やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

仮面ライダーゼロワン 第10話「オレは俳優、大和田伸也」 感想

キャラクター

 飛電或人
・悪人について「心無い」だとか「人でなし」だとか言うことがあるが、これはゼロワンにとってキーワードになり得るよな。
これはクウガの記事でも少しした話なんだけど、或人が「ハッキングされたヒューマギアはもはやヒューマギアではないので、ヒューマギアはあくまで夢のマシン」と考えてたかもしれないことについてね。
これを語るためには、じゃあそもそも「人である」とは、「ヒューマギアである」とは何なのかという話をしなければならなくなってくる。
しかし言葉の定義というものは客観的には存在しないので、「或人にヒューマギアと呼ばれるもの」や「広くヒューマギアと呼ばれるもの」や「或人じゃない誰かにヒューマギアと呼ばれるもの」など、たくさん有り得る。
定義をするためにはまず目的が必要で、生体か機械かを見分けるためならばハッキングされてもヒューマギアだろうし、善か悪かを見分けるためならばハッキングされたらヒューマギアではない(逆にヒューマギアである)とすることもできる。"ヒューマギア"という言葉に意味を与えるのは、それを使う我々であって、そこを履き違えてしまうと混乱が起こる。
前述した或人の思考は現実逃避でしかないと思うかもしれないが、そもそもそのヒューマギアか否かという"現実"など存在しないんだよな。どこまでいっても「自分の思う"ヒューマギア"と定義が違う」という話にしかならない。
だから僕は或人のことを、悪いヒューマギアはヒューマギアか否か(本当にヒューマギアはすべて夢のマシンなのか)という点では認識が一致しないかもしれないけど、ハッキングされた個体が悪かどうか(破壊するべきかどうか)という点では一致してるのよね。そこは不破も同じで、ヒューマギアはすべて人間に仇なす存在だといいつつも、ハッキングされてない個体まで破壊するべきではないという点で一致してる。
だから結局2人の意見って実はそもそもそんなに対立してなくて、「悪いことしたら壊す。そして悪いことするのは滅亡迅雷の仕業なので、憎し」というひとつの意見に統合することができる。やってることもほぼ一緒(仮面ライダーに変身して怪人を倒す)だしね。

(参考:悪者とは弱者である『語ろう! クウガ・アギト・龍騎/555・剣・響鬼』高寺成紀編 感想)
・ところで、暴走するヒューマギアは目が赤い(えるしっているか?)ということが強調されていたけど、ゼロワンも基本的には赤い目してるよね。フォームチェンジによって青くなったり黄色くなったりもする。或人の正体がヒューマギアかどうかはさておき、ゼロワンというのは人間よりはヒューマギアに近い存在であるように思える(ゼアに接続)ので、何らかの意味があるのかもしれない。

 

 不破諫
・「刃!?」
そんな呼び方してたのね。意外。僕のイメージでは若干の皮肉を込めて"技術顧問サマ"とか呼んでる感じだった。詳しくは後述するが、これもまた"早とちり"である。

 

 刃唯阿
・チェス男はA.I.M.S.の上司じゃなくてZAIAの人だったのね。彼女の信じるものってのは何なんだろな。今んとこ天津のことが好きなだけというか、エヴァのリツコみたいな奴なのかなくらいにしか見えないので、そんな上等なものじゃなくねと思ってしまったんだけれど。不破を助けたのもそれに従った結果だとするなら、やはりノアの方舟的なあれこれがあるとするのが収まりが良いだろうか。
・玩具の売り方がレーザーと同じなのもあって、なんとなく死にそうね。でも女性ライダーとして売り出してしまったから早々に殺したら騒ぎになりそうだけれど、「女性だから死なせない」というのも逆差別的だ。アクアについて「レジェンドだから死なせてはいけない」というのも同じ。人として生きていれば死ぬことも当然ある。そこに性別とか先輩とかそんなものは関係ない。

 

 滅亡迅雷
・フォースライダーの体に貼ってある縞鋼板、だからなんなんだと迅が登場してからずっと考えてたけど、"滑り止め"と表現すると、"スベる"とかけてあるのかもと思ったり思わなかったり。滅亡迅雷は実際シュールギャグを量産してるし。個人的には或人の笑いの方が好きだけど。
後は、踏まれ足蹴にされることをヒューマギアが奴隷のように使われていることに見立てているとか。
・滅が迅を叱り、迅が暗殺ちゃんを叱る。そして誰か(アーク)が滅を叱っているのだろうし、暗殺ちゃんもいずれ誰かを叱るようになる。超自我ってやつだね。
子供は母親を手に入れようとするが、父親は母親を奪おうとしたら去勢すると脅す。

 

 大和田伸也
・恥ずかしながら大和田伸也さんのことは存じ上げないのだけれど、かろうじてどこかで見たことある気がしていたのは、リーガル・ハイでゲスト出演なさっていたからだった。日照権を主張する市民派(というよりは反企業派)の弁護士役。面白いのでぜひ。

(参考:リーガル・ハイ 第4話「太陽を返せ! マンション裁判仁義なき戦い」 感想)
・「最高です!」
いわゆる手のひらクルクルな人かと思ったけど、なるほど、これはそれこそ"演技"だったのね。関係イベントで愚痴をこぼすほど子供じゃないと。……まぁ僕が"あの件"で気に食わないのは、否定的なことを言ったことそのものよりその否定の仕方が意味分からんことだけども。しょせんは又聞きなのでなんの話とは言いませんがね。
・「エンジを否定したのは"ヒューマギアである"という先入観によるものだ」というのは、僕は少し違うと思う。何故ならエンジは実際にアドリブに対応できなかったりと演者としての人間らしさに欠けているからだ。どちらかといえば、その人間らしさのなさに理由を求めた結果、後から「ヒューマギアだから」という説明をつけたかたち……だから"先"じゃないんだよね。人間でもアドリブできない人はいるし、そしたら今度は「最近の若者だから」とか理由付けられるのだろう。
イメージ的には、白倉さんが言ってた「鬼退治という偉業から、遡って桃から生まれたという出生の特殊性が付加される」みたいな話。
ところで先入観といえば変身音の英語。令和仮面ライダーゼロワン 制作発表記者会見 感想では「英語にしたらなんとなくかっこいいだろうとかその程度」だと決め付けていたんだけれど、そうじゃなかった。言葉(正確にはそれを扱う心)には距離感というものがある。
例えば"さっき"と"先程"では、どちらがより現在に近い感じを受けるかと考えると、きっと"さっき"の方が比較的近く感じることであろう。人は馴染みのない言葉に対して"遠い"イメージを抱く。これは敬語という概念とも仲がよく、要するにあれは、馴染みのない言葉を使うことで相手と心理的距離を置き、「あなたは私とは(上下に)遠い存在である」ということを表現しているのだ。初対面の人に敬語を使うのも、「私は馴れ馴れしくあなたのパーソナルスペースを侵害しないので安心してください」という意思表示である。
そして他言語(日本のような島国以外では言語は国単位で分かれていないので"外国語"は不適切)というのは極端に距離がある。その心の距離を"ロボット"に対する心の距離と重ねているのだろう。そして英語への憧れというのは、簡単に言えば"未知への関心"である。
タイトルのこそあど言葉もそうだが、ゼロワンにおいて"距離"というのはキーワードらしい。

 

 福添准
・エグゼクティブプロデューサーらしい。もしがっつり制作に携わっているとするなら、彼のパーソナリティを推察する上で『ギリィ』の設定などは参考になるかもと思ったが、これまでの描かれ方を見るにただ「ドラマを作ろう」と言い出しただけのようにしか見えないんだよな。もったいない。まぁ僕がこのチョイ役に対してそこまで頭のリソース割くのが面倒になったのも大いにあるけど。

 

設定

・「マンモスは絶滅種なのにプログライズキーになるのはおかしい(なんで?)」と言う人がいる。
が、これはズレている。
「ディケイドアーマーは中間パワーアップフォームになるはずなのに龍騎フォームはサバイブなんて」というのと同じだ。ゼツメライズキーという名前で絶滅種の力を宿したキーがこれまで出ていたのは確かであるし、プログライズキーにこれまで絶滅種がなかったのも事実であるが、「絶滅種はプログライズキーになれない」とは一度も明言されていないし、例えされていたとしてもその発言者が勘違いをしてるとか嘘をついていないという保証もない。「ディケイドアーマーが中間フォームになる」も「絶滅種はプログライズキーにならない」も、更に言えば「アナザーライダーが生まれれば元いたライダーは必ず消える」や「2019表記のアナザーライダーならば必ず消えない」なども、見ている我々が勝手に早とちりしただけなのに、それを相手側(制作陣)のミスであるかのように決め付けて「設定ガバガバ」などと批難するのはよくない。
それまで仮面ライダーと呼ばれるのは本郷猛のみであったことを根拠に、「一文字隼人は本郷猛じゃないのに仮面ライダーと呼ばれるなんて(仮面ライダーの定義)ガバガバ」なんて言うのはナンセンスだろう。これらは視点の問題でしかない。
エグゼイド当時の僕に言って聞かせてやりたいが、まぁそういう馬鹿も多少はいていいだろう。

 

 

以前、創作物のキャラクターとAIはレイヤーとして似ているという話を少ししたが、それを自覚的に扱ってきたね。「AIに心などない」としてしまうことは、「フィクションのキャラクターに心などない」とすることに似ている。それを役者である大和田伸也(作中キャラ)という装置を使うことで表現し、しかも「こんな話をつくるのだから、きっと『ゼロワン』というこの作品自体も人と人とのぶつかり合いで生まれてきた"ホンモノ"なのだろう」と錯覚させられた。
面白いな。

(参考:"純粋"と呼ばれる子供はサンタや仮面ライダーの実在を信じているのか? )

 

前話

仮面ライダーゼロワン 第9話「ソノ生命、預かります」 感想

次話

仮面ライダーゼロワン 第11話「カメラを止めるな、アイツを止めろ!」 感想

 

参考

86ma.hatenablog.com