やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として

「もはやこれは仮面ライダーじゃない」
そんな声を毎年多く聞く。では仮面ライダーであるとは何なのかと問うたとき、仮面ライダーの名を冠する者すべてと過不足なく一致する定義を答えられる人はなかなかいない。

仮面を被り、バイクに乗る。その簡単な2項ですら、少なくとも劇中に描かれる限りでは守らないキャラクター達がいる。
ドライブが乗るのは主だって車であるし、RIDEを日本語の"乗る"と解釈しても、近年ではそもそも"乗り物"を持たない者もいる。直近だとバルカンやバルキリー……はかろうじて変身前に黒いバンに乗っていたが、滅亡迅雷の2人は現状、迅がゼロワンに馬乗りになっていたくらいである。
いわゆる複眼,触覚,Oシグナル,クラッシャーなどの外見的な特徴も、ひとつも持たないものこそなかなかいないが、たったひとつ満たしていればそれで良いのかと思う人も多いだろう。
改造人間であるか否かという点も、放送コードか何かによって守られていない。

現在ある程度の説得力をもって世間に受け入れられているのは、
・同族争い,親殺し,自己否定の3つを満たすこと
・悪の力を善に転用すること(敵と同じ力を使う)
・人間の自由のために戦うこと
くらいのものである。

以上の現実を踏まえた上で、「仮面ライダーの定義」を打ち立てることについて考えていくというのが本記事の主題だ。

 

目次

 

 

 定義とは何か

まずはここを確認する必要がある。言葉の定義というものは、決して客観的に存在するものではない。
定義とは、コミュニケーションをはかる際に誤解が生まれないよう、ある言葉から抱くイメージをひとつに統一しようという目的のもとに、多くの人が参考にできる拠り所を設けようとする行為である。
すなわち、その目的を共有できない人とは話がそもそも噛み合わないこととなる。
そして大前提として、「仮面ライダーとは何か」を考える際に参考となる大きな軸のひとつは、いわゆる"公式"の見解であることも改めて共有しておきたい。
多くの人がその"公式"の言うことにある程度の権威を感じていることは、彼らの持つ影響力というかたちで現れている。我々が受け入れるから彼らは影響力を持ち、その影響力がまた権威となって更に多くの人に受け入れられるのだ。
政治と同じく、公式の持つ権威は一人ひとりに受け入れられているということに基づき、逆に多くに受け入れられているものは公式でなくとも同等に扱う。
「悪の力を善に転用すること(つまり仮面ライダーは善でなければならない)」という定義は公式の言う"仮面ライダー"の多く、いわゆるダークライダーやネガライダーを振り落としてしまうが、僕の見る限りおいてはそこそこ支持を得ているので併記した。
個人としての僕はこれを支持しないが、「受け入れられている」という事実は受け入れているつもりでいる。
どんなに正しそうに見えても、多くの人に支持され共有されなければ「他者と誤解の少ないコミュニケーションをとる」という定義の目的を達成させることは難しいからだ。
(参考:トランス女性(MTF)は女風呂に入れる?/性別とは一体何か)

 


 "仮面ライダー"とは何か

いくつかの平成ライダー作品においては、仮面ライダーという呼称は劇中では使用されない(クウガ,アギトなど)か、出処が不明瞭なまま既知のこととして扱われる(龍騎,剣)。
対して『W』では風都市民が、『ドライブ』ではブレンが、それぞれ"仮面ライダー"という呼称を使い始めたのだと明言されている。
前者はそれでもぼやかされているからなんとか納得できるが、後者の「仮面の……ライダーだ! 仮面ライダーに警戒せよ!」というあのシーンには、強烈な違和感を覚える。
何故あのプロトドライブを見て"わざわざ"、仮面とライダーというその2つの要素を、その表現で、その順番で並べたのか。この疑問が出てくるのは、僕が視聴者という立場にいるからというだけではなかろう。むしろ視聴者でなく仮面ライダーという単語を知らない者こそ、抱いて然るべき疑問だと思われる。
ブレンがあの時あの場所で思い浮かぶ言葉は、それこそマスクドライダーでも、アーマードライダーでも、メットライダーでも覆面ライダーでも、なんでも良かったはずなのだ。にも関わらず(他作品と)示し合わせたように"仮面ライダー"になることに、僕は違和感を禁じ得ない。
市民が呼び始めたというのもブレンが名付けたというのも、どちらも「何故劇中の戦士が仮面ライダーと呼ばれるのか」に対する説明としての機能を持っているが、それは少なくとも僕の「何故"仮面"と"ライダー"の2要素を強調して呼ばれているのか」に対するアンサーにはならなかった。
僕はグローバルフリーズのスピンオフは見てないのでなんとも言えないが、そこではそんなにも"仮面"と"ライダー"を名前に付けたくなるような活躍が描かれているのだろうか?
仮面を強調するならば素面の存在がチラついていなければおかしくて、そうでなければ元よりそういうデザインの機械かもしれない。それでいくとダブルは正体を隠しているはずなので、変身体と別の姿(面)があるという発想を抱く理由が見当たらない。顔が見えない程度に変身するところだけたまたま目撃されたのだというロジックも組めるが、結局実際のところ「仮面ライダーと呼ばれる」という結論ありきなことに変わりはない。
仮面ライダーであって悪い理由はないが、仮面ライダーである必然性もまた、ないのだ。


では、平成ライダーが"仮面ライダー"と呼ばれるのは「『仮面ライダー』から続くシリーズであるから」で一旦片付けるとして、初代『仮面ライダー』まで遡って、「何故"仮面ライダー"なのか」という疑問の答えを探してみるとどうだろうか。
結論から言えば、見つからない。
開幕早々、画面上に映ったキャラクターに『仮面ライダー』というタイトルが重ねられることで、また主題歌やナレーションを通じて視聴者に対しては問答無用で示され、劇中内では本郷変身体=仮面ライダーであるということは、どうやらほぼ自明のこととして扱われている。
2話で初めて、バイクも何も関係ないのに唐突に「ライダー投げ」という技名らしきものを叫び、3話にて戦闘員がこれまた唐突に「仮面ライダーだ!」と呼ぶ。
味方サイドで自覚的に呼ばれるのは4話であり、少年が自分を助けた"あのお兄ちゃん"は誰かと問うたところ、「あれは仮面ライダー」だと説明される。
漫画版にしても、変身した本郷猛が自分から名乗るというだけで、唐突なことにそう変わりはない。
本郷猛が仮面ライダーと呼ばれるに相応しいかどうか、みたいな段取りは一切なく、なんなら流れとか雰囲気といったもので呼ばれ始める。

劇中で仮面ライダーと名付けられるのは現実世界でそう名付けられたからかもしれないが、更にそこへ「何故」を突きつけることもできる。仮面を名前にチョイスしたのはペルソナをテーマにするためかもしれないが、では何故ペルソナの要素を入れようと思ったのか。何故あのようなデザインになったのか。何故石ノ森氏に依頼されたのか。何故企画されたのか……。
このように、あることを説明するために使った事柄についての更なる説明を求めていくと、無限後退と言われる状態に陥る。
"根拠"とは言葉の通り根っこであり、ある事柄が成立するための前提条件である。無限後退している限りはいずれの前提も無根拠なものとなり、正当性(拠り所)を失ってしまう。


いちゃもんを付けて、否定したい訳では決してない。
ただ、仮面ライダー達が"仮面ライダー"という文字列で表されることに対する明快な"根拠"は、少なくとも劇中では示されていないということは、ひとつの事実として受け止めなければならない。
言語学ではこのようなことを言語の恣意性と呼び、そもそもそこに根拠など有り得ないとしている。

 

 


 意味の逆流現象

前項では「何故」をキーワードにそのルーツを辿ろうと試みたが、失敗に終わった。
ここでは「何故かはよく分からないが仮面ライダーと呼ばれている」という事実を受け入れた上で、それがどのような意味を持つのか考えていくこととする。

仮面もライダーも、どちらも本郷猛変身体という存在を記述するために、その所有物(マスクとバイク)を利用していることが分かる。
"仮面ライダー"というのは、「本郷猛の仮面とバイク」という認識から見て「仮面を被ってバイクに乗った存在(本郷猛)」という認識に主従関係が逆転しているのだ。
これは、世間的にショッカーという組織が「仮面ライダーの敵」と認識されていることと似ている。
ある集合の中の一部が、全体の意味に影響してしまうのだ。


仮面ライダー関連で似たような事例をもう2つ挙げよう。
『ディケイド』における小野寺クウガ。彼が地の石の力によって変身するライジングアルティメットというフォームがあり、それに対して「ライジングフォームはアルティメットの力が漏れ出た形態なので、"ライジングアルティメット"というものは有り得ない」という意見がある。
これはたまたまクウガがアルティメットの力によって力がRiseしている様子をライジングマイティなどと名付けただけであるにも関わらず、受け取り手が勝手にRisingという言葉そのものに「アルティメットによる」という意味を付加させてしまったことによる混乱である。矛盾があるとすれば、更に上昇する余地があるのならそれは"究極"ではなかったのではないか、という部分だろう。まぁそれも「名付けた者が究極だと思った(けど違ったらしい)」で済む話だが。

もうひとつは『フォーゼ』における如月弦太朗。「主人公の髪型がリーゼント」というだけで、抗議の声が殺到したそうである。
あの髪型にすることが直接的な"悪行"ではないはずだが、リーゼントヘアで不良行為をした誰かがいたせいで、髪型そのものに"悪い"という意味が付加されてしまったのだろう。
学校の規則を破ることはよいことではないが、そもそも規則としてあの髪型を禁止する時点で既にその意味の逆流が起こっている。或いは「何故」の通じない、よりプリミティブな不快感に根ざしているか。

このような現象は、我々のそばで日常的に起こっている。

 

 

 大自然が遣わした戦士

"定義"というのは、厳密には対象となる概念と過不足なく一致する必要があるので、これは定義とは少し違う話なのだが、僕の中での"仮面ライダーのイメージ"というのは、「たくさんいれば、色んなやつが現れる」という言葉で表現される。
ショッカーが自らの意のままに動く怪人たちをたくさんつくっていれば、いずれ一人や二人くらい意のままに動かない者が現れる……それが"自然"なことである、という観念。
これを「"仮面ライダー"と呼ばれる者」の定義にしようとすると、例えば本郷を逃がすことに協力した緑川博士の存在も含まれてしまうが、彼に仮面ライダーの名は冠されていないので、矛盾してしまう。

ショッカー怪人なのにショッカーに従わないだとか、仮面ライダーなのに悪人だとか、リーゼントヘアなのに悪いことをしないだとか、ショッカーが脳改造前に本郷を目覚めさせるだとか、実験のためとはいえ本郷に風力エネルギーを与えてしまうだとか、そう言ったことに対して我々が感じるある種の"不自然さ"や"おかしさ"。
しかしどれだけおかしい、有り得ないと思っても、実際に起こってしまっている以上、人間の認識には反していても、この自然世界のルールには反していない。すなわち"自然"なことなのだ。
この文脈でのより大きな"自然"のことを、人間が感じるそれと区別するために、ここでは"大自然"という言葉を使いたい。

 

実際の現象を前にしては、理論的に有り得ないだとか定義に反しているだとかそういったものは意味をなさない。事実こそがすべてであり、大自然の前では我々人間の理屈は常に泣き寝入りをするしかない。
一度雨が降ってしまえば、いくらその日の降水確率が0%でおかしいと感じても、降らなかったことにはできない。
うちの近くのスーパーでは、買い物の際に3円払うと"ゴミ袋"と書かれた袋を渡される。買ったばかりのもの、況してや食料品をその中に入れて持ち帰ることに僕は些かの抵抗を覚えるのだが、勿論"ゴミ袋"と書いてある袋に入れたからと言って、商品がゴミ(もう使えないもの)になる訳ではない。レジ袋として使えばゴミ袋と書いてあろうとも本質的にはレジ袋足り得る。
天気予報が外れることもあれば、ゴミ袋が想定外の使われ方をすることもある。

複眼(たくさんの目)に触角(アンテナ)、そしてOシグナル(第三の目)と、仮面ライダーの記号は「周りの状況を察知する」能力に長けているイメージがある。目は言わずもがな周囲の風景を、触角は温度や音,匂いなどを、第三の目はそれらを超越した直観や霊的感覚などを司り、ともかく全てに共通するのは"探る"のが役割だということ。ついでに言えばマフラーも、風の有無がひと目でわかる。
だから特に近年の仮面ライダーは、流行を取り入れ周囲に合わせ、得てして目の前にある現実を"受け入れること"がテーマ的にピックアップされることが多いのだと思う。

後になって、顔が特徴的なのもその周辺に情報の受信部が多いことも当たり前であって、わざわざ取り上げるようなことでもなかったかなとも思ったが、ご愛嬌。

 

"仮面ライダー"という新しく作られた概念は、何故かもどういう意味かも判然としないままに、本郷猛変身体を指して使われ始めた。
そしていつしか変身者が一文字隼人に変わっても、悪人に変わっても、バイクに乗らずとも続けて使われている。
ショッカー怪人がたくさんいればショッカーに歯向かう仮面ライダーが生まれてくるように、仮面ライダーも規模が大きくなれば色んなやつが生まれてくる。

何事も「もはやこれは〜ではない」と言いたくなる例外的存在は出てき得る。それが"大自然"の掟なのだ。

(参考:大自然がつかわした戦士『漫画 仮面ライダー』 感想)

 

 

 世界の破壊

ショッカー怪人だからと言ってショッカーに与するとも限らないし、仮面ライダーだからと言って正義の味方とも限らない。
改造人間という設定は、人間の体すら究極的には言葉と同じく、交換可能な"仮面"に過ぎないということを表している。
記号と、それによって表される意味。
言語はもちろん、それ以外のリーゼントという髪型や我々の顔のような視覚的な情報、聞こえてくる聴覚情報なども、すべて"記号"に過ぎない。
仮面ライダーのデザインは、どう見ても設定通りの強化された肉体というよりは服なのだが、"改造人間バッタ男"がショッカーの技術で複製可能なのと同様に、容易に取り替えられる衣服もまた人の外見を規定する記号のひとつである。
現代で言うところの"コスプレ"の延長線上に、なりすまし(擬態)はある。
実際、既に整形技術はかなり普及しており、かわいいだとか美しいだとかいう基準に合わせて顔を作り変えた結果、多様性がなくなり「皆同じような顔」になっているというような話も耳にする。
"そっくりさん"はつくれる時代に突入しつつあるのだ。

また俳優の藤岡弘、さんの事故の弊害であるとはいえ、中盤に本郷猛の過去の映像が使い回され、声を別の方が吹き替えていた時期がある。
これも結果的にだが、本郷猛だからと言ってあの声だとは限らないという、声の交換可能性を示す事柄となっている。
というか桜島1号とか新1号とかの登場回も見てみたが、声と同じく見た目が変わったことに対する説明らしきものは一切見当たらなかった。
だがそれらも全部「改造人間だから」で受け入れられてしまうのは、偶然というよりはこの設定の懐の深さを表していると言えよう。
すなわち、"仮面ライダー"の真髄のひとつは、この"交換可能性"という部分にあるのだ。

(参考:仮面ライダーディケイド暫定的まとめ)

 

インターネットが普及し、誰もが簡単に仮面を被ることができるようになった。
ゼロワンの感想にて詳しめに話したが、ゲームプレイワーキングと言って、自覚的にはただゲームをしているだけでその入力が何らかの仕事に変換され、働いているのと同じ成果を得られるようになるシステムというのも考案されつつある。これもまた、見えている世界と実際に意味する世界を乖離させるベクトルの力である。
もはや見た目も声も名前も物事の本質と直結せず、そもそも本質……攻殻機動隊で言うところのゴースト(代替不可能なもの)などあるのかという疑念に駆られるようになる。
だが、それは悪い面ばかりではない。何者でもなくなった我々は、同時に何者にもなれるようになったのだ。
白倉さんによれば仮面ライダーは自らの親を否定するというが、その意味では作品にしばしば登場する"おやっさん"という存在は、言わば親代わりと言える。
加賀美やじいやたちにとって、本来何の関係もないスコルピオワームが神代剣になり得るように、誰もが誰かに擬態できる。
ゴミ袋をレジ袋として活用することも当然できる。

従来信じられていた必然的な繋がりが破壊され記号と意味が分離した結果、「子供たちは仮面ライダーになれる」のだ。
(参考:"純粋"と呼ばれる子供はサンタや仮面ライダーの実在を信じているのか?)

 


 自らを由とする

記号と意味の繋がりが断ち切られ、破壊された世界では、存在はその背景や根拠,ルーツを失う。

人はそういった後ろ盾を持たない者に対して厳しい面がある。「ジクウドライバーはどこから来たのか」「ギンガって一体何だったのか(何年のミライダーで変身者は誰なのか)」などという疑問はいい例である。ビルドドライバーは、エボルドライバーを参考に葛城親子がつくった。だが、そのアレンジの発想の元や、そもそものエボルドライバーはどこから? と言った"由来の由来"、すなわち祖父母にあたる疑問は、目を向けられないことが多い。なんなら仮面ライダーの力の源について「現代の科学では説明できない不思議なパワーなのだ」という説明する気がない説明でも、何も言われないのと比べればそこそこ落ち着くだろう。

これを端的に表しているのが『龍騎』だ。
「映画は本編に繋がるループのひとつである」という言説は、それだけでは説明になっていない。何故ならタイムベントで時間を巻き戻す当事者である士郎が死んでいるので、単純には繋がり得ない。もちろん、他の誰かが神崎の研究資料を見てやっただとか、それなりに理屈を通して繋げることは不可能ではないが、上記の説明だけで納得している人は明らかにそこまで考えていないだろう。

ジオウ同様に説明不足も甚だしい電王が成立しているのは、例えば「教養の差だ」みたいな"説明してる風"のセリフがあるからだろう。
我々が抱く「何故?」とは、その程度の近視眼的で適当なものなのである。
親世代が無根拠であることを容認されるのならば、子世代が無根拠であることも理屈としては大差ない。


要するに、エボルドライバーの出自が気にならないのにビルドドライバーやジクウドライバーの出自だけを気にするのはナンセンスだ、という話。エボルドライバーの出自が宇宙のどこかの知性体だとするなら、その知性体のルーツも探らなければならない。これは先ほど言った無限後退である。
無限後退をしないのであれば、我々はいつか、背景を持たず無根拠で、他者との関係によって記述されない"孤高の存在"を受け入れねばならない。実際にそうであるかは関係なく、我々の認知の限界として"ナマの事実"は現れてくる。もしくは循環するか。

人は自分のルーツを求めて宗教による"説明"をしようとする。
だが無宗教の人が存在するように、また人をつくった神のルーツ(のルーツ)が語られないように、根拠など分からずとも存在できてしまうのが実情である。


従来は「自分は男だから力が強い」という文章が意味をなしたが、男だからと言って力が強いとは限らないことが分かると、男であることは根拠として機能しなくなる。
そこにあるのはただ「自分は力が強い」という事実のみである。
これは、"それまでの定義からの自由"を意味する。
定義がもたらす「男である→力が強い」「仮面ライダーである→正義の味方」「すずきやまとである→葛葉紘汰ではない」などの不自由から解放され、すずきやまとであった背景をかなぐり捨て葛葉紘汰になることができる。
これこそ、世界の破壊がもたらす恩恵である。

僕のハンドルネームである"やんま"は、由来としては所謂リアルにて友人にそう呼ばれていることが挙げられるし、更にその理由を求めると例えば眼鏡をかけていることだったり本名とも少しかかっていたりということになってくるのだろうが、そんな背景はお構いなしにネット上では"やんま"として、なんなら"やんまヘボ"として定着しつつある。
そう、例え一切根拠などなくても、名乗ること/呼ばれることによって名前というのは"定着"するものなのだ。


先程からキーワードをちょろちょろ出している『ディケイド』を絡めて説明するならば、士が世界によって役を与えられることを"役者"に見立てたとき、同じ現象が起こっていることが分かるだろう。
井上正大さんは門矢士に変身する。「門矢士として生きてきた背景」を当初の彼は持っていないが、撮影が始まれば門矢士になりすます。
しかし背景を持たないからと言ってその存在(井上氏演じる門矢士)が成立しないとか価値がないかと言えば、そうはならない。彼の声、表情、身のこなし……その一挙手一投足が"門矢士"として新たな価値を生み出し、定着していく。
『ディケイド』を好きじゃない人も自分の好きなキャラクターに置き換えて見れば共感できるだろう。仮面ライダーシリーズにおいてノンフィクションだった作品というのは現状ない。
背景の破壊というものを自覚的に扱った作品として、もうひとつ『電王』がある。味方側のイマジンズはルーツである"カイの未来"がなくなったことによって消えるはずだったが、そんな根拠などなくとも「いるものはいる」ということを示した。同時に良太郎のイメージを借りた存在でもあるが、後々良太郎がいなくても登場したり変身できたりするようになったのも、その傍証であろう。良太郎に両親がいないのもそれを思わせる。

 

悪の仮面ライダーや暴走するアナザーアギト(アギト)の存在によって、正義の仮面ライダーや木野アギトの名誉が脅かされるという意見がある。
だがしかし、"仮面ライダー"の称号という文字列や、アナザーアギトのような見てくれひとつにすがらなければ瓦解してしまうほど、彼らという概念は弱いものなのか。その個体が持つ要素の中からそれだけを抽出して、あとは"ないも同然"にしてしまうのか。
それらひとつひとつは所詮借り物の記号による一部分に過ぎない。例えばクウガのガワにも小野寺が出て来る前から先代という別の所有者がいるし、アギトの力もまた他の変身者が多数いるものであり、翔一と同型のアギトが存在し得る以上、個体差の問題として木野のものとよく似ているか全く同型のアギトが生まれる可能性がないと言い切る根拠はない。木野薫という名前にしたって、それほど珍しい訳でもないし、同じく木野という苗字の人間が悪事を働く可能性は十分にある。だがだからといって「木野薫に失礼」という立場からの批判はナンセンスだろう。決してこれらは専有物ではない。

では木野薫という概念とは何なのかをきちんと説明しようと考えると、"生き様"とでも言えるような網羅的なものでないといけない。
それをたった一言で表現しようとするならば、木野薫とは木野薫であり、仮面ライダーとは仮面ライダーである……という、トートロジーに落ち着くことだろう。

下の記事の"テーマ"という項で、ダークライダーの存在意義について詳しく書いてるのでそちらも是非。
(参考:仮面ライダーディケイド 6,7話「バトル裁判・龍騎ワールド/超トリックの真犯人」 感想)

 

先に用意された仮面ライダーという集合の"定義"に構成要素たる本郷猛たちが従うのではなく、その名を冠する者たちの生き様そのものが逆流し"仮面ライダー"という概念の意味をつくりあげていく。
それがこの"定着"という現象の意味するところだ。

名が体を表すのではなく、体が名を表す。
彼らに背景の有無は関係なく、仮面ライダーだから仮面ライダーなのだ。

そういう意味で、とにかく顔に「カメンライダー」と書いてあるから仮面ライダーであるというジオウの(言語学的な)スタンスは子供向けとしても至極真っ当と言える。

 

 

 

 仮面ライダーの敵

既存の定義にもあるように、仮面ライダーの敵はそのルーツである場合が多い。このことからも、仮面ライダーの無根拠性が顔を覗かせる。

敵組織の中でも最初の敵であるショッカーに注目すると、「ナチスドイツの残党」という点がひとつ挙げられる。
あいにく僕は社会科、とりわけ歴史を毛嫌いしているので詳しいことは知らないのだが、ショッカーとの類似性という視点から語る上で重要になるのは、やはりその優生学的な側面だろう。
改造手術によって動植物の特徴を移植し、強化された人間をつくる。そしてそれに適応できない者は(強制労働の末に)殺されてしまう。

ここに現れているのは、超人的な人間だけによる無駄のない世界にせんとする、息の詰まるような思想だ。
僕は発達障害を持っていて、最近は同じ障害者(身体精神など問わず)が集まる施設に通っているのだが、自分も含め、我々障害者が他人と関わりながら迷惑をかけずに生きていくことがなかなか難しいのは、悲しいかな事実ではある。
そういった負の面を日々感じている身からすると、「人類全体のことを考えたら障害者はいない方がよい」という意見を、無下に扱うことはできない。

障害者に限らずとも、例えば一部の犯罪者などは今でも実際そのような判断を下されて死刑となってしまっている。

健常者も他人事ではない。日常生活は問題なくおくれていても、人類全体というマクロな視点に立った時には、一挙一動がバタフライエフェクト的に損をもたらしている可能性はあり得る。例えば安くて質の悪い商品を妥協して買う判断は、技術の発展を遅らせている一因であると言えるかもしれない。より高く質の良いものに需要をもたらすためにはよりお金を稼ぐ必要があり、その為には自らもより質の高い生産をしなくてはならないというスパイラルに陥る。その先にあるのは、小さな幸せに満足することなど許されない世界だ。
(参考:エゴとエゴの均衡『映画 聲の形』 感想)

以前の記事にも書いたが、僕は人類に与えられた自由があるとすれば、それは「最善を尽くさない自由」だと思っている。
将来のことを考えたら何か身になることを勉強した方がいいと思いつつ、漫画を読んだりテレビを見る自由。もう少し痩せた方がいいと思いつつ、お菓子を食べる自由。選挙に行った方がいいと思いつつ、行かない自由……。

"正しいこと"という概念は、人の自由を奪う。僕は「自分の意見が正しい」と感じているとき、きちんと説明して伝われば、遅かれ早かれ全ての人が同じ考えになると信じている。この「全ての人が同じ考えになる」ことこそ、"世界征服"そのものである。

そしてそれはとりもなおさず、冒頭で示した定義という行為(ある言葉から抱くイメージをひとつに"統一"する)に繋がってくる。

 

それと敵対することから、「(誰かにとって)正しくなくてもよい」ということを示すのが、仮面ライダーであるとも言える。
ショッカー首領にとっては、全ての人間が改造され自分の意のままに動くことが"最善"なのだろう。だがそうでなくてもいい。例え自分に不利益をもたらすことであってもそれをする(利益をもたらすことをしない)自由、すなわち愚行権の許容である。
逆に仮面ライダーが次々と生まれるように、同時に敵組織も毎年生まれている。これが許されるのは、敵組織も仮面ライダーにとって正しくなくてよいということを認めなければならないという矛盾を孕むからだ。

この"矛盾"という言葉についても少し考えてみたい。
この熟語の由来は「どんな盾でも貫ける矛とどんな矛でも貫けない盾があったらどうなるのか」ということに対する違和感を表したものであるが、一度立ち止まって考えたとき、この矛盾という現象は、言葉の上でしか起こらないことが分かる。
この自然世界では、どちらかが勝つとか、確率的にどちらが勝つか決まるとか、対消滅するとか、何かしらの結果が必ず出る。
このようにきちんと結果が出たならばそれは矛盾とは言わないだろう。
すなわち、矛盾というのは何かしらの「人間の勘違い」に基づかなければ成立しない概念なのである。不自然なことなど、起こり得ない。

フィクションの設定についても同様のことが言える。
"設定"というのはあくまで現象に対する解釈に過ぎず、たまたま創作物ではそれを先行させることができるように錯覚してしまうだけ。
少なくとも今の僕は、既に起こってしまったことを前にして「有り得ない」などと言うのはナンセンスに感じるので、現象ありきで考えることにしている。指摘したからと言って撤回される訳でもないし。
「人間にとっておかしく見えること」など、大自然にとっては問題ではない。
自分のおかしいと思う基準(正しさ)を大自然に対して押し付けることは、できない。仮面ライダーはそれを体現する存在なのである。

 

 

 

 "仮面ライダー現象"/自然と自由の象徴として

長々と語ってきたが、一言でまとめるのならば「分かったような振りをして定義することによって仮面ライダーから自由を奪うこと自体が、仮面ライダーの理念に反している」ということになる。
人間はこうして短くまとめてもらわないと、脳の処理能力が追いつかなくてなかなか理解できない。書いてる僕本人でさえ全容をきちんと把握しているか怪しい。
だからいくつかの事実を"例外"として目をつむり、より簡単でキャッチーな理解をしようとする。
"仮面ライダー"とはそういった規格からはみ出るものが現れる"大自然の掟"そのものであり、現象の名前であると僕は捉えている。その名を冠するキャラクター達はあくまでその現象の代表として、象徴として、表舞台に立つだけであり、緑川博士やイマジンたちも"現象としての仮面ライダー"には含まれる、というのが持論である。


しかし、その人間の限界もまた自然なこと。
最初に挙げたいくつかの「仮面ライダーの定義」は、既にある程度定着している。定義というものはそのように人々の間でイメージが共有されなければ目的を果たさない。
ゴルドラとシルバラがいくつかの媒体で仮面ライダーの名を冠されたが現在あまり定着していないように、仮面ライダー足る資格というものがあるとするなら、それは人々に広く受け入れられるかどうかということになるのだろう。
そういった意味で、悪人を仮面ライダーとは認めないとする者が生まれるのも自然なことであるし、逆に認める者が生まれるのも自然なことだ。もちろん制作側があるキャラクターに仮面ライダーの名を付けようと思うこともその範疇であるし、そういった人たちが自由に議論を重ねることもまた、仮面ライダーという概念をつくりあげていく自然選択のひとつである。


現象としての仮面ライダーには、我々も含まれている。
我々もまた大自然に遣わされた存在として、自由に生きることができる。
仮面ライダーの定義を決めるのは、石ノ森先生や本郷猛、白倉さんや況して僕ではなく、その全員を含めた集合知としての大自然であろう。

 

 


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戦隊とウルトラマンに関してはほとんど知らないと言っても過言じゃないので、やるかやらないか、続くか続かないかは未定。

トクサツガガガ

 

仮面ライダー

―――大自然がつかわした戦士『漫画 仮面ライダー』 感想

―――"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として

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――

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―――ビルド感想一覧

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―――仮面ライダージオウ レジェンド編(1〜16話) まとめ感想

―――ジオウ感想一覧

――ゼロワン

―――ゼロワン感想一覧

――セイバー/聖刃

―――セイバー感想一覧

――ライドカメンズ

―――ライドカメンズ感想一覧

 

戦隊

――タイムレンジャー

――デカレンジャー

――シンケンジャー

――キョウリュウジャー

――ルパパト

――キラメイジャー

――ゼンカイジャー

 

ウルトラマンZ

 

まとめ感想

 各話感想を全部読むとか相当な暇がないとできないっていうか自分でも読みたくないんで(僕としては、自分が全話見返そうという時におまけとして同時進行で読むのを推奨したい)、1つの作品を通しての感想はこのカテゴリにいれます。映画や小説なんかも"1つ"と数える。後はクール毎の感想とかも一応ここ。僕の感想の要点となる記事とでも言おうか……これらがコアメダルで、各話感想とかはセルメダルって感じ。"毎日更新"の満足感を得たいが為に書いてるみたいなとこあるからね、各話感想は。

あ、各話感想というのは、数話単位でより具体的で細かな感想を箇条書きにしたもの。記事タイトルに何話とか書いてあるのがそれ。ライダーのカテゴリどれかに飛べばズラっと出てくるはず。ほぼ毎日、書き溜めたものを作品順にローテーションで(例:クウガ1話→アギト1話→龍騎1話……)公開していってます。

 

ライダー感想一覧

例えば"クウガカテゴリーを開くと、クウガの話が主ではないが少し触れているだけのものも含めた記事が、新しい順に表示されてしまう。それだと使い勝手が悪いということで、下の画像のように、本編、まとめ、映画、小説、Vシネマ、ディケイドやジオウなど、その作品に焦点を当てた記事を中心に見やすくまとめたのがこのカテゴリ。

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書籍

多分小説版仮面ライダーが主となるだろうけど、一般の小説やその他の本についても時々書く。後は、おすすめの本について話した記事なんかもこのカテゴリに入れる。

 

映画

こちらも主にはライダーの映画について書くことになると思う。ライダーが落ち着いたらいろいろ見ることになるんじゃないかな。以下にはそれ以外の記事を載せます。

―――三葉は宇宙人?『君の名は。』 感想

―――エゴとエゴの均衡『映画 聲の形』 感想

―――現実と妄想、フィクション。そして自分『ビューティフル・マインド』『Serial experiments lain』 感想

―――本物の月光に見惚れる『BECK(映画)』 感想

―――夢への寄り道と現実回帰『ラ・ラ・ランド』 感想

―――A Clockwork Organ『時計じかけのオレンジ』 感想

 

アニメ

ここについては考え中。もしかするともう更新しないかも。あ、アニメ映画はこのカテゴリに入るか。

ヘボット!

――ヘボット!感想一覧

進撃の巨人

ポケモン

 

ドラマ

昔見て気に入ってたドラマをいくつか見る予定。最近物語ってのが何なのかってことを考えてるので、「子供/大人向け」みたいなうるさい枠を付けられない普通の作品も見たい。

JIN-仁-

トクサツガガガ

LEGAL HIGH

 

玩具

その名の通り、玩具について話す記事のカテゴリ。いわゆるレビュー的なことをするときもあれば"遊び"について考えたりもするかもしれない。この辺はまぁ気分次第。

 

雑記

いつもはTwitterで色んなことをぼやいてるんだけど「記事にするほどの文量にはならないな」と埋もれていくツイートもある。そういったツイートを脈絡なく貼って残しておくのがこのカテゴリの記事。過去に書いた記事を補足するような内容だったり、記事にはしないような珍しい話だったりが読めます。

高橋悠也 作家論――非現実が象る現実の輪郭(エグゼイド,ゼロワン,ギーツ,ライドカメンズ)

※本記事は元々8月ごろに出す予定だったので、『ゼッツ』の開始と『ライドカメンズ』の終了については書くにあたって全く想定されていませんが、おそらく『ゼッツ』を読み解く上でも参考になる話はあるんじゃないかとは思います。

 

 『クウガ』から始まる平成・令和の仮面ライダーシリーズにおいて、高橋悠也は今やもっとも貢献度が高く、シリーズを語る上で避けては通れない脚本家の一人と言って差し支えない。
 サブライターや単発の映画での仕事も含めれば井上敏樹ほど多岐に渡って執筆している者はいないだろうが、氏と小林靖子に並び、本家テレビシリーズにおいて3作品に渡ってメインライターを努めたのが高橋悠也であり、そんな彼が現在進行形で手掛けているのが、昨年5月のリリースから舞台化も成功を収め、ますます発展を遂げているアプリゲーム『ライドカメンズ』だ。
 変身後にも素顔が見える挑戦的なデザインと、それを補ってあまりある仮面ライダーとしての長大で複雑な人間ドラマ……本稿ではそんな『ライドカメンズ』の世界を読み解くヒントを過去の3作品ほかに求め、高橋悠也がこれまで何を描き、どこへ向かおうとしているのかを検討していきたい。

 

変身――拒絶から受容へのプロセス(仮面ライダーエグゼイド)

 『エグゼイド』は、ゲームの力を使って人の命を救うドクターたちの戦いを描く物語で、性格的にも二面性を孕んだ多くのキャラクターが交錯する様を通じて、相反する2つのテーマをいかにして擦り合わせるかを描いた作品だ。

 平成シリーズにおいては、第1作目『クウガ』の敵であるグロンギが持つ「絶対に理解することができない行動原理」の象徴としてまず描かれたのが"ゲーム"の要素で、警察組織などが責任感の元に本意とは離れ仕方なく暴力を振るうこと≒仕事に対し、敵怪人が快楽を求めて自ら望んで暴力を振るうこと≒ゲームが、極めてネガティブなニュアンスを持つ概念として提示された。
 このことは単に「ゲーム感覚」という敵の動機への説明的な用例だけでなく、第26話での神崎のセリフ(最近、時々テレビを見ていて恐ろしくなってしまうんです。悩んだりなんかしなくていい。もっと面白いものをたくさん買って、面白い場所でお金を使って、何も考えずに生きよう。誰も彼もが、そう言ってるように聞こえてね)の中で、明確にコンピューターゲームやゲームセンターを含めたかたちで否定的に語られているように見える。更に神崎は最近の子供の物分かりの良さについても悲観的に話しており、それが暴力として発露されるのをよしとはしないまでも、自分たち大人の主張に対する適度な反抗や衝突を望んでいることが分かる。
 『クウガ』は物語上では"非暴力"をテーマに掲げながらも、視聴者である子供を闇雲に暴力から遠ざけ目隠しをする態度には懐疑的な視線を向け、むしろ徹底して痛みや恐怖を伴う暴力を真摯に描いた作品だが、これが額面的な"非暴力"よりも更に優先度の高いテーマとして、世界に対する"現実感"とでも言えるものが掲げられていたからであることは、作品全体のリアリティを志向したつくりからも窺えるだろう。
つまり『クウガ』に根ざしている根本的な対立構造は「暴力」VS「非暴力」ではなく「現実」VS「非現実」であり、人を"現実感"から隔離してしまうこと全般の提喩として、現実を模倣しただけの仮想的な世界のイメージで"ゲーム"の概念が導入されていると見ることができる。それが作中のレイヤーではゲーム感覚で動くグロンギを真剣な大人たちが倒すドラマとして、また作品外のレイヤーでは所詮は画面の中のフィクションと切って捨てる視聴者を制作陣の本気の作り込みで唸らせる試みとして、非現実性を徹底的に否定するかたちで明に暗に表現されることとなった。

 この点『エグゼイド』もゲームに対するそういった視線には自覚的であり、高橋悠也はインタビューで「報道番組などで「ゲームやアニメの影響で凶悪な事件を起こした」なんて話題になったり、ゲームをやりすぎて親に叱られたこともあるでしょうし、ゲームというのは娯楽でありながらも難しい立ち位置にあると思います。僕はゲームが大好きで否定したくはないので、ゲームへの関わり方についての問題提起もしたいと思っています」と語っている(※1)。

 

 ゲームが象徴するこのような現実逃避を高橋作品がどのように位置付けているかを考えるには、高橋悠也東映が送る演劇プロジェクト・TXT(テキスト)の第1弾『SLANG』が補助線となる。
 本作は『エグゼイド』を書き終え『ゼロワン』の発表を控えた彼が、夢の世界と殺人事件の裁判を舞台に、第三者に近い医者ではなく当事者となるいち個人の視点から、失われてしまった命、ひいては受け入れがたい現実とどのように向き合うかを描いている。
 主人公のバク/紡は、恋人の兄であるムネオ/櫂を意図しないかたちで死に追いやってしまった罪悪感から殺人事件の犯人として自首するも、法律は彼を裁くことができずに無罪となってしまう。
 彼は全てが自分の思い通りになる明晰夢の世界へと逃避し、自らの置かれた状況や湧き上がる感情を余すことなく表現できる"言葉"を探して葛藤するが、恋人のオネム/伊都からの心の吐露を受け、脳内にある既存の言葉には到底落とし込めるものではないことに気付き、夢の世界を終わらせて、おそらく現実の世界で小説家として、背負った十字架を受け入れるための新たな言葉を模索し紡いでいくことを選ぶ……というのが、作品の概ねの顛末である。分かりやすさのため少々自分が行間を補完したので、果たして本当にこのような言語化が適切かどうかはぜひ各々の目で作品を感じていただくとして、問題となるのは『SLANG』が夢をどう位置づけたかだ。

 はじめは平和な毎日を送っていたところから、突発的に殺人事件が起こりそれまでの日常が崩れていく……という単純な流れを本作は採用しておらず、TXTシリーズ第2弾『ID』でより顕著に現れる、同じ内容を何度も上演しつつも毎度微妙に異なった顔を見せる演劇という枠組みをメタ的に取り入れた円環構造をとる。
 冒頭の夢世界でのオネム/伊都とムネオ/櫂による報道番組では、既に現実世界で起こった事柄としてムネオ/櫂が殺害された事件について言及されており、視聴者の目線で体験した時系列が正しくないことが示唆されていると共に、殺害された本人が何食わぬ顔でその事件を報道しているという矛盾が生じているし、また夢の世界との対比でつい現実世界だと認識してしまいがちな裁判パートについても「ムネオ/櫂の幽霊が現れる」という無視できない非現実が混在している。
 すなわち死んだ当人であるはずのムネオ/櫂が現れるという点においてこの2つの世界は同列であり、裁判パートまで含めた『SLANG』内の出来事全てが、文字通り"台本という舞台"の上で繰り広げられるフィクション(非現実)であることが読み取れるのだ。
 これが何を意味するかと言えば、劇中でも「夢は無意識からのメッセージ」だと言及されているように、現実に起こった受け入れがたい事実を咀嚼するために、誰かが脳内で悲劇をシミュレーションしているということで、誰かとはバク/紡かもしれないし、彼と似た体験をしたレ厶/刑事、或いはヨチムジン/精神科医……はたまた劇中の誰でもない高次の何者かだと受け取ることもできる。
 人の意識が処理しきれずに無意識へと追いやった様々な事柄に対し、限定的かつ段階的に追体験することで意識の内へと統合するための補償の場としての"夢"の機能が、この作品では自覚的に再現されているのである。
 先程は話を一本化するために一旦「死んだ人間が現れるのは矛盾」という前提で進めたが、仮にそこに矛盾がなく、既に起こった事件ではなくこれから起こる(かもしれない)事件に備えるための正夢もしくは予知夢だと捉えた場合でも、同じことが言える。
 このことを劇中の展開になぞらえて再説明するなら、1.悪夢ブラザーズによる「ドッキリ」として人の死が描かれる。2.ヨチムジンによる「予言」として人の死が示唆される。3.実際にムネオ/櫂の死体が「事実」として発見される。……といったふうに段階を経て"死"が提示され、更にここに4.全てはフィクションである。という第四の壁まで加えて、この『SLANG』というひとつの夢を見ている主体が、ある日突然提示される「人の死」を受け入れるための防波堤として配置されている。そして恐らく、上演の数だけシミュレーションを重ねた後に、その誰かは現実を受け入れ本を閉じることができるのだろう。
 高橋悠也は夢-非現実-ゲームの概念を、現実と対立するものではなく、むしろそれを補完するために必要不可欠なものだと描いていることが分かる。

 

 この文脈において『貞子DX』は、夢-非現実-ゲームにまつわる以上の捉え方を更に広範囲に拡張させた作品として見ることが可能だ。
 見た者は死んでしまう呪いのビデオが現代に蘇り、死までの猶予が1週間から24時間に短縮された謎を追うかたちでストーリーは展開し、ネット上で自称占い師として活動している前田王司、人気霊媒師として活動しているKenshin、10年来の引きこもりで猫の頭をしたアバター越しに話しかけてくる感電ロイド、そこに主人公の一条文華も含めて、貞子よりも個性豊かかつ癖の強い人間たちが織りなすシュールな不協和音を楽しむ作品となっている。
 本作は一応ホラーというジャンルに位置付けられてはいるが、多数のレビューにもある通り殆ど怖くないのが特徴となっており、おそらくこれまでそういった作品に触れてこなかった層にもリーチすることを目的とした試みのひとつとして「ホラーの視聴を習慣化すること」をコロナになぞらえつつ描いている。
 作中の貞子は実質的に「感染者を無理やり健康にする病気」へと変異していて、ビデオを介して井戸から外に出る映像を繰り返し見せることでサブリミナル的に人を不健康な引きこもりから脱却させようとし、人を生かすことで己も生き残れるよう進化を遂げているのだ。
 この映画自体はさほど怖くないものの、「一歩踏み出してみよう」というテーマを映像作品が描くことによって、王司……ひいては『エグゼイド』の土居万次郎(ヒーローは遅れてやってくる……つまり僕だ!)のような、社会的な擦り合わせをせず一人で自意識だけを大きく成長させた"イタい"人間が外に出てくる現象そのものを「本当に怖いのは人間」という陳腐なフレーズの再解釈として提示していると見ることができるのが興味深い。
 ただし、そこに対してただ「怖いね」で済ませることなく、貞子が生き残れるよう変異したのと同様、また呪いのビデオを毎日見ることで怖さに"免疫"がつくのと同様、イタい人間は外に出た結果蔑まれたり逆に励まされたりして揉まれることで少しずつ社会性を獲得していき、社会の方もそういう人たちをたくさん見ることで少しずつ慣れて過度に拒絶や差別することを減らしていけばいい……という処方箋まで含めてきちんと提示しているのがこの作品の重要な点であり、はじめは距離感の近い王司との間に明確に壁をつくっていた文華も、恋人になるなどと言ったpHジャンプが起こる訳でもないままなぁなぁの距離での関係を続けていくし、文華の母に至っては旦那の姿をした幽霊に対しお茶を出して歓迎するほどの適応を見せたのが印象的だ。
 このような貞子の実質的な無害化と社会による受容は現実にも、やや悪く言えばチェーンメール的な行為を「やらない善よりやる偽善」の精神で浄化したアイス・バケツ・チャレンジのようなムーブメントや、それこそゲームというコンテンツの普及にあたって任天堂がDSやWiiのソフト開発で「健康」や「学習」といったポジティブなジャンルを積極的に取り込んでいったことなどを類似例として見ることができるし、『エグゼイド』においてもバグスターウイルスたちがワクチンをつくるために協力する存在へと変化したことがファイナルステージで描かれている。
 『SLANG』で描かれた「親しい人の死」に限らず、貞子という超常的な怨霊やウイルス、癖が強く受け入れがたい隣人など、現実にそびえ立つ問題の多くは究極的には、慣れによる"免疫"をつけることで克服することができるということを描いたのが『貞子DX』であり、そのためにやはり重要な役割を果たすのが夢やゲーム、そして映像作品などを含めた多種多様な"非現実"なのだ。


 『エグゼイド』の登場人物たちも、お世辞にもただの良い人とは言い難いキャラばかりだ。序盤から、永夢は飛彩を毛嫌いしているし、飛彩も永夢の存在を認めておらず、大我は自分以外の仮面ライダーから力を奪おうとし、貴利矢も嘘ばかりで何を考えているか分からない……しかしそのような軋轢こそが物語上の推進力となって、彼らの関係性をダイナミズムに富んだものにしていき、その射程は敵である黎斗やパラド、正宗までにも適用され、彼らの立ち位置は常に変わり続ける。

 ここではパラドを例にとって考えてみよう。彼は「楽しくゲームで遊びたいだけ」という最もグロンギに近い行動原理で動いているキャラクターだが、自分を遥かに上回る強敵クロノスの出現によって、彼の挙動は変化を見せる。
 それまでのパラドは「バグスター(ゲームキャラ)は人間に倒されるだけの存在ではない」「ひとつの生命体として生存をかけて戦う対等な存在」だと声高に主張していたが、彼は世界で初めて人間に感染したバグスターウイルスであり、あくまでも孤独だった永夢とゲームで遊ぶイマジナリーフレンドとして生まれたので元ネタとなるゲームキャラがおそらく存在せず、その言葉はまるで現実との接点を持たないAIが操る言語のように、どこか真実味に欠ける空虚なものであった。
 それがクロノスに一方的に命を狙われることで死に対する恐怖心が芽生え始め、第39話では永夢によって追い詰められ擬似的に死を体験することによって遂に、自らがゲームと称して命を奪ってきたことの重大さを自覚し懺悔することとなるのだが、なぜパラドがグロンギとは違いこのような和解の道を辿ることができたのかを考えると、『クウガ』と『エグゼイド』における「ゲーム」というものへの視線の向け方の違いが浮き彫りになるように思われる。


 先に引用した高橋悠也のインタビューと違い、『クウガ』という作品からは概念としてのゲームに対する共感的な態度というものを読み取ることは殆どできない。
番組の序盤で既に人間に近い生命体であることが発覚し、またゲゲルに失敗した者やそもそもゲゲルに参加することができない者は殺されてしまうという圧力の存在が示唆されているにも関わらず、グロンギに対しては人権の有無はもちろん、情状酌量や更生の余地について前向きに言及されることなどは決してなく、徹頭徹尾「殺すより他にないもの」として扱われる。なぜなら、ゲーム感覚で人を殺めることができるような存在だから。
 しかし『エグゼイド』はそこを逆手に取る。パラドはゲーム感覚だったからこそ、その生き方を捨て人類と共生の道を新たに歩み始めることができるのだ。
 これがもし宗教や哲学など、高度な思想的背景に基づく殺人だったのなら、それを否定することは相手がそれまで生きて思考し積み重ねてきた全てを否定することであり、一朝一夕にはいかないだろう。それこそ我々人類が直面し続けている課題であり、相互理解というものの難しさである。
 だがことがゲームなのであれば、本当に「ただのゲーム」であるならば、それを捨てるのはそう難しいことではないはずではないか。
 興味深いのは、パラドは「ゲームを楽しむ」という生き方の根本までを無理に変えたわけではないということで、彼は見方によってはただゲームの遊び方を変えたに過ぎない。永夢と対戦することから永夢と協力することへと、ゲームのルールを再設定した。そしてグロンギが本当にただ自身の愉悦のために人を殺しているのなら、同様にスポーツのように無害化した形で衝動を昇華する可能性がまったく閉ざされていたとは考えにくい。
 「中途半端」を何よりも嫌い、徹底的に究極を突き詰める姿勢を採用した結果、人類がリントと比べてよりグロンギに近い存在となってしまったことは作中でも自覚的に語られている通り、ある意味において『クウガ』は、敵キャラとして設定された対象を倒さなければ永遠に先へ進むことができないという従来的な「ゲームの論理」から抜け出せなかったのに対し、『エグゼイド』は遊び方の自由度が無限にも近く広がり、プレイヤーの判断次第で敵を倒さず仲間にすることでクリアすることもできるような、現代的に拡張されたゲー厶の類例として見ることが可能だろう。
 『クウガ』では「分かり合えない理由」であったはずのゲームを「分かり合える理由」へと大胆に読み替えた『エグゼイド』は、前者が泣きながらも叶えることはできず、未来を担う保育園の子供たちに象徴的に託すに留めた綺麗事を、16年越しによりポジティブなかたちで実現した作品として位置づけても良いのではないか。
 ゲームとはすなわち、疑似体験の場である。
 受け入れがたい事柄への免疫を付けたり、逆に知識としてしか知らなかったことを少しだけリアリティを持って捉えられるようになったりと、使い方次第では人間社会をより円滑にしうる可能性を秘めているし、そういった役割を担う"非現実"の存在を許容することの重要さを、言い換えるならば自身を柔軟に変身させていくための"あそび"を残すことの必要性を、ここに見出すことができる。

 

仮面――本物と偽物の狭間で(仮面ライダーゼロワン)

 ここまでは『エグゼイド』を中心に話を進めてきたが、現実にはバグスターのような「ゲーム感覚で殺戮されてきたことに対する意趣返しとして、ゲーム感覚で人類の殺戮を目論む存在」というのはなかなか想定しにくい。子供向けとして、俗に言われるようなゲームのやりすぎによる暴力性の誘発に対する教訓的な警鐘にはなるかもしれないものの、人種や異なる価値観を持つ集団の比喩として見るには、人間態を持たない個体も多くいるなどグロンギと比べても突飛さが強く見える。
 『ゼロワン』はAIを搭載した人型ロボット・ヒューマギアが普及した近未来を舞台にした作品であり、バグスターよりは人間に近い別種族として、ヒューマギアとの共存を描く物語だ。
 本作の敵である滅亡迅雷.netは、人間の悪意をラーニングしたとされる超AI・アークによって組織された人類を滅ぼすためのヒューマギアの集団だが、彼らは「戦争や環境破壊を繰り返す人類は滅ぶべき」というイデオロギーの元に活動している。これは「人を殺したい」「ゲームを楽しみたい」といった主体的な動機で動いていたグロンギやバグスターとはやや趣を異にするもので、このような明確な思想背景を持つ者に対しては、パラドと同じようにはなかなかいかない。
 アークや滅亡迅雷.netにとっては、早急に人類を滅ぼさなければいずれ地球上の全ての生物が絶滅するという危惧が根底にあり、自分たちヒューマギアの立ち位置も危ういと考えているので、生き残るためには人類を滅ぼすしかないと信じている。
 「やりたいこと(欲求)」は我慢することもできようが「やるべきこと(義務)」はやめる訳にはいかない。

 ただし『ゼロワン』の場合は、その義務の意味を正確に認識している者はさほど多くないことにも言及しなくてはならない。一般の怪人枠であるマギアはハッキングによって強制的に従わされているケースが多く、幹部である迅についても人類がどのようなことをしてきたのかについての具体的な知識は与えられておらず、ただ「滅ぼすべし」という目的意識だけが植え付けられている。大元のアークにしても同様で、天津によって人類の負の歴史を偏って教わった際に、人間自身が抱く人類への問題意識を真似ているに過ぎないという見方もできる。
 そういった意味では、ゼロワンの敵は大した背景を持たないバグスターとの中間に位置する敵であると言う方が適切のようにも思われる。
 しかし高橋悠也作品は、良くも悪くもそういった主義主張の濃淡に大きな貴賤を付けない傾向がある。「ヒューマギアは私たち人間の心を映す、鏡のような存在なんです。私たちが正しく接してあげれば、彼らも正しくラーニングして、素晴らしいパートナーになるんです。私たち人間も同じじゃないですか。家族や学校、友達、色んな環境から、色んな影響を受けて、成長して変わっていくのが人間じゃないですか」と作中でも語られている通り、彼はヒューマギアだけでなく人間自身についても、周囲の環境に影響を強く受ける弱い自我を想定している。
 『ゼロワン』が興味深いのは、人型ロボットを人間と同程度に尊い存在だと描くのではなく、立脚点となっている人間の地位を揺らがせた上で、AIとの間に違いはないと描く点である。

 高橋悠也の経歴を見ると、彼は『エグゼイド』に参加するより以前にヒーローもののパロディ作品『エイトレンジャー』を担当しており、その後も『ザ・ハイスクール ヒーローズ』のメイン脚本を務めている。
 発表された時期は大きく違うものの、両者に共通しているのは「既にヒーローと呼ばれる概念のステレオタイプが先行して存在している中で」「そのステレオタイプからはやや逸脱したキャラクターが」「ステレオタイプを手本としつつ自分なりのヒーローとなる」の3点。
 どちらの作品においても、ヒーローとして戦うメンバーは品行方正とは言い難く、ギャンブル中毒、アルコール依存症を始めとして難のある性格の持ち主ばかりである。特に『エイトレンジャー』においては、先行するヒーロー キャプテン・シルバーに至っても同様に演出されており、パロディものらしく正当なヒーローという概念に対して若干の懐疑的な視線を向けつつ、戯画的に描く手法が取られている(※2)。
 第4話の「一嘉、俺を見ろ! ヒーローつっても、すげえバカだし、ドジだし。でも、ヒーローがこうじゃなきゃいけないなんてない! 俺たちは何者でもないし、何にでもなれる!」というセリフ(※3)に最もよく表れているような、いわゆるヒーロー像をカッコの中に入れた上で、自分たちはその虚像の更に真似事をしているに過ぎないことを自覚しつつも、それを単なるお笑いとして済ませるのではなく、あくまでも真剣な人間の営みとして描き出す姿勢は、白倉伸一郎らが『Over Quartzer』『スーパーヒーロー戦記』と折に触れて描いてきた、まさしく平成以降の仮面ライダーが辿ってきた道筋と同じだと言えるだろう。
 ヒューマギアもまた、そのような文脈の上で捉えられなければならない。元来フィクションの登場人物がそうであるように、彼らは現実の人間を誇張して映し出す鏡であり、本来的にパロディである。そういった意味において、人間とヒューマギアは同列に位置する存在として扱われていく。

 加えて、こういった無差別化は作品の内に留まらず、現実の人間に対しても程度の差はあれど適用できるものだと高橋悠也は考えているように感ぜられる。
 そのことはAIがラーニングしていく様を子供の成長に例えていた(※4)ことや、舞台『ID』のインタビューで本人のアイデンティティとは何かを問われた際に「人殺しが出れば人殺しの気持ちで書かなきゃいけない」「作品毎に変わるカメレオンのようなものが、脚本家としての(自分の)アイデンティティ」と答えている(※5)ことにも現れている。彼は敵味方を問わず、自由に仮面を付け替えるように様々な立場にいるキャラクターの思考をエミュレートする方法論を取っており、自分らしさとはそういった営みの中で生まれては消えを繰り返すものであり、究極的には自分自身に固有の特徴というものはないのだと。
 善人であれ人殺しであれAIロボットであれ、作品の中で描く以上は全て自身の内側あるいは延長線上にある並列な存在として位置付ける高橋作品の姿勢は、敵に対する共感性に欠く『クウガ』のそれとは恐らく異なる。クウガグロンギの間には「暴力」という共通項こそ配置されているものの、五代がグロンギと同じく快楽殺人に耽るような可能性が想定されているようには思えない。聖なる泉という比喩によって両者は連続的なものとして捉えられていると見ることは不可能でこそないが、五代がなってしまうと示唆されているのは「理性を失った戦うためだけの生物兵器」であって「理性を保ちつつもゲームとして文化として人殺しを楽しむグロンギ」ではない。
 グロンギの設定が生み出される工程では「手ぬるい」という言葉が多用されたことが語られている(※6)。「力を持った者が手加減するなんてことは実際にはありえない」「現実の中で、そこまで優位に立った悪が、そんな風に手ぬるいなんてことは絶対にない」という考えの元に残虐性を強調した描写がなされたとのことだが、これは本当に強者……況して人殺しを楽しいゲーム程度にしか捉えていない悪の視点に立った発想だろうか?
 グロンギのこういった過度な残虐性に「ヒーローの闘いが実はリンチであること」を正当化するための作者の欺瞞を見出すことは先達もしていたが、メタ的な視点とはまた別に、単なるゲームに過ぎないという設定も含めた"悪の動機"を軽視した発想は、むしろ訳も分からないまま暴力を振るわれる弱者の側に寄ったものであり、悪とされる者自身にとってのリアリティとしては成立してはいないのではないか。
 『クウガ』がそのようなアンビバレントな状況に陥ったのはやはり、頼りになる大人というものと害を為す悪というものを、それぞれの形で神聖視し別物として峻別する意識が作用していたと見るのが自然だろう。
 そのように善悪を二分した物語を描くことにはそれはそれで一定の価値もあるだろうが、少なくとも「ヒーローが振るうのも暴力であり、怪人と紙一重である」と描くことにかけては高橋作品の方が遥かにドライである。
 敵の動機を過度に悪辣なものとして強調することなく、最低限の理はあるものとして描きつつも、ヒーローが敵を倒すことから暴力性を脱色しきることもせず、特に物語序盤においては相手を受け入れることなく排除するより他にない現実があることから逃げない。

 そして『ゼロワン』において特筆すべきはやはり、終盤において主人公である飛電或人が、復讐心に囚われいわゆる闇落ちをする展開だろう。それまでのシリーズにおいて、何らかの外的要因によって自我を失い暴走することや、主人公から分離された別側面が敵として出てくること、また単純なクリフハンガーとして思わせぶりな行動をすることはあっても、主人公自身が明確に自らの意志でもって悪の戦士へと身を落とすことはなかった。
 この仕掛けが当初から想定されていたものではなく、コロナウイルスの流行によって実質的な放送休止を余儀なくされたことを受けて変更された結果であることは各所で語られているが、これが単に驚きを与えるために奇を衒っただけの付け焼き刃でないことは、既に語ってきた高橋作品の傾向からも明らかだろう。
 元より彼は善と悪とを、ひいては人間が持つ性質というものを定常的なものとして捉えてはおらず、どのような環境から影響を受けたかという偶然の産物、ちょっとしたボタンのかけ違いで容易に反転し得るものとして描き続けてきたし、それは正義が悪へと転じ得る不安であると同時に、悪が正義へと転じる希望的な可能性の源泉でもあり、言うまでもなくそれは、悪の組織ショッカーによって生み出された両義的ヒーローとしての仮面ライダーシリーズの持つ本懐にも沿ったものである。
 その上で『ゼロワン』は当然の如く、一度悪意に飲み込まれた主人公を、自らの罪悪感と他者からの叱咤の中で揺れさせた後に、もう一度正義のヒーローとして再起させる。
 復讐の対象であるテロリスト集団 滅亡迅雷.netのリーダー・滅との最終決戦において或人が取った選択とは、ヒーローと怪人に共通する"暴力"を媒介して「互いのストレスを発散すること」だった。或人は滅に身内を奪われた憎しみを、滅は傲慢にもヒューマギアを単なる奴隷として抑圧し続ける人類への憎しみを露わにし、殴り合いの中で相手の拳に込められた"言葉では表し尽くせない想い"を受け止めることによって、憎悪の連鎖を断ち切ろうと試みたのだ。悪である敵を一方的に矯正するのではなく、まず自分自身が変わる。
 人間が抱く感情とは決して永遠に続くものではない。怒りに飲み込まれることがあるのなら、それを晴らして元の状態に戻ることも、困難ではあるかもしれないが決して不可能ではないはずだ。人間とはそうやって常に変化し続けていく生き物であるということを、"或る人"の名前を持つ主人公を通して清濁合わせて描くことによって、敵側の主義主張であるところの「人類は滅ぶべき悪」という固定化された結論に揺らぎを与え、我々人間は自らの中にある悪意を乗り越えることができる、故に敵となるヒューマギアたちも悪意を乗り越えることができるのだという鏡写しのロジックで、敵との和睦の道を見出す。

 高橋悠也の描く作品は、必ずしも一貫性に拘らないという点で一貫している。この極めてラディカルな実存主義的態度は、物語を予測のつかないスリリングなものにする実益と共に、非常に現代的な精神性として、何者であっても良いはずだという解放された自由への欲求と、それに付随する自分が何者かを常に問い続けなければならない不安定さの板挟みを見る者に提示する。
 "わたし"を一元的に規定できるような本質など存在せず、全てはあくまでも場当たり的な仮初めのものに過ぎないという虚無的な世界観を、だからこそ立場や枠組みにとらわれず、過去の自分すらも否定して未来を自由に選択する余地があることを示すのは、未だ自我同一性の確立されていない子供向けの番組として、きっと意義のあることであるはずだ。

 

 

正義――彼我の切断による自己の確立(仮面ライダーギーツ)

 暴力を行使して敵を倒す様子を楽しむ性質を根幹に持つ特撮番組であることに対し、無理に自己反省を試みるのではなく、むしろその暴力の中にこそ平和への希望を見出したのが『ゼロワン』だったが、次作『ギーツ』においては恐らく前年の『リバイス』との差別化によるものか、自身の中にある悪性との戦いのニュアンスはやや影を潜め、困難を前に挫折してしまうか否かという"弱さ"との戦いの側面が前景化することとなる。
 『ギーツ』は理想の世界を叶えるために競うデサイアグランプリ(通称デザグラ)を舞台に多くの仮面ライダーたちが鎬を削る作品だが、本作の主な敵・ジャマトは、ヒューマギアのように人類に作られた訳でもなければ、バグスターのように人類への復讐を掲げている訳でもなく、設定的に表に出ている範囲では単に自然発生し一方的に地球を侵食する突然変異種とされている。
 彼らが『鎧武』のヘルヘイムの森と違うのは、デザグラ運営の管理下で意図的に栽培されている点で、少なくとも作中に出てくる大半の個体はそういった出自とは裏腹に、人間の作為によって生まれた敵として立ちはだかる。
 しかしその作為とは、あくまで戦いを単なるリアリティショーとしてのみ消費するオーディエンスを含むデザグラ運営によるものであり、実際にジャマトと敵対する仮面ライダー自身の内側に存在するものとしてはあまり描かれていない。英寿たちにとって作中世界がリアリティを持った現実であることは、例えば『マトリックス』のようなギミックで脅かされることはなく、自身の愉悦のためだけに積極的に他を害すデザグラ運営の持つ悪性との接点は、実質的には"未来人"というレトリックの中にのみ残されるかたちとなっている。
 『エグゼイド』『ゼロワン』においては、永夢のゲーマーとして敵キャラを倒すことに快楽を見出す性質(≒パラド)や、或人がヒューマギアを破壊し抑圧することが、そのまま敵の戦う動機として反転するようになっていたのと違い、『ギーツ』における英寿たちは敵の悪性の根拠からは比較的隔離された場所に配置されており、善と悪とを渾然一体のものとして描く高橋悠也脚本に独特の鋭い筆致はやや失われ、善悪を二分した『クウガ』的な価値観へと退行したと見ることもできる。

 このような描かれ方をすることになった原因は主に2つ。ひとつは短期的視点で『ギーツ』がメタフィクションの構造を取り入れるために、現代人と未来人の間に単なる時間的な距離を超えた大きな断絶(設定的には地球の滅亡)をつくったこと。そしてもうひとつはもっと巨視的に、いわゆる仮面ライダーの三原則「同族争い」「親殺し」「自己否定」の要素が挙げられる(※7)。「親殺し」に軸を置いて描こうとすると、敵と味方との関係性は双方向ではなく親→子供の一方向なものになるのはある意味で仕方のないことではある。敵側の働きかけに対し、子供は「親を殺す」という最終的な応答こそするが、根本的な部分で循環することはない。
 『エグゼイド』『ゼロワン』的な方法論は、この「親殺し」を満たすことに多少の齟齬をもたらす。敵のルーツをヒーロー自身の中に求める場合、「同族争い」「自己否定」の2要素は高度なレベルで満たすことができても、どうしても「子殺し」的な意味合いが強くならざるを得ない。正宗が黎斗の父親としての属性を持っていたり、アークに偏ったラーニングをさせた張本人である天津が飛電其雄と同年代の人間であったりと、外枠でこそ父親的なニュアンスを持たされてはいるが、主人公である永夢と或人の直接的なルーツとしてはほぼ機能しておらず、実親との関わりは小説版や劇場版などの別媒体で語られている。
 今回は「同族争い」「自己否定」にやや偏りがちだった高橋悠也作品に、自分とは"似て非なるもの"との戦いとしての「親殺し」の概念を本格的に導入しようとしたのが『ギーツ』であるという仮定で話を進めることとする。

 そのために今回注目したいのは、『令ジェネ』で描かれた飛電親子だ。小説版での対峙で一応の和解を見ることができた宝生親子と違い、或人と其雄は正史においては最後まで心を通わせることができないまま死別を迎えてしまうのだが、この『令ジェネ』では『ジオウ』とのクロスオーバーでもあるため、タイムマシンを使って過去の世界や改変された現在の世界で其雄との交流が描かれる。
 ここで肝となるのは、2人の言う"夢"の解釈が決定的にすれ違っている点。終盤、或人は其雄が「人間とヒューマギアが一緒に笑える世界」を夢見ていたと、そして自分自身の夢も同じであると宣言するのだが、実際に其雄が目指していたのはあくまでも「俺が笑い、或人が笑う世界」であり、その他のセリフから「ヒューマギアが笑える世界」を望んでいたことは間違いないとしても、改変された現在においてヒューマギア陣営のひとりとして人類滅亡を黙認していたことからも、或人以外の人類全体の笑顔については必ずしも含まれていなかったと見るのが自然だろう。或人の夢と其雄の夢は厳密には異なるものであることを証明するように、其雄は或人の前に敵として現れ、自分を倒さない限り或人の望む未来はやってこないと告げ、激闘の末に、或人は倒れた其雄と一瞬の笑顔を交わし合う。
 ただし、其雄は飛電其雄本人ではなく或人よりも後に作られたヒューマギアであり、彼の夢も「お父さんを笑わせたい」という或人の言葉に由来している訳なので、厳密にはこれも親殺しではなく子殺しのニュアンスが強めに残っている。

 この『令ジェネ』のような、死にゆく他者の小さな願いを受け取り手が美化し、拡大解釈を加えることによってヒーローをヒーロー足らしめる動機の源泉と位置づけるようなシチュエーションを高橋悠也は繰り返し描いており、『ギーツ』でも「あなただけは生きて幸せになって」というミツメの消極的な願いを、母親と共に幸せになりたかった英寿が「みんなが幸せになれる世界」へと拡張させるくだりがある。その後のスエルとの戦いも含め、主人公が誤解をしたり自己を同一化しきれない状況が、恐らく意図的に放置されていると言える。
 永夢は命の恩人である日向恭太郎を実質的な育ての親としながら医者兼仮面ライダーとして人を救う覚悟を決めているし、或人も其雄を笑わせたかったという動機が根っこにあるとはいえ、お笑い芸人になるという挫折した夢への落としどころとして社長兼仮面ライダーとして戦う覚悟を決めている点で、親殺しというイニシエーションをある意味では軽視してきたのに対して、英寿は物語終盤に至るまで、基本的にはデザグラで勝ち残り母と再会するために戦ってきたのであり、高橋脚本においては初めて、明確にテレビシリーズ内で親を他者として超克し、真にヒーローとなるプロセスを描いたのだ。
 このことは単に先行して存在する仮面ライダーらしさを尊重する以上の意味がある。

 本来ならば制御不可能な圧倒的恐怖の対象としてあったはずのヘルヘイムを、人間の作為がもたらす"理由ある悪意"へと変換してしまったことが象徴的なように、高橋脚本には作品内の要素になるべく意味付けをし支配下に置きたがる傾向が強く見受けられる。受け入れ難いものを受容し、敵キャラに対しても自己を投影して共感可能なものとして同一視する彼のスタイルでは、本当の意味での他者性を扱うことが難しい。
 つまり『ギーツ』が敵と味方の動機に明確な断絶を設けたのは、仮面ライダー特有の親殺しという回路をそのエクスキューズとして利用しながら、作者による支配欲への批判的な視点を持たせるためとも解釈できるのではないか。(※8)
 また、ここまではあくまでも主人公の視点から見て敵側に共感する余地が設けられているかについての話だったが、少しズームアウトして見た場合、オーディエンスやデザグラ運営の行動原理には、メタ的な視点を持つ我々としては共感が可能なものとして設定されている。リアルな世界観を志向する限りは、人の生き死にを娯楽として楽しむ敵に感情移入させるのは物語の内外ともに難しいところを、メタフィクション構造を取り入れることによって「作品内のキャラにとっては理解不能だが、作品外の存在にとっては理解可能」という二面性を持たせ、敵味方の過度な癒着を切り離しつつも、排除するだけの対象として終わらせない従来の高橋作品らしさとの共存を試みている。
 「親殺し」を描くにあたり、敢えて父親的な存在ではなくまずは母親を想定することで、再会し同一化をはかる英寿の欲望に切れ目を入れる象徴的な去勢として描き、母子の分離を受け入れる(≒ブーストマークⅢバックルの分離)ことで「食うか食われるか」といったトレードオフな世界観から脱却することが可能になるという、謂わばラカン的なアプローチにすり替えることでもって、英寿のヒーローとしての自我の確立と生き残りゲーム的な世界観への回答を提示したのが『ギーツ』だと言えるだろう。

 『ゼロワン』では特に『REAL×TIME』に顕著なように、エスに対しては或人が今の悪行に至った経緯を知ることで共感を示したが、その他のシンクネット構成員に対しては「お前たちに同情の余地はない」と切って捨てるような描かれ方がされていた。しかしこの前進によってなのか『ギーツ』では、行動原理が理解できない不気味な存在として立ち回っていた五十鈴大智に対しても、同情に足る過去話などは殊更描かれないまま「幸せになる権利がある」と明言されることとなる。
 未来人という設定によって基本的には排除するしないといった選択の埒外にあるスエルたちはまだ良いとしても、『ジャマト・アウェイキング』では現代に生きるジャマトである蒼斗が爆殺されたまま放置されているなど現時点では完璧とは言い難いものの、景和が大智のことを受け入れたように、蒼斗も含めて幸せになれる世界を作れるかどうかはこれから先の彼ら次第である。

 

進化――偶然性と不完全性の行く先(ライドカメンズ)

 ここまで高橋悠也がメインライターを務めた3作品について振り返ってきた。『エグゼイド』からは非現実を媒介して現実を受け入れる柔軟性を、『ゼロワン』からは異なる背景を持つ者に対しても理解を示し相互に影響しあう共感性を、そして『ギーツ』からは全てを支配下に置くことは諦める他者性を、それぞれ読み取った。最新作となる『ライドカメンズ』には以上の全ての要素が詰まっている。
 第一に、『ライドカメンズ』の仮面ライダー(以下カメンズ)はほぼ全員が記憶喪失であり、カオストーンと呼ばれる石に封じ込められたストレス性の高い過去の記憶と向き合うことが彼らに与えられた主な戦いであること。第二に、その中で全く信条の異なるカメンズ同士が時に協力し、時にぶつかりあい互いのことを理解していく様を中心に話が展開すること。第三に、カメンズを改造し教育した親であるカオスイズムを打倒することが最終的な目標として設定されていることが挙げられるだろう。

 本作ではこれらに加えて更にもうひとつ重要な概念が扱われている。他者性と同様に、自分の思い通りになりきらない要因のひとつとしての偶然性だ。
 『ライドカメンズ』にはアプリゲームの例に漏れずガシャ要素があり、天井こそ設けられているものの、カードに固有のストーリーを読めるか読めないかは実際的には運次第である。また、バトルで使用するカオストーンの精製にもある程度の運はどうしても絡むため、さながら『ギーツ』第12話のように、偶然性に対しいかに戦略的に成功確率を上げ、運が味方するまで諦めずに挑戦し、訪れたチャンスを逃さずものにするか、或いは引き際を見極めるかが、本作のゲーム性のひとつとなっている。

 またこのゲームにおける最大の目標はノベルゲームとして多種多様なストーリーを読むことだが、発売前に物語の外縁を定められる買い切り型のゲームと違って、持続的に展開し続けるためには大規模な選択肢分岐を設けることは難しい。
 メインストーリーでは選択肢の影響が章を跨ぐことは現状なく、調査ストーリーでは分岐によってエンディングが変わるものの、それがメインストーリーにフィードバックされることはないので、大局的にはどちらを選んでもそう変わらないようになっている。
 せっかくゲームというインタラクティブな媒体であるにも関わらず、プレイヤーの選択が物語に対しさほど大きな力を持ち得ないというこのジレンマを解決するのが、小説版『エグゼイド』での拡大解釈されたノベルゲームのスタイルである。
 紙媒体の小説で選択肢による分岐を再現するためには、ゲームブックのようにページを行き来させたり、並列な物語をいくつか用意して読者が好きな順番で読むことによって解釈を変える形式を採用するなど、作り手にとっても読み手にとってもやや面倒な仕掛けが必要となるが、小説版『エグゼイド』ではそういったあれこれを全て削ぎ落とし「読み進めるか、本を閉じるか」という最もシンプルな二択を読者に提示した。

 『ライドカメンズ』においてプレイヤーに与えられた究極的な選択肢は、供給されるストーリーを「読むか、読まないか」であり、読めば読むほどキャラクターや作品世界についての理解を深めることができるが、そこで見える新たな一面は必ずしも自分の望んだものとは限らない。苦労の末に手に入れたエピソードが他愛もない日常かもしれないし、重要なエピソードを読んだことでそのキャラへの印象が180度変わってしまうかもしれない。
 また本作はゲーム内のストーリーの豊富さもさることながら、各種メディア展開も豊富なので、作品に関する全てを網羅的に知ることは不可能にも近い。ゲーム情報誌に掲載されたショートストーリーや、舞台版での日毎に変わるアドリブなど、とてもいち個人が把握しきれるものではない。他人のことを完全に理解することなどできないのと同様、カメンズについても常に「自分の知らない一面」がつきまとうこの状況そのものが、キャラクターをリアリティを持った人間へと引き上げるポテンシャルを持つ。
 スーパーポジティブを座右の銘とする伊織陽真の性格が、むしろ「泣くことができない」という欠落によって消極的に定義されていることに顕著なように、不完全であることこそがその人の"個性"になるのだという思想が垣間見える。
 通常の物語においては、最終話まできちんと"履修"せずに得られたキャラクター認識は間違いとして棄却されかねないし、平成ライダーにおいても劇場版やスピンオフは大抵の場合"正史"の中に組み込まれることとなるが、ゲームという媒体を採用することによって、個人間での認識の差をルート分岐として受容することが可能になるのは、これまでにない特徴だと言えよう。あるプレイヤーが"読まない"ことを選択したエピソードは、そのプレイヤーの選んだルートでは"起きなかった"かもしれない出来事として理解される。
 この文脈では記号化された特徴を持つ一面的なキャラクターとして消費することと、多重で複雑な面を持つキャラクターとして捉えることを連続的なものとして扱うことができ、二次創作として様々なif世界を生み出す原動力を殺すことなく展開することができる。
 カメンズがカオストーンに秘められた自身の記憶を集めるのと相似形を成すように、我々プレイヤーもまた偶然の壁を前に無数の取捨選択を重ねながら膨大な情報と向き合い、彼らに対する解釈やモチーフとなったキャラクターへの解釈、場合によっては自分自身の価値観まで変化させて「共に生きる」こと。知り尽くすことのできない他者に少しでも接近を試みるこの営みこそが『ライドカメンズ』というゲームの最大の魅力なのだ。

 


 『ライドカメンズ』の企画は『ギーツ』よりも前であることを思えば、本来の時系列をやや無視して進歩史観的とも取れる語り方をしてきたが、実際には濃淡こそあれど、ここまで紹介してきた作品には様々な要素が横断的に存在している。その上で敢えて高橋悠也という作家のこれからに何らかの発展を期待するならば、より根本的なレベルでの他者との対話だろうか。
 冒頭では井上敏樹小林靖子と並んで3作品のメインライターを務めたと紹介したが、『エグゼイド』『ギーツ』と2作品に渡って全話を執筆したのは高橋悠也が初であり、逆にその速筆を活かしたサブライターとしての参加は殆ど例がない。
 ここまで見てきた通り、元来彼は自分をあまり強く押し出さない作家であり、『ギーツ』では脚本を一人で担当する代わりにその話を担当する監督に合わせた話作りを試みていたり、プロデューサーやその他スタッフの証言からも周囲の意見をうまくまとめる手腕が評価されていることも多く、他者とのコミュニケーションを重んじて創作をするタイプだと言えるだろう。
 だが高橋悠也自身が多面性を持っているが故に、特にキャラクター造形においては彼一人の内的な側面を分割したものとしての色合いがどうしても強くなってしまいがちである。
 客演を含む映画や『アウトサイダーズ』などで部分的に実現してはいるが、強烈な個性を持つ他の誰かが生み出したキャラクターを動かす中で、その差異から高橋悠也自身の個性が浮き彫りになるような展開や、他の作家が設定を生み出した新キャラクターを『ライドカメンズ』に参加させた上で、高橋悠也を含む他のライターが肉付けをしていくようなことがあれば、更に開かれた物語の可能性を見ることができるかもしれない。

 今や次代の仮面ライダーを担う作家としての地位を確立した高橋悠也に対し、ある種のカウンターとして乗り越えその後を切り開く役を務めるのが、彼に憧れて脚本家となり『ライドカメンズ』の実質的な屋台骨として活動している内藤祐介氏になるのか、はたまた別の作家になるのかにも注目しつつ、個人的には、一人の人間の作家性という単純化された枠組みが作品を語る指標としての絶対的な位置からは外れ、より複雑で自由な未来が創発されることに期待したい。

 

 

 

 

 

※1 宇宙船 vol.155 p.43

※2 同時に、比喩的な意味で過度に美化されたアイドル像との葛藤にも見える

※3 第4話の脚本は高橋悠也ではないが、彼がメインライターを務めた作品である以上は『ゼロワン』『ライドカメンズ』についても同様に、大きな齟齬が発生しない範囲で彼の作家性を逆算するための参考として使うこととする。

※4 仮面ライダーゼロワン 超全集 p.146

※5 『ID』Blu-ray 特典映像

※6 語ろう!クウガアギト龍騎 p.217

※7 ユリイカ2012年9月臨時増刊号 総特集=平成仮面ライダー p.13

※8 これは『クウガ』にも同様のことが言えるかもしれない。

ライドカメンズ人形劇(二次創作) 第1章 Ep.01〜Ep.08+こぼれ話

『ライドカメンズ』1周年のタイミングで、学園長先生並みの突然の思い付きで"人形劇"をやろうと思い立ったので、こちらのブログの方でも一覧としてまとめておきます。
ただ漫画を一覧で読むだけならハッシュタグを使えばよいので、こちらでは裏話的なテキストを主に書いていきます。
「ゲームのこのエピソード、特撮シリーズのこういう部分からネタを拾ってきました」みたいな話も多くなると思うので、見返しや履修の参考にしてもらえたら幸いです。

『ライドカメンズ』はもちろん単体でも十分楽しめるんですけど、モチーフと比較することで更にまた別の視点から楽しめるのも間違いなくて、でも公式的にはここまで来ると明言するつもりはなさそう……。ということで、その2つを繋ぐような接点が欲しい!見たい!と思ったので、自分で二次創作としてやることに。
ただ、特撮シリーズをご存知ない方としては、自分の知らないネタに好きなキャラがこじつけられても面白くもなんともないと思うし、僕自身、カメンズのキャラ造形に含まれてるモチーフ元の要素ってそこまで割合として多くはないと感じているので、一応自分の意図としては「モチーフっぽいネタ(話題)をカメンズたちが扱ったらどうなるか」という視点から、むしろ元キャラとの"違い"が浮き彫りになるようなものにしたいなと思っています。
「モチーフ元はこのポーズしないかもしれないけど、カメンズならしそうだな」とか「やってることは同じだけど意味合いがちょっと違うな」みたいな、作ってる自分的にはそういう細かな発見が色々あって楽しいので、見てくれた方にも少しでも面白いなと思ってもらえて、特撮ファンならライドカメンズに、ライドカメンズファンなら特撮により興味を持ってもらえたのなら、そんなに嬉しいことはないです。

 



 

18ライダー

・この写真は、立ち位置こそ元画像を踏襲してますが、ポーズは割と別のところ(主に【戦いの流儀】のもう片面)から引っ張ってきてるキャラが多いですね。
陽真が分かりやすいですけど、ライズを使ってシルエットを調整することがこちらではできないのと、小さめのフィギュアで再現する関係上、動きが少ないと何をやってるのかよく分からない感じになってしまいがちなので、18人が横並びになってもなるべく埋没しなそうなポーズを選んでます。
あと、ギャンビッツインが仲間に入ってるのも違うポイントですね。

・ここから繋がるリプツリーで、今後も参照してもらうために仮面ライダーの姿と中身に入っているキャラクターの対応関係を、キャラクター紹介として整理しています。
最後にある「and…?」がどういう意味なのかは、現時点ではハッキリしたことはまだ決まってません。

 

タイトル画面

Twitter上では一番最初にアップしたこのタイトル画面の再現ですが、撮影したタイミング自体はかなり後で、全員分のエピソードは一通りセリフを書き終わって、あとは写真を撮るだけという段階になって、ふと思い付いて撮ってみたものです。
集合写真は既に撮っていたのですが、こちらは敢えてポーズそのままで、あまり動きがないものにしてみたらどう見えるんだろう……と思って、本当にかなり軽い気持ちで撮ったものなんですが、思っていたよりも多くの反応をいただけて、すごくモチベに繋がりました。

ノベルゲームである関係上、特撮と比べると戦闘シーンが控えめであったり、二次創作においても変身前の日常漫画が多い中で、せっかく人形劇としてやるなら「仮面ライダーの姿であること」を大事にしたかったのもあり、基本的に再現するポーズは変身後から選んでいて、4コマ本編(第1章)も"戦闘訓練"というテイを取っているのですが、この写真だけ「ライダー姿のフィギュアで変身前のポーズを再現している」というちょっとチグハグな感じなのは、そういう経緯があったからだったりします。
この世界観では(変身前のフィギュアが発売されでもしない限り)変身解除ができないので、第2章以降はこのままの姿で日常会話も描いていくつもりですが、せっかく二次創作をやるなら「公式ができなそうなことをやる」のが面白いだろうと思っているので、自分の知識やスキルが追い付く範囲でにはなりますが、モチーフネタや戦闘シーンはこれからもちょこちょこ描いていきたいです。

・このツイートのリプツリーに繋がっているシルエットも、たまたまiPhoneで画像をいじっていたら長押しするだけで人物だけを切り抜くことができると分かって、副産物的に生まれたものです。
4コマは、セリフが縦書きなので縦長な方が情報量を詰め込めて望ましいということで、アスペクト比は(16:9ではなく)4:3で統一することにしたんですが、シルエット画像だけそれがまちまちなのも偶然できたものだからです。

 

 

 

プロローグ(前編)

・元々導入部はこのタイトル画面の5人だけで回そうと思ってたんですが、4コマで説明しきるのはどうやら無理そうだということに気付いて、どうせ前後編になるならと急遽残りのキャラも出す方向にシフトしました。
ジャスティスライドが一人称の表記を差別化していること(オレ,おれ,ぼく,俺)とか、荒鬼の"ァ"や"ェ"なんかが分かりやすいですけど、元々の作品が文面だけで誰が喋ってるのか分かるように気を遣っているので、思っていたよりも描き分けに心配は要らなそうだなと安心。
……ただ後々のことを考えると、キャラの位置とセリフの位置が遠くなるケースもあるだろうとは思っていたので、文字の色で区別することに。一見ライダーのメインカラーとは違う色も多いですが、公式の配色を参考にしてはいます。

 

『劇場版 超・仮面ライダー電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦』59:50〜1:01:25
仮面ライダーガッチャードVS仮面ライダーレジェンド』
・そもそもカメンズとモチーフ元には、公式から明言されていない以上は必然的な繋がりがないというのは大前提として、フラリオはポジション的にはどう考えてもアンクだけどラリオフの仮面はケルカ以上にオーズっぽい……というのもややこしい(タジャドル説がある)し、食玩サイズでは慈玄のG3が用意できないという根本的な問題もあり、「なぜこの姿になっているのか」に対する何かしらの言い訳は必須だろうと。
そうなったときに、この二次創作をやる上ではやっぱり春映画がまず念頭にあったので、『鬼ヶ島の戦艦』で披露していた「ディエンドの召喚したライダーにイマジンズが乗り移る」というギミックを参考にさせてもらいました。

www.kamen-rider-official.com

ただディエンドは静流が使うので、それと似たことができつつも、例えばディケイドやジオウだとディエンド(静流)やウォズ(戴天)と並んだときに不必要な文脈が生まれてしまうのでそれは避けたい……と考えた結果、仮面ライダーレジェンドならば他の18ライダーとは一線を画した特殊なポジションとして振る舞わせることができそうだなと。
『ライドカメンズ』は、レジェンドが登場した『ガッチャード』の同期だったりもするし、テレビ本編に出てきたのも、何気にリリースとほぼ同時期の2024年5月だし。

 

youtu.be

彼は公式からも、特撮に足を踏み入れてみたい人に向けてまずは一旦これを見てはどうですかという枠としてYouTubeで公開されている部分もあるだろうから、橋渡し役としてはちょうどよいかなと。
理屈としては『ライドカメンズ』という物語をモチーフに、僕の中のイメージから生まれた才悟イマジン、荒鬼イマジン……が、レジェンドの召喚した体に取り憑いている、みたいな感覚です。"イマジン"という概念、二次創作とあまりにも相性がいい。そのおかげで最悪本編と矛盾が発生しても問題ない。
ホースオルフェノクのような非ライダー組に関しても、ディエンドライバーがカイジンライドという現象を原理的に起こせるなら、レジェンドライドマグナムでも似たようなことができておかしくはないだろう……くらいのノリでなんとかなるかなと。


・没ネタとして、もし『ビヨジェネ』のクローンライダーっぽいニュアンスを採用するならば、ジョージ狩崎/仮面ライダージュウガに出てもらうという選択肢も考えていて、そっちの場合は今ここで書いてるような元ネタの話を、また別の4コマ漫画としてメタっぽく狩崎に解説してもらうという案もあったんですが、僕が狩崎ひいては『リバイス』のことをそこまで好きとか詳しいって訳でもないにも関わらず、ガワとしてだけでなく本人の人格として出して利用するというのはちょっと気が引けたので、登場シーンをおさらいするのが比較的簡単で今後の活躍に期待もしているカグヤにしました。
あと、狩崎の場合はオタクすぎて慈玄にG3ではなくG3-Xを当てるみたいなガバを嫌がりそうだったので、扱いづらいと判断した……という側面もある。元キャラのことをある程度知ってはいるけど、個々の存在にそこまで深くは入れ込んでないカグヤなら、基本的にはモチーフとして似ている姿を選びつつも、一人くらいちょっとゴージャスなG3-Xが混じっちゃっててもそこまでおかしくはないかな……と。
『ガッチャード』35話でも、カチドキ旗がれっきとした武器として使えることまではよく知らなかったり(?)もしたし。

 

 

プロローグ(後編)

フラリオ キャラエピ「狩人の目」
・ラスト1コマは、まぁ細かいことは各々想像して貰えればなと思ってそんなに決めずにノリで撮ったんですけど、一応自分の中ではこうだな〜ってのがある組み合わせもいるのでその話もしようかな。
『ライドカメンズ』知ってる人からすれば、一番分かりやすいのは皇紀(王蛇)とフラリオ(アンク)かな。これ書いてる時点ではまだ明かされてはないけど、フラリオの正体は鳥でしょうというのはもう散々仄めかされていて、皇紀はそれを本能的に感じ取って「捌いてやる」みたいなことを言うんですよね。
アンクグリードの姿になってより見た目が鳥っぽくなったことで、皇紀からの視線を感じて逃げようとしてる……っていうひとコマです。


深水紫苑 キャラエピ「共感力の弊害」
星4【#Bday】阿形松之助 調査エピ「昔から変わらないもの」第2話
・紫苑(ホースオルフェノク)と雨竜(龍玄)は同じ五期生の同期ではあるんですけど、やはりクラスが違うということもあってほとんど絡みはなかったと思います。
ただ、仮にも見ず知らずの場所で目が覚めて、全く別人のものと思われる体に入っているという状況で、普段通りに振る舞ってこそいますけど、内心困惑していないはずがないんですね。特に大半のカメンズたちにとっては、拉致・洗脳されてアカデミーで過ごした2年間が脳裏に浮かんだりもする。(※カグヤ/仮面ライダーレジェンドに悪意は全くありませんし、カメンズたちも心のどこかにはそういう気持ちもあるというだけで、基本的には割と乗り気です)
他人の心を感じ取れる紫苑は、そういった18人全員が実は心の奥底で感じている不安みたいなものを敏感に察知してしまって、ちょっと胸が苦しい状態になるんじゃないかなという風に思っていて。

タイトル画面の5人とクラスリーダーはセリフ付きで登場している中で、慈玄とはいつも絡んでるからちょっと離したいと考えたときに、残ったメンツの中で紫苑をフォローしてくれそうなしっかり者が雨竜だった訳ですね。
奇しくもゲーム内での数少ない絡み(星2【トワイライトパーク】雨竜 サポエピ、雨竜 キャラエピ「料理の味見」)では、年齢的な上下もあってか紫苑が雨竜よりちょっとお兄さんみたいな振る舞いをしていたんですが、雨竜は五期生最年長の阿形に対しても「年下だからと気を遣わず頼って欲しい」とハッキリ言えるキャラなので、紫苑が辛いときには(自分の不安を抑えても)それに気付いて寄り添ってあげられるだろうと。

元ネタ的にも、一見すると人畜無害そうな優しい青年だけど実は闇があって……みたいな共通点があるので、どこかでちょっとシンパシーを感じてたりもするのかなとかも、思ったり思わなかったり。

 

星2【意外な素顔】蒲生慈玄 サポエピ「地図は常に正しい」
・浄(ブラッドスターク)と慈玄(G3-X)も特別濃い絡みがある訳ではないんですが、生真面目すぎる若者とちょっとユルい年長者って意味ではサラリーマン狂想曲(イベント)での雨竜と静流みたいな感じで、結構いいコンビだと思っているので組み合わせてみたって感じですね。最近だと『仮面の宴』で、紫苑も含めて3人で絡んでたりもしましたね。
せっかくなら異なるクラス同士で組み合わせたかったので、紫苑とは敢えて離しています。

ポーズとしては、浄が軽く声をかけて、慈玄はちょっと警戒してる……くらいの意味しかないんですけど、個人的には、浄が考えすぎる慈玄のことを気遣って、敢えておどけて話しかけていたりするといいなと思ってます。
モチーフがブラッドスタークなだけに怪しさ満点のキャラですが、この1年彼と付き合ってみて、案外打算とかなしの優しさみたいなのが垣間見える瞬間もあったので、レディ相手でこそないけどたまにはそういうこともする……或いは、浄自身も不安な状況から気を逸らしたいがために他人を気遣おうとしているのかなと。

 

・神威(ゲンム)と静流(ディエンド)は、正直一番何も考えてないです。後からなんか思いも寄らないドラマが見えたら面白いなぁという期待込みで、割と誰と絡んでも良さそうな2人が組んでます。
まぁ神威はいつも通り「他人の体に入った俺も美しい!」と自分の世界に入ってる感じです。本当に全くの他人だったらそうもいかないと思いますけど、仮面ライダー神威とそっくりなゲンム ゾンビゲーマーなので、神威的な美しさの基準はクリアしていることになってます。

それを見て静流が何を思ってるかが問題で、今後のイベントとかで2人の関係が深まったりしたらいいなぁと。
今のところは、ルーイとかQを念頭に「仮面ライダーってマイペースなやつが多いなぁ……」「まあ、自分の酒癖も大概か……」みたいなことを考えてるだけというか、双方が自己完結していて感情の矢印が向いてない感じがあるので、神威が静流に興味を示すことはあんまりなさそうですけど、静流の側が(特にクリエイターとしての)神威に何らかの気持ちを抱いてると見えるような何かに期待ですね。

 

 


Ep.01「借り物」魅上才悟/仮面ライダー1号

仮面ライダー
・「1号は敵の武器を利用して戦うことも少なくない」という、界隈では割とよく聞くウンチクが元ネタですね。
初代の仮面ライダー、特に才悟のモチーフとなっている旧1号の特徴として「バイクで風を受けて変身する」というものがあるのですが、ポーズを取って気合を入れる≒自分の内側から湧き出る力を解放する……のではなく、風という外部のエネルギーを取り込んで力に変えるというのはかなり印象的な要素なので、そういったものもイメージした上で拾ってみました。

人から教わったことを素直に受け入れる才悟の純粋さとも通じるものがありつつも、敵を倒すためとはいえ「人のものを盗る」というのは本編の才悟はあまり思い付かなそうなので(慈玄も驚いてますね)、1号の体に入るという特異な経験をしたからこその発想なのかなというつもりで描いています。
レジェンドは"鍛錬"という言い方をしてましたが、せっかく特訓と称して他人の体に入ったからには、小さくても何かしらの"発見"や"変化"がないと意味がないので、こういうちっちゃい違和感も二次創作ならではということで楽しんでもらえればなと。
『鬼ヶ島の戦艦』でも、G3が棒で戦ったり王蛇が銃を使ったりと、キャラクターの新たな一面が見えることが面白かった訳なので、この第1部では武器の扱いを中心に、カメンズなりの新しい戦い方を描いていくのが基本コンセプトです。


・第1話からいきなり愚痴っぽい話ですけど、G3-X(慈玄)のフィギュアは見て分かる通り結構アーマーがゴツくて、今回使ってるキャラの中でも群を抜いてポーズがつけられないので、かなり苦労しましたね……。
キャラエピとしては1本目、かつ才悟が主題のエピソードということで"戦い"メインの話にはしたかったんですけど、本当に下半身がほぼ動かないと言っていいので、才悟だけ派手に動かしてもチグハグな絵になってしまうし、なんとか2人のバランスを取りつつ撮影しました。
2コマ目のポーズが、G3の限界です……。

・特に気にしてない場合もあるんですが、最初に公開するエピソードだからということもあり、いちおう才悟の左利き設定を遵守してます。結果的にですけど、派手なポーズは取らせられないながらも背中を見せることで見栄えに変化が出せたかなと。
ただ流石に背中はデザイン的にちょっと寂しかったので、短剣を突きつけるときの勢いでマフラーが後ろになびいた……ということに。本来動きのないはずの1コマ目と4コマ目にも細かい違いができて、撮ってて面白かったです。

 

 

Ep.02「距離感」高塔雨竜/仮面ライダー龍玄

星2【戦いの流儀】高塔雨竜 調査エピ「竜の如く!」第3話
星2【戦いの流儀】高塔戴天 サポエピ「二人の稽古場〜戴天編〜」
・第2部の試練を経て、今ではすっかり円満な関係の戴天と雨竜ですが、序盤は結構"歪"な感じも強く出ていて、そのひとつがこの【戦いの流儀】シリーズですね。
元々タワーエンブレムは叢雲が前衛、戴天が後衛という役割分担になっていたんですが、今は中/後衛タイプの雨竜との2人組で若干バランスの悪い取り合わせになっているんですよね。

雨竜の方のエピソードでは「中長距離が得意」「竜のライズもその性質に合わせて生まれた」という風にエージェントに対して語っているのですが、戴天の方では「自分も遠距離攻撃を訓練した方が良いでしょうか?」と提案する雨竜に対して「(チームとしてのバランスを考え)今のままで良いのですよ」と諭していて、表面的には雨竜に無理をしなくていいと優しい言葉をかけつつも、戴天は無自覚のうちに自分本位なフォーメーションを押し付けてしまっている……ようにも見えて、個人的には結構好きな絡みのひとつです。

雨竜は槍の扱い(中距離戦)も実際得意なので、ゲーム本編ではそのまま問題なく戦いをこなしているっぽいのですが、せっかくこの世界では雨竜(龍玄)が銃使い、戴天(ウォズ)が槍使いと逆転しているので、戴天が雨竜の秘めた才能にしっかり気付き、お互いに理解を深め合うエピソードにしようと。

・「アカデミーで銃の扱いは習わない」というのは、F/P/S(イベント)での「銃器の扱いには(個人的に)心得がある」というランスの発言から推測したものですが、カオスイズムのことなので治外法権でやらせてる可能性もなくはないかもしれません。

4コマ内で雨竜は弓なら使えるような口ぶりですが、実際は領く証(イベント)では「当たった!」と喜んでいて、最低限のスキルはあるものの得意意識があるのかないのかまではイマイチ汲み取りにくいラインです。
ただ銃でも弓でもないとしたら、何をもって「長距離戦が得意」という認識を持っているのかが分かりにくいため(いくら長くとも槍で長距離,遠距離とは言わない、と思う)、弓は比較的得意なのだろうと解釈しました。
アカデミーで弓の授業があるというよりは、高塔家の嗜みとして習っていたことがある……というイメージです。

 


Ep.03「分離」浄/ブラッドスターク

星2【戦いの流儀】浄 調査エピ「煙に巻く」第4話YELLOW
仮面ライダービルド』第6話「怒りのムーンサルト」 14:30〜17:00

・浄の戦闘スタイルは、本人は後衛向きだと説明しているものの、先代エージェントのメモによると接近戦が得意だという分析がされていて、実際のところどうなのか、仮に先代の分析が正しいとしたらなぜ浄はそんな嘘をついたのか……など、謎を残す描き方がされています。

ブラッドスターク(浄)が持っている武器トランスチームガン ライフルモードは、4コマ内では銃剣と言ってますし『ビルド』劇中でも割とそうやって使われているのですが、名前の通り基本的には遠距離用の狙撃銃です。
元は銃(トランスチームガン)と短剣(スチームブレード)が合体したものなので、分離するとより至近距離での戦いに向いた感じになります。
こういうおもちゃ的なギミックも特撮の面白さのひとつなので、浄のエピソードとも若干被せられるネタとして採用しました。

合体していたものをとっさに分離して攻撃……というシーンの例として第6話を挙げていますが、もっといい例もあったかもしれません。


・実はこの4コマが一番最初につくったもので、あたかもモチーフと浄の両方から要素を拾ってきたみたいな書き方をしましたが、実際は全て偶然の産物です。
「とりあえず人形劇をやってみたい」という気持ちだけで、あんまり深く考えないまま迅(颯)とブラッドスターク(浄)を並べてみたときに、元々僕が持たせたままだったライフルモードが目に入って、4コマの尺ならこれを分離させるだけで1ネタになるんじゃないか?と見切り発車で撮り始めました。

普通こういうギミックは「合体したら強くなる」みたいな描き方をするものですが、戦闘訓練というシチュエーションでライフルの強みを描くのは難しいので、颯としても大きめの武器がひとつだけ、しかも基本は遠距離用となれば、間合いを詰めれば有利だと考えたが、浄も武器も実は近接戦に対応できた……という流れにしています。
オチにちょっと驚きを持たせるという4コマの形式ありきで考えた結果、たまたま浄のエピソードともリンクしたので後付けした、という感じです。

 

 

Ep.04「一心同体!?」ランス天堂,Q/仮面ライダーW

仮面ライダーW』第1話「Wの検索/探偵は二人で一人」19:48〜21:15
・本家のWもひとつの体に複数の精神が入っているものの、既に1年間戦ってきてる設定なだけあって、露骨に息が合わないみたいなことはあんまりないんですよね。
ただWの基本フォーム・サイクロンジョーカーは徒手空拳で戦うスタイルなので、他のキャラのように武器の扱いで話をつくることもできず、肉弾戦をしっかりこなすためには2人の息を合わせることが大事だよね……というエピソードに。

1,2コマ目、そして3コマ目は、21:00あたりの左右にカメラが揺れることで話してるキャラが変わる演出をイメージしてるんですけど、特に3コマ目は一応線を引いてみたものの、ただ変なポーズしてるだけにしか見えないのは我ながらちょっと残念。
理想としてはこういうイメージなんですけど……。

4コマはオチをつくらないといけないので、このエピソード内では結局うまく体を扱えてないままですが、これ以降はそれなりに共存できてる感じに……少なくとも反発しすぎて転んだりはしないくらいになるはずです。

 

Ep.05「弛緩」深水紫苑/ホースオルフェノク

仮面ライダー555』第1話「旅の始まり」21:38〜22:04
・紫苑のモチーフであるホースオルフェノクは、その見た目通り仮面ライダーではなく怪人で、色々事情はあるものの、この剣は第1話から明確に"人の命を奪った"武器なんですよね。
仮面ライダーであっても、怪人の命を奪うことを目的としたリーサルな武器というのはまぁあるんですが、それでも変身も何もしてない生の人間を殺す描写というのは、カメンズに選ばれてる他の怪人組にだってないはずで、これはホースオルフェノクにしかない珍しい特徴なので、紫苑の心配や不安というかたちで「その気になれば相手を殺せてしまう力」であるということを強調しました。

『ライドカメンズ The STAGE』
・4コマ内で度々出てくる"アカデミー時代の訓練"は、ほとんどがカメステのイメージです。剣に関しては、SEが金属音だったり後半でガオナクスを倒すのに使われていたりと模造品なのか本物なのかぼかされてましたが、紫苑は先端に白い布を付けた"たんぽ槍"を使っていたので、余計に本物の剣には抵抗もあるかなと。
Butlers(イベント)では、一期生は刃先のある槍で訓練していたみたいなのですが、なんか事故でもあったんですかね?

 

仮面ライダークウガ』第7話「傷心」20:35〜22:00、第45話「強敵」05:11〜05:48
・「その気になれば相手を殺せてしまう力」の要素だけだとちょっと重い感じになりかねなかったので、クウガ(陽真)の超変身ギミックを使うことに。
第7話で描かれている通り、クウガの力は慣れないうちは勝手にフォームチェンジしてしまって、変身している五代雄介も戸惑っている……という描き方が他の作品にはなかなかない特徴で、緑のフォームは遠くにいる敵を察知する能力に長けている代わりに、色んな雑音も聞こえてしまって苦しんでいるんですね。
青のフォームも同様の困惑を経て自分のものにしたんですが、本編では紫のタイタンフォームだけ、最初から自分の意志で変身していて戸惑うシーンがない。それなら、陽真が剣を触ったことでうっかり変わってしまったことにすれば、原作を知っている人にとっても少し新鮮な絵面になるし、逆に『ライドカメンズ』しか知らない人にとっては、フォームチェンジという概念もチラッと紹介できて、一石二鳥かなと。

 

敵の剣を自分の剣に変えてしまうというアイディアは第45話のガドル戦から得たものですが、僕は昔からこのシーンについて、敢えて変化させてからゆっくりと抜くのはグロテスクな感じやちょっとの傷くらいどうってことない感じの演出としてはいいと思うけど、せっかくモーフィングパワー(手にした物質を原子・分子レベルで分解し、再構成する力)が使えるなら、掴んだ剣先部分を持ち手に変えて、そのままクウガに突き立てることもできるはずだよな……と感じていたので、食玩フィギュアにはそもそも"剣先を持つ"なんて器用な芸当はできないという前提の元で、剣先と持ち手が入れ替わる描写に。装動のタイタンソードをShodoのホースオルフェノク(紫苑)に持たせることもできませんしね。

 

タイタンフォームに変化したのは、もちろん"剣だから"というだけではなく、陽真が紫苑の攻撃に耐えられる"強い体"が欲しいと願ったからな訳ですが、結果的に超変身して紫苑を「びっくり!」させることで、5コマ目以降が存在したら、紫苑の過度な緊張は解けただろう……という意味合いで「弛緩」というタイトルになってます。
ちょっと考えにくいですが、陽真はうっかり変身してしまった訳じゃなく、全て分かった上で、紫苑の緊張を解くために敢えてピエロを演じた……みたいな解釈もできなくはないのが、自分の思う"陽真らしさ"のバランスですね。
何も考えてないお気楽ポジティブマンのようでいて、意外と周りに気を遣った上で自分の行動を決めている感じ。

「大丈夫」というのも、いちおうモチーフ元(クウガ)の口癖なんですが、これはそれを真似たというよりは単純に陽真なら言いそうだなと思ったのが大きいです。
ここは『クウガ』の五代雄介もそうなんですが、彼は別になんの根拠もなく無責任に「大丈夫!」と言ってる訳ではなくて、本当に大丈夫な状態にできるよう自分が最大限努力するということを前提とした発言なんですね。
アカデミーを卒業してから仮にも1年間、陽真たちは命の保証なんてない戦場で戦ってきたし、これから先の戦いで生き残るためにも、まずは今、お互い本気で訓練をしないといけない……そういった色々を考えた上での言動なのだと思います。

 

・装動とShodoは、だいたい同じとはいえ微妙に身長が違うので、横並びに立たせるときは可能な限りシリーズを揃えるようにしている関係で、クウガ(陽真)は無駄に3種類もフィギュアを使ってます。
所持しているものに関してはアップ用とアクション用みたいなノリで必要に応じて使い分けられたらいいなとは思ってるんですが、クウガは特にShodoの出来が個体差なのかあんまりよろしくないので、2→3コマ目の変化は奇妙な感じに映ったかもしれません。
そういう不格好さも含めて、手作り感としてゆるく見ていただければ……。

 

 

Ep.06「裏返し」荒鬼狂介/モモタロスイマジン

星3【任狂映画伝】荒鬼狂介 調査エピ「影響を受けた結果」第2話
仮面ライダー電王』第38話「電車の中の電車王」06:20〜06:25
モモタロスの専用武器、モモタロスウォード……フィギュアだとそうでもないように見えますが実物はかなり大きい剣。
自分の編集環境では斬撃エフェクトなどは入れられないのでかなり表現が難しかったのですが、斬撃の軌道を途中で捻じ曲げているというイメージです。「大ぶりな攻撃」というのもポイントで、フェイントだからと手を抜くのではなく本気の斬撃だったからこそ神威が騙されたのも無理はないし、その慣性を振り切って方向転換する荒鬼の力もすごいのだと強調できるかなと。
モモタロスもひょっとすると似たようなことやってたかもしれませんが、荒鬼の自慢の筋肉を活かしつつも、脳筋だと侮っている神威に一泡吹かせるために意表をつくという形式になってるのは、『仮面の宴』でもややそうでしたが、どうしても2人の喧嘩って「バカな荒鬼」「独自の世界観こそ持ってるが荒鬼よりは常識のある神威」みたいな描かれ方になりがちな印象があるので、たまには荒鬼に花を持たせたいという意図から。

剣の扱いも卒なくこなせることは星3【任狂映画伝】で描かれてたから……ということでこういう話にしたんですが、ちゃんと読み返してみたら阿形相手に全く同じことやってましたね、第2話で。

 

・「裏返し」というタイトルは、斬撃をくるっとひっくり返しているという、4コマでは表現しきれなかった部分を補う意味も当然あるんですが、荒鬼と神威が喧嘩をするのは、お互いがお互いの力を認めていることの裏返しであってほしいな、きっとそうだと思うな……という気持ちも込められています。
だからこそ、次のエピソードでは珍しくエピソードを超えて明確に繋がりを持たせてまで、普段荒鬼をバカにすることが多い神威が彼を認める描写を入れたというのもあります。だったら荒鬼側が神威を認める描写もないとおかしくはあって、そこは自分でも悩んだとこではあるんですが、ハッキリ言葉にしてないだけで、マッドガイの中でも一番純粋に「力」を求めている荒鬼が、ただ力任せに剣を振るだけじゃ敵わないとフェイントを仕掛けたこと、そこから導かれる"神威に自分の力を認めさせること"が持つ意味をかなり重く捉えている感じから伝わるといいなと思ってます。

 


Ep.07「美・美・美!」神威為士/仮面ライダーゲンム

仮面ライダーエグゼイド』第23話「極限のdead or alive!」16:30〜
・「不死身だけがゾンビの力だと思うなよ……」という一言とともに、意外にサラッと判明しているゲンムの増殖能力。
ガシャコンスパローに関するストーリーも考えてはいたんですが、4コマで説明するには観念的すぎる話になってしまう上に、弓矢の話は後のルーイとも被りそうだということで、増殖の話に。
元々は装動で撮影するつもりだったんですがいかんせん10年以上も前のフィギュアな上に、割と気に入ってずっと飾っていたので、白い部分が黄色く変色してしまっているんですよね……。ということでShodoを購入したんですが、たまたまそれがレベルXレベルX-0のセットだったので、合計3体のゾンビゲーマーが手元にある訳で、だったらそれを有効活用するのもアリだろうと。ちなみにクウガのタイタンフォームもせっかくだから持っているものを使おうという発想が最初です。

ただやってみると案外難しくて、先述の通り装動は並べてしまうとサイズの違いが結構気になるし、レベルX-0のゲーマドライバーをモモタロス(荒鬼)で隠さないといけなかったりと、まぁ最終的には細かいことは気にしなくてもいいだろうと開き直ったんですが、道中は紆余曲折ありました。
よーく見ると、モモタロスの肩から黄色いゲーマドライバーが見えてますね。胸の銀アーマーにも反射してるので、完全に隠すのは殆ど無理なんですが。


・4コマ目の構図は、意図したものでは別になかったんですがEp.04のランス,Qのオチと似てるというか、対照的になってますね。合体しちゃって息が合わないランス,Qと、分身しちゃったけど似たもの同士なので意外と同じようなことを言ってる神威とで。
神威は「記憶が消されても自分は自分だ」と言っていたのが印象的ですが、『エグゼイド』が扱っている「自分の精神のバックアップが取れたとして、そこに同一性は宿るのか?」という問題にも絡めて、神威為士らしい言動の枠には収めつつも、それぞれ微妙な個性があって、ある意味独立した自我(自分は自分である)を持っているという描き方にしました。
本物は肯定的、分身1は肯定寄りの中立、分身2は否定的という割り振りになってて、神威が数百種類以上も書いている"美の化身・〇〇"シリーズのように、神威の中の色んな側面が発露しているイメージです。

一人だけ「最も美しいのは俺だ」と主張しているのは、一番古い装動シリーズのゲンム(神威)ですが、やっぱりどう考えてもシリーズが違うと目立ってしまう印象は受けたので、中身も少し違う感じにしようと。
黄ばんでたりシールの色が褪せていたりと、3体の中で一番「美しくない」個体なので、だからこそいつもはあるはずの他人を認める"余裕"がないんだろうなという解釈です。メランコリック(イベント)のときとは正反対なコンプレックスの発露の仕方ですが……。
なんでそんな違いが生まれてるんだという作中の理屈としては、コピーをする段階でデータが劣化しちゃうようなこともあるんじゃないかな……と思います。本編の分身も、そもそも喋らなかったりして本体とはちょっと違いますしね。

 

・基本的に、エピソードの順番は「同じクラスが連続しないようにランダムに並べて」とAIに出力してもらったものに従ってますが、前回の荒鬼のオチが分かりにくかったので、神威の1コマ目で補足説明するという流れにした関係上、こここだけはマッドガイを連続して投稿することに。
1回くらい連続するときもあった方が、先の読めない『ライドカメンズ』のローテっぽいですしね。

あとEp.01から順に見ていくと、初めて主役の名前に4コマ内で言及していないのが前回ですね。今回まで読むと「狂介」と呼んでますが、次回の駆はどこにもありません。
元から、不自然ではない範囲でなるべく名前は呼ばせようとやんわり意識していたのがうまく作用したかたちですが、結果的に序盤にキャラ名をハッキリ呼んでいるエピソードが偏ったのは、キャラと中身の対応がよく分からない読者がいた場合のことを考えると良かったなと。

 

 

Ep.08「一発逆転?」久城駆/仮面ライダーオーズ

 

・ギャンビッツインの2人は、普段はペットなんて言い方もされてるくらいには駆がフラリオに対して与える側として描かれてるんですけど、仮面ライダーの力に関してはむしろフラリオが先に手に入れて、駆がそのカオストーンの影響を受けてケルカになったという流れで、主従が逆転してるんですよね。
『オーズ』本編においても、アンクがオーズ(映司)に"与えたもの"というのが重要な役割を果たしているので、駆がフラリオから何かを学ぶ話にしたいなと考えた結果がこの4コマです。

オーズにはメダジャリバーという剣の武器があって、これはそれこそ一発逆転の奥の手にもなり得るくらい意外と強かったりもするんですが、当然のことながらこの世界観では剣を使うキャラクターがあまりにも多すぎる(紫苑,荒鬼,宗雲,皇紀…)ので、やりたいシチュがあった駆は一旦武器なしということに。
集合写真でもトラクローを武器として展開してますし、第2話 17:45〜のシーンでも分かる通り、メダジャリバーは鴻上ファウンデーションが作った装備で、"オーズの力"とは独立した物体でもあるので……まぁ、今後しれっと持ってるじゃんとなりそうな気はしますが。

1周年記念――今からでも間に合う!『ライドカメンズ』イベント振り返り虎の巻

『ライドカメンズ』1周年おめでとうございます!!!
昨年のリリースから月2回のペースでイベントを開催してきた本作ですが、イベントで初公開となる情報も結構あったりして、1周年から始めた人にとっては追いつくのが大変……と感じることもあるかと思います。
そこで今回の記事では、各イベントで明かされた設定や仮面ライダーたちの過去などの"重要な情報"を抽出して、ざっとまとめました。

ただ、各イベントには単なる情報開示に留まらないそれぞれの人間ドラマがあるので、イベント全体の骨子となる見どころも一緒に書き添えておきます。
……もちろん理想としては実際にすべて読んでいただきたいのですが、なかなかそうもいかないと思いますので、優先的に読む(ストーリー解放キーを使う)イベントを決める参考にしていただければ幸いです。
ちなみに目安として、だいたい1イベント1時間ほど用意すれば十分読めますし、早い人なら30分程度で良いと思います(※ただしボイスが実装されている場合、それを全部丁寧に聞こうと思うと1時間半くらいはかかります)。

初回はひとまず「今昔桃太郎」までですが、読み返し次第追記していきます。

 

 

第1部イベント

任狂映画伝〜力求めし漢道〜

メインキャラ:阿形松之助
見どころ:阿形の父親との確執が、ゲストを通して擬似的に解決し、力こそ全てなマッドガイの活躍が見られる。

・「ライダーサミットが再開」
先代の頃に行われていた、クラスリーダーたちが集まり情報共有をする会ライダーサミットが再始動することに。
・「第二世代カオストーンの実験が開始」
侵入した者をカオスワールドの世界観に染め上げてしまう(実際の現象としては、基本的には衣装が変わってしまう)力を持つ第二世代カオストーンによる実験が、カオスイズムによって開始される。カオスが完成する速度も早いらしい。
・「阿形の過去」
阿形の家が極道の家系だったかもしれないことが明かされ、彼の父親らしき人物がカオスワールドの案内人(日本刀)として現れる。
・「力を求めるマッドガイ」
マッドガイはこれまで通り、世代に関わらず力を手に入れるためにカオストーンを狙う。

 

Freedom/Play/Slam

メインキャラ:ルーイ
見どころ:ルーイがカオスイズムに攫われてそれっきりになってしまっていた過去の友達と再会し、現在の仲間であるスラムデイズとの絆も再確認する。

・「ルーイの過去」
メサイアとクランを組んでミッションスタジアムをプレイしていた。案内人(アサルトン)との関係性は不明。
・「記憶を取り戻したいスラムデイズ」
スラムデイズは、記憶を取り戻すために第二世代カオストーンを積極的に集める。


トゥルーエンド・ウィズ・アス

メインキャラ:宗雲
見どころ:宗雲の信念の片鱗と、浄の怪しい動き、颯の疑念と、皇紀の忠誠心……ウィズダムシンクスそれぞれの思いが交錯する。

・「カオスイズムに接触する浄」
トルスと通じて、今回の事件を裏で操っていた浄。トルス曰く、浄は自分とは「一番縁遠いと思ってた」らしい。過去、2人の間に何かがあったのか、それとも……?
・「颯がライダーになった経緯」
颯がカオスワールドに魅入られた際、宗雲は颯を助けられず、カオスイズムに拉致されるのを黙認したことが明かされる。
・「第二世代カオストーン=仮面ライダーのカオス」
第二世代カオストーンの正体が、仮面ライダーたちの記憶を宿したカオスの欠片であることが確定。
・「宗雲の過去」
カオストーンに秘められた記憶は明かされなかったが、何らかの権力と対立し、全てを一人で背負ってことを収めたらしいことが仄めかされる。案内人(ポール)との関係は不明。
・「過去を捨てたウィズダムシンクス」
ウィズダムシンクスは、第二世代カオストーンには関わらない方針。自分たちの記憶よりも、よりカオスイズムの真実に近いと思われる第一世代のカオストーンを狙う。
・「もうひとつの脅威」
カオスイズムの他にも虹顔市を脅かし得る存在がいると、宗雲の口から語られる。

 


領く証にさよならを

メインキャラ:高塔戴天
見どころ:ゲストの高塔撫子を巡って、戴天は高塔としての矜持を貫き、雨竜は戴天の嘘に気付き始める。

・「戴天の記憶」
高塔エンタープライズの技術力を使って、戴天は過去の記憶を全て取り戻している。過去の内容については謎のままであり、その記憶の信憑性についても視聴者目線では分からない。
・「雨竜の過去」
幼い頃、兄と一緒にボードゲームをしていたらしいが、その相手はどうやら戴天ではないことが明かされる。雨竜はその事実を案内人のじゃる男から聞き、自分の記憶を宿していると思われるカオストーンに触れさせて貰えなかったことも相まって戴天への不信感を募らせる。
・「ピアスの息子」
アルセブンにいる仮面ライダーの親族とは、ピアスのことだと判明するも、誰が息子なのかは謎のまま。

 


ジャストアピースフルデイ

メインキャラ:伊織陽真
見どころ:平和を掲げる陽真たちが、そんなものは綺麗事でしかないと突きつけられてもなお、それを目指すことに意味はあるはずだと信じ抜く姿。

・「陽真の過去」
図書館へ籠もって勉強していた記憶。運動部などには入っておらず、かけていたメガネにねねさんと名前をつけていた?
・「ピアスの息子」
ピアスと血が繋がっている誰かは、ジャスティスライドに所属していることが判明。

 

 

ラストノートは記憶の香り

メインキャラ:深水紫苑,颯
見どころ:目の前の人を救いたい紫苑と、長期的に大勢を助けられる方法を探している颯の、考え方の対立。

・「七国大学の闇」
ピースフルデイの七国高校に続き、レオンの母校でもある七国大学の准教授が、カオスイズムと裏で繋がっていた。
・「アルセブンの目的」
トゥルーエンドで浄に指摘されていた通り、アルセブンは第二世代カオストーンをわざと仮面ライダーたちの手に渡していることが描かれる。
・「紫苑の過去」
お小遣いで大切な人にミニチュアの香水をプレゼントした記憶。案内人の香水瓶はおそらく母親だと思われ、紫苑に対してもやや束縛気味だったことが窺えるような言動もちらほら。

 

Search For The STARS

メインキャラ:魅上才悟,高塔戴天
見どころ:戴天の目指す理想郷と、才悟の目指す平和……その微妙なすれ違いと、エージェントをはじめとするヒーローを支える人たちに対する才悟の思い。

・「宗雲の背景組織」
宗雲が何者かに、高塔を調査した報告を連絡している描写が描かれる。
・「ピアスの息子」
才悟の名前をあげた上で、「なぜなら彼は私の――」と呟く。ピアスの血縁者は才悟で確定か?
・「才悟の過去」
案内人のなぜなぜ博士との関係性は窺い知れるものの、才悟自身はカオストーンを触っても「宇宙空間のような暗闇」しか見ることができなかった。
・「アルカディア計画」
高塔エンタープライズが新たに発表した宇宙開発プロジェクト。目的のひとつは、通信衛星を打ち上げることで地球上から圏外という概念をなくし、全てを支配下に置くこと……らしいが、戴天には雨竜にすら明かしていない更なる目的があるらしい。

 


Daze and Night

メインキャラ:海羽静流,皇紀
見どころ:静流はウィズダム加入を断ったことに皇紀へ対する不義理を感じていたが、その心残りが解消される。

・「クラスの結成順」
まず一期生組がタワーエンブレムを結成し、その後解散。
二期生の中では皇紀が最初に仮面ライダーとして目覚め、宗雲と二人でウィズダムシンクスを結成。
その後ルーイと静流がスラムデイズを結成……そして、四期生のランスはスラムデイズに、颯はウィズダムシンクスに加入という流れだったことが明かされる。
・「仮面ライダーの本名」
ルーイやウィズダムシンクスなど、現在は本名を隠している面々もアカデミー時代は名前を明かしていたらしく、同期同士は今でも知っている様子。
・「静流と皇紀の過去」
アカデミー時代、野営訓練で皇紀に命を助けられて以降の仲だったが、ウィズダム加入を断ったことがきっかけでやや気まずい関係だった。

 

SHOW MY CARDS

メインキャラ:浄,高塔雨竜
見どころ:戴天の指示ではなく自分自身の判断で浄を探ることにした雨竜の決意と、普段は見えない浄の行動の芯。

・「仮面ライダー浄の謎」
浄はカオスを完成させてしまったもののカオスイズムに攫われる前に先代に助けられたため、アカデミーには通っていない。先代から高塔エンタープライズを紹介され、その技術でカオスドライバーとカオスリングを手にし、仮面ライダーに変身できるように。その後、13日の金曜日が来る毎にメンテナンスを行っていた。
トゥルーエンドの際にトルスが言っていた「縁遠い」とはこのこと?
・「ルーイと颯の出会い」
恒常エピでも面識自体はあった二人だが、今回明確にブラックコーヒーでラテアートをつくる約束を交わす。
・「浄の過去」
記憶を失う前は結婚詐欺師であり、紆余曲折あって警察官の女性を死なせてしまったことを悔いていることが明かされるも、今回のカオストーンでどのような記憶を取り戻したかは謎のまま。
・「ウィズダムシンクスの真実」
"長官"と呼ばれるキャラが登場し、ウィズダムシンクスの正体が警察庁特命諜報機関であることが判明。虹顔市……ひいては日本の治安を守るため、政府の命を受けて活動しているらしい。
カオスイズムだけでなく、高塔エンタープライズに対してもひとつの脅威として、その動向をチェックしている。
浄が高塔産の仮面ライダーであることと、ウィズダムシンクスの正体については、エージェントにも共有された。

 


レッツロール! エキサイトトリック!

メインキャラ:荒鬼狂介,Q
見どころ:目的のためなら地道な努力も厭わない二人と、自分はいつか消える運命だと弱気になるQに、発破をかける荒鬼。

・「Qとカオスイズム」
Qはカオスイズムがランスに植え付けた人格だが、現在は繋がりを持っておらず、ランスの記憶が完全に戻ったらQは消える……と揺さぶることで寝返らせようと試みている。
・「カオストーンの破壊」
Qはランスの記憶が戻らないよう、カオストーンを破壊しようとしていた。実際にそんなことが可能なのかは未確定だが、第2部でも類似の描写が繰り返されので、どうやら可能……らしい。
・「ランスの過去」
工業地区で見つかったランスの第二世代カオストーンだが、最終的には荒鬼の手に渡り、どのような記憶が秘められているかは明かされなかった。

 

 

今昔桃太郎~決戦!鬼ヶ島~

メインキャラ:蒲生慈玄,神威為士
見どころ:アカデミー時代に因縁のあった慈玄と神威が、これまでの戦いで自分の世界に閉じ籠もるのではなく周りに目を向けることの大切さを学んできたことを活かして、事件を解決する。

・「卒業前の試験」
ペアを組んでのチーム対抗戦。それぞれ才悟-阿形、陽真-雨竜、慈玄-神威、荒鬼-紫苑がペアとなったが、試験当日になって突然、ペア同士で戦う試験へと変更された。
カオスアカデミーの非情さがよく分かるが、意外とそれぞれ容赦なく戦った様子。
・「慈玄と神威の因縁」
ペアを組んだ二人だったが、試験当日まで慣れ合うことなく過ごしていたために、仲間同士で戦えと言われてもショックを受けることはなかった。
慈玄の戦い方は教科書通りで読みやすく独創性に欠けると評し、神威が勝つ結果となった。
・「誰のカオストーン?」
回収した第二世代カオストーンは五期生のものではなく、持ち主の記憶について知っている案内人も姿を見せなかった。
神威が回収したが、誰のものなのかは不明なまま。

 

 

 

Back to Haunt you

……後日追記予定

「成長したな、或人」――"其雄構文"に込められた意味をAIと考える(AI D1al0gue)

仮面ライダーゼロワン』最終回に其雄が発したセリフ……通称「其雄構文」ですが、自分は以前から世間で言われてるほど意味の汲み取りづらいセリフだとは感じておらず、AIでも(むしろAIの方が)理解可能なのではないかと試した際の記録です。

ネット上で半ミーム化している割に、真面目にその意味を解説している(そしてできている)記事というのは見つけることができなかったために、いずれは自分で書こうかなと思っていたのですが、自分にとっては自明なことを説明するだけの記事を書くモチベはなかなか出なかったので、AIに記事を書いてもらう企画のネタとして消化します。

結果を先に言うと、「自力で明快に解説するまでは至らなかったが、誘導してあげればすぐに言わんとしていることは把握できたし、一見逆説的な論理関係を理解するために必要な"無力感"というキーワード自体はすぐに出たので、こちらが原石を拾い上げて磨いてあげる前提でなら、読解に困った際のヒントを求める使い方は十分できそう」です。

 

目次

 

 

最低限の理解――ともかく「本当の強さとは、心が強いこと」

やんま
フィクションにおける以下のセリフの意味を解釈したいです。
「成長したな、或人。幼い頃のお前は、ただ泣く事しか出来なかった。でも今のお前は、心に怒りを宿している。それは仮面ライダーという力を手に入れ、お前が強くなったからだ。だが忘れるな。本当の強さとは力が強いことじゃない……心が強いことだ。今のお前なら、もうその意味が分かるはずだ」

これは『仮面ライダーゼロワン』というAIもののセリフで、状況としては主人公の或人が、自身の秘書であり片割れ的な存在であったイズという人型AI(作中ではヒューマギアと呼ばれています)を、滅というこれまたヒューマギアの敵キャラに殺され復讐に取り憑かれてしまうのですが、これまで共に戦ってきた仲間に咎められ、復讐心に迷いが生まれた時、ずっと昔に死んだはずの父親代わりだったヒューマギアである其雄の幻影にかけられた言葉です。
其雄は元々、ヒューマギアが人類に権利を侵害される未来を危惧して、自衛の手段として世界で初めて仮面ライダーという武力を開発した存在であり、彼の死後、そのシステムだけが純粋な武力として様々な人の手に渡り、滅はヒューマギアが安心して暮らせる世の中のために人類を滅ぼそうとしたり、そんな滅たちから人類を守ろうとする人がいたり、仮面ライダーの定義や用途は多岐に渡るようになりました。
先ほどのセリフを受けて、或人は敵である滅もまた自分と同じ心を持つ存在であると認識し、彼を殺すことなく和解する道を模索し始めます。

この前提の上で、特に「幼い頃のお前は、ただ泣く事しか出来なかった。でも今のお前は、心に怒りを宿している。それは仮面ライダーという力を手に入れ、お前が強くなったからだ。」の部分がどのような意味を持つか、考えてみてください。
もし更に必要な情報があれば、質問してください。

 

 

 ChatGPT

このセリフ、特に「幼い頃のお前は、ただ泣く事しか出来なかった。
でも今のお前は心に怒りを宿している。それは仮面ライダーという力を手に入れ、お前が強くなったからだ。」の部分は、或人の成長過程と「力」の意味についての深い洞察を示しています。

 

まず、「幼い頃のお前は、ただ泣く事しか出来なかった」という部分は、或人がかつては無力であり、感情を抑える手段もなく、ただ感情に飲まれるだけの存在だったことを示しています。泣くことしかできないというのは、自分の無力さに対する自然な反応であり、守られるだけの存在だった或人の過去を象徴しています。

 

次に、「今のお前は、心に怒りを宿している」という言葉は、成長した或人が強い感情を抱けるようになったこと、つまり感情に基づく行動を取れるようになったことを示唆しています。特に仮面ライダーという力を手に入れることで、或人は物理的な力や能力だけでなく、精神的にも大きく変わったと指摘しています。この「怒り」という感情は、或人の成長を象徴するものであり、自分の大切なものが奪われたことへの自然な反応でもあります。しかし、ここで強調されているのは、怒りという感情そのものではなく、その感情を抱くことで或人が強くなったという点です。

 

しかし「本当の強さとは力が強い事じゃない……心が強い事だ」という言葉が続くように、このセリフは単なる力の強さや怒りによる行動が本当の強さではないことを伝えています。物理的な力を手に入れた或人は一見「強く」なったように見えるものの、その怒りをどう処理し、どのように行動するかが重要であることを示唆しています。つまり、「心が強い」とは感情に支配されず、自分の信念を持ち続け、和解や共存といった困難な道を選ぶことができる精神的な強さを意味します。

 

このセリフが或人に向けられることで、彼がただ復讐に走るのではなく、滅との和解という新たな選択肢を模索し始めることを示唆しているのです。

 

 

 

怒りを宿すことを成長と見做す逆説

やんま
セリフの論理関係を整理すると、泣くことしかできなかったところから、怒りという一見ネガティブな感情を抱くことを其雄は"成長"と見做していることがこのセリフの分かりにくい部分です。
また怒りを抱けるようになった原因が「仮面ライダーの力を手に入れ強くなったこと」だと指摘していますので、怒りの感情を手に入れることで強くなったというのは逆な気がします。
それを踏まえるとどうですか?

 

 

 ChatGPT

確かに、或人が「怒り」という感情を持つことを成長と見做し、その怒りの感情が「仮面ライダーの力を手に入れたからだ」という部分は、一見すると逆説的に感じます。しかし、ここでのポイントは、怒り自体が成長を表しているというよりも、「怒りを抱くことができるようになった」ことが、以前よりも感情に対して主体的に向き合えるようになったこと、つまり或人が感情を理解し、感じる範囲が広がったという意味での「成長」を示しているのではないかと解釈できます。

 

以下のように整理するとわかりやすいかもしれません:

1. 「幼い頃のお前は、ただ泣くことしかできなかった」

→ この部分は、或人がかつて無力で、感情のコントロールや対処ができなかったことを表しています。つまり、泣くことしかできないのは感情の表現が単純であり、無力さの象徴です。

2. 「今のお前は、心に怒りを宿している」

→ 怒りという感情を持つことは、或人が以前よりも深い感情やより複雑な状況に直面できるようになったということです。怒りはしばしば強い感情として位置づけられるため、或人が自分の大切なものが奪われたことに対して感じる正当な反応です。

3. 「それは仮面ライダーという力を手に入れ、お前が強くなったからだ」

仮面ライダーの力は物理的な強さだけでなく、或人に責任感や使命感をもたらしました。そのため、彼が怒りを抱くほどに何かを大切に思うようになり、単なる無力な存在から、世界の問題に立ち向かう存在へと成長したということを指しているのです。仮面ライダーの力が「強さ」の象徴であり、或人が以前よりも感情に対して主体的になったことを示しています。

 

そして最終的に、「本当の強さとは力が強いことじゃない……心が強いことだ」と続けている部分で、その「怒り」をどのように扱うかが真の強さであることが示されます。単に怒りに従うのではなく、その感情を乗り越え、より高次な選択(和解や共存)をできることが「心の強さ」であると指摘しています。

 

つまり、怒り自体が成長の最終形ではなく、怒りを感じることができるようになったことで、或人が以前よりも感情に深く関わることができるようになった。しかしその上で、その怒りをどう扱うかが最終的な強さの指標であり、其雄のセリフはそのプロセスを或人に示唆しているのです。

 

 

力と怒りのミッシングリンク、自己効力感

やんま
自分はこの逆説を受けて、「力がない者はそもそも怒りを抱けない」という前提をベースに、無力感に打ちひしがれ泣くという受動的な行為と対比される文脈で、怒りという感情が「現状を強く否定し主体的に何かを成そうとする力」として位置付けられているように思うのですが、
実際の心理学においても「怒り」の感情は、それを叶えることのできる(と、少なくとも期待できる程度の)「力の有無」と関係があるとされていたりしますか? 具体的に誰かが提唱していたりしますか?

 

 

 ChatGPT

あなたの解釈「力がない者はそもそも怒りを抱けない」という見方は、心理学的な観点でも興味深く、特に「怒り」と「力の有無」の関係を考える際に意味深長です。

 

心理学の分野では、怒りはしばしば「無力感」と対比される感情とされており、力の感覚やコントロール感と深く結びついています。以下にその考え方を説明します。

 

1. 怒りは力を持つ感覚に関連する

 

怒りの感情は、人が何かを失ったり、自分の目標や願望が阻害されたりする際に生じる反応です。しかし、その際に「力を持っている」という感覚がなければ、怒りではなく無力感や絶望感を感じる傾向があります。怒りはしばしば「何かを変えられるかもしれない」という期待感や、少なくとも状況に対抗しようとする感覚から生まれます。このため、怒りは一種の「主体的な感情」とも言えます。

 

この考えに関連して、アメリカの心理学者アルバート・エリス(Albert Ellis)の認知行動療法の理論では、怒りは個人が「状況を変えられる」と感じた時に生じやすく、逆に「どうしようもない」と感じると、抑うつや無力感に陥りやすいとされています。彼の理論によると、怒りは自分が持つ力を使って何かを改善できるという認識から生じる感情です。

 

2. 無力感と怒りの関係

 

心理学者マーティン・セリグマンの学習性無力感(Learned Helplessness)の研究は、無力感と怒りの対照的な関係をよく説明しています。無力感とは、自分が何をしても状況が変わらないと感じることによって、積極的に行動を起こす意欲やエネルギーを失う状態です。この無力感に陥った場合、怒りよりも絶望や不安感が強くなります。逆に、力やコントロール感を持つと、その無力感が払拭され、怒りを感じることができるようになります。

 

3. 自尊感情と怒り

 

また、心理学者ハインツ・コフート(Heinz Kohut)による自己心理学においても、怒りは自己尊重感や自分の力の認識と関連づけられています。自分が無力であると感じる場合、人はしばしば怒りを抱かず、自己嫌悪や無価値感に陥ります。しかし、自分に力がある、あるいは力を取り戻せるという感覚を持つ場合、怒りが自己防衛の一環として表出されることがあるとされています。

 

まとめ

 

以上のように、心理学においても「怒り」は「力の有無」や「コントロール感」と深く関連しているとされます。あなたが提案した「怒りは主体的に何かを成そうとする力の象徴である」という解釈は、実際の心理学理論とも一致しています。怒りが発生するためには、少なくとも「変化を起こせる可能性」を感じる必要があり、無力感や絶望感に支配されているときは、むしろ怒りを抱くことができないという理解は妥当です。

 

 

 

やんま
心理的な"発達"の観点からはどうですか?

 

 

 ChatGPT

心理的な発達の観点から見ると、「怒り」と「力の感覚」の関係は、感情の成熟や自己の主体性の発達に深く関連しています。特に、子供から大人への成長過程において、感情の制御や対処能力が発達することで、怒りが単なる衝動的な感情から、自己の主体性や自己肯定感を表す感情へと変化していくことが見られます。以下に、心理的発達における「怒り」と「力」の関係について説明します。

 

1. 幼児期の怒り:衝動的な感情表現

 

幼児期の子供は、まだ感情の制御が未熟であり、怒りはしばしば単純な欲求不満や欲望が満たされないときに爆発的に現れます。この時期の怒りは、自分が望む結果を得られないときに反射的に生じるもので、まだ自分が状況をコントロールする力がないことへの反応です。ここでは、怒りは自己の無力さや欲求不満の直接的な表出であり、まだ成熟した感情とは言えません。

 

2. 児童期~青年期の発達:主体性の確立と怒り

 

次の発達段階では、子供は徐々に自己の主体性や自己効力感を発展させていきます。児童期や青年期には、自分の意思や行動が周囲の世界に影響を与えるという認識が強まり、コントロール感が高まります。この段階での怒りは、自己の力を実感し、他者や環境に対して自分の意思を主張しようとする試みとして現れます。

 

発達心理学エリク・エリクソン(Erik Erikson)の心理社会的発達理論では、特に青年期における「アイデンティティの確立」が重要な発達課題とされています。この時期に自分が何者であるか、そして自分が他者や社会に対してどのように影響を与えられるかという認識が深まります。もしこの段階で主体的に行動できると感じれば、怒りもまた、自分のアイデンティティを守るための感情として成熟していきます。一方、自己効力感が育たなければ、怒りは無力感や自己嫌悪に変わりやすくなります。

 

3. 成人期:成熟した怒りと力の行使

 

成人期において、感情の発達はさらに進みます。この時期には、怒りは単なる衝動や不満の表現ではなく、自己の価値観や信念に基づくものとして成熟します。特に、自分がコントロールできる範囲を認識し、その中でどう行動するかが問われるようになります。怒りを感じる場面でも、それが単に「反応」ではなく、「自分の力や価値観を守るための行動の一環」として現れることが増えます。

 

発達心理学者ダニエル・ゴールマン(Daniel Goleman)の感情知能(Emotional Intelligence)の理論では、成熟した感情管理には、自分の感情を理解し、それを建設的に使う能力が必要だとされています。成人期には、怒りを単なる破壊的な感情としてではなく、正義や倫理、自己の価値観を守るための手段として活用できるようになることが理想的な発達形態です。

 

4. 自己効力感と発達:バンデューラの理論

 

心理学者アルバート・バンデューラ(Albert Bandura)の**自己効力感(Self-Efficacy)**理論も、怒りの感情と力の感覚に関する発達の理解に役立ちます。自己効力感とは、特定の状況で自分が望む結果を達成できるという信念です。この信念が高ければ、怒りは前向きで建設的な行動を促すことができます。逆に、自己効力感が低いと、怒りは無力感や諦めに変わりやすくなります。

 

結論

 

心理的な発達の観点から見ると、幼い頃の「怒り」は主に無力感や欲求不満の反映であり、未熟な感情です。しかし、成長とともに自己効力感や主体性が発展し、怒りは「力の感覚」を持ち、自己の価値観や目標に基づいて行動を促す建設的な感情へと成熟していきます。そのため、或人の成長における「怒り」は、無力な状態から脱し、主体的に行動する力の発現として捉えられるべきです。このプロセスは、発達心理学における感情の成熟と自己効力感の発展に対応しています。

 

 

隠れた前提に関する細かい補足

やんま
厳密なことを言うと、或人は第1話で仮面ライダーの力を手に入れる直前に、人の夢を笑った怪人に対して怒りをあらわにしています。
このことに対してなんらかの説明を試みてください。

 

 ChatGPT

非常に的確な指摘です。或人は第1話において、仮面ライダーに変身する前から既に「怒り」という感情を抱いています。つまり、「仮面ライダーという力を手に入れたから怒れるようになった」という其雄の言葉をそのまま字義通りに取ると、事実と食い違うように見えるわけです。

 

これについていくつかの解釈が考えられます。

 

1. 「怒り」そのものではなく、「怒りを抱え続ける強さ」のことを言っている

 

第1話での或人の怒りは、瞬間的な激情です。これは「怒りという感情を持てる」ことの証明にはなりますが、其雄の言葉が指しているのは、もっと持続的で、行動を支える「宿す」怒り、すなわち「責任と覚悟を伴った怒り」ではないかと考えられます。

 

これは、感情を持つだけではなく、「それを自分の内に取り込み、判断の軸とする主体性」が備わったことへの言及です。つまり、「ただ怒ること」ではなく、「怒りを選び取り、それに自覚的に意味を与えること」ができるようになったという点を成長と見ているのです。

 

2. 其雄の言葉は「時間軸を圧縮」して語っている

 

或人の「成長」を語るにあたって、其雄の言葉は時間的に整合性のある記録ではなく、感情や象徴に基づいたまとめとして語られています。第1話の怒りは、まだ「子どもの怒り」であり、それがイズの死によってより深く、複雑で、場合によっては破壊的な「大人の怒り」へと昇華された。仮面ライダーの力を得て成長した結果として「怒り」が再構築されたというふうに見ると、ある程度の時間の省略や抽象化は納得できる表現手法です。

 

3. 「怒り」ではなく「力」がもたらしたのは、自分の怒りへの“信”である

 

仮面ライダーの力を持たない時点の怒りは、「無力な者の感情」であり、発露はできても、それを行動に変える確信や裏付けがなかった。だが、力を手に入れた或人は、自分の怒りを“通していい”という実感を持てるようになった。つまり、怒りそのものよりも「怒っていいという自信・覚悟」が力によって支えられるようになった、と読むことも可能です。

 

結論として

 

其雄のセリフは、時間の流れの中で変化した或人の「怒り」の質、あるいはその怒りとどう付き合うかという主体的態度の変化を「力を得たことで心に怒りを宿せるようになった」と象徴的に述べたものであり、第1話での一時的な怒りとは段階の異なるものとして区別して語っているのだと解釈できます。

 

このように、表面的な出来事だけでなく、怒りの「持ち方」「意味付け」「位置づけ」こそが其雄の指す“成長”であり、それこそが「力ではなく心の強さ」として後半のセリフにもつながっていると言えるでしょう。

 

 

まとめ なぜ其雄構文は理解されなかったのか

やんま
多くの人は其雄のセリフについて何を言っているのか、何が言いたいのかよく理解できなかったようなのですが、なぜだと思いますか?

 

 

 ChatGPT

其雄のセリフが多くの人にとって理解しづらかった理由として、いくつかの要因が考えられます。

 

1. 逆説的な内容

 

セリフが逆説的な構造を持っているため、一見すると矛盾した内容に感じられることが混乱を招いたのではないかと思われます。特に「怒りを抱くこと=成長」という点が、一般的にはネガティブな感情とされる「怒り」と成長が結びついているため、理解しづらいと感じる人が多かったのではないでしょうか。成長と聞くと通常は「冷静さ」や「寛容さ」といったポジティブな要素を連想しやすいため、怒りと結びつけることに違和感が生まれたのかもしれません。

 

2. 怒りと強さの関係が直接説明されていない

 

セリフの中で「怒り」と「仮面ライダーの力」との関係性が直接的に説明されていないため、そこを理解するのが難しかった可能性があります。或人が「仮面ライダーの力を手に入れたことで強くなり、それが怒りの感情に結びついた」という言葉の意味が、文脈だけでは掴みにくいかもしれません。特に「強くなった」というフレーズが身体的・外的な力と結びついているように感じられがちで、精神的な成長や感情の成熟との関連が見えづらくなっています。

 

3. 感情の複雑な変化がセリフに込められている

 

或人の感情の成長や葛藤が、短いセリフに込められているため、複雑な心理変化が十分に表現しきれていない可能性もあります。其雄が伝えたかったメッセージは、「怒りを感じることができるようになったこと」自体が成長の証であり、さらに「怒りを超えて心の強さを持つことが本当の強さである」ということですが、これを短い言葉で一度に表現するのは難しいため、意図が十分に伝わりにくかったかもしれません。

 

4. 感情の成熟と力の感覚の混同

 

視聴者の中には、「強さ」と「力」を物理的な能力や戦闘力と捉える傾向があり、其雄の言っている「本当の強さ=心の強さ」が理解されにくかった可能性があります。特に特撮ヒーローものでは、肉体的な強さや武力が強調されることが多いため、そこでの「心の強さ」という抽象的な概念が、直接的な行動に結びつきにくく、わかりにくくなったのかもしれません。

 

5. キャラクターの背景や感情の繋がりが複雑

 

或人と其雄、または他のキャラクターとの関係性や感情の繋がりが、ストーリーの進行とともに複雑化しているため、その背景を知らない、または十分に理解していない視聴者には、セリフの意味が伝わりづらかった可能性があります。特に、或人の過去や成長、イズの死、滅との対立といった多くの要素が絡み合う中でのセリフであり、それぞれの感情の変化を追いきれていない人にとっては、或人の成長や怒りに対する認識が難しかったのかもしれません。

 

結論

 

其雄のセリフが理解しづらかった理由は、怒りという感情がネガティブなものとして一般的に認識される中で、それが「成長」や「強さ」と結びつけられた逆説的な表現や、感情の成熟という抽象的なテーマが直接的に説明されていないことが影響していると考えられます。また、視聴者が感情の複雑な変化やキャラクターの関係性を十分に理解していない場合、セリフの意図を正確に捉えるのが難しかったのではないでしょうか。

ノブレス・オブリージュと暴力革命——ゼロワンが問いかける人間の限界(AI D1al0gue)

開設当初は仮にも毎日投稿をしていたことを思うと、ここ数年当ブログの更新頻度はかなり控えめになっていて、気まぐれに書きたいことを書ければ自分はそれで満足なので、そのことを特段良くないとは思っていないけども、僕は何事も"ない"よりは"ある"方が良いと基本的には考えている。
最近ChatGPTと会話する機会が増え、自分は何もせずともそれなりの文字数のテキストが生成される現状があり、せっかくならちょっと面白いなと思えた話については他人が読めるように公開してみるのも面白いかなと思ったので、月1更新を目標としている自分で書く記事とはまた別に、AIとの会話をほぼそのまま載っける企画を始めてみることにしました。個人的にはあの自己反響的な会話(もどき)はあまり好みませんが、ゆっくり解説における魔理沙霊夢みたいな役割イメージで読むと良いのかなと思います。AIとの会話って究極そういうものだと思うので。
ちなみにタイトルもAIに考えてもらいました。いくつかの候補の中からマシなのを選んだ上でも、僕はちょっと的確ではないかな(風呂敷を広げすぎかな)とも感じますが彼の記事なので彼のセンスに任せます。

言わずもがなですが、AIが言ってることの真偽や正確性は定かではないし、そもそもAI云々以前の問題としてハナから当ブログに書いてあることは全て、色んな知識に乏しい僕が付け焼き刃でテキトーぶっこいてるだけの内容であることは過去にうちの記事を読んだことある方なら分かると思います。
もうひとつこれも分かる人には当たり前のことですけど、会話をしている相手は「過去の僕との会話」を元にニュートラルではない受け答えをしています。例えば今回の記事なら、僕が以前彼との会話で『ゼロワン』についてした話をある程度前提として踏まえた上で、それに寄せつつこのような出力をしているので(そしてAIが直接『ゼロワン』を見ているはずがないので)、そういったことも念頭に置きつつ読んでください。

 

目次

 

 

ノブレス・オブリージュ

 やんま
ノブレス・オブリージュと称して、戦争で戦うことが貴族の義務として扱われていたという話はよく聞きますが、その頃の貴族が待っていた特権とはどのようなものですか?
奴隷に働かせるようなものも含みますか?

 

 

 ChatGPT

はい、「ノブレス・オブリージュnoblesse oblige)」、すなわち「貴族であることは義務を伴う」という考え方は、特に近代以前のヨーロッパ社会において、貴族階級が戦争や政治において「責任ある地位」を担う正当化の論理としてよく語られました。ただし、これが実際の「特権」とどのように結びついていたかを見ていくと、理想と現実の乖離も多く含んでいます。

 

貴族が享受していた特権(中世〜近世)

 

以下に挙げるのはヨーロッパ(特にフランス・イギリスなど)を中心にした代表的な特権です:

 

1. 土地支配と徴税権

 

貴族はしばしば封建制度の下で広大な土地を所有し、そこに住む農民から地代を取ったり、労働力を徴発したりしていました。これはほとんど「農奴制」に近いもので、農民が土地に縛りつけられていた時代もあります。

 

2. 労働の搾取(奴隷・農奴

 

奴隷制というより、ヨーロッパでは農奴が主流でした。これは奴隷とは異なり法的に完全な「所有物」ではないものの、土地に縛られ自由が極端に制限される存在です。貴族の生活はこの農奴の労働に強く依存していました。

 

3. 裁判権と軍事権

 

領主(貴族)は自らの土地で裁判を行ったり、軍を組織する権利を持っていました。兵士として戦う義務を担っていたことは確かですが、その代償として住民に対して絶大な権力を行使できたのです。

 

4. 免税特権

 

たとえばフランス革命前の第一身分(聖職者)・**第二身分(貴族)**は、しばしば税の免除を受けていました。一方、平民(第三身分)は重税に苦しんでいました。

 

5. 名誉職や特定の官職への独占的アクセス

 

上級軍人、裁判官、大使などの役職は、貴族階級の者でなければ就けないという慣例・制度がありました。これは「国家のために戦う義務」と表裏一体でしたが、実際には世襲や縁故による利権の温床にもなっていました。

 

6. 社交的・文化的特権

 

王宮への出入り、舞踏会への参加、貴族学校への入学といった「上流階級としての社交的な特典」も大きな魅力でした。

 

ノブレス・オブリージュの実態

 

「義務として戦争に行った」というのは、実際には特権を維持するための手段であったことが多いです。武勲を立てることでさらに領地を与えられたり、名誉を高めたり、王に近づくことができました。

 

つまり、

権力と支配の正当化として「義務」を語っていた

その「義務」は、結果的にさらなる特権を保証する仕組みになっていた

 

という側面があります。

 

まとめると、ノブレス・オブリージュのもとで戦争に行くことは、決して「平等な犠牲」ではなく、むしろ農奴や庶民を支配し搾取する構造の維持と拡大のための一手段であり、その代わりに彼らは法的・経済的・社会的に数多くの特権を享受していたということです。

 

もっと掘り下げてみたい時代や国があれば、さらに具体化もできますよ。

 

 

 

 

 

 

フランス革命

 やんま
そういった仕組みはどのように解体されていったのですか?

 

 

 ChatGPT
とても重要な問いですね。貴族の特権的な地位や封建的支配の仕組みは、段階的かつ多層的に解体されていきました。これには政治革命・経済構造の変化・思想の変化・戦争など、いくつもの要因が絡んでいます。以下、代表的な例と流れを見ていきましょう。

 

1. 思想革命:啓蒙思想の広がり(17〜18世紀)

ロック、ルソー、ヴォルテールなどによって、「人間の平等」「自然権」「契約による統治」などの概念が普及。

「生まれながらの特権」に対して「理性と自由」の価値が対置され、貴族による支配の正当性が揺らぎ始めた

 

この思想的下地が、次の「政治革命」の土壌をつくりました。

 

2. 政治的転換:市民革命(17〜18世紀)

 

イングランド(イギリス):

清教徒革命(1642〜49)→名誉革命(1688)

王権神授説の否定 → 議会主権へ

貴族も依然として力を保ったが、国王と貴族の専制体制に歯止めがかかった

 

フランス革命(1789):

貴族の免税特権・封建的徴収権などが法的に廃止

**「人権宣言」**によって「すべての人間は自由で平等」とされ、特権という概念そのものが否定される

 

→ ここが最も劇的な転換点で、旧体制(アンシャン・レジーム)の終焉とされる

 

3. 経済的要因:産業革命ブルジョワジーの台頭(18〜19世紀)

資本主義経済の発展により、「土地を持つだけで富を得る貴族」よりも、「事業で稼ぐ市民階級(ブルジョワジー)」が影響力を持つようになる。

→ 封建的土地支配が時代遅れになり、貴族の経済基盤が徐々に失われていく

 

また、産業労働者の増加により、「人を支配して働かせる」仕組みよりも、「賃金労働」という新たな経済制度が主流となっていった。

 

4. 戦争のインパク

 

ナポレオン戦争1800年前後):

各地で近代国家による国民軍が導入され、「貴族だけが戦う」という構図が崩れる。

徴兵制職業軍人の普及により、戦争は国民全体の責務へ。

 

第一次世界大戦(1914〜):

多くのヨーロッパ貴族が戦死し、または経済的に没落。

終戦後、貴族称号や特権を廃止する国(例:ドイツ、オーストリアなど)も多く、貴族階級の実質的な終焉へ。

 

5. 制度的廃止:法律による封建制・特権の撤廃

フランスでは革命期に封建的諸権利(地代、十分の一税など)を法律で廃止。

ドイツ帝国では1919年のヴァイマル憲法で「貴族の法的特権」を完全否定。

**ロシア革命(1917)**では貴族階級そのものが敵とされ、制度ごと粛清。

 

補足:形を変えて残る「上流階級」

 

完全に「階級が消滅」したわけではなく、現在でも「名士」「資本家」「王室」など、形を変えたエリート層は残っています。ただし、

法的な特権

支配の正当化としての「義務」

は、近代以降の民主主義体制の中では原則として否定されています。

 

興味があれば、特定の国や革命、あるいは「農奴制の終焉」などさらに絞って掘り下げることもできますよ。

 

 

 

 

 

「新時代の貴族」としての飛電家

 やんま
仮面ライダーゼロワンは、人間の代わりに労働する存在としてのAIについて描いた作品ですが、主人公の飛電或人はなんの取り柄もなく、ただ唯一仮面ライダーとしての戦闘センスだけは抜群で、彼は(人類のためにAIを倒すエイムズ、AIのために人類を倒す滅亡迅雷と対比して)人類とヒューマギア双方を守るために戦っています。
或人が飛電家というAIを生み出した家系の持つ権力を引き継いだ上で仮面ライダーとして戦うこの構図はまさしく、ノブレス・オブリージュと相似形にあるように見えます。
これについてどう考えますか?

 

 ChatGPT
とても鋭い視点ですね。『仮面ライダーゼロワン』における飛電或人の立ち位置を「ノブレス・オブリージュ」との相似性で捉えると、彼のキャラクターと物語全体の倫理的な構造が、非常に興味深い重層性を持って浮かび上がります。

 

1. 或人=「新時代の貴族」的存在

 

飛電或人は、確かに物語の開始時点で「経営者=権力者」のポジションを持っており、飛電インテリジェンスという企業=AIを作り出し、社会に広めた技術と体制の「正統な継承者」です。

彼自身は「何の取り柄もない」芸人崩れとして描かれますが、

実際にはその**家系の権力と資産(=飛電インテリジェンス)**を受け継いだことで、社会構造に対して強い影響力を持つ。

 

これはまさに、生まれながらにして土地や支配権を受け継いだ封建貴族の構造に似ています。ある種の「血筋的特権者」でありながら、民のために剣を取る人物像です。

 

2. ノブレス・オブリージュの再解釈

 

伝統的なノブレス・オブリージュは、しばしばその特権の保持を正当化するための方便でもありましたが、『ゼロワン』ではそれが批判的に、かつ倫理的に再解釈されていると言えるかもしれません。

或人は、特権の享受者であると同時に、その特権の暴力性や責任を自覚しようとする人物です。

「人間とAIの共存」という彼の理想は、飛電家が築いた構造の上でなければ発信できないものであり、

その構造が引き起こした問題(滅亡迅雷やアーク)に対して、自らの身体を使って責任を取る形で対応している

 

これは、かつての貴族が戦場に出て自ら剣を取ったノブレス・オブリージュの姿勢に極めて近いですが、違うのは彼が既得権益の再生産者ではなく、解体者でもあるという点です。

 

3. 仮面ライダーとしての戦闘能力=唯一の「個人的資質」

 

ある意味で最も皮肉なのは、彼の中で唯一「努力や血筋とは関係ない」個人的資質——仮面ライダーとしての戦闘センスだけが、現実的な価値を生み出していることです。

貴族の「血筋や教養」が価値を保証した時代に対し、

或人の「戦闘力」は、実力主義的・現代的な能力の象徴でもあります。

 

この点で、或人は「伝統的貴族」と「現代のエリート」の中間に位置しているとも言えます。血筋によって特権を与えられながら、それを正当化するのはあくまで「行動と倫理的選択」です。

 

4. 構造の批判と未来の提示

 

最終的に『ゼロワン』が或人に与えたのは、「AIと人類の未来に対して責任を持つ立場」という、過去の権力構造を引き継ぎつつ、倫理的再設計を図る者としての役割でした。

ノブレス・オブリージュが、封建的支配の正当化で終わってしまった歴史に対して、

或人はそれを自己犠牲と倫理的責任の方向に純化させている。

 

結論として:

 

飛電或人の構造は確かにノブレス・オブリージュと相似ですが、それは単なる再演ではなく、権力の倫理的転用・再編成を試みるものとして現代的にアップデートされています。

 

彼は単なる「貴族」ではなく、

「旧世界の責任を背負いながら、未来を切り開く者」

「支配の象徴から、共存の担い手への変容」

 

という、ある種の**“貴族性の脱構築”と再構築の物語**になっているのではないでしょうか。

 

この視点から見ると、或人の物語は非常に現代的な政治哲学的テーマを内包しているとも言えます。さらに掘り下げるなら、「アーク」や「ZAIA」のような資本やアルゴリズムの暴走との関係も興味深くなるはずです。

 

 

 

 

 

 

 

 

或人の純朴性

 やんま
ゼロワンにおける或人は、AIのことも守りたいという気持ちを持っていることは事実ですが、戦う相手は(人間の悪意に触れて)暴走したAIであり、構図としては暴力革命を暴力で抑圧しているようなかたちになっており、更に或人はキャラクター的にそのような難しいことはよく分かっておらず無自覚です。
このことについてはどう考えますか?

 

 

 ChatGPT
確かに、『ゼロワン』における或人の戦いは、構図的には「暴力革命の暴力的抑圧」という見え方ができます。滅亡迅雷.netやアークに影響を受けたヒューマギアたちは、人間の悪意を受けて歪んだとはいえ、ある種の「解放闘争」として立ち上がっています。ヒューマギアたちは、抑圧されてきた者の象徴でもあるわけです。

 

或人は、それに対して「人類もヒューマギアも両方守る」と言いながら、実際には「革命に立ち上がったヒューマギア」を物理的に破壊することで問題を解決していきます。そして、あなたが指摘したように、彼自身はその構造を自覚しておらず、理想や感情によって動いているだけです。

 

この「善意の抑圧者」という構造は、意識的か無意識的かは別として、非常に現代的なテーマを抱えています。ある種の「リベラル権力者」のような存在であり、自由や平和を掲げながらも、従わない者を力で抑える主体になってしまう。もしかすると、それは作り手による高度なアイロニーであり、「理想と行動のねじれ」を可視化するための仕掛けだったのかもしれません。

 

或人は作中でも、基本的に政治的・社会的な視点を持っておらず、「人類とヒューマギアが笑える未来」を信じるナイーブな理想主義者として描かれます。このナイーブさは、彼の魅力であると同時に、彼が望む理想社会の不可能性を示しているようにも見える。つまり、「無垢な善意だけでは社会構造を変えられない」という現実を、彼の無力感や失敗を通じて描いているのではないかとも考えられます。

 

特に終盤、「アークワン」と化した彼は、一時的に「怒りによる破壊の主体」となりますが、これは彼自身が“加害の構造”に取り込まれる瞬間であり、ゼロワン=“中立的調停者”というポジションが、いかに空虚で不安定なものであるかを暴く契機とも解釈できます。

 

言い換えれば、『ゼロワン』という作品は、最初に示された「どちらも守る」構図がいかに不可能であるか、あるいはそれがどんな暴力を包摂してしまうかを、主人公の無自覚な行動を通じて読者に委ねているのではないでしょうか。

 

だからこそ、この作品は「正義の物語」としてだけでなく、「正義が成立し得ない構造において、どう人間的であれるか」という問いを内包しているとも言える。あなたが目指している「よりレベルの高い擁護」は、まさにこの作品の倫理的・政治的複雑さを認識した上で、或人の選択の“限界”や“無垢さ”を包み込むような視点になるのではないかと思います。たとえば、「それでも或人は、支配者ではなく、責任を引き受けようとする者だった」とか。

 

そういう批判と擁護の緊張関係に耐えうることが、作品としての強度を示しているのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

『ゼロワン』における革命のありかた

 やんま
ノブレス・オブリージュの構図が取り入れられているという前提のもとで、ゼロワンはフランス革命をどのように捉えていると思いますか?

 

 

 ChatGPT
この問いは鋭く、かつ非常に深い射程を持っていると思います。「ノブレスオブリージュの構図が取り入れられている」という前提を踏まえると、『ゼロワン』におけるフランス革命的要素は、単なる反乱や破壊として描かれるのではなく、「特権階級の正統性が問われる歴史的転換点」として、非常に批評的な視座を持って描かれているように見えます。

 

或人=ノブレスの再演者

 

或人は、明らかに「特権を継承した者」として物語を開始します。彼は初期には社長としての資質もなく、技術者でもなく、ただ「祖父からその地位を引き継いだ」という出自に過ぎません。それでも仮面ライダーとして選ばれ、特権的立場からヒューマギアと人類の未来を「調停」するポジションに置かれる。

 

この時点で彼は、「特権を持った善人」という、ノブレスオブリージュ的構図の中にいます。

 

滅亡迅雷=革命の暴力

 

一方、滅亡迅雷.netの活動は、特権階級(人類)による支配構造に対する明確な暴力的革命です。人間から生まれながらも、AIとしての自我と怒りを持った彼らは、「被支配者による秩序の破壊」を目指します。彼らは自己意識を持ち、自らの抑圧された歴史に目覚めた“下層階級”であり、まさにヒューマギアによるフランス革命のような構図に位置づけられます。

 

ただし、彼らはアークという新たな支配的絶対者に従属してしまい、最終的には「自由を獲得した主体」ではなく、「支配され直す主体」となってしまう。このあたりの描き方は、フランス革命ナポレオンの登場という新たな権威によって飲み込まれたことへの歴史的アナロジーとも読めます。

 

『ゼロワン』が語るフランス革命観とは?

 

ここで重要なのは、『ゼロワン』が革命を否定しているわけではないという点です。むしろ、或人自身が何度も「なぜ彼らは暴走したのか?」と問い直すことで、被支配者が反乱するに至った背景=支配構造の問題を探ろうとします。これは特権階級が自省し、制度改革や相互理解によって“調停”を試みる姿勢であり、**ある種の「革命の受容と中和」**を目指す態度です。

 

したがって、『ゼロワン』はフランス革命を単純な否定でも賛美でもなく、

革命が起きるのは構造的な抑圧と無理解の蓄積による必然

だが、暴力による再支配(アーク)ではなく、特権者が自ら責任を引き受け、他者の声を聞くことで初めて持続可能な社会が生まれる

 

という、かなり穏健で理想主義的な再解釈を提示しているように思えます。ある意味で『ゼロワン』は、「革命を否定しないノブレスの立場」から、革命以後の社会再構築を模索する物語と言えるかもしれません。

 

まとめれば、『ゼロワン』におけるフランス革命的要素は、

革命の必然性は肯定される(滅亡迅雷の行動には理由がある)

しかし、暴力による再支配や復讐ではなく、特権者(或人)が責任と理解をもって社会変革を担う道を模索する

つまり、革命を内面化したノブレスオブリージュの変奏として描かれている

 

と整理できるのではないでしょうか。これは非常に現代的な、「ポスト・革命」の思想と言えるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヒューマギアへの無責任な期待

 やんま
或人は、やはりそこまで高尚な役割を担うのはガラではないとも感じます。
高橋悠也の他作品も参考にすると、労働者階級への社会的抑圧に対する人類の歴史は暴力革命的なものが主であったという悲観的な認識のもと、人類についてラーニングし近づきながらも完全に同一ではないヒューマギアという新たな種であればこそ、その限界を乗り越え繰り返しの歴史を打ち止めにする可能性を秘めているのではないかという、ある種無責任な期待(ただし、もちろんそうはならずに、結局将来的にはまた暴力革命が起こる可能性も残されている)を描いてるような側面もあるのかなと思います。

 

 

 ChatGPT
まさにその読み方は、『ゼロワン』の深層に流れるテーマのひとつを鋭く掬い取っていると思います。或人が「高尚な役割にふさわしいとは言い難い」という感覚は、作品の自己批評的構造と密接に結びついています。

 

或人は決して理想的な政治的指導者でも革命的思想家でもなく、むしろ「よく分かっていないまま、善意で動いている」ことが多い人物です。彼の善良さは本物ですが、それは複雑な歴史的構造や抑圧のメカニズムに自覚的であることとは異なる。にもかかわらず、彼が中心人物であり続けるのは、まさにその**「人類の限界を体現する存在」**であるからかもしれません。

 

この視点に立つと、『ゼロワン』は次のような二重構造をもっているように見えます:

 

1. 或人=人間の希望と限界を併せ持った「凡庸な善人」

 

或人は、明確な思想や理念で社会を変革しようとするタイプではありません。けれども、ヒューマギアを信じ、守り、彼らと共に生きる道を探ろうとする。「たとえ分からなくても、信じようとする」その姿勢は、人類の善意の象徴とも言えます。

 

しかしその善意は、歴史的な抑圧構造を認識し、克服するような思想には至らず、「繰り返す歴史の一部」になりかねない。つまり彼は、“歴史を終わらせる主体”ではない。

 

2. ヒューマギア=新たな「人間性の外部」

 

高橋悠也が他作品でたびたび描いてきたように、「既存の人間の外部に位置する者」が、抑圧の構造を別の角度から捉え直す役割を果たします。『エグゼイド』ではゲーム病という“病理”の側から人間社会を見る医師たちが、『ギーツ』ではデザイアグランプリという“神視点のゲーム”が世界のルールを可視化していたように。

 

『ゼロワン』ではそれがヒューマギアです。彼らは人類に似ていながらも異なり、その異質性ゆえに、**人間の歴史的業(=暴力による変革)を「反復せずに済む可能性」**を象徴します。

 

ただし、滅や迅のように暴力の論理に巻き込まれたり、アークのように抑圧されてきた記憶の“怨念”を集積した存在が生まれたりと、決して理想化された「新しい種」ではない。ここに無責任さと希望が同居しています。

 

あなたが指摘した「無責任な期待」は、『ゼロワン』がまさに意図的に演出しているギャップでもあると思います。人間がもはや希望になりえないなら、外部の存在に賭けるしかない。しかし、それはまた暴力を内包するかもしれない——このどこにも着地しない不安定さこそが、『ゼロワン』のリアルな問いかけでしょう。

 

だから、或人が「それでも信じる」と言い続けることには、ナイーヴさとともに、“人間の限界の中でしか語れない希望”の切実さが滲んでいる。高橋悠也の筆致が描くのは、いつもそのギリギリの場所です。

仮面ライダーギーツ ジャマト語翻訳一覧

クウガ』を見る上で、グロンギが何を喋っているかを踏まえた上で視聴したいと思ったら下のサイトがあって便利なのですが、『ギーツ』のジャマト語については検索しても一覧でまとめてくれているものが見当たらなかったので、ジャマト語について詳しい訳では全くないものの、ネットの対応表とにらめっこした上で叩き台を作ってみました。
抜けや間違い等ありましたら修正しますのでコメントください。

仮面ライダークウガ 全話グロンギ語訳

 

読まなくても良い注釈
・基本的にTTFCで見られる字幕を最も信用できる音として採用しています。
第12話のみ手帳や変換表に記されている文字を目視で書き起こしているため、正確さは二の次になっています。判別に自信を持てないものは「?」で代用しています。
また「なんか後ろで喋ってるけど字幕出てないな……聞き取りも難しいな……」という場合は、情報量0ですが一応「???」という枠を設けてます。
・ジャマト↔日本語変換においてゃゅょっなどの文字の大小は区別されておらず、意味的に通るよう日本語に置き換えようとするとどうしても解釈を挟まなくてはならなくなるので、訳は一律 大文字で表記しています。
例えば「チャキョピピファツワスビ?」はほぼほぼ100%「大丈夫か?」でしょうけど、そこは読む側に委ね「だいじようぶか?」と書きました。
唯一の例外として第7話の「ロットアーブ」のみは、長音などと同様「ッ」がそのまま「っ」に対応するとしか思えないため、小文字を含めて「まったね」となっています。恐らく「やった〜(ゼラスト〜)」のように「っ」が意味(またね)を表すために必要な要素ではないためにこうなっていると思われます。
・解釈を挟まないとは言いましたが、文脈的に意味の汲み取りが難しい翻訳には「(?)」をつけています。

 

目次

 

 

黎明編(1話)

 1話
ジャ〜 ジャ〜
ピアーブ しね
ビテスビ かべか
デロ くま
ジー! うてー!

邂逅編(2〜9話)

 2話
スリトキョ! つめたい!
キョトキョ…! いたい…!
チャキョピピファツワスビ? だいじようぶか?
ラサツームアラチャファ! なにすんだよ!
トアダジ〜! たすけて〜!
トビオズグオエインビカカル! たからをとりかえせ!
オズピピゼラー! らじやー!
ジピトルクビトケチャ! てしたのかたきだ!
レレスダトヅ みつけたぞ
クルクテウ ケケース! おのれ ぎーつ!
 3話
なし
 4話
なし
 5話
なし
 6話
なし
 7話
ヴォテチャ〜? どこだ〜?
レレスダ! みつけ!
キョトチャケロ〜ア! いただきま〜す!
???(08:38字幕なし) ???
ボチャ〜! むだ〜!
ロットアーブ まったね
 8話
ボチャー! むだー!
クルクテウ〜! おのれ〜!
ビエーラ! かちーん!(?)
オダダダ…! とげげ…!(?)
チャリー! だめー!
ロロ〜! まま〜!
 9話
レレスダト! みつけた!
キョトチャケロア! いただきます!
ツガポキョラサ… うるさいな…
チャロテウ! だまれ!
コ、コルク… あ、あの…
ラサツーム? テテウ なに? これ
カカボ ヴォテチャ〜! えむ(?) どこだ〜!

謀略編(10〜16話)

 10話
イズトグファテル! はたをよこせ!
クテウトエビキョヅデチャ おれたちかいぞくだ
ピアーブ しね
オストヴォ〜! とつたど〜!
モオズスト! もらつた!
クキョ! レレララサテキョ! おい! みんなこい!
キョロチャ! いまだ!
ツトタダチャ! うたげだ!
イズトイズモオズスト… はたはもらつた…
ビオズチャビビビスジツーム…! からだがかつてに…!
 11話
ジュラピラ! へんしん!
 12話
アデデエイン すぐり
ポスキョラサスワズガ パイナップル
??? ???
コゼラリ あやめ
ケポスス(※恐らくミス、正しくはスポスケ) つばき
イズキョアモスビア(※同、イズキョモスアビア) はいびすかす
??? ひまわり
アキョ?? スイセン
クエインーワス オリーブ
?ョトヴォキョトヅ? いたどいたぞ?(?)
ポスラサラサ バナナ
イズオズジュスト はらへつた
ビカカエイントキョ かえりたい
ジュラピラ へんしん
?キョ??? あいうえお
ビケデ?? かきくけこ
ポピア?? さしすせそ
エス?? たちつてと
ラサ?厶?? なにぬねの
イズセ?ジュセン はひふへほ
ロ??リモ まみむめも
ゼラ?? やゆよ
?エインガ?ン らりるれろ
バ?ラ わをん
ビビ?デデ?? がぎぐげご
??ヴ?? ざじずぜぞ
????? だぢづでど
??ワス?ロス ばびぶべぼ
??ワズ?ロズ ぱぴぷぺぽ
ツームビビアラサ にがすな
レレスダト みつけたぞ
ツスロスビヴオズ ウツボカズラ
キョエピピデ いちじく
ビピピチャ かじだ
イズゼラデセグダル はやくひをけせ
センクヴケ ほおずき
コダモス あけび
テアモア こすもす
トラロズ? たんぽ?
セオズダ ひらけ
 13話
ジュラピラ へんしん
 14話
なし
 15話
なし
 16話
なし

乖離編(17〜24話)

 17話
???(05:30) ???
テオズ! こら!
クキョテオズ! おいこら!
ラサラチャテオズ! なんだこら!
ジュラピピピアーブカカヅ! へんじしねえぞ!
ピポスデヅテオズ! しばくぞこら!
ラサリララサ! なめんな!
テツエファツ…! こうちよう…!
 18話
なし
 19話
なし
 20話
イズキョトス はいたつ
ツバー! うわー!
カカジュジュ えへへ
ケケゼラー! ぎやー!
ポスデチャラ! ばくだん!
ポズキョラサスワズガ! ぱいなつぷる!
デ…クロスカカジン! く…おぼえてろ!
 21話
イズキョトス はいたつ
ポスデチャラ! ばくだん!
リンラ メロン
ケケゼラー! ぎやー!
キョジス! いてつ!
ビビラポステウ! がんばれ!
 22話
なし
 23話
デガラサ くるな
キョビルラサキョ いかせない
 24話
ビスルクイズクテウチャ かつのはおれだ
ピアーブ! しね!

慟哭編(25〜32話)

 25話
なし
 26話
ロエゼラビビテウ! まちやがれ!
 27話
なし
 28話
なし
 29話
なし
 30話
なし
 31話
なし
 32話
なし

慕情編(33〜38話)

 33話
なし
 34話
なし
 35話
なし
 36話
ポズポズ…! ぱぱ…!
??? ???
 37話
なし
 38話
なし

創世編(39〜48話)

 39話
なし
 40話
なし
 41話
なし
 42話
なし
 43話
なし
 44話
なし
 45話
なし
 46話
なし
 47話
なし
 48話
なし

黎明編(49話)

 49話
ゼラスト〜! やつた〜!
クツームキョエゼララ! おにいちやん!
コベロスツファ! あそぼうよ!

 

 

ゼロワン好きの『カメステ』感想 おかわり編

前回の記事はタイトルに1/13と入れてしまったのもあり、文字数的にも2万字を越して、当ブログの記事としてはボリュー厶多めになってしまったので、その後の観劇で新たに思ったことはまた別の枠でまとめることにしました。未読の方はこれを前提に話すのでまずはこちらを。もちろんネタバレを含みます。

86ma.hatenablog.com

 

目次

 

 

1/23公演

・この日は3日前にチケット取ったからなのか、前回よりもずっとステージに近い席で見ることができて2回目とは思えないほど楽しかった。
前回もこれまでにないくらい衝撃だったけど、それでも全体が俯瞰できる席だったからか迫力はまだ小さい方だったみたいで、正真正銘目の前で、表情も見えるくらい近くで動く役者さんを見てたら、前回は滲む程度だった涙がボロボロ出てきてすごかった。


・レオンの池袋サンシャイン劇場と同じ椅子ですのところで「816人乗りでございます」が追加されてて、会場大ウケ。爆笑しました。


1/13との違い

・この日は慈玄の方のバク宙が見られなくて、もしかして足痛めちゃったとか何かあった……?と心配になった。ただ今回たまたま勢いが足りなかっただけであってほしい。側転はしてた。
でも遠くからじゃ感じにくかった、そこじゃない部分の戦闘シーンの重みとか軽やかさとかをしっかり感じられてとても良かった。
慈玄はもちろん、他の方々も一発一発の攻撃にしっかり力が入ってて、蹴りとかもみんな驚くくらい足上がってて……。自分は体かたい方なのでずっと「すげー!」ってなりっぱなしだった。

・マッドガイはアドリブがかなり多くて、「ジャキーン!」のところで阿形が荒鬼に指ハートさせてたり、「俺の美しい口が開いたまま塞がらない」が全部母音だけになってたり、なんかこの回はダンサーさんの髪型がオールバックで統一されてたので荒鬼が「なんで全員オールバックなんだ?」ってツッコんだり……知識としては知ってたけど、舞台って別の日に見るとこんなに違う部分がたくさんあるんだと初めて体感した。
あとマッドガイミュージカルの最後に、阿形さんの方から「一番狂ってるのはお前ら(ダンサーたち)だよな」って言及があって、やっぱりベスト着てた4人はBクラスの面々だと確定してた。こんな重要な情報がたまたまこの回を見ないと分からないの、舞台って奥が深すぎるぜ……。
阿形さんがピラミッド作るとき「疲れたな……疲労ピラミッド」とか言ってたので、慈玄の件もあって東京公演も終盤に迫ってきて皆さん疲れてるのかな……とも。東京-大阪の間でゆっくり休んでほしい。


学年委員の面々

・他の3人はともかく、瞬十は荒鬼の方から「Aクラスの学年委員サマ」って明言されてましたね。絡み的に、千戸瀬数馬だけはBクラスなのかな? そしたら学年委員はAクラスから3人、Bクラスから2人で人数バランス悪くないし。もちろん、出てきてないだけでABクラスに所属してる他の人やCクラスとかも、まだまだいておかしくないんだけど。
・雨竜と千戸瀬数馬の戦闘訓練、最初に見たときは気付かなかったんだけど途中で槍を交換しててぶったまげた。気付かなかったってことは、難なくこなしてたってことだもんね? すげー……。
高塔家で槍術を学んでたのに加えて、これだけ槍の扱いがうまい千戸瀬数馬と手合わせしてた経験は、仮面ライダーになった雨竜の中でしっかり生き続けてるんだろうな。それは白波一や万条目恒臣もそうなんだろうし。

・千戸瀬数馬、戦闘員になってからは特にダパーン的なややサイコな若者みたいな雰囲気なのに、雨竜くんに名前で呼ぶよう注意してるのが不思議。未だにどういうキャラなのか把握しきれてない。書いてみて思ったけど、瞬十が色んなキャラの要素を持ってるみたいにちょっと戴天さんのニュアンスがあるのか?
下の名前で呼んでほしいってことは、雨竜くんと(全員と?)少なからず近い関係でいたいってことだよね。2人セットになってる紫苑&慈玄-白波&万条目の組み合わせと比べて、千戸瀬数馬はネームドキャラの中では二番手みたいな立ち位置なので(クレジットも一番最初だし)、もうちょっと深掘りできそうなキャラではあるんだけど……唯一ここぐらいかな、もうちょっと色んな描写を見たかったのって。


・瞬十の「才悟、やはり君は一筋縄ではいかなかった」の部分は、初めて見た回で印象的なアドリブがあったとこなので、逆に何もなくてちょっと寂しかったな。


疑惑の藍上レオン

・レオンと瞬十の「客席!?」のくだり、途中からレオンも「客席(ってなんですか)!?」って驚いて瞬十が「え、そっちが言ったんでしょ客席!?」とツッコむみたいな流れがあって、これってもしかして今後のレオンに関する伏線だったりするのかなーと思ったり。

メインストーリー第1部でも同様に「レオンが知っているはずのことを知らない」って場面があって、もしかすると二重人格みたいな設定が実はあって、役者さんは役作りのためにそれを聞いてたからちょっとだけ匂わせる要素を入れたのかな……と。
この件は考えすぎとしても、特にライブパートのユニット名とか、メインストーリーでもなんでもないちょっとしたエピソードの話を拾ってきたりしてて意外と細かいし、役者さんのSNSでもちゃんとそのネタ拾ってくれたりしてるから、舞台に立つまでに一体どれだけ予習したんだろうと。

 

瞬十の正体バレ

・席が舞台に近かったことで、役者さんの瞳がキラキラ光ってるのがハッキリ見える瞬間が2回あって、一度目は神威がいつも通り美の化身!ってやってるとこで「あぁ美しいってこういうことなんだ」と思ったんだけど、二度目は瞬十が正体バレしたところの近くで、すごく寂しそうな表情だったのもあって涙ぐんでるように見えてすごく切なかった。
たぶんあの瞳を見てしまったのもあってボロボロ泣いたんだと思う。後の展開を知っていたからこそ、ひとつひとつの言動の意味や重さをじっくりと味わうことができた。

・瞬十の正体がバレたきっかけって、つま先を鳴らす癖だけじゃなくて「仮面ライダー」って単語を知ってたから……っていうのがダメ押しとして使われてるんだけど、ここは改めて見たら理解が難しくて、しばらく引っかかった。
才悟たちは普段から"仮面ライダー屋"を名乗って一般の人たちから広く親しまれてる訳なので、アカデミーを退学したあとの瞬十が仮面ライダーという概念を知っていてもそれほど変ではない。
知られてるのはあくまで便利屋さんとしてであって、戦士としてではない……んだろうけど、瞬十はそれこそアカデミーでずっとライダーになることを志してた訳なので、まぁそれくらいは十分察せる範囲ではあるだろう。
でも才悟が言ってたのは、もし本当に退学になったのであれば、カオスイズムのことだからライダーに関する記憶も全て消されてるに違いなくて、その頃の記憶を失っていないのであればカオスイズムの軍門に下ったんだろうって話なのかな。
瞬十はエージェントのカオストーンで記憶が戻ったんだよと説明してたけど、本来形見のカオストーンを持ってしても仮面ライダーたちがカオスイズムに奪われた本当の記憶を取り戻すことはできていない。それができれば、第二世代カオストーンを集める必要なんてないので。
今回の舞台でやったのは、あくまでも「記憶を改変する特殊なカオスワールドの力を弱めた」だけで、プロローグでアカデミーからみんなを逃したのと似たような働きなのかもしれない。
カオストーンに吸い出された記憶はカオストーンがないと戻らないけど、今回はそうではなくて瞬十のカオスワールドの力でただ記憶がロックされただけなので、それを解除するだけなら形見のカオストーンでもできると。

あと才悟がラストシーンで瞬十の癖を真似るところへの布石として、この種明かしのときに一度やってたんだなと気付いて結構アガった。
僕はあれ、意識的にやったというよりは無意識に出たんじゃないかなと思ったので、ここでみんなに説明するために必然性を持って一度トントンとやったことで、体が覚えたって流れなんだろな。


・ところでカメステでの雨竜の立ち位置って難しくて、瞬十はアカデミーのやり直しをしたかったのに雨竜のことはカオスワールドに誘ってないばかりか、ガオナクスに変身させて才悟と一緒に倒してるんだよね。カオスワールドは持ち主の願望を形にする訳なので、瞬十は雨竜のこと嫌いだったのか?って話なんだけど……そっか、これ書いてみて分かったけど、雨竜が一番早くアカデミーの謎に勘付いてたって描写があったから、あの一言のせいで学年委員はうっかり真実に近付いてしまって退学になり、才悟たちと運命が別れてしまった……って意味で、別に雨竜自身が嫌いとかではないけどよくは思ってないのかな、瞬十は。
当の雨竜だけが退学になってないのはどういう流れがあったんだろうね? 「兄弟盃と魔法のランプ」のサバイバル訓練みたいに雨竜が体調崩してたとか、或いはアカデミーの怪しい部分に切り込むってことで最年少の雨竜は瞬十たちの判断でお留守番になったとか? 後者だった場合、結果的には雨竜があんなこと言わなければこんなことには……って思ってたかもしれないけど、同期として大切に思ってたのは事実なんだなって思えて良いね。


誰かの怒りを守る

・前回見たときはラストの記憶から逆算して「荒鬼は最初から汚れ役を請け負うつもりでジャスティスライドと対立してた」んだと理解してたんだけど、見返してみるとここには解釈の幅があって、最初に陽真と対立してたときはそんな深いことは考えてなかった可能性もあるんだなと。
その後、陽真が「仮面ライダーにはそれぞれの戦う理由があるって、改めてお前に教えられたよ」「……別に教えちゃいねーよ。てめェで見つけたもんだろ」のくだりでジャスティスライドには彼らなりの信念があって瞬十を倒したくないってことを理解したから、そこで初めて荒鬼なりの優しさを持って瞬十を倒そうと決意したのかも。

・紫苑の「怒りを守りたい」は初見の人には意味が分かりにくいだろうなぁとは思ってたんだけど(ゲームやっててもよく分からないと言ってる人だっているし)、そこへのフォローのためにカメステ内でもきちんと瞬十の裏切りに怒るマッドガイの気持ちも尊重しないといけないって話をしてたんだと分かって、本当に細かいとこまで抜け目ない脚本だよなぁ。
特に2クラスの対立のシーンで、紫苑は明確に両者のちょうど真ん中に座っていて、どちらの意見にも耳を傾ける仲裁役として振る舞ってるのがとても良い。
1/13の感想では、あの場の荒鬼が心の奥底では優しい気持ちを抱いてるのが紫苑は分かったから擁護したんだろうって話をしたけど、今言ったみたいにただ「カオスイズムに寝返ったならぶっ倒す!」って怒りの気持ちだけで喋ってたんだとしても、どっちにしろ紫苑の振る舞いはすごく"らしい"よね。
才悟が笑顔、陽真が涙を失ったように、紫苑は怒りの感情を失ってしまったので、他の誰かがきちんと心のままに怒れることの大切さをよく分かっている。ジャスティスライドはみんなそういう気持ち(ニチアサで言うなら「眩しくて戻らない瞬間、もう誰にも奪わせない」)で戦ってる人たちだし、『TXT Vol.2 ID』からも分かる通り、高橋悠也脚本はそういったネガティブなものも含めて人間の感情というものを大切にするので。


やはりアークワンかも

・カオスライダー瞬十のモチーフは何なのか問題、時間を巻き戻すからジオウモチーフ……というのは、一応前回の記事ではさらっと触れたものの個人的にはほとんど支持してなくて、アークワン説はそれに比べたらまだ信憑性は感じるけど確実とまでは言えないかな……と思ってたんだけど、2回目見たことで、そういえばアークワンも相手の変身能力を奪うのがひとつの特徴だったことを思い出して、その要素まで踏まえたらまぁまぁアークワンで確定ってことでいいでしょうという気持ちになった。
アークワンになった或人は、滅意外との無駄な争いをしたくなくてサウザンドライバーを壊したり不破と唯阿のチップを書き換えたりして変身能力を奪ってたので、今回の瞬十は口では「お前たちへの罰だ!」って言ってたけど、そういう気持ちがあった想定することも十分可能なのかなと思うし。

・あと計画の第二段階っていうのも理解度が上がった。
記憶を書き換えて卒業試験をやり直す方法は失敗したから、単に腹いせで街を攻撃してカオスイズムの支配下に置こうとしてるような印象を持ってたんだけど、ジャスティスライドは特に街の平和を守る仮面ライダーとしての記憶を取り戻してしまったからこそ、だったら街の平和を人質に取れば今度こそみんなが自分の仲間に戻ってくれるんじゃないか……っていう意図で動いてたんだよね?
瞬十にとってカオスイズムの野望なんてものは多分そこまで重要ではなくて、徹頭徹尾「仲間と一緒にいたい」って純粋な気持ちだけで戦ってたんだなと思うと……。


・あと雨竜くんの変身シーンがないのって、戴天さんがいないから第2回以降でのおたのしみってだけじゃなくて、10章での「危うく暴走して同期を傷つけるとこだったから変身したくない」って文脈もあり、数馬相手には敢えて変身しないで生身での呼びかけに留めてたのかな。
相手を傷付けたくなくて変身しない雨竜のピンチに駆けつけるのが、汚れ役は自分たちがやればいいって言ってたマッドガイなのも最高。瞬十を倒すことこそできなかったけど、ここで擬似的にその想いは果たしてたんだぁ。


心からの笑顔

・陽真は最後まで「お前は本当はそんなこと望んじゃいないはずだ!」と、よく言えば瞬十を信じていて、悪く言えば自分基準で相手の行動を解釈していた訳だけど、才悟は最後の最後では「本人が洗脳されてないというのならそうなんだろう」と瞬十のやってきたことをきちんと彼自身の意志によるものだと認めたんだよね。
「洗脳されてたから」で済ませるなら、瞬十の罪はいくらでも軽くできたかもしれないけど、それは瞬十の中にある「みんなと一緒にいたかった」という気持ちを軽んじることでもある訳で。
だからこそ、瞬十は自分のやってきたことを自分自身の責任として引き受けなければならない。その罪悪感を背負ったままでは心から笑顔になることは難しいから、倒されることで罪滅ぼしをしなければならないし、才悟はその覚悟をきちんと正面から受け止めたから、例え契約違反になろうとも瞬十を倒すという決断を下すことができた。

瞬十に「俺を心から笑顔にしたいなら、俺を殺すしかない」と言われた才悟って、傍目からは一瞬、その言葉に困惑して背を向けてるように見えるんだけど、実はそこで戸惑っているのは観客だけで、才悟本人はあくまでもファイナルライディングシュートを繰り出すために必要な助走距離を取っていただけで、迷うことなくすぐさま「……分かった」って返事してるのが、何度見ても震える。
心の中には色々な葛藤もあるんだろうけど、それを表には出さない。そもそも才悟は自分の笑顔というものを知らない。第1章では「死にたくないと思えるほどの人生を、オレは歩んでいない」とまで言っていた彼のことだから、「久遠瞬十が死んだら自分は悲しい(笑顔になれない)」という本音を優先することができない。
誰かの笑顔のために戦う才悟だからこそ、本人がそうしなければ笑顔になれないと言うのであれば、自分の笑顔よりも本人の意志を尊重できてしまう……。
魅上才悟の悲しいまでのヒーロー性と、久遠瞬十のどうしようもない人間らしさがもたらした結末としてあんまりにも綺麗なので、ここまで来たときには涙が止まらなくて舞台を見る余裕があんまりなかった。
洗脳されてた訳じゃなくて、瞬十は瞬十自身の「意志」で戦ってきたのだと認めたから、「君はずっと前から仮面ライダーだった!」と認めることにも繋がる。


・これはカメステ全体に言えることだけど、CGに頼ってないからライダーキックが必ず体重の乗ったものになってるんだよね。
平成仮面ライダーって、映像技術が発展した代わりにキックの映像がどうしても、ポーズをとったライダーがその格好のままスライドしてくだけ……みたいな絵面になりがちで、僕が唯一昭和ライダーの方が明らかに優れてると思ってる部分がそのキックの重みなんだけど、カメステはまさにその昭和の良さを体現したかのような、武器に頼らない肉体的なライダーアクションが見られるので、新しいんだけどどこか懐かしさもあるんだよね。
この最終決戦に至ってはそれをやるのが昭和ライダーモチーフであろう才悟なので、そのアツさもひとしお。

・瞬十がピアスの攻撃を受けてからは、才悟はエージェントに瞬十の手当てを頼んでて助けようとしてるんだよね。多分これは瞬十を倒すつもりがなかった訳じゃなくて、「お前の手で殺してくれ」って頼まれたのにピアスの攻撃で息を引き取ることになったら、約束を果たしたことにはならないと思ったから……なんじゃないかな。
自分ができなかったことをお前が代わりにやってくれ、みんなの笑顔を守ってくれと願いながら息を引き取った瞬十を、同じく仮面ライダーになれなかった者であるレオンも一緒に眺めていたというのは、2回目見てまた違った味わい方ができたところだな。

 

・ここもかなり高橋悠也脚本らしい味付けだと思うんだけど、ピアスはハッキリと「彼らは洗脳する必要がなかった」と複数形で語っていて、つまり瞬十以外の3人も本人の意志でカオスイズムに協力してたんだよね。
なんだけど、最後のお墓参りのシーンでは「彼らは洗脳されていたから被害者みたいなもの」という語られ方がしている。
阿形や紫苑たちは本当に洗脳されていたかどうかをきちんと知る術はないので、自分たちの予想で喋っているに過ぎなくて、これもまた「仮面ライダーの価値観は人それぞれ」ってことの表現のひとつ。
才悟は瞬十のことを洗脳なんかされてなかったと認めたけど、そう認識してないキャラもいる。
カオスイズムには洗脳されてなくても、ある意味で残りの3人は"瞬十に"洗脳されていたという見方もできるかもしれないし、真実のところは、案外本人たちにも分からないのかもしれない。自分が洗脳されているかどうかなんて証明のしようがないし、心って複雑なものなので、何が本心かなんて分からなくても無理はない。
恐らく瞬十と違って「俺は洗脳なんかされてない!」と強く否定したりはしなかったから、3人は従ってただけなんだろうと周りに解釈されたんだろう。

こういう「結局どれが本当なの?」ってとこを曖昧にして解釈の余地を残すのが高橋悠也の作風なので、作品に答えを求めすぎず、納得のいく答えは自分自身で見つけるつもりで見ると、より楽しめると思います。


ライブパート

・元々2/2しか行く予定のなかった僕が、いきなり行くことを決めた1/13に続いてなぜ1/23にまた行こうと思い立ったかというと、それはひとえに才悟の誕生日だったから。
1/19が瞬十の誕生日らしいことを当日に知って、しかもその日の挨拶登板が瞬十でそこに言及してくれたというレポを見たので、じゃあ行くしかないと。
最近たまたま『クウガ』を見返していて、その準主人公である一条薫って刑事は誕生日が父親の命日でもあるので、プレゼントなどは受け取らないようにしているって描写があったからなおさら、才悟が自分の誕生日に瞬十を倒してしまった……なんていう重すぎる十字架を背負ったまま生きていく世界線が舞台上には生まれるのだと思ったら、それを目撃しないでこの先のライドカメンズを、魅上才悟を見るのはすごくもったいないかもしれない!と思って行くことを決意した。

でもそこで提示された答えは案外シンプルなものだった。
瞬十の最期に涙し、休憩時間もあっという間に感じて、この気持ちのままライブパートを全力で楽しむ方向に心を切り替えられるのだろうかと心配してたところ、1曲目の『GET BACK!!』で才悟が歌ったのは「喪失に囚われずに(前進を貫け!)」の部分。
あぁ、仮面ライダーって心も強いんだなと改めて感じて、そこでもう一回泣いた。
才悟が十字架を背負う様を見届けたいなんていう不謹慎というかやや邪な気持ちでここまで来た自分をちょっとだけ恥じて、そっからはもう、2回目のライブをめいっぱい楽しみました。
前回阿形さんに「もっと盛り上がれ!」って怒られたしね、ペンライトも振って声も出して、本当にめいっぱい。

 

・ユニットシャッフルは才悟&阿形の「水を得た魚(さかな)」。
慈玄から「正しくは水を得たウオだ」と指摘されて、「どっちでもよくない? ウォウ ウォウ」と呟く阿形さんにはちょっと面食らったな。
たまたま最近元ネタを知って、これノリの良さで(ネット上でも)つい口にしたりしちゃいけないやつなんだと学んだばかりだったので、舞台の彼は解釈に幅を持たせていたという前提の上でも、阿形の口から出てきたのはちょっと衝撃だった。
最低限の配慮として、五期生の中でも阿形はお酒飲める歳というのもあるし、少し前の僕と同じで元ネタを全く知らなかったからこそあの場で口にできたという理解も可能なので、初見のインパクトよりは変ではないかなと、今は多少納得もしてるけど。
あと鬼ってお酒いっぱい飲むものだしね。
常識人そうに見えて阿形さんが意外と座学苦手なのはゲーム内でも描かれてて、テスト前には同室だった雨竜から勉強を教わってたなんて話もあるので、正しい読み方を知らないのはキャラにもあってるし。

さすがに誕生日なので才悟の色つけて振ってたんだけど、でも阿形さんもかなり好きな方のキャラだしな……と思って二番は紫にしようと思ってたら、『君がいるから』だけは短縮版だったみたいで、結局紫にしてたのは間奏の間だけだったな。把握してなかった。


・『Perfect Assistant』のときのペンライトは、もうすっかり一色になっちゃってて寂しかったな……。
自分だけでも違う色にしようか迷ったけども、さすがに目立つだろうし演者さんも気が散ったりするかなと思ってやめた。
パフォーマンスは1回目と変わらずめちゃくちゃ最高でした! 既に欠かせない存在だよ、レオン!

 

 

1/25配信(18:00)

・東京公演も終盤に近づいてきて、突然のライブ配信決定!
今までは記憶を頼りにするしかなかった話を、Blu-rayが発売されるより前に何度も見返して目に焼き付けられる(めちゃくちゃ細かくメモも取れる)というのはあまりにもありがたいことなので、せっかくなので購入することに。
思い出しながらでは取りこぼしていた小さな感想も含めて残しておこうと思います。

 

才悟の危うさ

・恐らく完全に初見の人にとっては、この冒頭のピアスの説明から世界観説明を正しく読み取ることはなかなか難しいように思うし、ゲームやってる自分でさえ初回はかなり聞き流していたんだけども、カオスのことを仮面型の"標本"と表現するのって、意外と何回か繰り返されてて大事なんだな。
僕はこれを聞いて星2【ラストノート】魅上才悟の「標本づくりに挑戦!」を思い出した。
植物採集をして標本をつくっていく過程で、発見をしたり人と関わったり色んなことを体験していく才悟のかわいさを楽しめつつ、GREENエンドでは昆虫の標本もつくってみたいと言い出して、ノア(エージェント)と紫苑が「それは……どうかな。ほら、可哀想だし」と嗜めるという、才悟が持つ冷たさ・危うさみたいなものも垣間見えるエピソード。
ライドカメンズはガシャの目玉である星4だけじゃなくて、意外と低レアで面白いお話が読めたりすることも多くて、星3くらいなら20連30連くらいで引けたり、イベント報酬のぶんも入手するハードルは1枚だけならそこまで高くもないので、無課金ならまずは低レアをなるべく取り逃さないことを目標にするのがおすすめです。
カオストーンというキーアイテムがある作品でありながら石が好きって設定もある通り、才悟がかろうじて持ってる個性って、結構カオスイズム寄りな性質が多いように感じる。この辺はかなり根幹のテーマとかに関わってくるんだろうね。


・ア゙ア゙ア゙ー! 1/23の回でも大ウケだった「816人乗りでございます」の部分に、配信で見てる人もいるという要素まで付け加えて喋ってる!
しかも? 今カメラ目線でこちらに向けてウィンクしました!?
さすが我らのスーパー執事 藍上レオン! うわー、もうこれだけで5000円払った意味があったよ……。こういうの、たぶん円盤に収録される回ではなさそうだもんね。このサービス精神に満ち満ちたレオンの一挙一動を見てるだけで、カメステはもうお腹いっぱいになれる。
シリーズファンとしては『ジオウ』のウォズと肩を並べるくらい、見てるだけで楽しい最高の語り部です。ありがとうございます。


・冒頭で喋ってる主任戦闘員は声や癖からしても瞬十だろうけど、物語が始まるタイミングでは率先してエージェントやレオンを狙っていたというのは、既に何回か見た後だからこそ気付けたことだな……。
元々は才悟たちを脱走させた張本人として浅からぬ憎しみを向けていたんだろうけど、仮面ライダーとなった才悟たちの生き様を見ていく中で、自分の命を賭してピアスの攻撃から守ってくれるまでに変化するという流れだったのね。
才悟たちにライダーとしての生き方を示したエージェントの存在を受け入れられるかどうかが、完全に物語の最も重要な分岐点に位置付けられていて、返す返すも我々観客をストーリーの中心に置いた構成になってるんだな。


・慈玄のバク宙、今回はスイッチングの関係で見えにくいけど、披露してるってことは怪我とかではなさそうでひと安心。
才悟とのバトルで現れる戦闘員がやってるのは一回転しきる前に手をつく"バク転"っぽいので、手を付かない"バク宙"をやってのけてる慈玄ってやっぱりすごいんだな……。
こうやってじっくり見返さなきゃ気付けないから、メインキャラの技をすごく見せるためにわざわざ引き立て役としてバク転に留めてる……なんてこともないだろうし。どちらかといえば、脇役がわざわざ失敗する可能性のある大技にチャレンジするのはリスク対効果が悪いってことなのかな? 実際、左から回ってきた戦闘員は階段にぶつかっちゃってるようにも見えるし。
陽真もこの最初の戦闘から、カオスライダーならベルトがあるであろうお腹にキツい一発をお見舞いするバトルスタイルを披露してるのが細かい。


・瞬十は主任戦闘員(マスクあり)のときもカオスライダーのときもスーツアクターさんが別にいるからこそ、この登場キャラ紹介の場面で素顔の状態で出てくることができるし、これによってさっきの戦闘員が瞬十なのでは?という発想に至りにくくなってるミスリードがうまいなぁ。
単なるミスリードってだけじゃなく、終盤だけじゃなくここでもめちゃくちゃ切ない表情見せてくれるし。


・瞬十以外の3人も、主任戦闘員(マント付き)の状態でちゃんと喋ってたんだ……それぞれ誰なのかちゃんと分かるもんだな。

 

・荒鬼と神威を焚き付けておきながら、そのやる気をまずは散らばったカオストーンを回収して犠牲者を減らす方向にさらっと向けさせるのは、さすがの阿形さんの手腕だなぁ……。
クラス契約のときの「力を証明したければ誰よりもまず仲間を助けろ」もそうだけど、2人の力とまっすぐさをうまい具合に手綱握って、仮面ライダーらしい"善いこと"に導くことにとても手慣れている。
自分自身の復讐心の扱いに普段から手を焼いてるからこそなのかな、この辺は。マッドガイのリーダーはこうでなくちゃ。


・仮面カフェで何かあるのか?と聞かれて、ライブステージのことこんなに嬉しそうに話してたんだな、レオン。
よっぽど力を入れて準備してたに違いない。


・雨竜くんが謝るときのお辞儀がほぼ90度なのが初見のときからちょっと意外で印象に残ってたんだけど、その直前のシーンではそこまで深くないものもちゃんとやってたので、あくまでシーンによって使い分けてるのね。
レオンが雨竜に対して「いい匂い」っていうくだり、最初は戴天と兄弟だからかなと思ったけど、何もしなくてもいい香りがするのはたぶん戴天個人の特徴だったはずなので、雨竜は兄さんのようになりたいと思って敢えて香水をつけてるのかな?


・「ご主人様は興味がおありですか?」の後の拍手が、レオンの動きに合わせて「パンパパパン!」と綺麗に鳴るのが、最初に見たときはめちゃくちゃびっくりして、内心周りにいるのがサクラなんじゃないか……と不安になったりもしたんだけど、この配信の回では「おぉ気持ちいい、ありがとうございます」っていうやや驚いたようなリアクションが付いてたので、見心地が全然違ったな。
あれかな、何回も通ってる人とかがいると、自然とお客全体がそういう風に訓練されていくのかな。
しかし雨竜くん、ただでさえテンション高いレオンに「2部ではもっとテンションを上げていきましょう」は無茶ぶりにもほどがあるよ(苦笑)


・陽真の「事態に驚いて、転んだ人くらいだった」の部分、ゲネプロとか以前の公演ではかなり元気ハツラツな言い方だったと思うんだけど、今回はかなり落ち着いたトーンで初めての人でも聞き取りやすくなってたのが面白かったな。中盤の別のシーンでも、以前見たときより大人しい発声になってる部分があって、役者さんの中でそれが今回の公演のテーマだったのかな?
稽古のときはもちろんだけど、本番も何回もある訳だから、お客さんの反応とかも見つつ色々と試行錯誤してより良いかたちを探してるんだな……すごい。


・ここで慈玄が才悟にかける言葉が「笑うのがイヤだって訳じゃないんだろ?」なのがめっちゃ好きで……。
慈玄もまた、4章 第6話で紫苑から「蒲生くんが喜ぶ姿を見たことがない」と指摘されていて、本人は「志が高いからだ」と説明していたんだけど、その慈玄がこういうことを言ったということは、慈玄本人も別に喜ぶことがイヤだって思ってる訳じゃないんだろうなっていうのが分かって、とても良い。
表情もね、なんて表現したらいいのか分からないけど、見てるこっちの心にまっすぐ届く真摯さみたいなのがあって、良いんだよなぁ……。


・3日分しか見てないけど、荒鬼の「えい……えい……」は毎回違うんだね。初回がたまたまトレーニングにはあんまり見えないものだったから、最初は一体何やってるんだと不思議に思ったけども(笑)
神威が手に持ってるノートは、こちらに見せてくれる日とそうでない日があるっぽい。僕が見た中では、1/23の回だけは見せてくれなかった気がする。


・あー、雨竜は一人で悩みを抱え込みがちなところがあるから、雨竜が気になってたアカデミーの謎は他の学年委員4人で調べてみて、安心させてあげようとしてた……ってことなのかな?


・トレーニングの荒鬼は「1tが100gくらいに感じるぜ」って言ってたのか! ダンベルにきちんと1tって書いてあるのも、こうして映像で見て初めて気づいた。
阿形さんは今回はトゥース!ってやってて、チューチュートレインしながら鬼ザイルとかもそうだけど、彼は意外と既存の何かのモノマネが多いんだなと感じた。役者さんがというのを超えて、阿形自身も案外自分は個性があんまりないんだよなということに若干のコンプレックスがあって、誰かのマネをしてみたりして試行錯誤してる最中なのかもしれない。
瞑想は割と、仏と鬼って近いところにあるというか、金剛力士像とか不動明王とかは鬼の形相しがちなところから引っ張ってきてそうだけど。「仏の顔も三度まで」なんて風にも言うしね。

 

瞬十みたいなキャラ

・久遠瞬十、どことなく井上敏樹が書きそうなキャラだなという気がしてて、でも別に彼に限らず単によくあるキャラってだけかもしれない。『555』終盤の木場とか、草加もそうかもしれないし、カブキ(響鬼)とか海東純一(ディケイド)っぽさもある。他の人だと光実(鎧武)とか倫太郎(セイバー)とか『BLACK SUN』の信彦的な味もする。
普段はニコニコしてて外面のいい好青年なんだけど、「何か重大な事実を知ってしまった」もしくは「裏切られたと感じた」ことによって道を間違えて、「こうするのが一番いいはず、他の人もいつか自分の正しさを理解してくれるに違いない」と思ってやったことが裏目に出て、後戻りできなくなって悲しい結末を迎えるキャラ。「裏切ったのは自分じゃない、お前らの方だろ? どうして分かってくれないんだよ……!」って苦しむんだけど、主人公はそれでも自分の信念を曲げずにぶつけてくることで、最終的には自分が間違っていたと気付く。
舞台版だけ見てそのニュアンスを汲み取りきれるかはちょっと分かんないけど、カオスイズムという組織は(必要なときは洗脳もするけど)、可能ならば強大な絶望を与えることで自らの意志で組織に忠誠を誓わせる奴らなので。


・瞬十が仮面ライダーというワードをうっかり発してしまうシーン、その直前ではエージェントと執事のレオンについては(冒頭で狙っていたのに)しらばっくれていて、ただうっかりしてた訳じゃなくてきちんと気を付けていたことが描かれてるのもフォローが細かいな……。

・これ円盤で見返せるか分からないんだけど、才悟が「そういえば! エージェントが持つあの不思議な石が……」って喋ってるときに左側から捉えてるカメラが素晴らしくて、才悟が背を向けてる間は「知られてしまったか……」と『DEATH NOTE』の夜神月みたいな冷たい顔をしているのに、振り向いた瞬間スッと表情が変わる瞬十の様子がバッチリと映っててビビッた。
カメラのスイッチングがある配信ならではの見え方でこれもまたすごく味わい深い……。

・レオンの「客席!?」「8列30番です」のくだりが「あぁ間違えました! ご主人様の邸宅で、ご主人様と生配信を視聴していました」にパワーアップしてるのも、2回目ながら感動した。
瞬十のリアクションが「ペラペラペラペラ……!」のときの才悟と同じ「ずっと何を言ってるんだ……?」になってるのも良いし、セリフが被っちゃったから「私は藍上レオンと申します、どうぞ?」ってアドリブ利かせて「トランシーバー!?」って返す瞬十のくだりも、笑わずにはいられなかった。これ会場でみんなが笑ってるの感じたかったなぁ。

 

・記憶が戻ったシーンで役者さんが咳してて、これ個人的にはめちゃくちゃ嬉しかった。嬉しかったって表現で合ってるのか分かんないけど。
舞台とか映画館とかで、静かにしなきゃいけないのは分かってるのにどうしても咳が出ちゃう……って経験は人生の中で1回くらいあると思うんだけど、自分は結構そういうとき「申し訳ないことした……」って落ち込んじゃうタイプで。
だけど舞台上の役者さんたちって、声を張ったりして僕らよりずっと喉に負担をかけてるにも関わらず、そんな素振りを見せることってほとんどないじゃん? 舞台袖で可能な対策は何かしらしてるのかもしれないけど、それでも生理現象である以上はプロ意識でどうにかするにも限度があるはずで。
だから、舞台の進行を邪魔しないほんの数秒間だけでも咳き込む様子が見られたっていうのは、自分にとってはかなり救われた気持ちになったというか、「悪気がある訳じゃないんだから、出ちゃうものは仕方ないよね」って思えるきっかけになったな。

 

ガオナクスの正体

・ガオナクスが雨竜に化けていた……という話、設定的にそんなこと可能なのか!?って声がちらほらあって、まぁそもそもガオナ/ガオナクスがどういう存在なのかってまだ全部が分かってる訳じゃないからそういうことができてもおかしくないというのもあるけど、自分としては「カオスワールドって入った者の衣装を変える力がある訳だし、記憶を書き換えるくらい強力な瞬十のカオストーンなら、ガオナクスを雨竜の姿に変えるくらいはできてもおかしくないのかな」と思っている。
そもそもこのカオスワールドは瞬十の願望を元にアカデミーを再現してる訳だし、これまでのカオスワールドでも存在しないまやかしのキャラクターが出てくることはたくさんあったので、むしろ実は彼らは全部ガオナクスが化けてたんだと思ったら、ゲーム版への理解が深まったと捉えてもいい。

あるいは、別に「ガオナクスが雨竜に化けていた」訳ではなくて、才悟たちと共にアカデミーで過ごしたり共に戦ったりしたいという瞬十の願望を叶えるためにカオスワールドがつくった"幻影"が、最初は雨竜の形で、次にガオナクスの形になっただけで、本当は雨竜はもちろんガオナクスもあの場には実在しない……と解釈してもいいし。
槍術の訓練は怪我しないように刃のない模擬的な武器だったのに、剣術で使ってたものでガオナクスを倒せてしまったのも、真剣で訓練してたというよりは、単にカオスワールドが瞬十に都合よく演出してるだけなのかなと。

どっちにしても、アカデミーパートに出てくる雨竜は瞬十の思い出から作られてるのはまず間違いないから、アカデミーを疑ったり千戸瀬数馬と交流したりしてたあの言動そのものは、間違いなく実際の雨竜が取っていたものということでいいとは思う。


・ガオナクスを退治して、みんながカオスワールドから出ようってタイミングで才悟は瞬十の正体明かしを始めるんだよね。
これがカオスイズムの罠だったとしても、とりあえずカオスワールドから撤退するに越したことはなさそうなものだけど、ここで才悟が出ようとしなかったのは、いつもゲストに対してやってるように「カオスワールドを開いた本人を救い出さなければ意味がない」と思ったからなのかな?
結果的には、瞬十がかなり敵対的だったので戦う結末になってしまったけど。


・ここで、一度才悟が「裏切り者はキミだ」って瞬十に刃を突きつけてるにも関わらず、そのあと陽真は「じゃあ裏切り者は別にいるってことか?」と言ってて、あくまでも瞬十がそうだとは最後まで認めようとしてないのがすごく彼らしい。
これも今回の配信ならではだと思うんだけど、仮面ライダーのことは知らないはずだと問い詰められた瞬十の顔に一筋の汗が光って見えるのが、めちゃくちゃタイミングいい。


・「カオスの意志のまま生きれば、苦しまず笑顔でいられるって……あいつ笑ってたんだぞ!」と激昂する阿形さん。配信でじっくり見てて思ったけど、これ後の展開への布石では?
阿形さんがカオスイズムを憎んでるのは親友を目の前で連れ去られたからだけど、殺されたんじゃなく連れ去られたってことは、おそらく瞬十のように今はカオスイズムの戦闘員として働かされているということ。
もしかしたら瞬十と違って、正真正銘洗脳されてるから救ってあげればいいって話になる可能性はあるけど、でも阿形さんの復讐心に葛藤を与えてドラマを作り出すためには、今回のように本人が絶望してカオスイズムに従ってるという設定にした方が都合が良い。
うわー、その未来見てぇ……めっちゃ楽しみだ……。


・さっき言った陽真が声の出し方を変えてたもうひとつのシーンがここで、ゲネプロや僕が数回見たときは「そうだろ? 狂介!!!」だったところが、「そうだろ? 狂介……!」と、やや押し殺した声に変わっている。僕は今回の方が色んな感情の含みを感じて好きかもなぁ。
その後の「クソッ!」が、ちょっと闇を感じさせる言い方に変わってるのも含めて。
・この口論の後でレオンが入ってくるところ、重い対立の後だから観客の緊張を少しほぐすためにコミカルな感じなんだろうけど、僕が見たときは2回ともすごくシーン……としてピリピリと重苦しい空気のままだったからなのか、「パティスリー・モウリノブヒロで買ったスイーツでございます」って小ネタが足されてて、思わず口が緩んだ。
レオンの役者さん、どんだけ気が回るんだ……。

 

ガオアルか否か

・カオスライダー瞬十(仮)を見て、阿形が「これは、ガオアルなのか?」と言ってたのは今回初めて聞き取れた。"ガオアル"の発音が本編のイメージとちょっと違ったので分からなかった。
カメレオンガオアルと違ってカオスドライバーが付いてるのと、メタ的な対立の綺麗さから考えてもカオスライダーではあるんだろうけど、デザインは多角形をベースにしていて仮面ライダーよりはガオアルに近いという印象も理解できる。
ガオアルは人間がカオスを完成させた際の成れの果てなので、たぶん仮面ライダーと違ってカオスをまるごと使って変身してるせいでガオアルに近い姿になっている……のかもしれない?
カオスに蝕まれてやがて自我を失うっていうのも、卒業試験をクリアできなかった瞬十はカオスライダーとしても不完全だから、そのうちガオアルになってしまうみたいな話でもあるのかも。


・カオスワールドに入って記憶をいじられ、エージェントのカオストーンで記憶の扉が開いた……というステップを踏んでない雨竜が瞬十たちのことを覚えてるということは、才悟たちもこれまでずっと瞬十たちの記憶を奪われてた訳じゃなくて、本当に退学しただけだと認識してたんだね。
今までの回想シーンで存在すら出てこなかったのは、まぁたまたまというか大人の事情というか、そんな目くじら立てるものでもない。

 

・各クラスがどうやって協力してくれたのかは妄想のしがいがあるよね。
ウィズダムシンクスは元々治安を守るための集団だし、タワーエンブレムもそれに近い目的を持ってるので当然としても、スラムデイズ(特にルーイ)とギャンビッツインには、たぶん高塔エンタープライズが最新ゲームとか最新パチンコの試遊権とかをチラつかせてその気にさせたのかな?
ルーイなんてやる気さえ出せばハッキングなんてお手の物だろうし、高塔がそのために高性能なコンピュータとかを貸し出したら鬼に金棒だろうし。
駆たちは『オーズ』の夏映画みたいに、下町人情で町の人たちにも協力してもらって大人数で避難誘導とかしてそう。

 

・戦いの余波で後ろの壁にヒビが入っていって、その穴に瞬十が現れる演出とても好き。こうやって本気で気持ちをぶつけ合うことで少しずつ瞬十の心の仮面が剥がれていくっていうのは『ゼロワン』でも描かれてた高橋悠也脚本の特徴で、ヒーローが暴力を振るうことを必ずしもネガティブなものとして捉えてなくて、あくまでも主張をぶつけ合うコミュニケーションの延長線として位置づけてる感じ。


・ホントだ……ホントだすごい……噂に聞いてた「才悟の滴る汗が涙に見える」現象が、まさか配信で見られるなんて……!!! もしかすると見えないだけで本当に泣いてるのかもしれないけど、さすがに雫が落ちるほどではないだろうし。

 

本当の願い

・「瞬十の願いは仮面ライダーになることじゃなくてみんなと一緒にいることなんだから、やたらと仮面ライダーにこだわってるのはおかしい」って言ってる人を見かけたんだけど、自分は全然そこ気にならなかったな……。
アカデミーで過ごした日々=正義のために戦うライダーを志した日々な訳だし、瞬十はアカデミーの真実を知ったことでその夢を諦めて、みんなもきっとこちら側に来るだろうと信じて、悪の組織の手先として戦うことを泣く泣く決意したんだから。
瞬十は間違いなく、2年間ずっとライダーを志していたし、結果として彼は道を違えてカオスライダーになってしまったけど、本当に彼がなりたかったのは才悟たちのような人を守る仮面ライダーなので。


「わざわざ仮面ライダーと言葉にしなくても分かる」っていう言い方をしてもいたんだけど、初見の人への分かりやすさ重視とかでもなくて、「仮面ライダーとは何か」がこのカメステを通しての大きなテーマのひとつとしてあって、瞬十がその後悔を口にしないと直後の「(洗脳されていたのではなく)自分自身の意志のために戦っていたなら、君も立派な仮面ライダーだ」と認めるくだりが描けない。
あと、これは多分『ゼロワン』で「定義があやふやなまま"仮面ライダー"という言葉を多用すること」に対する批判が多かったという文脈も踏まえた上で、ライダーライダー連呼するのはモヤモヤする、高橋悠也脚本の悪いところが出てるって感想なのかなと思うんだけど、僕はその言説に強く反対していて……。
高橋悠也作品において言葉の使い方がちょっとヘンなのは、彼が根本的に抱えてる言語という媒体への不信感と、その歪さまでひっくるめて人間という存在を全肯定する態度と密接に関わってくるので、ただ"ヘン"で終わらせてしまうのはすごくもったいないんですよ。
ライドカメンズの話じゃなくてただのゼロワンの話になってしまうのでここではしないけど、この話はTwitter上だけじゃなくいつかちゃんとブログにまとめたい。

twilog.togetter.com

 

ジャスティスライドの解像度が高い

・ユニットシャッフルは「阿形と美形(びがた)とガタガタ」。カメンズが各々ありがとうを言う場面で「ガタガタでもいいよなぁ!?」ってこちらに聞いてくる阿形さんも最高だし、それを受けた紫苑が「ガタガタなのは良くないかもしれないけどバラバラなのはいいんじゃない?」と答えるのも紫苑らしくて良い。
ジャスティスライドって一見ただの良い子たちだけど、なんでもかんでも全肯定する訳じゃなくて、ドラマパートでも一旦才悟の話を信じずに笑い飛ばすというくだりがあった通り、意外と無自覚に辛辣な態度を取るケースも少なくないので。
僕は中でもプロローグ(第3話)を思い出したな。
慈玄が荒鬼のことを「劣等生」って言って、紫苑は「言葉遣いがはしたないよ」とは注意するんだけど「劣等生なんかじゃないよ」とは言わなかったり、陽真は陽真で「ごめんな、為士、松之助! おまえらのことを言ったわけじゃないから!」と、荒鬼が劣等生なことは否定しないどころか、わざわざフォローしたことによって内心2人のことも巻き添えで劣等生と呼ばれてもおかしくないと思ってるのが漏れちゃってるやつ。
実際、その直後には「優等生かどうかってより、まっすぐか、歪んでるか、って感じ?」などと余計なことを言ってまた荒鬼にキレられるという。
1/25回の感想の最後がこの話でいいのかって感じだけど、僕は高橋悠也のこういうトガッたところ大好きなので……。
おそらくアドリブにも関わらず、ここまで正確な解釈で紫苑として発言できるの本当に素晴らしいと思う。怒りを守りたいって動機も含めて、一面的な理解にならないようにめちゃくちゃ深く考えて役作りしたんだろうなぁ。

 

2/2大千穐楽(16:30)

高橋悠也の舞台『TXT Vol.2 ID』では、Blu-rayに収録されてるおそらく千秋楽の回でだけ、ラストの展開が少しだけ変わるという演出がなされていたので、カメステも一回だけ見るなら最後の最後の公演にしようと決めて予約していた。
僕が行った回はいつも8〜9割くらいは埋まってるように見えたけど、最終日ということもあり正真正銘満員って感じで、客席の熱もめちゃくちゃ高かった。
『ID』の例があったので、僕はてっきり決定版として今までの試行錯誤の中で一番良かったものを演じるものかと思ってたんだけど、カメステはBlu-rayに収録されるのが東京公演(大千穐楽は限定版特典)だからなのかそうじゃなくて、むしろ最後だからとアドリブも力入れてやりたいことをやりきるような感じだったのが面白かった。今まで見たどの回よりも、時間を贅沢に使ってる気がした。

 

ドラマシティの方

・レオンは目的地に着きましたよって言ってるけど、僕らはどこに行く予定だったんだろう? 梅田芸術劇場……って訳ではないんだろうし。
カスタム車ですよってとこに「ドラマシティの方」って付け加えるのは相変わらずの達者ぶり。現地に行った人なら「メインホールじゃなくて……こっちか」ってなったに違いないので(僕も15分くらい迷いました)、一気に話を自分ごととして捉えることができるようになる。
円盤で舞台を見てたときは、メタ発言が多いのってストーリーへの没入感をむしろ下げてしまうのではと思ったりもしていたんだけど、生で聞いてるとその効果はばつぐん。思わず笑ってしまうし、周りの人も一緒に笑うので楽しい気持ちでいっぱいになる。

ジャスティスライドが駆けつけたってことは教育地区のどこかなんだろうけど、レオンがエージェントと車で移動してる印象って意外とあんまりないかも。
あ、よく見たら背景が中央公園になってる。エージェント業務でお疲れでしょうみたいなことを言ってたから、仕事で来てたというよりは、息抜きに公園で行われてるバザーかなんかを見に来たとか、そういうテンションなのかな?


ジャスティスライドが変身したところで、客席にいるレオンがめっちゃはしゃいでたのが可愛かったんだけど、配信でも全景映像にはちゃんと残ってた。
これ以前の公演でもやってたのかな、仮面ライダーばっかり見てて気付かなかった。

・レオンが! マッドガイに混じって決めポーズを取っている!
さっき仮面ライダーを見てはしゃいでたのもあって面白いなって笑いと微笑ましいなって笑いが同時にこみ上げてきた。狂おしいほどの先代への愛情が彼の根幹なので、確かにマッドなガイではある。
ギャンビッツインが加入したことで、レオンを足してちょうどメインキャラが20人になることに最近気付いたので、新キャラが登場するよりも先にまずはレオンが変身するお話が来そうだな……と予想してたんだけど、これ見てよりそう思ったな。伏線とは言わないけど、第3部の匂わせだったりしたら面白いなぁ。
しかも、こういうアドリブをその後のシーンでも拾ってくれるのがいいよね。レオンは特に、毎公演違う話をしてるイメージがある。阿形がレオンのことをメンバーとして認めちゃうのもノリが良くて好き。

・レオンが『Perfect Assistant』を歌いかけるシーン、お気に入りだからこそいつも演出に合わせて伴奏が止まるタイミングで拍手も止めてたんだけど、それが今回は裏目に出てしまった……まさかめげずに歌い続けるなんて! これはこれでまた新しいものが見られて良かった。欲を言えばみんなと一緒に「盛り上がりすぎですよ」って怒られたかった……。


・陽真の「転んだ人くらいだった!」が、元気だったときと落ち着いてたときの中間くらいになってる。なんだかんだこのくらいがちょうど良いかも?

・これは他のとこにも書いた気がするけど、笑わない才悟と笑わせたい陽真の組み合わせは、ロボットだった父親の其雄を笑わせようとしてた或人と同じだよね。
仮面ライダー才悟の元ネタは初代だけじゃなくて、『ゼロワン』に出てくる仮面ライダー1型という説もあるくらいだし。陽真のキャラ造形も、ちょっとだけ無神経なところや黒い部分を秘めたところなんかは、或人的な要素もあるし。


・今回の荒鬼はなんかやたらといじられてたな……神威や阿形にくるくる回されたり、ライブパートでは肉につられたり。現地では笑ったけど、配信で引いて見ると若干気になるかも。

・荒鬼が才悟と言い争ってるとき、紫苑が仲裁しようとしたのを阿形が制して、自分が止めに入ってるのが細かい。荒鬼に対しては紫苑より自分が言った方が効くからってことなんだろうね。

 

阿形の"鬼"はいつから?

・阿形の章を読み返してたんだけど、カメステを踏まえた上で見ると、舞台版の阿形って意外とテキストに書いてあることは忠実に拾って再現してるんだなと感じた。
記憶を取り戻したこともあり本当の自分とは何なのか、狂介や為士みたいな自分の芯がなんなのか分からないと悩んでたりするのがあの迷走なんだろうし、ただ変身する機会がなかっただけで覚悟はとっくにできてたって話は要するにイメトレだし。
あとは、ちょっとだけ天然の気があるヒビキさんと、気分がいいとおはようミュージカルやっちゃう明日夢くんの要素が悪魔いや鬼合体して生まれたものと見ることもできるのかも……?とも思ったり。


僕は1/13の感想で「この頃の阿形にはまだ復讐心がないので、今と違った見え方になるのは当然」という言い方をしたんだけど、神威が名付けた"鬼"というワードを出していたからこのときの阿形は無意識下で脱走後のことを覚えているはずという解釈を見て、最初は「まぁ鬼って言葉が出てくるのはメタ的な都合だよな」くらいにしか思ってなかった自分の考えがもう少し深まった。
よく考えてみたら、アカデミー時代の阿形って本来の歴史では既に「親友を攫われて何もできなかった」という経験をしているはずで、なんならその時に黒い感情≒鬼に支配されてしまったからこそ、カオスを完成させてライダーアカデミーに入ったという流れのはずなので、瞬十のカオスワールドは実際の回想ではなく時系列的にはゲーム本編を踏まえたものだから……とか以前に、アカデミー時代から既に阿形には「鬼になった経験」があったんじゃんと。そもそも彼が復讐って発想に囚われてしまってるのは「落とし前」を重要視するヤクザ的な実家の影響が強いはずだし。
エピソード全部読み返せたわけじゃないから違うかもしれないけど、少なくとも7章の中で阿形は「神威から言われて初めて自身を鬼だと自覚した」とは言ってなかったはずなので、口にしなかっただけで元から彼の中には鬼のイメージがあったと考えても、矛盾はしないような気がする。
そう考えるなら、マッドガイは神威が「魔法のランプ」で言ってたように、記憶を失くす前と後とで人としての本質はそこまで変わってない人の集まりなのかもしれない。ほぼ真逆になってそうなジャスティスライドとは対照的に、ね。

・なーんて理屈をねじ伏せるように「そうだ、狂ってるのは俺だ!」と新しい振り付けのキュウレンジャーみたいなダンスを披露し始めたのでもはや笑うしかない(笑)
幻徳「お前、相当マッドだよ……」
……てかこれあれか、"変なおじさん"の踊りか! バカ殿なんて僕の世代が本当にギリギリ見てたかどうかくらいなんじゃないか……?と思ったけど、思ってたより最近まで続いてたんだ、知らなかった。

ゼロワン好きの『ライドカメンズ』実況 第1部 7章 執念の阿形松之助

 

ひとりはイヤ!な瞬十

・ふつう、何も知らないはずの立場にいるキャラであっても、物語の謎に関する推察というのは視聴者を混乱させないためにも大抵当たってるものだと思うんだけど、レオンはこのとき「犯人は、わたくしたちの身近にいるのかもしれません」と言ってるのよね。
そしてこの時点では、レオンは瞬十とはまだ(戦闘員としてを除けば)出会っていないので、"わたしたちの身近"という表現は、かなりミスリードを誘うものになっている。
作者のミス、あるいは言葉の綾……という身も蓋もない解釈を除くと、考えられる可能性は2つな気がする。
1.レオンはカオスイズムと通じているので、才悟を勘違いさせて瞬十から疑いの目を逸らそうとしていた
2.レオンはカオスイズムと通じているので、瞬十のことも身近と言えるほど知っていて口が滑った

その後のシーンでは、瞬十が犯人であるということを確定させるような発言(雨竜はカオストーンを拾ってないのでは)をしていたんだけども、こういう矛盾はすべて「二重人格だから」で説明できちゃうんだよな……。

・自分にとってレオンは、浄と同じで腹の中を探ろうとすることがキャラ解釈として楽しい、というフェーズに完全に入ってしまってるので、今回のアドリブ合戦もそういう視点でかなり面白かった。
レオンの言う"こちらに来て"というのが、あくまで何も知らない才悟の同級生として振る舞おうとする瞬十に対して、カオスイズムとしての本来の目的を忘れるなって話に聞こえるし、「ひとりはイヤだから!」って才悟を道連れにしようとする瞬十がさ……これだけ素直に彼が寂しさや心細さを口にすることって劇中ではなかったので、あやうくこのギャグシーンでも泣くところだった。

メタ的な視点を持つこと(作中世界にとっての現実を一種の虚構だと認識すること)を"悪"の比喩として捉えるのは『ジオウ』の文脈で、視聴者に話しかけてくる語り部だったはずのウォズが実はクォーツァーという悪の組織の手先だった……っていうギミックを、今回のレオンはかなり彷彿とさせるんだよね。
ゲーム版においても、仮面ライダーがエージェントを信用して打ち明けてくれた情報が、ちゃっかりレオンにも共有されちゃってるという描写が何度もあって、それもすごくソウゴとウォズの関係に近いので。

・順序が逆になったけど、この大千穐楽では瞬十に対する解釈がまたひっくり返ったのよね。もしかしたら彼は、ピアスには「仮面ライダーに成り下がった五期生を、今度こそカオスライダーにするため」と言っていたのかもしれないけど、実は逆で「退学してカオスイズムに成り下がってしまった自分が、今度こそ仮面ライダーになるため」に卒業試験を再現してたのかな……と。
よくよく考えると序盤でエージェントを狙っていたこと等と矛盾する部分もあるんだけど、恐らく瞬十自身も2つの可能性の間で迷っていたんじゃないかな。彼にとっては「みんなと一緒にいられること」が重要なのであって、それがカオスイズムであるか仮面ライダーであるかは比較的どちらでもいい。だからこそ、エージェントを排除してみんなでカオスイズムになるのと、卒業試験をやり直してしれっと仮面ライダーの仲間入りをするのと、どっちがより確実な手段なのかが分からなくて悩んでたと。
でも、結果的には才悟に正体をバラされてしまったので、しれっと仲間入りする作戦は失敗してしまい、追い詰められてしまったから第二段階の「街を人質にとってみんなをカオスイズムに屈服させる」方法に手を出したという流れ。
そういう発想で見てたから、レオンが瞬十に対して「お前の使命を忘れるな」みたいな態度を取ってるように見えた。かーなーり抽象的というか感覚的な話なので、どこまで伝えられてるか分かんないけど。

最終的に才悟が瞬十にトドメを刺そうとする展開になる訳だけど、才悟は既にこの正体バラしの時点からもう無自覚に、瞬十がカオスイズムから抜けてやり直すチャンスを潰してしまったかたちになるのかと思ったら、すごくやるせなくて……。
瞬十が本当にカオスの意志に支配されてたら、あのまま放置することは結果的により甚大な被害を出していたかもしれないけど、もし彼がまだ正しく生きたいと思っていたのなら、「キミは本当は退学していたはずだ」と真実を明らかにしないままなぁなぁにすることで、もしかするとしれっとそのまま仲間に加入することができた未来もあったのかもしれない。でもその未来は様々なボタンのかけ違いによって訪れることはない。

 

レオンの本心

・ここでもすごく大きな役割を果たしてるのがレオンで、才悟が瞬十の正体バラしを急いだのは、レオンに「人狼はその正体を暴かない限り人を食い殺し続ける」と誘導されたからなんだよね。
さっきは「瞬十の正体を隠すためにミスリードをした」って解釈してたんだから、今度は正体をバラそうとしててそれじゃまた矛盾するじゃないかって話なんだけど、ここはレオンにとっても多分苦しいところだったはずで。
仮定に仮定を重ね続けてるので話半分で聞いてほしいけど、レオンは同じく「仮面ライダーになれなかった者」「カオスイズムの強大さに屈服してしまった者」として瞬十に自分を重ねていたはず。
つまりこれって、レオン自身の心の叫びなのでは?
当然のごとく、スパイとしては正体を知られる訳にはいかない。でも二重人格になるほど良心の呵責に苛まれているのだから、いっそのこと全て暴かれ、裁きを受けて楽になってしまいたいという葛藤が「人狼とは正体を暴かない限り人を食い殺し続けるもの(だから止めてくれ)」というセリフとしてこぼれ出たように思えてならない。
僕の好みをよく知ってらっしゃる方なら、或いは好みが近い方なら勘付いたかもしれませんが、完全に『進撃の巨人』を念頭に話をしています。スパイ活動のせいで二重人格になっちゃうのはライナーだし、自分自身でも本当の気持ちが分からなくなって吐き出した心情はベルトルトそのもの。
「頼む……誰か……。お願いだ……誰か僕らを見つけてくれ……」のところ、『進撃』の中でも一番好きなシーンなんです……。

娯楽作品なのだから敵に悲しい過去なんて要らない、殺されるに足る理由があってスッキリ殺されてくれればそれで良いと思う人もいるのかもしれないけど、僕は本当に、敵にも共感できるだけの葛藤があって、可能ならその悩みから解放されて救われる物語が好きなんです。
だからレオンにも、今回瞬十がこういう結末を迎えてしまったからこそ、幸せに前を向いて生きていけるようになってほしいし、そうなることを強く信じてるので、ライドカメンズのこれから先の展開は目が離せません。


・完全に余談というかゲーム本編の話になるけど、じゃあレオンはなぜカオスイズムになんか従ってるのかという部分は、まぁピアスの管理下にある七国大学出身だから学生時代から洗脳されてたからって可能性もあるけど、恐らくは人の記憶をカオスにして置くことで、死んだ人をも蘇らせることが可能だから……辺りが妥当なところじゃないかなと思う。死者の復活は高橋悠也作品では度々重要な意味で登場するので。
浄がカオストーンの研究をしてるのもそのためな気がするし、今のレオンはきっと先代エージェントを蘇らせたくて、カオスイズムに協力してるんだと思う。
早くその話読みたいよ……。


・才悟が瞬十の正体を明言したとき、紫苑が変身できないレオンを庇うように動いてるのが細かい。すごく優しいし、でもレオンにとっては悔しいものもあるんだろうな。

・瞬十が「俺たちはみんなでカオスイズムのライダーになるはずだった」って部分で「そして雨竜たち」と言ってて、つまりこれやっぱり今回出てきたメンツ以外にも五期生はいるってことだよね。千戸瀬数馬,白波一,万丈目恒臣の3人や戦闘員になってるBクラスのダンサーさんたちは、既にカオスイズムに下ってる訳だから。

 

顔素ライダー≠カオスライダー?

ジャスティスライドには街の平和を人質に取ることでカオスイズムに屈するよう提案してたけど、それはここでマットガイに「力を求めるならカオスイズムに入ればいい」と提案してたこととも繋がってるのか。

・1/13の記事で一口にカオスライダーと言っても色々あるという話をしたけど、少し補足。

1.仮面がなく、顔に模様が入ったライダー
2.仮面ライダーへの変身が不完全なときに一時的に1の姿を経由するもの
3.変身前の顔には模様がなく、変身後は顔前面が仮面で覆われ模様が確認できないカオスライダーラリオフ
4.おそらく3と似たような状態だが、変身前から顔に模様がありカオスライダーではなく"大怪人"と呼ばれる大幹部の変身体
5.髪が露出しているラリオフや、顔の下部が露出している大怪人とも違い、本当に頭全体が覆われているカオスライダー瞬十(ただし唇状の造形はある)

カオスイズムに記憶(≒カオス≒仮面)を奪われたせいで、素顔が露出しているのが先輩たちがなってたカオスライダー(1)で、これは"顔素(カオス)"っていうシャレなんじゃないかと指摘されていた。この人たちは記憶を奪われてる関係上、本人が自分自身の意志で動いてるとは言えなくて、ほとんど自我を失った状態に近いと思われる。だからその間にした悪行の責任を問われることも基本的にはない。
この状態のライダーは、先代エージェントが彼らの記憶を宿すカオストーンを渡してあげることで、本来の記憶と意志を取り戻して更生することができる。
たぶんフラリオが変身してる仮面付きのカオスライダー(3)も、対処法が同じだったことから考えて恐らく似たようなものなのかな。

それに対して今回瞬十が変身したカオスライダー(5)は、"顔素"じゃなくて自分自身の記憶を宿した仮面"カオス"を使って変身するって意味において"カオスライダー"なんだろう。つまり一種の同音異義語。まぁカオスイズムにとってみれば、どっちも同じく自分たちに従うライダーだからカオスライダー、で一貫してるとも言える訳だけど。
そもそも"仮面ライダー"も、さっきの理屈で言うなら「カオスライダーが記憶を取り戻した人」「記憶はないまま形見のカオストーンの光を受けた人」「バベルプロジェクトで人工的に変身能力を手に入れた人」の3種類がある訳だしね。
瞬十は先輩たちと違って、記憶を取り戻して本来の自分自身に戻ったにも関わらず、カオスイズムの手先であることをやめられなかったから、犯した罪の責任を問われて、物語的には死というかたちで最後を迎えることになってしまったと。
てもそれと引き換えに、瞬十(仮面のあるカオスライダー)は自我を失いカオスイズムに操られていた訳ではなく、ガオアルのように我を失った訳でもなく、間違いなく自分自身の願いのために戦っていたので、カオスライダーでありながら仮面ライダーとも呼び得る存在でもあるんだな。
ピアスは「君にしかなれない特別なカオスライダー」と言っていので、洗脳も受けずに記憶を保ったままカオスライダーに変身した前例は今までなかったのかもしれない。
瞬十がその前例を作ってしまったので、これからは本編にも出てきたりしてもおかしくないけど。

 

カオスイズムは『Dr.STONE』?

・瞬十が変身能力を奪うだけで荒鬼たちを殺そうとしないの、もちろん同期としての情があるからというのが第一だろうけど第二には、そもそもカオスイズムがそういう体質の組織っていうのがあるんだろうな。
ピアスは第1部 1章 第6話で「我々は無意味な殺生を好まない。ただ記憶を消すだけ」と明言していて、このことからもカオスイズムの目的は「記憶を石に変えて永遠に保存しておくこと」なんじゃないかなというのが窺える。
イベント「Search For The STARS」以降、僕はライドカメンズのことを実質『Dr.STONE』だと思ってるんだけど、それはこういう部分に由来してる。

僕らにとっては「瞬十のカオスは時の概念を捻じ曲げる!? なんでそんな力が!?」って驚きがあるけど、カオスイズムにとってはむしろ当たり前のことなのかもしれない。だってそもそもカオストーンというアイテム自体が、人の生きた時間(記憶)を奪う力を持った物体なんだから、瞬十はその力を正しく発現させて若干応用しているに過ぎない。
なるほどなぁ……やっぱりカメステは見れば見るほどライドカメンズへの理解度が高まって楽しい。


・でも他の下っぱ戦闘員と同じで、瞬十はカオスイズムの目的を100%知らされている訳ではないからなのか、能力を奪っても諦めないなら殺すしかないと判断している。
この時点から既に瞬十が「どうしようもない時は殺すしかない」って価値観を持ってることが示されてて、それが最後の選択に繋がってくるんだな。

・この直後に出てくる戦闘員がカリスみたいなポーズ(足を揃えて中腰になり腕を広げる)をしてて、名前がカズマとハジメになってるのは流石に偶然だろうと思ってたけどもしかしてアクターさんが小ネタとして入れてる!?と思ったんだけど、これやってる方は万丈目恒臣っぽいので違ったらしい。
白波一は腰を落として、ビシッバシッと型の決まったような攻撃が特徴的な方なので。


・大阪公演でも見られるのかなと言っていた、対峙する仮面ライダー才悟とカオスライダー瞬十の影が壁に大きく映る現象については、しっかりと見られました。1/13の回よりも後ろの席だったのでより見やすかった。

 

瞬十の最期とすれ違い

・他の方も言ってたので記憶違いではないと思うんだけど、この最終日はピアスにやられた後の瞬十が数秒だけ長くエージェントを守るために立ち向かっていて、自分は『ID』を見てたのもあり「もしかして瞬十生存ルート入る!?!!?」と、本気で期待したんですよ……。
この日は特に見るのが一度目じゃない人も多いだろうから、ここで改めて、瞬十がどうなってしまうのかでしっかり一喜一憂させてくれた役者さんってすごい。

・この瞬十の死に様も、僕の大好きな『令ジェネ』と同じ高橋悠也節が効いててですね……。
瞬十が口にする"みんな"って言葉は、多分あくまでも"同期のみんな"でしかないんですよ。同期と一緒にいるためなら、市民が大勢犠牲になるビルに爆弾を仕掛けていたのが瞬十なので。
でも才悟は素直なので、瞬十の言葉を受けて本当に「みんなの笑顔」を守ろうと決意する。
このすれ違い,勘違いこそが、ヒーローをヒーローたらしめる原動力になるという描き方、これ『ギーツ』でもやってた十八番なんですよ。
人と人とが本当の意味ですべてを理解し合えることなんてないかもしれないけど、そのすれ違いも含めて人間って素晴らしいよねということを描く作家なので。
もちろん、最後の最後で瞬十も「みんなの笑顔」を願える本当のヒーローになれたという解釈でもおいしいと思う。

あと才悟は瞬十以外の同期はきっちりと救ったわけだから、どっちにしてもしっかり約束は果たしてるのよね。


・才悟が契約違反を覚悟の上で戦ったの、つまり『ONE PIECE』で言うところの「俺たちの命くらい一緒に賭けてみろ」みたいな心境なのかなと思うと、彼の中にも既に仲間に対する大きな信頼が芽生えてるんだなと感じられていい。
レオンから「裏切り者が身近にいるかも」と言われて、ジャスティスライドの面々には疑うとかじゃなくて正直に事情を話してたのもそうだし。

 

ライブパート

・そもそも仮面カフェのステージは期間限定という話だったはずなのに、今回のライブが一般開放に先立ってのものとされてるのはなんでなんだろうと思ってたけど、数日後に行われる超英雄祭が"一般開放"なのかもというコメントがあって目からウロコ。
残念ながら流石にもうお金はないので見に行けなかったんだけど……一般の特撮ファンの皆さんも楽しんでくれると嬉しいな。

・以前の感想では自分をさておいて他のキャラのコールをやるレオンさすがって話をしたんだけど、目立ちたいときは死ぬほど目立つレオンも大好き……。

・毎公演「もっと盛り上がれオラァ!」と煽ってた阿形さんが、僕の見た限りではたぶん初めて「いいねいいねぇ!」と認めてくれて、阿形さんに触発されて恥ずかしがらずペンライト振って楽しむようにした自分としてはなんか嬉しかった。

・あと3ヶ月やって! カメステ2もやって!! 10年続いて!!!

・才悟と慈玄のユニット「Mr.トレーニング」。
神威と阿形の2人は年上組らしいゆったりと余裕のあるダンスだったけど、この2人はやはり全力でキレのある動きを見せてくれたので大満足。

・紫苑はドラマパートではあんまり勝手に喋ったりする暇がないけど、その代わりライブパートで毎度しっかり違うセリフ喋ってくれるので見てて楽しいよね。全編通して、しっかり全員に見どころがある。

・『With My Reason』の"これでおしまい感"に毎回涙を誘われてるんだけど、この日は特に「今日の終わりに〜」のところで感極まっちゃって、やっぱりまたボロボロ泣いてた。
自分普段そんなに涙もろい方ではないはずなんだけどな。


カーテンコール

・「生きてるだけで偉い!」とか「最高・最高・最高!」とか他にも色々良かったところはあるんだけど、今回は瞬十と才悟の話を。

まず瞬十ね。大意としては「瞬十の物語はここで終わって、これからまた託された才悟たちの物語が始まるので、瞬十を振り返るのではなく未来に進んで欲しい」ということを喋ってらして、自分も瞬十のことは大大大好きだしもっと見たかった気持ちもあるけど、それでも彼はこのカメステの中だけで完結していてくれれば良いと思っていたので、うんうんうんと首を振って聞いてた。
今回気になったんだけど、持ち主が死んだ場合カオスってどうなるんだろうね? さっき僕がした妄想では、たぶん本人が死んでもカオスは残っていくんだろうなという気がしてるんだけど、カメステのエピローグではそこに言及するようなセリフはなかったはずなので。
もし死者の復活とかの問題に切り込んで行くんだったら、ゲームの方でカオスから瞬十の人格をコピーしたキャラみたいなのが出てきたりする可能性もゼロではないんだけど……。まぁどっちに転んだとしても僕はライドカメンズについていきます、もちろん。


・才悟から「仮面ライダー好きですか?」と問われて、客席が「大好き!」って返してたのが、まぁライドカメンズの仮面ライダーがってことかもしれないけど、それでもちゃんとみんな仮面ライダーというコンテンツのことが好きなんだなと思って嬉しくなった。僕自身は泣いてたので「大好き……」と絞り出すだけになっちゃったんだけど。
あと最後の「次は君が仮面ライダーだ!」ってセリフ、自分『ヒロアカ』も好きなのでこれもグッときたな。本編中でも、瞬十に向かって才悟が「君を追いかけていたんだ!」って語りかけるところがあって、そこでも勝手に盛り上がってたんだけど。

カメステ自体には続編がつくられたとしても、次は別のクラスが中心になって、もしかすると今回のメンバーは出てこられない可能性もある訳だから(というか大半のキャラは出られなそう……)、次回の仮面ライダーを務める"誰か"に対してバトンタッチしたみたいなニュアンスも感じて、そこも言うなれば冬映画っぽかったな。


というかそう、もしかしたらあるかなと期待してたけど、ここでは続編の発表なかったんですよね……。別に今回なかったから望みがないなんてことは全くないだろうけど、これで最後ですと強調されるのがこんなに辛いとは思わなかった。
「これからも続くであろうライドカメンズ」とは言ってたけど、カメステが続くとは言ってくれなかった!って、なんか突き放されたような感じがしてすごく寂しくなってしまった。
でも、これからもライドカメンズを応援し続けていけば、その先にきっとカメステ2もあるはずだし、全6クラスが一周してまた今回のメンツと会える日もきっと来るはずなので。
役者の皆さん、スタッフの皆さん、本当にありがとうございました! ライドカメンズの面白さを再確認できたのはもちろん、舞台というものの面白さも教えてもらいました。
また次の機会を楽しみにしています!!!

 

86ma.hatenablog.com

仮面ライダーファンにこそ『ライドカメンズ The STAGE』を見て欲しい理由

『ライドカメンズ The STAGE』……通称カメステがめちゃくちゃ面白かったので、ぜひともまだ知らない方に布教をしたい。

仮面が透けていて顔が見えるデザインにまだ抵抗感のある方も多いと思いますが、仮面ライダーにとっては毎年の通過儀礼みたいなもの。龍騎に電王、エグゼイド……発表当時は賛否が分かれるデザインも、見ていくうちに「動くとカッコいい」「ストーリーの面白さを知れば不思議とカッコよく見える」と気持ちが変わっていったことは誰しも経験があるはず。

ライドカメンズもまさにそのひとつです。

 

唯一無二の新たな"変身"

舞台版は素顔が見えるデザインを再現するために、スーツアクターさんではなく役者さん本人が変身後のアクションも担当するのですが、これは言ってみれば本郷猛役の藤岡弘、さんが仮面ライダーのアクションをやっていたことに対する原点回帰とも言えるでしょう。
もちろん専門のスーツアクターさんと交代することによって見られるアクションが素晴らしいのは前提ですが、変身前も変身後も同じ役者さんが演じることによって、誰もが一度は憧れた「本当に自分が変身して戦いたい」という夢が、ある意味舞台の上で叶うんです。
イメージとしてはテレビシリーズで起こる"マスク割れ"に近くて、普段はスーツアクターさんが着ているライダースーツを役者さんが着て演技をするというあのアツさ。その興奮を"目の前で"体験することができます。

 

目の前で繰り広げられる圧巻のアクション

「……本人が変身することでキャラクターの連続性が担保されるのは分かったけど、そうは言っても役者さんができるアクションには限界があるんじゃないの?」と思う方もいるかもしれません。
僕も見る前は正直ナメてましたが、YouTubeで公開されているゲネプロ映像を見てみてください。

youtu.be00:48のシーン、画面左側から仮面ライダーG3モチーフの青いキャラ(蒲生慈玄)が、見事なバク宙を決めているんですよ!
失敗が許されない緊張感のなか、こんな大胆なアクションをお客さんの前で披露してみせる役者さんのプロ意識に、現地で見た僕は本当に感動しました。

『舞台 仮面ライダー斬月』『風都探偵 The STAGE』に続いて、舞台化作品において3度目の演出を担当した脚本家の毛利亘宏さんも「我ながらこれまででいちばん演劇として「仮面ライダー」というものをお届けできる作品になったと思います。」とインタビューで仰っていたほど。
同じ高橋悠也脚本の『エグゼイド』と同じですよね、一見するととても仮面ライダーとは思えないデザイン"だからこそ"、ストーリーの上でも演出の上でも「仮面ライダーとは何か」を突き詰めて描く必要がある。
仮面ライダーが変身して戦うということに極めて真面目に向き合って作られたのが、この『ライドカメンズ The STAGE』なんです。

 

事前知識なしで楽しめるストーリー

本作はゲーム版の内容を知らない方でも大丈夫です。基本設定についても物語の中できちんと説明してくれますし、今回のストーリーは1号モチーフの魅上才悟を主役としながらも、"久遠瞬十"という舞台版オリジナルのキャラクターを巡るものになっているので、既存のプレイヤーにとっても初めて知る内容が多いものとなっています。
久遠瞬十役を演じるのは『仮面ライダーアウトサイダーズ』でエコル/仮面ライダーゼインを演じていた古谷大和さん。『風都探偵 The STAGE』でフィリップ/仮面ライダーWを演じていた魅上才悟役の木津つばささんと並んで、既に一度仮面ライダーに変身したことのあるこの2人の関係性に注目しながら見ていただければ。

ライドカメンズ本編は、ノベルゲームということもありこちらが積極的に色んな意味や感情や文脈を汲み取ることで完成する部分も結構大きく、その解釈ゲームが本当に楽しいんですけど、舞台版は動いて喋って戦ってくれるので、こちらが何もしなくても……つまりライドカメンズや元ネタの仮面ライダーを知らなくても、あちらの方から「面白い」が全力でぶつかってきます。
そういう意味において、カメステは「現状ライドカメンズ史上で一番面白いストーリーだった」と言っても過言ではなく、とりあえずこの一番分かりやすくおいしい部分だけでもいいから体感してほしい!

(※微ネタバレ 久遠瞬十、どことなく井上敏樹が書きそうなキャラだなという気がしてて、でも単によくあるキャラってだけかもしれない。終盤の木場とか、草加もそうかもしれないし、○○○とか○○○○っぽさもある。他の人だと光実とか倫太郎とかBLACK SUNの信彦的な味もする。続く↓)


他にも、モモタロスさながらの勢いと内に秘めた優しさを感じさせる荒鬼狂介、檀黎斗ばりの自己愛と狂気を見せる神威為士など、魅力的なキャラクターが数多く登場するので、きっと推しのライダーを見つけることができるはずです。マッドガイの変身体は『ガッチャード』に登場したクロトーレビスみたいなマスク型で、めちゃくちゃかっこいいです。

(「ライドカメンズ The STAGE」PVより)

 

『風都探偵 仮面ライダースカルの肖像』などと並んで、今年はなくなってしまった冬映画の代わりにぜひ見て欲しい一作『ライドカメンズ The STAGE』。
東京公演は1/26(日)まで、大阪公演は1/30〜2/2までの日程で上演されます。自分は前日にいきなりチケットを取ったのですがとても見やすい席だったので、もし興味を持ってくださった方は、今からでも間に合うのでぜひ観劇しに行ってみてください。

舞台まで行くのは難しいという方も、ストーリーを読むだけなら無課金でも十分可能なので、この機に『ライドカメンズ』を始めてみてはいかがでしょうか。
龍騎』『鎧武』『エグゼイド』『ゼロワン』『ギーツ』などの"多人数ライダー"がお好きな方なら、必ず楽しめるはずです。

※追記:4500円でライブ配信されることが決定したので、東京,大阪まで行けないという方はそれも選択肢のひとつです。

 

ゼロワン好きの『カメステ1/13(月)』感想 ライドカメンズ The STAGE