やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

ヘボット! 24話「兄×弟」 感想

マンデイ! 意味は分かんないけど、楽しそうなのでなんとなく真似したくなるよね。ヘボットもチギルもペケットも、ツッコミながらもなんだかんだ輪に加わってるし。休み明けということで憂鬱なものというイメージが強い単語なので、こうして少しでもポジティブな意味付けをするのは、めちゃくちゃ有益なことだと思う。
他に何かしらの意味を見出そうと努力してみると、月の日ということで4話に出てきたネジの月と何か関係があるだろうか。卿曰く、そこの人々は心のネジが緩みきってへらへらしていたらしい。心のネジを緩めていこうぜ?


悲しみに暮れる幼いヴィーテ姫を、無邪気に元気付けるネジルらしき声。そのやり取りを知っているネジ王もまたネジルだったのか、はたまた当時からネジ王としてみんなを見ていたのか。
小さくつまらないものと見做されてしまい得るネジだけれど、その実なくなると結構こまるよね。1個なくすくらいなら僕らの感覚的にはなんとかなりそうけど、おそらく本当は駄目で、玩具なら耐久性が基準に達しなくなってしまうとかあるかもしれない。
そもそも、そのネジが必要な玩具は、果たして必要なのか? ストレス解消のために必要かもしれない。ではその人が生きて幸せを感じる必要はあるのか? 周りの人は死んだら悲しむかもしれない。じゃあその人たちが生きてる必要は? 人類が、宇宙がある意味は……と延々に繰り返していくと、18話のムラキについて言った巨視的虚無感に辿り着く。
(参考:ヘボット! 18話「ネジル、学校に行く」 感想)

そうならない為の1つの方法に、循環がある。AさんがBさんを必要として、そのBさんもAを必要とする。こうすればこの宇宙は果たして必要なのかなんていう不毛な疑問にはぶつからずに済む。本来はネガティブな言葉だが、このような共依存関係は強固だ。
「でも私は……」ということは、ヴィーテにはめぞん一刻、じゃないレゾンデートルがないのだろうか。彼女の時間は戻ることなく進み続けるらしい。ちょっと、前回した次元ネジの話に通ずるものがある。全ての平行世界も含めてあのヘボット世界全体の理を司るネジな訳なので、時間に対するスタンスもブレたらややこしいことになる。どの階層のいつの周回においても、次元ネジだけは絶対的なものであり続けるのではないか。意図的にではなくどうしようもなくトキトキネジの効果を"受けられない"のだとしたら、姫様は次元ネジと何か関係があるのかもしれない。

 

一方ヘボネジコンビは本当にペケチギは兄弟なのかと検証。
ボキャ美の話を信じるなら、ネジが島の王族には支持率というものがあるらしい。システムとしてそういうものがあるって訳じゃなく、単に反乱分子が増えて革命(ポロリの群衆が言ってる)が起こるという話かもだけど。
問い詰められ焦るジル国王に変わって、ブルーアイズMCネジーとネジ王が解説。
チギルについて尋ねたはずなのに、なんだかナグリ王妃の話にすり替えられた感があるヘボ。話を順に追うならネジルが生まれてからナグリとチギルが武者修行の旅に出たっぽいので、チギルは3歳までは普通にネジが島で暮らしてたことになる。でも「元々いた第一王子が(王妃と共に)失踪した」ことについてのパニックを防ぐには、影武者を立てるとかならともかくチギルの存在をタブーにするのではあまり意味がないと思うのよね。「隠し子がいた」という噂が相手なら、まだ封殺もできそうだけど。ただこれは、「国民の記憶を操作するようなことがない限り」の話だけどね。

チギルは自信をなくすとボキボキモンモンに変わってしまう。カレーを食べると普段の辛口キャラに戻るぞ。辛とかボキ(戊己)とか、やけに十干を連想するのは気のせいかな。それ以上のこと思いつかないし。
ネジルがペケペケネジの音声を聞き比べてる後ろで三角形の口してるチギル、どことなくめだかボックスのキャラっぽい。いや、目付きの悪さも相まって明確にバーミーみたい。紫の恐竜でもなければ見栄っ張りのパイロットでもなくて、鶴喰鴎ね。ダークヒーローな人。
エトペケ合体3連発! エトと合体できるのは実はヘボペケの専売特許ではなかったりするのだけど、傍証としては全然アリ。
七色のLEDはとても便利。お題の色に光ってくれるのですごく分かりやすい。でも、ジョボーンで雨が降ってたからてっきり勘違いしてたけど、よく見ると"虹色"ではないのよね。属性の赤青黄緑とペケペケネジの白、エトネジのピンク(紫?)に、スゴスゴやヤミヤミキラキラコロコロなどの特別系が水色で七つ。

 

2人が広めんとする新ギャグ、ネジかけ。当然掛け算がモチーフなのだが、この操作は非常に奥が深い。というか、僕には正直よく分からない。
「かける数/かけられる数」の話は、生きていたら一度くらいは聞いたことがあるだろう。「3人の子供に2個ずつパンを分けるとき、全部でいくつ必要か」という文章題に対応する式として「3✕2=6」を書くことが、果たして間違いなのかどうかという問題。結論を言えば、一般的な「かける数/かけられる数」の立場からすると、これは間違いとなります。
自分の無知を棚に上げて「どうして駄目なのか」を考えようとせずに教育機関を責めたりする人(発端のツイートでは「気が狂っている」と)もいるのだけれど、途中までは少し考えれば誰でも分かる話だと思うので、説明してみようと思う。

前提条件として、掛け算には交換法則が成り立つので、3✕5も5✕3も同じ15という数字を導く。ここはたしかにその通り。
その上で、あくまで"社会生活における約束事"として、掛け算の書く順序に意味を設定する文化がある。前に来るものを"かけられる数"、後ろに来るものを"かける数"とし、それぞれが1つあたりの数と、それがいくつ分あるかを表す。言葉で書くと抽象的にならざるを得ないので、視覚的に書いてみる。
図1「◯◯ ◯◯ ◯◯」→2×3
図2「◯◯◯ ◯◯◯」→3×2
ここに意義を唱える人は少ないのではないか。2個の塊が3つあるので、2✕3。3個の塊が2つあるので、3✕2。通常、この"塊"のことを"かけられる数"と呼び、立式の際には前側に置かれる。「2に、3をかける」ならば、2がかけられる数で3がかける数となる。
先述の文章題「3人の子供に2個ずつパンを分ける」というケースを図にしようと思ったら、多くの人は図1を選ぶと思う。だから、このケースに対応する式は3✕2ではなく「2✕3」なのだ。深い話なので詳しくは後回しにするが、人間の認識として「子供よりもパンの方が距離的に近くてひとまとめにしやすい」から、図2にはなりにくい。
文章の中で数字の出てくる順番が逆なので紛らわしいが、これが割り算ならどうだろう。「3人の子供に12個のパンを分けるとき、1人あたり何個か」という問いに対して、順番通りに並べて3÷12と書く人はいないだろう。それは割り算の数字の順序に意味があり、割る数と割られる数が意味的に区別されているからだ。掛け算においてはたまたま交換法則が成り立つから頭の中で逆転させても同じ結果が出るだけで、本来この両者は区別するべきものである……というのが「かける数/かけられる数」の立場だ。


ここからはさらにもう一歩踏み込んで話をしてみる。ここまでの話で分かった気になれた人は、読まなくていいかもしれない。こんがらがって「やっぱり分からないや」となる可能性も高いので、理解を深めたい方だけお付き合いいただければいい。

そもそもの話この順序問題というのは、掛け算と言っても項が2つの時に限られたものだ。項という表現は正確ではないが、数学に詳しくない僕は残念ながら他に適当な言葉を知らない。要は「2✕3✕5」のように3つ以上の要素をかける場合には、同様の取り決めはあまり顔を見せなくなるという話。立体の体積を求める場合の「縦✕横✕高さ」という順などは時折使われるが、2要素の時ほど強いものではない。あえて文章題をつくるのであれば「2個のパンを3人へ、1日おきに5回配る」みたいな構造になるだろうか。3要素になると途端に脳の処理能力が追いつかなくなり、順序など割とどうでもよくなってしまう。
先程ちらっと匂わせたが、同じ「3人の子供に2個ずつパンを分ける」ケースでも「◯◯◯ ◯◯◯」→3×2の図にすることは不可能ではない。「3人の子供に1つずつ配ると、2巡する」という捉え方をすればいい。Wikiには「トランプのように配る」と書かれている、言い得て妙だ。数字と単位の組み合わせパターンを挙げると、以下の4つとなる。
 1.パンを2個ずつ3人に分ける(2個×3人)
 2.パンを3個ずつ2人に分ける(3個×2人)
 3.パンを2人に1つずつ、3度配る(2人×3度)
 4.パンを3人に1つずつ、2度配る(3人×2度)
かけられる数とかける数を分かつのは、基本的には先述もしたが「どちらがよりひとまとめにしやすいか」だと思われる。この辺りまで来ると、問題の根っこが明確になってくる。これは数学の問題というよりは人間の問題……人がどのようにして世界を認識するかという、極めて文系的な話なのだ。

 

小学校を飛び出すと単位同士をかけたり割ったりするというややこしい概念が出てくるらしい。
m^2(平方メートル)とかm/s(メートル毎秒)とかならあの頃から何気にあったけど、m/s^2(加速度で分かるよね)なんかはもう既に僕の理解を超えている。文系なので物理はなんとなくしか知らない。
例えば2本1セットの棒が3セットあるときに下のようにならないのは何故? 普段は、6[本]と捉えているのが不思議でならない。
2[本]×3[セット]=6[本・セット]
対して、割り算は意識することが多い。 "一人あたり2枚"のような表現はよく使う。
10[枚]÷5[人]=2[枚/人]
m×m=m^2というのは、あくまで「1辺を1mとする正方形の面積を1m^2とする」という定義だから成り立つものなのであって、そうでない場合に"単位の二乗"という概念は果たしてアリなのか?
2[g]×3[g]=6[g^2]という式を想像したとき、g^2とは一体何を表す単位なのだろう、そもそも「かける3グラム」とはなんだと。"日常的意味から離れる"ことが許されるなら、ひとつの抽象概念としてこういう(無意味に近い)ケースを考えることも可能になってしまう。(10/21注:質量×質量という概念は既にあるらしいです。他の無意味と思われる操作に置き換えて読んでください)
かけ算の時は異単位同士でかけたが、2[個]+3[本]のように加減でやると、それって「2個と3本」で変わらないのでは? それとも5[個+本]?
表記はなんでもいいとして、それが一体何を意味するかを考えると、あえて僕が表現するなら5[つ]となる。異単位同士なら、共通させられるより広い単位に変えようと努力する。そんな無茶くちゃなことがあるかと思うかもしれない。そもそも助数詞と単位は分けて考えるべきなのかもしれない。

 

究極的な話ひとまとめにできるものなどなくて、「りんごが2個」という状況は無限と同じく、形而下では本質的には有り得ない。りんごはりんごでも ふじ と つがる かもしれないし、同じふじでも重さや大きさ,甘さに色など、どうしても差異は生まれる。仮に物質的には全く同質だったとしても、置いてある位置などによってりんごAとA'に区別することが可能だ。にも関わらず"2個"などという共同幻想が成り立つのは、いくつもの違いに目を瞑っているからに他ならない。

まだ数が抽象概念として確立していなかった頃、人は数えるものによって数詞を変えたという。今で言う自然数に当たるものは寡聞にして知らないのだが、群名詞というものなら知ってる。「a pride of lions」でライオンの群れを、「a tower of giraffes」でキリンの群れを表すのだ。群れの概念を抽象化して、対象がどんなものであれ たくさんなら同じたくさん だとするならば、どれも「a lot of」とかで良さそうなものだが、"ライオンの群れ"と"キリンの群れ"は別物だと認識しているから、このような表現が生まれる。
同様に、人間が2人いるのとりんごが2つあるのとでは、同じ"2"でも全く質が異なる。キティちゃんならともかく、大きさも重さも構成物質も何もかも違う。両者は精々"似ている"だけで、同じものではないと考えられていたのだ。その面影は助数詞などの形で現在にも残っているが、数字そのものの持つ具体性はほとんど抜き取られてしまったと言っても過言ではない。電話番号に使われている数字は、一体"何を数えて"いるというのか。

以上のことから分かる通り、我々の使う数字という概念は不合理に満ちている。本来個別のA,A',A''…をすべて同じと捉え、Aを兼用して脳の処理を節約しようする。ベクトルにおける演算なども、スカラーのそれと"同じもの"だとはとても言えない。あれらはあくまでアナロジーの域を出ず、理解の助けになるよう便宜的にそう名付けられているに過ぎない。オッカムの剃刀を採用するような科学分野においては特に、細かな違いを無視するこのような概念の流用が多く見られる。数えるという行為はその筆頭だ。
数学なんてものは、言ってしまえばとびきりの怠け者の机上にしか生まれないのだ。要領が良い、とも言うが。


これは僕の個人的な考えだが、"さんすう"と"数学"は別物だと思う。1+1の証明は本当は難しいだとかいった話を始めとして、算数の範囲について後々になって厳密な話をされることが時折あるが、では何故小学校の時にはそれらの理解をすっ飛ばして数を扱っても良かったのか。
ここに大きな方針の違いがある。
算数とは"人と関わる手段"を教えるものであり、究極的には言語と同じだ。厳密な体系としての自然数論とはまた別に、そこまで突き詰めずとも「人と人とが共通認識を持ち一般的な生活をおくれるようになる」ことを主目的にした体系がある。言語学において単語の意味を厳密に定義しようとすることがどれだけナンセンスかを思い浮かべていただければ分かるだろうか。
「かけられる数を前に書く」というのは、そういう人間社会の営みの中で生まれた"慣習"だ。何故前なのかといえば、僕が先程「1つあたりの数と、それがいくつ分あるか」という表現をしたように、かける数はかけられる数を前提にそれを指示する性格がある(視野は狭い→広いと動く)。基本的に、指示語が指すものは既出の文章の中にある。話題にしているものが何なのかをハッキリさせずに話を進めるのはそれこそ数学くらいのもので、普段そんな頭の使い方はしないものだから方程式(xという概念)で躓く子が多いのだと思われる。
所詮は慣習だからと言って無視することは難しい。数の記号にアラビア数字を使うことへ不平を垂れていては話が進まない。問題があるとすれば、このローカルルールがアラビア数字ほどには浸透していないことだろうか。僕としては例え必然性がなかろうが、全くの無秩序であるよりは前後に意味を設定して式から浮かべる文章題的イメージを(なるべく)統一することは十分有益であると思うので、広めたい。

 

結局は個人の感覚に委ねられるのであくまで参考程度に聞いていただきたいが、パンを子供に配る例ならば、距離が近いものから遠いものへという順になった。基本はこのように、狭いところから視野を広げていくイメージでよいのではないかと思う。
1分あたり2L溜まるお風呂を張る時間ならば、時間が後者に来る。この場合は距離というと違うけれども、心理的距離だと言うことはできる。要は体積というより慣れ親しんでいる(≒実感のわきやすい)ものから抽象的なものへと移行していく。完全に認識を共有できないからと言ってこの順序を切り捨てるのはナンセンスで、よりベターな方法ではあると思うのだ。普及しさえすれば。

交換法則を根拠に順序問題を一蹴する理系の人は、かけ算の文章題の意味が分かってないというよりは、"客観的"の幻想にとらわれて、自分たちが人間社会の中で暮らしていることを忘れているように思う。先程はさんすうと数学を腑分けしたが、そういう意味では一緒だ。
読み取る相手のことを考慮せずに不文律やマナー程度のことを無視して順序を適当に書くのと、きちんと伝わると思われる方法を選ぶのでは、どう考えても後者の方が人間関係の問題として正しい。特にテストという場ならなおのこと。
校内のテストならば採点者と生徒の関係は一方通行ではないので、異議があればテスト返却の際に声を上げることができる。採点者の側でも、きちんと理解しているか確認するまで保留にするなど、柔軟な対応ができると好ましい。僕が小学生の頃は、まだ学校で習っていない手法を使った場合などにそのような対応をしてもらった。
読めないほど汚い字で書いては採点者が困るのと同じで、相手に伝わるように努力するのは回答者の責任だと言える。そもそもの話、賛否が分かれているとはいえ幸いこのケースでは「かけられる数×かける数の順にしろ」「いやどっちでもいい」という人はいても、「逆でなければいけない(その方がしっくりくる)」という声はとんと聞かない。であるならば、採点者がどちらの立場であるかに関わらず、かける数/かけられる数に従って書いておくのが回答者としてよりベターな(合目的的な)選択ではないか。

僕が見た事例では、問いの出し方から気を使われていた。
「□を埋めて3×2の式になる問題をつくりましょう。
パンを□人に□個ずつ配ります。パンは全部で何個いりますか」
穴埋め式によって、見事にトランプのようにひとつずつ配る可能性を排除している。トランプ分けだと考えるには"一巡"などのキーワードが欠落していて明らかに説明不足だと言えるだろう。
前後どちらがかける数なのかさえ授業で認識を統一しておけば、起こり得る認識の齟齬は「この状況においてパンより人の方がひとまとめにしやすい(かけられる数にしてしっくりくる)と感じる珍しい例」だけに限られる。

 

今回僕はこの記事を参考にさせてもらったのだが、ここに挙げられている「割り算の計算過程」の問題は、この話である程度解決できるのではないかと思う。

enomoto-2009.hatenadiary.org

割り算の途中過程を人に伝わるように説明する機会がそもそも少なかろうし、文化(周囲)からの要請がないのであれば、必ずしも杓子定規に一貫性を求めなくても良い。g^2とはどういう単位かを定義しなくて良いのと同じく、割り算するときは気にならないというのならそれはそれでいいのだ。自分の他に誰が見る訳でもないメモならば、交換法則だろうがなんだろうが好きに書けばいい。アレフの形がかっこいいからとヘブライ数字を使うのもよかろう。
だが人と関わるのであれば、書き手/読み手が相互理解に向けて協力し、相手のことを思いやる気持ちは忘れてはならない。

 

……書きかけでもイインダヨ〜。

 

ヘボット!感想一覧

前話

ヘボット! 23話「ねらわれたネジ魂」 感想

次話

ヘボット! 25話「ツルっと落ちた流れ星」 感想