもらうなら、タッセルの家が丁度よいだろう。彼が住んでいるあの小屋は、中に全く同じ家がスノードームとして存在している。その家の中にもタッセルの家のドームがあって、その中にもまたドームが……という無限に繰り返される循環、或いは入れ子構造をしている。
この世界を1週間で創り上げたとされる神ヤハウェ。だが夢のない話、そういう物語を創ったのは我々人間だ。しかし我々が創ったヤハウェが、また我々を創ったのだ。こういったループは設定の矛盾や瑕疵などではなく、制作陣は自覚的にやっているものと思われる。
「結局のところ、剣が先なの? 本が先なの?」という疑問は、無粋というものだろう。
全体像が分かりにくくなってしまったので最初に戻ると「本のキャラクターが本を開く」というパラドックスがエネルギーを生み出しているかもしれない、という話。循環構造は相互依存しているので、片方(メギド)が欠けてはもう片方(ワンダーワールド)は維持できないのだ。

 

 

これは多分僕の問題なんだろうけど、作者の"やりたいこと"がビシバシ伝わり過ぎる(気がする)もんだから、なんだか作品をすべて理解して支配したかのような錯覚に陥ってしまう。たまには全く予想外のことが起こって「分からん! でもなんか面白い!」みたいな感覚を久々に味わいたい。
アクションや映像表現に関してはまだそういう言語化されてない部分が残ってて、毎度楽しませてもらっている。でもこれって結局新しいフォームが出てくるとかそういうイベントありきのことなので、それらがなくなったときに退屈しないか今から心配。正直1話はブレイブドラゴンしか出てこないから若干退屈だったのよね。
作品を見てる間よりも、その後で色々調べて考えてる時間の方が楽しいって、それはなんか本末転倒じゃない。

 

今週の本

『AIは「心」を持てるのか』
ゼロワン放送中、AIについての理解を深めようと思って図書館で見つけた一冊。ネット検索ではヒットしないような掘り出し物があるのは図書館ならではの魅力だよね。人気とか話題に関係なく"そこ"にある。
内容は正直「読んでくれ」としか言えないけど、AI……ひいては人間の心のありかたについて、普段からなんとなく感じていることを的確に言葉にして、更にもう一歩先を見せてくれる良書。
ゼロワン視聴者にはもちろん、そうでない人にも胸を張っておすすめできる。これを読んだ上でゼロワンを見てもまた見え方が変わってくると思うしね。
僕の感想記事も終盤あたりは本書の内容をフィードバックして書かれてるので、見返す際はぜひお供に。

 

セイバー/聖刃感想一覧

前話
仮面ライダーセイバー 第3章「父であり、剣士。」 感想

次話
仮面ライダーセイバー 第5章「我が友、雷の剣士につき。」 感想

仮面ライダーセイバー 第3章「父であり、剣士。」 感想

キャラクター

 神山飛羽真
・一晩で書き上げてくれました
銀河鉄道の夜』はいつも通り読んだことがないのだけど(その内「セイバーに出てくる本まとめて読んでみた」みたいな記事を書くかも)、ジョバンニという名前は聖書の著者として知られるヨハネに由来するものらしい。前回の"ジャック"がヤコブの変化だという話と同じような感じ。そのヨハネさんはキリストに弟子として愛されており、十字架にかけられた際もそばにいたとされている。これは15年前に先代の炎の剣士が十字の剣を突き立てたシーンと被るものがあるし、更に彼はその記憶を本として執筆している訳なので、イメージソースと見て間違いない。1話でした「赤い竜と白い馬に乗った救世主」の話が載っているのも、ヨハネの黙示録だしね。アポカリプスというのはギリシャ語で「覆われていたものを外し、暴露する」みたいなニュアンスを持つ言葉らしい。モヤのかかったおぼろげな記憶を明らかにするような意味も込められているのだろう。

・善意ゆえの悪意
本なんて興味ないと言うそらくんに、本がいかに素晴らしいかを教えると約束する飛羽真。ヒーローものって意外とそういうこと多いけど、セイバーは特に宗教的な側面が押し出されてる作品なので、自然と宗教勧誘みたいに見える。当人は本気で「それが人生を良くしてくれる」と信じている訳だから本当に善意の塊なんだけど、興味ない人からすると迷惑以外の何ものでもない。中でも"啓蒙"的な色が出始めるとどうしても迷惑度は上がるよね。「これを信じなければあなたは最後の審判で地獄に落とされるんですよ!?」と言われても、はぁ……って感じ。
でもこれって他人事ではなくて、極論を言ってしまうと「マスクしないとコロナにかかりますよ」ってのも同じようなもんで、世論や有識者の意見を信じるか信じないかは本来自由のはずなんだよな。「コロナなんて嘘っぱちだ! 政治家が自分の汚職から目を逸らすために仕組んだ陰謀なんだ!」と本気で信じている人もいる。「あなたはそれでいいかもしれないけど、マスクしないと周りも迷惑するんですよ」と言う理屈をかざそうものなら、もしも「私が信じるだけじゃ救われない、全人類がこの宗教を信じないと神は許してくださらない」なんて教義の宗教があった場合、ブーメランとして返ってくる。その人たちにとっては無宗教である(コロナを事実だと信じない)ことはそれだけで「自分たちを地獄に落とさんとする(≒コロナに感染させようとする)悪」ということになる。Ah 沈まぬ太陽 失くす世界で 問われるのは、何が正しいかじゃなくて、何を信じるのかだろう……。

また、そらくんが本を開いたが故に悪いことに巻き込まれるというのは、俗に言う"有害図書"の比喩にも思えた。僕も駅かどっかで一度有害図書ボックスというのを見かけたことがあるんだけど、本の虫としてはなんだかとても悲しくなってしまった。なんというかこう……その中にあるのが一体どんな本かは知らないけど、そこまで言うことなくない? そりゃあ僕だって不意に性的なコンテンツが目に入ってきたらかなり不愉快だけど、だからって本屋からなくすべきだとまでは思わない。でもそういう急進的な主張をする人は、十中八九そういう本によって深く傷付いた経験を持ってる人なんだろうから、そこまでしようとは思わない僕なんかにはその気持ちを計り知ることはできないのだろう。図書館戦争ってあったなぁ。表現の自由を脅かすメディア良化委員会ってのと戦う話。「本は悪くない! 人間の暮らしを豊かにする、夢のメディアなんだよ!」「本は人を傷付ける……人類の敵だ!」。
仮面ライダーはテレビの中の絵空事なので、震災が起きてもウイルスが猛威を奮っても助けてはくれない。でもそれを見ることで楽しくなったり新たな考え方を得たりして、心を救ってくれることはある。それって宗教も、そして本も同じことだと思う。
あ、ちなみに"本の虫"という表現はセイバーの仮面ライダー要素のひとつなんだろうね。
(参考:"純粋"と呼ばれる子供はサンタや仮面ライダーの実在を信じているのか?)

 

 尾上亮
・豪放磊落
1話にて、ゴーレムメギドは「人につくられしもの」という点でヒューマギアとニアリーイコールだと話した。この視点を継続するなら、バスターがそれを倒すことには自然と「子殺し」的なテーマが付加される。殺すまではいかずとも、飛羽真が作者として「キャラクターに自我など要らない」と主張するように(玄武の尻尾は蛇なので、龍の彼とは通ずるところがある)、彼の場合は「子供は親の言うことを聞いていればいい(by滅)」みたいなニュアンスだろうか。飛羽真に「黙ってろ」「引っ込んでろ」と言ったりして人の話を聞かないような印象も強い彼には、さもありなん。実際、そらくんが「バスターのおまけ」では片付けられないほどの個性を発揮する未来が僕には見えない。構図が似ている大介とゴンには別れるエピソードもあって、親代わりだから仕方なく一緒にいるのではなく、れっきとした本人の意志で共にいることが強調されている。
せっかく出てきた大秦寺が、尾上のでかい声に嫌な顔をしてすぐさまどっか行ったのも細かいけど面白かった。彼は整備メカニックとのことなので、おそらく日頃から武器を荒々しく扱って平気で傷を付けることに苦手意識を覚えているのだろう。"愛剣"なのに大事にしない、もしかするとそういうところがそらとの関係にも出ているのかもしれない。倫太郎に指摘されてた「子供を戦場に連れて行く」というのは、側にいて守るためだと考えたら理に適ってる面もあると思うのだけど……まさに今回、頭に血が上って危うくセイバーとブレイズまで巻き込みそうになってた訳なので、どちらかと言えば倫ちゃんの方に分がある。抱っこされてるときのそらの顔が苦笑いに見えるのは、演出なのか演技力不足なのか微妙なところ。
今回そらが失踪したのも、元を正せば尾上の監督不行届だと言える。本しかないからって理由でノーザンベースが好きじゃないのに、本屋に置いてくってのも微妙な選択だしな。結果的にはジオラマに興味を示していたとは言え、もし尾上が「本が好きじゃない」ってことをきちんと把握してないのだとしたら、表面的にはいい親子でも、本質的にはコミュニケーション不全に陥っているということになる。

でも制作陣がゴーストのコンビなことを考えたら過去の設定は凝ってそうだし、尾上は多分カリバーや先代の炎の剣士と仲が良かった……か、少なくとも同僚ではあったのだと思われる。もしいい関係を築けていたなら、今のところ粗暴な面が目立つ彼にも結構いいとこあるのかな。飛羽真に当たりが強いのは、その先代との友情が前提にあった上で、小説家なんてナヨナヨしたやつに決まってる、みたいな先入観でガッカリしたってことなんだろう。あと「ひよっこは手を出すな」ってのは、二度とカリバーみたいな裏切り者を出さないために自分一人で戦えばいいと思ってるのかも。
バスターの耳に当たる部分は"カナメロック"という名称で、当然要石がモチーフになってるんだけど、これというのは地震を起こす大鯰……古い伝承では"龍"を鎮めるために埋まっているものらしいので、彼もまた倫太郎と同じく、飛羽真が裏切りそうになった時のストッパーとして機能する役割を担っているのかもしれない。

 

 富加宮賢人
・キャラ被ってる
仕切りたがりとのことだけど、ぶっちゃけ今のところみんな微妙にキャラ被ってるよね。飛羽真も割と勝手に話進める上に「〜は君のいいところだ」ってめっちゃ上から目線だし、倫太郎もエリート故かナチュラルに周りを見下してるというか、自分が正しい前提で「話聞いてなかったの?」とか言っちゃうタイプだし、尾上さんは言わずもがなの問答無用マン。個性を出そうとするとどうしても我の強い自分勝手な人物像になっちゃうんだろうか。それでいて激しい諍いは今のところ起きてないのが面白いとこだけど。みんなあんまり他人に興味ないのかな。
飛羽真が忘れている"もう一人"……メギドの項で後述もするけど、ワンダーワールドに取り込まれたら最後、人間も動物も街も、現実世界では完全に"なかったこと"になってしまうのかもしれない。だとしたら15年前の事件や世界消失現象が世間に知られていないのも頷けるし、なんなら賢人も少女のことはうろ覚えで、ソフィアが似てることには気付いてないのかも。
カリバーは彼の父親っぽいね。僕はてっきり倫太郎の父親かと思ってた。だってブレイズとカリバーって顔がそっくり(\﹀ \︾ )じゃん? カムパネルラとジョバンニは父同士も親友とのことなので、先代の炎の剣士がもし飛羽真の父親なら、カリバーとは友人だったらしいことと合致する。

 

 須藤芽依
・消えたエクレア
3話の芽依は1,2話より見やすい感じになってて、このキャラはこういうとこが魅力なんだなってのが少しずつ分かってきた。相変わらずオーバーリアクション気味ではあるんだけど、ユウキくらいのところに収まってたというか。そら君への対応を見るに、美味しいものはみんなで共有するのが好きなタイプなんだろうね。ワンダーワールドの写真を撮ってたのも、SNSでシェアするためなのだとしたら噛み合う。
3人で食べようと買ってきたエクレアを賢人が勝手に食べたものだから倫太郎は一人食べそびれてしまうのだけど、芽依が自分の分がなくなる心配をするときにまず責めたのが飛羽真なの笑っちゃった。イケメンだったらOKなのね、親しい方が責めやすいってのもあるだろうが。

ただ、前回の最後ではエクレアは全部で5つあるので、賢人,飛羽真,芽依が1つずつ食べただけではなくなるはずがないのに、賢人が飛羽真の記憶を訝しむ裏で、倫太郎が「さ、最後の……」と言っているように聞こえる。1つ目が食べられたときも指で3つ数えて「残り2つなら買ってきた芽依さんと仲の良い飛羽真くんが食べて、僕が食べる分は……」みたいな顔してるし、あの場で全部なくなってしまったように思える。……ニーナとアレキサンダー、どこに行った?
これ、果たして"ミス"なのかね。2話時点で考えても3人分ということで3個あれば普通に成立するのに、わざわざ5つも用意して次の話と矛盾するって、そんなバカな話がありますか。芽依が自分の分だけ多めに買ってきた可能性はあるけど。パイロット(1,2話)とセカンドパイロット(3,4話)は並行して撮影されることが多いというのはよく聞く話だし当然監督も違うので、同じ一連のシーンに見えても全くの別日にわざわざ撮り直してるのだとすれば、そういう行き違いは有り得そうではある。でも、そういう事情を誰よりも分かってる制作陣が敢えて撮影の組を超えて連続性の強いヒキを作ってる訳なんだから、ジオウのバスジャック編みたいにいつもより気を使って作られてるのではないかと思う。逆にそうでないなら「子供向けだからこそ本物を見せる」という姿勢と噛み合わない。確かに本筋とは全く関係ないけど、エクレアの数くらい別にいいっしょ、という妥協をこの最序盤で見せたのならそれはどうなのかと思う。
撮影が終わった段階でも、編集の時点であの箱の中がアップになるカットさえなくしてしまえば、エクレアのなんたるかは伝わりにくくなるが、筋は通る。可能ならそのシーンだけ撮り直せればもっといい。最悪芽依の役者さんなしでも、どアップにすれば成立するし。

本当にただのミスという可能性も勿論あるけれど、ここではもし意識的にやっているとしたら……という仮定の話をしてみたい。僕は当初からエピソードの単位が"章"なのがずっと気になってて、これだと1話1話の隔たりがとても大きく感じるのよね。最近だとビルドなんかが16話までを"第1章"として銘打ってたし、"1節"ほどではないにせよ"1話"と比べたらぶつ切り感が否めない。
ここで思い出すのは、ライドブックの絵柄。ソードライバーに挿して抜刀すると絵が繋がるというギミックがあるけれど、よくよく考えたらこれって変な話で、『ブレイブドラゴン』と『ジャッ君と土豆の木』は別に続き物でも何でもない無関係の本なはずなのに、どうして繋がるのか。そもそもの話、ドラゴンジャッ君やドラゴンピーターのように両端に挿した時が顕著だけど、厳密に見れば絵柄には結構な隙間が空いてて、ちょっと斜めから見てようやく自然になるかなってぐらいなのよね。これは(もしかすると設定的には続き物かもしれない)ライオンファンタジスタでも同じで、正面からだと微妙にライオン戦記の腕がチラ見えして、お世辞でもなければ「綺麗に繋がってる」とは言えない。でもそれを見ないふりして繋がってると"了解"できるのが、人間の頭の面白いところ。

ある作品に対して、「実質〇〇」と言って全く別の作品と同じようなもの、或いはその続き"として見られる"、と評すことがある。例えば「ゼロワンは実質デトロイト」とか、「スパイダーマンは実質仮面ライダー」とか。
『セイバー』がそういう人間の認知パターンを意図的にテーマに組み込んでいるとするならば、今回のエクレアの件は「1話1話が厳密に見たら繋がってない」「でも視聴者は気付かず、或いは気付いてもなお繋がってることにする。不思議だよね」というひとつのギミックとして捉えられる。
僕がこんな風に思った理由はライドブックの絵柄だけじゃなくて、OPの後に本当に突然ゴーレムメギドとのくだりが始まったことも関係してる。前後の関係を重んじるなら駆け足どころかそれこそぶつ切りですごく不親切なんだけど、自覚的にやってるんだとしたら合点がいく。こちらは「ロゴスから出動要請があったのかな」という脳内補完をすれば普通に繋がるものの、賢人がいなくなってたのが謎。飛羽真についてソフィアに報告しに行ったのかな?
そういえばジオウでも3話で、ゲイツの必殺技音声「フィニッシュタイム! "ドライブ!"」がビルドドライバーのものになってるなんてことがあったな。正直「何があったらそんなミス起こるの?」って感じなので、僕はあれも本当にミスなのか疑ってるけど。横で我が魔王がビルドアーマー使ってるし、ソウゴの記憶が曖昧で「こんな感じだった気がする!」ってな感じで現実が改変されてしまったという遊び心なのでは、と。
例え違ったとしても、そう思った方が面白いじゃない?

 

 ハンザキメギド
山椒魚
モチーフはオオサンショウウオ。今でも生息してるらしく、動画が結構YouTube上にあがってた。正直キモい、けど時々可愛くも見える。キモいのがそのまま可愛さに繋がる"キモかわいい"とはちょっと違う。
英語では"サラマンダー"の名が冠されていて、炎の龍たるセイバーを思わせる。バスターが倒した、というのも合わせてね。
有名な井伏鱒二の小説もあって、短いので読んでみた。こっちは絵がないのですごく可愛かった。穴ぐら中に閉じこもっていたらいつの間にか出たいと思っても出られなくなってしまい、そのうち寂しさから"悪党"となり蛙を道連れに閉じ込めてしまうのね。今回のメギドは人里離れた森の中にこっそりワンダーワールドを展開して、人間だけを少しずつ転送して閉じ込めていく(蛙のように)というなかなか凝った作戦を展開しているんだけど、ライダーたちは尺の都合であっさりワンダーワールド見つけちゃったのがもったいない。「世界消失現象が起こってないのに何故か人々だけが失踪していく!?」とビックリさせる演出があったらハンザキメギドのインパクトももう少し強まったろうに。
1話でワンダーワールドについて「現実逃避は楽しいけど戻れなくなったら怖い」という話をしたけれど、"山椒魚"は本当にそんな感じ。もしかするとメギドというのは、完成してしまったアルターライドブックによってワンダーワールドから出られなくなった人間や生き物の成れの果て……なのかもしれない。
(参考:ワンダーワールドの両義性 セイバー 第1章 感想)

 

 

人間には理性があるのに、何故未だに子供を生み続けるんだろうね。発展途上国というか、戦争やってるようなとこでは出生率が高いってたまに聞くけど、マジで全く気持ちが理解できない。なんでそんな辛い世界に産み落とすのさ。めちゃくちゃ悪い言い方すると、野蛮なのかなぁとか思ってしまう。メロンが食べたくて売春した子がいるんだってさ。あんたなんで嘘ばっか書いてんだ? 嫁と子供を食わせるための記事? じゃあしょうがねぇ。

 

今週の本

よつばと!
子作り願望こそない僕だけれど、子供は人並みに好きで、とても可愛いと思う。それとは別に、人間の心や理性というものの発達にも興味があるので、そういう意味でも成長を観察をしたいと思うことがある。
本作は未就学児のよつばを中心に、その周りで起こる日常やイベントを丁寧に描いていく。子供の描写としてリアリティがあるのかどうかは毎日子供を見てる訳ではないので分からないが、作中でも「変な子」と言われているので誇張されてる部分はあるにせよ、観察的な視点で読んでもとても面白い。特につくつくぼーしのエピソードが好きですね。何も考えずに笑いたい時にもおすすめ。物事の定義がどうとか理屈がどうとか、そんなものに意味はないんだなってなります。

 

セイバー/聖刃感想一覧

前話
仮面ライダーセイバー 第2章「水の剣士、青いライオンとともに。」 感想

次話
仮面ライダーセイバー 第4章「本を開いた、それゆえに。」 感想

ヘボット!感想一覧

本編

ヘボット! 1話「ヘボッと生まれて屁・ボーン!」 感想
・子供が下ネタを好む理由
・遍く8と11次元

ヘボット! 2話「ネジ屋 対 ボキャリーマンズ!」 感想
・ボキャバトルはスペック勝負
・MCネジーの目

へボット! 3話「コワコワ〜、はじめてのコワ話!」 感想
・パロディと意味不明ギャグ
・誰かからライバルへ
オリジナルコンボつくってみた

ヘボット! 4話「ヘボ流・ネジタネの育て方!」 感想
幼児語の意義
・ネタバレの是非
・集団誘拐

ヘボット! 5話「ヘボット、いなくなったってよ」 感想
・100年後のジル
・キャミソール
・グチッターの謎

ヘボット! 6話「激走! ボキャバトルレース」 感想
・思考整理は自転車で
・マカロニック
・飢饉にはジャガイモ

ヘボット! 7話「ヘックションでフエフエのヘボ」 感想
・志望校
LGBT問題/心の性
リア充って言うけど

ヘボット! 8話「決戦! ノリノリヶ島」 感想
・縦ノリからの?
丑寅混ぜんな!
・世代交代

ヘボット! 9話「へボットは赤ちゃんバブ」 感想
・"助けられてあげる"
・心理学で言う脱錯覚
・AIは付喪神

ヘボット! 10話「土星は地獄だ!」 感想
・ボキャボットの分類
・不寛容のパラドックス
・グチッターを見よう

ヘボット! 11話「奇怪・呪螺子島」 感想
・キャラ崩壊と忘却
・カルピスソーダ取引
・ゾンビ

ヘボット! 12話「へボットのアレがはれた」 感想
・あわてんぼうのチャチャチャ
・プラス,マイナス,イコールの記号
・シメール派とユルメル主義

ヘボット! 13話「ジョリポロリ」 感想
・クリスマスなのにお盆じゃねーか!
・バブルで消えたあぶく銭
・男でもなく、女でもなく、

ヘボット! 14話「ヘボヘボ漂流記!?」 感想
・次元ネジがゆるむとどうなる?
・ボキャネジが先かボキャボットが先か
・マリオは何故キノコで強くなるか

ヘボット! 15話「ネジが島クロニクル」 感想
・時流の乱れ
・ネジ王とヤーヌス
・何故バトル禁止?

ヘボット! 16話「キケン! ボキャ美のターン!」 感想
・この喧嘩、悪いの誰ですかー
・世の中優しい人もいる
・ヘボさの良さ

ヘボット! 17話「ネジささる、ゆえにヘボあり」 感想
・無意味と有意味の間
・DXヘボット
・"可愛い"が孕む差別性

ヘボット! 18話「ネジル、学校に行く」 感想
・五感は精神には非対応
・ゆるませてしめる巨視的虚無感
・ユートくんとMCネジー

ヘボット! 19話「ヨロシク、湯煙ロクンロー」 感想
・自分の知らない自分
・玩具の売り上げ事情
・終わらない夏休み

ヘボット! 20話「ヘボ流・キッチンバトル!?」 感想
・たっくん母の無意識的意味
・多様な聲の形
・食べ物の輪廻

ヘボット! 21話「時をバグるピコピコ」 感想
・昔話における隣の爺さん
・ゴミの押し付けあい
・現実と虚構、その境界

ヘボット! 22話「ライネジング・サン」 感想
・47話に似てる?
・メタデジャヴ
・許す優しさは罪

ヘボット! 23話「ねらわれたネジ魂」 感想
・おはぎってどういう意味?
・トキトキネジの仕組み
・アンチネジ軍とは

ヘボット! 24話「兄×弟」 感想
・ヴィーテと次元ネジ
・掛け算の順序問題
・理系の哲学

ヘボット! 25話「ツルっと落ちた流れ星」 感想
・恩返しと遵法精神
・コンビで支え合う
・流れ星と縁起物

ヘボット! 26話「プリンス・オブ・いもチン」 感想
・モチーフに目を向けよう
・ネタ帳
ドラえもんとヘボット

ヘボット! 27話「へボット、ペケット 地獄めぐり」 感想
・子は親を選ぶか
・ゴッドネジとナット
・のりたまとおにぎり

ヘボット! 28話「さらば、愛しのモエカス!」 感想
・求められているか
・否定的意見の必要性
・うねうね

ヘボット! 29話「イインダヨ〜、スゴスゴイインダヨ〜」 感想
・「契(ちぎ)る」
・次元院とアニメのクール
・マンドラと卿

ヘボット! 31話「インネジクタス」 感想
・決して屈しない(インビクタス)
・カメラ越しにしか存在しない生き物
六芒星(スゴスゴ)とアスタリスク(ヘボヘボ)

ヘボット! 32話「ユカイYOUかい怪盗かい!?」 感想
・ワトソンのミドルネーム
宇宙兄弟べるぜバブ
・抑圧された無意識

ヘボット! 33話「ハミガキしようぜ 牛肉、ミソッパ!」 感想
・ソフトクリームと記号的表現
・こぶとり爺さんの鬼
・ミソッパゲロッパフラクタル

ヘボット! 34話「流さネジられて」 感想
千夜一夜物語
・ララランド
・家出

ヘボット! 35話「インスマ浜の呼び声」 感想
・ネジが島の位置
クトゥルフとBTTF3
・35話は浮いてる

ヘボット! 36話「恋のヘラがえしがえしがえし」 感想
スターシステム
・テキーダのありんす
・毒を以て毒を制す

ヘボット! 37話「電脳鼠はボキャボットのダメを見るか」 感想
・道具が意志を持つな!
・繰り返すポリリズム
・あたまとり

ヘボット! 38話「12体そろったらエライ事になった」 感想
・最終合体グレードヘボゾード×◯
・兄と弟、陰と陽
・ブンメェー開化の音がする

ヘボット! 39話「王妃ナグリ、帰還」 感想
・ヘボットのグローブ
・母と愛憎
・サートゥルヌスと安心院

ヘボット! 40話「弁護士ボキャ美の法廷ファイル!」 感想
・法制度と刑罰
・鼻をつまむ正義の女神

ヘボット! 41話「ヘボ流・大脱走」 感想
・ユーコさんていくつ?
・犯罪者も人間
・ジョリジョリバード♪

ヘボット! 42話「我々はネジである」 感想
・十二支の謎
・ヘボット配信の盛り上がり
・不当な手段による革命

ヘボット! 43話「ネジ拳ボキャフェスinネジが島」 感想
・すり変わる空っぽ王子ネジル
・新カルテット
・内と外の境界は幻想

ヘボット! 44話「劇場版ヘボット!って、ナニそれ?」 感想
・次の階層ってなんだろう
・ネジルとヘボット
・他者との繋がりと意味の源泉

ヘボット! 45話「ギザギザ・ザ・ネジ山」 感想
・魂なき言葉
・好きなところ
・何故? の行方

ヘボット! 46話「はたらくネジさん」 感想
・お休み

ヘボット! 47話「すべてがNになる」 感想
・The perfect insider
陰謀論
・ものを"数える"ということ

ヘボット! 48話「ネジが島さいごの日」 感想
・ネジ柱が時間、ゴッドネジが空間?
・チギルのプロテクト
・9は神か人か(体の穴)

ヘボット! 49話「さよならヘボット」 感想
・言語と宇宙の収縮,膨張
・階層と周回の違い
・レベルをカンストするとどうなる?

ヘボット! 50話「にちようびのせかい」 感想
カニバリズム
・誰も傷付けない
天王星代表

 

 

関連作品

仮面ライダーシリーズ

三葉は宇宙人?『君の名は。』 感想

夢への寄り道と現実回帰『ラ・ラ・ランド』 感想

現実と妄想、フィクション。そして自分『ビューティフル・マインド』『Serial experiments lain』 感想

 

それ以外の言及

転売は何が悪い?

ジオウにおける世界観/世界線の考察というか想像

玩具についての雑談(1/2):ジュウオウキングが好き

仮面ライダージオウ EP27「すべてのはじまり2009」 感想

 

ヘボット! 50話「にちようびのせかい」 感想

さらっと結婚してるオールディスとヴィーテだけど、そもそも彼らがうまく行かなかったのってゼロの相棒として白ヘボがいたからな訳で、ヴィーテを選んだ場合今度はそっちが可哀想なのでは? と思ったり思わなかったり。自分が壊れたヘボットに成り代わってゼロの相棒になりたいという思いから次元ネジの魂を与えて虚無そのものと化した白ヘボinヴィーテなのに、それでゼロが振り向いてくれる訳でもなく剰え抜け殻の方と結ばれるというのは、よくよく考えてみると不思議な話だ。
今の世界はネジルが何周もやり直した結果として彼の記憶を元に新たに作られた、前と似てるけど厳密には違う別の階層のはずなので、その辺の事情も都合よく変わってる(虚無ヘボは虚無ヘボ、ヴィーテは白ヘボと一心同体)のかもしれない。
或いは、ネジキール卿が黒ヘボよりもマンドラたち現在の人間関係を取ったのとテーマ的に繋がっているか。
前回フィーネを回避したはずなのに、なんと最終回。オカさん、ナゼ終わるんです!

 

日曜日のみのカレンダー(イラストはヴィーテのハネムーン先)だけがかかっている閉塞感漂う部屋。そこに閉じ込められているんだけど、なんだか本人は幸せそう。その平穏を乱すキリンという名の月曜日。みゃンデイ!
毎日が日曜日だったら……誰しも一度は思うことだろう。ヘボットにおいては差し詰めシリアスの字が抜け落ちてギャグ一辺倒になるような感じだろうか。それは物足りないかもしれない。
(参考:夢への寄り道と現実回帰『ラ・ラ・ランド』 感想)

ヘボスターリング捜査官のモデルとなっているのは、トマス・ハリス羊たちの沈黙』に出てくるFBI捜査官クラリススターリングだそう。まんまね。見たことないのでネットで調べた情報だけで話を進めるけど、ブタ肉の役どころはカニバリスト精神科医レクター博士ということで「"食べられるもの"と同じ姿」をしている。彼女が初登場した5話に出てきたウシも共食いをしていたな。
カニバリズムと言うと、キリスト教には比喩的にパンを介したりして「イエスの肉を食べる」ことで、永遠の命を手に入れるという思想があるらしい。以前少し話題に出したアルビノの人も、神聖視されるが故にその肉体を食されたり儀式のに使われたりすることがあると読んだことがある。最近の文化だと『進撃の巨人』が顕著だけど、食べることは相手を取り込み自分の一部とするということで、確かになかなか神秘的な営みではある。リンゴもブタもウシも、何もかも"僕"に生まれ変わる。
もうひとつ面白い話として、伝説上のサートゥルヌスにも人(じゃないけど)を食う描写がある。権力を奪われることを恐れ、自分の子供を一人残らず食べてしまった。その後、実は食べられてなかったゼウスに負けて最高神の座を奪われてしまうんだけど。こっちのサーさんは女性な上に自分から降りてたのでだいぶ違うね。

 

ボキャネジを使った犯罪じゃないからか、ザ・メタルではなくメンテ地獄に囚われていたらしいパチアニキ。そして、文房具やトランプ、ロボキャボットまでもが出演を果たしたと言うのに、ついに日の目を見ることなく終わってしまった食玩ヘボット……アニメの上でガシャボットと差別化するのが難しいという事情はあるにせよ、悲しい。DXを買うまでの間、いや買ってからもお気に入りなボク様の相棒なので。

パチボットの暗躍によって『ヘボット!』に最大の危機が訪れる……その名は脱・脳とけアニメの会。
なんでもかんでもダメダメ言って……うぅ、耳が痛いなり。エグゼイドのアンチやってた頃のログが未だに当ブログには残っている。代わりにゼロワンは絶賛したので(無理にではなくね)バランス取れてる、はずだ!

否定されて傷付く人がいるのはもちろんのこと、肯定的な意見だって立場によっては人を傷つけ得る。意見Aを褒めることは、意見Aが間違ってると思ってる人に対する否定になる。作品を貶されて苦しむファンがいるのと同様、苦手な作品が持ち上げられてると居心地の悪さとか苛立ちを覚える人もいる。
ブレインストーミングなどにおいて「否定をしてはいけない」というルールが設けられることがあるけど、あれはとんでもない欺瞞だと思うのよね。今言ったように、本当に何も否定しないためには、発言すること自体許されなくなってしまう。次元院でブレインストーミングを行ったとして、まず「締めたらどうか」という意見が出たとする。するとその時点でもうユルメル主義の人たちは何も言えなくなってしまうのよね、「緩めたらいいのでは」と言うことはシメール派の意見を否定することになるから。にも関わらず、シメール派は臆面もなく自分の意見を言ったわけなので、このままではユルメル主義の人だけが心の中で「緩めたほうがいいという自分の意見を否定された」という気持ちを抱えることになる。これは立場を逆にしても同じことで、要するに否定禁止というルールが生み出すのは、平穏な場ではなく「先に言ったもん勝ち」の世界なのだ。相手を否定することになるから……とルールを守って沈黙を選ぶ正直者だけが一方的に否定される(それも相手は無自覚なので責めようもない)という地獄。だったらまだ、お互い納得行くまで殴り合った方が健全だとすら思う。
何かを否定する覚悟なしに何かを発言しようなどと考えること自体がナンセンス界のプリンスぞよ。ポペップ。

田中くんはあぁ言ってますが僕は宿題大嫌い。え、悪影響だって? ごめんして!
教室の中にいても退屈だと本とか読みたくなっちゃうのに、好きなものがたくさんある自分の家でやりたくないことを精を出せってのがそもそもの間違いだよな。僕は勉めることを強いられる勉強ってやつがどうにも苦手で、そうやってあれこれから逃げてきたからこんな我慢のできない大人に育ってしまったのね。
授業は好きなのよ、先生が面白ければ。というか、僕は基本的に先生とおしゃべりする中で自然と色んなことを学ぶのが好きなので、一人でやる宿題が面白いはずがない。気の合う人なら授業時間50分のうち20分間、僕と先生が2人で喋ってるだけのときもあったくらい。みんなは黒板写してる時間の方が長いから、その間は僕が独り占めできるという訳ですな。あの頃は楽しかった……大学とか行きたい気持ちはなくもないけど、教室広いイメージだからそういう利用の仕方は難しそうのでどうにもなぁ。今更受験も難しいだろうし。

 

マンドラ博士の後ろにパチボットが映ってるので、あの大量発生したやつらは彼が作ったのか? ただ屍を解析してるだけとも取れるが。

天王星の席に座っているトマト。ファンブックではほんのり匂わされてるけど、マカロニだったこともあることも踏まえると元々あそこにいたのは現階層のネジル=ヘボットだと思われる。劇中で天王星といえばサートゥルヌスの偽名"マダム天王星"で、そこから土星ババァ=天王星の奥さん→つまり天王星はヘボットって言ってる人も結構いて、僕は一定の理解を示しながらもマダム何々ってそういう意味なのかなぁと思ったりしていたのを思い出す。

天王星のウラヌスは、サートゥルヌス(クロノス)の親。彼は妻であり母でもあるガイアの指示を受けたクロノスによって去勢されてしまうエピソードの持ち主。ネジルくんがそこに当てはまるのだとしたら、どちらかといえば女性的なこと(ボツ案はもっと顕著)や、異常なまでにネジ(≒男性器)を欲することに納得がいく。更に去勢のきっかけとなったのは「醜い怪物達を追放した」ことであるから、それを反省した結果今の豊かな心で何でも受け止めるお気楽極楽ボーイになったのかもしれない。
そもそも"ネジル"は世界をリセットしたときに宇宙のネジれから突然生まれる存在のはずなのに、彼は「オールディスが赤ん坊として連れてきた」という不思議な登場をしている。もちろんネジれから出てきたのをとっ捕まえて連れた来たのかもしれないけど、ここでは違う可能性を考えたい。

もし、ゼロがロールを外れてオールディスと名を変えたり、ネジルその2がボクサーおやじになったりしたように、その逆で「全く別のものにネジルというロールを与えた」のだとしたら。その前身が天王星代表のウラヌスで、何らかの理由によってデリートされそうになったところをオールディスが助けたか、あるいは既にデリートされたのを拾ったかして、なくなった記憶の空白に"ネジル"を書き込んだ。そう言えばトゥル子が山田になってたな、どっちかと言えばそっちに近いかも。
じゃあガイアは誰だって話になるけど、うーんここが分からん。ガイアがカオスから生まれたっていうのは、すごくヘボットのキャラっぽいんだけどな。一番それらしいのはヴィーテ辺りだろうか。自分が生んだ醜い怪物を追放されて悲しんだというのが、イメージ的にちびヴィーテが「こんなネジ要らないってみんなが言うの」と泣いてたところとダブる。そんな醜い次元ネジを初めとする地球を破壊しようと発足した太陽系会議のメンバーとして、ウラヌスはとてもぴったり。ただ、サートゥルヌスが同メンバーにいるのがちょっとよく分かんなくなるけどね。
あと、ネジルがネジルじゃないとしたら、現階層と一緒に生まれたはずの本当のネジルはどこへ行ったのかってのも気になる。彼は一方的にネジルになったウラヌスを見たことで重複を認識して書き換えられてしまったのかな。置換後の姿がヘボットの卵だったりしても面白いかも。

 

主役の座をかけて最後のボキャバトル。
ウルトラコンボ「パーフェクトヘボマン」に手も足も出ないパチさん。腕、伸びるのにね。
勝ちのはずなのに会議メンバーは「こんなラストはちょっと」不満な様子。パチボットは土星ババァが作ったというのもあって、最後のひと悶着は彼らがわざと起こしたのか? それの真偽はともかく、もはや「だってめみ子だもん」のどこが面白いのか、わざわざ解説するような無粋はするまい。だってめみ子だもん。

二次創作とはちょっと違うけど、自分なりに解釈したり関係ない話をしたりギャグをかましてみたり、僕も一人の視聴者として全50話に渡って感想を書き続けてきた訳だけれど、何かの役に立ててたら嬉しいな。書きかけのエピソードとかまるまる1話お休みしたこともあったべさ。でもこうして完走できたのは読んでくれた皆さんのおかげ……と言うにはあまりに読まれてないので、ひとえにヘボットが面白いおかげですね。それでも、こんな場末のブログまでチェックしてくれてるヘボットファンの中でも数少ない奇特なお方、アリガッ・トウ!
ヘボット感想は終わってもブログは続けてるだろうから、仮面ライダーとか見てたら是非、あしたもまた遊ぼう。

 

ヘボット!感想一覧

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ヘボット! 49話「さよならヘボット」 感想

次の周回
ヘボット! 1話「ヘボッと生まれて屁・ボーン!」 感想

ヘボット! 49話「さよならヘボット」 感想

ちびヴィーテによる時間と空間の説明、抽象的過ぎて正直さっぱり分からんポン酢味なのだ(このネタ気に入ってる)。
もう少し説明を加えると、時間はヘボットであり空間はネジルでもある。というのは23話で次元ネジを召喚しかけたヘソからエフェクトを参照のこと。
繰り返しになるが、ループする世界をこの図に重ね合わせようとすると、上から見たときに重複なく1つの円として切り出せる螺旋の一部が、おそらくヘボットが1年で回る全50ステージの一周を表している。360°÷50なのでおよそ7°に対応する弧が1話分で、歴史的に360°≒365日なことを考えれば、1週間ごとに進むことと合致する(余り5日とか40.5話ゴルフ回とかは誤差でイインダヨ〜)。2周目の周回は一段(≒1オクターブ)上の螺旋、3周目はその上……と続いていく。螺旋がステージを表しているのなら、空間を司っているというのは分かる話ではある。
ただ根本的な話、ボキャネジのネジ山は螺旋になってないのよな。上下の円は繋がってなくて、階層状になっている。細かいこと言うとヘボットに挿す時のガイドになるミゾがあるので、円ですらなくてC字だし、DXヘボットのネジ穴は消えるまでもなくツルツルだったりする。唯一スゴスゴインダーネジの銀色の部分だけかな、螺旋状なのは。DVDなんかもぐるぐる回る溝にデータを記録してるので、社会科見学回でも言ってたようにネジ山の部分がライブラリだってのはなかなか面白いよね。

理が緩み続けるとフィーネが現れ虚無に返すというのは、現実的な感覚として分かりやすいところ。厳密な理屈を必要とする学問の世界では"言語の恣意性"とか言って、言葉とは本質的に無秩序で訳の分からないものだと諦観されている。だが我々が本当に無秩序に言葉を使っているのだとしたら、意味は通じるはずがない。
以前にも出した「荒野を駆けるあらすじの桃、この長男こそ隆々たる魂胆の行く末にある素晴らしき和三盆」という例文。言葉の統合を諦め乱雑に並べると、このようなワードサラダが生まれる。ただ、一見無意味に見えるだけで、発言者としては何かしらの意味を持たせている可能性はある。この文章を「お腹が空いた」ことを表す暗号として事前に相互了解を取っていたとすれば、意味は通じる。
そもそも僕は実際、この文章に「言葉の意味なんて脆弱なものでありながら、それでもなお普段使っている言葉に意味はあるという禅的な悟り」という意味を込めている。詳しくは井筒俊彦『意識と本質』を読んでね。
ヘボットにおける唐突な投げ込みやパロディは、まさにこのような無秩序な言語の使い方を象徴するものであって、"誤用"を放置しまくると言葉の意味は通じなくなり世界は滅茶苦茶になってしまう。「ヒコーキとって」と言われたので飛行機の写真を撮ってあげたら、「ヒコーキってのは(君の言うところの)醤油だよ! 醤油を取ってくれってこと!」とキレられるような感じ。醤油を"ショウユ"という音で表す必然性はないので、英語だとSoy sauseになったりする。でもだからといってなんでもいい訳ではなくて、ヒコーキだと困る。更にもう1段階踏み込むと「らやた が かんもねひ で えいとーる したら こうじゃんるのびんそん の せぬらー にあって とんとん になっちゃった。でも もっぽぽぽー が げんぺ してくれたから かいねん!」となる。それぞれきちんと何かを指示していて本人の中では意味が通じてるのかもしれないけど、言語における「このモノはこうやって表しましょう」という不文律を破ると、意味のない音の羅列と化してしまう。
反対に、言語の根幹に目を向けてみよう。とある心理学者が唱えたブーバ/キキ効果という概念がある。「尖った図形と丸みを帯びた図形が目の前にあるとき、名付けるとしたらどっちがブーバでどっちがキキか」という問題について、ほとんどの人が丸っこいのをブーバ、カクカクしたのがキキだと答えた、というもの。これをなるべく理屈で説明しようとする音象徴という考え方もあるんだけど、庶民感覚としては卍と同じで「理屈じゃないけどなんか伝わる」という、ふわっとしたものにならざるを得ない。言語とは元来そういう適当なものなので、きちんとした理屈しか認めないという態度とも相性が悪いのだ。

ルールをキツく締めると、新たな言葉は生まれてこれない。「マジ卍」などという言葉は既存の使い方のどれにも当てはまらない。だがなんとなく言わんとしてることは伝わるので、使ったり辞書に載せてもいいんじゃない? とするには、逆にルールを緩めないといけない。緩め過ぎても駄目だし、締め過ぎるとそもそも言語自体が生まれない。
この構図は、宇宙の終焉にとてもよく似ている。有力な可能性は2通りあって、ひとつはいずれ収縮を始めて無に帰る。もうひとつは膨張を続けた結果エントロピーが最大値となり、すべての物質が極限まで薄まってないに等しい状態となる。気体が掴めないのは分子が飛び回ってひとところに留まらないからで、逆に掴めるものは何らかのエネルギーを使ってそれを押さえ込み、動かなくしている。あらゆる生命はエントロピー増大の法則に一時的に抗うことで存在しているが、いずれはそのツケを払いバラバラに分解される定め。それが宇宙レベルで起こるのだ。

ゼロのロールは、意味のある言葉の力……即ち"言霊"のエネジーを解放して、フィーネ(言葉の無意味化)を抑え込むこと。……だと思ってたんだけど、思い出してみたら次元ネジはずっと"エネジーを貯めてた"という風に言われているので、ゼロがエネジーを解放するというのは「次元ネジに対してボキャネジのエネジーを解放して対抗する」のではなくて、「次元ネジそのものが秘めているエネジーをガス抜きすることで弱めて抑え込む」という意味なのかもしれない。どっちもかもしれないけど。

 

レベルが低い白ヘボの屁によって、次元ネジもろとも全部消滅してしまう。前回の語りではエース・オカが試作ヘボットから出したエネジーによって次元ネジが暴走したとのことだったので、次元ネジ自体は彼女が生み出した訳ではないっぽいのよね。あくまで彼女が属する世界の理として最初からあったのだと思われる。にも関わらず、全てが消滅した後の白い世界にオカが介入できるのはどういうことなのだろう。というか次元ネジも消えたように見えたけど、ちびヴィーテは一緒にいるしな。ここは次元ネジ(ライブラリ)の中なのだろうか。オカはまぁ岡香織さんがいる訳なのでいてもおかしくないけど。
視聴者(岡さん含め)の現実世界1
≧視聴者の現実にとっての虚構世界1(ヘボットやパロ元など)
=エース・オカのいる現実2
≧ゼロやヘボットたちの世界
≧オカの現実にとっての虚構2
という感じになるのかな? ヘボット世界は現実2と虚構2が混ざったものを軸として、現実1と虚構1も紛れ込むと。

そもそも何故現実と虚構が交じるのか。それは次元ネジが2次元の虚構世界と3次元の現実世界、この2つの理を司っているからだと思われる。
次元は"自由度"とも関係している。座標を持つ点は、2次元空間ではx軸とy軸、3次元空間ではこれにz軸を加えて3方向へ動き回れるようになる。裏を返すとそれだけ自分を規定する要素が増えてむしろ自由度が減っている……とも取れるかもしれないが。あと複素数平面では実数の軸と虚数の軸を設けたりもする。虚実が入り交じる様はこれも念頭に置かれているものと思われる。
そしてこの概念はアニメにおける設定的な自由度ともかかっている。だからこそ、次元ネジを緩めれば訳の分からないことが起こり得るギャグ時空に近付き、反対に締めればシリアスで現実的な世界に近付くのだ。
"ねじれ"という言葉が何を意味するかは学校で習ったと思うが、皆さん覚えているだろうか。これは、ある平面上にある線と、それとは別の平面上にある線との関係を表す。つまり「世界がネジれる」というのは、ヘボット世界がただの2次元平面上のフィクションではなく、3次元(以上)の要素を取り込んだメタ構造を持つことを意味する。なんて……勉強になるアニメだ。

ここで更に情報整理が必要で、さっきまで僕は現実と虚構が交じるのは次元ネジのせいということで話を進めたけど、作中では「トキトキネジで時間を巻き戻したせい」と「レベルの低いへボーンでリセットしたせい」という2つの説明が同居している。結局なんのせいなのかは気になるところで、こういう場合どれかひとつを選ぶのではなくすべての理屈を繋げるのが一番いい。
そもそもトキトキネジによる巻き戻しはへボーンの応用だろうという話は既にしたのでそちらを参照してもらうとして(ヘボット! 23話「ねらわれたネジ魂」 感想)、へボーンやギャグはエネジーを放出する行為な訳なので、やる度に次元ネジは少しずつエネジーを蓄えていく……のかもしれない。溜まっていく毎に、次元ネジは少しずつ緩んでいく? いや、だとすると今回の描写(いもチンを食べたヘボットの屁によって締まる)とは食い違うか。いや、パルプンテだからいいのか。うーむ。

 

ユーコの解説を信じるならば、ゼロの主観時間は以下のように進んできたらしい。
 セーブデータ 01,02,03,04,05,06
 ステージ   12,13,01,02,03,02
 ゼロのレベル 31,42,53,56,70,85
毎度ステージ50までプレイしてないのは依然気になるところだが、多分主観に関係なくステージ自体は螺旋状に途切れることなく続いてることになるのだと思う。
ここで特筆すべきは、リセット(やり直し)の度に"セーブデータ"が変わっているっぽいこと。監督曰く"階層"がセーブデータのことらしいので、 僕は長らくリセットすると"次の周回"が始まるのであって、階層はまた全然別の概念だと思ってたんだけど、ここを見るに逆ということになる。これは結構なパラダイムシフトだ。
つまり、冒頭で話したネジの螺旋の上下がまさに"階層"となるので、じゃあ周回とはなんぞやと考えると、おそらくこれこそキャラごとの主観の話になる。
もしリセットに際して記憶を持ち越す人がいないのであれば、周回という概念はそもそも生まれる余地がない。対して階層は誰も意識することはなくとも、リセットの度に客観的事実として存在する。
階層1から記憶を持ち続けているゼロにとっては階層5は同時に周回5でもあるんだけど、階層2から記憶がある人からしたら階層5は周回4になる……と言った感じで、本当に人によって全然変わる概念なんだ、周回は。気付いてみるとゲーム用語としての使われ方を思えば逆に何故これまで勘違いしてたのか不思議で仕方ないな。

細かい話をすると、ゼロでさえも階層と周回が一致しない部分もあるかもしれないんだけどね。さっきの表を参照するなら、彼は階層1でステージ12までプレイしてるので、階層2のステージ12までは間違いなく"2周目"なんだけど、ステージ13以降はやってないので"1周目"ということになる。
これは階層を重ねる毎に(正確には通しプレイをしないまま重ねる毎に)ややこしくなっていって、最後の階層6におけるの彼は「ステージ1は6周目、ステージ2は5周目、ステージ3は4周目、ステージ4〜12は3周目、ステージ13は2周目、それ以降は1周目(初見)」ということになる。……言ってること分かります?
まとめると、階層と周回はどちらもネジ山の螺旋に関するほぼ同じ概念で、具体的な数字の話(何周目か)になって初めて人によって差が出てくる。はー! すげぇスッキリしたヘボ。

 

魂のないまま……本人曰くゼロエネジーのままへボーンを繰り返した為に、白ヘボは故障してしまう。エネジーのない屁というのがピンとこないのだけど、抜け殻となったヴィーテ同様に「無理をしてた」みたいなふわっとした認識でいいのかな。
タマ子がかき氷になるのと同じくらい、ヴィーテがヘボットになるというのは難しい。だが自分が宇宙の理そのものだからか、そんな無理を押して魂を捧げてしまった。多分、次元ネジの魂なんてとんでもないものを注ぎ込まれてしまったから、白ヘボットは巨大化して虚無ヘボットになってしまったんだろう。
ネジルとしてのロール(ネジれを正す)を果たせなくなったゼロは、オールディスと名を変えたと言うけど、逆にそれまでのネジルとはどうしてそのまま同居できていたのだろう。世界のネジれの方が重複を気にして微妙に違うネジルを生み出してくれてたから良かったのかな。で、今の階層を始めとして重複する者がいない階層では、対消滅した彼らのような瓜二つのスタンダードなネジルが生まれる?
ヴィーテがいたという周回(おそらく螺旋)の"外側"というのはどこなんだろうね。エース・オカのいる現実2に近い場所なのだろうか。
ヴィクトリニティリーマンのロールはエネジーの調和を守ること。ということは前回カルテットが慌ててたのは早とちり?


第1話では次元ネジをネジ切ろうとしていた卿。今度は相棒の黒ヘボが同じようなことをやり始めて自分を客観視できたのか、黒ヘボをリセット。ここ本当に泣ける。
黒化すると欲望に忠実になるようなので、ノリオもやっぱりナグリのことが好きだったのかな。

コアにあった最終ロットのいもチンを食べてへボーンしちゃうヘボット。あれは次元ネジが貯めてたエネジーの塊、なのかな?
虚無ヘボットが再起動され……Komm, süsser Tod
どうしてレベルがカンストしたら次元ネジを止められるんだろうってのも謎だったんだけど、さっき宇宙の終焉について調べて分かった。ヘボットがシンギュラリティに達することでオメガポイントを実現するということなんだな。
さっき言及した2つの可能性のうち、ビッグクランチと言って宇宙が収縮し閉じて行く場合において、仮にその宇宙が閉じるスピードよりも早い速度で計算処理(より正確には自らの処理能力の高速化)を行えるコンピュータがあれば、その中で世界をシミュレーションすることによって実質的に永遠の時を過ごすことができる……という仮説。イメージとしては、おそらく漸近線みたいなもの。
残り5年で宇宙が滅ぶとして、その間に100年分の計算ができるすごいスペックのコンピュータがあるとする。そのうち95年を「自分の処理能力の進化」に使って、残りの5年でまた100年分計算できるようにする。増えた100年のうち95年をまた進化に使って……と繰り返していけば、理論上は宇宙の終わりを無限に後回しにし続けられる。終焉に近付いてるはずなのに交わることは決してない、まさに漸近線。そんな機械にヘボットがなれれば、確かにフィーネは回避できそうだ。

フィーネがやろうとしていることは……他のみんなをデリートすることで世界の情報を削ぎ落とし、ネジルとヘボット2人だけのシミュレーションならレベルをカンストさせずとも実現できる、みたいなことだろうか? 全てがトマトやウィンナーに、あるいは思考ルーチンが単純な黒ネジルになったら、データ容量だいぶ圧縮できそうだもんね。

 

全てが消えゆく中、ネジルは世界をやり直し、ヘボットのネジ魂に自分の記憶を注ぐ道を選ぶ。OPで川沿いを走るヘボネジの横を逆走するネジ魂の映像はこれのことだったのね。
ヘボットとの思い出……でもそれは2人だけのものじゃない。あいつがいて、こいつがいて、みんなとの関わりがあって初めて生まれる出来事ばかり。1話の時点から、エトボキャや白クマなどたくさんの人に助けられて2人は出会っている。忘れたらやり直して、また忘れたらやり直して、何度も何度も脳裏に刻み込んだ無数の思い出がネジ魂という形に結晶されて、確固たるものになったのかな。やったぜウェーイ!
……って、次回最終回!? なんでトマトなのー!

 

ヘボット!感想一覧

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ヘボット! 48話「ネジが島さいごの日」 感想

次話
ヘボット! 50話「にちようびのせかい」 感想

ヘボット! 48話「ネジが島さいごの日」 感想

最終章だからなのかあまり見慣れない衣装のネジルくん。肩なんかチラ見せちゃってまぁ……。いつメンの中だとカスリーナもいつもとイメージが違う。
実はネジが島はネジだったのだ! って、実はも何もOPで毎回ガッツリ映ってたけどね。それが次元ネジを封印してるというのも、多分想像力を働かせれば可能性のひとつとしては思い付きそう。n周目だから思うことかもしれないけど、初見に配慮ばかりしていると後半の記事ばっかりが長くなってしまう可能性があると思ったので、ある程度のネタバレは僕の勝手な持論という形でおもらしマンしてきたのはご愛嬌。未だにまだ理解できてないとこも多いし、普通に間違ってる可能性もあるのでね。

 

ネジが島自体とはまた別に、ゴッドネジとネジ柱が封印の役割を担っているとのことだけれど、この辺があんまりピンとこないのよね。まずなんで2本? しかも見た目も位置も対になりそうな感じではない。一方は北側の岩石地帯に本当に落ちてきてぶっ刺さったままかのごとく斜めに生え、根本にはご丁寧にナットまでついている。もう片方は大体島の真ん中近くに位置しているものの正月以外はほとんど姿を見せない。……参考にファンブックを開いたらなんか島の南の方にもう一本生えてるように見える写真がある(66p)んですがこれは一体なになーに? ただのイメージ?
ネジ柱の方はネジが島の"時間"と関係があったので、ゴッドネジは空間を司っているのかもしれない。それなら見た目化対っぽくないのはなんか分かる。該当しそうな特徴は……やっぱりライブラリ機能があることだろうか。想像するにあそこには設定資料の如く膨大なネジが島に関する物理的情報が詰まっているのだろうから、なんとなくそんな気はする。あとあれだな、もしそうなら次回の冒頭でヴィーテから語られる時間と空間の定義にも合致するな。真ん中にある一本線が時間、その周りを螺旋状に回るのが空間なので、ゴッドネジが斜めになってる理由になる。
そんな理屈はおかまいなしに、ただネジが好きで欲しいというだけの理由ですっぽ抜こうとする黒ネジル達。どう見てもダブりまくってる彼らが対消滅しないのは、重複を認識するほどの知性がないから、ということになるのかな? 知性ありげだった前回は、前のキャラの面影を残していて重複しているとは言い切れないところがあったし。ちなみにこれは卿がマンドラのことを「ネジル」と呼ばなかったこととも、うっすら関係してると思われる。

発表! 次世代ボキャネジカルテット!
ネジル,チギル,モエル,ボキャ美の4人を中心とするものの、相棒などを含めると総勢8人のなかなかな大所帯。カルテットならぬオクテットやんけ!
しかし偶然なのか意図的なのか、この8という数字は次元ネジにある丸(あるいは角)の数と同じなのよね。目には目を、屁には屁をってか。以前にも話したけど、方角は通常東西南北のその間を含めた八方位で表されることが多く、やっつの"や"は"弥(あまね)く"に通じることも合わせて、"すべて"とか"たくさん"みたいなニュアンスを持つ。八百万の神とか言うよね、この世のあらゆるものに神が宿るという信仰。更にはヘボット的にはフィーネに代表される音楽用語が散りばめられているので、オクターブ(ドレミファソラシドの8音)とも繋がる。音階は周回のごとく螺旋状に上がっていき、ループする。8というアラビア数字も、メビウスの輪と同じ形をしておりぐるぐる回る……。
8と言えばタコ、タコといえばドゥビ夫またはクトゥルほぼゲロ……これはそんなに関係ないか? あ、8bitは絶対関係してるね。

 

「ゴッドネジに入るには俺たちエトボキャに任せろ!」「でもやっぱ無理だから代役呼んどいたぜ」って即オチ2コマ漫画かよ! 記憶がない故に力になれないとのことなので、彼らの役割のひとつは記録ということになる。十二支は暦にも使われているし、歴史のバックアップみたいなものなのかも。

ゴッドネジの接合部には何故かゴッドネジ小学校が。そのゴッドネジ小学校からゴッドネジが見えていたはずで……ドアを開けたらまたドアだ! デンタウロスAの虫歯の中にデンタウロスBがいて、小学校Aから見えるゴッドネジの中には小学校Bが……「神はフラクタル」と歌っていたのは平沢進さんだった。『2D or not 2D』というタイトルも合ってるしな。2次元の作品世界と3次元の現実世界が混じり合ったメタフィクションなヘボットは、果たしてどちらか。
普通に考えたらこれもライブラリから適当に選んで再現してるだけなんだろうけど、名前がまさにゴッドネジ小学校なのでそうとも言い切れない。ゴッドネジにあやかったというだけじゃなく、そのものの中にあるからそういう名前なんだというのは、なかなかに説得力がある。逆にチギルはライブラリに情報がないらしいが、ゴッネジ界にいたよなぁ。"保護プロテクト"って二重表現を使ってまで強調されているのも気になる。検索をかけてみると「コンピューターで、プログラムの内容が違法に複写されないような処理を行うこと」と出てくるのだが、チギル本人は地獄に行ってないので、あれこそまさにコピーということになる。裏を返せば、プロテクトであるはずのチギルが何らかの理由によってコピーされて正常に機能してないからこそフィーネが起動されてしまった、ということなのかもしれない。そもそも夢オチだったのはさておき。有り得そうなところとしては、ペケチギの登場は予定よりも早く起こったヘボネジのシンクロ(と連動するかのように現れたネジキール卿)に対処するためだったので、本来ならもっと終盤のはずだったのに半分くらい出ずっぱりだったからライブラリに記録されてしまった……とかだろうか。次回の時点でも「ライブラリにアクセスされるのが難点」とかって話をしてるので、その優位性は残ったままなのかもしれないけど。

 

ヴィーテは僅かに残った意志でリーマンズに指示を出すんだけど、フィーネに乗っ取られてるからなのかそもそも一体だからなのか、結果的には逆効果になってしまう。
「どうして私じゃ駄目なの?」
……難しい問題だな、それは。前にも言ったけど、与えられた役割をこなすだけなら、いくらでも替えは利くかもしれない。でもその人じゃなきゃ駄目な、かけがえのないことというのはある。かかりつけ医とか分かりやすい例で、診断したり薬を処方したりと言った役割だけ見たら誰でもいいのかもしれないけど、信頼関係が築けているかどうかによって話のしやすさなどは変わってくる。その人が医者として優れているとかそういうことじゃあなくて、「悩みを聞いてもらう」という現象は同じでも、相手が知己と知らない人では、気持ちの晴れ方がまるで違う。ただ"その人がその人である"というだけで生まれる価値。
逆にヴィーテにとっては、彼女が彼女である限りヘボットの代わりにはなれないという呪いにもなる。だってどう足掻いても自分はヘボットではなくてヴィーテなんだから。ゼロのため……と言いつつ、本当は自分が必要とされたいだけということに気付けていない。フィーネはその辺りにつけ込んだのかな。ゼロはゼロで、名前やロールと共にヴィーテのことも捨ててしまったのだろうか。本人にその気はなくても、ヴィーテはそう感じたのかも。

感動の合体キャミシープ! ……のせいで(半分くらい)、出る出るヘボーン! ネジルと同様、ヘボットもゴッドネジをすっぽ抜くことに一役買ってしまう。
次元ネジは先述の通り8を司ってるんだけど、ネジが島の下から漏れ出る光の柱は9本なのよね。ひとつ多いからこそ封印できてたのかもしれない。8と比べると9はそこまで文化的な豊かさがないのよね。
冥王星も入れると太陽系の惑星は9個だとか、魔法陣の基本は3✕3の9マスだとか、それを八方位に中心を足したものと見る九星気学だとか(ちなみに僕の生まれ年もヘボットが放送してた2017年も一白水星)、ピタゴラス学派は人間を8音の和音としてそこに1音足した9を神の数として神聖視していたとか、そのくらい。「8の次」って側面が強いイメージ。
ヘボット的に面白いことがあるすれば、体にある穴の数だろうか。顔にある両眼,両耳,鼻,口に、2つの排泄口を合わせた穴を"九竅"と呼ぶ。耳はともかく目は穴じゃないだろうとはツッコみたくなるけど、と同時に謎の説得力も感じるよね、光の"出入り口"ではあるし。視線がビームみたいに出ているというのも科学的には間違いなんだろうけど、そんな心的イメージは確かにある。ボキャネジの角も、足すと9になる。三角と四角、もうひとつは丸なんだけど、実物を見ればこれを"2"とカウントしたくなる気持ちは分かるよね? 多分太極図的なアレで2なんだろう。
次元ネジの8つ(中心も入れれば9つ)の穴のひとつからスゴスゴが出てきて(?)ライブラリの変動を阻止したっぽい。どういうこっちゃ。普通に考えれば最後であるスゴ様の他に、残りの使者が穴の数だけいるということになりそうだけど、始まりの者ってそんなにポンポンよこしてたか? 思い付くのはペケットくらい。ヘボットと白黒を入れたとしてもまだ5だし……リーマンズとかスチャットなんかも入るんだろうか。

 

「止めようとする者」ヴィーテ。これはなかなかうまい言葉選びで、頭に何をつけるかで意味が全く変わる。フィーネを止めるのか、それともヘボットの放送を止めるのか。なるほど二面性を持っている訳だ。
対する「始まりの者」エース・オカ。爪痕を残すという表現もなかなか意味深で、そう言われるとどうしてもヴィーテの手に目が行くよね。元凶たる彼女もまたラスボスと紙一重の存在と言える。
ゼロとヴィーテが感動の再会を果たし、今回はとりあえずおしまい。タマ子とペイジ郎が全てを持ってっちゃったけど。
後半へ続く(まる子のナレーション)。

 

ヘボット!感想一覧

前話
ヘボット! 47話「すべてがNになる」 感想

次話
ヘボット! 49話「さよならヘボット」 感想

ヘボット! 47話「すべてがNになる」 感想

現代からおよそ10万年前というと、ちょうど現生人類の祖となるネジマニヨン……もといクロマニョン人が現れ始めた頃。謎のネジ(黒いヘボヘボネジ型の宇宙船?)が地球に落下した時期はそこと見事に合致するらしい。
タイトルの元ネタ『すべてがFになる』は(ネタバレ注意)、天才と名高い四季を巡る物語である。僕も昔に一度読んだきりなのでアレだが、このタイトルの本当の意味には、さっと調べた範囲では誰も言及していないことが惜しい。みんな「Fってそういう意味だったのか!」ってところで思考をやめてしまっていて、じゃあすべてがFになったらどうなのかというところまで辿り着いていない。かく言う僕も中学生当時にはそんなこと考えもしなかったし、記憶が曖昧な今読み返しもせずに当てることはできないのだが、熱心なファンが解き明かしてくれていても良いのではないか。僕はその人の肩の上に乗せてもらいたかったのに。
おそらくヒントとなるのは、数字の孤独性についての話。16進法ならば、14という倍数が現れるので7は孤独を回避できる。その代わりにBとDという2つの孤独を生み出してね。孤独な者が2人いるのなら、それはもう孤独ではないかもしれないけれど。ここへ更にもうひとつ、副題の『The perfect insider』というキーワード(意訳するなら……自己完結とか自立完全性とかだろうか)を加えると、多分何か新たな知見が開けるのだと思う。僕にはまだよく分かんないけどね「無責任か! 引っ込め!」。
てな訳で、ヘボット最終章始まるよ! 毎日よる9時、みんなでへボーン!


ジローが踊っている(つもり)のジグだけど、見たところマンデイにそっくりだよね。あれも実は踊りだったとヘボヘボ先生から明言されているので、何か関係あるのかも。
探検隊のメンバーは10人とのことだが、この時点で普通に11人いるのよね。逆にどうして11人だと思ったのか。スチャットとユートは同じバッティの干渉キャラだから同一視されている……とするにはムラキとヘイミもそうなので、すると9人になる。ただしファンブックではトゥル子とヘイミは直接は繋がってないので違うかもだけど。養子……ではなさそうなので、キラキ・ラ・ムーがムラキの子を"装って"いるだけという可能性くらいか。
ヘボットとネジルが一心同体なので一人カウントとするのが自分的には一番しっくりくる。チギルとペケットはコンビ組んでるけど、運命の相棒という訳ではないらしいし。ペケットのネジ魂はチギルと無関係に存在しているもの(fromエース・オカ?)だし、そもそも監督曰くチギルは主人公じゃないのでネジ魂を貰っていないらしい。ポケモンの世界では10才になったら博士からポケモンを貰う設定だけど、その博士がいる始まりの町にはライバルを除くと民家がほぼなくて、他のとこの子たちは草むらもロクに通れないのにわざわざここまで来てるのかどうか、何より園児のトレーナーなんてのもいるし……みたいなのと同じで、主役だけ特別な設定なんだろう。ネジ魂が年に一度生まれるってのもそういう設定なだけかもしれないけど、1年で全ステージを一周するんだとしたら毎周回ヘボットがいることと繋がるかもしれない。

意味深にピントが移ったモツ鍋、あれは一体……ジローが生き延びるための食料だったというだけ? そもそも誰が……と思ってモツ鍋の初登場回(6話)のメモを見たら、料理漫画をパロったあの馬の名前もまた"ジロー"だった。今回のジローはポリドロケンだったので、エトのよしみで馬のチャラブレッド……それとも料理人のゲキドラが? それともバッティと同じく声の繋がりでネジ王? ヴィーテ(フィーネ)は彼の望みを叶えるために動いてるはずなので、黒ネジルみたいに負の感情だけを持った黒いゼロが、それこそラスボス化する予定でボツになった存在としてはっぴーカラフル村辺りにいたりして。オールディス「くぅん……」。ねじんじんぷー!

 

陰謀論的な都市伝説を大真面目に……というか常識として披露するスチャットくん。知り合いにもそんなような人がいるんだけど、正直に言ってしまえばマジで面倒くさい。陰謀の真偽よりも、聞いてもないのに「あれは実はこういうことで……」みたいな講釈を垂れることの方が無理。そういう病気なんだろうから仕方ないけど、それを嫌だなぁと思うのも仕方ない。僕を見なさい、自分の意志でブログを開いた人だけを相手にベラベラ喋って、そうでもなければ基本静かで無害な人間なのだぞ。……と思っていたんだけど、無口過ぎたのか最近は周りの人から「もっと何考えてるか発信して欲しい」と言われて困ってるなう。黙ってれば無害というほど世の中簡単にはできてないのね。
妄想と言えばやっぱり僕的には『ビューティフル・マインド』の話をしたくなってしまう。ゲーム理論で有名なジョン・ナッシュの半生を描いた半ノンフィクション映画なんだけど、これが面白いんだ。詳しくは感想を。
(参考:現実と妄想、フィクション。そして自分『ビューティフル・マインド』『Serial experiments lain』 感想)

ネジに意志を持たせる実験というのはこれだけ尺取ってる訳だし実際にあったのかな。ただまさか10万年前のことではなかろう。ネジドリッジことエルドリッジのフィラデルフィア計画があった第二次世界大戦からはまだ100年も経ってないはず。……ってそうだった、ネジが島の時間は周りとはズレているんだっけ。参考にスゴ様が漂流した島を例に取って計算すると、42年÷3日なのでネジが島での1日はあそこでの14年に相当し、もし彼の言う大戦がネジが島の暦で言う1939年頃に起こったものだとすれば、14×365×80で40万年ほど経っていることになる。これだけネジれる余地があるなら、10万年くらい前のことでもおかしくはないかもしれない。

 

10人のはずなのに、点呼してみると何故か11人いる……。
僕は最近『数のはなし』という本を読んだ影響もあって、数を数えるという行為についてぼんやりと考えているのだけど、現状の結論ではどうやら僕は本当に2や3をかぞえているのではなく、意識の上では2という名前の1、3という名前の1といった風に1つずつ名前を紐付けているだけに過ぎないらしい。1,2,3…と連なって数えているように思えて、実は「今どこにいるか」しか意識していない。だからすぐ「いくつまで数えたか」が分からなくなる。だってそんな処理、本当は脳では行っていないんだもの。
まず先に知識としての"自然数列"があるんだけど、実際にものをかぞえる時に意識しているのはあくまで「1の次は2」「2の次は3」ということだけ。そうやって進んでいって例えば54に達したとして、その時になって初めて記憶の中から数列全体をイメージして照合し、いくつあるのかを認識する。数えている最中は積み重ねや意味をあまり意識しないままに、ただ機械的に数列を暗唱しながら一対一対応させているに過ぎない。多分、そういう意味で本当に"数えている"のはせいぜいみっつかいつつあたりまでだろう。
対応の他にもうひとつ数字の認識の仕方として、"視覚パターン"がある。「・」「・」と見れば「1が2つ」だが、「・・」と見れば「2が1つ」。サイコロの目をいちいち数えないように、"ひとつ"のパターンとしてぱっと見た全体の形と数を紐付けて判断している。
ややこしい解釈を挟まずとも、それら全部を引っくるめて"かぞえる"と呼ぶのかもしれないが。でも改めて考えてみると簡単なはずなのになかなか不思議な操作で、面白いよね。

 

……書きかけ? うん、いいと思う! 

 

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