やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

ポケットモンスター(2019) 第3話「フシギソウってフシギだね?」 感想

開始早々、バリヤードがパントマイムのエア掃除機で本当に掛け布団を吸い込んだことに驚き、でもエスパータイプだからできんこともないかなどと納得したのも束の間、今度はエアバナナを食べ始めてもう一度びっくり。
調べてみたところ、見る側が本当にあると信じると、それは本物になるらしい。ご飯もらえてないのかと心配になったけど、それで腹が満たせるなら食費かからなくていいね。
「パントマイムなのに本当にあるように見える!」とは思わなかったけど、一瞬違和感を感じなくてスルーしそうにはなった。というかサトシ達が普通にスルーしてるからさ。

 

一緒に住んでたらそのうち見慣れてくるんだろうけど、前回サトシがバタフリーに新鮮味(?)を感じていたことに感心したのよね。バタフリーもそんなに珍しい訳じゃないし見慣れてておかしくないと思うんだけど、パッと見は同じなように見えても、人間と同じく一匹一匹個性があって、新しい発見をしようと思えば何かしら見つかるはずなんだよな。勝手によく見る前から同じだと思い込んでるだけで。
今の土地には合計で10年ちょっとくらい住んでるけど、意識して散歩してみると、意外と知らないことが多いと気付く。「この細道の向こうにあんな家があったのか」とか、「ここ駐車場だったのか」とか、未だに新しい発見をする余地がある。
世界は情報で溢れていて、作品に対してもなんでもそうだけど、"退屈"を感じるのは見る側の問題なんだなと最近常々思う。前回みたいに、他の人はわざわざ取り立てないような、ただサトシが寝坊するだけのシーンを見て、僕は2500字ものことを考えて書けた訳だし。
外界から入ってきた情報を意識して処理するために必要な"受容体"とでも言うべきものは、その人の心の豊かさと深くリンクしている。
何見ても感想を書けるほど豊かな知識と知恵を身に着けられたら、毎日が楽しいだろうなぁ。

 

 

今回からスマホロトムが登場。
ロトム好きなんだよねぇ。ポワルンとかもそうだけど、フォルムチェンジっていうシステムそのものが好き。仮面ライダーみたいな変身ものとか、変形する玩具とかが好きなのとも重なってくると思うんだけど、どうやら僕は多面性に魅力を感じるタチらしい。
フォルムチェンジが公開された当時の情報源は主だって、図書館で読めた小学館の雑誌『小学◯年生』シリーズかなんかだったと思うんだけど、ゲームをプレイしないなりにライブ感を伴ってワクワクしてた記憶がある。それまで「そういうもの」だと受け入れていたところから変わって、初めて"新しいポケモン"という認識を持って接したのが第四世代……ゴンベとか、マネネとかウソハチとかなので、いちいち新鮮で楽しかった。
……新鮮? 幼ければ幼いほどより新鮮なはずなのに変だな。ちょうど「見るものすべてが新鮮だから"新鮮"だと意識しない時期」から「新鮮に感じないものが増えてきて"新鮮"を意識する時期」への過渡期だったんだろうか。
っていうか言ってて気付いたけど、新世代への入り口,緩衝材として、既存ポケモンの進化前や進化後が用意されてるのか。
特にピチューのような進化前は「その存在がなければ既存のポケモン(ピカチュウ)はいない」というロジックを組むことで「こんなのポケモンじゃない」と言いたくなる気持ちを封じ込める効果が高そう。
逆に第5,6世代に感じてた異質さはそれがないことだったのかもしれない。

 

ポケモン、特にゲームをやっていて感じることとして、「本当に未知な状況下での冒険」というのがないことに違和感を覚えることがあるのよね。
メタ的に言えば制作者がいるんだから当然ではあるんだけど、"図鑑埋め"という言葉が如実に示すように、僕らが旅するのは常に「既に誰かが体系立てて整理した世界」なんだよね。
博士の図鑑づくりを手伝うという体裁をとってることが多かったと思うんだけど、一度捕まえただけで詳細な解説が出てきてしまうのは、それはそれで魅力ではあるんだけど、その魅力というのは"冒険"が持つそれとは相性が悪い。
他人の図鑑をなぞることはできても、自分で図鑑を書くことはできない。
特に伝説みたいなレアポケモンですらその範疇にあるのはちょっと萎えるところがあるよね。まぁ、よく考えたら"伝説"のポケモンなんだから知名度やエピソード自体はあっておかしくないんだけども。

 

この違和感に対する回答は色々ある。
例えば、作中の図鑑を特別視せずあくまで博士たちの勝手な私見,偏見に過ぎないとした上で、それにとらわれない全く自由な図鑑を自分でつくることは別に不可能ではない、とすること。ゲンガーの正体はピクシーだとかガラガラのお母さんがガルーラだとか、そういう都市伝説も自分がそう"信じる"なら事実として図鑑に起こすことができる。
例えば、博士たちの認識も尊重すべきものと認めた上で、主人公はそれの反証がないという確認、あるいは反証があるのなら発見して図鑑にフィードバックする役割を負っているのだとすること。ポケモンGOでは時々「こんなに大きな/小さな◯◯(ポケモン名)は見たことない」みたいなことを言われることがあって、僕はこのセリフで"図鑑づくりに協力してる実感"というものをポケモンにおいて初めて感じた。ついさっきまで、GOの図鑑の体重や高さの欄には、自分が発見した範囲に限ったデータが表示されてるもんだと何故か勘違いしていた程に。
また、アニメはゲームと違ってつくりながら少しずつ公開されていくものなので、当初の予定と変わることもあるだろうし、そのぶん新しい発見もしやすい。ゴウのスマホロトムの声なんかも、新鮮で面白いよね。
あとはまぁ、パッチールの存在を示すだけでもある程度の効果はあるだろう。
最初に挙げた「自分だけの図鑑」というのは、そこまで極端なものではないが、「思い出」というかたちで誰もがつくっているものだしね。ポケモン研究者の掌の上にないものの筆頭は、やはり僕らが付けるニックネームだろう。
恒例にしていきたいニックネーム紹介も、このアニポケ感想自体も、実はそういう意図の元で書いている。
このブログは"僕の世界"図鑑なのよね。

 

 


やっと作中での本題であるフシギソウ大量発生についての話に辿り着いた。いつも通りのことながら寄り道しすぎな。
うちの近くにも「野良ネコに餌を与えないでください」っていう看板がある。まぁあれは「増え過ぎてフンが迷惑だから」だそうだけれども。
フンもそうだけど死体もそうだよね。
このまえ轢かれたネコの死体を見かけてさ。女子高生2人がいて気まずかったので一旦家に帰ってゴミ袋をとってきたら、路上にいたのが道端に移動されてた。
ネットで調べたところ、世間的には死体を見かけた場合は役所の衛生課に連絡することが推奨されているらしい。そうすると回収しに来てくれるそうな。
接触るのは嫌だからってわざわざ持ってきた袋を使う必要もなくなったので、普通に電話だけして帰ったんだけどね。あの女子高生達が直に移動させたんだろうか。確かにまた轢かれそうで可哀想ではあったけども。
ハトの死体は僕は特に連絡しなかったけど、行きに見かけて帰りにはもうなくなってたし、結構速やかに処理されてるみたいね。
僕もそうだったように、「道端に死体が落ちている」ことが多くの人にとって結構な異常事態だから、すぐさま連絡が行くんだろうな。

「今日もあちらこちらで命は消える はずなのにどこを歩けど落ちてなどいないなぁ 綺麗好きにもほどがあるよホントさ なんて素晴らしい世界だってなんでなんだか」

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今回もうひとつ特筆したい点は、「なりきり」。
ミミクリとも言って、ミミッキュの由来でもある。仮面ライダーだとカブトで「アンチミミック弾」ってのが出てきてたね。
以前「変身ベルトは特殊なおもちゃ」という記事も書いた。
YouTuberであるヒカキンさんがちょうどこの間"成功論"と称して、まぁざっくり言うと「トップの真似をしろ」という話をしていたのよね。僕は正直「それさえしてれば成功する」とまでは全く思わないんだけれど、参考にする分には有益なことではあると思う。

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仮面ライダージオウ』の玩具は種類毎に一通り集めたんだけど、何故かって言うとヒカキンさんが言ってたのと同じで「彼らが普段使っているもの(感じている感覚)を共有することで、彼らについてより深く理解するため」。
人間はそんなに単純じゃないので、同じものを使っていたからと言って突然同じ思想になったりなんてことはしないけれど、仮面ライダーは基本毎回1度は変身するし、となると何十回何百回と触ることになる。演者さんは更に何テイクも多く扱っているだろう。それだけ多くの時間触れていれば、極端ではなくとも影響がない方がきっと稀だろう。
例えば、ブーバ/キキ効果(ブーバとキキという音では、ブーバの方が丸みを帯びた、キキの方が角ばったイメージを抱きやすい)みたいな感じで、丸っこいものを多く触っている人は、ひょっとするとカクカクしたものを多く触っている人よりも、まるい性格になりやすいかもしれない。そんな気、しない?
もうちょっとだけ分かりやすい例を上げると、素読に期待される効果と似たようなものなんじゃないかな。意味の理解はさておいて、とりあえず同じ音を発してみる。御経を読むのとか、「南無阿弥陀仏(なんまいだー)」って唱えるだけで救われるみたいな大乗仏教的な思想も多分そう。
じゃあなりきり玩具で遊ぶことから具体的に得たものを挙げろと言われたら閉口してしまうんだけれど、無意識レベルでは僕もしっかりと影響を受けて、相手を理解するための地盤みたいなものが比較的形成されていると思う。
それこそ前半に話した"心の豊かさ"にも繋がってくる。そういった経験が幾重にも積み重なり折り重なって、僕らの心はできている。

 

自然と人間の関わり方やロケット団についてはこれからまたたくさん語れる機会があるだろうから、その時でいいかな。

 

 

僕のポケット

『ちょうはつ』
ラルトス-キルリア-サーナイト
『まがお』
ニャスパー

単純に、パッと見で「髪長いな」「真顔だな」と思ったので。
弟には「そんなの名前じゃない。酷い、かわいそう」とか言われたんだけれど、付けた僕はそれなりに愛着を持ってるんだよね。確かにポケモン世界であることを踏まえると技名の"挑発"と誤認してしまうことには後から気付いたけど。
キラキラネームを糾弾される側ってこういう気持ちなのかな、などと。
そりゃ本人に「嫌だ」って言われたらちょっと考えるけど、言っちゃえばゲームな訳だからその心配もない。姓名判断師もどんな名前付けようが「いい名前だ」と言ってくれるし(その後すぐ変えるけど)。
言うて種族名も「クサイハナ」とか散々なのおるしな。
でも、くさいことが悪いこととはひとことも言ってないよね。そう思うのは聞く側。この『ちょうはつ』も『まがお』も、僕はそこがチャーミングな特徴だと思ったから名前にしただけで悪意はないし、クサイハナもひょっとするとそうなのかもしれない。……それはないか?

 

第1話「ピカチュウ誕生!」 感想

第2話「サトシとゴウ、ルギアでゴー!」 感想

第3話「フシギソウってフシギだね?」 感想

ポケットモンスター(2019) 第2話「サトシとゴウ、ルギアでゴー!」 感想

朝起きるのって難しいですよね。
サトシは前回に続いて3回目の寝坊をした訳だけれど、僕も朝にはかなり弱い。
そもそもの話、入眠も覚醒も意識的なものじゃなくて、無意識の領分じゃない。朝の起床に限らず、僕の無意識は非常に頼りない。
ぼんやりした頭で「起きようかな、もう少し寝ようかな」なんて風に思考できればまだマシな方だけれど、そんなことを考える余地なく「起きてみたら時間を過ぎていた」というケースについては、もはや自分の力でどうこうできる問題ではないと思うんだよな。
忘れ物なんかも同じで、別に僕だって忘れたくて忘れてる訳じゃないし、できることなら覚えていたいけれど、気が付くと忘れている。自分の「覚えていよう」という意思と結果が連動しない。
間抜けすぎてもはや笑い話にもならないんだけど、中学時代、絶対に忘れ物をしないようにと前日から何度も何度もチェックをして、当日の朝にも最終チェックとしてカバンの中のものを一度全部出して確認した後、全部出しっぱなしにして登校したことがあるくらい、忘れ物が多い人間だった。

 

例えば最近だと毎日薬を飲んでいるんだけれど、飲む時間にアラームをかけておいても、何かに夢中になっているとアラームに気付かないか、無意識にアラームを止めてしまう。アラームを時間差でいくつもかけることで、そのうちのどれかが意識にあがってきたとしても、まず薬を出して、水を用意し、飲むまでの間に、他の何かに気を取られてしまってそのまま……ということもままある。僕の持ってる発達障害というのは、主たる診断的には一応ASD(自閉スペクトラム/アスペルガー症候群)というコミュニケーションに関するものなんだけれど、いわゆるADHD(注意欠陥・多動性障害)的な症状も併せてあるのよね。
僕の記憶の中で一番古いそういう感覚は、おねしょについてのことかなぁ。あれも夜中に都合よく目が覚めてくれればいいけど、それって自分の意識で選択できることじゃない。体が勝手に学習してくれるまでの間、親から恥ずかしいだの洗濯が大変だのと文句を言われ続けることに耐えなければいけない。
無意識も確かに僕を構成する要素のひとつではあるんだけれど、意識としての"僕"には当然含まれていないので、「しっかり起きなさい」「忘れ物をするな」などと叱責されても、自分の落ち度というものが見当たらないし具体的に何か策を講じることもできない(できることはすべてやってても忘れるときは忘れる)ので、自分事として捉えられないんだよな。
吃音症と言って言葉を発せなくなる障害も持ってたので、小さい頃からそういう「自分が自分の思い通りにならない感覚」がずっと積み重なっている。

 

ゼロワンの感想でした話とも少し繋がる。
赤ちゃんは、泣けばご飯を持ってきたりオムツを変えたりしてくれる親を自分の一部,手足だと思い込む(錯覚)。でも成長していくと思い通りにならないこと……例えば抱っこを求めても「自分の足で歩きなさい」と言われるなどの体験が増えていき、親と自分は違う人間なのだと気付き始める(脱錯覚)。

(参考:仮面ライダーゼロワン 第9話「ソノ生命、預かります」 感想)
この話になぞらえるなら、僕は自分のことも他人であるかのように捉えてきたことになる。
まぁこれに近い感覚というのは、誰の中にも少しはあるのではなかろうか。同時に両立しない願望を抱いて葛藤したことや、過去の自分の言動に対して「どうしてあんなことをしてしまったのか分からない」と後悔したことくらいあるだろう。

 

Individual(個人)とはin-dividual、"これ以上分けられない"という意味を持つ。inは単語の頭に付いて否定の意味を持たせる接頭辞と呼ばれるもので、分かりやすい例だと他にin-finity(終わらない→無限)などが挙げられる。
これに対して、"一貫していてそれ以上分けられない個人"など幻想であるとする立場、分人主義(Dividualism)というものがある。
ふつう個人主義といえば全体主義と対置されるものだが、この分人主義から見れば個人主義も一種の全体主義だと解釈されることとなる。
個人の損得を犠牲にして集団の利益を追求するのが全体主義であるのと同じように、我々はおおむね"全体としての自分"の利益のために一部の自分の意見を犠牲にしている。

例えば何かを食べたい気持ちと、健康や美容のためにやめておきたい気持ち。
例えば何かが欲しい気持ちと、買ってしまったらお金が足りなくなるからやめておこうという気持ち。盗むのは申し訳ないのでやめておこうという気持ち。
(対価を払わずに)目の前のものを手にしたいという欲求に至っては、ある程度成熟した人であれば超自我によって強く抑圧され、もはや意識されることは滅多にないだろう。
まぁ、いくら意見がたくさんあったところで、体がひとつしかないことは変わらないので、結局は取捨選択と言う名の犠牲をなくすことはなかなかできないんだけどね。
だから分人主義というのは現実的には、主に選挙などの場において、自分の持つ1票を対立する候補者や政策に対し何%かずつに分けて投票することができるようにする、などのかたちになるだろうとは思う。詳しくは鈴木健さんの『なめらかな社会とその敵』を参照。

 

対象を"ひとまとまりの集団"として捉えることにはリスクが伴う。十把一絡げに「男は云々」と言うと、「ノットオールメン」という批判が飛んでくる。
それと同じく、僕もこうして喋っていることが僕の全てではない。
種々ある壁の中で皮膚だけを特別視する理由というのは、実はないのではないだろうか。
"生き物"の中にも様々なものがいるし、"人間"の中にも色々いる。"男"の中にも犯罪に手を染める人と染めない人がいるし、"個人"の中にも犯罪になりうることをしたい気持ちとしたくない気持ちがあり得る。
一見同じに見えても、よくよく見てみるとまるいやつやほそいやつなど違いがあるもの。だとしたら無理に区切る必要は果たしてあるのだろうか。

(参考:トランス女性(MTF)は女風呂に入れる?/性別とは一体何か)

(参考:"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として)


たかがサトシが寝坊しただけのシーンについてこんなに長く語ることになるとは思わなんだ。内容自体は、ポケモンについて話すとなればいずれ触れることになるだろうとは思っていたけども。
作品を見て「何も言うことが浮かばない」のって、それだけ自分が空っぽでつまらない人間なんだってことなんだよな。

寝坊するシーン見たくらいで突然こんな長々と自分語り始めるのもそれはそれで変だけれど、少なくとも読書感想文みたいなものが求めてるのはこういう自分語りなので、「こんな個人的なエピソード誰得だよ」とか思わずになんでも書いてみるべし。

(参考:ブログで感想を書きたい方へ)

 


突然現れたルギアに対していきなりバトルを、しかも大人数で仕掛けたことについて、いわゆる「動物虐待」的な色が強く見えて自分の中でモヤっとしたので、少し考えてみた。
前提として、草むらを歩いていると襲われるというのがポケモンの世界の常識だ。どれだったか忘れたが、「最初のポケモンをもらってバトルできるようになるまでは、危険だから草むらに入っちゃいけない」というような描写があったはず。手持ちが全滅した場合はどうするんだという疑問はあるものの、そういうことになっている。
つまり、ポケモン側は昔っから人間に突然襲いかかってきたんだよな。

それだけなら「だから襲いかかっていい」という話にはならないけど、ポケモンは多くの場合において擬人的に表現されていて、人と同じく喜んだり悲しんだり、怒ったり泣いたりするし、それなりに知性も備えているように見える。
ならば、人が草むらを避けて歩くように、ポケモンにも人の生活圏を避けるという選択肢があってもおかしくないのではないか。
特に今回のルギアのような伝説ポケモンに関しては、これまでも顕著に知能の高さが強調されてきた。その後サトシとゴウを乗せて飛び回ったことと合わせて考えると、トレーナー達が変わったポケモンに胸をときめかせているのと同じく、ルギアの方も好奇心から人間とじゃれあいに来ていたように見えた。
そういう地盤の上でなら、納得できるかな。

(参考:「ポケモンは動物虐待では?」という指摘に思うこと - ジゴワットレポート)

 

 

僕のポケット

『コロル』
フラべべ-フラエッテ

コロボックルの語感と、colorの読み替えから。かわいい感じがあるので、フラージェスにしてしまうとちょっとしっくりこないかもしれない。幸いレベル進化ではなく石が必要なので、どうするかはゆっくり考える予定。
コロボックルといえば『ハチミツとクローバー』だなぁ。元々僕は西尾維新が好きで、『本題』での羽海野チカさんとの対談を読んで「この人の作品絶対面白いな」と惚れ込んだのが出会い。『3月のライオン』と一緒にまとめ買いして、思った通り見事にハマった。
割と"空気系"な側面が強くて、キャラクターたちのかけあいをずっと見ていたくなるタイプの作品。
またその後双方ともに作品内で「明らかにあの対談の影響だよなぁ」と感じる展開があるのも密かな面白ポイント。現実世界でいわゆる"伏線"を見つけたような体験ができる。

 

 

第1話「ピカチュウ誕生!」 感想

第2話「サトシとゴウ、ルギアでゴー!」 感想

第3話「フシギソウってフシギだね?」 感想

仮面ライダーゼロワン 第13話「ワタシの仕事は社長秘書」 感想

キャラクター

 飛電或人
・「俺みたいなダメなやつ」
そういえば或人は、"ゼロワンとして戦う覚悟"は決めたけど、"飛電の社長になる覚悟"については微妙なとこなんだよな。実際に社長として会社の利益を第一に考えるなら、不利益のある情報は隠した方がいいし、9話でも再起動しない方が「ヒューマギアが暴走した」という実例を増やさずに済んだ。5話で漫画家にヒューマギアを送らなかったのも、太い客を失うという意味で会社にとってはマイナス。
イズも言っていた通り、或人は会社に損害を与える言動はたくさんしてると言えばしてる。社長としては失格かもしれない。
でも今ここで挙げたいくつかの例については、会社に得があるかどうか以前に、もっと広い視点でより良いと思われる方を選んでるよね。
ヒューマギアが暴走してるのは事実なんだから、客にはきちんとそれを踏まえた上で「自分だけは大丈夫」と思って使い続けるのか、はたまた使用をやめるのかを判断する権利があるし、自分のゼロワンとしての努力で助かるかもしれない命があるからそれに賭けること、ヒューマギアが普及することで人類全体が怠慢になることへの危惧。
……結局は良いか悪いかの判断の話になってくるので、実際に或人の行動が適切だった(良い)かどうかというのは、受け手側の価値観に委ねるしかないんだけれど、少なくとも「会社の利益を優先して世間に迷惑をかける」のと比べたら、きっと多くの人が"良い"と感じるものであるように思う。例えば僕のバイト先では、会社の利益のために(?)ちょっと床に落ちたくらいの商品はささっと洗って詰めるようなことが見られた。
どちらも回り回って会社の評判が落ちるかもしれないという点では"目先の"利益と注釈すべきかもしれないけど。
もちろん会社というのは人の集まりなので、社長が世間の為とは言え"自己犠牲"のノリで会社に損害を与えてしまうと、社員という他人にも迷惑がかかってしまう……という問題はある。最終回の剣崎に対して僕が「お前はそれでハッピーエンドのつもりかもしれないけど残される人達が可哀想だろ。秘密にする必要性が分からないし、きちんと話して納得してもらってからで良かったんじゃないのか」って思ってしまうのと似ている。
でもまぁこの辺は難しいとこだよな。剣崎で言うところの仲間や友達と違って、会社というのは社長(ただし是之助)ありきのものではあるし、だとするならばその社長の理念(是之助は或人に託した)は会社という領域においては何を置いても優先されるべきものにも思える。
「ここはそういう目的の集まりなので従ってください。嫌ならあなたがここから立ち去ってください」という話。"病院ではお静かに"というのも、極論そういうこと。病院内で静かにして欲しいのは一体誰で、静かにする当事者はその目的を共有してくれるのかどうか。
場を弁えるならば、或人が気に食わない社員は飛電を辞めるか、或人を直接説得するしかない。
或人は社長としては駄目なやつかもしれないけど、人として悪いやつであるとまでは、今の僕は思っていない。
・もう少し踏み込んで共感の得られなそうな話をすると、そもそも個人とか会社とか病院とか、そういった"壁"……鈴木健さんの表現を借りるならば細胞膜の"膜"というものは、人の認知が生み出している仮想的なものに過ぎない。というのが持論ではあるんだけどね。
いくら「"会社"の成員は社長の理念に従わなければならない」「社長は会社の利益のために尽くさなければならない」「"病院"の中では静かにしなければならない」という規律をつくって定義づけ、「会社→社長の理念に反さない」「社長→会社に損害をもたらさない」「病院→静か」と物事を一面的にしようとしても、本質的には意味を為さない。

(参考:"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として)
「或人は隠し事をしない」というのも同様で、「隠し事をしたくない」と思いながら同時に「何かを隠したい」と思うこと、また滅亡迅雷との共闘は拒みながらドライに唯阿(ZAIA)と組むことは、不思議なことながら人間の脳にはできてしまう。これを読んでいるあなたも一度くらいは、意識していなかった自分の矛盾点を他人に指摘された経験があることだろう。後から解釈を加えて辻褄合わせをすることはできるが、どうやら人の無意識は(意識が感じる)矛盾を問題にしていないということは、認めたくないだけで実は明白なのではないだろうか。
世の多くの視聴者がそうであるように、僕も「悪人でも命は大切だと言っていたはずなのに、11話で永夢が黎斗を"殺している"」という点について、何度も見返すまでは全く気が付いていなかったし、当然矛盾しているとも感じていなかった。「あれは正当防衛だ」などという弁解の入る余地がない純粋な"受け入れ"。それこそが無意識の持つ曖昧さである。
「本編と映画はパラレルなのか地続きなのか」問題も同様で、そもそも多くの人(オタクではない人、または子供など)は、そのような理屈を必要とせずに曖昧なまま"そういうもの"として受け入れている。
疑問視している人たちにしたって、本編だってエピソードやカット毎にパラレルかもしれないという可能性についてはまるで意識していないことが多い。設定や登場人物の言動が矛盾して見えるのなら、それは「パラレルだから」で説明がつくかもしれない。『ディケイド』はこの態度を体現する存在で、因果関係という繋がりを破壊し全てを並列化する。そうすれば矛盾など起こり得ないという意味で、完璧な"説明"と言える。その説明は意味(物語)を持たないが。
対して『ジオウ』は全く逆のアプローチ、曖昧さを真正面から受け止め矛盾も許容するようなイメージ。
……話を戻すけれど、個人とか会社なんてものはあくまで我々の目に映るインターフェイスに過ぎない。
"わたし"という心の壁は実態を持たないので、"わたしたち"という概念が成立し得る。「性暴力は加害者と同じ男性が自分事として解決すべき問題であり、我々女性は他人事である」なんて意見がほんの少しでも正しげに見えてしまうことがそれを顕著に物語っている。なぜ「同じ人間として」捉えることはしなくてもよいのかをきちんと説明している人は見たことがない。
或人が社員たちを"わたし"の中に含めて自己犠牲的な行為をすることも、逆に会社という繋がりを断ち切り或人の行動と社員が被る損を無関係とすることも、結局は捉えようひとつなんだよな。或人個人の言動を飛電社全体に逆流させることが正しいわけじゃない。
・「不破……さん」
何気に人のこと名前で呼ばないんだよな、或人。エイムズとか滅亡迅雷とか、所属で呼んでることが多い。やっと一人の人間として不破を意識したんだろうか。
・"ゼロワンとしてマギアを倒すこと"に限って言えば、彼の功績を否定する人はなかなかいないんじゃないだろうか。社長としてどうかはともかく、マギア掃除屋としてはほぼ失敗なしと言ってもよかろう。
その経験が糧となって今回のパワーアップに繋がるというのは、僕としては割とアリだった。ただの七光で終わるんじゃなく、これまでの努力という意味での"過去"が力をくれるというのは、ちゃんと因果応報してる。
・でもって今回、ゼロワンとして戦って満身創痍ながらも文句1つ言わず社長としての業務をこなそうとする姿が描かれていて、そっちの面でもきちんと好印象を受けた。前回がつまらんかったから不安だったけど、いいんじゃないの。

 

 ワズ・ナゾートク
・彼が死んでお涙頂戴というよりは、単に「イズが死ななくて良かったね」と強調する話に見えた。僕がワズ嫌いだからだろうか。別にイズも大して好きじゃないけど、ワズよりゃ愛着あるなって思わされた。

 

 警察
・そもそもは「暗殺ちゃんと同型のヒューマギアを飛電がつくった証拠がないので、暗殺ちゃんが自らの意思で犯行に及んだとしてもその責任(過失か、ともすると飛電社が故意に襲わせたのでは、という嫌疑)を追求できない」というところから今回の探偵編は始まっていて、それでいくと前回暗殺ちゃんは盗まれた上に改造された機体であることが発覚しているので、つまり既にほぼ解決してるんだよな。
今回は窃盗団がまだ証言をしていなかったので別の証拠としてドードーゼツメライズキーが必要だった、と見るべきか。まぁそのままでも「疑わしきは罰せず」なので、実害はイメージダウンくらいしかないんだけど。
……流石にヒューマギアを盗まれたことに対して「ちゃんと管理しておかなかった飛電が悪い」とか言い出す奴はいないよな? 改造にしたって、バカみたいに普及してるiPhoneですら脱獄なんて言葉が普通に飛び交ってるんだぞ。こじ開けて爆弾仕込むことだってきっと簡単よ。危険だから使わないほうがいいと思うなぁ。
・正直どうでもいいんだけど、警察から逃げることの何がそんなに悪いのか僕にはイマイチピンとこないんだよな。悪いことしてるかどうかが問題なのであって、してないなら別にいいんじゃね。更に怪しまれたって、潔白の事実は変わらないんだからさ。僕が警察の仕組みについて、特に捜査の任意と強制の差に詳しくないというのもあろうけど、警察というものにあまり特別な権威を感じていないというのがあると思う。
つーか照井もこの間のVシネで全く同じことしてたろ。
強いて言うなら警察の捜査を不必要に撹乱することは社会に対する損害かもしれないけど、そもそも見当違いに疑ってる警察が無能なんであって、ことの証明責任は(世間のイメージ的にどうかはともかく法的には)警察にあって飛電にはないはず。

 

設定

・バックアップができなければコピーもできないってのは分からんでもないが、"摘出"なることができてしまうなら結局セキュリティとしての意味はないのでは。ワズも活動停止してたはずだから、戦闘データはどこかしらと同期して手に入れたはず。
そもそも飛電がセキュリティのためにバックアップとれなくしたんだろうから、それを解除すればいいだけだろとも思うんだけれどさ。
「自分ですら破れない(ただし破れる)セキュリティ」って、もうすごいんだかすごくないんだかよく分からん。
ファルコンキーが要らなかったのは「要らなかったんだね」としか言えないけど。

 

 

なんと次回は仮面ライダー雷なるキャラクターが出るらしい。思うところがあるが今回は字数がちょうどいいので、このネタは次回へ持ち越し。

 

前話

仮面ライダーゼロワン 第12話「アノ名探偵がやってきた」 感想

次話

仮面ライダーゼロワン 第14話「オレたち宇宙飛行士ブラザーズ!」 感想

ポケットモンスター(2019) 第1話「ピカチュウ誕生!」 感想

今回からアニメ『ポケットモンスター(2019)』の感想を書いていけたらいいなと思ってます。ゼロワンと同時進行するのは難しいかもしれないけど、まぁできる範囲で。

 

僕はそんなにポケモンにどっぷり浸かってきた方ではなくて、というのもゲーム機を買ってもらったことがなかなかないので、友達の家に遊びに行ってもみんなが通信対戦とかしてるのを見てることが多かった。
アニメはまだそれなりに馴染みがあって、一般的な「小さい頃に見てた」くらいの距離感。AGあたりから見てた記憶はあるんだけど、一番印象に残ってるのはDPがやってたか少し前かくらいの時期に学童保育……学童クラブとか児童クラブとか呼ばれるところにあった、ミュウツーの逆襲のDVDかな。
そんなに豊富な種類があったわけじゃないので、暇になると自然とそこにあった作品、例えば『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人(ずっと四人だと思ってた)』とか『爆転シュートベイブレード』のサイバーブレーダー編とかと一緒に繰り返し繰り返し見ていた。
1話にも出てきたミュウだけど、子供心には彼女(に見えたのでこう呼ぶ)は戦いを好まない"いいもん"に見えてたのに、ある程度物心ついてから見たところ全然そんなことはなくて、むしろ「本物が偽物に負けるわけねーじゃん」と煽り散らかして話ややこしくしてたと気付いてびっくりしたなぁ……。
あの映画で扱われてる「コピーへの嫌悪感」って、そもそもポケモンは種族間での見た目同じで性差すら少ないし、どころかコピーポケモンはむしろ外見的には差別化されてて食い合わせが悪くないか? って思ってた時期もあったんだけど、今思い返すとコピーであるかどうかはあんまり関係なくて、「自己嫌悪感」を投影できる相手ならなんでもよかったんだろうなと。


あんまり映画の話するといつかそれ単体で記事書こうと思ったときにネタなくなるのでこの辺でやめとこう。
今回はほとんどがピチュー視点で、ゴウはともかくサトシはほとんど空気だった。でもタイトルはあくまでポケットモンスターなので、ポケモンが主役なのは納得がいく。同時上映の短編映画っぽくもあって、懐かしさも感じさせる。
確かピチューって本来マサラタウンにはいないんだよね。後から発見されたんだもんね。だから一人ぼっちだったのか。
あの辺のピチューはすぐ進化しちゃうのか、それともピカチュウとして生まれてくるのか?

ガルーラとガラルが似てるのはたぶん偶然だろうけど、ガラル地方に行くことはないのかな。剣盾は今のところプレイする予定がないので、アニメで見たかったんだけどな、新ポケモンとか。一応ヒバニーとワンパチは既に出ることがわかってるけど。
っていうか、ガルーラの子供は別ポケモン扱いじゃなくて単に"ガルーラの子供"なのね。「こどものすがた」みたいな扱いでもないし。でも「ルーラ」って呼んでるように聞こえた。
……あーそうか、ピチューが拾われるポケモンって何でもいい気がしてたけど、"ポケット"だからガルーラが選ばれたのか。
ポケットとは、主に自分の"所有物"を入れておく袋。そこに入っている"モンスター"。身近さと縁遠さを兼ね備えた、矛盾をはらむ存在なんだな。ポケモンというのは。
ガルーラは、僕から見ると別個体に見えるだけで、タマタマみたいな"いち個体"なのかもしれない。タマタマがいち個体というのがしっくりこない人もいそうだけど、僕はなんか納得してる。

一応前作のアニメSMもたまに見てて、キテルグマロケット団を手元に置きたがってたのもなんとなくは知ってるんだけど、あれって人間とポケモンの関係が逆転してると考えたら面白いな。キテルグマロケット団をゲットしてブリーディングしている……不思議な感覚だ。

 

ゴウが「はやく10歳になりたい」と言っていたけれど、僕はあんまりその方向の気持ちを抱いたことがないんだよな。お酒を飲みたいと思ったこともないし、タバコを吸いたいと思ったこともない。だからはやく大人になりたいと思ったこともない。
いつまでも学校での楽しい毎日が続けばいいと、ずっと思ってきた。今はむしろ、体だけ大人になり過ぎてしまったことに残念さを覚えている。
ポケモンは「やりたいのにできないこと」だったけど、子供だからできなくて大人になればできる、という風には捉えていなかったし、できないならできないで別にいいとも思ってた。
最近常々思うことだけど、僕は自分の中から湧き出る欲求というものが少し希薄な気がする。
ゴウの「ミュウを捕まえたい」、サトシの「ポケモンマスターになりたい」みたいな、"どうしても譲れない願い"というのがなかなか思い付かない。諦めがいいというかさ。
平成ライダーを見て感想書くのも、やってて楽しいけどできなくなったらできなくなったでやってけると思うし。
他の人は何かあるんだろうか。

 

今回のクライマックスであるピカチュウへの進化。
ポケモンは人の言葉を喋らないので、『仮面ライダークウガ』のグロンギと同じく何言ってるかも何考えてるかも本当は分からないんだけど、なんとなく分かった気になってしまうのは、投影だろうか。
知ってる人は知ってると思うけど、このブログを書いている僕は、まぁ簡単に言えばニートなんだよね。この間少し短期バイトをしたけど、基本的には親に生活費を払ってもらってる。自分の分の食事の用意や掃除洗濯なんかは自分でやってるけど(というよりは親にやらせてはいないだけだけど)、もう20歳で同い年の人も働き始めてるし、親に迷惑をかけているような、「自分なんていない方がいいのでは」という感覚は皆無ではない。
というか実際に「もう養わなくてもいいんじゃないか」と言ったんだけれど、好きでやっているとのことなので、とりあえずはもらっておこうかなと思っている。
親に対してもそうだけど、職場でも同じことが言えて、発達障害だったりその二次障害だったり、或いは性格の問題だったりと原因は様々だが、色々な形で迷惑をかけてしまうことが多い。
障害についてはオープンにしてるので、一応向こう側も分かった上で雇ってるはずなんだけど、「思ってたより酷かった」と思われているんじゃないかとか、店長やチーフは知ってても普通の仕事仲間にまでは伝わってない(しかも彼らには店長と違って「障害者でもいい/障害者は嫌だ」と選択する権利はない)ことだとか、色々と考えてしまう。
「人手が足りないから助かってる」と言われても、「面と向かって迷惑だとは言いづらいよな」と感じてしまって信じられない。
障害者のための福祉施設(地域活動支援センター)に行ってもそうだ。向こうは暖かく迎え入れてくれるが、やはり自分がいなければスタッフさん達の気苦労が減ることには違いない。


ピチューは自己否定の気持ちをバネにして、強くなる道を選んだ。弱かったピチューはいなくなり、一人前かどうかはまだ分からないが、少なくともガルーラに頼る必要がない程度には強いピカチュウとなった。
僕はどうなるんだろうな。

 

 

僕のポケット

一応アニポケの感想だけど、せっかくなのでミニコーナーとして、僕の気に入ってるポケモンの紹介とそれにまつわる雑談をしようかなと思っている。
記念すべき1匹目は「しろまる」。
現在プレイ中(とは言いつつも数週間放置してるが)の『Y』で選んだ御三家である、ケロマツ-ゲコガシラ-ゲッコウガ
鼻の白いまるがチャーミングだったのと、忍者といえば「〜丸」なイメージなので。
僕にとっての忍者と言えば、まずはハリケンジャーに始まり、忍たま乱太郎ぜんまいざむらいの豆丸ときて、なん者ひなた丸シリーズだろうか。見習いの"なん者/さのび"、現役の"にん者/しのび"、引退の"ぬん者/すのび"という言葉遊びが秀逸で、とても好きだった記憶がある。
忍たま乱太郎は今でも時々見てるんだけど、面白いんだこれが。特撮を見る人なら知ってるかもしれないけど浦沢義雄さんという方が関わっていて、シュールというか不条理というか、そのなんとも言えないおかしさが魅力。1話10分とかそこらなのでぜひ気軽に見てみて欲しい。

 

第1話「ピカチュウ誕生!」 感想

第2話「サトシとゴウ、ルギアでゴー!」 感想

第3話「フシギソウってフシギだね?」 感想

第4話「行くぜガラル地方! ヒバニーとの出会い!!」 感想

仮面ライダーゼロワン 第12話「アノ名探偵がやってきた」 感想

キャラクター

 飛電或人
・「なんでそんなこと警察が知ってんだよ」
秘密はつくらない主義だったはずでは。そういえば8話でエイムズが入ってきた時も抵抗を示してたけど、ゼロワンの正体同様そもそも隠さなきゃいけない理由がよく分かんないんだよな。唯阿に対しては確かに技術を盗まれることが怖いかもしれないけど、警察は別にいいだろ。誤魔化し方もヘッタクソだしさ。普通に「強いヒューマギアに対抗する為のプログライズキーをつくってるので待ってくれ」でいいじゃん。これ以上暗殺ちゃんによる被害者が出ることは警察も避けたいだろうし、警察に彼を止めることはできないだろうし。既に被害者が出てる事件の詳細を明らかにすることと新たな被害者を出さないことなら、優先すべきは後者だと思うんだけどなぁ。
ゼロワンの正体を世間に隠してるなら(今度はそれがなんでかって話になるが)分かるけど、そういう訳でも全くないらしいし。
小説版クウガでは、「警察はクウガの戦闘を未確認生命体(害獣)同士の争いと見做して、法的に人間として取り扱わないという立場をとっていた」ことが明かされているのだけれど、ゼロワン世界の警察はいち会社の経営者が暴力をふるっていることに対してどういう認識なんだろね。普通に正当防衛とかが妥当なとこだろうか。
・社長室を壊さずに出現するバッタ。僕はぎりぎり「社長室はゼアと直接繋がってる(プログライズキー作成)から特殊」で納得できないことはないんだけれど、それが駄目なら周囲を破壊してた描写の方をOQで示された「誇張/脚色」と解釈する。例えば漫画回の或人に家を壊すほどの動機ってないと思うし、2話では飛電のビルもぶっ壊してたし。壊さないことができるならしたいはず……だろう。
・今回のパワーアップは予想してた通り「過去からのおくりもの」型で、なんのひねりも面白みもなかったな。
一番分かりやすいのは闘魂ブースト魂だと思うけど、他にもクウガの力(古代文明)とかWのメモリ(記憶,恐竜)なんかがこれに当てはまって、何故だか"過去"は、力に対する説得力を持っているらしい。ディケイドやジオウは言わずもがな。
"輝かしい過去"とか"過去の栄光"とか言われるやつね。果たしてシャイニングホッパーくんは七光を脱することはできるのか。おんぶに抱っこ……まで言うと流石に説明し過ぎて無粋?

 

 不破諫
・わざわざライダーバトルする必要あったかぁ? 確かに不破は私情を抑えて仕事をこなす描写(4話)もあったので命じられればゼロワンに襲いかかるかもしれないけど、全体の流れ(不破がヒューマギアや或人に協力的になり始める)をぶった切ってまでやるほど意味のあるシーンには見えなかった。

 

 滅亡迅雷
・暴走するマギアを相手に戦うシーンは目新しくて良かった。でも戦ってどうするつもりだったんだろうね。ゼツメライズキーにあるバックアップデータを一部消去して戻す……とか? でもラーニングが目的だったはずで、親を離れようとするのも「素晴らしい」ことじゃなかったのか。相手が自分となるとまた話が別ってことなのかね。でも暗殺ちゃんは放っとけば人を襲いそうな気がするのでそれでいいんじゃないか? 5号と接触したことから、暗殺ちゃんにはまた何か別の目的があるのか?
・僕『進撃の巨人』が結構好きで、仮面ライダーとも通ずるものがあると前から思ってて、先日ようやくコミックスを買って読んでるんだけども、腰のアレだけじゃなく全身のベルトも立体起動に必要なものなのね。部分的に見えてはいたけど意識したのは初めて。この間「鳥は不自由」という話をしたが、鳥のように飛び回る兵士たちもベルトでがんじがらめになってるんだな。フォースライダーに似てるよね。
・カラーリングはまんまエグゼイドとゲンムだけど、これもなんか意図があるんだろうか。
アンダースーツが黒系じゃないのってちょっと珍しくて、平成ライダー的にはクウガアギトときての龍騎が派手に見える(龍騎内でもナイトゾルダ以外は黒で目立つようになってる)のと同じで、なかなか目を引く。1号2号からのV3もそうね。
でも「平成ライダーが全員並ぶとエグゼイドに目が行く」ってのには同意できないんだよな。黒系が多いからか、僕には白いフォーゼが一番浮いて見える。
・ベルトのアクションとして右に動かすってのも珍しい気がする。パッと思い付くところだと、まずゲーマドライバー。あとはブレイバックルとカブトのキャストオフくらいだろうか。
対して左に向かって動かすのはファイズギア,カブトゼクター,電王ベルト,オースキャナー,フォーゼドライバー,戦極ドライバー,ゴーストドライバー,ゼロワンドライバーと、枚挙に暇がない。
いくつか「それ右か?」って思う人もいるかもしれないが僕はそう感じるんだ、ごめんな。だからなんだって部分についてはまだよく整理できてないけど、字数が足りんので無理やり足したぜ。そろそろネタのストックが尽きそうだ……。

 

 暗殺ちゃん
大和田伸也が死んでいないのは、意図的なものなのかね。「暗殺を極めた」というのがただの驕りではなく他人から見ても共感を得られるようなものだとしたら、まぁあれが果たして"暗"殺なのかという疑問はさておき、わざと急所を外したことになる。
でも滅亡迅雷への反抗的な態度を見る限り、「親だから殺したくない」と思ったようにもあまり見えない。
僕に思いつく可能性は4つ。
「滅亡迅雷よりも大和田伸也の方が親として好きだった」
「反抗の意思こそあるが本当に殺すほどではない」
「暗殺は極めたけどあれは(暗殺ちゃんの思う)暗殺じゃないので、勝手が違い失敗した」
「暗殺は極めたけど、それでも弘法筆の誤りということはある」
3つ目以外は僕はどれもそこそこの説得力を感じるかな。
・「そろそろ飽きた」
サンドバッグとして何度も出てきたドードーマギアに対して抱いていたこっちの気持ちを逆手に取ってこういう風に言わせるのは皮肉っぽくておしゃれ。今回の中で唯一面白かった部分。

 

 ワズ・ナゾートク
・「見ての通り」
ナメた発言だなぁ。新フォームを楽しみにしてたのに今回のメインはほぼほぼこいつだったという肩透かしもあってちょい嫌い気味なんだけど、ここも嫌味で腹立つ要素の1つ。
探偵かどうかと服装はぶっちゃけ関係ないだろ。探偵じゃなくても買えばあの服は着れる。仮にワズが本当に頭がいいキャラだとすると、その程度のことが分からないはずはないので、それを分かった上で「相手の知能を考えたらこのレベルの説明でいいや」と判断して言っていることになる。しかもこれはそのまま作者も同じことを思っている可能性がある。
まぁでも実際この発言が説得力を持ってしまうくらい適当に物事を捉えてる人が多いのは、僕が生きてきた20年を参考にすると事実ではあるんだけど。何より僕自身そういうとこがあるから図星で更に腹立つ。
これも"意味の逆流"の一例ではあって、「"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として」や前回の記事で言った役者のキャラへのフィードバックについては一応肯定的に語ったんだけれど、無自覚な場合は混乱を招くので厄介なものではあるのよね。リーゼントの例がそう。

「ワズ(作者)は人間の頭の特性をうまく利用してスムーズに話を進めている」と表現すれば肯定的になるんだけれど、結局馬鹿にされてることには違いないからな。「言っても無駄だろうな」と言う一方的な諦めの姿勢が気に食わない。僕もそういう風に思うことあるけど、それでも話し合うことを諦めるのってそれこそその人を全否定してるようなものだからね。僕に言わせれば、面と向かって否定するよりタチが悪い。
・ロボットに兄も妹もないだろって思ったけど、人間でも同じだよな。血が繋がってるからって例えば必ず仲がいいかと言えばそんなことはない。一緒に暮らしていたらある程度うまく付き合っていかないといけないという面はあるだろうが、それが全てじゃない。「兄弟だからどうこう」という思考が意味をなすのは、前回の「ヒューマギアだからアドリブがきかない」と同じようなものだ。
その意味では、「そう思ったほうがロマンチック」というのは的を射ている。実際に兄妹かどうか、兄妹は仲がいいのかどうかはさておき、そう思うことをきっかけに親近感が湧くなどして関係がなめらかになるなら利用すればいい。
ただ今回の場合はイズが嫌がってるので逆効果ですけどね。

 

設定

・「暗殺ちゃんは滅かZAIAがつくった。ヒューマギアはいくらでもつくりなおせる」ってことで十分に納得できてたからこれ以上の説明なんか求めてなかったのに、謎として上から"真実"を教えられて、率直に言えばすげぇ不愉快だった。
ゼロワンに対して僕はどちらかといえば"協力的"な態度で見るようにしてるんだけれど、それがこんなかたちで仇となるとは思ってもみなかった。
説明が足りてない余白部分を自分で納得のいくように埋めていけば「意味が分からない」という状態は少なくなるけど、それと引き換えに「お前の解釈違うから」と正面切って言われるかもしれないストレスに耐えなきゃいけないんだな。
まぁ今回イラついてんのは単純につまんなかったのが大きいんだけどさ。
・第一筋が通ってるようで通ってない。祭田ゼットが同じ顔で5体いたからって窃盗団がその5体だけを同じ顔に加工する理由はない(元の顔を活かしてるならともかく、改造過程を見るにそんなことは全くない)し、むしろ5体も同じ顔なら他の盗んだヒューマギアも同じ顔に加工している方が自然。祭田ゼットが5体いたことと暗殺ちゃん顔のヒューマギアが5体いることに因果関係がまるでない。
もっと言えば滅亡迅雷がその暗殺ちゃん顔だけを利用する理由も(顔への愛着を除けば)ない。最初の一人を選ぶときから全員同じ顔にすると決めていたのか? というか毎回壊される前提で考えてたのか?
そもそも謎でもなんでもないことを取り上げて偉そうに説明してるにも関わらずこんなお粗末な理屈披露されたら、イライラしても仕方ないよなぁ?

 

 

僕には三条陸さんの何がすごいのかよく分かってないんだよな。
キョウリュウジャーに感じてる魅力は100%竜星涼さん個人のものだし、Wやドライブも嫌いじゃない(ただしきちんと見返してないので今見たらどうか分からない)けど、むちゃくちゃ面白いってイメージもない。両作品も今回もそうだけど、謎解きものとしては成立してないと思うんだよな。こっちが知り得ない新情報を出して説明してみせてるだけのことが多い印象。パズルじゃなくてクイズ、と言えば分かりやすいかな。クウガの"捜査"とも近い。いや、でもこっちが解けちゃったらそれはそれでつまらないか? 難しいとこではあるか。
あ、ビギンズナイトは、ディケイドと同時上映ということを多分に加味した上で、なかなか面白かったけどね。
"王道"って評価もピンときてないしな……誰か分かる人いたら教えて。

 

前話

仮面ライダーゼロワン 第11話「カメラを止めるな、アイツを止めろ!」 感想

次話

仮面ライダーゼロワン 第13話「ワタシの仕事は社長秘書」 感想

仮面ライダーゼロワン 第11話「カメラを止めるな、アイツを止めろ!」 感想

キャラクター

 飛電或人
・ちょっと前の話だけど、病院回での或人の判断についてTwitterで整理できたので載せておきます。
彼がヒューマギアを再起動したことが適切だったかどうかという問題なんだけれど、唯阿と或人でちゃんと責任持って犠牲者をゼロに抑えたうえで、シャットダウンしてたら死ぬはずだった不破も助かってんだからよくない? あの状況から考え得る限り最高の結果と言ってもいい。
これを結果論だと言う人がいたらじっくり話し合いたいですね。ニュアンスとしては結果というよりは"成果"。
ヒューマギアをシャットダウンした場合に発生する問題である医者不足を解決する手立ては、或人にはない。彼は医療のことなんか分からんだろうし、どっかから応援呼べるならそもそも問題になってない。
対して再起動した場合に問題となるヒューマギアの暴走に対しては、ゼロワンとして対処が可能。そこにエイムズも加わるとなれば、トリロバイト程度ならモブ隊員でも倒せるらしいし更に被害を抑えられる確率は上がる。
シャットダウンの選択肢は頑張ってもどうしようもないが、再起動の選択肢は頑張ることでなんとかなる可能性がある。
「マンモスがなかった場合とシャットダウンした場合のどちらが多く被害者が出るか」というのは、視聴者視点では分からんけどね。ただその場合でもやっぱり"頑張り"でなんとかなり得るのは前者だわな。
「ヒューマギアが善意を抱くことがある」というのは結果論と言って差し支えないと思うけど、或人の立場で「ヒューマギアを再起動した方がいい」というのはきちんと理に適ってるよ。
会社の利益を優先させるなら、そりゃあ"暴走した"なんて事実は少ない方がいいに決まってる(しかもローカルネットで制御されてる特別な医療ヒューマギアなら尚更)けど、それよりも人の命を優先させる決断は、社長である以前に人として、間違っているとは言えないと思う。
ちなみに、これは福添がシャットダウンしたがることのひとつの理由にもなる。彼は暴走に対して無力なので、その判断に責任を取れない。

(参考:仮面ライダーゼロワン 第9話「ソノ生命、預かります」 感想)
・ヒューマギアがここまで普及した課程というのは視聴者にとっては完全にブラックボックスで、「政府が関わってるからなんとかしたんだろうな」ぐらいしか推測できない。
でも、あるものに対して興味がない或いは少し抵抗を感じている人に対して、実際に手にとってもらいきちんと自分の価値観で「意外といいかも/やっぱり悪いかも」と判断してもらうことって、いざやろうとするとなかなか難しい。
僕は今スーパーでバイトしてるんだけど、店内では長くいる店員からしたら一種の洗脳なんじゃないかって感じるくらいずーっと商品のPR動画/音声が流れてるのよね。ただでさえ数秒で客の気を引き付けるようにつくられてるものが、繰り返し繰り返し。まぁそりゃお客さんはひとところにずっととどまることってそんなにないのでそれが正しいんだけどさ。
で、その内容ってのもワンパターンで、食料品なら当然「おいしい」「簡単」「安い」みたいなことをずっと主張してるのよ。でも僕なんかはひねくれものなので、「そりゃあ手前の商品をまずいとは言わんだろ。うまいかどうかは僕が食って決めることであってお前が言うことじゃない」とか思ってしまうんだけれど、実際にそういうPRで溢れていることからこの方法で客は買ってみようと思っているのだろう。僕のような捉え方をしていたとしても、「そんなに言うなら本当にうまいかどうか試してやろうじゃないか」という気になることもあり得る。
逆に「超激辛!」とか「超高カロリー!」みたいな、ともするとネガティブなイメージを抱かれかねない情報を押し出す方法もあって、これもこれで怖いもの見たさというやつなのか、手にとってみる人は結構いるらしい。
これらのことから分かるのは、人があるものを手にとってみるきっかけって、割となんでもアリなんだなってこと。
ゼロワン内の政府や今回の或人のように「誰かがすすめてたから」でもいいし、ヒューマギア参入時にたまたま景気が良くて世間の財布の紐が緩かったというのでも十分に説得力がある。
正直僕は大和田さんが或人の語りかけで気変わりしたことについてはピンときてないけど、少なくとも或人のアプローチ(いい点をアピールする)は普通かつ王道であることを考えると、フツーにあり得る話なのかもしれない。
・でもあの言い方じゃまるでラーニングに協力してくれたハリウッドの皆さんの態度が悪かったみたいですけどね。エンジを見るに実際そうなのかもしれないけど……だとするなら実在の人物団体とは一切関係と言い訳するにしても、失礼じゃない?

 

 不破諫
・一応前後編(ただし次回にも続く)なので様子を見ていたのだが、彼の話は前回で終わったらしい。
「ヒューマギアを憎んでいる」というアイデンティティを失った彼がこれからどうなるのかという風に気になっていたんだが、今回のテーマとまさに合致する。
要するに、フィクションと現実という壁を超えて、岡田龍太郎さんの"人間としての厚み"が不破諫にフィードバックされていくのだろう。
制作発表で前年のウォズがやってたのを真似して「岡田龍太郎役の不破諫です」と言ってみる茶目っ気と子供への配慮とか、YouTubeに動画をアップしている面もある。僕は見てなかったんだけれど、今回を機会に見始めることにした。多少とはいえ人工知能特別法やエホバの証人輸血拒否事件について思案する様子も見られて、これらなんかはむしろ積極的にフィードバックするべきだと思う。
「僕の中の不破諫」という概念は、劇中内での描写に限られない。岡田さんのYouTubeチャンネルを見ることでまた新たな不破への好感/悪感を抱くことがあるかもしれないし、それこそが概念としての"厚み"となる。極端なことを言えば不破コラなんかもここに含まれる。
人の脳はかなりアバウトなもので、「不破諫と岡田龍太郎はまったく同一である」とまではいかないまでも、ぼんやりと重なり合って影響し合う。これは「本編と映画はパラレルなのか繋がるのか」みたいな話とも繋がってくるんだけどね。まったく同一ではないが無関係でもないという、この距離感。
ゼロワンのキャスト陣が出ていたという、AbemaTVの"恋愛リアリティショー"という文化も、そういう視点で見るとなかなか面白いものではある。
僕はCMで目に入るだけで不愉快になるので見たことありませんけどね。『オオカミくん』とか、簡単に説明すると、数人の男女に自由に恋愛してもらうんだけど、その中に一人だけ演技で恋愛ごっこをしている人を混ぜて、疑心暗鬼になっている様子を傍から見て楽しもうという、趣味の悪さここに極まれりといった内容の番組。
台本があってみんな演技でやってるなら別にいいと思うけど、リアリティショーと銘打つからには本気の恋であることをウリにしていて、だとするなら残酷過ぎじゃない? 参加者も当然承諾はしてるんだろうけど、僕は見る気にならないね。そもそも本当にリアルなのかも怪しいし、真面目に見て真面目に憤慨するのも馬鹿馬鹿しい。

 

 滅亡迅雷
・滅が暗殺ちゃんを褒めた理由ってのはなんなんだ? 自分の命令に逆らおうとすることが"成長"だとするなら、迅をリセットしたのは逆効果のはずだしな。迅には「自分(親)が積極的にリセットしようとするのをも超えて欲しい」みたいなことなんだろうか?
・ところでその滅だけど、彼の"父親"はもう天津ってことで決めつけちゃっていいかね。飛電はつくってない(滅亡迅雷のヒューマギアをつくったというデータはない)らしいし。自分を守りに来たのかと問う迅に対して「違う!」と言ったのがやたらと感情的に見えて不思議だったんだけど、もしかすると彼は彼で、天津が自分を守ってくれないことに対して不満を覚えていて、それを「守る必要がないくらい自分は強いから」だと合理化しているのかもしれないな。

 

 天津垓
・前回マンモスキーについて唯阿を軽く責めてたのは、元々はアルシノじゃなくマンモスが欲しかったってことだったのね。でもどっちでもいいらしいので、なんで7話までスルーし続けていたのかはよく分かんないままだけど。
・シナリオという言葉からして、作者を暗喩しているキャラらしい。僕は基本的に『ジオウ』が好きなので、それと関連付けて見ていくのは楽しい。
でも例えば、『ゼロワン』で天津垓が未来ノートを使って世界を操り始めたら「はぁ?」ってなるだろうな。『ジオウ』ではならないのに。不思議だな。
クロスオーバーの弊害ってひとつはこういうことか。世界のリアリティが一番低いものに合わせて下がってしまう。
でも世界のリアリティってなんなんだろうな。その線引きを、僕らはどうやって決めてるんだろう。

 

 大和田伸也
・或人の項ではピンときてないと言ったが、前言撤回。たまたまではあるが、救われたという言葉から思い出した「なんの取り柄もなかった厚みのない過去の自分」と「アドリブに対応できないエンジ」を重ねたんだな。
最初は人生経験も少なくアドリブなんかできなくても、"いろんな芝居を(台本通り)やってきた"という事実そのものが血となり肉となり、厚みをつくりだしていった結果が今の彼なのだろう。
自分で自分を定義していくイメージ(瞬間瞬間)は、まさにこの間した仮面ライダーの定義の話とも繋がってくる。それに、3話の「心などなくても上辺だけの真似で(とりあえずは)いい」とも一貫してるし。

(参考:"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として)
・『カメラを止めるな!
前に見たけど、面白かった。何がって、どれだけつまらなくても映画館に来てる以上は最後まで見てもらえることが保証されてるようなものだから、こういう作り方ができるんだなっていう面白さ。
テレビ放送するようなもんでは本来ないね。それで見られた訳だから感謝だけど。
ワンカットシーンも、全体も、とにかく長い。これが一番の欠点じゃないかな。
あーでもそっか、「ヒットした」って結果があれば、映画館じゃなくても見てもらえるか。僕も割とそのクチだし。
ワンカット撮影ってのは、正直すごいのかすごくないのかよく分からない。舞台とか40分じゃ済まないでしょ。しかも本当にやり直しが利かない一発勝負。
まぁ素人としては、舞台も含めてどっちもすごいなって思うけど。
・失礼ながら「大御所とか言う割に演技不自然じゃね」とか思ってたんだけれど、現実と比較してフィクションが大袈裟になるように、劇中劇ではわざとリアリティを落としてるのかもしれないな。同じこと思ったマンホールの人は別に劇中劇じゃなかったけど、まぁそもそも突飛なキャラだしな。
・「義理と人情じゃ、人の裏など見抜けない」
→「義理とか人情で、人の裏なんて見抜けない」
アドリブとは少し違うが、ここ微妙にセリフ変わってるのよね。これわざとやってるんだとしたら細かいけどすごくいい演出。
セリフを"暗記"するのではなく、一度目を通し噛み砕いて、「この立場だったらどんな言葉が出てくるか」を考えることで自分の言葉にする。大まかな意味は変わらずとも、そういった小さな言葉選びの積み重ねがキャラクターや人間をかたちづくる。
僕は役者こそやったことないけど、嘘は人並みかそれ以上に吐いてきたので、多分その感覚が少し分かる。台本なんて大層なものはないが、事前に時間的余裕があるならある程度話の進め方をシミュレートしておいて、いろんなパターンを想定する。一言一句細かく決めるわけじゃなくて、ふわっとね。
この感覚って勉強にも応用が効いて、授業の黒板をそのまま丸写しするようなのって少なくとも僕は全くやらないんだよね。まぁそれにはそれの長所があったり、その方法があってる人もいるんだろうけど、僕はだいたい読書とかしながら話半分で聞いて、テストの時はもう半分を自分で補完して解くみたいな感じでずっとやってきた。それで平均よりちょい上くらいの成績出せてたんだから僕は多分これがあってるんだろうね。

 

 

設定

・そっか、トリロバイトはベルトをしてないから 滅亡迅雷.net に接続してないのか?
・唯阿が暗殺ちゃんをいじってた描写だけど、結局あれはスキャンダルのために目を青くしただけだったのか?
・福添は或人がゼロワンとして戦っていることを知らないのだろうか? 少なくともゼロワンドライバーのことは知ってるはずだけど……。
また一般市民も、知ってるのかどうかって描写あったっけか。社長自ら対処してますってのは多少イメージ回復になると思うけど、後々正体明かす展開やるかもしれないからグレーにしてるのかな。

 

 

監督の「ヒューマギアは殺人マシンだ!」は、流石に笑っちゃったよね。モブ代表とでも言わんばかりのセリフで、一人の人間の言葉選びとして不自然過ぎる。僕は寛容なので、前に言ったような"編集"の理屈で笑って許すけども、一般的にはこういうのはやめたほうがいいんでないのかね。

 

前話

仮面ライダーゼロワン 第10話「オレは俳優、大和田伸也」 感想

次話

仮面ライダーゼロワン 第12話「アノ名探偵がやってきた」 感想

ブログ記事未編集ver.「仮面ライダーゼロワン 第6話」

本記事は先日投稿した仮面ライダーゼロワン 第6話「アナタの声が聞きたい」 感想のテキストを、書いた順に並べ替えたものです。え、手抜きだって? そうだよ予定があって感想書けないんだよ。一度読んだ記事を読み返す機会ってあまりないと思うし、僕がどんな風に記事を書いてるのか、編集してるのか、みたいなものを自分でも見てみたかったのもあって、ひとつの企画として昇華させてもらいます。

 

放送前

倫理に基く法律は正しいのか


ヒューマギアが人型であるメリットは、人間の社会に溶け込めてある程度の応用が効くことだよね。
絵を描くだけなら腕だけ、デジタルでいいなら実体すら必要ないかもしれないけど、それだとあんな風に買い出しには行けない。
買い出しに限れば実体のないお絵かき特化プログラムでもネット通販を利用する程度の応用はきくかもしれないが、重いものを2人で持ちたい時には明らか役に立たない。
普及可能なレベルまでローコストで実現できるならメリットは十分ある。
そうだよな、「人型である必要があるの?」という疑問は「人型でさえなければもっとコスパがいいかも」という思考を経ていて、例えば10円でヒューマギアが変えるなら"必要性"なんて厳密に気にせず少々無駄があろうと買うでしょ。10円は極端でも、ローコストでさえあればそんなものは気にならない。


「なんで人型なのか?」の問いに答えず続いてるガンダム

 


視聴1回目

「本人に無許可で酷似した容姿の人工知能搭載人型ロボットを作成及び使用してはならない」

髪の毛が違ったら別人に見える

生命の尊厳を冒涜する行為

あの年の娘がパパと呼んでいた可能性

3日? 責任ってどうやって

唯阿は迅がヒューマギアという話も聞いていた

すぐに廃棄すればこんなことなはならなかった 結果論

声だけならいいのか

 

 

視聴2回目

まずひとつ、おまかせやカスタムの結果として偶然似るのはアリなのかナシなのか。
これは今ある法で言うところの著作権とある程度似た議論になると思われる。即ち"依拠性"の有無が要点となる。依拠性とは読んで字の如く、よりどころとされているか否かということで、これがない場合は問題になりにくい。少なくとも僕は人間同士のそっくりさんと同じ扱いでよくて、偶然似ていることで互いの名誉を傷付けるような結果になってしまったとしても、それは過失としてすら責められるべきものではないと思う
。分かりやすい例を挙げるならば、『ONE PIECE』に出てくるデュバルに対してサンジは罰を受けるべきか、というような話。サンジ自身の海賊行為そのものはまた別の問題として解決すべきではあろうが、デュバルへの被害に限っては、あくまでサンジだと勘違いした海軍や賞金稼ぎ、その他の人々の過失であって、サンジの責任ではない。
また(一部を除き)著作権侵害親告罪であり、法的な制裁を加える為には著作権者が自らの意思で告訴するプロセスが必要になる。このような仕組みも、実害の発生していないそっくりさんに対する無意味な規制を抑止することができる。
故人はそのような判断ができないとしてそういったケースは非親告罪として設定しておくことは理解できるし、そうだとすれば今回のA.I.M.S. の動きは説明がつく。


背景の変更(なりすまし)


とはいえ本当の話をすれば、僕らに納得のいくかたちで説明がつく必要というのは、メタ的な視点で「作品世界に没入してもらう為」というのを除けば、なかったりする。
現実世界の現行制度に、幾らかの不満がある人もいるだろう。最近だと消費税が8%から10%への変化とか。それと同じで、法をはじめとするシステムもある目的に対する手段でしかない。それも人がつくり選ぶものなので必ずしも最も理に適っているとは限らない。その世界にいる人々がより適した手段を思い付いたり目的を変えたりすることによって変化するものであって、決して完成された絶対的存在ではないので、微塵もおかしいと感じないことの方がよっぽど不自然なのだ。
ここでは今の僕にとって妥当と思われる制度(人工知能特別法第六条)のあり方を書いたが、必ずしも劇中世界で僕と同じレベルまで洗練されていなくてもいいし、逆により洗練されてまた別の解を導き出していてもいい。僕やその他の人が気に入るかは別として、矛盾だとかおかしいだとかそういった類のものではないことは書いておきたい。


そもそも、これらの倫理的摩擦を生み出してまでヒューマギアを人型にする意味はあるのか? という論点もある。


声(音)を出すだけなら喉と口だけ、


以上はヒューマギアをあくまでも買う側の視点での話で、つくる側ならば身も蓋もなくなるが、「実現する金と技術があって人型にしたかったから」で済んでしまう。
必要性で説明できないものもある。まぁ「じゃあ何故人型にしたいのか」などと掘り下げていけば蓋然性は上げられるかもしれないが、それでも不確定性原理を信じてラプラスの悪魔の存在を否定するならば、やはりある程度の振り幅は生まれることになる。


僕はジオウ補完計画における葛城巧の、「世界は科学で割り切れない」という言葉が好きなんだけど、そういうこと。


「誰がどう見たっておんなじ顔だろ」
悪いな……僕は髪の毛が違ったら別人に見えてしまう病気なんだ。病気というのは比喩だが、このブログの横の方(スマホならば一番下の方)にあるプロフィールに追記したように僕は発達障害者で、ASDによくある症状としていわゆる相貌失認がある訳ではどうやらないんだけど、おそらく限定的興味のいち形態で、注目している部分が限定的(僕の場合髪の毛)な為に起こっていることかもしれない。
ある程度見慣れていれば注視することで分かるようになるけれど。
プロフに書いたのは、申請していた障害者手帳(精神障害者保健福祉手帳)の審査に受かったから。2級だそうです。


「何よりこれは生命の尊厳を冒涜する行為に当たるんだぞ」
エグゼイドの感想を書いていた頃の僕ならば、不破のアイデンティティはこれまでの情報ではデイブレイクに端を発するヒューマギアへの憎悪だけであって、倫理観については触れられていないので唐突だなんだと言いそうだな。特にそういった否定の仕方は大我に対してしてた気がする。
今の僕もそう思わないことはないが、それに加えて「全てに前振りが必要なら前振りの前振りも必要になってしまい無限後退に陥る」とも思うので、「これまでそのような情報はなかったが、いま分かった。これが後の前振りである可能性もある」と納得できる。
ただ、人間に尊厳なんか本当にあるのかね。いや、まぁ人があると思えばその人にとってはあることになるんだけれど。今の僕は人間とヒューマギアの間に決定的な違いというのを見出だせていないので、この立場にはあまり賛成しない。
何故"生命の尊厳を冒涜する行為に当たる"のかを一応きちんと説明しておくと、人間とヒューマギアを同一視することでそれらは価値的に横並びになり、まぁ要するに人間の価値が低俗なヒューマギアと同レベルになってしまう、みたいな話だと思われる。
逆に或人の立場は、(一部の)ヒューマギアは人間と同レベルに尊い存在である、ということになる。
この辺の話はカブトのワームや、ディケイドに顕著な仮面ライダーの変身者変更、更には悪者に"仮面ライダー"を名乗らせることの是非なんかにとても近かったりする。
剣がワームレベルの存在なのではなく、スコルピオワームが(ある人々にとって)剣レベルの存在である。片方に対する嫌悪感さえなければ、「どっちも尊いもの」で意外と平穏に片付く問題なのだ。
同じように或人が助けるヒューマギアを取捨選択するのも、天道が「アメンボから人間まで生きとし生けるものすべてを守る」とか言いつつ人を襲うだけのワームは平気で殺してきた(僕は実はあんまりここに納得いってないけど)ことと被ったりする。
だから或人のしていることが許されるという訳ではないが、天道を許すならば決定的差異を示さない限り或人も許さなければ一貫性は保たれない。一貫性を保つ必要があると感じるかはその人次第だけど。


オニコゼツメライズキーが再登場。マギアは毎回丁寧にキーを破壊して変身しているので、新たに作り直されたか修理されたことになる。滅自身にゼツメライズキーをつくる技術がなく、スコーピオンプログライズキーや迅以外のヒューマギア(おそらくアークも)と同様に他者がつくったものを盗用しているのだとすれば、彼は"データ収集"を終えたものだけつくり直すことができるのかな? まぁそもそも特に制限なくつくれますよってんならそれはそれでもいいけども。
逆にプログライズキーも制限なくつくれるのであれば、迅に奪われたファルコンキーもつくり直してゼロワンが使うことが(メタ的な違和感を除けば)可能ということになる。
まぁ、わざわざ「飛行能力がないが故に取り逃しました」ってシチュエーションさえつくらなければ(或いは2つとつくれない理由を視聴者が知るか、想像すれば)ナメプ呼ばわりされることはないだろうけど。


「俺のプログライズキー!」
良いかどうかは別として、犠牲になった幾人かのよく知らんヒューマギアよりも、"自分"という線の内側にある(言い換えれば所有物である)プログライズキーを優先するのは、或人の人間性としてはこれまで描かれてきた通りだし破綻はしていない。
所有物が"自分"の内側にあるという表現にピンとこない人はエヴァの最終回をチェック。


僕は放送前に「仕事に私情を持ち込むこと(に罰がないこと)が不愉快だ」という話をしたが、どうやら或人に対してはその種の気持ちが湧かない。


「結果が出れば、多澤さんも罰を受けるはずだ。ヒューマギアのことは俺が責任を取るから」
情に流されて甘い判断をするのはとりあえずいいとして、多澤さんにとってオーディションの結果が出ることは嬉しいこと……なのか? いや、実際喜んじゃいるけど、なんで喜んでんだ? 声優としての技能に関してはすみれさんとは似ても似つかないので、別に彼女が認められたことにはならないと思うんだけど、顔が似てればいいのか、それで。すみれとは別モノだけど、セイネはセイネで愛しい存在だから成功は嬉しいというなら分かるし、逆に離れるまでの間少しでも長く一緒に過ごしてもらう為の方便という解釈もできるけど。
「親が子供を守るのは当たり前のことだろ。子供を守るためなら死んでも構わない。そう思うのが親なんだよ!」
もちろん親に感謝してるが故のことだと理解できないこともないけれど、子供の立場で言うことではあんまりないよね。それも「死んでも構わない」とまで。多澤さんが愛情溢れる親というよりは子離れできないだけの親に見えるのも手伝って、ちょっと今回は或人に感じるズレが大きいね。


「なんでかは知らんが、罰がないなら上司(或人の場合は飛電のトップだが例えばスポンサーである政府など)に許されてるんだろう」という風に考えてるのかな。


「すべて破壊する」
言い回しから察するに、迅のこともヒューマギアだと認識している様子。トリロバイトマギアもこの時点では見当たらないし。つまり何らかの方法で滅のセリフを聞いていたことになる。どうやって見ていたんだろう? ヒューマギアに A.I.M.S. が違反を認知できるような何かが既に組み込まれているんだとしたら、ニギローの時の描写がちょっと分かりにくくなるし、単に通報を受け、該当場所の監視カメラか何かにすぐアクセスできるとかそんなところだろうか?
"すべて"の三文字がなくても、むしろないほうがより自然に成立する場面であるだけに、きちんとした理屈が背景にあると信じたいが、どうなんだろうね。
「あなたたちがすぐに廃棄すれば、こんなことにはならなかった!」
それはどうだろうね。別に実在する人間を模してなくてもシンギュラリティには達するし、違反ヒューマギアがマギア化したのはいわゆる結果論というもの。そもそもマギア化にシンギュラリティが必要らしいということから認識しているかどうかも怪しいし、偉そうにしてる割には短絡的過ぎる発言だなぁ。好きじゃない。


家族の愛情を自明のこととして扱うことは、そろそろやめた方がいいと思うんだよな。家庭のあり方ももっと多様でいい。


どうやら滅は迅の自我とやらをリセットしたらしい。今回の変身はそちらの意味の方が強いように見えた。とすると、マギアの方もそうだったりするのだろうか? トリロバイトには誰でもなれるように、シンギュラリティに達した個体を選ぶのは必要にかられてというよりはそうしたいから?
それか、やっぱりライズキーを使う為にはシンギュラリティに達したという事実が必要で、迅はただ想定より早くて戸惑っただけというだけなのか。
"親離れを許さない親"というのは仮面ライダーの敵としてはすごく真っ当な印象。迅が親離れすることはあるのだろうか。

 

コメント返信

>或人の見通しの甘さ

僕は前述の通りマギア化と人工知能特別法違反の間に直接的な関係はさほどないと思っています。ですのでマギア化する可能性を度外視した上での問題点というのは、あくまで「すみれさんの名誉への影響」という一点のみです。

ここをもう少し詳しく紐解きましょう。 まずすみれさん自身が声優としてどうやら無名(そっくりらしいセイネが出てきても、ただ"ヒューマギア声優"としてのみ話題沸騰中である)らしいことから、声優としての"多澤すみれ"の大きな名誉には殆ど影響がないことが分かります。ただし、今回のヒューマギア事件から遡って「そっくりな娘がいた」というかたちで話題になる可能性は否めません。 対して家族や友人間、声優業界の人間という小さな範囲での名誉ですが、ここについては既にセイネを見られているので取り返しは付きません。

整理すると、或人や不破がセイネに猶予を与えたことを原因として新たに起こると(少なくとも僕に)想像し得る事柄としては、「セイネが話題になってしまうと遡ってすみれさんとの関連もバレてしまう」ということのみとなります。 ここについては、あのときの或人が公開オーディションであることを知っていたかどうかにも依りますので、示された情報からは単に或人の見通しが甘いのか、啖呵を切ってしまった手前公開オーディションであることを知った後に覆せなかったのかの2パターンに揺れます。 そもそも、父親型ヒューマギアに育てられた或人の価値観では「そっくりなヒューマギアをつくること」自体を問題視できていない可能性すらありますし、その場合"見通し"の一言で片付けられる問題でもなくなります。或人自身というよりは生育環境(父親型ヒューマギアをつくった祖父か誰か)の問題になりますから。

>〜悪用の選択肢なんていくらでもありますし。

僕はそうは思いません。例えば著作権ならば、基本的には私的複製が認められているのですが、映画館に限っては海賊版(悪用)による著作権者への被害が甚大であるという理由から、私的であっても複製を許可しないという法制度になっています。僕はこれに納得できません。悪用を想定したらなんだって規制の対象になり得ると思います。車だって意図的に事故を起こそうとすればあれほど身近で強力な武器ってないと思いますし。 第一、"本人の許可"というのはそもそも「この人は悪用しない」という信頼関係の上に成り立つものであって、そこに第三者が首を突っ込むのは大きなお世話かと。制度としてはその許可を事後的に取り消せることにすればいいだけの話です。現実の例を上げるなら、臓器提供の許可なども生きているうちは自由に変更が可能ですしね。

>棒立ち

少なくとも今の僕は、そういった部分は自分の感覚の許す限り「(実際に起こったという設定の或人たちの事件を)フィクション作品として起こす際にできた隙」と見なし、或人やイズの人間性にフィードバックすることはしないと決めています。詳しくはゼロワン2話の感想を参照してください。そこでは「脚色された歴史」という表現を使っています。

仮面ライダーゼロワン 第10話「オレは俳優、大和田伸也」 感想

キャラクター

 飛電或人
・悪人について「心無い」だとか「人でなし」だとか言うことがあるが、これはゼロワンにとってキーワードになり得るよな。
これはクウガの記事でも少しした話なんだけど、或人が「ハッキングされたヒューマギアはもはやヒューマギアではないので、ヒューマギアはあくまで夢のマシン」と考えてたかもしれないことについてね。
これを語るためには、じゃあそもそも「人である」とは、「ヒューマギアである」とは何なのかという話をしなければならなくなってくる。
しかし言葉の定義というものは客観的には存在しないので、「或人にヒューマギアと呼ばれるもの」や「広くヒューマギアと呼ばれるもの」や「或人じゃない誰かにヒューマギアと呼ばれるもの」など、たくさん有り得る。
定義をするためにはまず目的が必要で、生体か機械かを見分けるためならばハッキングされてもヒューマギアだろうし、善か悪かを見分けるためならばハッキングされたらヒューマギアではない(逆にヒューマギアである)とすることもできる。"ヒューマギア"という言葉に意味を与えるのは、それを使う我々であって、そこを履き違えてしまうと混乱が起こる。
前述した或人の思考は現実逃避でしかないと思うかもしれないが、そもそもそのヒューマギアか否かという"現実"など存在しないんだよな。どこまでいっても「自分の思う"ヒューマギア"と定義が違う」という話にしかならない。
だから僕は或人のことを、悪いヒューマギアはヒューマギアか否か(本当にヒューマギアはすべて夢のマシンなのか)という点では認識が一致しないかもしれないけど、ハッキングされた個体が悪かどうか(破壊するべきかどうか)という点では一致してるのよね。そこは不破も同じで、ヒューマギアはすべて人間に仇なす存在だといいつつも、ハッキングされてない個体まで破壊するべきではないという点で一致してる。
だから結局2人の意見って実はそもそもそんなに対立してなくて、「悪いことしたら壊す。そして悪いことするのは滅亡迅雷の仕業なので、憎し」というひとつの意見に統合することができる。やってることもほぼ一緒(仮面ライダーに変身して怪人を倒す)だしね。

(参考:悪者とは弱者である『語ろう! クウガ・アギト・龍騎/555・剣・響鬼』高寺成紀編 感想)
・ところで、暴走するヒューマギアは目が赤い(えるしっているか?)ということが強調されていたけど、ゼロワンも基本的には赤い目してるよね。フォームチェンジによって青くなったり黄色くなったりもする。或人の正体がヒューマギアかどうかはさておき、ゼロワンというのは人間よりはヒューマギアに近い存在であるように思える(ゼアに接続)ので、何らかの意味があるのかもしれない。

 

 不破諫
・「刃!?」
そんな呼び方してたのね。意外。僕のイメージでは若干の皮肉を込めて"技術顧問サマ"とか呼んでる感じだった。詳しくは後述するが、これもまた"早とちり"である。

 

 刃唯阿
・チェス男はA.I.M.S.の上司じゃなくてZAIAの人だったのね。彼女の信じるものってのは何なんだろな。今んとこ天津のことが好きなだけというか、エヴァのリツコみたいな奴なのかなくらいにしか見えないので、そんな上等なものじゃなくねと思ってしまったんだけれど。不破を助けたのもそれに従った結果だとするなら、やはりノアの方舟的なあれこれがあるとするのが収まりが良いだろうか。
・玩具の売り方がレーザーと同じなのもあって、なんとなく死にそうね。でも女性ライダーとして売り出してしまったから早々に殺したら騒ぎになりそうだけれど、「女性だから死なせない」というのも逆差別的だ。アクアについて「レジェンドだから死なせてはいけない」というのも同じ。人として生きていれば死ぬことも当然ある。そこに性別とか先輩とかそんなものは関係ない。

 

 滅亡迅雷
・フォースライダーの体に貼ってある縞鋼板、だからなんなんだと迅が登場してからずっと考えてたけど、"滑り止め"と表現すると、"スベる"とかけてあるのかもと思ったり思わなかったり。滅亡迅雷は実際シュールギャグを量産してるし。個人的には或人の笑いの方が好きだけど。
後は、踏まれ足蹴にされることをヒューマギアが奴隷のように使われていることに見立てているとか。
・滅が迅を叱り、迅が暗殺ちゃんを叱る。そして誰か(アーク)が滅を叱っているのだろうし、暗殺ちゃんもいずれ誰かを叱るようになる。超自我ってやつだね。
子供は母親を手に入れようとするが、父親は母親を奪おうとしたら去勢すると脅す。

 

 大和田伸也
・恥ずかしながら大和田伸也さんのことは存じ上げないのだけれど、かろうじてどこかで見たことある気がしていたのは、リーガル・ハイでゲスト出演なさっていたからだった。日照権を主張する市民派(というよりは反企業派)の弁護士役。面白いのでぜひ。

(参考:リーガル・ハイ 第4話「太陽を返せ! マンション裁判仁義なき戦い」 感想)
・「最高です!」
いわゆる手のひらクルクルな人かと思ったけど、なるほど、これはそれこそ"演技"だったのね。関係イベントで愚痴をこぼすほど子供じゃないと。……まぁ僕が"あの件"で気に食わないのは、否定的なことを言ったことそのものよりその否定の仕方が意味分からんことだけども。しょせんは又聞きなのでなんの話とは言いませんがね。
・「エンジを否定したのは"ヒューマギアである"という先入観によるものだ」というのは、僕は少し違うと思う。何故ならエンジは実際にアドリブに対応できなかったりと演者としての人間らしさに欠けているからだ。どちらかといえば、その人間らしさのなさに理由を求めた結果、後から「ヒューマギアだから」という説明をつけたかたち……だから"先"じゃないんだよね。人間でもアドリブできない人はいるし、そしたら今度は「最近の若者だから」とか理由付けられるのだろう。
イメージ的には、白倉さんが言ってた「鬼退治という偉業から、遡って桃から生まれたという出生の特殊性が付加される」みたいな話。
ところで先入観といえば変身音の英語。令和仮面ライダーゼロワン 制作発表記者会見 感想では「英語にしたらなんとなくかっこいいだろうとかその程度」だと決め付けていたんだけれど、そうじゃなかった。言葉(正確にはそれを扱う心)には距離感というものがある。
例えば"さっき"と"先程"では、どちらがより現在に近い感じを受けるかと考えると、きっと"さっき"の方が比較的近く感じることであろう。人は馴染みのない言葉に対して"遠い"イメージを抱く。これは敬語という概念とも仲がよく、要するにあれは、馴染みのない言葉を使うことで相手と心理的距離を置き、「あなたは私とは(上下に)遠い存在である」ということを表現しているのだ。初対面の人に敬語を使うのも、「私は馴れ馴れしくあなたのパーソナルスペースを侵害しないので安心してください」という意思表示である。
そして他言語(日本のような島国以外では言語は国単位で分かれていないので"外国語"は不適切)というのは極端に距離がある。その心の距離を"ロボット"に対する心の距離と重ねているのだろう。そして英語への憧れというのは、簡単に言えば"未知への関心"である。
タイトルのこそあど言葉もそうだが、ゼロワンにおいて"距離"というのはキーワードらしい。

 

 福添准
・エグゼクティブプロデューサーらしい。もしがっつり制作に携わっているとするなら、彼のパーソナリティを推察する上で『ギリィ』の設定などは参考になるかもと思ったが、これまでの描かれ方を見るにただ「ドラマを作ろう」と言い出しただけのようにしか見えないんだよな。もったいない。まぁ僕がこのチョイ役に対してそこまで頭のリソース割くのが面倒になったのも大いにあるけど。

 

設定

・「マンモスは絶滅種なのにプログライズキーになるのはおかしい(なんで?)」と言う人がいる。
が、これはズレている。
「ディケイドアーマーは中間パワーアップフォームになるはずなのに龍騎フォームはサバイブなんて」というのと同じだ。ゼツメライズキーという名前で絶滅種の力を宿したキーがこれまで出ていたのは確かであるし、プログライズキーにこれまで絶滅種がなかったのも事実であるが、「絶滅種はプログライズキーになれない」とは一度も明言されていないし、例えされていたとしてもその発言者が勘違いをしてるとか嘘をついていないという保証もない。「ディケイドアーマーが中間フォームになる」も「絶滅種はプログライズキーにならない」も、更に言えば「アナザーライダーが生まれれば元いたライダーは必ず消える」や「2019表記のアナザーライダーならば必ず消えない」なども、見ている我々が勝手に早とちりしただけなのに、それを相手側(制作陣)のミスであるかのように決め付けて「設定ガバガバ」などと批難するのはよくない。
それまで仮面ライダーと呼ばれるのは本郷猛のみであったことを根拠に、「一文字隼人は本郷猛じゃないのに仮面ライダーと呼ばれるなんて(仮面ライダーの定義)ガバガバ」なんて言うのはナンセンスだろう。これらは視点の問題でしかない。
エグゼイド当時の僕に言って聞かせてやりたいが、まぁそういう馬鹿も多少はいていいだろう。

 

 

以前、創作物のキャラクターとAIはレイヤーとして似ているという話を少ししたが、それを自覚的に扱ってきたね。「AIに心などない」としてしまうことは、「フィクションのキャラクターに心などない」とすることに似ている。それを役者である大和田伸也(作中キャラ)という装置を使うことで表現し、しかも「こんな話をつくるのだから、きっと『ゼロワン』というこの作品自体も人と人とのぶつかり合いで生まれてきた"ホンモノ"なのだろう」と錯覚させられた。
面白いな。

(参考:"純粋"と呼ばれる子供はサンタや仮面ライダーの実在を信じているのか? )

 

前話

仮面ライダーゼロワン 第9話「ソノ生命、預かります」 感想

次話

仮面ライダーゼロワン 第11話「カメラを止めるな、アイツを止めろ!」 感想

 

参考

86ma.hatenablog.com

仮面ライダーゼロワン 第9話「ソノ生命、預かります」 感想

キャラクター

 飛電或人
・前回だけど、不破が滅にやられるシーンに或人が間に合わなかった理由って、よく見ると暗殺ちゃんと戦ってたからじゃないのよね。
滅はあの場でドードーゼツメライズキーを回収しに来ているからさ。
わざと不破たちを放置したんでなければ、場所が分からず探し回っていたとか、或いは残りのトリロバイトマギアと戦っていたという補完が必要。
・「命を奪うやつが、足を踏み入れていい場所じゃない!」
僕はスーパー自意識過剰マンなので、僕への当てつけに見えた。『エグゼイド』の永夢が「(ここは病院です。〜)命の大切さが分からない人が、いていい場所じゃない」と言ったことに対して、僕は自殺未遂者の入院とかを全否定してるんじゃないかって批判したのよね。それに対して、「この表現ならどうだ?」って言われてる気がした。
一応理屈で言えば、犯罪者(殺人犯)だろうと怪我や病気を治してもらう権利くらいはあるはず。なので、文脈を度外視すれば、やはりこれもかなりおかしな発言ではある。
だって、ただ普通に「行かせない、命は奪わせない」できちんと意味は成立するから、わざわざこんなスレスレなこと言わせる意味がない。
エグゼイド当時僕は勘違いしていたが、別に永夢も或人も"正義や善の具現者"ではないので、おかしなこと言ってもいいんだけどね。
・これまでは「ヒューマギアはあくまですべて夢のマシンであって、マギアは滅亡迅雷の仕業でもはやヒューマギアとは呼べないから別モノ」として捉えてる可能性があったけど、今回きちんと"ヒューマギア"が悪意を抱く危険性を認識するステップがあってよかった。その上できちんと「全員に悪意が芽生えるとは思えない」という妥協案に辿り着いていて、1話のことといい或人は現実を受け入れる姿勢が比較的あって、そこは好き。根拠がないことも自覚しているようだし。エグゼイドでは一貫して主人公の歪みに劇中では言及しないスタンスだったけど、そこからきちんと踏み込んで発展した話づくりになっている。これこそ僕のようなアンチの功績だ、なんて言うのは冗談だが。
一応後付けで根拠(オミゴト)も付加されてるしね。ここの前後関係が逆だと、結局「或人が正しい」という話になってしまう。例え根拠がなくても或人はそういう判断をした、というのが重要。…………まぁアンナがいるんだけどね。
・バイクと違って、車は大勢の人を乗せられるのが強みだよね。でもドライブのトライドロンは2人乗りのスポーツカーで、乗れる人数はバイクと変わりない。何より2人乗りすらしてるイメージそんなにない。車の持つ「他者との繋がり」的な側面はほとんどなく、ただの"でかいバイク"に収まってる印象があるんだよね。リアタイ以降見返してないから記憶にあんま自信ないけど。車を"ステータス"として捉える向きがあるが、そういう"自分の拡張させるもの"って感じ。
そのトライドロンと、エグゼイドに出てきたマキシマムゲーマーと並んで、今回のブレイキングマンモスは「肥大化した自己」的な心象を抱かせる。今回は根拠がなくてもヒューマギアを信じるという或人の、謂わばそれこそ独善性みたいなものが強調された回なので、非常にマッチしている。自覚的にやってるんだなって安心して見られる。
・ブレイキングマンモスがギーガーと違うのは、プログライズキーが挿さってることと操縦者がいるかどうかという点なんだけれど、前者の意味を読み解くにはもう少しアーク絡みの情報が欲しいな。後者は簡単で、"意志の位置"についてのことだろう。滅亡迅雷はアークという離れたところにある自分ではない者の意志に従っていて、それは暴走ギーガーも同じ。対して或人とブレイキングマンモスは一体化している。

 

 不破諫
・これからどうするんだろうね、アイデンティティ消えたけど。頑固過ぎるよりはいいと思うが、こいつをどう料理するのかは見物だな。

 

 刃唯阿
・不破のこと心配するの、なんか意外だった。実験台として使っておきながらも、なんだかんだ仕事でいつも一緒にいたら多少は情が移るか。そういう面もある、で片付くかな。
・「マンモスのゼツメライズキーだ。ギーガーとの関係も深いはずだ」
正直意味が分からない。視聴者は情報解禁でブレイキングマンモスとギーガーとマンモスゼツメライズキーを紐付けられるけど、唯阿にその発想はない。マンモスゼツメライズキーは迅がコービーに渡したものを唯阿が拾っただけで、ギーガーとは無関係だ。
僕に考えられる可能性としては、「チェス男にそう教えられた」「ギーガーのデザインがマンモスっぽいのでなんかそんな気がした」の2つくらいだろうか。
前者なら敵の技術に詳しいチェス男に不信感を覚えないのかとも思うが、まぁ僕もバイトやってて上司の言うことには「きっと何か僕の知らん筋が通ってるんだろうな。というかそう信じないと仕事できないし金もらえないからな」で済ませてるし、やいやい言えん。

 

 滅亡迅雷
・「人間どもの制御から解放された時、ヒューマギアは人類と袂を分かつ」
滅も或人や不破と同じく、大した根拠もなく極端な信念を持ってるみたいね。
話を聞いてる限りでは、今回の滅亡迅雷によるハッキングは"ゼアからの解放"というだけで、滅亡迅雷.netに接続(アークの意志のままに動くようになる)はどうやらしてなさそう。これはギーガーが特殊なのか、そもそもトリロバイトマギアというのがそういうものだった(アンナも悪意を抱かなかった一人)ということなのか分からんけど。
とりあえず後者の仮定に沿って整理すると、シンギュラリティに達したヒューマギアはゼアの制御から解放されいずれ自我を持ち、善意も悪意も持ち得る。そして他のヒューマギアに接続しゼアの制御から解放することもできるようになる。
滅亡迅雷は自然発生的に制御から解放された個体をアークに接続し、意のままに操る(この時点でそのヒューマギアの自我はおそらくリセットされている)。そしてトリロバイトは偶然これまで画面内にいた奴らの殆どが奴隷として使われていたことに憤り人間を襲い始めただけであって、彼らはリセットされず自分たちの意志で行動している。ということになるのかな?
4話でトリロバイト達がデイブレイクタウンに集まってきたのは滅が説得したのか、それとも触手ハッキングによって通常は意志のリセットがされるが、たまにバグってうまくいかない(アンナ,オミゴト)ことがあるだけなのか。
とりあえず、今回意見を変えたと言っても過言ではない不破の代わりに、今度は滅が「ヒューマギアは(みな)人間に悪意を抱く」という或人と対になる信念を引き継いだかたちとなる。それを危険と捉えてるのが不破で、良いことと捉えてるのが滅という違いはあるけれど。
・不破が前回「AIに頼り過ぎるのは危険だ」などと言っていたが、心理学で言うところの"移行"の話を思い出した。
ざっくり説明すると、生まれたばかりの赤ちゃんは何もできないので、親が身の回りのことをすべてやってあげる。お腹が空いたと思えばご飯を持ってきてくれるし、寂しくなれば抱いてもらえるし、汚物も綺麗にしてもらえる。
すると赤ちゃんは親のことを自分の一部であると錯覚する。どういうことかというと、僕らが普段「お腹が空いたから自分の右手であそこにあるハンバーガーを取って食べよう」と思うのと同じレベルで、「親に取ってきてもらおう」と思うということ。すなわち親のことを自分の手足だと思い込む訳だ。
しかし赤ちゃんが成長して自分で色々なことができるようになってくると、親はそういったことをいちいちやってくれなくなるし、抱っこしてと言ってもしてもらえなくなる。
これに寂しさを覚える子供はその現実を乗り越えるために、意志のある親と違って「自分の都合を押し付けられるモノ」として、ぬいぐるみや毛布を好むようになるという。この親からモノへの対象の変化を"移行"と呼ぶ。
手が自分の一部でありながら道具であるのと同様に、例えば長い棒は高いところのものを取るときに使えば自らの手を拡張するパーツとなる。これは手と違って容易に着脱可能である。服やスマホなどもこれにあたる。
そしてその最極端がヒューマギア(極めて人に近いがモノとして扱えるもの)であり、移行対象としては都合の良いことこの上ない。疲れないし面倒くさがらない。
人間を相手にした自己との同一視(さっき言った自分の手足だと思うこと)が錯覚であるように、モノに対する同一視もまた錯覚なのかもしれず、人は親と同じくモノからも自立しなければならない、ということを示唆しているように感じた。
トイ・ストーリー』とか、そういう視点で見るときっと面白いよね。

 

 

設定

・あー、人間(少なくともほぼ最先端であろう飛電の技術)を超えない限りヒューマギアに自我は有り得ないということで、自我とシンギュラリティが関連付けられてるのか。
その仮定のもとでは、飛電は少なくとも体裁としてはヒューマギアが自我を持つことを認めていないことになる。未必の故意(わざと自我を持たせはしないが、芽生える余地はあると認識している)程度の気持ちかもしれない。
・プログライズキーやアタッシュウェポンが共通型なのは、普通にZAIAと共同でやってた頃の名残で済む話だと思う。滅カラーなのもチェス男が噛んでるとすれば別におかしくはない。
まぁまだチェス男がZAIAと直接繋がってる根拠は A.I.M.S. の装備をつくってるってツテしかないんだけど、十中八九そういうことになるだろうと思う。
・ZAIAという社名の由来はなんだろね。飛電はどう見てもHidden Intelligence(隠された知能)だろうけど。ひっくり返してAI A(to)Zとか? 意味は微妙によく分からんが、AIを完全にコントロール下に置きたいみたいなニュアンスを感じなくもない。というかそう解釈すれば後々黒幕か何かになったとき、"仮面ライダーの敵"としてしっくりくる。
逆にひっくり返さずIAという部分に目を向けると、Intelligence Amplifiction(知能増幅)という意味にも取れる。これはさっきの飛電と組み合わせると、よくいう「人間は脳の10%しか使っていない」みたいな話を想起する。
実際にそんな事実があるかどうかはそんなに関係なくて、人がそれに良いか悪いかはともかく何かを感じ、これほどまでに広まっていることがひとつ重要なことであり、こういうものはフィクションにおける"説得力"をもたらす。
Wikiにあるような"科学的"な反論もまた人が説得力を感じるひとつの要素ではあるが、僕にはどちらも理屈より先に、「人間にはまだ可能性がある」という楽観的な考えと「そんな都合のいい話はない」という悲観的な考えがあるように思えるので、どちらの肩を持つつもりもないのだが、この構図はなんとなく或人と不破に被るものもあるので、劇中で扱われる可能性もあるように思う。
ZAIAがヒューマギアを完全に道具として見做し人間の拡張パーツとしてしか見ていないのに対して、飛電はシンギュラリティに達したAIに人間が負けじと努力することで切磋琢磨し合うことで共に進化することが理想……みたいなズレがあったのかもしれない。
・ヒューマギアの共通デザインとして耳にヘッドホンみたいなものが付いてることが挙げられるが、ヘッドホンというのは人間で言うと「人の話を聞いてない(別の音を聞いている)」ことを意味するので、その辺に何か絡んだ意図があるのだろうか。
トリロバイトなんかは特に、顔全体にシャッターまで落とされて外部からの情報をシャットアウトしている印象がある。
機械でShutと言えばShutdownが浮かぶけれど……この話はこれ以上広げられそうにないな。downの逆でShut upだと「黙れ」でよく使われてるけど、あれはなるほど「口を閉じろ」って意味なのね。
同じくup down繋がりだと、フォースライダーがBreak down(壊す)で魔進チェイサーがBreak up(解体する)だったな。
英語のこういう単語って捉えどころがよく分からんくて難しい。

 

 

人間にとって都合がいいことが"善意"なのかどうか、みたいな答えの出ない問いかけもいいけれど、もうそれは既にやり尽くされてる部分もあるので、「ゼーンのイシ」みたいなギャグこそが最高に面白い。やっぱゼロワンはこうでなくちゃな。

 

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仮面ライダーゼロワン 第8話「ココからが滅びの始まり」 感想

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仮面ライダーゼロワン 第8話「ココからが滅びの始まり」 感想

キャラクター

 飛電或人
・「俺の個人情報」
俺を客に変えるだけでも好感度って簡単にあげられるんだけど、しないのよねぇ。でもこうして作者の視点に立って、自分の心ひとつでこのどちらかのセリフを或人に言わせられると考えたとき、後者は後者で視聴者に媚びを売ってるような印象を受けなくもない。いや、売って悪いことはないんだけど、わざとらしいと逆効果だよね。なんて思考を挟むと不思議なことに、偽悪的(本当はそう思ってるんだけど口に出してないだけ)なように思えたり思えなかったり。無理あるけど僕は一瞬だけそんな気がした。或人がというよりは作者が、という側面が強いが。
・病院では静かにな。飲み物をでかい音立てながら飲む幻徳を思い出したよ。仮面ライダーは必ず教育に良くなければならないとは思ってないけど、今回ばかりは一言注意されるくらいはあっても良かったんでないの。スベったとかそういう問題じゃないから。病気で気が滅入ってる人たちを笑わせようとか思ったにしても。
まぁ、誰も注意しないことに対して代わりに注意するために僕はこうして感想を書いてる訳なので、これでいいけど。
・医療用ヒューマギアは漫画アシスタントと違って、きちんと情熱や理念を持った所有者(という表現は少し違うが)がいるのだろう、きっと。自分の好みも述べてたが、口にした通りなら情熱を持ってヒューマギアを使う分には"問題"はないはずなので、そこはあくまで彼の中の道徳と感情で別の話なのだろう。少なくとも病院には根底に情熱がないと感じる要素が或人には見当たらなかったから、彼は不破の意見に反発したのだと思われる。
まぁそれも正直ただいい部分を都合よくピックアップしただけなので反論になってないんだけど、「ヒューマギアは残らずぶっ潰す(すべて悪いものだ)」という意見に対しては有効。なんだけれど、その当の不破って僕が思ってたほど急進的じゃないというか、普段は「不愉快」ってだけで済ませてるらしいので、残らずというのは表現が不適切なだけなのかもしれない。或いは、「"いずれ"残らずぶっ潰す」なのか。
・イズの指示に従い戦うゼロワンの姿というのは、"使う人間と使われる機械"という垣根を超えたイメージを持たせる。指示してないことをすることが自我の芽生えだとするならば、これも自我と言って差し支えないような気がするが、「戦いのサポートをして」と頼んでいないとも限らないし依然微妙なところか。少なくとも目的は或人と共有しているように見える。それはましろちゃんもそうだが。

 

 不破諫
・「俺が言ってるのは気持ちの話だ」
後のセリフと合わせるとざっくり「ヒューマギアは自我を抱くと暴走するから危険」みたいな話なんだろうと思うが、暴走はハッキングのせいだと言われて銃を下げるシーンもあった。
彼の中で、自我によって自発的に危害を及ぼす可能性とハッキングによって暴走する可能性が、どうやらごっちゃになっている様子。もし前者にも差し迫った危機を感じているとしたら、その根拠はなんだろう。人間に都合のいいように使われる奴隷であったことに不満を覚えるだろう、みたいな話?
・或人の項で言った通り、口で言ってるほど極端な思想の持ち主ではなさそうなことが分かったので、今回はちょっと好感度が上がった。4話でアンナを破壊しなかったこととも通じるし、冷静な判断もそこそこできる人らしい。
ヒューマギアがいない病院に行くくらいのことはしないのだろうかとも思うけども、組織側から検査する病院まで指定されたりするのかね。或いは医療現場に限ってはもうヒューマギアがいないところはほとんど残ってないとか。
・「お前がデイブレイクの首謀者だったのか!」
細かい話だけど、不破が滅と顔を合わせる機会ってこれまでほとんどなかったはずで、不破の視点からすると「デイブレイクの首謀者はお前だったのか!」の方が明らかにしっくりくると思うんだけど、妙な言い回しだよね。これも視聴者への説明的なニュアンスを足した脚色として解釈できるけど、そもそもこういう「ん?」は少なければ少ないほど作品に没入はできるのでなるべく減らして欲しいところ。

 

 刃唯阿
・ギーガーの存在を知っていたことからも、滅亡迅雷はやっぱりあのチェス男か誰かと繋がっているみたいね。マッチポンプの目的は依然不明なままだけれど、4話で予想した「道具は使いようとか言ってた唯阿自身がチェス男に道具として使われていることをどう思っているのか」について、今回暗殺対象に選ばれたことで「自分はいいように利用されてただけだったんだ」と泣き言を言い出す前フリは整ったと見るべきか。
不破の「ヒューマギアに助けられて意見を変える」展開と言い予想が付きやす過ぎるように感じるので、どちらもそう思わせておいてやらないっていう逆のフリなのかもしれない。唯阿の方はともかく、不破はそっちを選んだらもう頭の硬さが限界突破して面白く描きようがない気がするので流石にないだろうか。

(参考:仮面ライダーゼロワン 第4話「バスガイドは見た! アンナ真実」 感想)

・「お前の感情論を押し付けるな」
人に押し付けるなと言いつつ、「押し付けるな」という意見を押し付けるのは、いわゆるブーメランとなる。
ここでは、不破は「気をつけろ」と忠告しただけだし、僕には押し付けているとまでは聞こえなかった。また唯阿の方も自分の信条を守るために対等に言い返しているだけで、不破の信条を否定し押し付けようとまでしているとは思えなかった。
口に出すことがすぐさま押し付けることになる訳ではない。
提案は断ることができるし、そもそもいかに強い命令形だろうと口で言っているだけでは人の意思を阻むことはできない。「死ね」と言われて自殺するのは、言われた当人がそのつらさから逃れたいと思ったからなどであり、"死ぬ"ことの主体は言われた側である。すなわち死にたくないと思うならば、死なないことは容易にできる。
だがまぁ、この話は"確固たる自由意思を持った強い個人"を想定した場合のことであって、外からの影響を大いに受ける弱い個人を想定した場合、命令することがそのまま相手の行為の主体となりうる。意思を持たない個人というのは道具(自分の拡張パーツ)と同じであり、道具そのものは主体となり得ないからだ。

(参考:エゴとエゴの均衡『映画 聲の形』 感想)

 

 滅亡迅雷
・ギーガーの存在を知ってたのもそうだし、セキュリティロックが解除される起動実験の時にタイミングよく現れたのも偶然ではなかろう。
あんまりピンとこなかったけど、セキュリティロックってのは要するに、僕らがスマホを使うときにパスコードを入れるみたいなもんで、電源切るまでならそのまま無防備に使えてしまうってことなのかね。突然の襲撃でロックが開きっぱなしだったと。まぁそれくらいはあってもおかしくはない。緊急時のマニュアルとか訓練とかないのかとも思うが、結局人は人なので。
・ギーガーにでっかいゼツメライザーが付いてたんだけど、唯阿が視認したときに異常はなかったらしいので、ゼツメライザーを隠しておくこともできるらしい。できて困ることは具体的には今のところないんだけど、唐突でな。ちょっとびっくりした。
・剣をチラチラ見せながら使わないの、漫画回で「人類滅亡」と言いながら銃を向けたけど撃たなかった迅を思い出した。なんなんだろうな、これもヒューマギアのユーモア(遊び心)なんだろうか。 
芝居がかった口調といい、変身時のびよーんといい、なんか笑えてしまうんだよな。面白いからいいけど。

 

 白衣の天使ましろちゃん
・直接は関係ないんだけど、イズが或人に付き従っている様子から女性蔑視(軽視)的なニュアンスを感じる人は、この優しく愛嬌を振りまく彼女にもきっと難色を示すだろうなぁ、と。
僕はその件について該当人物とじっくり話し合ったことがないので思い過ごしかもしれないが、その人たちは具体的事例と抽象的傾向をごっちゃに語りがちな気がするんだよね。
ヒューマギアであることを加味するとややこしくなるのでここでは人間として扱うけれど、具体的事例としてのイズやましろちゃん個人は、"多数派"であるつもりも、況してや"男性派"であるつもりもないと思うんだよね。仮にあったとしても、それもあくまでそういう"個人"であって、それ以外の何者でもない。
「男性の下に付くこと、愛嬌を振りまくことを他人に強要すること」を批判するのは分かるけれども、具体的事例に対して「同調圧力」を見出して批判するのは、端的に言ってやり過ぎだよ。それについて文句を言いたいなら、具体的事例に還元せず、"空気"に対して直接言うしかない。空気は空気であって、イズやましろちゃんではない。
何故僕がそれを批判するかと言えば、どちらが多数派か少数派かというのは明らかに外的要因であって、自分で決められることではないからだ。多数派が力を持つ傾向にあるのは確かだが、多数派になることがすぐさま悪いこととなる訳では当然ない。
詳しくは下の記事に書いてあるが、"無言の"同調圧力の正体は「多数派に加わってリスク回避したい自分」の投影である可能性が高いと思う。
男性の下に付くことや愛嬌を振りまくこと、かしこまったつもりであの位置に手を置くことは、悪いことでは決してない。それは紛れもなく、その人たちの自由だ。例え作者が男性であろうとも。

(参考:「男性VS女性」の構図が表すもの/平山亮さんのインタビューを読んだ感想)

 


設定

・ローカルネットワーク
近々……具体的にはゼロワンが放送休止の週に出す予定の記事で詳しく書くけれど、「ショッカー怪人」という集合に属する人がたくさんいれば、一人や二人くらいショッカーに反旗を翻す者が現れるのが"自然"なこと……というのが仮面ライダーの基本理念であると僕は思っていて、そういった意味でヒューマギアの自我や暴走というのも「そういうこともある」こととして捉えてる(作劇の都合で我々が見るのはマギアばかりだが、暴走してないヒューマギアはそんなの比にならないくらい沢山いると思われる)んだけど、それに対するカウンターとして「中規模な集合なら完全にコントロール下における可能性はあがる」というのは、なかなか説得力を感じるものではある。"戦隊"という発想の元はこれだと勝手に思ってるくらい。まぁなんでそれを他の場所でもやらないのという疑問は出てくるかもしれないが、やらないにはやらないだけの理由がある、と信頼することに今の僕はやぶさかではない。例えばそれこそコストの問題とかね。

(参考:大自然がつかわした戦士『漫画 仮面ライダー』 感想)
"ヒューマギアが人型である必要性"がなくてもいいことを示す例として「コスパがいい」可能性を挙げておきながらこっちでは反対の可能性を挙げるなんて都合がいいと思われるかもしれないが、別に背反なものではないと思うので僕はこれで納得できます。それぞれ材料費とサーバーの維持費(?)だと考えれば、関連性がなくても不思議ではない。
あとはそうだな、特許とか? お金払っても使えないタイプの独占も確かできたような気がするので、そのケース。
もっと突飛な妄想でもいいなら、唯一そのプログラムを扱えるエンジニアが何らかの理由で一部にしか協力したがらない、とか。
・というか書いてて整理されたけど、自我に目覚めることで飛電のセキュリティから解放されて、副次的にハッキングされやすくなる、ということなのか。トリロバイトの扱いだけ難しいけど。
つまり飛電のセキュリティは、ヒューマギアがシンギュラリティに達して人間を超えない限り破られることはないと。なるほどそう考えると、きちんと「飛電が低レベル」なんじゃなくて「飛電も高度だけど更に高度」なように設定されてるんだな。ちょっと作品からだけでは分かりにくいけど。
・今回唯阿によってシンギュラリティが技術的特異点とも呼ばれることが判明したが、それでもまだ僕はきちんとは信用してない。自我を持つこと(人間の意思から逸脱すること)が果たしてそのまま人間を超えたことになるのか。人間である僕がAさんに「そのパンちょうだい」と言ったのにくれなかったら、Aさんは人間(の概念とやら)を超えたことになるのか? ならんだろう。"人間の概念"という言葉選びからしてよく分からないのでなんとも言えないけど。
ただ、「アークが人間を滅ぼそうとするのはシンギュラリティの賜物だ」というのは全く分からない話でもない。結局のところ(作中の)人間を超えた知性を(現実の)人間が描くという時点で歪みがあるんだけれど、なんとなくこれは受け入れやすい。
本来ならいち視聴者なんかじゃ到底理解できないくらい深いものじゃないといけないんだけどね。
まぁ要するに作者(人間)より頭のいいキャラは描けないという話みたいなもので、それになぞらえるならひとつの反論として、「作者が3日考え抜いて思い付いた案を一瞬で閃いたら超えさせられる」というものがあって、その理屈でいくと未だ人類は自滅の道を選んでないけどアークは選んだ、という意味で超えているのかもしれない。
・ギーガー
検索しようとしたら、予測にネジレ……もといネクロノミコンと出てきた。
あれだよね、クトゥルフ関係の本か何か。クトゥルフはなー、全然知らないんだよな。それこそヘボットでちょっとパロディを見たくらい。果たしてこいつと関係あるのかどうかは分からないが、教養のひとつとしていずれ履修したい。
・何気にショットライザーも量産されてるらしい。そのうち量産型マッハやライドプレイヤーに相当するライダーが出てきそうだな。不破や唯阿に何か特別な資格があるような風には(今のところ)見えないので、設定上では誰でも同格の仮面ライダーになれそうなもんだが、それこそ量産するとなると自然と格は落ちるのかな。いま仮面ライダーに変身してる奴らが全員ヒューマギアだったら話は別だけど。

 

 

書きたいネタはもういくつかあったんだが、字数が目安にしている5000字を超えたので来週に持ち越し。
短期バイトを始めるので向こう1ヶ月ほど更新が遅くなるかもしれません。

 

前話

仮面ライダーゼロワン 第7話「ワタシは熱血ヒューマギア先生!」 感想

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