やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

ヘボット! 21話「時をバグるピコピコ」 感想

唐突に川へ落ちるヘボット。今回はゲームの話であることを踏まえると、誰かに操られているようにも見える。ヘボットとネジルを引き裂きたいのか、それとも2人の絆を試してるのか。結果的にネジルが(ネジじゃないからか)ロココットの時のように金ピカに飛びつくことなく、正直に一番ヘボいのを選んだのは、一応成長……なのか?
モチーフとなってるのはご存知『金の斧』だけど、神様って本当に底意地が悪いよな。どれ落としたか分かっていながらわざわざ誘惑して、乗ったら怒るという。何様だよって感じだし何がしたいのかも分からん。

これに限らず昔話というか寓話には、隣の爺さんが主役のマネをして痛い目見る……という類型が多いよね。おむすびころりんとかこぶ取り爺さんとか。「隣の芝は青い」と言うが、それに似た感情なのかな。
僕はあんまり他人を羨んだような記憶が思い当たらないな。例えば自分が買ってもらったことのないおもちゃを持ってるような友達はいたけども、小学生になった辺りから、そもそも何かをねだって買ってもらおうという発想がどこかへ消えたんだよな。羨望の感情とは「自分にもそうなれる可能性があった」という感覚がないと成立しないとどこかで聞いた気がする。僕の場合物心ついてしばらくは、そうやって別の可能性を考えることができなかった。それが果たして幸せなのか不幸せなのかは、分からないけれど。『555』的な失楽園の捉え方によれば、無垢で幸せな阿呆でいるよりも、辛く苦しいが知恵のある生活を自ら選び取ることが是とされていた。ミルもそんなことを言っていた。お地蔵さんは言わなかったが。

 

最近はゴミを捨てるにもお金がかかる。だから不法投棄をする人がいる。何気にアバンともうっすら話が繋がってるのよね。捨てに来てるのが前回の食物連鎖で最下層にいた魚だと考えるとちょっと怖い。最後の砦にさえも見放された可哀想なネジ。
ゴミはタダでも、むしろ金を貰っても要らない。悲しいかなそれがゴミというもので、人はそれを押し付け合う。黒板を黒板消しで拭き、黒板消しを黒板消しクリーナーで綺麗にする。更に黒板消しクリーナーの汚れを落とす黒板消しクリーナー洗浄機……はないですけど、あったら面白いよね。その次はなんだろ、ここらで一旦小さくなって黒板消しクリーナー洗浄機用スポンジとかだろうか。何故だか日常生活において意識することはまずないけれど、汚れはどこかへ消えてなくなる訳じゃないので、必ずどこかで何かがその幸せを食っている。じゃない……皺寄せのオケツ? ムキー!

子供の頃にやったスポーツのチーム分けとか、非情なものでどうしても優劣が付いてしまう。あの子が欲しい、その子は要らん(そんな歌詞はねぇ)。
特別支援学級という制度、もうちょっとやりようがあるんじゃないかと昔から思ってるのよね。負担は1つのクラスに閉じ込めるより、分散した方がいいのではと。
僕は普段、精神疾患発達障害のある人のための地活という場所に通っているのだけど、いる人みんなが大体余裕のない人たちなので、それで困ることも少なくはない。それでもみんな一応大人だからコミュニティとして成立してるけど、これが知的障害とかになると本当に衝突が耐えなそう。一度そういう施設にも気になるイベントがあったので行ったことがあるんだけど、勝手に他人のものを食べちゃう人とか、いきなり叫ぶ人とか、よだれ付いた手でそこら中を触る人とか、なかなかのカオスだった。そこで働く人も大変そう。僕だったら一人相手でも手に余りそうな人が何人もいる訳だから。

食玩とか買ったことある人なら分かると思うけど、バンダイが仕事としてすべてのシールを貼るよりも、購入者が一人ひとり自分で貼った方が、おそらく全体としての負担が小さくなるから、あぁなってるのよね。ちなみにヘボットのエトボキャボット達も、玩具売り場に並ぶ商品としては珍しくシールはセルフサービス。
紙っぺらが何百枚と集まったら重〜くなるけど、1人1枚持つなら負担はゼロ。ゼロはいくら集まってもゼロ。IT'S MAGIC!
精神疾患の周辺概念に"社会入院"というものがあって、これも言ってみれば似たような話ですよ。精神病者を病院に追いやって、社会の潔癖的な秩序を守ろうとする働き。この間見た映画『鈴木先生』にも似たような話があったけど、"なんか変"なだけの人までも排除したがるのはちょっと行き過ぎというか、衛生仮説的よね。「清潔過ぎる環境で育ったものだから免疫が過剰反応している」感がある。別に街中で突然叫ぶ人がいたって、ちょっとびっくりするだけで鼓膜が破れる訳じゃなし、わざわざ排除しなくてもいいと思う。気味が悪いとか言って勝手に被害妄想を膨らませたツケを相手に押し付けるのは良くない。前にエッセイ記事でも書いたけど、そうやって「怖い」という被害者感情でもって他者を抑圧するのって、どんどん坂道を滑っていくと精神疾患に限らず、「体が大きいから怖い」「男性だから怖い。生きてるだけで加害性がある」みたいな話になってくる。嫌でしょそんなの。
(参考:「男性VS女性」の構図が表すもの/平山亮さんのインタビューを読んだ感想)

ゲームばかりして働かない引きこもりも、クズ(屑)なんて言われるように正直要らないよね。ただお金がかかるのとは違う理由で、捨てるに捨てられないだけで。世間体なんて面倒くさいものがなければ、多分僕もとっくの昔に追い出されてただろうな。病院には通ってたので引きこもりでは微妙になかったけど、結局受験もできずに働きもしてない訳だから十分ゴミではある。僕なら絶対要らない。まぁそもそも僕だったら子供自体が欲しくないけど。

 

本編では珍しい、というか音声が流れるのは確か初のカタチコンボ……なんだけど、何気にここ、2本目のピコピコネジを挿してるのはボキャ美なのよね。キャミコンディスクシステムで繋がってるから……と考えるには、別に有線で接続されてる訳でもなく、あくまでコントローラー越しだしな。1つのボキャボットを敵味方で共有して戦うボキャバトルロイヤルってのはあったけど、1人が複数のボキャボットでコンボを発動する例ってあったっけ。6話のボキャバトルレースで、ボクサーおやじか誰かが似たようなことやってた気がする。「ネジルがヘボットとボキャ美を使う」とは違って、「ボクサーおやじと誰かの2人組が、それぞれ自分にネジを挿す」って感じだったけど。
カタチコンボが名前だけ出たのもこの回で、絵コンテが同じ方だったので何か意味があるのかもしれない。あくまでネジの所有者がその気を持って挿しさえすればオッケーなのだろうか。デスノートのページの表と裏にそれぞれ苗字と名前を書いても殺せる、みたいな。例があまりよろしくないでシクヨロ。

コンボの内容としては、過去に戻ってゲームをやり直したらバグってしまってワンワンワワン……意味深過ぎる。ゲームの中と外がごちゃまぜになる……次元ネジが緩むとそういうことも起こるのだと思われる。「ゲームはゲーム、現実は現実でしょ?」という理のタガが緩んでしまう。全力の方が癖になる。そんなに境界って、きちんとしてないみたいだよ? 今言ったデスノートも、後の作品であるバクマンを踏まえた上で見ると「ノートに書いたことがその通りになる」というのは"作者"のメタファーであって、死神界が我々の住んでる現実世界で、人間界がフィクションの世界。その2つが交わるところ(≒メタフィクション)にあの作品の面白さが詰まっているのだと思う。
ピコピコでピコ太郎だからPPAPネタなんだって今気づいた。ちょうど当時流行ってたくらいの時期だろうか。
飛んできた蝶に癒やされるヘボット。胡蝶の夢
カスリ姫は土星をすくう。金魚すくいとは言うけども、子供に捕まって世話をサボられるのは果たして救われているのかどうか……売れ残ったやつがどうなるのか知らないけど、人に捕まった時点でアウトインアウト!

 

ゲームと現実がごっちゃになる……VR(仮想現実)ではそういうことはそこまでないけれど、似た概念にSR(代替現実)がある。VRはどれだけ映像が精巧につくられていても「結局は非現実」という認識に落とし込まれることが多いが、SRはそうじゃない。
最初はヘッドギア越しに、リアルタイムに目の前で起こっている映像を見せる。もちろんこの時点では、一旦カメラを通しているだけで体験していることは紛れもない現実。映像内でAさんが手を差し出してきて、握手をすれば感触が伝わってくる。そこには多少のタイムラグが生まれるかもしれないが、直接見ている訳じゃく機械を介しているので、そういうこともあるだろう。
装着者が「これは現実だ」と認識した辺りで、映像と音声を同じ場所で事前に用意した360°カメラで撮ったものにすり替える。もちろん自由に見回せるし、技術が進歩すれば定点ではなく動き回ることもできるようになるかもしれない。切り替えの際に多少映像の乱れが起こるかもしれないが、所詮はビデオ越しの映像なのでちょっとしたバグとしか思わない。
Aさんがその場を離れて、Bさんと入れ替わる。映像内では前撮りしたAさんが喋っており、また握手を求められて手を差し出すと、確かに感触が伝わってくるのでAさんと握手しているのだと錯覚するが、実際に握手をしているのはBさんでも、装着者は気付けない。これがSRの基本的な概念だ。グラフィックを綺麗にして虚構を現実に近付けるのではなく、現実の方をビデオクオリティに近付けてしまえば、両者を区別することはできなくなる。

「自分はちょっとした映像の乱れにも気付くから騙されないぞ」という方は、フェイクを混ぜられたらどうだろうか。過去の映像に切り替わったと思わせておいて(或いは本当にただ映像が乱れただけで)、見えているのが本当の現実かもしれない。「自分は映像の通りAさんと握手してるとおもわせて、実はBさんと握手してるんだろ?」と思いつつ、実は映像のままか通りAさんと握手しているかもしれない。自分が本当は誰と握手をしたのかなんてことは、誰にも分からない。記憶違いということもあるし、記録を参照したのならそれが改竄されている可能性もある。

極端な話、いま配信されているヘボットが、当時のものといくつかのシーンがすり替えられている編集版だったとして、どれだけの人がそれに確信を持てるだろうか。僕もリアタイ当時に何度も見直したつもりだが、それでも未だに新たな発見はあるし、「こんなシーンあったっけ」となることもある。DVD-BOXや当時の録画と見比べてはどうか。でもそれらの記録だって、別の何かと変えられていない保証はない。現実的ではないが、そういう想像は成立する。そうした違和感に対して、我々は通常「気のせい」という方便を使う。
「あなたは優しいよね」と言われたが、心当たりがない。だがその人にとっては、そうらしい。もしかすると、彼女の夢の中で僕が何かいいことをしたのかもしれない。過去にあった優しい人にどこか似ていたのかもしれない。自分の記憶なんて、アテになるだろうか? 自分が信じられないとき、人は外部記憶装置に頼る。他者の記憶もそのひとつだ。それらを照らし合わせて、重なり合う部分を真実と認識する。だとするなら、僕の中にある僕に関する記憶と、他者の中にある僕に関する記憶が相反する場合、どちらを信じればよいのだろう。笑っちゃうよね。

(参考:"純粋"と呼ばれる子供はサンタや仮面ライダーの実在を信じているのか?)

 

……書きかけでもイインダヨ〜

 

ヘボット!感想一覧

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