やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

ポケットモンスター(2019) 第3話「フシギソウってフシギだね?」 感想

開始早々、バリヤードがパントマイムのエア掃除機で本当に掛け布団を吸い込んだことに驚き、でもエスパータイプだからできんこともないかなどと納得したのも束の間、今度はエアバナナを食べ始めてもう一度びっくり。
調べてみたところ、見る側が本当にあると信じると、それは本物になるらしい。ご飯もらえてないのかと心配になったけど、それで腹が満たせるなら食費かからなくていいね。
「パントマイムなのに本当にあるように見える!」とは思わなかったけど、一瞬違和感を感じなくてスルーしそうにはなった。というかサトシ達が普通にスルーしてるからさ。

 

一緒に住んでたらそのうち見慣れてくるんだろうけど、前回サトシがバタフリーに新鮮味(?)を感じていたことに感心したのよね。バタフリーもそんなに珍しい訳じゃないし見慣れてておかしくないと思うんだけど、パッと見は同じなように見えても、人間と同じく一匹一匹個性があって、新しい発見をしようと思えば何かしら見つかるはずなんだよな。勝手によく見る前から同じだと思い込んでるだけで。
今の土地には合計で10年ちょっとくらい住んでるけど、意識して散歩してみると、意外と知らないことが多いと気付く。「この細道の向こうにあんな家があったのか」とか、「ここ駐車場だったのか」とか、未だに新しい発見をする余地がある。
世界は情報で溢れていて、作品に対してもなんでもそうだけど、"退屈"を感じるのは見る側の問題なんだなと最近常々思う。前回みたいに、他の人はわざわざ取り立てないような、ただサトシが寝坊するだけのシーンを見て、僕は2500字ものことを考えて書けた訳だし。
外界から入ってきた情報を意識して処理するために必要な"受容体"とでも言うべきものは、その人の心の豊かさと深くリンクしている。
何見ても感想を書けるほど豊かな知識と知恵を身に着けられたら、毎日が楽しいだろうなぁ。

 

 

今回からスマホロトムが登場。
ロトム好きなんだよねぇ。ポワルンとかもそうだけど、フォルムチェンジっていうシステムそのものが好き。仮面ライダーみたいな変身ものとか、変形する玩具とかが好きなのとも重なってくると思うんだけど、どうやら僕は多面性に魅力を感じるタチらしい。
フォルムチェンジが公開された当時の情報源は主だって、図書館で読めた小学館の雑誌『小学◯年生』シリーズかなんかだったと思うんだけど、ゲームをプレイしないなりにライブ感を伴ってワクワクしてた記憶がある。それまで「そういうもの」だと受け入れていたところから変わって、初めて"新しいポケモン"という認識を持って接したのが第四世代……ゴンベとか、マネネとかウソハチとかなので、いちいち新鮮で楽しかった。
……新鮮? 幼ければ幼いほどより新鮮なはずなのに変だな。ちょうど「見るものすべてが新鮮だから"新鮮"だと意識しない時期」から「新鮮に感じないものが増えてきて"新鮮"を意識する時期」への過渡期だったんだろうか。
っていうか言ってて気付いたけど、新世代への入り口,緩衝材として、既存ポケモンの進化前や進化後が用意されてるのか。
特にピチューのような進化前は「その存在がなければ既存のポケモン(ピカチュウ)はいない」というロジックを組むことで「こんなのポケモンじゃない」と言いたくなる気持ちを封じ込める効果が高そう。
逆に第5,6世代に感じてた異質さはそれがないことだったのかもしれない。

 

ポケモン、特にゲームをやっていて感じることとして、「本当に未知な状況下での冒険」というのがないことに違和感を覚えることがあるのよね。
メタ的に言えば制作者がいるんだから当然ではあるんだけど、"図鑑埋め"という言葉が如実に示すように、僕らが旅するのは常に「既に誰かが体系立てて整理した世界」なんだよね。
博士の図鑑づくりを手伝うという体裁をとってることが多かったと思うんだけど、一度捕まえただけで詳細な解説が出てきてしまうのは、それはそれで魅力ではあるんだけど、その魅力というのは"冒険"が持つそれとは相性が悪い。
他人の図鑑をなぞることはできても、自分で図鑑を書くことはできない。
特に伝説みたいなレアポケモンですらその範疇にあるのはちょっと萎えるところがあるよね。まぁ、よく考えたら"伝説"のポケモンなんだから知名度やエピソード自体はあっておかしくないんだけども。

 

この違和感に対する回答は色々ある。
例えば、作中の図鑑を特別視せずあくまで博士たちの勝手な私見,偏見に過ぎないとした上で、それにとらわれない全く自由な図鑑を自分でつくることは別に不可能ではない、とすること。ゲンガーの正体はピクシーだとかガラガラのお母さんがガルーラだとか、そういう都市伝説も自分がそう"信じる"なら事実として図鑑に起こすことができる。
例えば、博士たちの認識も尊重すべきものと認めた上で、主人公はそれの反証がないという確認、あるいは反証があるのなら発見して図鑑にフィードバックする役割を負っているのだとすること。ポケモンGOでは時々「こんなに大きな/小さな◯◯(ポケモン名)は見たことない」みたいなことを言われることがあって、僕はこのセリフで"図鑑づくりに協力してる実感"というものをポケモンにおいて初めて感じた。ついさっきまで、GOの図鑑の体重や高さの欄には、自分が発見した範囲に限ったデータが表示されてるもんだと何故か勘違いしていた程に。
また、アニメはゲームと違ってつくりながら少しずつ公開されていくものなので、当初の予定と変わることもあるだろうし、そのぶん新しい発見もしやすい。ゴウのスマホロトムの声なんかも、新鮮で面白いよね。
あとはまぁ、パッチールの存在を示すだけでもある程度の効果はあるだろう。
最初に挙げた「自分だけの図鑑」というのは、そこまで極端なものではないが、「思い出」というかたちで誰もがつくっているものだしね。ポケモン研究者の掌の上にないものの筆頭は、やはり僕らが付けるニックネームだろう。
恒例にしていきたいニックネーム紹介も、このアニポケ感想自体も、実はそういう意図の元で書いている。
このブログは"僕の世界"図鑑なのよね。

 

 


やっと作中での本題であるフシギソウ大量発生についての話に辿り着いた。いつも通りのことながら寄り道しすぎな。
うちの近くにも「野良ネコに餌を与えないでください」っていう看板がある。まぁあれは「増え過ぎてフンが迷惑だから」だそうだけれども。
フンもそうだけど死体もそうだよね。
このまえ轢かれたネコの死体を見かけてさ。女子高生2人がいて気まずかったので一旦家に帰ってゴミ袋をとってきたら、路上にいたのが道端に移動されてた。
ネットで調べたところ、世間的には死体を見かけた場合は役所の衛生課に連絡することが推奨されているらしい。そうすると回収しに来てくれるそうな。
接触るのは嫌だからってわざわざ持ってきた袋を使う必要もなくなったので、普通に電話だけして帰ったんだけどね。あの女子高生達が直に移動させたんだろうか。確かにまた轢かれそうで可哀想ではあったけども。
ハトの死体は僕は特に連絡しなかったけど、行きに見かけて帰りにはもうなくなってたし、結構速やかに処理されてるみたいね。
僕もそうだったように、「道端に死体が落ちている」ことが多くの人にとって結構な異常事態だから、すぐさま連絡が行くんだろうな。

「今日もあちらこちらで命は消える はずなのにどこを歩けど落ちてなどいないなぁ 綺麗好きにもほどがあるよホントさ なんて素晴らしい世界だってなんでなんだか」

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今回もうひとつ特筆したい点は、「なりきり」。
ミミクリとも言って、ミミッキュの由来でもある。仮面ライダーだとカブトで「アンチミミック弾」ってのが出てきてたね。
以前「変身ベルトは特殊なおもちゃ」という記事も書いた。
YouTuberであるヒカキンさんがちょうどこの間"成功論"と称して、まぁざっくり言うと「トップの真似をしろ」という話をしていたのよね。僕は正直「それさえしてれば成功する」とまでは全く思わないんだけれど、参考にする分には有益なことではあると思う。

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仮面ライダージオウ』の玩具は種類毎に一通り集めたんだけど、何故かって言うとヒカキンさんが言ってたのと同じで「彼らが普段使っているもの(感じている感覚)を共有することで、彼らについてより深く理解するため」。
人間はそんなに単純じゃないので、同じものを使っていたからと言って突然同じ思想になったりなんてことはしないけれど、仮面ライダーは基本毎回1度は変身するし、となると何十回何百回と触ることになる。演者さんは更に何テイクも多く扱っているだろう。それだけ多くの時間触れていれば、極端ではなくとも影響がない方がきっと稀だろう。
例えば、ブーバ/キキ効果(ブーバとキキという音では、ブーバの方が丸みを帯びた、キキの方が角ばったイメージを抱きやすい)みたいな感じで、丸っこいものを多く触っている人は、ひょっとするとカクカクしたものを多く触っている人よりも、まるい性格になりやすいかもしれない。そんな気、しない?
もうちょっとだけ分かりやすい例を上げると、素読に期待される効果と似たようなものなんじゃないかな。意味の理解はさておいて、とりあえず同じ音を発してみる。御経を読むのとか、「南無阿弥陀仏(なんまいだー)」って唱えるだけで救われるみたいな大乗仏教的な思想も多分そう。
じゃあなりきり玩具で遊ぶことから具体的に得たものを挙げろと言われたら閉口してしまうんだけれど、無意識レベルでは僕もしっかりと影響を受けて、相手を理解するための地盤みたいなものが比較的形成されていると思う。
それこそ前半に話した"心の豊かさ"にも繋がってくる。そういった経験が幾重にも積み重なり折り重なって、僕らの心はできている。

 

自然と人間の関わり方やロケット団についてはこれからまたたくさん語れる機会があるだろうから、その時でいいかな。

 

 

僕のポケット

『ちょうはつ』
ラルトス-キルリア-サーナイト
『まがお』
ニャスパー

単純に、パッと見で「髪長いな」「真顔だな」と思ったので。
弟には「そんなの名前じゃない。酷い、かわいそう」とか言われたんだけれど、付けた僕はそれなりに愛着を持ってるんだよね。確かにポケモン世界であることを踏まえると技名の"挑発"と誤認してしまうことには後から気付いたけど。
キラキラネームを糾弾される側ってこういう気持ちなのかな、などと。
そりゃ本人に「嫌だ」って言われたらちょっと考えるけど、言っちゃえばゲームな訳だからその心配もない。姓名判断師もどんな名前付けようが「いい名前だ」と言ってくれるし(その後すぐ変えるけど)。
言うて種族名も「クサイハナ」とか散々なのおるしな。
でも、くさいことが悪いこととはひとことも言ってないよね。そう思うのは聞く側。この『ちょうはつ』も『まがお』も、僕はそこがチャーミングな特徴だと思ったから名前にしただけで悪意はないし、クサイハナもひょっとするとそうなのかもしれない。……それはないか?

 

第1話「ピカチュウ誕生!」 感想

第2話「サトシとゴウ、ルギアでゴー!」 感想

第3話「フシギソウってフシギだね?」 感想