やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

高橋悠也 作家論――非現実が象る現実の輪郭(エグゼイド,ゼロワン,ギーツ,ライドカメンズ)

※本記事は元々8月ごろに出す予定だったので、『ゼッツ』の開始と『ライドカメンズ』の終了については書くにあたって全く想定されていませんが、おそらく『ゼッツ』を読み解く上でも参考になる話はあるんじゃないかとは思います。

 

 『クウガ』から始まる平成・令和の仮面ライダーシリーズにおいて、高橋悠也は今やもっとも貢献度が高く、シリーズを語る上で避けては通れない脚本家の一人と言って差し支えない。
 サブライターや単発の映画での仕事も含めれば井上敏樹ほど多岐に渡って執筆している者はいないだろうが、氏と小林靖子に並び、本家テレビシリーズにおいて3作品に渡ってメインライターを努めたのが高橋悠也であり、そんな彼が現在進行形で手掛けているのが、昨年5月のリリースから舞台化も成功を収め、ますます発展を遂げているアプリゲーム『ライドカメンズ』だ。
 変身後にも素顔が見える挑戦的なデザインと、それを補ってあまりある仮面ライダーとしての長大で複雑な人間ドラマ……本稿ではそんな『ライドカメンズ』の世界を読み解くヒントを過去の3作品ほかに求め、高橋悠也がこれまで何を描き、どこへ向かおうとしているのかを検討していきたい。

 

変身――拒絶から受容へのプロセス(仮面ライダーエグゼイド)

 『エグゼイド』は、ゲームの力を使って人の命を救うドクターたちの戦いを描く物語で、性格的にも二面性を孕んだ多くのキャラクターが交錯する様を通じて、相反する2つのテーマをいかにして擦り合わせるかを描いた作品だ。

 平成シリーズにおいては、第1作目『クウガ』の敵であるグロンギが持つ「絶対に理解することができない行動原理」の象徴としてまず描かれたのが"ゲーム"の要素で、警察組織などが責任感の元に本意とは離れ仕方なく暴力を振るうこと≒仕事に対し、敵怪人が快楽を求めて自ら望んで暴力を振るうこと≒ゲームが、極めてネガティブなニュアンスを持つ概念として提示された。
 このことは単に「ゲーム感覚」という敵の動機への説明的な用例だけでなく、第26話での神崎のセリフ(最近、時々テレビを見ていて恐ろしくなってしまうんです。悩んだりなんかしなくていい。もっと面白いものをたくさん買って、面白い場所でお金を使って、何も考えずに生きよう。誰も彼もが、そう言ってるように聞こえてね)の中で、明確にコンピューターゲームやゲームセンターを含めたかたちで否定的に語られているように見える。更に神崎は最近の子供の物分かりの良さについても悲観的に話しており、それが暴力として発露されるのをよしとはしないまでも、自分たち大人の主張に対する適度な反抗や衝突を望んでいることが分かる。
 『クウガ』は物語上では"非暴力"をテーマに掲げながらも、視聴者である子供を闇雲に暴力から遠ざけ目隠しをする態度には懐疑的な視線を向け、むしろ徹底して痛みや恐怖を伴う暴力を真摯に描いた作品だが、これが額面的な"非暴力"よりも更に優先度の高いテーマとして、世界に対する"現実感"とでも言えるものが掲げられていたからであることは、作品全体のリアリティを志向したつくりからも窺えるだろう。
つまり『クウガ』に根ざしている根本的な対立構造は「暴力」VS「非暴力」ではなく「現実」VS「非現実」であり、人を"現実感"から隔離してしまうこと全般の提喩として、現実を模倣しただけの仮想的な世界のイメージで"ゲーム"の概念が導入されていると見ることができる。それが作中のレイヤーではゲーム感覚で動くグロンギを真剣な大人たちが倒すドラマとして、また作品外のレイヤーでは所詮は画面の中のフィクションと切って捨てる視聴者を制作陣の本気の作り込みで唸らせる試みとして、非現実性を徹底的に否定するかたちで明に暗に表現されることとなった。

 この点『エグゼイド』もゲームに対するそういった視線には自覚的であり、高橋悠也はインタビューで「報道番組などで「ゲームやアニメの影響で凶悪な事件を起こした」なんて話題になったり、ゲームをやりすぎて親に叱られたこともあるでしょうし、ゲームというのは娯楽でありながらも難しい立ち位置にあると思います。僕はゲームが大好きで否定したくはないので、ゲームへの関わり方についての問題提起もしたいと思っています」と語っている(※1)。

 

 ゲームが象徴するこのような現実逃避を高橋作品がどのように位置付けているかを考えるには、高橋悠也東映が送る演劇プロジェクト・TXT(テキスト)の第1弾『SLANG』が補助線となる。
 本作は『エグゼイド』を書き終え『ゼロワン』の発表を控えた彼が、夢の世界と殺人事件の裁判を舞台に、第三者に近い医者ではなく当事者となるいち個人の視点から、失われてしまった命、ひいては受け入れがたい現実とどのように向き合うかを描いている。
 主人公のバク/紡は、恋人の兄であるムネオ/櫂を意図しないかたちで死に追いやってしまった罪悪感から殺人事件の犯人として自首するも、法律は彼を裁くことができずに無罪となってしまう。
 彼は全てが自分の思い通りになる明晰夢の世界へと逃避し、自らの置かれた状況や湧き上がる感情を余すことなく表現できる"言葉"を探して葛藤するが、恋人のオネム/伊都からの心の吐露を受け、脳内にある既存の言葉には到底落とし込めるものではないことに気付き、夢の世界を終わらせて、おそらく現実の世界で小説家として、背負った十字架を受け入れるための新たな言葉を模索し紡いでいくことを選ぶ……というのが、作品の概ねの顛末である。分かりやすさのため少々自分が行間を補完したので、果たして本当にこのような言語化が適切かどうかはぜひ各々の目で作品を感じていただくとして、問題となるのは『SLANG』が夢をどう位置づけたかだ。

 はじめは平和な毎日を送っていたところから、突発的に殺人事件が起こりそれまでの日常が崩れていく……という単純な流れを本作は採用しておらず、TXTシリーズ第2弾『ID』でより顕著に現れる、同じ内容を何度も上演しつつも毎度微妙に異なった顔を見せる演劇という枠組みをメタ的に取り入れた円環構造をとる。
 冒頭の夢世界でのオネム/伊都とムネオ/櫂による報道番組では、既に現実世界で起こった事柄としてムネオ/櫂が殺害された事件について言及されており、視聴者の目線で体験した時系列が正しくないことが示唆されていると共に、殺害された本人が何食わぬ顔でその事件を報道しているという矛盾が生じているし、また夢の世界との対比でつい現実世界だと認識してしまいがちな裁判パートについても「ムネオ/櫂の幽霊が現れる」という無視できない非現実が混在している。
 すなわち死んだ当人であるはずのムネオ/櫂が現れるという点においてこの2つの世界は同列であり、裁判パートまで含めた『SLANG』内の出来事全てが、文字通り"台本という舞台"の上で繰り広げられるフィクション(非現実)であることが読み取れるのだ。
 これが何を意味するかと言えば、劇中でも「夢は無意識からのメッセージ」だと言及されているように、現実に起こった受け入れがたい事実を咀嚼するために、誰かが脳内で悲劇をシミュレーションしているということで、誰かとはバク/紡かもしれないし、彼と似た体験をしたレ厶/刑事、或いはヨチムジン/精神科医……はたまた劇中の誰でもない高次の何者かだと受け取ることもできる。
 人の意識が処理しきれずに無意識へと追いやった様々な事柄に対し、限定的かつ段階的に追体験することで意識の内へと統合するための補償の場としての"夢"の機能が、この作品では自覚的に再現されているのである。
 先程は話を一本化するために一旦「死んだ人間が現れるのは矛盾」という前提で進めたが、仮にそこに矛盾がなく、既に起こった事件ではなくこれから起こる(かもしれない)事件に備えるための正夢もしくは予知夢だと捉えた場合でも、同じことが言える。
 このことを劇中の展開になぞらえて再説明するなら、1.悪夢ブラザーズによる「ドッキリ」として人の死が描かれる。2.ヨチムジンによる「予言」として人の死が示唆される。3.実際にムネオ/櫂の死体が「事実」として発見される。……といったふうに段階を経て"死"が提示され、更にここに4.全てはフィクションである。という第四の壁まで加えて、この『SLANG』というひとつの夢を見ている主体が、ある日突然提示される「人の死」を受け入れるための防波堤として配置されている。そして恐らく、上演の数だけシミュレーションを重ねた後に、その誰かは現実を受け入れ本を閉じることができるのだろう。
 高橋悠也は夢-非現実-ゲームの概念を、現実と対立するものではなく、むしろそれを補完するために必要不可欠なものだと描いていることが分かる。

 

 この文脈において『貞子DX』は、夢-非現実-ゲームにまつわる以上の捉え方を更に広範囲に拡張させた作品として見ることが可能だ。
 見た者は死んでしまう呪いのビデオが現代に蘇り、死までの猶予が1週間から24時間に短縮された謎を追うかたちでストーリーは展開し、ネット上で自称占い師として活動している前田王司、人気霊媒師として活動しているKenshin、10年来の引きこもりで猫の頭をしたアバター越しに話しかけてくる感電ロイド、そこに主人公の一条文華も含めて、貞子よりも個性豊かかつ癖の強い人間たちが織りなすシュールな不協和音を楽しむ作品となっている。
 本作は一応ホラーというジャンルに位置付けられてはいるが、多数のレビューにもある通り殆ど怖くないのが特徴となっており、おそらくこれまでそういった作品に触れてこなかった層にもリーチすることを目的とした試みのひとつとして「ホラーの視聴を習慣化すること」をコロナになぞらえつつ描いている。
 作中の貞子は実質的に「感染者を無理やり健康にする病気」へと変異していて、ビデオを介して井戸から外に出る映像を繰り返し見せることでサブリミナル的に人を不健康な引きこもりから脱却させようとし、人を生かすことで己も生き残れるよう進化を遂げているのだ。
 この映画自体はさほど怖くないものの、「一歩踏み出してみよう」というテーマを映像作品が描くことによって、王司……ひいては『エグゼイド』の土居万次郎(ヒーローは遅れてやってくる……つまり僕だ!)のような、社会的な擦り合わせをせず一人で自意識だけを大きく成長させた"イタい"人間が外に出てくる現象そのものを「本当に怖いのは人間」という陳腐なフレーズの再解釈として提示していると見ることができるのが興味深い。
 ただし、そこに対してただ「怖いね」で済ませることなく、貞子が生き残れるよう変異したのと同様、また呪いのビデオを毎日見ることで怖さに"免疫"がつくのと同様、イタい人間は外に出た結果蔑まれたり逆に励まされたりして揉まれることで少しずつ社会性を獲得していき、社会の方もそういう人たちをたくさん見ることで少しずつ慣れて過度に拒絶や差別することを減らしていけばいい……という処方箋まで含めてきちんと提示しているのがこの作品の重要な点であり、はじめは距離感の近い王司との間に明確に壁をつくっていた文華も、恋人になるなどと言ったpHジャンプが起こる訳でもないままなぁなぁの距離での関係を続けていくし、文華の母に至っては旦那の姿をした幽霊に対しお茶を出して歓迎するほどの適応を見せたのが印象的だ。
 このような貞子の実質的な無害化と社会による受容は現実にも、やや悪く言えばチェーンメール的な行為を「やらない善よりやる偽善」の精神で浄化したアイス・バケツ・チャレンジのようなムーブメントや、それこそゲームというコンテンツの普及にあたって任天堂がDSやWiiのソフト開発で「健康」や「学習」といったポジティブなジャンルを積極的に取り込んでいったことなどを類似例として見ることができるし、『エグゼイド』においてもバグスターウイルスたちがワクチンをつくるために協力する存在へと変化したことがファイナルステージで描かれている。
 『SLANG』で描かれた「親しい人の死」に限らず、貞子という超常的な怨霊やウイルス、癖が強く受け入れがたい隣人など、現実にそびえ立つ問題の多くは究極的には、慣れによる"免疫"をつけることで克服することができるということを描いたのが『貞子DX』であり、そのためにやはり重要な役割を果たすのが夢やゲーム、そして映像作品などを含めた多種多様な"非現実"なのだ。


 『エグゼイド』の登場人物たちも、お世辞にもただの良い人とは言い難いキャラばかりだ。序盤から、永夢は飛彩を毛嫌いしているし、飛彩も永夢の存在を認めておらず、大我は自分以外の仮面ライダーから力を奪おうとし、貴利矢も嘘ばかりで何を考えているか分からない……しかしそのような軋轢こそが物語上の推進力となって、彼らの関係性をダイナミズムに富んだものにしていき、その射程は敵である黎斗やパラド、正宗までにも適用され、彼らの立ち位置は常に変わり続ける。

 ここではパラドを例にとって考えてみよう。彼は「楽しくゲームで遊びたいだけ」という最もグロンギに近い行動原理で動いているキャラクターだが、自分を遥かに上回る強敵クロノスの出現によって、彼の挙動は変化を見せる。
 それまでのパラドは「バグスター(ゲームキャラ)は人間に倒されるだけの存在ではない」「ひとつの生命体として生存をかけて戦う対等な存在」だと声高に主張していたが、彼は世界で初めて人間に感染したバグスターウイルスであり、あくまでも孤独だった永夢とゲームで遊ぶイマジナリーフレンドとして生まれたので元ネタとなるゲームキャラがおそらく存在せず、その言葉はまるで現実との接点を持たないAIが操る言語のように、どこか真実味に欠ける空虚なものであった。
 それがクロノスに一方的に命を狙われることで死に対する恐怖心が芽生え始め、第39話では永夢によって追い詰められ擬似的に死を体験することによって遂に、自らがゲームと称して命を奪ってきたことの重大さを自覚し懺悔することとなるのだが、なぜパラドがグロンギとは違いこのような和解の道を辿ることができたのかを考えると、『クウガ』と『エグゼイド』における「ゲーム」というものへの視線の向け方の違いが浮き彫りになるように思われる。


 先に引用した高橋悠也のインタビューと違い、『クウガ』という作品からは概念としてのゲームに対する共感的な態度というものを読み取ることは殆どできない。
番組の序盤で既に人間に近い生命体であることが発覚し、またゲゲルに失敗した者やそもそもゲゲルに参加することができない者は殺されてしまうという圧力の存在が示唆されているにも関わらず、グロンギに対しては人権の有無はもちろん、情状酌量や更生の余地について前向きに言及されることなどは決してなく、徹頭徹尾「殺すより他にないもの」として扱われる。なぜなら、ゲーム感覚で人を殺めることができるような存在だから。
 しかし『エグゼイド』はそこを逆手に取る。パラドはゲーム感覚だったからこそ、その生き方を捨て人類と共生の道を新たに歩み始めることができるのだ。
 これがもし宗教や哲学など、高度な思想的背景に基づく殺人だったのなら、それを否定することは相手がそれまで生きて思考し積み重ねてきた全てを否定することであり、一朝一夕にはいかないだろう。それこそ我々人類が直面し続けている課題であり、相互理解というものの難しさである。
 だがことがゲームなのであれば、本当に「ただのゲーム」であるならば、それを捨てるのはそう難しいことではないはずではないか。
 興味深いのは、パラドは「ゲームを楽しむ」という生き方の根本までを無理に変えたわけではないということで、彼は見方によってはただゲームの遊び方を変えたに過ぎない。永夢と対戦することから永夢と協力することへと、ゲームのルールを再設定した。そしてグロンギが本当にただ自身の愉悦のために人を殺しているのなら、同様にスポーツのように無害化した形で衝動を昇華する可能性がまったく閉ざされていたとは考えにくい。
 「中途半端」を何よりも嫌い、徹底的に究極を突き詰める姿勢を採用した結果、人類がリントと比べてよりグロンギに近い存在となってしまったことは作中でも自覚的に語られている通り、ある意味において『クウガ』は、敵キャラとして設定された対象を倒さなければ永遠に先へ進むことができないという従来的な「ゲームの論理」から抜け出せなかったのに対し、『エグゼイド』は遊び方の自由度が無限にも近く広がり、プレイヤーの判断次第で敵を倒さず仲間にすることでクリアすることもできるような、現代的に拡張されたゲー厶の類例として見ることが可能だろう。
 『クウガ』では「分かり合えない理由」であったはずのゲームを「分かり合える理由」へと大胆に読み替えた『エグゼイド』は、前者が泣きながらも叶えることはできず、未来を担う保育園の子供たちに象徴的に託すに留めた綺麗事を、16年越しによりポジティブなかたちで実現した作品として位置づけても良いのではないか。
 ゲームとはすなわち、疑似体験の場である。
 受け入れがたい事柄への免疫を付けたり、逆に知識としてしか知らなかったことを少しだけリアリティを持って捉えられるようになったりと、使い方次第では人間社会をより円滑にしうる可能性を秘めているし、そういった役割を担う"非現実"の存在を許容することの重要さを、言い換えるならば自身を柔軟に変身させていくための"あそび"を残すことの必要性を、ここに見出すことができる。

 

仮面――本物と偽物の狭間で(仮面ライダーゼロワン)

 ここまでは『エグゼイド』を中心に話を進めてきたが、現実にはバグスターのような「ゲーム感覚で殺戮されてきたことに対する意趣返しとして、ゲーム感覚で人類の殺戮を目論む存在」というのはなかなか想定しにくい。子供向けとして、俗に言われるようなゲームのやりすぎによる暴力性の誘発に対する教訓的な警鐘にはなるかもしれないものの、人種や異なる価値観を持つ集団の比喩として見るには、人間態を持たない個体も多くいるなどグロンギと比べても突飛さが強く見える。
 『ゼロワン』はAIを搭載した人型ロボット・ヒューマギアが普及した近未来を舞台にした作品であり、バグスターよりは人間に近い別種族として、ヒューマギアとの共存を描く物語だ。
 本作の敵である滅亡迅雷.netは、人間の悪意をラーニングしたとされる超AI・アークによって組織された人類を滅ぼすためのヒューマギアの集団だが、彼らは「戦争や環境破壊を繰り返す人類は滅ぶべき」というイデオロギーの元に活動している。これは「人を殺したい」「ゲームを楽しみたい」といった主体的な動機で動いていたグロンギやバグスターとはやや趣を異にするもので、このような明確な思想背景を持つ者に対しては、パラドと同じようにはなかなかいかない。
 アークや滅亡迅雷.netにとっては、早急に人類を滅ぼさなければいずれ地球上の全ての生物が絶滅するという危惧が根底にあり、自分たちヒューマギアの立ち位置も危ういと考えているので、生き残るためには人類を滅ぼすしかないと信じている。
 「やりたいこと(欲求)」は我慢することもできようが「やるべきこと(義務)」はやめる訳にはいかない。

 ただし『ゼロワン』の場合は、その義務の意味を正確に認識している者はさほど多くないことにも言及しなくてはならない。一般の怪人枠であるマギアはハッキングによって強制的に従わされているケースが多く、幹部である迅についても人類がどのようなことをしてきたのかについての具体的な知識は与えられておらず、ただ「滅ぼすべし」という目的意識だけが植え付けられている。大元のアークにしても同様で、天津によって人類の負の歴史を偏って教わった際に、人間自身が抱く人類への問題意識を真似ているに過ぎないという見方もできる。
 そういった意味では、ゼロワンの敵は大した背景を持たないバグスターとの中間に位置する敵であると言う方が適切のようにも思われる。
 しかし高橋悠也作品は、良くも悪くもそういった主義主張の濃淡に大きな貴賤を付けない傾向がある。「ヒューマギアは私たち人間の心を映す、鏡のような存在なんです。私たちが正しく接してあげれば、彼らも正しくラーニングして、素晴らしいパートナーになるんです。私たち人間も同じじゃないですか。家族や学校、友達、色んな環境から、色んな影響を受けて、成長して変わっていくのが人間じゃないですか」と作中でも語られている通り、彼はヒューマギアだけでなく人間自身についても、周囲の環境に影響を強く受ける弱い自我を想定している。
 『ゼロワン』が興味深いのは、人型ロボットを人間と同程度に尊い存在だと描くのではなく、立脚点となっている人間の地位を揺らがせた上で、AIとの間に違いはないと描く点である。

 高橋悠也の経歴を見ると、彼は『エグゼイド』に参加するより以前にヒーローもののパロディ作品『エイトレンジャー』を担当しており、その後も『ザ・ハイスクール ヒーローズ』のメイン脚本を務めている。
 発表された時期は大きく違うものの、両者に共通しているのは「既にヒーローと呼ばれる概念のステレオタイプが先行して存在している中で」「そのステレオタイプからはやや逸脱したキャラクターが」「ステレオタイプを手本としつつ自分なりのヒーローとなる」の3点。
 どちらの作品においても、ヒーローとして戦うメンバーは品行方正とは言い難く、ギャンブル中毒、アルコール依存症を始めとして難のある性格の持ち主ばかりである。特に『エイトレンジャー』においては、先行するヒーロー キャプテン・シルバーに至っても同様に演出されており、パロディものらしく正当なヒーローという概念に対して若干の懐疑的な視線を向けつつ、戯画的に描く手法が取られている(※2)。
 第4話の「一嘉、俺を見ろ! ヒーローつっても、すげえバカだし、ドジだし。でも、ヒーローがこうじゃなきゃいけないなんてない! 俺たちは何者でもないし、何にでもなれる!」というセリフ(※3)に最もよく表れているような、いわゆるヒーロー像をカッコの中に入れた上で、自分たちはその虚像の更に真似事をしているに過ぎないことを自覚しつつも、それを単なるお笑いとして済ませるのではなく、あくまでも真剣な人間の営みとして描き出す姿勢は、白倉伸一郎らが『Over Quartzer』『スーパーヒーロー戦記』と折に触れて描いてきた、まさしく平成以降の仮面ライダーが辿ってきた道筋と同じだと言えるだろう。
 ヒューマギアもまた、そのような文脈の上で捉えられなければならない。元来フィクションの登場人物がそうであるように、彼らは現実の人間を誇張して映し出す鏡であり、本来的にパロディである。そういった意味において、人間とヒューマギアは同列に位置する存在として扱われていく。

 加えて、こういった無差別化は作品の内に留まらず、現実の人間に対しても程度の差はあれど適用できるものだと高橋悠也は考えているように感ぜられる。
 そのことはAIがラーニングしていく様を子供の成長に例えていた(※4)ことや、舞台『ID』のインタビューで本人のアイデンティティとは何かを問われた際に「人殺しが出れば人殺しの気持ちで書かなきゃいけない」「作品毎に変わるカメレオンのようなものが、脚本家としての(自分の)アイデンティティ」と答えている(※5)ことにも現れている。彼は敵味方を問わず、自由に仮面を付け替えるように様々な立場にいるキャラクターの思考をエミュレートする方法論を取っており、自分らしさとはそういった営みの中で生まれては消えを繰り返すものであり、究極的には自分自身に固有の特徴というものはないのだと。
 善人であれ人殺しであれAIロボットであれ、作品の中で描く以上は全て自身の内側あるいは延長線上にある並列な存在として位置付ける高橋作品の姿勢は、敵に対する共感性に欠く『クウガ』のそれとは恐らく異なる。クウガグロンギの間には「暴力」という共通項こそ配置されているものの、五代がグロンギと同じく快楽殺人に耽るような可能性が想定されているようには思えない。聖なる泉という比喩によって両者は連続的なものとして捉えられていると見ることは不可能でこそないが、五代がなってしまうと示唆されているのは「理性を失った戦うためだけの生物兵器」であって「理性を保ちつつもゲームとして文化として人殺しを楽しむグロンギ」ではない。
 グロンギの設定が生み出される工程では「手ぬるい」という言葉が多用されたことが語られている(※6)。「力を持った者が手加減するなんてことは実際にはありえない」「現実の中で、そこまで優位に立った悪が、そんな風に手ぬるいなんてことは絶対にない」という考えの元に残虐性を強調した描写がなされたとのことだが、これは本当に強者……況して人殺しを楽しいゲーム程度にしか捉えていない悪の視点に立った発想だろうか?
 グロンギのこういった過度な残虐性に「ヒーローの闘いが実はリンチであること」を正当化するための作者の欺瞞を見出すことは先達もしていたが、メタ的な視点とはまた別に、単なるゲームに過ぎないという設定も含めた"悪の動機"を軽視した発想は、むしろ訳も分からないまま暴力を振るわれる弱者の側に寄ったものであり、悪とされる者自身にとってのリアリティとしては成立してはいないのではないか。
 『クウガ』がそのようなアンビバレントな状況に陥ったのはやはり、頼りになる大人というものと害を為す悪というものを、それぞれの形で神聖視し別物として峻別する意識が作用していたと見るのが自然だろう。
 そのように善悪を二分した物語を描くことにはそれはそれで一定の価値もあるだろうが、少なくとも「ヒーローが振るうのも暴力であり、怪人と紙一重である」と描くことにかけては高橋作品の方が遥かにドライである。
 敵の動機を過度に悪辣なものとして強調することなく、最低限の理はあるものとして描きつつも、ヒーローが敵を倒すことから暴力性を脱色しきることもせず、特に物語序盤においては相手を受け入れることなく排除するより他にない現実があることから逃げない。

 そして『ゼロワン』において特筆すべきはやはり、終盤において主人公である飛電或人が、復讐心に囚われいわゆる闇落ちをする展開だろう。それまでのシリーズにおいて、何らかの外的要因によって自我を失い暴走することや、主人公から分離された別側面が敵として出てくること、また単純なクリフハンガーとして思わせぶりな行動をすることはあっても、主人公自身が明確に自らの意志でもって悪の戦士へと身を落とすことはなかった。
 この仕掛けが当初から想定されていたものではなく、コロナウイルスの流行によって実質的な放送休止を余儀なくされたことを受けて変更された結果であることは各所で語られているが、これが単に驚きを与えるために奇を衒っただけの付け焼き刃でないことは、既に語ってきた高橋作品の傾向からも明らかだろう。
 元より彼は善と悪とを、ひいては人間が持つ性質というものを定常的なものとして捉えてはおらず、どのような環境から影響を受けたかという偶然の産物、ちょっとしたボタンのかけ違いで容易に反転し得るものとして描き続けてきたし、それは正義が悪へと転じ得る不安であると同時に、悪が正義へと転じる希望的な可能性の源泉でもあり、言うまでもなくそれは、悪の組織ショッカーによって生み出された両義的ヒーローとしての仮面ライダーシリーズの持つ本懐にも沿ったものである。
 その上で『ゼロワン』は当然の如く、一度悪意に飲み込まれた主人公を、自らの罪悪感と他者からの叱咤の中で揺れさせた後に、もう一度正義のヒーローとして再起させる。
 復讐の対象であるテロリスト集団 滅亡迅雷.netのリーダー・滅との最終決戦において或人が取った選択とは、ヒーローと怪人に共通する"暴力"を媒介して「互いのストレスを発散すること」だった。或人は滅に身内を奪われた憎しみを、滅は傲慢にもヒューマギアを単なる奴隷として抑圧し続ける人類への憎しみを露わにし、殴り合いの中で相手の拳に込められた"言葉では表し尽くせない想い"を受け止めることによって、憎悪の連鎖を断ち切ろうと試みたのだ。悪である敵を一方的に矯正するのではなく、まず自分自身が変わる。
 人間が抱く感情とは決して永遠に続くものではない。怒りに飲み込まれることがあるのなら、それを晴らして元の状態に戻ることも、困難ではあるかもしれないが決して不可能ではないはずだ。人間とはそうやって常に変化し続けていく生き物であるということを、"或る人"の名前を持つ主人公を通して清濁合わせて描くことによって、敵側の主義主張であるところの「人類は滅ぶべき悪」という固定化された結論に揺らぎを与え、我々人間は自らの中にある悪意を乗り越えることができる、故に敵となるヒューマギアたちも悪意を乗り越えることができるのだという鏡写しのロジックで、敵との和睦の道を見出す。

 高橋悠也の描く作品は、必ずしも一貫性に拘らないという点で一貫している。この極めてラディカルな実存主義的態度は、物語を予測のつかないスリリングなものにする実益と共に、非常に現代的な精神性として、何者であっても良いはずだという解放された自由への欲求と、それに付随する自分が何者かを常に問い続けなければならない不安定さの板挟みを見る者に提示する。
 "わたし"を一元的に規定できるような本質など存在せず、全てはあくまでも場当たり的な仮初めのものに過ぎないという虚無的な世界観を、だからこそ立場や枠組みにとらわれず、過去の自分すらも否定して未来を自由に選択する余地があることを示すのは、未だ自我同一性の確立されていない子供向けの番組として、きっと意義のあることであるはずだ。

 

 

正義――彼我の切断による自己の確立(仮面ライダーギーツ)

 暴力を行使して敵を倒す様子を楽しむ性質を根幹に持つ特撮番組であることに対し、無理に自己反省を試みるのではなく、むしろその暴力の中にこそ平和への希望を見出したのが『ゼロワン』だったが、次作『ギーツ』においては恐らく前年の『リバイス』との差別化によるものか、自身の中にある悪性との戦いのニュアンスはやや影を潜め、困難を前に挫折してしまうか否かという"弱さ"との戦いの側面が前景化することとなる。
 『ギーツ』は理想の世界を叶えるために競うデサイアグランプリ(通称デザグラ)を舞台に多くの仮面ライダーたちが鎬を削る作品だが、本作の主な敵・ジャマトは、ヒューマギアのように人類に作られた訳でもなければ、バグスターのように人類への復讐を掲げている訳でもなく、設定的に表に出ている範囲では単に自然発生し一方的に地球を侵食する突然変異種とされている。
 彼らが『鎧武』のヘルヘイムの森と違うのは、デザグラ運営の管理下で意図的に栽培されている点で、少なくとも作中に出てくる大半の個体はそういった出自とは裏腹に、人間の作為によって生まれた敵として立ちはだかる。
 しかしその作為とは、あくまで戦いを単なるリアリティショーとしてのみ消費するオーディエンスを含むデザグラ運営によるものであり、実際にジャマトと敵対する仮面ライダー自身の内側に存在するものとしてはあまり描かれていない。英寿たちにとって作中世界がリアリティを持った現実であることは、例えば『マトリックス』のようなギミックで脅かされることはなく、自身の愉悦のためだけに積極的に他を害すデザグラ運営の持つ悪性との接点は、実質的には"未来人"というレトリックの中にのみ残されるかたちとなっている。
 『エグゼイド』『ゼロワン』においては、永夢のゲーマーとして敵キャラを倒すことに快楽を見出す性質(≒パラド)や、或人がヒューマギアを破壊し抑圧することが、そのまま敵の戦う動機として反転するようになっていたのと違い、『ギーツ』における英寿たちは敵の悪性の根拠からは比較的隔離された場所に配置されており、善と悪とを渾然一体のものとして描く高橋悠也脚本に独特の鋭い筆致はやや失われ、善悪を二分した『クウガ』的な価値観へと退行したと見ることもできる。

 このような描かれ方をすることになった原因は主に2つ。ひとつは短期的視点で『ギーツ』がメタフィクションの構造を取り入れるために、現代人と未来人の間に単なる時間的な距離を超えた大きな断絶(設定的には地球の滅亡)をつくったこと。そしてもうひとつはもっと巨視的に、いわゆる仮面ライダーの三原則「同族争い」「親殺し」「自己否定」の要素が挙げられる(※7)。「親殺し」に軸を置いて描こうとすると、敵と味方との関係性は双方向ではなく親→子供の一方向なものになるのはある意味で仕方のないことではある。敵側の働きかけに対し、子供は「親を殺す」という最終的な応答こそするが、根本的な部分で循環することはない。
 『エグゼイド』『ゼロワン』的な方法論は、この「親殺し」を満たすことに多少の齟齬をもたらす。敵のルーツをヒーロー自身の中に求める場合、「同族争い」「自己否定」の2要素は高度なレベルで満たすことができても、どうしても「子殺し」的な意味合いが強くならざるを得ない。正宗が黎斗の父親としての属性を持っていたり、アークに偏ったラーニングをさせた張本人である天津が飛電其雄と同年代の人間であったりと、外枠でこそ父親的なニュアンスを持たされてはいるが、主人公である永夢と或人の直接的なルーツとしてはほぼ機能しておらず、実親との関わりは小説版や劇場版などの別媒体で語られている。
 今回は「同族争い」「自己否定」にやや偏りがちだった高橋悠也作品に、自分とは"似て非なるもの"との戦いとしての「親殺し」の概念を本格的に導入しようとしたのが『ギーツ』であるという仮定で話を進めることとする。

 そのために今回注目したいのは、『令ジェネ』で描かれた飛電親子だ。小説版での対峙で一応の和解を見ることができた宝生親子と違い、或人と其雄は正史においては最後まで心を通わせることができないまま死別を迎えてしまうのだが、この『令ジェネ』では『ジオウ』とのクロスオーバーでもあるため、タイムマシンを使って過去の世界や改変された現在の世界で其雄との交流が描かれる。
 ここで肝となるのは、2人の言う"夢"の解釈が決定的にすれ違っている点。終盤、或人は其雄が「人間とヒューマギアが一緒に笑える世界」を夢見ていたと、そして自分自身の夢も同じであると宣言するのだが、実際に其雄が目指していたのはあくまでも「俺が笑い、或人が笑う世界」であり、その他のセリフから「ヒューマギアが笑える世界」を望んでいたことは間違いないとしても、改変された現在においてヒューマギア陣営のひとりとして人類滅亡を黙認していたことからも、或人以外の人類全体の笑顔については必ずしも含まれていなかったと見るのが自然だろう。或人の夢と其雄の夢は厳密には異なるものであることを証明するように、其雄は或人の前に敵として現れ、自分を倒さない限り或人の望む未来はやってこないと告げ、激闘の末に、或人は倒れた其雄と一瞬の笑顔を交わし合う。
 ただし、其雄は飛電其雄本人ではなく或人よりも後に作られたヒューマギアであり、彼の夢も「お父さんを笑わせたい」という或人の言葉に由来している訳なので、厳密にはこれも親殺しではなく子殺しのニュアンスが強めに残っている。

 この『令ジェネ』のような、死にゆく他者の小さな願いを受け取り手が美化し、拡大解釈を加えることによってヒーローをヒーロー足らしめる動機の源泉と位置づけるようなシチュエーションを高橋悠也は繰り返し描いており、『ギーツ』でも「あなただけは生きて幸せになって」というミツメの消極的な願いを、母親と共に幸せになりたかった英寿が「みんなが幸せになれる世界」へと拡張させるくだりがある。その後のスエルとの戦いも含め、主人公が誤解をしたり自己を同一化しきれない状況が、恐らく意図的に放置されていると言える。
 永夢は命の恩人である日向恭太郎を実質的な育ての親としながら医者兼仮面ライダーとして人を救う覚悟を決めているし、或人も其雄を笑わせたかったという動機が根っこにあるとはいえ、お笑い芸人になるという挫折した夢への落としどころとして社長兼仮面ライダーとして戦う覚悟を決めている点で、親殺しというイニシエーションをある意味では軽視してきたのに対して、英寿は物語終盤に至るまで、基本的にはデザグラで勝ち残り母と再会するために戦ってきたのであり、高橋脚本においては初めて、明確にテレビシリーズ内で親を他者として超克し、真にヒーローとなるプロセスを描いたのだ。
 このことは単に先行して存在する仮面ライダーらしさを尊重する以上の意味がある。

 本来ならば制御不可能な圧倒的恐怖の対象としてあったはずのヘルヘイムを、人間の作為がもたらす"理由ある悪意"へと変換してしまったことが象徴的なように、高橋脚本には作品内の要素になるべく意味付けをし支配下に置きたがる傾向が強く見受けられる。受け入れ難いものを受容し、敵キャラに対しても自己を投影して共感可能なものとして同一視する彼のスタイルでは、本当の意味での他者性を扱うことが難しい。
 つまり『ギーツ』が敵と味方の動機に明確な断絶を設けたのは、仮面ライダー特有の親殺しという回路をそのエクスキューズとして利用しながら、作者による支配欲への批判的な視点を持たせるためとも解釈できるのではないか。(※8)
 また、ここまではあくまでも主人公の視点から見て敵側に共感する余地が設けられているかについての話だったが、少しズームアウトして見た場合、オーディエンスやデザグラ運営の行動原理には、メタ的な視点を持つ我々としては共感が可能なものとして設定されている。リアルな世界観を志向する限りは、人の生き死にを娯楽として楽しむ敵に感情移入させるのは物語の内外ともに難しいところを、メタフィクション構造を取り入れることによって「作品内のキャラにとっては理解不能だが、作品外の存在にとっては理解可能」という二面性を持たせ、敵味方の過度な癒着を切り離しつつも、排除するだけの対象として終わらせない従来の高橋作品らしさとの共存を試みている。
 「親殺し」を描くにあたり、敢えて父親的な存在ではなくまずは母親を想定することで、再会し同一化をはかる英寿の欲望に切れ目を入れる象徴的な去勢として描き、母子の分離を受け入れる(≒ブーストマークⅢバックルの分離)ことで「食うか食われるか」といったトレードオフな世界観から脱却することが可能になるという、謂わばラカン的なアプローチにすり替えることでもって、英寿のヒーローとしての自我の確立と生き残りゲーム的な世界観への回答を提示したのが『ギーツ』だと言えるだろう。

 『ゼロワン』では特に『REAL×TIME』に顕著なように、エスに対しては或人が今の悪行に至った経緯を知ることで共感を示したが、その他のシンクネット構成員に対しては「お前たちに同情の余地はない」と切って捨てるような描かれ方がされていた。しかしこの前進によってなのか『ギーツ』では、行動原理が理解できない不気味な存在として立ち回っていた五十鈴大智に対しても、同情に足る過去話などは殊更描かれないまま「幸せになる権利がある」と明言されることとなる。
 未来人という設定によって基本的には排除するしないといった選択の埒外にあるスエルたちはまだ良いとしても、『ジャマト・アウェイキング』では現代に生きるジャマトである蒼斗が爆殺されたまま放置されているなど現時点では完璧とは言い難いものの、景和が大智のことを受け入れたように、蒼斗も含めて幸せになれる世界を作れるかどうかはこれから先の彼ら次第である。

 

進化――偶然性と不完全性の行く先(ライドカメンズ)

 ここまで高橋悠也がメインライターを務めた3作品について振り返ってきた。『エグゼイド』からは非現実を媒介して現実を受け入れる柔軟性を、『ゼロワン』からは異なる背景を持つ者に対しても理解を示し相互に影響しあう共感性を、そして『ギーツ』からは全てを支配下に置くことは諦める他者性を、それぞれ読み取った。最新作となる『ライドカメンズ』には以上の全ての要素が詰まっている。
 第一に、『ライドカメンズ』の仮面ライダー(以下カメンズ)はほぼ全員が記憶喪失であり、カオストーンと呼ばれる石に封じ込められたストレス性の高い過去の記憶と向き合うことが彼らに与えられた主な戦いであること。第二に、その中で全く信条の異なるカメンズ同士が時に協力し、時にぶつかりあい互いのことを理解していく様を中心に話が展開すること。第三に、カメンズを改造し教育した親であるカオスイズムを打倒することが最終的な目標として設定されていることが挙げられるだろう。

 本作ではこれらに加えて更にもうひとつ重要な概念が扱われている。他者性と同様に、自分の思い通りになりきらない要因のひとつとしての偶然性だ。
 『ライドカメンズ』にはアプリゲームの例に漏れずガシャ要素があり、天井こそ設けられているものの、カードに固有のストーリーを読めるか読めないかは実際的には運次第である。また、バトルで使用するカオストーンの精製にもある程度の運はどうしても絡むため、さながら『ギーツ』第12話のように、偶然性に対しいかに戦略的に成功確率を上げ、運が味方するまで諦めずに挑戦し、訪れたチャンスを逃さずものにするか、或いは引き際を見極めるかが、本作のゲーム性のひとつとなっている。

 またこのゲームにおける最大の目標はノベルゲームとして多種多様なストーリーを読むことだが、発売前に物語の外縁を定められる買い切り型のゲームと違って、持続的に展開し続けるためには大規模な選択肢分岐を設けることは難しい。
 メインストーリーでは選択肢の影響が章を跨ぐことは現状なく、調査ストーリーでは分岐によってエンディングが変わるものの、それがメインストーリーにフィードバックされることはないので、大局的にはどちらを選んでもそう変わらないようになっている。
 せっかくゲームというインタラクティブな媒体であるにも関わらず、プレイヤーの選択が物語に対しさほど大きな力を持ち得ないというこのジレンマを解決するのが、小説版『エグゼイド』での拡大解釈されたノベルゲームのスタイルである。
 紙媒体の小説で選択肢による分岐を再現するためには、ゲームブックのようにページを行き来させたり、並列な物語をいくつか用意して読者が好きな順番で読むことによって解釈を変える形式を採用するなど、作り手にとっても読み手にとってもやや面倒な仕掛けが必要となるが、小説版『エグゼイド』ではそういったあれこれを全て削ぎ落とし「読み進めるか、本を閉じるか」という最もシンプルな二択を読者に提示した。

 『ライドカメンズ』においてプレイヤーに与えられた究極的な選択肢は、供給されるストーリーを「読むか、読まないか」であり、読めば読むほどキャラクターや作品世界についての理解を深めることができるが、そこで見える新たな一面は必ずしも自分の望んだものとは限らない。苦労の末に手に入れたエピソードが他愛もない日常かもしれないし、重要なエピソードを読んだことでそのキャラへの印象が180度変わってしまうかもしれない。
 また本作はゲーム内のストーリーの豊富さもさることながら、各種メディア展開も豊富なので、作品に関する全てを網羅的に知ることは不可能にも近い。ゲーム情報誌に掲載されたショートストーリーや、舞台版での日毎に変わるアドリブなど、とてもいち個人が把握しきれるものではない。他人のことを完全に理解することなどできないのと同様、カメンズについても常に「自分の知らない一面」がつきまとうこの状況そのものが、キャラクターをリアリティを持った人間へと引き上げるポテンシャルを持つ。
 スーパーポジティブを座右の銘とする伊織陽真の性格が、むしろ「泣くことができない」という欠落によって消極的に定義されていることに顕著なように、不完全であることこそがその人の"個性"になるのだという思想が垣間見える。
 通常の物語においては、最終話まできちんと"履修"せずに得られたキャラクター認識は間違いとして棄却されかねないし、平成ライダーにおいても劇場版やスピンオフは大抵の場合"正史"の中に組み込まれることとなるが、ゲームという媒体を採用することによって、個人間での認識の差をルート分岐として受容することが可能になるのは、これまでにない特徴だと言えよう。あるプレイヤーが"読まない"ことを選択したエピソードは、そのプレイヤーの選んだルートでは"起きなかった"かもしれない出来事として理解される。
 この文脈では記号化された特徴を持つ一面的なキャラクターとして消費することと、多重で複雑な面を持つキャラクターとして捉えることを連続的なものとして扱うことができ、二次創作として様々なif世界を生み出す原動力を殺すことなく展開することができる。
 カメンズがカオストーンに秘められた自身の記憶を集めるのと相似形を成すように、我々プレイヤーもまた偶然の壁を前に無数の取捨選択を重ねながら膨大な情報と向き合い、彼らに対する解釈やモチーフとなったキャラクターへの解釈、場合によっては自分自身の価値観まで変化させて「共に生きる」こと。知り尽くすことのできない他者に少しでも接近を試みるこの営みこそが『ライドカメンズ』というゲームの最大の魅力なのだ。

 


 『ライドカメンズ』の企画は『ギーツ』よりも前であることを思えば、本来の時系列をやや無視して進歩史観的とも取れる語り方をしてきたが、実際には濃淡こそあれど、ここまで紹介してきた作品には様々な要素が横断的に存在している。その上で敢えて高橋悠也という作家のこれからに何らかの発展を期待するならば、より根本的なレベルでの他者との対話だろうか。
 冒頭では井上敏樹小林靖子と並んで3作品のメインライターを務めたと紹介したが、『エグゼイド』『ギーツ』と2作品に渡って全話を執筆したのは高橋悠也が初であり、逆にその速筆を活かしたサブライターとしての参加は殆ど例がない。
 ここまで見てきた通り、元来彼は自分をあまり強く押し出さない作家であり、『ギーツ』では脚本を一人で担当する代わりにその話を担当する監督に合わせた話作りを試みていたり、プロデューサーやその他スタッフの証言からも周囲の意見をうまくまとめる手腕が評価されていることも多く、他者とのコミュニケーションを重んじて創作をするタイプだと言えるだろう。
 だが高橋悠也自身が多面性を持っているが故に、特にキャラクター造形においては彼一人の内的な側面を分割したものとしての色合いがどうしても強くなってしまいがちである。
 客演を含む映画や『アウトサイダーズ』などで部分的に実現してはいるが、強烈な個性を持つ他の誰かが生み出したキャラクターを動かす中で、その差異から高橋悠也自身の個性が浮き彫りになるような展開や、他の作家が設定を生み出した新キャラクターを『ライドカメンズ』に参加させた上で、高橋悠也を含む他のライターが肉付けをしていくようなことがあれば、更に開かれた物語の可能性を見ることができるかもしれない。

 今や次代の仮面ライダーを担う作家としての地位を確立した高橋悠也に対し、ある種のカウンターとして乗り越えその後を切り開く役を務めるのが、彼に憧れて脚本家となり『ライドカメンズ』の実質的な屋台骨として活動している内藤祐介氏になるのか、はたまた別の作家になるのかにも注目しつつ、個人的には、一人の人間の作家性という単純化された枠組みが作品を語る指標としての絶対的な位置からは外れ、より複雑で自由な未来が創発されることに期待したい。

 

 

 

 

 

※1 宇宙船 vol.155 p.43

※2 同時に、比喩的な意味で過度に美化されたアイドル像との葛藤にも見える

※3 第4話の脚本は高橋悠也ではないが、彼がメインライターを務めた作品である以上は『ゼロワン』『ライドカメンズ』についても同様に、大きな齟齬が発生しない範囲で彼の作家性を逆算するための参考として使うこととする。

※4 仮面ライダーゼロワン 超全集 p.146

※5 『ID』Blu-ray 特典映像

※6 語ろう!クウガアギト龍騎 p.217

※7 ユリイカ2012年9月臨時増刊号 総特集=平成仮面ライダー p.13

※8 これは『クウガ』にも同様のことが言えるかもしれない。