やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

『人が人を罰するということ(ちくま新書)』 感想

先日なんの気なしに図書館へ立ち寄った際、新着コーナーにあった『人が人を罰するということ ――自由と責任の哲学入門』というちくま新書が目に付いた。
今回はその本の感想を、筆の向くまま書いていきます。
……と言っても「面白かった」「ぜひ読んでください」というポジティブなものではなく、端的には「クソつまらなかった」という話ですので、ご注意を。

 

この本に興味を持ったのは、"罰"というテーマは僕が好んでいる仮面ライダーシリーズを始めとする特撮というジャンルが、常に直面し続けている問題のひとつであるからだ。
少数の例外を除き、仮面ライダーは警察や裁判所、刑務所などの社会的な懲罰システムとは無関係に、よく言われるところの"私刑"というかたちで怪人を懲らしめ、少なくない場合において相手の命すらも奪う。
この行為を批判するにせよ正当化するにせよ、タイトルにあるような罰することや、自由意志と責任の問題については折に触れて考えざるを得ない。
どうやら著者の山口尚氏が別の本で取り上げているらしい國分功一郎氏の『中動態の世界』を読んだときなどは、元々自分の持っていた感覚に近いものをベースに、更に新たな発見もきちんとあるよい時間を過ごせた。

 

もっとも、当書に対してそれに匹敵する体験を求めていたかと考えるとそんなことはない。本当に漠然とした経験則として「こういうタイトルの本は内容がないことが多い」と直観していたので、普段読みたい本を読むときは目次など飛ばしてさっさと読み始めるのだが、最初に目次をチェックし、あとがき……もとい"おわりに"を先に読んでみた。

まず目次に関して、このテーマなら絶対に扱いそうな(そして扱うことを期待されそうな)死刑の問題について触れていないことが気になった。
僕は当書を読んで「無駄な時間を過ごした」と思う人が減るといいなと思っているので言ってしまうが、死刑について何かを論じている箇所はこの本の中には一切ないので、そういったものを期待する人は手に取らなくて良い。

ついでにもうひとつファーストインプレッションを述べておくと、"自由否定論"という言葉選びに違和感を覚えた。よくある表現でいえば決定論と呼ばれることはままあるし、実際この本の中でも同じものを指して決定論という言葉が使われているのだが、少なくとも僕はそれらを指して自由否定論と表現している文章を寡聞にして知らない。あまり聞かない表現をするにしても、僕ならば自由意志否定論とか、責任否定論などといった書き方をすると思う。
ここに対して、一般にポジティブなものとされている"自由"を"否定"する論と呼ぶことで読者の素朴な悪感情を誘おうという、姑息な印象操作を試みているような意図を感じたことも、当書への期待を下げる要因のひとつになった。

"おわりに"に対しては、実は興味を唆られた。この本が行っている議論というのは「第一に《自由な選択はない》と主張することは矛盾を含む。第二に《責任は虚構だ》と述べることは必ず何かしらの自家撞着を生む。」という部分に集約されていると思うが、このたかだか60文字の文章だけで言わんとしていることはおおよそ想像がついてしまう上に、もし想像した通りの話運びをしているのだとしたら、250pもある本にする内容としてはあまりに薄く幼稚すぎるのではないかと思い、"そうではないとしたら"一体どのような話が展開されているのかと少し気になってしまったので、この本を借りることにした。

 

しかし結果を聞いて驚くなかれ、この本の中で綴られている筆者、及び筆者が主に参考にしたとされるピーター・ストローソン氏の主張・考え方というのは「今の世の中では人が何か悪いことをした人に対して罰を与えようとする営みはごく一般的なものですよね」という、あまりにも素朴すぎる現状確認にすぎない。
また、事実確認といえども極めて精緻に行われ、読者が意識できていなかった新たな認識をもたらすようなものであれば意義もあろうが、当書は『人間の生の一般的なフレームワーク/枠組み/形式』なるキーワードを使って、ただ読者の共感のみを頼りに話を展開する。
これが何を意味するかといえば、すなわちこの本の主張に納得するためには、読者の中にそれに共感しうるだけの同じような実感がなくてはならないということであり、裏を返せばこの本を読んで"新たな知見"を得るということはまず不可能であるということだ。
人を責めたり罰したりすることを無意味なことだとする主張に対して反駁することを"本書の目的"として据えながら、筆者と異なる意見を持つ読者を説得し得るような材料は250pを通して全くと言っていいほど提示されない。そのような日常感覚に訴えるだけの文章ならば僕でも書ける。
もっとも何か書くとしても「我思う、故に我あり」とか積極的虚無主義とか、そういう一言で済んでしまうだろう。

 

そして説得力がないだけに留まらず、他人の主張に対し矛盾を指摘していながら、本人の主張も大きな矛盾をはらんでいるように見える。
筆者の論理展開を僕の言葉で要約すると、大雑把には以下のようになるだろうか。

 

「(ウェグナーや小坂井は)人間には自由な選択やそれに伴う責任などというものは存在しないと主張するが、彼らがそういった文章を書くなどという形で"主張をしている"、あるいは"ものを考えている"という時点で、主体が自らの意志で行為するという前提に立っていることを認めざるを得ない」

 

……理解できただろうか? 筆者は更にこう続ける。

 

「それは、人が人に対して罰を与えようとする営みは"人間の生の一般的なフレームワーク"に属するからであり、このフレームワークからは逃れることができない。なぜならそれが人間にとって"自然なこと"であり、そうなるようにできているからである。
ゆえに、刑罰という人間社会の制度を廃止するか否かということは語ることができるが、人間生活における罰一般について無意味だからやめるべきだなどと議論するのはナンセンスである」

 

もう一度訊く、理解できただろうか???

筆者は、筆者とストローソン氏の少なくとも2人が「人が人を罰するのは疑う余地もない自然なことだ」と思った……ということのみを根拠に、"人間の生の一般的なフレームワーク"という用語をでっちあげ、人が自由意志によって行為するという認識や人が人を罰するという行為を、是非を語ることができないいわば"神域"として扱うと宣言している。
そう、勝手に宣言しているだけ。こちらを納得させようという気はまるっきり感じられない。

面白いことに、この話をするために「学生時代に理系だった私は(例えばラプラスの悪魔に代表されるような)決定論的世界観に説得力を感じる一方で、自らの行為は自らの意志で決定しているという素朴な直観との間に葛藤を覚えていた。しかしそういった苦悩は自分でもよく分からないうちに消え、いつの間にか自信をもって《それでも人間は自由な選択主体だ》と言えるようになった」という筆者自身の体験談が挟まる。

 

2つに分割して要約したが、ひとつずつツッコミどころがある。
まずウェグナーや小坂井の行為に対して、自由意志や責任を勝手に見出しているのは明らかに筆者であって、彼ら自身ではないという点。
ここを指摘するためには筆者が混同しているいくつかの概念について腑分けをしなくてはいけない。まず取り上げるべきは、決定論的世界観は決していま"行為"と呼ばれている現象を否定しない。

何故なら論点になっているのは「行為(と呼ばれるもの)が何によって生じているか」であって、「行為が生じるか否か」では全くないからだ。決定論的世界観においても、思考や主張という行為は存在する。

自由意志や責任を虚構と切り捨てた上で人間が生きる世界観というのは、ただ自然現象が起こるようなイメージではなく、野生動物が生きてうごめいているようなイメージの方がより近い。現在の人間のパースペクティブでは動物に対しても行為主体であるかのような見方をすることがあるが、この本の中でも少し触れられているように行為主体ではないと捉えることも可能なはずで、その時に起こる認識の変化をそのまま人間に適応すればよいだけだ。

猫が猫じゃらしにじゃれ、昼寝をし、時に虫を殺し、肉を食べる。だがそれらは猫が「そうしよう」という確固たる意志のもとに行為しているというよりは、胡乱に、あるいは自然に、ちらつく虫といった外部の環境や、空腹という自身の内的状況などに対し、反射や反応を繰り返しているに過ぎない。

 

人間の行為もそれと同じだ。例えば今この文章を"書いている"僕自身が、そういう風に感じている。僕は自らの中にある確固たる意志によって文章を書いている、訳ではない。
記事の頭に「筆の向くまま」と書いたように、この本を読んだことに反応して"勝手に"湧き出てくる言葉を、僕はさながら書記のように書き留めているに過ぎない。
書記のように書き留めるという部分でさえ、それほど意識的に行っている訳でもない。英語で書けとでも言われればまた話も変わってくるが、僕は人並みにデジタル中毒なので、頭の中に浮かんだ言葉をタブレットに打ち込むことなど息をするようにできてしまう。呼吸することを"行為"として取り上げることは、深呼吸のような例外を除いてまずないだろう。それは"自然に"行っていることだからだ。

僕はなんとなく図書館へ入り、たまたま目に付いたからこの本を手に取り、他にすることもなかったから仕方なくつまらなそうなこの本を読み、その内容のバカバカしさに呆れやイライラという感情が誘発されているに過ぎない。自慢じゃないが僕ほど何も考えずに、ボケーッと流されるまま生活している人間もなかなかいない。仮面ライダーを見ているのだってよく言えば習慣、悪く言えば惰性だ。
当書の中でも引用されているリベットの実験が、被験者の自認によって成立していたように、僕自身がこれらの行動にさほど自らの意志というものの力動を感じていない以上、そこにいちいち自由意志による選択を仮定する必要はないだろう。

 

そして"行為"と呼ばれ得るものが意志や責任の不在とは無関係に存在できるのと同じく、"意味"と呼ばれ得る概念もまた自由意志による選択の有無とは心中しない。
ここで便宜上"意味"という言葉を簡単に、ある物体が何かへの反応として発した行為によって、他の物体が反応し何かしらの影響を及ぼすこと……だと定義する。
雷が落ちたことに反応して木が燃える、猫の攻撃で虫が死ぬ、誰かの書いた本を読んだ人間が感想を述べる……などといった現象は、ここでは意味があるということになる。
日常感覚に寄り添って説明をするなら、裏返してみるとよい。食事をしたのに腹が満たされない、ゲームをしたのに退屈がぬぐえない、本を書いたのに誰も読んでくれない……など、行為によって変化が起こらない(と感じる)場合は、その行為には意味がなかったということになる。

ウェグナーや小坂井が「人間には自由な選択やそれに伴う責任などというものは存在しないと主張している」からには、そう声高に主張せざるを得ない何かを見て、それに反応しているだけであると捉えても全く構わないはずである。今の僕がそうであるように。
そして彼らの発する音や文字が単なる物理的な現象である以上の意味を持つことは、必ずしもそれが自由意志などというものを介していることを意味しない。
我々が意味を持って言語を使用する際、ハッキリとした意志によっていることが一体どれだけの割合であるだろうか。例えば日常会話のほとんどは、後から思い出そうとしても全く記憶に残っていない。それだけその場のノリに任せてテキトーに喋っているからである。少なくともそういう場は容易に想定し得る。しかしそこで発されている音声が"意味を持たない物理現象"として理解されることはまずないだろう。
自らの言葉に意味があり、相手もまたその意味を感じ取ってくれると期待して言葉を発することは、必ずしも自由意志による選択を必要としない。
筆者は意志が存在することと意識が存在することを全くイコールの問題として扱っているきらいがあるが、そこはなんの論証もなしに自明として扱っていい部分ではないように思われる。自己意識もまた脳味噌の内部で起こっている物理現象や外部からの刺激に左右されているはずで、あらゆる環境と無縁に自らを由とする存在であるとは到底思えないからだ。

そこに自由意志による選択などというものが"必ずあるに違いない"と断じるのは、単純に筆者が結論を先取りしているからに他ならない。

 


2つ目のカッコへのツッコミどころは、まさにお手本のような自己矛盾に陥っているということ。
「人が人に対して罰を与えようとする営みは"人間の生の一般的なフレームワーク"に属するごくごく自然なことであり、日常に存在する全ての罰を取り除こうとすることは、どだい不可能なことである(※)」というここでの筆者の主張は、本全体の結論である「人間は自由意志によって選択できる主体であるので、責任という概念は無意味化しないし、罰するという行為そのものを取りやめるべきという論調もまかり通らない」と正面衝突する。

筆者が言うところの"自由否定論者"が「人が罪とされることを犯すのは、周りの環境などのどうしようもない何かのせいであって、当人の自由な選択によるものではない。故に罰を与える正当性もないのだ」と主張するのと全く同じように、筆者自身も「人が誰かを罰するという行為をするのは、人間の生の一般的なフレームワークというどうしようもない何かのせいであって、当人の自由な選択でどうこうできるものではない。故に責められる筋合いはない」というロジックを利用している。
これが矛盾でなくて、自家撞着でなくてなんなのか。

 

 

筆者が本気で人間の意志は選択において自由を有すると信じているならば、導き出される結論は「その気になれば罰は廃止できるので、そうすべきであるか活発に議論すべし」でなければならないはずなのだ。
つまり筆者も述べていたように、真に語るべきはまさに"赦し"の問題でしかありえない。

そのような強い意志も持たないまま、"自分でもよく分からない"うちに得た「人間は自由な選択主体であり、罰は廃止すべきではない気がする」という極めてふわふわとした直観に従い、結論ありきで中途半端な論を組んで生み出されたのが、矛盾を含みつつも、ただ(意志の弱い)読者がなんとなくその気になるように同じようなことを繰り返し繰り返し連呼するだけのプロパガンダのようなこの本なのだろう。

 

僕のような無知蒙昧の輩をしてここまでハッキリと矛盾が見えるというのは、本当に呆れるほかない。京大卒だろうがなんだろうが現に目の前にある本がしょうもないことしか言ってないんだから仕方ない。
この記事は筆者を"責めようとしている"訳ではない。なぜなら"できが悪い"ことは別に罪じゃない、故に責める謂れもない。自由意志という観点に立ったとしても、名前を出している以上、自らの名誉に対する相応のリスクは無視できないし、世間に対する悪意をもってわざとデタラメな本を出版するというのは考えにくい。つまり過失である。
僕は、基本的に過失は責めるべきではないと思っている。
だからあくまで、この本を読んで感じ想ったことをただ述べ説明しただけである。
時間を無駄にしたくないから読まないというのもひとつの手だし、そんなにデタラメなら逆に気になるから読んでみようというのもまた一興だろう。まぁご自由に。

 

 

※他の要約箇所と違い、ここはある程度短い区間で抜粋することができるので、参考までに原文を載せておく。筆者は終始このような調子だ……。

「たしかに刑罰という制度にかんしては《廃止するか否か》のオプションが存在するが、〈罰すること〉一般についてはそうではない。なぜならそれは人間の「自然な」あり方の一部だからである。より正確に言えば、《一方的に他人を害したひとを不問にはできない》といういわば「応報的な」関心は人間の生の一般的な枠組みの一部をなす、ということだ。これはじっさいにそうである。具体的には、他人のものを盗んだひとにたいしては、一般に、みんな何かしらの次元で罰する(例えば、グループから排除したり、親密な関わり合いから疎外して距離をとったりなど)。逆から言えば、不正を犯したひとにたいしていかなるネガティブなリアクションもとらない社会は、可能なあり方の社会ではない(そんな社会では「不正」という概念すら無意味なものになる!)。こうした意味において〈不正を犯したひとを罰すること〉は私たちにとって「自然な」ことなのである。」
216,217p