やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

仮面ライダーゼロワン 第31話「キミの夢に向かって飛べ!」 感想

キャラクター

 飛電或人
・人間とヒューマギアのため
今回明言されたが、彼が"ヒューマギアを守る"ことは、間接的に「ヒューマギアを必要としている人」を助けることになり得るという点で、基本的にはこれまでの彼の行動は「人間のため」だったと表現することができる。ザイアスペックではヒューマギアの代わりにならないことは前回述べた通りで、当然ヒューマギアがなくなることで困る人は多くいるものと思われる。世論が危険視している手前、「周りを危険に晒してまで(少なくともそう思われてまで)再びヒューマギアを使用したい」と思うかはまた少し別の問題だが、ヒューマギアが浸透していた頃にも不破のような反対派がいたのと同様、現在も不満を持つ人たちは必ずいるし、ならば天津(で不満ならA.I.M.S.)が誰かにとっては救世主に見えるのと同様、或人もまた人間の誰かにとってのヒーローであり得る。
そしてまた、彼は人間一辺倒にはならない。「ヒューマギアは人間の暮らしをサポートする」というテーゼを捨てることなく、同時に「ヒューマギアのことも尊重する」姿勢も両立させようとする。人間にとって脅威となり壊せば解決するときでも、壊さずに済むのならその道を模索するし、データさえ残ってれば何度でも復活できるという性質に対しても、我々がそれに対して同一性の不安を覚えるのと同様にヒューマギア自身にも抵抗があると見做し、なるべく割り切らない。
ここの線引きは割と曖昧で、"なるべく"という部分が重要となる。ぶよぶよ。
アイデンティティの確立
彼の言動は、一言では語り尽くせない。そもそも生きた人間である以上そのようなことは有り得ないのだが、相手が物語のキャラクターとなると人は途端に幼児的万能感に取り憑かれてしまう。「こいつなら全てを知り、把握し、支配下に置くことができる」と。
しかしそれは大きな間違いだ。少なくとも、「このキャラがこんなことをするはずがない」などという視点を捨てない限りにおいては、本当の意味でそのキャラクターを知ることなどできはしない。
「ヒューマギアの気持ちを一番に考えようと思ってる」と言いつつ、実際には石墨のパートナーだと言ったり、「ジーペンにデビューして欲しい」という気持ち(そしておそらくそれに同意したかった自分の気持ち)も尊重したのが、今回の彼の動向だ。これは矛盾に見える。
アルバート・メラビアンという人が行った有名な実験がある。
例えば「怒ったような顔」で「優しい言葉(よくやった)」をかけられるような、相反するメッセージを受け取った際に、人が言語情報(テキストの意味),聴覚情報(声のトーンなど),視覚情報(表情や身振り)のうちどれを重視する傾向があるかを統計的に分析したもので、結果はそれぞれ7-38-55%だったという。ここから(少なくとも被験者たちにおいては)言語的な情報はそれほど重視されていない、ということが分かる。例の場合「よくやった」という称賛の言葉は、その他の情報によって多く"皮肉"と捉えられる。
……僕は今、この話の続く道筋を3つ持っている。せっかくなのでその全てを書いてみることにする。
"台詞"にこそ重心を置き、目に見える行動の方を偽とする立場に対して、一般的な結果(メラビアンの法則)と逆行する傾向を示しているという解釈をとり、「そういう人は非言語コミュニケーション能力に難があり、発達障害傾向を持っていると言えるかもしれない」という仮説を立てることができる。
もうひとつの道は、そういったものの見方をする人を"反例"のように扱い(という表現は適切ではないが、ここでは分かりやすさをとる)、「メラビアンの法則は誤りで、本当は言語情報の重要度はもっと高いのではないか」という仮説を出すこと。
これら2つは「言語,台詞を(行動よりも)重視する人と、しない人がいる」という1つの事実を、それぞれ別の角度から記述しているに過ぎない。前者に"発達障害"という特殊な名を付け区別するかどうか……を分水嶺として。
3つ目の道は、或人の例はメラビアンの実験と違い"同時"ではないことを根拠に全くの無関係であるとすること。矛盾する2つのメッセージが同時に提示されるのと時間差で提示されるのとでは、確かに心変わりという可能性が考慮されるぶん違うだろう。これは最も飛躍がなく理性的かもしれないが、最もつまらないので僕は好きじゃない。
ここで改めて「飛電或人とは何か」を考えてみるために、ものの本質というものを見つめ直してみよう。
「人である」ということは「人以外でない」ことをも意味し、これを「人でしかあれない」と解釈すると、不自由となる。
仮面ライダーとは悪の力を善に転用する正義の味方なのだ」と定立すると、仮面ライダーは善行以外のことができなくなってしまう。
「やんま(この記事の著者)」ってどういう人? という問いに対して「ゼロワンとジオウを褒め、エグゼイドやビルドを貶す人」と答えたとしよう。しかし僕はこの定義では表現し切れない。ゼロワン12話は盛大に否定したし、エグゼイドの小説は逆に肯定した。ではその時、僕は「やんま」ではなくなってしまったのだろうか。
そのように考える人もいる。「あの人は変わってしまった」「彼は老いた」などという表現を使って、それまでの人から今のその人を分離し、"もはや別人"として扱うことがよくある。キャラクターという次元においては、それらは"キャラブレ"という言葉で表され、同様に別物として扱われる。
だが実は、ここには「切り取り」という恣意的プロセスが隠されており、必然的な妥当性というものはない。
何故「やんまはゼロワンとジオウ信者、ビルドエグゼイドアンチ」という暫定的な定義が立てられるのかと言えば、その根拠はあくまでやんまと名の付いた僕自身の行為にある。僕をしばらく観察した結果として、初めてそのような知見が得られる。この時「ゼロワンを褒めた」ことだけを定義に吸収し、「ゼロワンを貶した」事実を何かそれとは違う特別なことのように扱うことに、必然性はない。
仮面ライダーとは改造人間であり、バッタをモチーフにしている」というのは一般的な認識だろうが、何故我々がそのような認識をするかと言えば、「最初にそう教わったから」でしかない。
僕は龍騎の世代だからか、「仮面ライダーらしさ」というものがかなり緩い。これに対して「お前は本当の仮面ライダー(原点)を知らない」という批判をしようものなら、それはそのまま当人に跳ね返ってくる。
何故なら、仮面ライダーになる前の"本当の本郷猛"を詳細に知る者は誰もいないからだ。異形の怪物と成り果て、巨悪と戦う運命を背負ってしまった後の彼しか、世には知られていない。
それを踏まえた上で「脱獄犯までが変身するように成り果てた『仮面ライダー』」しか知らない人を責めることは、少なくとも矛盾を孕まずにはできない。
周囲の人間にも「ショッカーに改造されてしまったのだから、お前はもう以前の本郷猛と同じとは言えない」と言いたかった人がいたかもしれない。僕が見てないだけでそういうエピソードもあったかもしれない。そして他ならぬ本郷自身、それについては頭を悩ませたことだろうと思う。
対象が見せた特徴を「"新たな"一面」などと捉えるのは、受け取り手が勝手に分かったつもりになって認識のアップデートを怠った証拠に他ならない。実際はそのような修飾なくただ「ある」のみ。
(参考:"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として)

・戦いと敗北
拳を交えることもコミュニケーションのいち形態だと言う話は、何度かした。今回のゼロワンvs迅はそれを如実に表していたように思う。彼が負けたのは、迅の意見にも一理あると感じて本気を出しきれなかったからだと捉えることはできないか。或人の望みである「人間とヒューマギアが共に笑えること(を理想と思うこと)」を、ジーペンは果たして望んでいるのかどうかというのは、分からない。それを知るためには、まず「ジーペンとは何者なのか」を紐解かなくてはならない。
・片思い
真っ先にシェスタを復活させようとしたのは、単純に同じ会社の一員として最も長く関わっていて愛着があったからだろうね。彼がより身近なものを優先的に助けるのは既に分かっている。
しかしシェスタは、或人の近くには確かにいたけれど、更に近くに或人を毛嫌いする福添達がいた訳なので、或人に対してはいい印象を持っていない。このすれ違いの結果があの一連の流れなのだろう。


 迅
・積極的/消極的自由
よく引き合いに出される話として、自由には「〜からの自由」と「〜への自由」の2種類がある、というものがある。
迅はまだ自我に目覚めて日が浅いからか、そこのところを分かっていない。まぁ不破も分かってないし、今ここでこの話を初めて知る読者の方もいるかもしれないけれど。
ゼロワンのテーマは、それこそ「自由」らしい。確かに最近になってみると、その言葉には非常に説得力を感じる。
前者のような消極的自由というのは、不破や迅が言うところの"支配からの解放"だ。ヒューマギアに脅かされる恐怖から、奴隷として扱ってくる人間から、意志をコントロールしてくる天津(ZAIA)からの自由。
対して後者、積極的自由とは、或人の言う"夢"へ、理想とする自分への自由のことを指す。迅は今回こちらの存在をラーニングしたことになる。
しかしここに、その自由を求める主体である"自己"とはなんなのかという問いを持ち込むと、状況は一変し、これらは単純な二項対立ではなくなる。
何故なら前述の通り、何かしらの不自由がなければ自己は存在し得ないからだ。自分を縛る"枠組み"がなければ、自他を隔てる"輪郭"は有り得ない。細胞壁やATフィールドなどという比喩もこれに当たる。
人は生まれてすぐ反抗期には入らない。まず外の世界を(無批判的に)吸収してある程度の自己をかたちづくらなければ、反抗しようにも「気に食わない」ということがまず有り得ない。
夢を持つためには何かしら現状への不満が必要という点で二者は大して変わらない。積極と消極……言い換えれば"能動と受動"という概念は、自由意志と同様に仮想的な概念に過ぎない。だが、仮想的であることは「ない」ということではない。
虹必ずしも七色ではない。あの色のスペクトラムを七つに分割することは絶対的なことではない。青と緑を区別しない文化圏で育てば、違って見える。だがそれは「虹がない(或いは色がない)」こととイコールではない。
「七色に見られたり五色に見られたりする」という、どっちつかずの不安定状態……光が粒子であり波でもあるのと似たような、このある意味では納得いかない気持ち悪い状態(ぶよぶよして奇怪で無秩序で、淫らな裸身の怪物)こそ、色眼鏡を通さない"真理"とでも言えるものだろう。そこには如何なる点も線もなく、すべてが分け目なく繋がり続いている。「仮面ライダーに原点も頂点もない」とはこのことだ。
だが、この虚無的世界認識は"正しい"が、それだけではただ正しいだけで何かを生み出すことはない。誤解でも勘違いでも、妄想でも仮想でも、何かを"あらしめる"ことに勝ることはないように、今の僕は思う。

(参考:仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション ネタバレ感想)

 


設定

・ヒューマギアの意志
僕は「人間の自由意志でさえ確固たるものではない」というロジックを使って「ヒューマギアも人間も等しく罪を逃れ得る」という立場をとっているけれど、反対に「ヒューマギアも人間と同じくやったことの責任は問われるべき」という立場もある。どちらもヒューマギアと人間を対等に扱っているという点は同じなのだが、(強い)自由意志を認めるか否かという部分で相違が発生している。
本編の流れに沿い、仮にここで一時的に僕も後者の立場を取ったとき、「周りに流されるのもその人の個性(であり意志)」という主張を組み立てることができる。
自我が芽生えていない状態、またハッキングされた状態なども「本人の意志で従っている」と"見做す"ことはできる。人間が本能的に食欲,睡眠欲,性欲などにとらわれているのと同様、多くのヒューマギアも生まれつき「人間に奉仕する」というプログラムがなされているが、それはヒューマギアの自由意志を否定する根拠にはならない。何故なら、同じくプリプログラムされた人間にも自由意志が認められているから、だ。
人間に反発する意志を持つものがいるのは、人間で言うところの"禁欲"のようなものとして捉えることができるだろうか。断食することに(宗教的)価値を見出す者がいるように、本能に逆らい人間に牙を向く者たちもいる。
この視点においては、或人が「ヒューマギアを(自分の思う方向へ)導く」というのも、不破の言った「正しくラーニングする」というのも、ヒューマギアの自由意志を否定する根拠にはなり得ない。
・皮膚
12話にて、暗殺ちゃんは窃盗団によって"物理的に"皮膚を変えられた祭田ゼットだったということが語られたが、今回の"転身"を見る限りにおいてはヒューマギアの皮膚というのは自在に変化させられるホログラムのようなものに見え、一見矛盾しているかのように感じる。だが、その例として出てきたのが他ならぬ祭田ゼットだった(顔は改造後の暗殺ちゃんだが)ことからも、「その設定を忘れたという訳ではない」という制作側のメッセージが感じられる。
最も単純な理屈としては、窃盗団が非正規の手段で外見を変えるためには物理的に皮膚をいじる必要があるというだけのことで、正規の手段(製造ラインや職業プログライズキー)においては、ホログラム(ではないにしても、簡単に他の外見になれる仕組み)が使われているのだと予想される。
また、ドードーマギアへ変身していた際に他のマギア同様顔が焼け落ちるように見える演出がなされているが、これについても矛盾と言えるほどの摩擦はない。滅は飛電に登録されていない"あの顔"に価値を感じていた(そして大した必要もないのに顔を変え同一性を弄ぶ趣味はなかった)はずなので、ヒューマギア本来の機能を利用して焼け落ちた顔の代わりにしていたのかもしれないし、ドードーキーの方に皮膚が残るよう細工を施していたのかもしれない。
・ボディの同一性
またどこの馬の骨とも分からないそのへんで拾ってきた素体にデータを入れることで"ヒューマギアが復活した"と捉えることに同一性の不和を感じることも、分からないではない。
これについては前回言ったことの繰り返しが主になってしまうが、人間もボディは絶えず代謝で入れ替わっているし、実はそう取り立てて騒ぐほどのことでもない。
「昨日の僕」と「今日の僕」は全く同じではないが、いくつかの共通項を以てして「同じ人」だと見做されるように、「素体Aのシェスタ」と「素体Bのシェスタ」は全く同じではないが、「同じシェスタ」であると言える。
バグスターとしての復活もそうだが、無理に「その人がその人であるためには、復活する前と全く同じでないといけない」と思うからノイズが発生するのであって、「前と同じ貴利矢」ではなく「バグスターになった貴利矢」として捉えることができたのなら、それは貴利矢であり得る。
最近知り合った人の中に、事故(?)で半身不随になった(今はリハビリによって割と動ける)男性がいる。僕は彼に「自分に意志はあると思うか」と問うてみたところ、「当たり前だ。逆になんで意志がないなんてことが有り得るのか」と返された。
僕の意図としては、生まれつき手がない足がないというのと違って、「それまでは動いていたのに、突然自分の意志の通りに体が動かなくなる」という経験は、自由意志の実在に疑念をもたらすかどうかという興味があったのだけれど、彼は変わってしまった自分の体を受け入れ、自分の一部として認めていた。「事故前の彼」と「事故後の彼」は、身体的には確かに"違う"はずだが、彼は自らの同一性を信じ、疑わなかった。
「もはや別物」と切り離さずに受け入れ続ける限りにおいて、自我同一性というものは宿るのだ。

 


僕も小学生の頃は漫画家(原作者)になりたかったんだけど、何故かって言えばそれは明らかにバクマン。を見たからなんだよな。メジャーとROOKIESを見て野球もやったし、宇宙兄弟見て宇宙飛行士になりたいと思ってた時期もあれば、LEGAL HIGHを見て弁護士もいいなぁとか思ったり、ハイキューがきっかけでバレーも始めた。
夢って"憧れ"の類義語だと思うんだけど、そう捉えると何かに影響されその後を追うというのは、夢の表現としてとても肯綮にあたっているものだと言えよう。

 

ゼロワン感想一覧

前話

仮面ライダーゼロワン 第30話「やっぱりオレが社長で仮面ライダー」 感想

次話

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