やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

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ほとんどの記事にはこのカテゴリがつくと思う。仮面ライダーはメインコンテンツなのでカテゴリだけでなく総括記事と、感想記事を体系的にまとめた記事のリンクも。

戦隊とウルトラマンに関してはほとんど知らないと言っても過言じゃないので、やるかやらないか、続くか続かないかは未定。

トクサツガガガ

 

仮面ライダー

―――大自然がつかわした戦士『漫画 仮面ライダー』 感想

―――"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として

――クウガ

―――独りよがりな意欲作『仮面ライダークウガ』 本編感想

―――クウガ感想一覧

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―――クウガへのカウンター『仮面ライダーアギト』 本編感想

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―――混沌への挑戦『仮面ライダー555(ファイズ)』 本編感想

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――

―――運命のマッチポンプ『仮面ライダー剣(ブレイド)』 本編感想

―――剣(ブレイド)感想一覧

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―――鬼はそと、福はうち『仮面ライダー響鬼』 本編感想

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―――現代の童話『仮面ライダーカブト』 本編感想

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―――手繰り寄せ進む『仮面ライダー電王』 本編感想

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―――綺麗な物語から汚い現実へ『仮面ライダーキバ』 本編感想

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―――仮面ライダーディケイド暫定的まとめ

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―――手品のような作品『仮面ライダーエグゼイド』 本編感想

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―――どこまで本気か分からないギャグ作品『仮面ライダービルド』 本編感想

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―――仮面ライダージオウ レジェンド編(1〜16話) まとめ感想

―――ジオウ感想一覧

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―――ゼロワン感想一覧

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―――セイバー感想一覧

 

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――シンケンジャー

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――キラメイジャー

 

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まとめ感想

 各話感想を全部読むとか相当な暇がないとできないっていうか自分でも読みたくないんで(僕としては、自分が全話見返そうという時におまけとして同時進行で読むのを推奨したい)、1つの作品を通しての感想はこのカテゴリにいれます。映画や小説なんかも"1つ"と数える。後はクール毎の感想とかも一応ここ。僕の感想の要点となる記事とでも言おうか……これらがコアメダルで、各話感想とかはセルメダルって感じ。"毎日更新"の満足感を得たいが為に書いてるみたいなとこあるからね、各話感想は。

あ、各話感想というのは、数話単位でより具体的で細かな感想を箇条書きにしたもの。記事タイトルに何話とか書いてあるのがそれ。ライダーのカテゴリどれかに飛べばズラっと出てくるはず。ほぼ毎日、書き溜めたものを作品順にローテーションで(例:クウガ1話→アギト1話→龍騎1話……)公開していってます。

 

ライダー感想一覧

例えば"クウガカテゴリーを開くと、クウガの話が主ではないが少し触れているだけのものも含めた記事が、新しい順に表示されてしまう。それだと使い勝手が悪いということで、下の画像のように、本編、まとめ、映画、小説、Vシネマ、ディケイドやジオウなど、その作品に焦点を当てた記事を中心に見やすくまとめたのがこのカテゴリ。

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書籍

多分小説版仮面ライダーが主となるだろうけど、一般の小説やその他の本についても時々書く。後は、おすすめの本について話した記事なんかもこのカテゴリに入れる。

 

映画

こちらも主にはライダーの映画について書くことになると思う。ライダーが落ち着いたらいろいろ見ることになるんじゃないかな。以下にはそれ以外の記事を載せます。

―――三葉は宇宙人?『君の名は。』 感想

―――エゴとエゴの均衡『映画 聲の形』 感想

―――現実と妄想、フィクション。そして自分『ビューティフル・マインド』『Serial experiments lain』 感想

―――本物の月光に見惚れる『BECK(映画)』 感想

―――夢への寄り道と現実回帰『ラ・ラ・ランド』 感想

―――A Clockwork Organ『時計じかけのオレンジ』 感想

 

アニメ

ここについては考え中。もしかするともう更新しないかも。あ、アニメ映画はこのカテゴリに入るか。

ヘボット!

――ヘボット!感想一覧

進撃の巨人

ポケモン

 

ドラマ

昔見て気に入ってたドラマをいくつか見る予定。最近物語ってのが何なのかってことを考えてるので、「子供/大人向け」みたいなうるさい枠を付けられない普通の作品も見たい。

JIN-仁-

トクサツガガガ

LEGAL HIGH

 

玩具

その名の通り、玩具について話す記事のカテゴリ。いわゆるレビュー的なことをするときもあれば"遊び"について考えたりもするかもしれない。この辺はまぁ気分次第。

 

雑記

いつもはTwitterで色んなことをぼやいてるんだけど「記事にするほどの文量にはならないな」と埋もれていくツイートもある。そういったツイートを脈絡なく貼って残しておくのがこのカテゴリの記事。過去に書いた記事を補足するような内容だったり、記事にはしないような珍しい話だったりが読めます。

"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として

「もはやこれは仮面ライダーじゃない」
そんな声を毎年多く聞く。では仮面ライダーであるとは何なのかと問うたとき、仮面ライダーの名を冠する者すべてと過不足なく一致する定義を答えられる人はなかなかいない。

仮面を被り、バイクに乗る。その簡単な2項ですら、少なくとも劇中に描かれる限りでは守らないキャラクター達がいる。
ドライブが乗るのは主だって車であるし、RIDEを日本語の"乗る"と解釈しても、近年ではそもそも"乗り物"を持たない者もいる。直近だとバルカンやバルキリー……はかろうじて変身前に黒いバンに乗っていたが、滅亡迅雷の2人は現状、迅がゼロワンに馬乗りになっていたくらいである。
いわゆる複眼,触覚,Oシグナル,クラッシャーなどの外見的な特徴も、ひとつも持たないものこそなかなかいないが、たったひとつ満たしていればそれで良いのかと思う人も多いだろう。
改造人間であるか否かという点も、放送コードか何かによって守られていない。

現在ある程度の説得力をもって世間に受け入れられているのは、
・同族争い,親殺し,自己否定の3つを満たすこと
・悪の力を善に転用すること(敵と同じ力を使う)
・人間の自由のために戦うこと
くらいのものである。

以上の現実を踏まえた上で、「仮面ライダーの定義」を打ち立てることについて考えていくというのが本記事の主題だ。

 

目次

 

 

 定義とは何か

まずはここを確認する必要がある。言葉の定義というものは、決して客観的に存在するものではない。
定義とは、コミュニケーションをはかる際に誤解が生まれないよう、ある言葉から抱くイメージをひとつに統一しようという目的のもとに、多くの人が参考にできる拠り所を設けようとする行為である。
すなわち、その目的を共有できない人とは話がそもそも噛み合わないこととなる。
そして大前提として、「仮面ライダーとは何か」を考える際に参考となる大きな軸のひとつは、いわゆる"公式"の見解であることも改めて共有しておきたい。
多くの人がその"公式"の言うことにある程度の権威を感じていることは、彼らの持つ影響力というかたちで現れている。我々が受け入れるから彼らは影響力を持ち、その影響力がまた権威となって更に多くの人に受け入れられるのだ。
政治と同じく、公式の持つ権威は一人ひとりに受け入れられているということに基づき、逆に多くに受け入れられているものは公式でなくとも同等に扱う。
「悪の力を善に転用すること(つまり仮面ライダーは善でなければならない)」という定義は公式の言う"仮面ライダー"の多く、いわゆるダークライダーやネガライダーを振り落としてしまうが、僕の見る限りおいてはそこそこ支持を得ているので併記した。
個人としての僕はこれを支持しないが、「受け入れられている」という事実は受け入れているつもりでいる。
どんなに正しそうに見えても、多くの人に支持され共有されなければ「他者と誤解の少ないコミュニケーションをとる」という定義の目的を達成させることは難しいからだ。

(参考:トランス女性(MTF)は女風呂に入れる?/性別とは一体何か)

 


 "仮面ライダー"とは何か

いくつかの平成ライダー作品においては、仮面ライダーという呼称は劇中では使用されない(クウガ,アギトなど)か、出処が不明瞭なまま既知のこととして扱われる(龍騎,剣)。
対して『W』では風都市民が、『ドライブ』ではブレンが、それぞれ"仮面ライダー"という呼称を使い始めたのだと明言されている。
前者はそれでもぼやかされているからなんとか納得できるが、後者の「仮面の……ライダーだ! 仮面ライダーに警戒せよ!」というあのシーンには、強烈な違和感を覚える。
何故あのプロトドライブを見て"わざわざ"、仮面とライダーというその2つの要素を、その表現で、その順番で並べたのか。この疑問が出てくるのは、僕が視聴者という立場にいるからというだけではなかろう。むしろ視聴者でなく仮面ライダーという単語を知らない者こそ、抱いて然るべき疑問だと思われる。
ブレンがあの時あの場所で思い浮かぶ言葉は、それこそマスクドライダーでも、アーマードライダーでも、メットライダーでも覆面ライダーでも、なんでも良かったはずなのだ。にも関わらず(他作品と)示し合わせたように"仮面ライダー"になることに、僕は違和感を禁じ得ない。
市民が呼び始めたというのもブレンが名付けたというのも、どちらも「何故劇中の戦士が仮面ライダーと呼ばれるのか」に対する説明としての機能を持っているが、それは少なくとも僕の「何故"仮面"と"ライダー"の2要素を強調して呼ばれているのか」に対するアンサーにはならなかった。
僕はグローバルフリーズのスピンオフは見てないのでなんとも言えないが、そこではそんなにも"仮面"と"ライダー"を名前に付けたくなるような活躍が描かれているのだろうか?
仮面を強調するならば素面の存在がチラついていなければおかしくて、そうでなければ元よりそういうデザインの機械かもしれない。それでいくとダブルは正体を隠しているはずなので、変身体と別の姿(面)があるという発想を抱く理由が見当たらない。顔が見えない程度に変身するところだけたまたま目撃されたのだというロジックも組めるが、結局実際のところ「仮面ライダーと呼ばれる」という結論ありきなことに変わりはない。
仮面ライダーであって悪い理由はないが、仮面ライダーである必然性もまた、ないのだ。


では、平成ライダーが"仮面ライダー"と呼ばれるのは「『仮面ライダー』から続くシリーズであるから」で一旦片付けるとして、初代『仮面ライダー』まで遡って、「何故"仮面ライダー"なのか」という疑問の答えを探してみるとどうだろうか。
結論から言えば、見つからない。
開幕早々、画面上に映ったキャラクターに『仮面ライダー』というタイトルが重ねられることで、また主題歌やナレーションを通じて視聴者に対しては問答無用で示され、劇中内では本郷変身体=仮面ライダーであるということは、どうやらほぼ自明のこととして扱われている。
2話で初めて、バイクも何も関係ないのに唐突に「ライダー投げ」という技名らしきものを叫び、3話にて戦闘員がこれまた唐突に「仮面ライダーだ!」と呼ぶ。
味方サイドで自覚的に呼ばれるのは4話であり、少年が自分を助けた"あのお兄ちゃん"は誰かと問うたところ、「あれは仮面ライダー」だと説明される。
漫画版にしても、変身した本郷猛が自分から名乗るというだけで、唐突なことにそう変わりはない。
本郷猛が仮面ライダーと呼ばれるに相応しいかどうか、みたいな段取りは一切なく、なんなら流れとか雰囲気といったもので呼ばれ始める。

劇中で仮面ライダーと名付けられるのは現実世界でそう名付けられたからかもしれないが、更にそこへ「何故」を突きつけることもできる。仮面を名前にチョイスしたのはペルソナをテーマにするためかもしれないが、では何故ペルソナの要素を入れようと思ったのか。何故あのようなデザインになったのか。何故石ノ森氏に依頼されたのか。何故企画されたのか……。
このように、あることを説明するために使った事柄についての更なる説明を求めていくと、無限後退と言われる状態に陥る。
"根拠"とは言葉の通り根っこであり、ある事柄が成立するための前提条件である。無限後退している限りはいずれの前提も無根拠なものとなり、正当性(拠り所)を失ってしまう。


いちゃもんを付けて、否定したい訳では決してない。
ただ、仮面ライダー達が"仮面ライダー"という文字列で表されることに対する明快な"根拠"は、少なくとも劇中では示されていないということは、ひとつの事実として受け止めなければならない。
言語学ではこのようなことを言語の恣意性と呼び、そもそもそこに根拠など有り得ないとしている。

 

 


 意味の逆流現象

前項では「何故」をキーワードにそのルーツを辿ろうと試みたが、失敗に終わった。
ここでは「何故かはよく分からないが仮面ライダーと呼ばれている」という事実を受け入れた上で、それがどのような意味を持つのか考えていくこととする。

仮面もライダーも、どちらも本郷猛変身体という存在を記述するために、その所有物(マスクとバイク)を利用していることが分かる。
"仮面ライダー"というのは、「本郷猛の仮面とバイク」という認識から見て「仮面を被ってバイクに乗った存在(本郷猛)」という認識に主従関係が逆転しているのだ。
これは、世間的にショッカーという組織が「仮面ライダーの敵」と認識されていることと似ている。
ある集合の中の一部が、全体の意味に影響してしまうのだ。


仮面ライダー関連で似たような事例をもう2つ挙げよう。
『ディケイド』における小野寺クウガ。彼が地の石の力によって変身するライジングアルティメットというフォームがあり、それに対して「ライジングフォームはアルティメットの力が漏れ出た形態なので、"ライジングアルティメット"というものは有り得ない」という意見がある。
これはたまたまクウガがアルティメットの力によって力がRiseしている様子をライジングマイティなどと名付けただけであるにも関わらず、受け取り手が勝手にRisingという言葉そのものに「アルティメットによる」という意味を付加させてしまったことによる混乱である。矛盾があるとすれば、更に上昇する余地があるのならそれは"究極"ではなかったのではないか、という部分だろう。まぁそれも「名付けた者が究極だと思った(けど違ったらしい)」で済む話だが。

もうひとつは『フォーゼ』における如月弦太朗。「主人公の髪型がリーゼント」というだけで、抗議の声が殺到したそうである。
あの髪型にすることが直接的な"悪行"ではないはずだが、リーゼントヘアで不良行為をした誰かがいたせいで、髪型そのものに"悪い"という意味が付加されてしまったのだろう。
学校の規則を破ることはよいことではないが、そもそも規則としてあの髪型を禁止する時点で既にその意味の逆流が起こっている。或いは「何故」の通じない、よりプリミティブな不快感に根ざしているか。


このような現象は、我々のそばで日常的に起こっている。

 

 

 大自然が遣わした戦士

"定義"というのは、厳密には対象となる概念と過不足なく一致する必要があるので、これは定義とは少し違う話なのだが、僕の中での"仮面ライダーのイメージ"というのは、「たくさんいれば、色んなやつが現れる」という言葉で表現される。
ショッカーが自らの意のままに動く怪人たちをたくさんつくっていれば、いずれ一人や二人くらい意のままに動かない者が現れる……それが"自然"なことである、という観念。
これを「"仮面ライダー"と呼ばれる者」の定義にしようとすると、例えば本郷を逃がすことに協力した緑川博士の存在も含まれてしまうが、彼に仮面ライダーの名は冠されていないので、矛盾してしまう。


ショッカー怪人なのにショッカーに従わないだとか、仮面ライダーなのに悪人だとか、リーゼントヘアなのに悪いことをしないだとか、ショッカーが脳改造前に本郷を目覚めさせるだとか、実験のためとはいえ本郷に風力エネルギーを与えてしまうだとか、そう言ったことに対して我々が感じるある種の"不自然さ"や"おかしさ"。
しかしどれだけおかしい、有り得ないと思っても、実際に起こってしまっている以上、人間の認識には反していても、この自然世界のルールには反していない。すなわち"自然"なことなのだ。
この文脈でのより大きな"自然"のことを、人間が感じるそれと区別するために、ここでは"大自然"という言葉を使いたい。


実際の現象を前にしては、理論的に有り得ないだとか定義に反しているだとかそういったものは意味をなさない。事実こそがすべてであり、大自然の前では我々人間の理屈は常に泣き寝入りをするしかない。
一度雨が降ってしまえば、いくらその日の降水確率が0%でおかしいと感じても、降らなかったことにはできない。
うちの近くのスーパーでは、買い物の際に3円払うと"ゴミ袋"と書かれた袋を渡される。買ったばかりのもの、況してや食料品をその中に入れて持ち帰ることに僕は些かの抵抗を覚えるのだが、勿論"ゴミ袋"と書いてある袋に入れたからと言って、商品がゴミ(もう使えないもの)になる訳ではない。レジ袋として使えばゴミ袋と書いてあろうとも本質的にはレジ袋足り得る。
天気予報が外れることもあれば、ゴミ袋が想定外の使われ方をすることもある。

 

"仮面ライダー"という新しく作られた概念は、何故かもどういう意味かも判然としないままに、本郷猛変身体を指して使われ始めた。
そしていつしか変身者が一文字隼人に変わっても、悪人に変わっても、バイクに乗らずとも続けて使われている。
ショッカー怪人がたくさんいればショッカーに歯向かう仮面ライダーが生まれてくるように、仮面ライダーも規模が大きくなれば色んなやつが生まれてくる。

何事も「もはやこれは〜ではない」と言いたくなる例外的存在は出てき得る。それが"大自然"の掟なのだ。

(参考:大自然がつかわした戦士『漫画 仮面ライダー』 感想)

 

 

 世界の破壊

ショッカー怪人だからと言ってショッカーに与するとも限らないし、仮面ライダーだからと言って正義の味方とも限らない。
改造人間という設定は、人間の体すら究極的には言葉と同じく、交換可能な"仮面"に過ぎないということを表している。
記号と、それによって表される意味。
言語はもちろん、それ以外のリーゼントという髪型や我々の顔のような視覚的な情報、聞こえてくる聴覚情報なども、すべて"記号"に過ぎない。
仮面ライダーのデザインは、どう見ても設定通りの強化された肉体というよりは服なのだが、"改造人間バッタ男"がショッカーの技術で複製可能なのと同様に、容易に取り替えられる衣服もまた人の外見を規定する記号のひとつである。
現代で言うところの"コスプレ"の延長線上に、なりすまし(擬態)はある。
実際、既に整形技術はかなり普及しており、かわいいだとか美しいだとかいう基準に合わせて顔を作り変えた結果、多様性がなくなり「皆同じような顔」になっているというような話も耳にする。
"そっくりさん"はつくれる時代に突入しつつあるのだ。

 

また俳優の藤岡弘、さんの事故の弊害であるとはいえ、中盤に本郷猛の過去の映像が使い回され、声を別の方が吹き替えていた時期がある。
これも結果的にだが、本郷猛だからと言ってあの声だとは限らないという、声の交換可能性を示す事柄となっている。
というか桜島1号とか新1号とかの登場回も見てみたが、声と同じく見た目が変わったことに対する説明らしきものは一切見当たらなかった。
だがそれらも全部「改造人間だから」で受け入れられてしまうのは、偶然というよりはこの設定の懐の深さを表していると言えよう。
すなわち、"仮面ライダー"の真髄のひとつは、この"交換可能性"という部分にあるのだ。

(参考:仮面ライダーディケイド暫定的まとめ)

 

インターネットが普及し、誰もが簡単に仮面を被ることができるようになった。
ゼロワンの感想にて詳しめに話したが、ゲームプレイワーキングと言って、自覚的にはただゲームをしているだけでその入力が何らかの仕事に変換され、働いているのと同じ成果を得られるようになるシステムというのも考案されつつある。これもまた、見えている世界と実際に意味する世界を乖離させるベクトルの力である。
もはや見た目も声も名前も物事の本質と直結せず、そもそも本質……攻殻機動隊で言うところのゴースト(代替不可能なもの)などあるのかという疑念に駆られるようになる。
だが、それは悪い面ばかりではない。何者でもなくなった我々は、同時に何者にもなれるようになったのだ。
白倉さんによれば仮面ライダーは自らの親を否定するというが、その意味では作品にしばしば登場する"おやっさん"という存在は、言わば親代わりと言える。
加賀美やじいやたちにとって、本来何の関係もないスコルピオワームが神代剣になり得るように、誰もが誰かに擬態できる。
ゴミ袋をレジ袋として活用することも当然できる。

従来信じられていた必然的な繋がりが破壊され記号と意味が分離した結果、「子供たちは仮面ライダーになれる」のだ。

(参考:"純粋"と呼ばれる子供はサンタや仮面ライダーの実在を信じているのか?)

 


 自らを由とする

記号と意味の繋がりが断ち切られ、破壊された世界では、存在はその背景や根拠,ルーツを失う。

人はそういった後ろ盾を持たない者に対して厳しい面がある。「ジクウドライバーはどこから来たのか」「ギンガって一体何だったのか(何年のミライダーで変身者は誰なのか)」などという疑問はいい例である。

ビルドドライバーは、エボルドライバーを参考に葛城親子がつくった。だが、そのアレンジの発想の元や、そもそものエボルドライバーはどこから? と言った"由来の由来"、すなわち祖父母にあたる疑問は、目を向けられないことが多い。「仮面ライダーの力は、現代の科学では説明できない不思議なパワーなのだ」という説明する気がない説明でも、何も言われないのと比べれば疑問に思う気持ちはそこそこ落ち着くだろう。

これを端的に表しているのが『龍騎』だ。
「映画は本編に繋がるループのひとつである」という言説は、それだけでは説明になっていない。何故ならタイムベントで時間を巻き戻す当事者である士郎が死んでいるので、単純には繋がり得ない。もちろん、他の誰かが神崎の研究資料を見てやっただとか、それなりに理屈を通して繋げることは不可能ではないが、上記の説明だけで納得している人は明らかにそこまで考えていないだろう。

ジオウ同様に説明不足も甚だしい電王が成立しているのは、例えば「教養の差だ」みたいな"説明してる風"のセリフがあるからだろう。

我々が抱く「何故?」とは、その程度の近視眼的で適当なものなのである。

親世代が無根拠であることを容認されるのならば、子世代が無根拠であることも理屈としては大差ない。

要するに、エボルドライバーの出自が気にならないのにビルドドライバーやジクウドライバーの出自だけを気にするのはナンセンスだ、という話。エボルドライバーの出自が宇宙のどこかの知性体だとするなら、その知性体のルーツも探らなければならない。これは先ほど言った無限後退である。
無限後退をしないのであれば、我々はいつか、背景を持たず無根拠で、他者との関係によって記述されない"孤高の存在"を受け入れねばならない。実際にそうであるかは関係なく、我々の認知の限界としてそういったナマの事実は現れてくる。もしくは循環するか。

人は自分のルーツを求めて宗教による"説明"をしようとする。
だが無宗教の人が存在するように、また人をつくった神のルーツ(のルーツ)が語られないように、根拠など分からずとも存在できてしまうのが実情である。


従来は「自分は男だから力が強い」という文章が意味をなしたが、男だからと言って力が強いとは限らないことが分かると、男であることは根拠として機能しなくなる。
そこにあるのはただ「自分は力が強い」という事実のみである。
これは、"それまでの定義からの自由"を意味する。
定義がもたらす「男である→力が強い」「仮面ライダーである→正義の味方」「すずきやまとである→葛葉紘汰ではない」などの不自由から解放され、すずきやまとであった背景をかなぐり捨て葛葉紘汰になることができる。
これこそ、世界の破壊がもたらす恩恵である。

 

僕のハンドルネームである"やんま"は、由来としては所謂リアルにて友人にそう呼ばれていることが挙げられるし、更にその理由を求めると例えば眼鏡をかけていることだったり本名とも少しかかっていたりということになってくるのだろうが、そんな背景はお構いなしにネット上では"やんま"として、なんなら"やんまヘボ"として定着しつつある。
そう、例え一切根拠などなくても、名乗ること/呼ばれることによって名前というのは"定着"するものなのだ。


先程からキーワードをちょろちょろ出している『ディケイド』を絡めて説明するならば、士が世界によって役を与えられることを"役者"に見立てたとき、同じ現象が起こっていることが分かるだろう。
井上正大さんは門矢士に変身する。「門矢士として生きてきた背景」を当初の彼は持っていないが、撮影が始まれば門矢士になりすます。
しかし背景を持たないからと言ってその存在(井上氏演じる門矢士)が成立しないとか価値がないかと言えば、そうはならない。彼の声、表情、身のこなし……その一挙手一投足が"門矢士"として新たな価値を生み出し、定着していく。
『ディケイド』を好きじゃない人も自分の好きなキャラクターに置き換えて見れば共感できるだろう。仮面ライダーシリーズにおいてノンフィクションだった作品というのは現状ない。
背景の破壊というものを自覚的に扱った作品として、もうひとつ『電王』がある。味方側のイマジンズはルーツである"カイの未来"がなくなったことによって消えるはずだったが、そんな根拠などなくとも「いるものはいる」ということを示した。同時に良太郎のイメージを借りた存在でもあるが、後々良太郎がいなくても登場したり変身できたりするようになったのも、その傍証であろう。良太郎に両親がいないのもそれを思わせる。

 

悪の仮面ライダーや暴走するアナザーアギト(アギト)の存在によって、正義の仮面ライダーや木野アギトの名誉が脅かされるという意見がある。
だがしかし、"仮面ライダー"の称号という文字列や、アナザーアギトのような見てくれひとつにすがらなければ瓦解してしまうほど、彼らという概念は弱いものなのか。その個体が持つ要素の中からそれだけを抽出して、あとは"ないも同然"にしてしまうのか。
それらひとつひとつは所詮借り物の記号による一部分に過ぎない。例えばクウガのガワにも小野寺が出て来る前から先代という別の所有者がいるし、アギトの力もまた他の変身者が多数いるものであり、翔一と同型のアギトが存在し得る以上、個体差の問題として木野のものとよく似ているか全く同型のアギトが生まれる可能性がないと言い切る根拠はない。木野薫という名前にしたって、それほど珍しい訳でもないし、同じく木野という苗字の人間が悪事を働く可能性は十分にある。だがだからといって「木野薫に失礼」という立場からの批判はナンセンスだろう。決してこれらは専有物ではない。

では木野薫という概念とは何なのかをきちんと説明しようと考えると、"生き様"とでも言えるような網羅的なものでないといけない。
それをたった一言で表現しようとするならば、木野薫とは木野薫であり、仮面ライダーとは仮面ライダーである……という、トートロジーに落ち着くことだろう。

下の記事の"テーマ"という項で、ダークライダーの存在意義について詳しく書いてるのでそちらも是非。

(参考:仮面ライダーディケイド 6,7話「バトル裁判・龍騎ワールド/超トリックの真犯人」 感想)

 

先に用意された仮面ライダーという集合の"定義"に構成要素たる本郷猛たちが従うのではなく、その名を冠する者たちの生き様そのものが逆流し"仮面ライダー"という概念の意味をつくりあげていく。
それがこの"定着"という現象の意味するところだ。

名が体を表すのではなく、体が名を表す。
彼らに背景の有無は関係なく、仮面ライダーだから仮面ライダーなのだ。

そういう意味で、とにかく顔に「カメンライダー」と書いてあるから仮面ライダーであるというジオウの(言語学的な)スタンスは子供向けとしても至極真っ当と言える。

 

 

 

 仮面ライダーの敵

既存の定義にもあるように、仮面ライダーの敵はそのルーツである場合が多い。このことからも、仮面ライダーの無根拠性が顔を覗かせる。

敵組織の中でも最初の敵であるショッカーに注目すると、「ナチスドイツの残党」という点がひとつ挙げられる。
あいにく僕は社会科、とりわけ歴史を毛嫌いしているので詳しいことは知らないのだが、ショッカーとの類似性という視点から語る上で重要になるのは、やはりその優生学的な側面だろう。
改造手術によって動植物の特徴を移植し、強化された人間をつくる。そしてそれに適応できない者は(強制労働の末に)殺されてしまう。

ここに現れているのは、超人的な人間だけによる無駄のない世界にせんとする、息の詰まるような思想だ。
僕は発達障害を持っていて、最近は同じ障害者(身体精神など問わず)が集まる施設に通っているのだが、自分も含め、我々障害者が他人と関わりながら迷惑をかけずに生きていくことがなかなか難しいのは、悲しいかな事実ではある。
そういった負の面を日々感じている身からすると、「人類全体のことを考えたら障害者はいない方がよい」という意見を、無下に扱うことはできない。

障害者に限らずとも、例えば一部の犯罪者などは今でも実際そのような判断を下されて死刑となってしまっている。

健常者も他人事ではない。日常生活は問題なくおくれていても、人類全体というマクロな視点に立った時には、一挙一動がバタフライエフェクト的に損をもたらしている可能性はあり得る。例えば安くて質の悪い商品を妥協して買う判断は、技術の発展を遅めている一因であると言えるかもしれない。より高く質の良いものに需要をもたらすためにはよりお金を稼ぐ必要があり、その為には自らもより質の高い生産をしなくてはならないというスパイラルに陥る。その先にあるのは、小さな幸せに満足することなど許されない世界だ。

(参考:エゴとエゴの均衡『映画 聲の形』 感想)

以前の記事にも書いたが、僕は人類に与えられた自由があるとすれば、それは「最善を尽くさない自由」だと思っている。
将来のことを考えたら何か身になることを勉強した方がいいと思いつつ、漫画を読んだりテレビを見る自由。もう少し痩せた方がいいと思いつつ、お菓子を食べる自由。選挙に行った方がいいと思いつつ、行かない自由……。

"正しいこと"という概念は、人の自由を奪う。僕は「自分の意見が正しい」と感じているとき、きちんと説明して伝われば、遅かれ早かれ全ての人が同じ考えになると信じている。この「全ての人が同じ考えになる」ことこそ、"世界征服"そのものである。

そしてそれはとりもなおさず、冒頭で示した定義という行為(ある言葉から抱くイメージをひとつに"統一"する)に繋がってくる。

 

それと敵対することから、「(誰かにとって)正しくなくてもよい」ということを示すのが、仮面ライダーであるとも言える。
ショッカー首領にとっては、全ての人間が改造され自分の意のままに動くことが"最善"なのだろう。だがそうでなくてもいい。例え自分に不利益をもたらすことであってもそれをする(利益をもたらすことをしない)自由、すなわち愚行権の許容である。
逆に仮面ライダーが次々と生まれるように、同時に敵組織も毎年生まれている。これが許されるのは、敵組織も仮面ライダーにとって正しくなくてよいということを認めなければならないという矛盾を孕むからだ。

 

この"矛盾"という言葉についても少し考えてみたい。
この熟語の由来は「どんな盾でも貫ける矛とどんな矛でも貫けない盾があったらどうなるのか」ということに対する違和感を表したものであるが、一度立ち止まって考えたとき、この矛盾という現象は、言葉の上でしか起こらないことが分かる。
この自然世界では、どちらかが勝つとか、確率的にどちらが勝つか決まるとか、対消滅するとか、何かしらの結果が必ず出る。
このようにきちんと結果が出たならばそれは矛盾とは言わないだろう。
すなわち、矛盾というのは何かしらの「人間の勘違い」に基づかなければ成立しない概念なのである。不自然なことなど、起こり得ない。

フィクションの設定についても同様のことが言える。
"設定"というのはあくまで現象に対する解釈に過ぎず、たまたま創作物ではそれを先行させることができるように錯覚してしまうだけ。
少なくとも今の僕は、既に起こってしまったことを前にして「有り得ない」などと言うのはナンセンスに感じるので、現象ありきで考えることにしている。指摘したからと言って撤回される訳でもないし。
「人間にとっておかしく見えること」など、大自然にとっては問題ではない。
自分のおかしいと思う基準(正しさ)を大自然に対して押し付けることは、できない。仮面ライダーはそれを体現する存在なのである。

 

 

 

 "仮面ライダー現象"/自然と自由の象徴として

長々と語ってきたが、一言でまとめるのならば「分かったような振りをして定義することによって仮面ライダーから自由を奪うこと自体が、仮面ライダーの理念に反している」ということになる。
人間はこうして短くまとめてもらわないと、脳の処理能力が追いつかなくてなかなか理解できない。書いてる僕本人でさえ全容をきちんと把握しているか怪しい。
だからいくつかの事実を"例外"として目をつむり、より簡単でキャッチーな理解をしようとする。
"仮面ライダー"とはそういった規格からはみ出るものが現れる"大自然の掟"そのものであり、現象の名前であると僕は捉えている。その名を冠するキャラクター達はあくまでその現象の代表として、象徴として、表舞台に立つだけであり、緑川博士やイマジンたちも"現象としての仮面ライダー"には含まれる、というのが持論である。


しかし、その人間の限界もまた自然なこと。
最初に挙げたいくつかの「仮面ライダーの定義」は、既にある程度定着している。定義というものはそのように人々の間でイメージが共有されなければ目的を果たさない。
ゴルドラとシルバラがいくつかの媒体で仮面ライダーの名を冠されたが現在あまり定着していないように、仮面ライダー足る資格というものがあるとするなら、それは人々に広く受け入れられるかどうかということになるのだろう。
そういった意味で、悪人を仮面ライダーとは認めないとする者が生まれるのも自然なことであるし、逆に認める者が生まれるのも自然なことだ。もちろん制作側があるキャラクターに仮面ライダーの名を付けようと思うこともその範疇であるし、そういった人たちが自由に議論を重ねることもまた、仮面ライダーという概念をつくりあげていく自然選択のひとつである。


現象としての仮面ライダーには、我々も含まれている。
我々もまた大自然に遣わされた存在として、自由に生きることができる。
仮面ライダーの定義を決めるのは、石ノ森先生や本郷猛、白倉さんや況して僕ではなく、その全員を含めた集合知としての大自然であろう。

 

 


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進撃の巨人 1巻/1期1,2,4,5話 感想

※本記事は書きかけです

これを書いている現在は、アニメファイナルシーズン(4期)放送のおよそ一月前。世間的には今更感もあろうが、いつか必ず感想記事は書くつもりだったので気にせずいきます。
原作の方を初めて読みつつ、既に知ってるアニメも並行して見て思いついたことを横断的に語る。1期については、TVアニメシナリオ集ってのも副読本として読む。作品のテーマにかこつけて、『進撃の巨人』という作品の内側にこもるのではなく、他の作品や自分語り等の脱線話も多く盛り込んでいく予定なので、悪しからず。特に僕は普段仮面ライダーの感想を書いていて、アニメ版のメイン脚本家である小林靖子さんは仮面ライダーも手がけている方なので、絡めて話をすることも多いと思う。

 

『二千年後の君へ』

アバンタイトルは、巨人の出現など我関せずといった風に空を飛ぶ2羽の鳥からスタート。僕はずっとカモだと思ってたんだけど、調べてみると同じカモ科でもガンではないかという説もあり。確かにカモだと泳いでばっかで空飛ぶイメージあんまないけど、ガンなら僕でも知ってる渡り鳥だから"自由な存在"のメタファーとしてしっくりくるかも。更には小学校で教わる『大造じいさんとガン』ってあるよね。あれは食用に狩りをする大造じいさんが、巧みに知恵を働かせて仲間を守る"残雪"という名のガンを、ただ人間から一方的に狩られる鳥ではなく、人間と同じく尊厳を持った存在……すなわち対等なライバルとして認めるまでの話。まさに『進撃の巨人』という作品を象徴しているような、ぴったりの作品だ。
そしてその鳥を見つめる緑の瞳、有名な"嫉妬"を表す慣用句ね(Green-eyed-monster)。映像では鳥が目に映ってるんだけど、ここで本来エレンが見ているのは、鳥じゃなく超大型巨人なのが興味深い。後で触れます。
また、残雪ではなく大造じいさんが飼い慣らして狩りのための囮に使った方のガンだと思って見るなら、◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯(※1)の暗喩にも見える。
開幕いきなり脱線話だけども、こういう見方もなかなか面白いものでしょう? ちなみに僕は、自分の解釈が「正しい」かどうかにはあまり興味がない。もしかすると、制作スタッフのつもりとしてはガンとは別の鳥で全然違う意味を込めてたのかもしれないけど、勘違いだろうがなんだろうがあくまで「僕にはそう見えた、そしてそう捉えると面白かった」ということを重視している。


場面は一転、壁外調査の様子へ。シナリオでは"巨大樹の森"とされているんだけれど、劇中で印象的に出てきたのはウォール・マリア内にあるはずなので、少なくともこの時点でのライターの認識としては"巨大樹の森"は固有名詞ではなく、マリアの外にも似たような森があるということになるのね。知らなかった。
他にもこのシーンはキースやエルヴィン、ハンジにミケなどメインキャラばっかり出てるし、なんならこの後に名前だけ出てくるモーゼス・ブラウンにもきちんとセリフが当てられている。初見の時からずっと「単なる世界観説明のためのイメージ映像であって、明確にいつどこであったことなのかは設定されてない」ものだと思ってたのでびっくり。……いや、普通に考えて、あのかっこいい立体機動装置のお披露目からまさか負けるとは思わないじゃんね。「人類の力を思い知れ!」って言ってるし、興奮冷めやらぬままOP入るし。このセリフを言ってるのが誰あろうモーゼスその人で、付近に巨人はあの一体のみとのことなので、十中八九こいつに負けて死んだってことになる。にわかには信じられん。

 

「いってらっしゃい」と声をかけるミカサらしき影。家という壁から出ることを祝福する、非常に印象的な一コマ。だが同時に「帰ってきなさい」という強い意志も感じる、というか目を覚ました現実のミカサは実際そう言っている。
髪が伸びてるということはエレンが夢で見ていたのは過去の出来事なのかなと一瞬思うけども、髪を切るってこともあるので必ずしも過去とは限らない。まぁ見た感じそんな大人びてるようにも思えないけど。アニメでは食われるカルラのシーンがあるので、明確に未来ということになっている。或いはシナリオの記述にあるように過去も未来も現在も"ランダム"なのか。
気になるとこを細かく追って見ると、最初は目を覚ました後の風景にも映っている、風に揺れる青い花(シナリオ本によると紫)。それが血に染まって、開かれた巨人の口、持ち上げられる兵士、占領される原っぱ、そして食べられる。ここまではイメージとしてすんなり理解できるとして、次からがなかなか難しい。まず明らかなのは暖炉と偉そうな服。一見すると椅子か何かに服がかかってるのかと思ったけど、目を凝らすと首元に人の手らしきものが認められ、僕が椅子の肘掛けか何かだと思ってたところは腕の断面だろうか。次に映るのは散らかった子供部屋。カーテンの奥から肌色の何か(巨人の指?)が覗いている。泣きっ面に蜂、みたいなカットもあるね。雫は見えないので涙は枯れ果ててるみたいだけど。で、カルラが締め。
全体的な含意としては「女子供や身分の高い者も見境なく殺される」みたいな感じかな。偉い人は基本内地にいるはずなので、シーナにまで悲劇の波紋が広がった未来を予期させる。さっき言った首元の手が小さめの巨人のものなのか、それとも人間による殺害なのかは分からないけれど。
徐々に意識が戻っていた原作と違い、エレンがはっと驚いて目を覚ますと、2羽の鳥が飛び立つ。アバンのあいつらだとしたら、迫る危機を予知して空へ逃げたってことになるのかな。夢を思い出そうとしていると2人の上に雲がかかり、泣いていることに気付いた途端 一気に晴れる。夢というのが現実逃避を意味しているとするなら、"今ここにある現実"を素晴らしいものとして受け入れるようなテーマがなんとなく窺える。
プレゼント・デイ プレゼント・タイム Hahaha……

序盤は噂されてた通りループものっぽい雰囲気が確かにあって、ゼロワンであった"涙"をきっかけとして時間が"戻る"ような演出が想起される。

 

"845年"のテロップを挟み、画面には外へ睨みを利かす壁上固定砲が映される。原作でも見開きでウォール・マリアの大きさが描かれてから、同じく壁上から街を見下ろすような絵が差し込まれる。
固定砲のレールの向きが横と縦で異なっているのがなんか気になる。そもそも同じ壁でもシガンシナを挟んだ別物な訳なので、アニメで修正されたというよりは両立する描写なのかもしれないけど。アニメの方はシガンシナを背にしていて正真正銘"壁外"に対する砲台なのに対して、漫画のはひとつ内側なので両側に街がある。縦(前後)に移動できるということは、(万が一占領された)シガンシナに加えてマリアの内側、そのどちらもを砲撃対象としているような印象を受ける。矢印を砲台の射撃として、簡易に図解するとこんな感じ。
 アニメ
マリア内|シガンシナ⊃→巨人領域
 原作
マリア内←|→シガンシナ⊃巨人領域
普通に考えたらシガンシナ内の門を突破されたとして、壁の上からマリア内に向けた砲撃(←)というのは巨人をいたずらに内地に向かわせることになりかねない。巨人に通常兵器は効かないということになってるが、実際に壁外調査の際にはあの砲台を使って周辺の巨人を追い払っているはずなので、殺せはしなくとも威嚇する程度の効用はある訳で、そんなことをすれば巨人はマリアから離れる=ローゼに近付く。じゃあ逆にこれがうまい具合に機能するシチュエーションというのを考えてみると、壁外ではなくマリア内から突然巨人が現れ、壁内からシガンシナ区に入ろうとしてくる巨人を追い払いたいケースくらいのものだろうか。すなわち、こんな感じ。
ローゼ内|トロスト⊃→巨人領域←|シガンシナ⊃
まぁ、本当にその為にあぁいう構造になってるんだとしたら後で出てくるトロスト区の外壁も同じく縦であって然るべきなので、作者の意図とは多分違うと思うけど。

 

これまではなんとなく流してたんだけど、エレンとミカサはシガンシナから出てローゼ/マリア間(しかもシナリオによるとローゼの近く)にまで薪を集めに行っていたらしい。「現在公開可能な情報」によると壁と壁の間はおよそ100kmで、車飛ばしても1時間、フルマラソン世界記録で換算しても軽く4時間はかかる。子供の足で本当にローゼ付近まで歩いたとはとても思えないので(どんなおつかいだ)、流石にこれは誤植かもしれない。もし無料の公共交通機関が整備されてるんだとしたら、社会保障のレベルが高過ぎる。有料なら親から交通費を貰った可能性もあるが、前後の話の繋がりからして大して時間が経ってる様子もないので、やはり誤植説が濃厚。

ハンネスたちが番を務める門は、原作では馬車がすれ違ってもまだ余裕があるくらい広く描かれてるのに、アニメでは子供2人でも狭そうな小さいものに変更されている。というか全体的に町並みからは閉塞感を覚えるので、これもそういった演出の一環だろうか。エレンの家も平地から石段の上に変わり、画面の情報量が増えて同印象に一役買っている。
エレンが"イザッてとき"について語る合間に一瞬だけ入る、魚が殺される意味深なカット。しばらく意味するところが分かんなかったけど、これも慣用句シリーズで「まな板の上の鯉」だろうか。一般常識の範囲だとは思うけど、映像で見せられると意外と分かんないもんだな。拾いそびれてる小ネタもまだまだ沢山ありそう。
グリシャの功績について、原作ではさらっと触れるだけなのに対してシナリオでは詳しく言及されてるんだけど、映像では結局カットされてて情報量がそこまで変わってない。「確かに流行り病の時は(グリシャの受け売りで)エレンが言う通り、みんなが危機感を持たず状況を甘く見た結果として痛い目を見た。でも巨人はまた別でやっぱり大丈夫だよ」というハンネスの主張は、確かに文脈を逃さずひとつひとつ丁寧にきちんと追えば分かりそうでもあるけど、リアルタイムに流れていく会話劇から読み取るのは至難の業ではないか。少なくとも僕は分かんなかった。
「ヤツらにこの50mの壁をどうこうできるとは思えない」という説明は、素直に受け取ればただ巨人が来なくて安心だねって話なんだけど、同時に外へ出たいエレンにとってそれは絶望的なことでもあるのよね。だって15mの巨人がいくら中に入ろうとしても太刀打ちできない壁に、人間の中でも更に子供のエレンが勝てるはずもなくて、安心と不自由のトレードオフが強調されている。
エヴァの最終回で似たような話があったな。真の自由を手にしたとき、人は何をしていいか分からず不安になる。「不自由をやろう」てな風に束縛を受けることで、やることが明確になり安心できる。いきなり「好きなものは?」と聞かれると漠然とし過ぎてて戸惑うかもしれないが、「好きな色は?」なら選択肢が少なくなる代わりにイメージが湧きやすい。
人間には、壁≒ATフィールド≒細胞の壁が必要なのだ。でなければ、生命のスープ(L.C.L.)へと逆戻りしてしまう。

彼らのサボりを肯定するのとも違うが、現実問題として四六時中ずっと警戒している訳にはいかない(余談だけど4×6=24だからこれで常にって意味になるのか、一六銀行みたいだ)。母の胸に抱かれて眠る子供のように〜、リラックスして息をつく時間がないとやっていけない。「本気で殴り合えば多分お前のほうが強い、だがお前は俺には勝てない。なーんでだ? お前には遊び心がない、心の余裕がない。張り詰めた糸はすぐ切れる、そういうことだ」とえら〜い人も言っていた。
逆に張り詰める時間がないとどうだろう。ディズニーのSFコメディアニメ『ファイアボール』では、ロボットが支配するディストピアのいち形態として、ヴィントシュトレ卿(ドイツ語で凪)による"かゆいところに手が予め存在している"ような「完璧すぎる統治」が提示されている。求めるまでもなく全て与えられた結果、人は言葉を失ったという。『PSYCHO-PASS』におけるユーストレス欠乏症という概念も興味深い。これは人が生きるために最低限必要なストレスすらも失ってしまった結果として植物人間のような状態になってしまう病気で、まさに"凪"の極地と言える。
重要なのは適度な緊張と適度な安堵。両者のバランスが保たれることで、人は健康に生きることができるのだ。酒に酔うこともまた夢と同じで、そういった退屈でストレスフルな現実からの逃避と言える。
1話の時点でここまでテーマを掘り下げちゃって、後々書くことなくならないか心配だが、出し惜しみはせずに行こう。

 

鐘が鳴り、調査兵団が帰還してくる。万全を期しているだろうとはいえ、一旦は門を開けるということで警鐘を鳴らしてるのかな? 門の仕組みとしてはおそらく二重になってて、内側に通路がある形(図1)だと思われる。
図1 壁内|通路|壁外
図2 壁内|通路←壁外
図3 壁内←通路|壁外
まず外寄りの門を開けて、兵士が通路に入る。万が一ここで巨人の侵入を許してしまったとしても、内側の門が閉まっているので壁内には入り込めない(図2)。その一体なり二体なりを討伐したら壁外から巨人が入らぬように外門を閉め、通路内の兵士が壁内に入る。人数が多いと通路に入り切らないかもしれないが、その時は何度かに分けて入るのだろう。或いは、周囲に見当たらなければ両方開けてしまうか。
こうして改めて考えてみれば、門の部分が弱いというのは頷ける。他の部分と違って真ん中が空洞になっているのだから当然だ。

モーゼスは、腕しか帰ってこれなかった。やりきれない気持ちを合理化するために、彼の死にせめて"意味"を見出そうとする母親。キースの口ぶりからすると、壁外拠点の設置は結局進展しないままに敗走してきたのかな。
彼らの肩を持つと暗中模索って本当に大変で、先のことは分からない以上、どこまで行けば望むような成果が得られるのかというのは全くもって読めない。この間隣町のスーパーへ買い物に行ったら、自転車がパンクしたのよね。
モーゼス母「そんな、自転車が……でもキャベツは? キャベツは買えたんですよね!?」
キース「なんの成果も! 得られませんでした!」
……余談はさておき、「全てのカラスが黒いとは限らない」という保証が欲しいとき、一体何匹のカラスを捕まえて確認すれば十分だと言うのだろう? 500匹調べて全部黒かったとしても、日本中を調べても世界中を調べてもまだ足りない。何故なら過去や未来にいる可能性は否定できないからだ。
ちなみにネットで検索すれば白いアルビノカラスの存在はすぐに確認できるのだが、これは現実世界に引きこもらずネットという"外の世界"へ出て確かめたから言える結果論であって、調べる前には「検索すれば見つかるかどうか」は分からない。仮にネット上に白いカラスの実在を示す情報がなかったとしたら、結果論的には「時間の無駄だった」と評価されてしまう。厳密な話をすると今の時代には合成とかCGって可能性もあるので、ネット上で確認しただけでは確証とは言えない。まだ「白いカラスもいる」という命題に対する信頼は100%にはならないのだ。
例えば受験勉強でも、今では模試の判定なんてものがひとつの指針として設置されているが、その年の倍率がいかほどか分からない以上、全幅の信頼を置くことはできない。A判定だろうが落ちる可能性はゼロではない(どころかそこそこある)ので、不安ならばもっともっと勉強するしかない。例えFラン大学でも、東大レベルの学力を持った人が、家が近いとか遊びたいとか適当な理由で大勢受験しない保証はどこにもない。「そんなことまずないだろ」と余裕ぶっこくのも自由だけど、それは本作に準えるなら「50m級の巨人なんている訳ないだろ」に相当する。
抽象的になってきたので壁外調査に話を戻そう。100人以上いた兵士のうち80人ほどを殺されてしまったとき、指揮官は「近くにいた巨人はなんとか倒せて今のところ見当たらないが、もし2体同時に現れでもしたら我々は全滅してしまうだろう」と不安に思って、退却したとしよう。だが、「実は壁の外にいた巨人はさっき倒したので最後で、そのまま進んでいれば外の世界について知ることができた」という可能性はゼロではない。もちろん同様に「さっきので最後なんてことはなく、少し進めば依然として巨人がうじゃうじゃいる」という可能性も十分ある。
「仮に倒し尽くしたのなら次の調査で分かるだろうから、今は一旦退却するべき」というのは一見正しそうだが、巨人がどうやって生まれるのか分からない以上、次の調査に行く頃にはまたうじゃうじゃに逆戻りしているかもしれない可能性を考えたら、今のうちに少しでも情報を集めるべきだと言える。何が正しいかは、結局のところ進んでみないと分からない。
極論 壁外調査をしなければ、既に巨人は死滅しているにも関わらず、意味もなく「遠くにはまだいるかもしれない」と恐怖して壁の中に引きこもり続けるということも考えられる。そう考えると"やってみなくちゃ分からない"というある種無謀なチャレンジ精神は、完全に否定されるべきものではないだろう。
まぁ「折角壁を超えたのに、居眠りしてサボってた結果薪が全然集まりませんでした」ってのは同情の余地あんましないけどな(苦笑)

 

帰宅した2人を見て、エレンの嘘を見抜いてしまうカルラ。嘘つくと耳が赤くなるなんてなんだかピノキオみたいね。人に作られし存在はロボット三原則のように枷を背負わされてしまう……と考えると、メタフィクションの香りがする。
「ご飯を食べるのは背負子を片付けてからにしなさい」と叱られてエレンが聞こえないふりをするシーンは、カットされているけどかなり重要。これがあることで後の「最期くらい言うこと聞いてよ」の説得力がかなり違ってくる。告げ口したミカサもだけど、母親は子供の自由を抑圧する"壁"として描かれている。散らかすのも駄目、調査兵団に入るのも駄目、アレもダメ ダメダメ、これもダメ ダメダメ、君のタメ ダメダメ……「え、なんで?」。でも母親は、不自由と同時に安心も与えてくれる。先日読んだ『学問のすすめ』の現代語訳版にも似たよう話があって、曰く保護と命令はセットで行われなければならない。親子で言えば、保護とはその身を健康に保つために十分な衣食住や金銭などを与えること、命令とはそうして得たものの適切な使い方を教え指図すること。どちらかが欠けるとたちまちバランスが崩れ悪い結果をもたらす。
またここでは少し触れるのみに留めるが、エレンにとってミカサやカルラが「自分の自由を奪う壁」であるのと同様に、エレンもまた彼女らにしてみれば同様の性質を帯びる。「エレンの安全を確保したい」という2人の願いと自由は、エレンの求めるものとトレードオフなので。
何故外へ出たいのかと父に問われ「外の世界を知らずに過ごすなんて嫌だ」と答えるのは分かるとして、「先人の死に報いるため」というのは子供が言うにはいささかませてるというか、この頃のエレンにそんな使命感,義務感みたいなものがあるようには思えず浮いているような印象を抱いていたんだけど、今思えばこれもまた"原初的欲求"なんだなと理解できる。ようやく1話の半分に到達したくらいなのに文字数が8000字に差し掛かりつつあるので、前言撤回しもったいぶらせてもらおう。

 

話は絡まれてるアルミンのシーンへ。ここも象徴的で結構好きな部分。壁(家)の外には敵もいっぱいいるけど、助けるべき仲間もいる……それだけで危険を顧みず外へ出る理由としては十分よね。
これはアルミン本人が一番よく分かっていることだろうけど、彼の言っていることって実はめちゃくちゃブーメランなのよね。いじめっ子がアルミンの理屈に言い返せない(降参している)から殴ることしかできないのと同じように、アルミンは腕力では対抗することができないと負けを認めてるから、殴り返せず屁理屈を並べることしかできない。双方ともに、相手の土俵では勝ち目がないことを分かっているから勝負を自分の得意分野に持ち込もうとしている(自分の殻に閉じこもっている)という意味では、同レベルなのだ。それを自覚しているからこそ、ミカサやエレンの威を借りないといけない、頭でっかちで非力な自分が許せないのだろう。本当に強い人間は、相手の得意分野できっちり勝ちを収めて心身ともに屈服させることができる。『めだかボックス』の黒神めだかなんかはまさにそういうタイプだね。まぁ、力に見合う人間性も持ち合わせていたのなら、無理やり屈服させるなんて大人げないことはしないのが一番いいのだが。するべきは論破ではなく説得。相手に本心から「向こうが正しい」と思わせるのが本当の勝ちというものだろう。

彼ら3人は、主人公なので当然といえば当然だがエレンを中心として(殊にミカサ←エレン←アルミンの順で)並ぶことが多い。んだけども、アニメでは見栄えが同じになって退屈するのを防ぐためかアレンジを加えてあって、石段に座ってるシーンは画面の横で見るとミカサ←アルミン←エレンなんだけど、縦で見るときちんとミカサ←エレン←アルミンの順になっているのが面白い。
この順番になんの意味があるのかというのは、直後に分かる。アルミンは異変を真っ先に感じ取り、走った先で巨人を見る。それを見たエレンは「(ソコカラ)何が見える?」と後を追い、そのエレンの後を追うミカサ。
3人の関係はそれぞれ未来,現在,過去に対応している。未来に夢を見て予測能力も高いアルミンに、直情径行型で衝動的なエレン、そして過去に執着するミカサ。
画面には上手(かみて)と下手(しもて)があって、漫画だと顕著だが時間にも流れる方向というものがある。このブログは左横書き(→に進む)なのでそのまま未来→現在→過去の順に並べるとアルミン→エレン→ミカサになってしまうのだが、漫画は右縦書き(←に進む)なので、絵面としては「ミカサ←エレン←アルミン」の方が多い。もちろんこれ以降のあらゆる描写がこれに当てはまっているとは言わないが、なんとなくの傾向としてあるとは思う。

 

さて、ようやく先述した緑の瞳の話までやってきたぞ。オープニングでは自由に空を飛ぶ鳥に向けられているかのように描かれていた"嫉妬の視線"だけれど、このとき実際に見ているのは紛れもなく超大型巨人。これの意味するところはただひとつ、「あんなにでかけりゃさぞ自由だろうなぁ」だ。エレンにとってこの超大型巨人は、生まれて初めて見た"外の世界のもの"であり、クソ忌々しい壁をぶっ壊してくれた存在でもあり、その結果として口うるさく自由を奪ってくる過干渉な母親を殺してくれた大恩人、ということにもなる。だから彼は、人類の宿敵に対し羨望の眼差しを向けるのだ。
命の危機であることは事実だし、母を殺した仇としての憎しみも嘘じゃないはずなので、当然そんなことは口が裂けても言わないだろうが、ここでは言葉にせず映像(行間)でほんのり匂わすことで、あくまで無意識の奥底にある気持ちであることを表現しているように見える。漫画では色こそ分からないけれど、陰る目元とは対照的に瞳自体は不自然なほどに澄んでいてとても綺麗なのよね。そういう目線で見ると「その日、人類は思い出した。ヤツらに支配されていた恐怖を、鳥籠の中に囚われていた屈辱を……」というナレーションも、あくまで人類規模の話であって、エレンという個人の感情については触れていないと取れる。そもそもエレンは思い出すまでもなく忘れていなかったのだから、ここで言う"人類"に彼は含まれない。
恐ろしくて排除したい人類の天敵だというのは大前提として描きつつも、必ずしも巨人は忌むべき存在ではないということもまた、水面下でひっそりと描かれていると言える。

 

『その日』

100余年前、巨人に追い詰められた人類は強固な壁を作った。『ユトリ最強世代』じゃないけども、人間は根源的に"壁"を作りたがる存在なのよね。その結果として生まれたのが、論理と言語だろう。壁というのはひとつの比喩で、要は"あちら"と"こちら"ってな風に区別すること。そしてここが最重要なんだけど、何かと何かを別のものだと区別するということは、何かと何かを同じものだと見做すことと表裏一体を為している。
分かりやすさのために、物理的な壁に一旦話を戻そう。仮に、壁を挟んだ向こう側を西ベルリン、こちら側を東ベルリンとする。このとき、西と東を比べて別のものと見做しているのと同時に、"西ベルリン"と"東ベルリン"それぞれの中にある様々な人や集落などを一緒くたにまとめて同じものと見做していることが分かるだろうか。
犬と猫は違う、今どきはAIでもこの区別ができる。だがこの一言を発するためには、まず「ミニチュアダックスポメラニアンドーベルマンも全部同じ犬」「アメショもスコティッシュラグドールも全部同じ猫」という前提がなければならない。ポメラニアンドーベルマンはえらい違いだが、それでも僕らは"犬"という言葉で括って"猫"をはじめとする他の動物から切り離す。もしこの世にひとつも同じものがなければ、わざわざ取り立てて「違う」と言う必要もないだろう。
生き物はみな細胞膜などの壁を持っている。そうやって外界と内側を区別しリソースを囲い込むのは、生物が根源的に持つ衝動なのだと言える。無秩序へと向かうエントロピー増大の法則に抗うかのように、壁を作って世界を整理整頓し秩序付けようとする。

普段は意識しないが、こういった峻別は人間などが自然を見て勝手に(恣意的に)つくったものであって、決して絶対的なものではない。それが顕著に現れる有名な例が、色彩感覚だろう。虹は世界共通で七色ではなく、赤,橙,黄や青,藍,紫などを区別する習慣がなければ、色数は違って受け取られる。オレンジが赤色と黄色を分かつ壁を壊し得るどっちつかずの存在であるように、コウモリは鳥類と哺乳類の境界を曖昧にする。
人間と巨人はウォール・マリアによってきっちり区別されていたのだが、知性を持つと思われる超大型巨人の出現によってその常識の壁は壊されてしまった。理屈では分かっていたはずの他でもないアルミンが「巨人は最大でも15mのはず……」と呟いているのが皮肉で面白い。
「ありえない」なんてことはありえないし、この世には不思議なことなど何もない。
そもそも我々や過去の作中人類からすれば「3m級の人間≒巨人」からして十分"おかしい"訳で、でもどうしようもなく現在する(現に存在する)と認めたからこそ「巨人は3〜15m」という認識が生まれる。観察に基づく経験則を重んじるならば、目の前にいる60mの巨人も否定するのではなく受け入れるしかない。人間の予測にとらわれない超大型巨人は、やはり自由の象徴として機能している。
まぁアルミンは自分の目で見て確かめた訳じゃないので、すぐさまこの視座に立つことを求めるのは酷というものだけれど。

 

さっきの威勢はどこへやらと、アルミンに負けず劣らず狼狽えるエレン。なんかで読んだ人間の心理的発達段階の話に「親が見ていてくれて、帰る場所があるから探険できる」みたいな表現があったけど、まさにそれ。よくあるストーリーの類型として「行きて帰りし物語」ってのもあるね。安心(基本的信頼感)があってこそ、初めて外への欲求が生まれてくる。親がいなければ反抗もできない。
ちなみに、このシーンでもやはりミカサはエレンの後を追っている。純粋な身体能力で言えば追い抜いていてもおかしくないのにこうなっているのは、偏に彼女の低い主体性によるものだろう。

カルラは、飛んできた壁の破片によって壊れた家の下敷きになってしまっていた。ここで興味深いのは、壁と家と母親、どれも元来"安心"を司るものだと言うこと。保守的で安全をを求めるカルラは、同じく安全のためにつくられた壁と家によって"身動き"が取れなくなる、謂わば自縄自縛。実際、彼女のセリフは「(自分は助けずに)逃げなさい」「戦ってはダメ」「行かないで……」と、ネガティブで抑圧的≒保守的なものが多い。その結果として巨人に食べられるというのには、非常に強いテーマ性(安寧への忌避)を感じる。

「ママンが死んだ」とは今読んでいるカミュの小説『異邦人』の印象的なフレーズだが、ニーチェの「神は死んだ」を思わせる翻訳だ。思わせるというか、単に両方とも僕が最近読んだからそう思うだけかもしれない。まぁそれを差し引いても、母なる神という概念はありふれたものであって、繋げることはそう不自然ではなかろう。1話を見る限りではあまり関連性を見出せない「二千年後の君へ」というサブタイトルからも、やはり神の匂いがする。今の時代に二千年と言えば西暦以外にないし、西暦は言わずもがなキリストを基準としている。これらを元に、サブタイの発言者を仮にキリスト≒神的存在としたとき、"君"に何かを託しているような口ぶりから彼は既に死んでいると思われる。願いは呪いでもあって、託された者は責任という首輪を付けられる。この1話(漫画では2話目だが)で、何かを託すようなニュアンスを持ったものとは何かと考えると、ひとつしかない。だがそれが何かを明言するのは、もう少し後にしよう。

母を助けることに固執するが故に、あわや3人とも殺されそうになったところへ助けに来るハンネスさん。「カルラの言う通り見殺しにして2人と逃げるか、自分の恩返しの為に戦うか」という彼の葛藤は、6巻で描かれるエレンのそれを彷彿とさせる。他人の言うことを受け入れて従うか、跳ねのけて自分の意志を通すか……単純だが根深い。トロッコ問題にも似ているが、結局論点となるのは"意志と責任"だ。
アニメのハンネスからはその葛藤が取り除かれ、その代わりに「俺の恩返しを通す!」という迷いなき意志が巨人を前にしてあっさり折られてしまうという、落差による絶望感を強調した演出に変更されている。
おもむろに体を持ち上げ、口元に運ぶカルライーター。目を背けるミカサと、直視するエレン。舞う血飛沫。
この血、最初に「なんか流行ってるらしい」と聞かされて見たときには形も飛び方もヘンテコだなぁとしか思わなかったんだけど、こうやって細かな描写も見ていくと花びらをイメージしたものなんだなと理解できる。これはシナリオ本にも書いてあるのでおそらく公式見解で、1話冒頭(OP後)でも印象的に描かれていたし、分かりやすいのは主題歌の「踏まれた花の名前も知らずに」かな。アニメでは一貫して人を花に見立てていて、だから散り際には花びらが舞う。人間を植物に喩える表現と言えば、先述した植物人間もそうだが、一番はパスカルの「考える葦」だろう。こういう風にほんのり匂わされてるだけのことの方が、明言されたセリフよりも意外と重要なキーワードだったりするもの。
「綺麗だな」と思って花を摘む。巨人にとって人を食い殺すことは、そのような感覚なのかもしれない。脳内お花畑なのだと思えば、無邪気なのも頷ける。

 

アニメ2話、ウォール教徒は「罰を受けるのはそれまでに悪いことをしてきたから」と説く。これは一種の公正世界仮説という信念であり、道徳や倫理規範とは分けて考えるべきものだ。
だってこのウォール教徒は結局食い殺されていて、しかもこの敬虔さから考えるに"罪深き魂"を自称しつつもそこらの人よりかはよっぽど誠実に生きていたと思うのだ。つまりどういうことかと言えば、この仮説に目的があるとすればそれは「罰が嫌なら正しく生きよ」という前向きなメッセージを送ることではなくて、あくまで「自分(や他人)が受ける不幸に納得し受け入れる」ためのロジックなんだな。
もちろん副産物としては生まれ得るんだけど、副産物であることは揺らがない。どれだけ正しく生きたつもりでも、悪い結果が起きたなら自覚してないだけで自分の何かが悪かったのだと"解釈する"。本質的に諦め以外のものを導かないのがこの考え方の厄介なところ。

だが、じゃあハンネスに責任転嫁するエレンはどうだろう。大人であるハンネスは、彼に自己責任論を諭す。「この世のすべての不利益は、当人の能力不足で説明がつく」と言うが、これらにはきちんと「だから自分を改めよ」という願いが付属している。虚無感を超克しようという強い意志がある。ニーチェの哲学は進撃の巨人と強い関係があるので調べてみることをおすすめする。というか、進撃の巨人そのものが現代のニーチェとして機能していると言ってもいい。酷似しすぎててびっくりしたもん。

 

さながらノアの方舟のごとく、船で逃げる人々。グリシャも「2つ上の街」と表現していた通り、内地に行けば行くほど標高は高くなるのが進撃世界。当然川は上から下へ、内から外へと流れるはずなのに、船でどうやって内地へ行くんだろう? ……と思っていたが、よくよく見れば船の真ん中にロープがあって、それをローラーで手繰り寄せて上流する仕組みになっているらしい。なるほどな、100年もあったならそれくらいは整備されててもおかしくなさそうだ。
船で内地へ行けるのは分かったけど、そもそも壁に開閉門だけじゃなくて水門もあるというのはこれまでなんとなく見てるだけじゃ気付かなかったことなので、1話冒頭の見開きから「これ実質穴みたいなもんなのでは?」と疑問に思っていたのだけれど、事実なんとかやってけてることを考えれば、巨人は水にも弱いのだろうか。後々明かされる事実も踏まえるなら、巨人の体は◯◯◯に比べて◯◯が◯◯のでまず◯◯に◯◯◯◯◯◯◯というのと、どちらかといえば◯◯というよりは◯◯の◯◯◯◯◯◯みたいなイメージなので、水によって◯◯が◯◯◯と◯◯◯◯◯◯のかもしれない。これは◯◯◯◯◯◯ことにも関係しているかも?(※2)

あとこのシーンはもうひとつ分かりにくいポイントがあって、一番悪さしてるのは「停泊してる船で"シガンシナを脱出"するんだ!」と叫ぶフーゴ。このセリフのせいで、あたかもシガンシナから船が出ているかのように思ってしまうのだけれど、実際は内門を超えたウォール・マリアの中で、更に内側へ避難せよ(シガンシナから離れろ)という話をしている。前後の繋がりを考えればすぐ分かるんだけど、流し見だと難易度高い。だから船に乗っているということは、エレンとミカサはいつの間にかシガンシナからは出られていることになる。もしかすると門兵のハンネスが多少融通を利かせて優先的に逃したのかもしれない。カルラを助けられなかった後悔から、マリア内地を助けるためにシガンシナに取り残された人を見殺しにする決断に納得できない流れもいい。そのせいもあって、結局は救えたかもしれない大勢の人間が死ぬこととなる。

情報だけで実感が湧かないトロスト区の委員会。こういうの見ると東日本大震災を思い出すな。遠いとどうしてもそうなってしまうよね。僕も当時小学生だったので、その恐ろしさを感じたのは割と最近。というかさっきもYouTubeで映像を見たんだけど、絶望しかない。これがフィクションじゃないという事実に心底恐怖する。
しかし執拗に川を映すから連絡手段と川が何か関係あるのかと思ったら、普通に早馬らしい。うーんだとするとあれかな、壁内が基本トップダウン方式を採用しているが故に、僻地から内地への情報伝達が遅いことを川の流れ(上から下へ)に見立てているのかな? ちなみに僻地(へきち)と表現したのは壁に近いことと街はずれであることをかけたシャレです、今後も使うかも。
委員はウォール・マリア陥落に対し、自分たちでは責任を負い兼ねると判断を保留。こういう態度は自由、或いは意志を語る上では鍵になってくる。今僕が思い浮かべてるのはかなり後半の展開だけど、感想ではもう少し早い段階で触れることになりそう。単純にネタ切れで。


「どうして……! 俺が……人間が弱いから?」
自分の話をごく自然に人類規模の話に拡大させてしまうの、逆にリアルよね。人間は主語を大きくしがち(でかい)。人間の中にも巨人に勝てるくらい強いやつはいる、これからいくらでも出てくるので、エレンが勝てないのは「人間である以上仕方のないこと」ではない。
続く有名なフレーズ「駆逐してやる、一匹残らず!」。かなり強い彼の語気のせい(クチクがカチクに似てるので、屠殺的な印象もついてるかも)で、まるで"根絶やし"ほどに強いかのように感じるんだけれど、"駆逐"という単語自体の持つニュアンスはあくまで「追い払う」くらいのものらしい。
そもそもあまり馴染みのない単語なので、『舟を編む』的に言えば用例採集カードがエレンのこれと「駆逐艦」の2枚しかないような状態。さらに僕は駆逐艦については名前だけでどうしてそう名付けられたかまでは知らないので、実質的には1枚だけ。コーパス(覚えたてなので無理にでも使いたい)として心許ないことこの上ない。
「弱いやつは泣くしかないのか?」という疑問から導かれるべき結論は本当はもっと別なことだと思うんだけど、そこはエレンが生来持つ暴力性の成せる業だろうか。だって
"弱いやつ"が泣かなくて済むようにしたいなら、巨人を力でどうこうしても意味がない。巨人より強くなって追い払ったとしても、立場が入れ替わるだけで「強いやつが弱いやつを虐げる」構図自体は変わらない。

「お前のためなんだ」を押し付け無理やり予防接種(仮)を受けさせられるのなんかもまさにそうで、パターナリズムなんて呼ばれたりします。予防接種の痛み,怖さ<該当疾病の苦しみ、というのはあくまで親の価値観であって、物心ついた子供が本当に同じように思うかは分からない。虫歯の痛みと毎日歯を磨く面倒さとかね。
ところでグリシャが内地から帰るシーンだけど、これまでと一転して画面左側が"壁の外(シガンシナ方面)"になっているので、また非常に紛らわしい。わざわざそうするということは何か別の意図があると考えるのが自然で、いの一番に思い付くのはやはり上手/下手なんだけれど、これを意識する人がどれだけいるかと考えるとこのシーンくらいは逆にしても良かったんじゃないかなと思わなくはない。或いはちょっとダサいけど正面向かせるか。

 

かけ算の順序問題の解説と、かける数/かけられる数に見る人間の認識

※現在この記事について賛否……というか九割九分九厘が"否"の方で色んな意見が飛び交っていることを受け、補足の記事を書いています。お待ちください。いや、やる気が失せたので待ってもすぐには出ません。

 

かけ算という操作は非常に奥が深い。というか、僕には正直よく分からない。
「かける数/かけられる数」の話は、生きていたら一度くらいは聞いたことがあるだろう。「3人の子供に2個ずつパンを分けるとき、全部でいくつ必要か」という文章題に対応する式として「3×2=6」を書くことが、果たして間違いなのかどうかという問題。結論を言えば、一般的な「かける数/かけられる数」の立場からすると、これは間違いとなります。
頭の悪い人間は自分の無知を棚に上げて「どうして駄目なのか」を考えようとせずに教育機関を責めたりする(発端のツイートでは「気が狂っている」とされていた)のだけれど、途中までは少し考えれば誰でも分かる話だと思うので、説明してみようと思う。

前提条件として、かけ算には交換法則が成り立つので、3×5も5×3も同じ15という数字を導く。ここはたしかにその通り。
その上で、あくまで"社会生活における約束事"として、かけ算の書く順序に意味を設定する文化がある。前に来るものを"かけられる数"、後ろに来るものを"かける数"とし、それぞれが1つあたりの数と、それがいくつ分あるかを表す。言葉で書くと抽象的にならざるを得ないので、視覚的に書いてみる。
図1「◯◯ ◯◯ ◯◯」→2×3
図2「◯◯◯ ◯◯◯」→3×2
ここに意義を唱える人は少ないのではないか。2個の塊が3つあるので、2×3。3個の塊が2つあるので、3×2。通常、この"塊"のことを"かけられる数"と呼び、立式の際には前側に置かれる。「2に、3をかける」ならば、2がかけられる数で3がかける数となる。

先述の文章題「3人の子供に2個ずつパンを分ける」というケースを図にしようと思ったら、多くの人は図1を選ぶと思う。だから、このケースに対応する式は3×2ではなく「2×3」なのだ。深い話なので詳しくは後回しにするが、人間の認識として「子供よりもパンの方が距離的に近くてひとまとめにしやすい」から、図2にはなりにくい。
文章の中で数字の出てくる順番が逆なので紛らわしいが、これが割り算ならどうだろう。「3人の子供に12個のパンを分けるとき、1人あたり何個か」という問いに対して、順番通りに並べて3÷12と書く人はいないだろう。それは割り算の数字の順序に意味があり、割る数と割られる数が意味的に区別されているからだ。かけ算においてはたまたま交換法則が成り立つから頭の中で逆転させても同じ結果が出るだけで、本来この両者は区別するべきものである……というのが「かける数/かけられる数」の立場だ。


ここからはさらにもう一歩踏み込んで話をしてみる。ここまでの話で分かった気になれた人は、読まなくていいかもしれない。こんがらがって「やっぱり分からないや」となる可能性も高いので、理解を深めたい方だけお付き合いいただければいい。

そもそもの話この順序問題というのは、かけ算と言っても項が2つの時に限られたものだ。項という表現は正確ではないが、数学に詳しくない僕は残念ながら他に適当な言葉を知らない。要は「2×3×5」のように3つ以上の要素をかける場合には、同様の取り決めはあまり顔を見せなくなるという話。立体の体積を求める場合の「縦×横×高さ」という順などは時折使われるが、2要素の時ほど強いものではない。あえて文章題をつくるのであれば「2個のパンを3人へ、1日おきに5回配る」みたいな構造になるだろうか。3要素になると途端に脳の処理能力が追いつかなくなり、順序など割とどうでもよくなってしまう。
先程ちらっと匂わせたが、同じ「3人の子供に2個パンを分ける」ケースでも「◯◯◯ ◯◯◯」→3×2の図にすることは不可能ではない。「3人の子供に1つずつ配ると、2巡する」という捉え方をすればいい。Wikiには「トランプのように配る」と書かれている、言い得て妙だ。数字と単位の組み合わせパターンを挙げてみると、以下の4つとなる。
 1.パンを2個ずつ3人に分ける(2×3)
 2.パンを3個ずつ2人に分ける(3×2)
 3.パンを2人に1つずつ、3度配る(2×3)
 4.パンを3人に1つずつ、2度配る(3×2)
かけられる数とかける数を分かつのは、基本的には先述もしたが「どちらがよりひとまとめにしやすいか」だと思われる。この辺りまで来ると、問題の根っこが明確になってくる。これは数学の問題というよりは人間の問題……人がどのようにして世界を認識するかという、極めて文系的な話なのだ。

 

小学校を飛び出すと単位同士をかけたり割ったりするというややこしい概念が出てくるらしい。
m^2(平方メートル)とかm/s(メートル毎秒)とかならあの頃から何気にあったけど、m/s^2(加速度で分かるよね)なんかはもう既に僕の理解を超えている。文系なので物理はなんとなくしか知らない。
例えば2本1セットの棒が3セットあるときに下のようにならないのは何故? 普段は、6[本]と捉えているのが不思議でならない。
2[本]×3[セット]=6[本・セット]
対して、割り算は意識することが多い。 "一人あたり2枚"のような表現はよく使う。
10[枚]÷5[人]=2[枚/人]
m×m=m^2というのは、あくまで「1辺を1mとする正方形の面積を1m^2とする」という定義だから成り立つものなのであって、そうでない場合に"単位の二乗"という概念は果たしてアリなのか?
2[g]×3[g]=6[g^2]という式を想像したとき、g^2とは一体何を表す単位なのだろう、そもそも「かける3グラム」とはなんだと。"日常的意味から離れる"ことが許されるなら、ひとつの抽象概念としてこういう(無意味に近い)ケースを考えることも可能になってしまう。(10/21注:質量×質量という概念は既にあるらしいです。他の無意味と思われる操作に置き換えて読んでください)
かけ算の時は異単位同士でかけたが、2[個]+3[本]のように加減でやると、それって「2個と3本」で変わらないのでは? それとも5[個+本]?
表記はなんでもいいとして、それが一体何を意味するかを考えると、あえて僕が表現するなら5[つ]となる。異単位同士なら、共通させられるより広い単位に変えようと努力する。そんな無茶くちゃなことがあるかと思うかもしれない。そもそも助数詞と単位は分けて考えるべきなのかもしれない。

 

究極的な話ひとまとめにできるものなどなくて、「りんごが2個」という状況は無限と同じく、形而下では本質的には有り得ない。りんごはりんごでも ふじ と つがる かもしれないし、同じふじでも重さや大きさ,甘さに色など、どうしても差異は生まれる。仮に物質的には全く同質だったとしても、置いてある位置などによってりんごAとA'に区別することが可能だ。にも関わらず"2個"などという共同幻想が成り立つのは、いくつもの違いに目を瞑っているからに他ならない。

まだ数が抽象概念として確立していなかった頃、人は数えるものによって数詞を変えたという。今で言う自然数に当たるものは寡聞にして知らないのだが、群名詞というものなら知ってる。「a pride of lions」でライオンの群れを、「a tower of giraffes」でキリンの群れを表すのだ。群れの概念を抽象化して、対象がどんなものであれ たくさんなら同じたくさん だとするならば、どれも「a lot of」とかで良さそうなものだが、"ライオンの群れ"と"キリンの群れ"は別物だと認識しているから、このような表現が生まれる。
同様に、人間が2人いるのとりんごが2つあるのとでは、同じ"2"でも全く質が異なる。キティちゃんならともかく、大きさも重さも構成物質も何もかも違う。両者は精々"似ている"だけで、同じものではないと考えられていたのだ。その面影は助数詞などの形で現在にも残っているが、数字そのものの持つ具体性はほとんど抜き取られてしまったと言っても過言ではない。電話番号に使われている数字は、一体"何を数えて"いるというのか。

以上のことから分かる通り、我々の使う数字という概念は不合理に満ちている。本来個別のA,A',A''…をすべて同じと捉え、Aを兼用して脳の処理を節約しようする。ベクトルにおける演算なども、スカラーのそれと"同じもの"だとはとても言えない。あれらはあくまでアナロジーの域を出ず、理解の助けになるよう便宜的にそう名付けられているに過ぎない。オッカムの剃刀を採用するような科学分野においては特に、細かな違いを無視するこのような概念の流用が多く見られる。数えるという行為はその筆頭だ。
数学なんてものは、言ってしまえばとびきりの怠け者の机上にしか生まれないのだ。要領が良い、とも言うが。


これは僕の個人的な考えだが、"さんすう"と"数学"は別物だと思う。1+1の証明は本当は難しいだとかいった話を始めとして、算数の範囲について後々になって厳密な話をされることが時折あるが、では何故小学校の時にはそれらの理解をすっ飛ばして数を扱っても良かったのか。
ここに大きな方針の違いがある。
算数とは"人と関わる手段"を教えるものであり、究極的には言語と同じだ。厳密な体系としての自然数論とはまた別に、そこまで突き詰めずとも「人と人とが共通認識を持ち一般的な生活をおくれるようになる」ことを主目的にした体系がある。言語学において単語の意味を厳密に定義しようとすることがどれだけナンセンスかを思い浮かべていただければ分かるだろうか。
「かけられる数を前に書く」というのは、そういう人間社会の営みの中で生まれた"慣習"だ。何故前なのかといえば、僕が先程「1つあたりの数と、それがいくつ分あるか」という表現をしたように、かける数はかけられる数を前提にそれを指示する性格がある(視野は狭い→広いと動く)。基本的に、指示語が指すものは既出の文章の中にある。話題にしているものが何なのかをハッキリさせずに話を進めるのはそれこそ数学くらいのもので、普段そんな頭の使い方はしないものだから方程式(xという概念)で躓く子が多いのだと思われる。
所詮は慣習だからと言って無視することは難しい。数の記号にアラビア数字を使うことへ不平を垂れていては話が進まない。問題があるとすれば、このローカルルールがアラビア数字ほどには浸透していないことだろうか。僕としては例え必然性がなかろうが、全くの無秩序であるよりは前後に意味を設定して式から浮かべる文章題的イメージを(なるべく)統一することは十分有益であると思うので、広めたい。

 

結局は個人の感覚に委ねられるのであくまで参考程度に聞いていただきたいが、パンを子供に配る例ならば、距離が近いものから遠いものへという順になった。基本はこのように、狭いところから視野を広げていくイメージでよいのではないかと思う。
1分あたり2L溜まるお風呂を張る時間ならば、時間が後者に来る。この場合は距離というと違うけれども、心理的距離だと言うことはできる。要は体積というより慣れ親しんでいる(≒実感のわきやすい)ものから抽象的なものへと移行していく。完全に認識を共有できないからと言ってこの順序を切り捨てるのはナンセンスで、よりベターな方法ではあると思うのだ。普及しさえすれば。

交換法則を根拠に順序問題を一蹴する理系の人は、かけ算の文章題の意味が分かってないというよりは、"客観的"の幻想にとらわれて、自分たちが人間社会の中で暮らしていることを忘れているように思う。先程はさんすうと数学を腑分けしたが、そういう意味では一緒だ。
読み取る相手のことを考慮せずに不文律やマナー程度のことを無視して順序を適当に書くのと、きちんと伝わると思われる方法を選ぶのでは、どう考えても後者の方が人間関係の問題として正しい。特にテストという場ならなおのこと。
校内のテストならば採点者と生徒の関係は一方通行ではないので、異議があればテスト返却の際に声を上げることができる。採点者の側でも、きちんと理解しているか確認するまで保留にするなど、柔軟な対応ができると好ましい。僕が小学生の頃は、まだ学校で習っていない手法を使った場合などにそのような対応をしてもらった。
読めないほど汚い字で書いては採点者が困るのと同じで、相手に伝わるように努力するのは回答者の責任だと言える。そもそもの話、賛否が分かれているとはいえ幸いこのケースでは「かけられる数×かける数の順にしろ」「いやどっちでもいい」という人はいても、「逆でなければいけない(その方がしっくりくる)」という声はとんと聞かない。であるならば、採点者がどちらの立場であるかに関わらず、かける数/かけられる数に従って書いておくのが回答者としてよりベターな(合目的的な)選択ではないか。

僕が見た事例では、問いの出し方から気を使われていた。
「□を埋めて3×2の式になる問題をつくりましょう。
パンを□人に□個ずつ配ります。パンは全部で何個いりますか」
穴埋め式によって、見事にトランプのようにひとつずつ配る可能性を排除している。トランプ分けだと考えるには"一巡"などのキーワードが欠落していて明らかに説明不足だと言えるだろう。
前後どちらがかける数なのかさえ授業で認識を統一しておけば、起こり得る認識の齟齬は「この状況においてパンより人の方がひとまとめにしやすい(かけられる数にしてしっくりくる)と感じる珍しい例」だけに限られる。

 

今回僕はこの記事を参考にさせてもらったのだが、ここに挙げられている「割り算の計算過程」の問題は、この話である程度解決できるのではないかと思う。

enomoto-2009.hatenadiary.org

割り算の途中過程を人に伝わるように説明する機会がそもそも少なかろうし、文化(周囲)からの要請がないのであれば、必ずしも杓子定規に一貫性を求めなくても良い。g^2とはどういう単位かを定義しなくて良いのと同じく、割り算するときは気にならないというのならそれはそれでいいのだ。自分の他に誰が見る訳でもないメモならば、交換法則だろうがなんだろうが好きに書けばいい。アレフの形がかっこいいからとヘブライ数字を使うのもよかろう。
だが人と関わるのであれば、書き手/読み手が相互理解に向けて協力し、相手のことを思いやる気持ちは忘れてはならない。

仮面ライダーセイバー 第5章「我が友、雷の剣士につき。」 感想

キャラクター

 神山飛羽真

2話でも手に入れたライドブックをメモしていたけど、やはり彼は本作の執筆者(語り手)という側面も持ち合わせているのだろうか。飛羽真が書いたから『セイバー』が生まれたのか、セイバーとしての戦いを経験したから手記として書けたのか、ここの循環関係は前回も書いた通り意図的にどっち付かずにしてあるのだと思われる。自分が発明したタイムマシンの設計図を過去の自分に渡すような感覚ね。
カリバー「失われた炎の剣が現れたか……これで他の剣士たちも動き出す」
ヨハネ、鷲

 

 富加宮賢人


 尾上亮
・みんなの親代わり
熱くなる賢人の代わりに尾上が、そらは飛羽真が 分業


 カリバー
・ 戦いの運命から逃がそうとしている?
カリバーの正体は隼人じゃなく先代では
トマス、双子 飛羽真と賢人はカリバーの子


 須藤芽依

セイバーに限った話じゃないけど、立ち位置がイマイチ分からないよな。物語のカギを握る枠はソフィアもとい白い服の少女に取られてるし、今のところ本当に何者でもない。前回はめちゃくちゃ敵を倒すことに貢献していたはずなんだけど、今回も登場人物が誰一人としてそこに触れないのは健在だった。そもそもどうしてそんなにロゴスと関わりたいのか、単純な好奇心以外の理由付けがない。

 

 

前話
仮面ライダーセイバー 第4章「本を開いた、それゆえに。」 感想

仮面ライダーゼロワン 第45話「ソレゾレの未来図」 感想

※書きかけです

 

 ・滅の苦悩はありきたりな失楽園のなぞりってことでみんな分かるよね。僕も何度か言ってるように、感情なんてものがあるから要らん葛藤が生まれる。行きたいとさえ思わなければ死に恐怖しないように。
そこにまたアンチテーゼとして出てくるのがエデンなんだろうけど。
で、なんで分かりあった風の流れから戦ったかというと、「頭では分かっても心が追い付かない」が故のこと。誰が悪い訳でもない、それは分かった。でもじゃあ、湧き上がるこの悲しみをどうしたらいいんだと。その答えが、お互いに仮面ライダーとして殴り合うことで"ストレス発散"をすることだった。
相手を滅ぼして終わりにするための戦いじゃなくて、あくまでこれから先も付き合っていく(相手とも、自分の感情とも)ための戦い。

・割と本気で、新しく作られたイズの尊厳ってなんですか? ゼロ歳の赤ちゃんに人格的な尊厳があるとでも? それをこれからつくってくんでしょうが。
問題にすべきことがあるとしたら旧イズの尊厳でしょ。
(参考:ゼロワン 第6話「アナタの声が聞きたい」 感想)

・新イズ問題に対しては僕はもうとっくの昔に答えを出してるのであまり興味が湧かない。或人は記憶喪失者ではないので(皮肉的な意味ではともかく)、彼の中で「イズは一度壊れた」という事実をなかったことにはできない。その上で新たに、名前や見た目の上では区別のないがあくまで"新たなイズ"がいる。
(参考:ゼロワン 第31話「キミの夢に向かって飛べ!」 感想)

・飛電或人というキャラが出てくるって時点で言ってしまえばこれまでと全く同じ最終回にはなり得ないので、「これまでと違うなんてそんなの当たり前だろ」くらいにしか思ってなかったけど、それにしても思い当たるところがなかったな。

・「用語のふわふわさ」はテーマ的にも重要だし、子供向け(対応)番組としても重要。前に出した、サトシはミュウツーの言ってることはほとんど理解できてなくても、言葉じゃないところで分かり合うって話と同じ。。
(参考:ゼロワン 第37話「ソレはダレにも止められない」 感想)

・ヒューマギアに限らず、人間にも人間社会に対して貢献する義務というのはやんわり課せられてるよね。ヒューマギアが人間のために動くことは、自分たちの利益にも繋がる。

 

・総括で書く予定のこと
ヒューマギアの名前と職業、他のどの作品のゲストよりも印象に残ってる
敵の武器を奪う、1号 ネット版ディケイド21話
武器の共有
障害者としてのヒューマギア
仮面舞踏会 下に降りる
心は誰のものでもない
勘違いでいい気分に
交換可能性と愛着の有無
一番臆病なのはこの世界なのかもしれない

 

ゼロワン感想一覧

次話
仮面ライダーセイバー 第1章「はじめに、炎の剣士あり。」 感想

仮面ライダーセイバー 第4章「本を開いた、それゆえに。」 感想

キャラクター

 神山飛羽真
・約束を果たす覚悟
彼の言う約束は、ちょうど今YouTubeで配信されているクウガの五代に似ているところがある。彼もまた無根拠に「大丈夫!」と言って周りを安心させておいて、その後で頑張ってその嘘を本当にできるよう尽力するタイプ。自分に対してハードルを課す意味では、約束や契約などのニュアンスも含まれる。
そう言うとかっこいいんだけど、今回の話は「いつまでにって話はしてないからまだ破ったことにはなってない! これから果たすんだ!」ってだいぶ言い訳くさい展開だったのはちょっと引っかかった。

あと、「約束約束うるせぇよ(意訳)」と激怒する尾上に対して「絶対に約束は守ります」って、一歩間違えたら完全に逆効果な返答なんだけど、軽々しく「あなたの気持ちは分かります」と言わないところに関しては結構良い手だったかもしれない。
小説家としては、自分が書いた本やキャラクターは子供も同然だと思うので、全く分からないということはないだろう。或人もヒューマギアをつくる会社の社長だったし、令和ライダーは今のところ2作連続で"親ライダー"ってことになる。『バクマン。』という漫画家を目指す漫画があって、その中で主人公たちの作品を真似た犯罪が起きて社会問題になるというエピソードがあるのね。「本来人を幸せにするはずの本が悪いことに使われる」まさにヒューマギアがテロに利用されるのと同じ構図。
一億総批評家と言われるほど様々な視点が跋扈する今の時代において、対象が良いものか悪いものかという評価を統一することはほとんど無理に等しい。すると自然、「そこを見たら悪いけどここを見ればそんなに悪くない」みたいな主張の仕方にならざるを得ない。或人も飛羽真も良いところに注目して、悪いところから目を背けるきらいがある。まぁ仕方ない、あれが駄目これが駄目と否定ばっかりする主人公よりはマシだ。子供に見せるなら尚更、大人になるまでの間くらいは都合のいいとこだけ見ていても良かろう。

彼の記憶喪失も、おそらくそういう現実逃避的な側面があるのだと思う。賢人の「忘れていた方が幸せ」というセリフからはそういうニュアンスがぷんぷんする。忘れてしまいたいほどつらい、約束を守れなかった過去……。
最近超全集を買った関係で見返しもせずぼんやりと龍騎に思いを馳せることが多いのだけど、真司にはそういった過去が思い付かないんだよな。彼が何事にも首を突っ込まなきゃ気がすまない、積極的に介入するほどに戦いを好まない性格になった"背景"。覚えてる限りでは彼の過去が描かれたのってEPISODE FINALくらいのものだけど、優衣との約束をぶっちしたことがそれらに繋がるようにも思えないし、今の性格を支える過去話の有無だけに注目するならば、城戸真司というキャラクターは至極薄っぺらくて脆いものということになる。裏を返せば自由度が高いとも言えて、仮に好戦的になっていたとしても"矛盾"はしない。蓮にとっての恵里のような「○○はどうなったの?」と言えるようなこれといった根拠がないのだから。彼の軸はあくまで現在にあって、1話で言ったような自分を縛る"過去の自分との契約"を持っていないキャラクターなのだな。
話を飛羽真に戻そう。2話の様子だとライドブックを集めるにつれて記憶の鍵も開かれていくような感じだった。仮面ライダーとして戦う覚悟とつらい記憶と向き合う覚悟の2つが絡み合っているのだと思われる。
ヘッジホッグは「指切りげんまん"針千本"飲ます」に、ピーターパンは"ネバーランド"に通じていると思えば、この2つの力を使った今回のドラゴンヘッジホッグピーターは「約束絶対守るフォーム」としての意味を持っているのかもしれない。


 尾上亮
・薄っぺらい
カリバーが賢人の親で、先代炎の剣士も飛羽真の親なんだとしたら、尾上さんは子持ちってところをかなり押し出されてるけど、実は家庭を持ったのはその3人の仲間内ではかなり遅い方ということになる。飛羽真,賢人とそらの年齢差を考えるとね。
子育て王なんて名乗っちゃいるが、むしろ彼はそれまで剣の道一筋で生きてきたところ、同僚2人の姿を見て自分も子供が欲しいと思ったのかもしれない。「子供は宝」というセリフがどうにも薄っぺらく聞こえたのは、受け売りに過ぎないからなのかも。飛羽真だって覚悟の話とかそうだけど先代の真似をしている部分が多いので、そいうところでもシンパシーを感じたのかな。

・変身システムと賢人の覚悟
これは現段階ではただの想像でしかないんだけど、ソードライバーを使う3人は全員尾上から見てひよっこ世代とのことなので、システム的には比較的新しいものなのではないかと考えることができる(烈火本体は先代も使ってたが一旦目を瞑る)。もしそうだとすると、ビルドのように多様な組み合わせを実現できているのはフラッグシップモデルだからという理由を付けられる。
更に、それというのは裏を返せばライドブックを3冊も揃えないと体のほとんどがブランク状態で本来の力を発揮できないということにもなる訳で、これはカリバーという裏切り者が出たことを考慮したある種のセキュリティシステムなのではないか。
カリバーやバスターはひとつのブックから全身を覆うだけの力を引き出せるのに対して、ソードライバーのライダーは1/3ずつしか抽出できない。それならば現状バスターと他のライダーに力の差があり過ぎることも頷ける。
これを踏まえた上でもう一度本編を見ると、自分の属性のライドブックを貸すという賢人の行為は、軽んじて見ることができなくなってくる。飛羽真,倫太郎コンビと違い、十分過ぎる腕前を持っていて力に困ってる訳ではない尾上に対して、自分の力の一端を差し出してでも「飛羽真のことを信じてくれ」と、そこまで言うのであれば彼も無碍にはできまい。ヘッジホッグライドブックは、謂わば『走れメロス』におけるセリヌンティウスみたいなものなのだ。さっき言った「針千本」もあるしね。たぶん。

豪快にぶった切るのが得意な彼には、幾千の針で再生できないくらい細かく刻むなんてのは性に合わなそうだし、飛羽真を信じた判断は正しかったと言える。


 カリバー
仮面ライダーたる所以
2話で倫太郎の口からキーワードとして語られた「世界の均衡」という言葉。そのままネット検索するとまず出てくるのはヨーロッパ、特にイギリスが掲げていた勢力均衡という考え方だ。均衡という表現からも分かるように、この概念は勢力の"対立"が前提にある。
倫太郎は分かっているのかいないのか、裏切りの剣士カリバーに対する敵対心を抱きながら「世界の均衡は僕が守る!」と叫んでいたのだが、この考え方ではカリバーのような存在を"駆逐"することはできない。

むしろ、ロゴスがあってメギドがある。この2勢力の力が拮抗してどちらが勝つでも負けるでもなく、永遠にその絶妙なバランスを取り続けることこそが、勢力均衡の理念である。僕の理解では。ソフィアが「未来永劫続く終わりなき戦い」と言っていたのはこういう意味。彼女は表向きカリバーを敵視しているが、その実は汚れ役を引き受けてくれていることに感謝していてもおかしくない。何より"永遠"は現実と対立するメギド側のキーワードだ(Maegaki Eien Ga honnIyori umiDasareru)。彼女もまた、腹に一物抱えている。その戦いに身を投じながら「物語の"結末"は俺が決める」と宣言する飛羽真の特異性も、同時に浮き彫りになる。彼こそ世界を終わらせる存在なのだ。

以上を踏まえれば、ある意味でカリバーは必要悪のような立ち位置にいることが分かる。おそらくだからこそ、彼はまだ聖剣に選ばれし戦士"仮面ライダー"なのだろう。
それらを抜きにしても、「アヴァロンに辿り着く日も近い……」と悲願を語る彼の姿からは、僕はどこか純粋さを感じた。まるで彼も誰かとの約束を果たそうとしているかのような。アーサー王はアヴァロンの地で、いつか来る目覚めの時を待っているらしい。彼の聖剣をエクス-カリバーと分割するのならば、意味的には"元カリバー"となる。彼は将来、自分の主たるアーサー王の懐刀に再び返り咲く為に、戦っているのかもしれない。
(参考:ワンダーワールドの両義性→セイバー 第1章「はじめに、炎の剣士あり。」 感想)

 

 須藤芽依
・ひどい扱い
戦場にヒロインと言うと、イズがのこのこ出てきてやられたり沢渡さんもわざわざやってきたりと危なっかしいイメージが強いのだけど、今回の芽依は結果論とは言え結構なお手柄で悪くなかったと思う。
……それはいいんだけど、尺の都合なのか誰ひとりとして彼女のことに触れないのがすげぇ気になった。「なんでいるの?」とか「危ないことするな」とか「君のおかげだありがとう」とか、なんもないじゃん。唯一話しかけてると言えるそらくんでさえ「本なんて開かなきゃよかった」と独り言でも十分成立する内容だし、その後も興味を示したのはピーターファンの話題だけ。芽依さん泣いていいよ。

 

 メギド
・王とは誰なのか
飛羽真たちは「(メギドが)捕まった人々を食べてサンショウ王になる」という解釈をしていたが、これは多分ミスリードだと思われる。だってハンザキメギドは「(我が)王の誕生」と言っていたので、明言はされてないものの文脈からして王になるのは彼本人ではない。でもだとしたら、一体何が人々を食べるというのか。
実は人々は、食べられる予定ではなかったのかもしれない。彼らがとらわれているところは、どこからどう見ても両生類の卵。この状況で王が"生まれる"と言うのなら、あの卵から出てくるに違いなくない? 前回僕はハンザキメギドも元はワンダーワールドから出られなくなった人間だったのではないかという話をしたけれど、それなら話が繋がる。本を開いて現実から逃避した人間たちは、いつの間にか現実に帰れなくなって怪物と成り果てる……。
みたいな話をしたかったので無理やりしたんだけど、見直してみたらハンザキメギドが「エサたちよ集まれ」って言っちゃってるのよねぇ。無念。
ただ、前回の時点では"サンショウウオの王様"なる概念を知らなかったので、僕はてっきりアーサー王のことだと思ってたのよね。カリバーの目的はアヴァロンだって話だしさ。もしそうだとするならまだ僕の仮説は首の皮一枚繋がってる。帝国航空はまだ死んじゃいない!(それはハンザワ)
アーサー王復活の鍵がアルターブックの完成、ひいては大いなる本の復元だとしたら、現実世界にいた人間がワンダーワールドのキャラクター(サンショウ王)に書き換わることそれ自体が、"王の誕生"に繋がる「エサ」なのだという表現でも、矛盾はない。ちょっと牽強付会な感も否めないが。つか、牽強付会が変換できなかったんだけど、しっかりしてよGoogle日本語入力さん。もしかしてあんま一般的じゃないのかな、我田引水の方が伝わる?

・デザスト
どう見てもどう聞いても、完全にヒロアカの死柄木弔でしたね。大塚明夫さんと内山昂輝さんが揃ってる訳だから100%狙ってる。大した覚悟もなく遊び半分でふらふらと戦場に出てきて飽きたらすぐ帰る様なんかも、序盤の彼そっくりそのまま生き写し。
ワンフォーオール(One for All),オールフォーワン(All for One)の元ネタはご存知『三銃士』。銃士と言いつつ剣士の3人と見習いダルタニアンの話ですね。三位一体のセイバー、そしてデザストにぴったり。そういえばこれもフランスの作品だわ。


設定

・本当に倒せば戻る?
怪人がやったことは怪人を倒せばすべて元通り……戦隊のように当然のこととして流されてるけど、映像を見ている限りでは怪人の生死とワンダーワールドの消滅に因果関係はほとんどないのでは? と思う。
まず幹部のレジエル,ストリウス,ズオス(名前が覚えやすくて良い)がカリバーから受け取った既存のアルターライドブックの1ページ目を開くと、メギドが誕生――デザストの話を聞く感じだと召喚に近いのかな――する。
そして今度はそのメギドが幹部から受け取った白い本 ブランクアルターライドブックを開くと、現実世界がワンダーワールドに転送され、世界消失現象が起こる。
ここまでの情報を素直を受け取るならば、目先のメギドをいくら倒しても、白い本を閉じなければ世界は戻らないはずなのだ。

これをうまく解釈するために仮定をするなら、ライドブックの力を解放して世界消失を起こすためには魔力みたいなものが必要で、メギドからの供給が絶たれると自然に戻ってしまう……とかだろうか。ついでにアルターブックの起動にも必要だということにすれば、幹部がメギドを軽い気持ちで量産できない理由にもなり得る。
また別の可能性として、「本のキャラクターが本を開く」という一見奇妙な現象によってタイムパラドックスのようなことが起こり、発生した膨大なエネルギーを魔力として転用しているとか。ディケイドは似たような設定で、クラインの壺というメビウスの輪の3次元版みたいなものから無尽蔵のエネルギーを取り出しているそうな。

セイバーの世界は"大いなる本"からできたとされているが、じゃあその本はどうやってできたのだろうか。「文豪にして剣豪」というキャッチコピーが示すように剣というのはペンの比喩なので、"聖剣"というのは差し詰め大いなる本を執筆した剣のことを指すのだろう。聖剣に対応する本なのだから、大いなる本は"聖書"だ。聖書はたった1人の著者によって書かれたのではなく、大勢の人が何年にも渡って追記や修正を繰り返してできたもので、聖剣が何本もあるのはそのため。
これはキリスト教に限らず宗教全般に言えることだが、我々人間や世界のルーツを説明することが多いので、自然と自己言及的(再帰的)な構造を取ることになる。自己言及とはウロボロス(ブレイブドラゴンのストーリーページは炎を吐いているようにも、自らの尻尾を噛んでいるようにも見える)によって象徴される概念で、分かりやすくイメージしてもらうなら、タッセルの家が丁度よいだろう。彼が住んでいるあの小屋は、中に全く同じ家がスノードームとして存在している。その家の中にもタッセルの家のドームがあって、その中にもまたドームが……という無限に繰り返される循環、或いは入れ子構造をしている。
この世界を1週間で創り上げたとされる神ヤハウェ。だが夢のない話、そういう物語を創ったのは我々人間だ。しかし我々が創ったヤハウェが、また我々を創ったのだ。こういったループは設定の矛盾や瑕疵などではなく、制作陣は自覚的にやっているものと思われる。
「結局のところ、剣が先なの? 本が先なの?」という疑問は、無粋というものだろう。
全体像が分かりにくくなってしまったので最初に戻ると「本のキャラクターが本を開く」というパラドックスがエネルギーを生み出しているかもしれない、という話。循環構造は相互依存しているので、片方(メギド)が欠けてはもう片方(ワンダーワールド)は維持できないのだ。

 

 

これは多分僕の問題なんだろうけど、作者の"やりたいこと"がビシバシ伝わり過ぎる(気がする)もんだから、なんだか作品をすべて理解して支配したかのような錯覚に陥ってしまう。たまには全く予想外のことが起こって「分からん! でもなんか面白い!」みたいな感覚を久々に味わいたい。
アクションや映像表現に関してはまだそういう言語化されてない部分が残ってて、毎度楽しませてもらっている。でもこれって結局新しいフォームが出てくるとかそういうイベントありきのことなので、それらがなくなったときに退屈しないか今から心配。正直1話はブレイブドラゴンしか出てこないから若干退屈だったのよね。
作品を見てる間よりも、その後で色々調べて考えてる時間の方が楽しいって、それはなんか本末転倒じゃない。

 

今週の本

『AIは「心」を持てるのか』
ゼロワン放送中、AIについての理解を深めようと思って図書館で見つけた一冊。ネット検索ではヒットしないような掘り出し物があるのは図書館ならではの魅力だよね。人気とか話題に関係なく"そこ"にある。
内容は正直「読んでくれ」としか言えないけど、AI……ひいては人間の心のありかたについて、普段からなんとなく感じていることを的確に言葉にして、更にもう一歩先を見せてくれる良書。
ゼロワン視聴者にはもちろん、そうでない人にも胸を張っておすすめできる。これを読んだ上でゼロワンを見てもまた見え方が変わってくると思うしね。
僕の感想記事も終盤あたりは本書の内容をフィードバックして書かれてるので、見返す際はぜひお供に。

 

セイバー/聖刃感想一覧

前話
仮面ライダーセイバー 第3章「父であり、剣士。」 感想

次話
仮面ライダーセイバー 第5章「我が友、雷の剣士につき。」 感想