やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

仮面ライダー555 20th パラダイス・リゲインド 感想

今回は『仮面ライダー555 20th パラダイス・リゲインド』を見てきたので、ふせったーに書いた感想をまとめておきます。

 

 


続編の扱い

タイトルバックで本編とパラロスの映像が流れてたのを見て、作品同士の繋がりってハッキリ地続きであることが当たり前じゃないよな、と思った。
続き物として見るなら、本編とパラロスどっちの続きなの? という二者択一になるけど、そういうことじゃないというか、あえて言うならどことも繋がらない、555という概念を使った新作がパラリゲなんだろうし、復コアのことも(パラレル解釈とかそれ以前の問題として)そういう風に見られるのかもしれないと。
記憶の印象が正しければ電王の続編なんかまさにそんな感じで、こういう展開があったからこそ今回はこう……みたいな繋がり重視というよりは、繋がっているような独立しているような、どっちでもいいひとつの作品。


パラリゲを見て、改めて本編の真理ってふっくらとした感じがすごく幸せそうというか図太そうというか、ちょっとやそっとじゃめげない強い女の子って感じが出ていてよかったなと。
パラリゲの真理はほっそりとしていてすごく幸薄そうな感じが出ていて、作品の雰囲気にも合っていたように思う。


仮面ライダーミューズの活躍を最初に持ってきてくれてたのもよかった。せっかく新ライダーが出るからにはカッコよく活躍してほしいと思うタチなので、最初から敵として出るよりも人を襲うオルフェノクを倒す正義の味方としての活躍も見られて。


胡桃玲菜さんが恥ずかしがるのはなんなんだろね。恥ずかしくなかったときとの違いを考えるなら、やらされてる感があると嫌なのかね。確かに仮面ライダーのスーツってぴっちりしてて体のラインとか見えがちだし、コスプレさせられてるような感覚なのかも。555は1話でも
パンツパンツと言ってたけど、変身ツールと恥じらいは555においては不可分なのかもしれない。どちらかと言うとスーツを装着するんだから恥ずかしさは減るんじゃないの? と、素朴には感じるけど。
生命を殺すって行為に何らかのエロティシズムを感じているから……というような気もするが、うまく言語化できない。『傷物語』で、キスショットが人を食べるところを見られたくなかったようなイメージ。


おばあちゃんが通報するシーンなんかは、パラロスがあったからこそ感じるものがあるシーンだったな。令ジェネなんかもそうだけど、人間がマイノリティになるって構図は反転可能性テストとして必要ではあるだろうけど実情とはかけ離れてる訳なので、それらを踏まえた上で、改めてこの世は人間が"支配"してるんだよっていうのを突きつけられた感じがして。


パラリゲ見てて一番おかしいでしょと思ったのは、催涙弾的なものを投げ込んどいてマスクも無しに突入してくるスマートブレインからの刺客たちなんだけど、あれは全員アンドロイドだったってことなのか、それともただの煙(意味ある?)だったのか、あるいはオルフェノクだけに効く何かしらの成分だったのか。

 

巧はなぜ生きていた?

初めて出てきた巧がオルフェノク殺すマンだったのは、やっぱりオルフェノクを狩り続けることでしか自分は人間のコミュニティにはいられないと思ってるからってことでいいのかね。泣いた赤鬼じゃないけども。
本編を見返してても、巧が長田と知り合ってオルフェノクを倒せなくなったタイミングで、真理から「マジでおしまいかもしれないね、私たち」と告げられていて、本人の意図はどうであれ、巧的には結構グサッとくる言葉で心に残ってたのかな、と。


ちゅーか、パラリゲの草加や北崎がアンドロイドとして新生スマブレに生かされてたというのは分かったけども、だとしたらじゃあ巧がオルフェノクとして生かされ続けていたのはなんでやねんって話ではあるよな。
人間の性として、オルフェノクという珍しい生き物を完全に根絶してしまうのはもったいないので、大抵どんなことがあっても人間の味方をしてくれるという実績がある都合のいい個体だけは、お目溢しで生かしといてやろうみたいなそういう判断なのかな。


パラリゲはむしろ同窓会だった

「パラリゲはむしろ同窓会だった」と言ったのは、まぁファイズにそれなりに詳しい人には伝わったんじゃないかと思うけども、よく知ってたはずのやつらが歳月とともに変わってしまったことを思い知らされる"怖いもの"であるっていう文脈を元々持ってるよねって話ね。

加えて、その意味ではオルフェノクになることが老いの象徴に見えたのも面白かった。真理なんて見た感じ美容師もやってなさげで、夢を追っかけるような情熱が枯れちゃった感じが。
本編でも「今は美容師になる夢のほうが大事だから誰かと付き合うとかそういう気分じゃない」みたいなことを言ってたけど、相変わらず距離が近い草加クンの肩に凭れてみたり、巧とのことといい、自分一人が満足するための夢・自己実現よりも、誰かと一緒に楽しく暮らすことの方が優先順位高くなってるんだろうなと。"老後"とでも言えるようなその振る舞いが興味深かった。これはあれかな、僕ができたら30歳でぽっくり死にたいとか思ってるのもあるかもしれん。それ以上ダラダラ生きてもみっともないだけだし、って。

確かに、巧,真理,啓太郎と比べると木場,長田,海堂のオルフェノクトリオってややアダルトな感じがしてたなぁと。もちろん設定的には長田は高校生だし木場と海堂も青年の域は出てないんだけど、そもそも名前の呼び方からしてきっぱり分かれていて、ファイズ組はお互い名前を呼び捨てにしてる(草加だけはくん付けされてりさん付けされたりしてるが)のに対して、オルフェノク組はお互い苗字で呼び合ってて(海堂って長田のこと呼んだことない……? パラロスでは結花呼びだったけど)、その距離感も含めて絶妙に大人っぽい。
巧にもどこか達観した感じがあるし、そういう見方をしてみても面白いのかなと思った。もちろん今回の新キャラたちは若々しいけどオルフェノクじゃんとか鈴木照夫とかいくらでも反証しようはあるけども。


パラロスと対になってるシーン

でもって問題のベッドシーン。今まで僕はフォロワーさんがたまに言ってるパラロスバッドエンド説っていうのを「そういう見方もできるのかなぁ」くらいに思ってたけど、今回ちょっとだけ分かった気もする。復コアと同じ組み立て方をしてるなって思ったのもここで、要はパラロスにおいて巧に対して救世主であることを押し付けてた真理が、パラリゲでは巧の弱さを受け入れて、草加や巧に求められたような母性的な役割を引き受けることになるって展開が。
確かにこういうのは見ようによってはバッドエンドだし、なんなら直前に海堂から「お前が一発やらしてやりゃあこんなことにはならなかったんだ」って言われてる分だけこっちのが見た目酷い。

でも、やっぱり僕は555的にはそれって必ずしも悪い結論じゃあなくて、他人から求められる理想像を背負って生きられるのは強いこと、尊いことだよねっていう描き方をされてるように思うんだよな。井上敏樹の世界観的にも、最初から"自分が本当にやりたいこと"を明確に設定してて、ブレずにそれだけを貫くキャラって、魅力的ではあっても模範的なキャラクターとしては描かれないことが多い気がするし。555でいうならむしろ草加とかのポジションな気がする、それは。
これは僕がなぜカブトを結構好きかってところにもかかってくる話だけど。


更に言うと真理の場合はもうちょっと事情が入り組んでて、まずそもそも真理は別に母性的な女性ではないでしょということを言っておきたい。確かに口うるさいかーちゃん気質なところは海堂の前で見せてるし、菊池クリーニングでも草加が来るまではごはんつくってたりもしたけど、僕にとってはやっぱり1話が強烈なのかな。
ナンパしてきた男が引いちゃうくらい、世間の言う"女性らしさ"を気にしない。飾らないし媚びもしない、我が道を行くキャラっていうイメージがあって、だからステレオタイプな母性とはあんまり相性がよくない。
草加が勝手に、本当に勝手に自分の理想を投影した結果「母親になってくれるかもしれない」なんていう幻想を押し付けてるだけで、真理はそんなガラじゃない。その証拠に真理は草加の好意を突っぱねている。

澤田だって、心の中ではオルフェノクになった自分を受け入れてくれるかもしれない(だから殺さないといけない)って思ってた訳だけど、巧の正体に気付いたり自分がオルフェノクになるかもって啓太郎に言われたときに人並みに動揺して受け入れたくないと悩んでたことからも、別に真理はなんでもかんでも受け入れてくれる温かい心の持ち主って訳じゃなくて、澤田がオルフェノクでも人間の心を持ってると信じたいと思ってたのは、単にそこまで近い間柄じゃないからというか、ひとつ屋根の下で暮らす訳でもないんだし、危ないときに颯爽と現れて自分のこと助けてくれる"だけ"なら、オルフェノクでもいいんじゃない? って思ったっていうだけの話だと思うんだよね。
ロリコンは生きてちゃいけないとまでは言わない」「でももし自分の旦那がロリコンだったら死ぬほど嫌」みたいな。こらそこ、"旦那"になれてる以上そいつはロリコンとは言えないとか固いこと言わないでください。

何が言いたいかというと、巧が救世主なんてガラじゃないのと同じように、真理は母性なんてガラじゃないという前提があってこそ、真理が巧を受け入れるシーンはドラマとして成立し得るはずなのよ。
パンフレットの「真理って気が強いし、いわゆる「あざとい」タイプでもないじゃないですか。「モテている」というのとは、少し違うような……(笑)」という話を読む限り、演者さんはなんとなく似た違和感を持っているんじゃないかなという気がする。
今は便宜上受け入れたと書いたけど、どちらかと言うと「断りきれなかった」っていうニュアンスの方が強い気がする。小説版なんかはまさにそうだったからというのもあるけど、母性なんていうポジティブなものじゃなくて、ただ押しに弱いだけのネガティブな行動が、巧にとってはひょっとすると母性的なもののように錯覚したのかもしれない、というこのすれ違いが555のミソというか醍醐味だと思うんだよな。

そもそもオルフェノクにとって生殖行為なんてものは意味がなくて、未来を担う子供を生み出すことなんかもうできなくなって(この辺も"老い"のニュアンスよね)、できるのは使徒再生だけ……それでもその全く意味のない触れ合いに何かを求める弱さこそが、あの2人を人間たらしめるひとつの証明になっている。
それでようやく、巧はオルフェノクなんか狩らなくても、真理は人間じゃなくなっても、お互いにお互いの存在を認め合えるんだと確信することができるようになると。
悪い話じゃあ、ないじゃない?


ここらで映像的な部分に抱いた不満の話もしておくと、1カットに複数の情報を詰め込んでいたのがすごくダサかった。どっかの何かで「監督は年を取ると長回ししたくなる」みたいな話を聞いたような気がかすかにするんだけどさ。

具体的に思い出せるのは、巧と真理が話しているのを柱の後ろで聞き耳立ててる玲菜と、高架下で死にかけてる巧の元に北崎が車でやってくるところ。あと中盤のカイザとミューズが戦闘するあたりのシーンでも一度感じたかな。
どっちもカメラの角度を変えて別のカットとして差し込んでくれれば何も違和感はなかったと思うんだけど、なんでなのかカメラがだんだん引いてったら玲菜(北崎)が映るという撮り方になってて、これはもうとにかくダサいとしか言いようがない。
「芝居を撮っていても、あまりカットを割りたくない。みんな、感情をキープできる力がついているから、それを活かす方向で撮りたくなりましたね」という話はパンフレットにあるんだけども、それとこれとはまた別の話のように思える。だってそのいい芝居とやらからピントが外れて別の話が始まってるんだから、別のカットでいいじゃん。


「やっぱりたっくんはファイズじゃないと」

ラストバトルの良かったところで言うと「やっぱりファイズはたっくんじゃないと」だったのがパラリゲでは「やっぱりたっくんはファイズじゃないと」に逆転してたところだろうか。
パラロスがそうだったように、本編では色々あったけども、映画という媒体においては分かりやすいように他の人間がファイズになったりはしないで、ファイズの変身者は巧ひとりに絞られてるのは意図的なものなのかね。
僕としては見栄えがすごくREAL×TIMEだったので、真理が変身しててもいいんじゃないかという気はしたが、でもそれこそ見栄えで言うなら仮面ライダーと怪人が共闘してた方が分かりやすくはあるよね。
結局オルフェノクオルフェノクが共闘してるだけじゃんという声も見たんだけど、555最終回を見返したらそんな言い方はできないと思う。巧と木場の共闘だって要はそうなんだから。

ファイズのスーツはフォトンブラッドのラインだけ塗り直したのかすごくテカテカしてたのが気になったけど、見ようによっては黄ばんだ……じゃなくて金色の特別なミッションメモリーを使って変身した俗に言う"最終回フォーム"みたいな味もして面白かった。
おそらくAIによる戦闘補助機能がついてるネクスファイズと違って、ファイズの動きは人間臭い不合理な戦い方だからAIじゃ予測できなくて勝てるっていうのも良かったよね。
変身者が人間の玲菜だったらまだ対応もできたかもしれないけど、アンドロイド北崎には理解できない。


人間とオルフェノクの共存

真理は人間とオルフェノクの共存がどうのって綺麗事を言ってたし、平成2期を超えて令和ライダーまで見てる我々もついそう言いたくなるけど、少なくとも555の最終回ではそんな綺麗な結論は出してないのよね。
オルフェノクの王を殺すべきかどうか」という葛藤は、共存というテーゼのためにはほとんど何の役にも立たない。
だってオルフェノクの王は劇中で描かれる限りにおいては、他のオルフェノクと違って人間を襲うようなことはしていなかったので、別に倒す必要はそこまで強くある訳じゃない。
むしろ彼を殺すことは、人間を襲う可能性のあるオルフェノクなんて不死になんかならずさっさといなくなって、人間だけの世界になればいいという決意の現れでしかない。それって共存とは全然違う。
せいぜい"オルフェノクの余生"という短い間だけなら共存も可能かもしれない……という、すごくドライな結論。
それをそのまま再提示したと見てもいいし、現代風にひっくり返したと見てもいい。好み的には長生きの方だけど、555には前者の方がしっくりくるってのが僕的な結論だろうか。

今回ラスボスとして倒したアンドロイド北崎をアークオルフェノクと同じような文脈で読むなら、オルフェノクをより早い段階で殺す存在ってことになるんだろうね。
寿命より長生きさせるアークオルフェノクも、寿命より早く殺すアンドロイド北崎も否定して、あくまで自然に覚醒したオルフェノクが自然に死ぬまでの間は、共存できたらいいねというオチ。


「反転させる」という復コア的手法

パラリゲのラストシーンについて僕が最初に思ったのはそれこそ「復コアみたい」だった。これはすごくひねくれた見方かもしれないけど、本編のあの後絶対すぐ死ぬじゃんっていう最終回から逆にそこそこ生きてたんだから、今回の「生命線伸びてる!」からは逆にすぐ死ぬんだろうなと。

巧はアンドロイド北崎がスマートブレインを牛耳るまでのそこそこ長い間生きたんだから、最終回で打たれたあの死ぬのを早める注射がどうやら意味なかった、つまりスマートブレインの医療班もそこまで完璧にオルフェノクの体の仕組みを理解はできてなかったってことなんだろうけど、このパラリゲでそういうことにしたからには、今回打った寿命を伸ばす薬も大した効果はなくて、思ったより長生きしたけど今度こそ本当に死にますよっていうパターンな気がした。
主人公を死なせるという意味で制作者のやりたいことは同じだけど、復コアは"見せ方"が特に良くなかったので、パラリゲでは見え方的には底抜けのハッピーエンドに見えるようにつくって、でも実は……っていう構成にしてみせたんだと思うと、流石だなぁと。
別に僕的にはそういうの全部取っ払って長生きしてもらっても全く構わないんだけど、もしそこに不満を覚える人がいたのなら(まぁ復コアの流れがあった上で主人公が死なないことに文句を言うなんて、思ってても口に出すのは憚られそうだが)、勝手にそういうことにしておいてもいいんじゃないかな。

 

猫舌は幸せの象徴?

巧が猫舌なのって、温もり(≒幸せになること)が怖いってことの表現だと思ってて、だからパラロスで記憶なくしてるタカシの状態だと湯気の出てる飲み物を平気で飲んでるんだろうなと理解した記憶があるんだけど、パラリゲではラストシーンでも猫舌設定だったよなぁと。
別にもう怖くはないけど、ふーふーしてもらっていちゃいちゃしたいがために猫舌キャラを演じてるのかもしれない。
戦いなんてしないで、あぁやって楽しく暮らしてそのうちぽっくり死ねれば一番いいんだろね。

 

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