やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

"純粋"と呼ばれる子供はサンタや仮面ライダーの実在を信じているのか?

 "子供は純粋"というフレーズ……よく聞く。よく聞きすぎてもう当たり前になったのか最近はむしろあまり聞かない。


 この記事を書こうと思い立ったきっかけとして、さっきナレルンダーの話を見たのよね。筐体のディスプレイにプレイヤーが写り、それが変身して動きに合わせて敵を倒す……みたいなアーケードゲームなんだけど。


 うまく説明できないから検索して出てきたプレイ動画貼っとく。

 

youtu.be こんな感じ。僕が子供の頃はなかったしプレイしたこともないから分からないんだけど、子供が「本当に変身している」とある程度は錯覚していると仮定して話を進める。
 さっき改めてプレイ動画を見て気付いたんだけど、これ代替現実(SR)の考え方が応用されてるのね。

 

 代替現実(SR)とは、仮想現実(VR)があくまでも「映像による仮想」だと認識されてしまうのに対して、「これは本当に起こっている」と錯覚させる手品みたいなもの。技術的にはVRと大差ないらしいけど、その発想がすごいんだよね。

 簡単に説明すると、まずはVRのようなヘッドギアをしてもらい、そこについているカメラによるリアルタイムな映像をしばらく見せる。そのうちに事前に撮影しておいた360度ムービーとすり替えると、過去の映像をリアルタイムで起こっていることだと錯覚する……というもの。

『これまでのVRは、「現実」と、人工物でクオリティはちょっと低い「仮想」の差をいかに埋めるかということを考えてきたんです。ですから、コンピュータの性能をあげるだとか、液晶を高精細にするといったことに取り組んでいました。でも、SRというのは逆の発想で、「現実」のほうのクオリティを下げたんです。現実も仮想もビデオクオリティに落としてしまえば、両者を区別することはできませんよということなのです』(藤井直敬 文系の壁より)

 ヘッドギアによるリアルタイム映像というのが、つまりは"ビデオクオリティの現実"。仮に360度ムービーへすり替える際、一瞬映像に多少のズレなどが生じてしまっても、元が映像なので「ちょっとした機械の誤作動」程度の認識で止まるだろう。
 養老孟司さんの文系の壁は面白いんでおすすめ。対談形式になってて、他にも森博嗣さんとの理系と文系論とか、鈴木健さんの「なめらかな社会」とPICSYの話とか、須田桃子さんとのSTAP細胞事件の話とか、全編に渡って興味深い話が盛りだくさん。

books.google.com

 

 少し逸れたので戻すと、ナレルンダーの話ね。実際にSRとして使われてるような自分視点のヘッドギアではないけれど、「正面に自分が映る」という光景は鏡を通して日常的な風景となっている訳で、そこを利用して「正面に映った(ビデオクオリティの)自分が変身する」ことによって、没入感を演出しているのだと思う。
 大人のプレイ動画も見たことがあるんだけど、大抵はふざけている。この差は、視野の広狭(知識の有無)にあると思う。

 


 また少し話は飛んで、これは僕の経験なのだが、「サンタや仮面ライダーが現実にいる」という明確なイメージ……例えばサンタならば「クリスマスの夜に自分の家に入ってきてプレゼントを置いていく赤白の服を着た老人がいる」、仮面ライダーならば「この世界のどこかで実際に怪人と戦っている」というシニフィエを持っていた記憶はない。
 僕が認識していたのは、それぞれ「クリスマスの朝には枕元にプレゼントが置いてある場合があり、クリスマスというイベントのイメージキャラクターは赤白の服を着たオジサンである」「日曜の朝にはテレビで仮面ライダーの活躍が見られる」程度のものだった。


 何が言いたいかというと、「実在する/しない」と言う発想は大抵の場合「実在しない」という前提の元に成り立っていて、"純粋"な子供は「見たまま」を認識しているのではないか? ということ。
 例えばヒーローショーを見に行って「仮面ライダーだ!」となるのは「現実に存在していると思っているから」ではなくて、「見た目が同じだからテレビの中にいたそれと同じだと認識した」に過ぎないのではないかと。
 大人は多くの場合「ドラマで起こっていることは虚構。作り話」と認識しているけどそうじゃなくて、「"テレビの画面の中で"仮面ライダーが戦っている」ということは紛れもない真実なんだよね。ヒーローショーだって「実際に目の前にいる」。

 

 先日の記事で"偏見"について一家言あると書いたけど、それはここに繋がってくる。以前何かの記事にも書いたけど、"偏って見る"こと自体は悪くなくて、Aさんの周りに例えば「犯罪を犯したオタク」が多かったとしたら、「(自分の周りでは)犯罪を犯したオタクがたくさんいる」というのはひとつの事実なんだろう。
 でもそれを「オタクは(自分の周りに限らず)犯罪を犯すんだ」と"拡大解釈"すると、世間で偏見と呼ばれるような問題のある認識になる。

 

 また、作品の粗にツッコむことを「作品を純粋な気持ちで見ていない」と評す人がいる。それと対比させて「子供は純粋に楽しんでる」と言ったりする人もいる。
 何を思って"純粋"と形容しているのか知らないが、どちらも視野が狭いことに変わりはないと思う。楽しんでる人には粗が、アンチには良いところが見えていない。
 「そういう見方をすると楽しめるけど、そういう見方をすると楽しめないよね」という視点の行き来ができるようになるともっと物事の本質に近づける気がするんだけど……それができたら苦労はしないんだよな。


 このブログのスタンスは思考の記録なので特にありがたい結論とかはないんだけど、この散漫な話題を貫くテーマが「ものの見方」だったことだけは伝わってほしいかな。

 

'19/1/24 追記

よつばと!』という漫画のワンシーンの話をぜひここに載せておきたい。主人公のよつばが、夏の終わりに鳴いて夏を終わらせてしまう"つくつくぼうし"なるものの存在を聞いて、三角のぼうしをかぶってひまわりを持った妖精を想像するんですよ。その後にその正体が実はセミだったと知って、ちょっと後にお父さんが「つくつくぼうし、セミで残念だったな」と言うんです。

それに対するよつばの返事は、「? なんで? よつばセミすき」。

これなんですよ、僕の言いたいことのひとつは。ちょっとこう……うまく説明できないけど。このエピソードは単行本の5巻に載ってるので、ぜひそこまで読んでみてください。いつか感想でも書こうかな。

 

現実と妄想、フィクション。そして自分『ビューティフル・マインド』『Serial experiments lain』 感想 - やんまの目安箱