やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

罪人は生きる『ゴジラ-1.0』 感想

youtube.com

先日、このようなことがあった。僕は歴史に疎い。ので、中途半端なことを語るべきではないのかもしれない。
有益な情報が得たい方は、貼り付けた再生リストのみを見て欲しい。


ここからは僕というまだ24歳のガキが、この映画を見て素直に思ったことを書く。
まだパンフレットを見てないから作者の意図とは違うかもしれないけど、僕は『ゴジラ-1.0』のゴジラは「戦争を仕掛けた日本の罪を裁く存在」として……いや、というよりはむしろ「その日本人の罪悪感の象徴」として見た。
冒頭のシーンにおいて、敷島は特攻しなかったことを暗に責められたり、それもいいんじゃないかと言われたりしていた。
その上で、突然現れ今にも自分たちを脅かそうとしている強大な存在(ゴジラアメリカ)を前にして、橘は戦闘機による先制攻撃を敷島に託した。……だが敷島は勇気が出ずに攻撃をしなかったことで幸いゴジラの攻撃対象にはならず、逆に先制攻撃を始めてしまった塹壕(?)の中の整備士たちは橘を除いて全滅した。
このシーンをいきなり見せることは観客にゴジラをお披露目するという意味を超えて、今回のゴジラは日本が戦争を始めたことを憎む者だと説明する意味があったんだと理解した。

 

日本人を核爆弾の、或いは震災の「被害者」としてではなく、あくまで「戦争(攻撃)を始めた罪人」という視点からゴジラを描く……ゴジラシリーズにおいてそれがどのような意味を持つのかは僕には知り得ないが、初代『ゴジラ』と『シン・ゴジラ』くらいしかまともに見たことのなかった自分にはこれがひとつ衝撃的なことだった。
しかもその上で、政治劇だったシンゴジとは対象的に、とにかく敷島というひとりの男の個人的な物語にフォーカスするという手法が取られる。これもまた驚きだった。
そしてそれの恩恵というべきか、戦争という国家レベルの問題を個人の葛藤の問題に落とし込むために、この戦争の罪悪感というファクターは一見「仲間を救えず自分だけ生き残ってしまった罪」にすり替えた形で提示される。

 

僕は最近、フィクションで戦争というものを扱うとどうしても話がややこしくなってしまうらしい……ということを無知なりに実感してきていて、『キングオージャー』で国家の重大な危機を乗り越えるために国民全員に対して協力を要請し、その結果大団円となった描写に対して「これではまるであの戦争を美化しているのではないか」という批判を見て、それを経たことで自分の中でも『ハリケンジャー』の「戦争で死ぬのはおじいちゃんだけで十分、だからお前は戦うな」と言う祖母が出てくる回において「絶対なんとかなる、なんとかしなくちゃいけないんだ! 俺たちの親や、そのまた親や、ずっとずっと昔の人たちが守ってきた、この星を守るために!」と叫ぶ描写を見て、対象は"星"にすり替わってるとはいえ、戦争という文脈を提示した上で「守ってきた」と表現するのは、先制攻撃した事実をなかったことにしてるようで、そういう詳しい人たちからすれば良くない話の運び方なのではと思ったりもした。
最近アニメが終わったことで話題の『進撃の巨人』なんかとんでもなくて、最近はともかく序盤の方などは決死の特攻を美談として描く傾向がかなり強いし、何より調査兵団は「自分たちの領土を拡大し進撃すること」を目的として存在している。しかも舞台はドイツをイメージしているということもあり、実際の戦争と照らし合わせるとかなりセンシティブな問題に首を突っ込んでいて、僕みたいな門外漢はそれでも好きだがそういった"問題作"がここまで人口に膾炙しているという事実を結構不思議に思っていたりもする。
またシンゴジにおいても「一方的な注文ばかりだな、かの国は」とアメリカを揶揄するような描写があり、現実における国同士の関係に何らかの悪影響を及ぼさないのかとやや心配になった。

 

その点において本作はかなりクレバーというか、アメリカの存在感をほとんど感じさせず、徹底して「日本人の日本人による内省と葛藤」にだけ焦点を当てていて、しかも必要以上にジメジメ悩んだりとかもそれはそれでないので、見ていてノイズを感じることもなく、エンタメとしてとても気持ちよく見られた。
さっき罪悪感というテーマは敷島においては一見「仲間を助けられなかった(攻撃できなかった)罪」にすり替えられているといったけど、敷島だって「こんなことになるなら先制攻撃なんてしなければ」と思っていただろうし、実際そういう気後れする気持ちがあったからこそ特攻を放棄していたんだろう。
だからどちらかと言えば、彼を縛っているものの重心は「生き残ってしまった罪」の方にある。

僕は本当に歴史には詳しくないのだけれど、それでもなお知ってはいる満州事変のこととか、真珠湾攻撃とか、なんか昔の日本はどうやらすごくズルい戦い方をしてたらしいというぐらいのイメージはあって、そういう罪深い"日本人"として、のうのうと幸せに生きててもいいんだろうかという葛藤。
最初に貼った再生リストの中で、自爆覚悟で挑んでくる日本軍の狂気を見たアメリカ軍兵士が「日本人はここで殲滅しなければならない(I believe that the japanese, as a race, must be crushed so utterly)」「やつらが我々の子供たちに二度と立ち向かえないように(that they will not be able to rise again to make war against our sons.)」と述懐しているのがとても強烈に印象に残っている。まさに『進撃の巨人』でエルディア人が受けていたような視線を"ジャップ"は向けられていたのだという事実を知って、よくできてるとは言っても所詮はフィクションとして消費してきた『進撃の巨人』に初めて生々しい実感というか実在感みたいなものを感じた。
(参考:

youtu.be)

実際の歴史では戦後に高度経済成長とやらがあってバブルがあって、まぁそれなりに豊かで幸せな国になってしまった訳だけど、本当にそれで良かったのか。
少なくとも敷島は自分を許すことができずに、色んな手を使って橘を呼び付けてまで、彼に自分が死ぬ様を見てもらうことで許して……というよりは裁いて欲しかった。彼はずっと罰を欲していた。そもそもの発端として命の保証がない危険な仕事を選んだのもその表れだろう。

 

ゴジラは日本人の罪悪感の化身なので、彼(と敢えて個人的な人間であるかのような表現をする)は日本人の死滅を望む。

それに唯一対抗できるのは、決死の突撃などでは絶対に絶対になく、ただ素朴に一個の生命として"生きるために"戦う者だけ……。

この結論がもう本当に、たまらなく感動した。我々日本人の罪は、むしろ"死を受け入れたこと"にこそあるのだという発想の大転換。
そしてその先に、典子が実は生きていたという"ご褒美"がある。もう、本当、ここのシーンは人生で見た映画の中で一番泣いた。しばらく画面が見えなくなるくらいボロボロに。
放射線の影響で幸せ100%とはいかないかもしれなくても、生きてさえいれば――。

 

リーガル・ハイ 第5話「期限は7日! 金か命か!? 悪徳政治家を守れ」/『シン・ゴジラ』 感想 - やんまの目安箱