やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

仮面ライダーディケイド暫定的まとめ

ディケイドに関するツイートやメモのまとめです。きちんとした記事を書くまでは時間がかかると思われるので置いときます。

 

 

クロスオーバーってそんな大袈裟に言うもんじゃなくて、要するに結局のところは"他者との関わり方"の話なんだよな。
世界観の違いは、宗教観の違いに見立てると分かりやすくなる。

例えばうちの両親は極端な因果論者で、「何か都合の悪いことが起こったのなら、必ず自分に原因(ミス)がある。でなければ都合が悪くなるはずがない」という世界観の持ち主だった。
人が風邪をひいたり熱を出したりすれば、「何か日頃の行いに過ちがあったのだ」と責める。仮に何も思い当たるフシがなければ、"前世での過ち"を原因とした。
まぁ、例えば手洗いうがいが不十分だったとか、そういうことを言うのであれば僕の世界でも通用する理屈なのだが、「つまみ食いをしたから」だとか「隠しごとをしたから」だとか言われるとよく分からん。
それらは確かによくないことだが、"悪い結果"から逆算して"悪行"という原因を妄想されると困る。

 

"世界"というのは、写真館のロールと同じで"背景"に過ぎない。ただ、背景とはルーツを示す言葉でもある。要するに「何故?」の答え。
自分の世界を否定されることは自分のルーツ(≒親)を否定されることと同じ。そしてルーツを否定されることは、自然と自分を否定されることにもなり得る。

あー! そういうことか! 超・電王の謎が解けた。

いや言うこと自体はさっき言ったのと同じなんだけど、世界の破壊者というのはだからそっくりそのまま背景の破壊者であって、そこに映る"キャラクター"からそれを切り離す役目があるのか。だから変身者も変わる。電王は「カイの未来という"ルーツ"が消えてもいるもんはいる」なので、謂わば既に自壊している。

ディケイドとディエンドについても解けそうでなかなか解けないんだよな。鳴滝が言ってたDecade(シリーズ10周年)とThe END(作品毎の完結性)が相容れないというところまでは分かるけど、"ディエンドが通りすがる"とは何なのかよく分からん。彼は通りすがりではあっても破壊者とは呼ばれなかった。

少なくとも劇中の描写を見る限りにおいては、「ディエンドが通りすがる=作品が完結する」ではないんだよな。まぁそれで言ったら「ディケイドが通りすがる=作品が繋がる」でもないか。あいつは通りすがらなくても存在するだけで繋げてしまう訳だから、旅行者と破壊者は別の役割か。


ただ、これは言っていいのか分からないけれど、"この世界"を背景に据えてしまえば、平成ライダーはもちろん全作品が成立するんだけどな。そうは問屋が卸してくれない。何故か。

FOREVERの話とも繋げよう。ルーツがないと基本的には存在を承認されないが、ルーツがあっても「自分はつくりもの(他に規定され依存する存在)なのか?」という意味で問題が出てくる。

こうなってしまうともうこれを突破できるのはトートロジーしかあり得ない。

その間を取った、"由緒正しきはみだしもの"こそが仮面ライダー
いや、意味分からんけど

クロスオーバーすることで設定に矛盾が生まれるというのは恥じることじゃない。他者のために自分を変えられる(天の道)のは美徳なんだと。一人でお堅くまとまるより、一緒にやろうぜって。そういう話ですよね、人間関係って。

とか言ってる僕は何かと閉じこもりがちですが。
「あなたに話しかけている訳ではありません。独り言です」って、何だよって話よな。言われてる側からすると。

「お前(矛盾するシーン)がいるからいけないんだ」と弾き出そうとする行為は閉鎖的で、ディスコミュニケーション。そこで「どうやら自分の設定(世界認識)は間違ってたらしい」と言えたら強い。

前にも言ったけど、現実を前にして「理論的におかしい」と言い続けるのは不毛極まりない。まぁ、そこでそいつを抹消しようとするのは行動的ではあるが。

 

ディケイドについて僕はかなり初期から"クウガの救済"だなんて決め付けていたけど、見終わってみてもそんな感じだった。あの世界で彼は自由に旅をして、ディケイドが片付けるから戦わなくても強くなくてもよくて、"いいこと"しないこともできるし、暴走だってできてしまう。すごく肩の力が抜けてた。

何より見てる僕が、「お前も頑張れ」という息苦しい圧力を感じなくて済んだ。


背景の破壊は、究極的にはディケイドから入った視聴者への配慮でもある。ルーツやエピソードを辿らなくてもいい、ただ存在するだけの存在として"仮面ライダー"を定着させる。そうすることで、より多くの人の記憶にライダーは生き続ける。「知らない人」から「(だいたい)知ってる人」になる。

 

「ヒーローのカタログ化が許せなかった」
1巻のつもりで手に取ったのが3巻だった

背景を壊してどこから見ても良くする
どっからでも(RE)PLAYしていいよ
それこそサザエさん
海東は秩序への不信感から泥棒をやっているが、別にそんなものなくても彼は泥棒として成立する(22話以前)
過去を持たない存在としての士

 

なんだけど、士は旅で仲間を得て、曲がりなりにも積み重ねてしまった。
だから滅びの現象?

 

背景を気にしない(いわゆる伏線放置にも近い)傾向は、特にカブトから
"背景"である脚本家の交代を問題にしないのと同じ、という意味では剣(ブレイド)から? 続く響鬼も背景がガラッと変わるが、"キャラクター"を守ることは最優先事項だった。
カブトでは天道が弱さを隠すために演じていた強さを本物に変えた。ワームの擬態も本人として受け入れられた。
桃太郎は桃から生まれた。では桃はどこからきた?
浦島太郎も、釣り人なのか漁師なのか知らんがそこそこの年数積み重ねてきた背景があったはずだが、龍宮城エピソードの濃さにやられて描かれているところを全く見ないし、終いには帰る故郷を失っている。
"作者"が分からないというのもキーポイント
キバは主に"背景"である過去にもドラマを与え同時進行させた稀有な存在。渡の権威は音也に求められるかもしれないが、じゃあ音也の権威はどこから? という点(ただしトートロジー)を描いた

 

写真はどこから撮っても真実しか映さない、どこからどこまでを切り取っても真実(存在)である

SNSのアイコン カメンライド 由来を知らずとも定着する
やんまヘボ
「ジョーカーってディケイドっぽい」
「トランプってアンデッドっぽい」
本歌取り


声優や役者の魅力は比較的背景に依らない存在論的なもの


ネガの世界では人を守るためにライダーを破壊

ディケイドは自分のルーツたる平成ライダーを倒さなければならない
あと実は10周年ではないのでそのルーツ(10周年"だから"ディケイド)はない


マニアックなキャラとそうでないキャラを図鑑として並列に並べるために背景の破壊が必要

 

前作

綺麗な物語から汚い現実へ『仮面ライダーキバ』 本編感想

仮面ライダーゼロワン 第7話「ワタシは熱血ヒューマギア先生!」 感想

キャラクター

 飛電或人
・「熱血教師なの!?」
1話でも「人工知能に人間のお笑いは理解できないでしょ」とか言ってたけど、彼はヒューマギアに肯定的な立場を取っているはずなのに、たまに視聴者の目線に立った言動をするよね。僕は別に矛盾しているとまでは思わないけど。彼はふんわりと「ヒューマギアは夢のマシン」と思ってるだけで、具体的に「(現時点で)笑いを理解できる」「熱血漢になれる」という信念を抱いてた訳ではないので、一旦驚いて、その後に事実として受け入れるというのはそれほど変な話ではない。単に「そこまでだとは思ってなかった」で済む。
ただ、別にわざわざ或人に言わせなくてもいくらでも描きようはあるのにどうしてかなぁとは思う。まぁ多分視聴者が或人に感情移入しやすくするためなんだろうけど、そのせいで余計なノイズを感じてる人がそこそこいるのも事実だから、難しいとこだよな。そんな危ない橋を渡らないと感情移入してもらえないのかよってのもあるし。
・前回と違って、代わりの練習場所を手配するという、しっかり問題を取り除くかたちでヒューマギアのサポートをしているのは印象良かった。或人が問題視してない問題(受験をどうするのか)が棚上げなのは変わってないけど、少しでも建設的なことしてる様子があるだけで見え方が違う。
・ヒューマギアの自我についての回想にトリロバイトマギアにしかなっていないニギローやアンナが映っていたことには2パターンの説明がある。まずひとつはトリロバイトマギアになっていたモブヒューマギア達も実は画面外で自我に目覚めていた可能性。もうひとつは、前後の描写からあくまで"或人にとって自我がある気がする"というだけで、事実とは関係ない(また、この或人の視点は劇中でピックアップされているという点で視聴者のそれとも近い)。
・「大丈夫! 分かってる」
自我に目覚めたことで人権を得るかもしれないヒューマギアを壊すことに罪悪感は? という問いの答えは、結局「その自我を消して壊すしかない状態にした滅亡迅雷許せねぇ」に落ち着くらしい。それできっとまた「その滅亡迅雷を操っていた悪い人間(チェス男?)許せねぇ」にスライドするんだろうな。
今回はその人間が何故そういったことをするのか、更に何故……というところにまで踏み込んでくれるんだろうか。

 

 不破諫
・ヒューマギアが自我を持つことにも反対らしい。彼は多分、よく分からないものが嫌いで(怖くて)、その上でよく分かろうとしない奴なんだろうな。
以前のエッセイで書いたところの、"怠慢"な人間だ。僕は嫌いだね。

(参考:「男性VS女性」の構図が表すもの/平山亮さんのインタビューを読んだ感想)

 

 滅亡迅雷.net
・暗殺ちゃんのあのふざけた態度はなんなんだ? 子供っぽさとして捉えるならば、迅と同じく滅がつくったヒューマギアだから……なのかもしれないけど、シュールギャグを通り越してちょっと苛ついたぞ。まぁ当の滅さんも「お前は俺の息子だ」とか言い出したのが正直ギャグにしか見えなかった(だって後の説明なしじゃ回答になってないもん)ので僕の中ではもう滅亡迅雷.netはそういう集団として定着しつつあるんだが、果たしてそれでいいのか?
強いてプラスに見るなら、僕は過去に「或人に正体なんてもんがあるとしたらきっと"AIがつくったAI"だろう」という話をしたが、それを前提として迅が或人と同じ立場であり、即ち滅もヒューマギアなのだということにするなら、ズレた言動によるおかしみというのはゼロワンを通して一貫していることになる。迅と或人が同じってのは、なんとなーく永夢とパラドに似たものを感じるからってくらいしか根拠がないんだけどもね。ちゃん付けとか。
・自由がゼロワンのテーマだとするなら、僕が当初予想していたベルト替えじゃなくて、ベルトじゃない変身アイテムに鞍替えするパターンも有り得るのかな。
そもそもベルトを替えるんじゃないかって思った根拠としては、まずゼロワンドライバーの拡張性が低いこと。ビルドドライバーで言うところのハザードトリガーを挿す部分はかろうじてあるものの、それで変わるのは一度だけ。ゲーマドライバー以降、外付けアイテムとの連動で待機音の変化やベルト自体のパッと見の印象が大きく変わることが2,3度あるが、ゼロワンドライバーはキー装填部分の位置からして、正面からの見栄えを変えることが難しく見える。
オープン価格ではないというのも重要な要素で、これは"売れ残り"を気にしていないということの傍証になる。序盤からベルトを3つ(4つ)も出していることからも、更なるベルトの登場を予想することは自然だろう。
でもベルトを変身アイテムではなく本来の"帯"として見るなら、迅の変身シーンから受ける印象の通り、仮面ライダーの不自由さ(ショッカーに由来する部分)を象徴しているものと言える。
自由をテーマと標榜するなら、それも自然なことに思える。
…………というよりも、僕は前からそうして欲しかったんだよね。だからそうなって欲しい、という側面の方が強い。
だってさ、変身ベルトってやたら高いじゃん。戦隊の玩具はVSチェンジャーもリュウソウケンもあれだけ個別認識して5000円超えないのに、ゼロワンドライバーは個別認識しないのに7000円もする。対象年齢が変わってしまうが、コスパだけで言うならヘボットなんかもう別次元よ。
この間プレバンで予約開始したゼツメライザーも、「ゼツメライズ」「ノヴァ」の2音しか鳴らないのに、キー2本3000円としても5000円近くする。
サウンドプログライズキーが500円で8音も鳴ることからしても、音声収録数と値段はさほど関連がないことが伺える。
じゃあ何故こんなにも高いかと考えたら、きっとあのベルトが原因だよね。要するに材料費。
僕は変身ベルトが"ベルトであること"に価値を感じたことはほとんどないので、変えていいものならさっさと変えて、もっと安価にして欲しい。

 

 佐藤
・受験に専念させたい親と、部活に打ち込みたい子供。これはかなり典型的な意味での親子対決で、滅のように「子供は親の言うことを聞いていればいい」とまで言い出すとショッカー的になってくる。
仮に親(ショッカー)が自分の果たせなかった夢を擬似的に叶えるため(世界征服をするため)に子供を生んだのだとしたら、その子供(仮面ライダー)は自分の"生まれた目的"に従うべきなのか……という問い。
こうして書いてるとやっぱり思うけど、タイムレンジャーの竜也って心底仮面ライダー気質だよなぁ。あれを見てたんだとしたら小林さんを仮面ライダーに起用したくなるのも頷ける。
ところで、「子供が欲しい」と言う人はいても、その先の「大人が欲しい」と言う人は見たことがないな。一人じゃ何もできないかわいい生き物じゃなく、その先にいる自立した一人の個人を求めて子を生む人。ひょっとすると親というのは、子供(続柄)が子供(年齢)のままでいてくれることを願ってしまうものなのかもしれない。
・僕は教師の働き方改革(?)とやらの影響を感じたことのある世代で、実際に顧問の先生が出られないからと部活の量が減ったのよね。先生自身あんまり納得いってないようなことを言っていた記憶がある。
同じようなことは福祉の場でもある。最近僕は地域活動支援センターという場所に通っていて、まぁざっくりと障害(精神,身体,発達問わず)を持つ人のための施設なんだけれども、そこのスタッフさん達は学校の先生同様、休憩らしい休憩をとってないのよね。一応お昼時が休憩時間ということにはなってるらしいんだけど、とても「労働から開放されている」とは言い難い状況になっている。利用者はそんなこと気にも止めずに相談を持ちかけたりすることも多くて、スタッフさん達もそれに納得してるらしいんだけど、僕はモヤモヤするのでその時間帯は自主的に距離を置くことにしている。我ながら相手の意思を無視した独善的な判断だとは思うけれども、過労で倒れられたりでもしたら嫌な気分になるからさ。僕一人が自重したからってスタッフさんの負担が減る訳ではそんなにないので、自己満足にすら及んでないんだけども、そうしたいんだから仕方ない。
相手の「大丈夫」を信頼するのか、大事をとって無理やり休ませるのか……会社的には倒れられたら監督不行届きってことになりそうだからなるべく休ませたいよね。疲労度や体力などを客観的に数値化できたらまた違うんだろうけど、現状は人の苦しみを感じることはできない。少なくともそういった技術が普及するには至っていない。
信頼と表現すると無条件に美しいだとか素晴らしいだとかそんな気がするけれど、悪く言えば責任の押し付けでしかないんだよな。大丈夫だと言っていたのに過労で倒れた人は、「信頼を裏切った嘘つき」ということになってしまう。
自己犠牲は果たして美徳なのかどうか、そもそもどこからが犠牲なのか、他人の自己犠牲は許せなくても自分の自己犠牲はどうなのか……どこまで周りを頼り甘えても良いのか。
人間関係って難しい。思いを共有する媒介として、言葉は頼りなさ過ぎる。

 

 坂本コービー
・以前も書いたが、シンギュラリティと自我の有無は直接は関係ない。と思う。そもそも自我とは何かという話になると僕も閉口するしかないのだが。
ここで仮に「自我があるとは、指示と違うことをし得ることである」として、漫画回におけるイズの独断専行を考えてみる。あれは確かに利用規約や福添たちの指示には逆らっているが、先代の理想や或人の判断(出荷の延期)には沿っている。先代社長は確かに「情熱を所有しない者にはヒューマギアを売るな」とまでは言っていないが、同時に「必ずしも自分の指示に従わなくても良い」とも言っているので、かなり絶妙なライン上にあると言える。
また、他のヒューマギアにも同じことを言っていないとも言い切れないということを加味すると、ヒューマギアの自我の有無を「所有者の指示通りの行動をしたかどうか」で判定することはかなり難しそうだ。
実際に考えてみても、指示通りに動くだけならば人工"知能"である必要がない。それは従来の"機械"だ。
ならば、人工知能とは「目的は所有者と共有し、手段において所有者と異なる可能性を持つ者」?
その上で、「所有者と異なる目的を持つ」ことが"自我の目覚め"だろうか?
一応現時点では「滅によればシンギュラリティに達した(迅によれば自我に目覚めた)ヒューマギアがマギアにされている」らしいのだが、僕はエグゼイドで一度痛い目を見ているのでこれを信用しない。あくまで"彼らはそう思ってる"というだけで、(ヒューマギアかもしれない)滅の言うシンギュラリティが僕の思っている技術的特異点とイコールであるとも限らないし、ヒューマギアである迅の言う自我も同様。
どんなに嫌でも作品を通したコミュニケーションは一方的にしかならない。僕はキャラクターとも制作陣とも話す術を持っていない。だったら僕も一方的に、好きなように解釈するよりほかない。

 


設定

・フォースライザー使用時のトリちゃんは一体どこから来てるんだろうね。ゼロワン使用時にゼアから降ってくるのと違うのは、ピンクに光ってないくらいに見えるけども。わざわざ衛星から呼ばなくてもキーそのものから出てこれるんだとしたら、天井や壁を破壊する必要が多少なくなるんだけれども、どういう意図なんだろね。
物理的にじゃなく心象的には、例えば外部にある力を受け入れるゼロワンと違って、ファルコンに対する内的イメージの力を使っている……とか。ライダーファンに分かりやすい例を出すと、「剣はタイタンフォームでだけ使う」のが内的なクウガで、「その他のフォームでも剣を使う(かもしれない)」のが外的なクウガ。小説ディケイドでは、そもそもタイタンソードとは書かれてないし、タイタンソードだとしても、クウガはキバと違って武器とフォームチェンジの間に必然的な繋がりはなくて、武器を用意してるのはあくまでクウガ全般に備わっている物質変化能力によるものなので、マイティフォームのまま棒を剣に変えて使うことはできるはず。バランスの取れたフォームなんだから剣もそれなりに扱えて然るべきだしね。
そんな感じで、未知の可能性を勝手な先入観(内的イメージ)で切り捨てる閉鎖的な現状維持の姿勢は、芽生えた自我をリセットする滅亡迅雷の理念に通ずるものがある。
……対して飛電が開かれているかと言われると微妙なとこだが、情報を公開する姿勢とか、ハッキングに対するガバさとか、そういう部分もあるにはあるんじゃないかな。
ホッキョクグマは確かに寒いところにいるけど別に寒さを操ってる訳では全然なくて、実際に持ってるのはむしろ体を温める能力のはず。それなのに氷を操るフォームに使われるの、面白いよなぁ。
また、速さが売りのチーターと比べて火力が倍なんだから、ホーネットは上位互換というよりは並列使い分けじゃない?
ウルフは特徴ないけどサ。実は狙撃がうまいとかあるのかね。そんなテクニシャンなイメージ、変身者のせいかないけど。

 

 

僕は今のところゼロワンには主にギャグを期待してるんだけど、あんまりそこを押し出してこないので(当たり前か)、常に「まぁまぁ」くらいのところにいるんだよな。つまらないとは思わないけど、もうちょっとなんとかならないものか。来週が楽しみとか思うほどではないんだよな。

 

前話

仮面ライダーゼロワン 第6話「アナタの声が聞きたい」 感想

次話

仮面ライダーゼロワン 第8話「ココからが滅びの始まり」 感想

仮面ライダーゼロワン 第6話「アナタの声が聞きたい」 感想

キャラクター

 飛電或人
・「俺のプログライズキー!」
良いかどうかは別として、犠牲になった幾人かのよく知らんヒューマギアよりも、"自分"という線の内側にある(言い換えれば所有物である)プログライズキーを優先するのは、或人の人間性としてはこれまで描かれてきた通りだし破綻はしていない。
所有物が"自分"の内側にあるという表現にピンとこない人はエヴァの最終回をチェック。
・「結果が出れば、多澤さんも罰を受けるはずだ。ヒューマギアのことは俺が責任を取るから」
情に流されて甘い判断をするのはとりあえずいいとして、多澤さんにとってオーディションの結果が出ることは嬉しいこと……なのか? いや、実際喜んじゃいるけど、なんで喜んでんだ? 声優としての技能に関してはすみれさんとは似ても似つかないので、別に彼女が認められたことにはならないと思うんだけど、顔が似てればいいのか、それで。すみれとは別モノだけど、セイネはセイネで愛しい存在だから成功は嬉しいというなら分かるし、逆に離れるまでの間少しでも長く一緒に過ごしてもらう為の方便という解釈もできるけど。
・「親が子供を守るのは当たり前のことだろ。子供を守るためなら死んでも構わない。そう思うのが親なんだよ!」
もちろん親に感謝してるが故のことだと理解できないこともないけれど、子供の立場で言うことではあんまりないよね。それも「死んでも構わない」とまで。多澤さんが愛情溢れる親というよりは子離れできないだけの親に見えるのも手伝って、ちょっと今回は或人に感じるズレが大きいね。
・僕は放送前に「仕事に私情を持ち込むこと(に罰がないこと)が不愉快だ」という話をしたが、どうやら或人に対してはその種の気持ちが湧かない。「なんでかは知らんが、罰がないなら上司(或人の場合は飛電のトップだが例えばスポンサーである政府など)に許されてるんだろう」という風に考えてるのかな。(参考:令和仮面ライダーゼロワン 制作発表記者会見 感想)


 不破諫
・「何よりこれは生命の尊厳を冒涜する行為に当たるんだぞ」
エグゼイドの感想を書いていた頃の僕ならば、不破のアイデンティティはこれまでの情報ではデイブレイクに端を発するヒューマギアへの憎悪だけであって、倫理観については触れられていないので唐突だなんだと言いそうだな。特にそういった否定の仕方は大我に対してしてた気がする。
今の僕もそう思わないことはないが、それに加えて「全てに前振りが必要なら前振りの前振りも必要になってしまい無限後退に陥る」とも思うので、「これまでそのような情報はなかったが、いま分かった。これが後の前振りである可能性もある」と納得できる。
ただ、人間に尊厳なんか本当にあるのかね。いや、まぁ人があると思えばその人にとってはあることになるんだけれど。今の僕は人間とヒューマギアの間に決定的な違いというのを見出だせていないので、この立場にはあまり賛成しない。
何故"生命の尊厳を冒涜する行為に当たる"のかを一応きちんと説明しておくと、人間とヒューマギアを同一視することでそれらは価値的に横並びになり、まぁ要するに人間の価値が低俗なヒューマギアと同レベルになってしまう、みたいな話だと思われる。
逆に或人の立場は、(一部の)ヒューマギアは人間と同レベルに尊い存在である、ということになる。
この辺の話はカブトのワームや、ディケイドに顕著な仮面ライダーの変身者変更、更には悪者に"仮面ライダー"を名乗らせることの是非なんかにとても近かったりする。
剣がワームレベルの存在なのではなく、スコルピオワームが(ある人々にとって)剣レベルの存在である。片方に対する嫌悪感さえなければ、「どっちも尊いもの」で意外と平穏に片付く問題なのだ。
同じように或人が助けるヒューマギアを取捨選択するのも、天道が「アメンボから人間まで生きとし生けるものすべてを守る」とか言いつつ人を襲うだけのワームは平気で殺してきた(僕は実はあんまりここに納得いってないけど)ことと被ったりする。
だから或人のしていることが許されるという訳ではないが、天道を許すならば決定的差異を示さない限り或人も許さなければ一貫性は保たれない。一貫性を保つ必要があると感じるかはその人次第だけど。
・「誰がどう見たっておんなじ顔だろ」
悪いな……僕は髪の毛が違ったら別人に見えてしまう病気なんだ。病気というのは比喩だが、このブログの横の方(スマホならば一番下の方)にあるプロフィールに追記したように僕は発達障害者で、ASDによくある症状としていわゆる相貌失認がある訳ではどうやらないんだけど、おそらく限定的興味のいち形態で、注目している部分が限定的(僕の場合髪の毛)な為に起こっていることかもしれない。
ある程度見慣れていれば注視することで分かるようになるけれど。
プロフに書いたのは、申請していた障害者手帳(精神障害者保健福祉手帳)の審査に受かったから。2級だそうです。

 

 刃唯阿
・「すべて破壊する」
言い回しから察するに、迅のこともヒューマギアだと認識している様子。トリロバイトマギアもこの時点では見当たらないし。つまり何らかの方法で滅のセリフを聞いていたことになる。どうやって見ていたんだろう? ヒューマギアに A.I.M.S. が違反を認知できるような何かが既に組み込まれているんだとしたら、ニギローの時の描写がちょっと分かりにくくなるし、単に通報を受け、該当場所の監視カメラか何かにすぐアクセスできるとかそんなところだろうか?
"すべて"の三文字がなくても、むしろないほうがより自然に成立する場面であるだけに、きちんとした理屈が背景にあると信じたいが、どうなんだろうね。
・「あなたたちがすぐに廃棄すれば、こんなことにはならなかった!」
それはどうだろうね。別に実在する人間を模してなくてもシンギュラリティには達するし、違反ヒューマギアがマギア化したのはいわゆる結果論というもの。そもそもマギア化にシンギュラリティが必要らしいということから認識しているかどうかも怪しいし、偉そうにしてる割には短絡的過ぎる発言だなぁ。好きじゃない。

 

 滅亡迅雷 .net
・どうやら滅は迅の自我とやらをリセットしたらしい。今回の変身はそちらの意味の方が強いように見えた。とすると、マギアの方もそうだったりするのだろうか? トリロバイトには誰でもなれるように、シンギュラリティに達した個体を選ぶのは必要にかられてというよりはそうしたいから?
それか、やっぱりライズキーを使う為にはシンギュラリティに達したという事実が必要で、迅はただ想定より早くて戸惑っただけというだけなのか。
"親離れを許さない親"というのは仮面ライダーの敵としてはすごく真っ当な印象。迅が親離れすることはあるのだろうか。

 

 多澤青次
・僕は記憶にある年には既に"お父さん/お母さん"だったので分からないんだけれど、あの年になってなおパパ呼びしてる娘ってちょっと珍しいように思えた。もし本当はそう呼んでなかったけど、願望の表れとしてそう呼ばせてるんだとしたら、気持ち悪いね。基本的には親子愛の話のはずなのできっとそんなことはないだろうけど……。

 

設定

・「人工知能特別法第六条:本人に無許可で酷似した容姿の人工知能搭載人型ロボットを作成及び使用してはならない」
まずひとつ、おまかせやカスタムの結果として偶然似るのはアリなのかナシなのか。
これは今ある法で言うところの著作権とある程度似た議論になると思われる。即ち"依拠性"の有無が要点となる。依拠性とは読んで字の如く、よりどころとされているか否かということで、これがない場合は問題になりにくい。少なくとも僕は人間同士のそっくりさんと同じ扱いでよくて、偶然似ていることで互いの名誉を傷付けるような結果になってしまったとしても、それは過失としてすら責められるべきものではないと思う。分かりやすい例を挙げるならば、『ONE PIECE』に出てくるデュバルに対してサンジは罰を受けるべきか、というような話。サンジ自身の海賊行為そのものはまた別の問題として解決すべきではあろうが、デュバルへの被害に限っては、あくまでサンジだと勘違いした海軍や賞金稼ぎ、その他の人々の過失であって、サンジの責任ではない。
また(一部を除き)著作権侵害親告罪であり、法的な制裁を加える為には著作権者が自らの意思で告訴するプロセスが必要になる。このような仕組みも、実害の発生していないそっくりさんに対する無意味な規制を抑止することができる。
故人はそのような判断ができないとしてそういったケースは非親告罪として設定しておくことは理解できるし、そうだとすれば今回のA.I.M.S. の動きは説明がつく。
とはいえ本当の話をすれば、僕らに納得のいくかたちで説明がつく必要というのは、メタ的な視点で「作品世界に没入してもらう為」というのを除けば、なかったりする。
現実世界の現行制度に、幾らかの不満がある人もいるだろう。最近だと消費税が8%から10%への変化とか。それと同じで、法をはじめとするシステムもある目的に対する手段でしかない。それも人がつくり選ぶものなので必ずしも最も理に適っているとは限らない。その世界にいる人々がより適した手段を思い付いたり目的を変えたりすることによって変化するものであって、決して完成された絶対的存在ではないので、微塵もおかしいと感じないことの方がよっぽど不自然なのだ。
ここでは今の僕にとって妥当と思われる制度(人工知能特別法第六条)のあり方を書いたが、必ずしも劇中世界で僕と同じレベルまで洗練されていなくてもいいし、逆により洗練されてまた別の解を導き出していてもいい。僕やその他の人が気に入るかは別として、矛盾だとかおかしいだとかそういった類のものではないことは書いておきたい。
「声が同じなのはいいんかい」ってのもそのうちのひとつ。
・そもそも、これらの倫理的摩擦を生み出してまでヒューマギアを人型にする意味はあるのか? という論点もある。
とりあえずヒューマギアが人型であるメリットを挙げるならば、人間の社会に溶け込めることと、ある程度の応用が効くことだよね。
絵を描くだけなら腕だけ、声(音)を出すだけなら喉と口だけ、デジタルでいいなら実体すら必要ないかもしれないけど、それだとジーペンのように買い出しには行けない。
買い出しに限れば実体のないお絵かき特化プログラムでもネット通販を利用する程度の応用はきくかもしれないが、重いものを2人で持ちたい時などには明らか役に立たない。
普及可能なレベルまでローコストで実現できるならメリットは十分ある。
そう、「人型である必要があるの?」という疑問は「人型でさえなければもっとコスパがいいかも」という思考を経ていて、例えば10円でヒューマギアが変えるなら"必要性"なんて厳密に気にせず少々無駄があろうと買うでしょ。10円は極端でも、ローコストでさえあればそんなものは気にならない。
以上はヒューマギアをあくまでも買う側の視点での話で、つくる側ならば身も蓋もなくなるが、「実現する金と技術があって人型にしたかったから」で済んでしまう。
必要性で説明できないものもある。僕はジオウ補完計画における葛城巧の、「世界は科学で割り切れない」という言葉が好きなんだけど、そういうこと。まぁ「じゃあ何故人型にしたいのか」などと掘り下げていけば蓋然性は上げられるかもしれないが、それでも不確定性原理を信じてラプラスの悪魔の存在を否定するならば、やはりある程度の振り幅は生まれることになる。
・オニコゼツメライズキーが再登場。マギアは毎回丁寧にキーを破壊して変身しているので、新たに作り直されたか修理されたことになる。滅自身にゼツメライズキーをつくる技術がなく、スコーピオンプログライズキーや迅以外のヒューマギア(おそらくアークも)と同様に他者がつくったものを盗用しているのだとすれば、彼は"データ収集"を終えたものだけつくり直すことができるのかな? まぁそもそも特に制限なくつくれますよってんならそれはそれでもいいけども。
逆にプログライズキーも制限なくつくれるのであれば、迅に奪われたファルコンキーもつくり直してゼロワンが使うことが(メタ的な違和感を除けば)可能ということになる。
まぁ、わざわざ「飛行能力がないが故に取り逃しました」ってシチュエーションさえつくらなければ(或いは2つとつくれない理由を視聴者が知るか、想像すれば)ナメプ呼ばわりされることはないだろうけど。

 

 

家族の愛情を自明のこととして扱うことは、そろそろやめた方がいいと思うんだよな。家庭のあり方ももっと多様でいい。

 

前話

仮面ライダーゼロワン 第5話「カレの情熱まんが道」 感想

次話

仮面ライダーゼロワン 第7話「ワタシは熱血ヒューマギア先生!」 感想

仮面ライダーゼロワン 第5話「カレの情熱まんが道」 感想

キャラクター

 飛電或人
・「変な顔になっちゃった……」
"倫理"を重視するならば、無視しては通れないセリフ。ルッキズムなんて風に言うとまた大仰な話になってきて僕も文脈を把握できていないのでやめておくけど(といいつつ消しはしない)、まぁ要するに容姿に対する美醜感覚をどう扱うかという話。
福笑いなんて文化が浸透していることからも分かるように、これはかなり我々の生活に馴染んでしまっている根深い問題。時間(年)に区切りをつける"正月"にそれをやると言うのもなかなかどうして面白くて、この遊びも 正常 な顔と おかしい 顔の"線引き"を無意識にかたちづくる(というよりは再確認する)ものと捉えることができる。
僕はよく思うのだが、一般的に言われている"容姿の良さ"というものには、何か実益があるのだろうか?
例えば"背が高い"という特徴には、なるほど高いところの食べ物などに手が届くという実益がある。キリンのように、それが生存競争に役立つこともあるかもしれない。ただし"生存競争に勝つこと"の益性はここでは自明とさせてもらう。
だが例えば目が一重か二重か、鼻が高いか低いか、眉毛が濃いか薄いか、などなど……と言ったそれなりの人が気にしている(と僕が聞き及んでいる)特徴には、生存競争に間接的にでも繋がるだろうか? 「異性に好かれる」というのは順序が逆で、本当にそうかは知らないが、ここでは僕の勝手な憶測に基いて「生存競争に有利な形質を持っているほど異性に好かれる(遺伝子を残しやすい)」のだと仮定しておく。
もう少し日常生活に寄せた例だと、例えば髪の毛が長くてボサボサだったり染めていたりすると、仕事の面接で悪印象を与える、とか。例えその仕事に髪の毛が関係なくても、だそうだ。
何故我々はそのような、どうでもいい情報に左右されるのだろう? 僕には分からない。生存競争に勝つこと以外の目的があるのか。その目的はさらなる目的の為の手段ではないのか……。
この「何故?」に対するひとつの回答として、ベビースキーマという概念を僕は知っている。
ざっくり言うと、猫などに対して「可愛い」と思うのは赤ん坊(本能的に守るべきもの)に似ているから、というような話。このロジックを使えば一見関係ない形質のいくつかを、生存競争という目的に繋げることができる。
だが、これが実際に(赤ん坊ではない人の)容姿に対する良し悪しの判定基準に関わっているとすると、それに基いた"良い"の感情は、似ているだけで本当は赤ん坊ではないのだから、ただの誤認でしかないことになる。
そろそろ、倫理の話に戻そう。
人の容姿に対して良し悪しといった価値判断を行うことは許されるのか、はたまたどのような特徴に対しても価値判断をせずフラットであるべきか。
この問いに対する僕の考えとしては、どちらかと言えば前者に近い。例え誤りであっても、目的を見失い、盲目的で非合理的であったとしても、人の心には豊かな色彩が宿るべきだと感じる。(参考:大自然がつかわした戦士『漫画 仮面ライダー』 感想)
ただし言うまでもないが、"悪し"と感じたからと言ってその対象を傷付けてもよいことにはなるとは限らない。それはまた別の問題。
ということなので、とりあえず存在しない顔を"ヘン"として嘲笑する或人は、僕的にはセーフとする。
・「先生はそれでお仕事が楽しいんですか?」
生計を立てる為の仕事は機械に任せて(実質的な不労所得)、自分は情熱を燃やせる趣味に打ち込む……というのは、ある種ひとつの理想的な未来の形ではあると思うんだけれど、今回の場合は確かに、石墨さんは豊かな生活を送っていたようには見えない。どちらかと言えばむしろヒューマギアの台頭で自分の絵や自分の存在そのものの必要性に自信を失くして、迷走しているだけのようにも見える。馬鹿みたいにお金を使う(豪邸)のも、満たされない人間のすることとして理解できる。
ただこのテーマと言うのは、1話で或人がお笑い芸人を諦めたこととあんまり相性がよくないのも事実ではある。"売れてる"という需要を無視してまで、作者一人(と読者としての或人)の"楽しい"を優先しても良いものだろうか。…………まぁ、或人は社長になってからも需要のあまりないギャグを披露してるけども。
ドラマに仕立てるのは難しくなるが、現実的な落としどころとしては仕事と私情を割り切って、『パフューマン剣』というもはや彼一人のものではないコンテンツ(タイムレンジャーの浅見グループみたいなもの。メディアミックスもされてるし関係者はさぞ多いことだろう)については、同一性が崩れないならという前提の元ではあるがヒューマギアに託し、自分の情熱は趣味としてネットに投稿するなどの小規模な活動で昇華するという選択の方が良かったのかな、というように僕は思う。以前にも言ったように、僕はどちらかといえば仕事と私情は必要に応じて分けるべきという考えなので。(参考:令和仮面ライダーゼロワン 制作発表記者会見 感想)
・家をぶっ壊したのは、製作者サイド的には怪人が現れたという緊急性と、大切なのは"金で買えるモノ"じゃないというテーマとで打ち消されるはずなのだろう。それにしたって後のトラちゃんのように、もう少し穏便に来れやしないのかと思うが。

 

 不破諫
・1話で A.I.M.S. の銃が効かなかったのに迅の銃で一撃だったのは、単純に A.I.M.S. がショットライザーを出し渋ってたのと同じで、あんまり強い武装を許されてなかっただけだと当たり前に思ってるんだけど、違うのか? なんでみんなそんな謎みたいに言ってるんだ。
それを踏まえた上で「それだけ慎重な組織が何故不破の暴走を黙認しているのか」と言うのなら分かるが、それも唯阿の上司? の意図が分からない現状では分かりようがない。まぁ別に、単に「ヒューマギアが本格的にマギア化しだしたから」でも僕はいいけどさ。

 

 石墨超一郎
・「線は正確だし、何より疲れない」
そんなに突っ込むことでもないけど、確かに一見そうかもしれないが、より広い視点から言えば金属だって疲れるし、劇中でもあったように処理落ちなんてのもある。彼がそこに利便さを感じる程度には疲れが見えてない、という程度の意味だろうから、別に彼に対してだからどうって話でもないんだけど、人間と機械の間にデジタルな境界線というのは意外となくて、同じ自然法則を背景とした出力のいち形態に過ぎない。『Serial experiments lain』の"お父さん"とか、感覚的に訴えかけてくるものがあるよね。(参考:現実と妄想、フィクション。そして自分『ビューティフル・マインド』『Serial experiments lain』 感想)
・ところで牙狼にも思ったけど、漫画家の描かれ方ってワンパターンじゃない? なんというかこう……それこそ個人の性格ではなく"女性"という属性をキャラクターの個性にするようなのと同じで、記号的だよね。
ゼロワンの話の組み立て方がそもそも"お仕事"に軸を置いてる(らしい)ので仕方ないと言えば仕方ない気もするが。
僕は"漫画家キャラ"の中では『バクマン。』の七峰透が群を抜いて面白いと思っているんだよね。一応結果としてはボロが出ているし動機は割と矮小なものの、言ってること自体は非常に現代的で考える価値のあるものだと思う。
最初に言っておくが、「この世は金と知恵だ」とかそういう部分のことではない。正義だ愛だってのも確かに嘘くさいけど、騙し合いだ殺し合いだってのも十分嘘くさい。世の中そんな性善とか性悪とか言い切れるほど単純じゃない。
前にもTwitterで言ったけど、人間を醜く描いてるだけの作品を"リアル"だとか言って持ち上げるのはあんまり好きじゃない。とはいえ、七峰自身も少なくとも作品内では結局"綺麗事"を描いてたりするので実際は意外とバランス取れてるんだけどね。取れてないのは見て持ち上げてる人。
で、じゃあ何がそんなに面白いかって言ったら、やっぱりその方法論だよね。真面目に是非を問うには難し過ぎる問題だからか、劇中では基本的に彼は自滅の道を辿る……というよりは、意図的に"落ち度"をつくられている。人を利用して使い捨てるモラルのなさがそれで、方法論自体はむしろ一貫して「否定しきれないけどなんか嫌」くらいの扱いになっている。
気持ち的な是非はともかくとして、世界は実際に、情報技術の発達によって七峰的な"システム"の世界へと向かいつつある。
検索しても見つからないので曖昧な記憶を頼りに言うしかないのだが、攻殻機動隊だったか何かで、世界の何処かで誰かがプレイしているシューティングゲームの入力に合わせて実際に兵器が人を撃ち殺している、みたいなエピソードがあったと思うんだけれど、そういった異なる動作をリンクするシステムを発展させることで、自覚としてはただゲームをプレイしているだけなのに、それが世界の何処かで何らかの生産活動に寄与していて、その対価によって生計を立てるなんてことが、いつか可能になるかもしれないのだ。
とはいえ、現状を見れば明らかなように、実現にはまだまだ解決しなくちゃいけないことが多くあるだろうことは想像に難くない。僕が拒否反応を示すように、仕事と遊びをリンクさせるという発想自体が割と理想的な机上の空論に近いものがあるのかもしれなくて、例えば所詮ゲームだからと適当にこなしてしまうことなんかは大いに考えられるし、それを"システム"としてどう処理するのかと言うのは、言葉にすると単純だけど、無数にあるすべての具体的状況に対応するのはかなり難しいことに思われる。
ゲームの良さというのは、手軽さというかリスクのなさが占めるところが大きいだろうからね。いくら真面目にやればゲーム内で有利になるよう設定しても、「所詮ゲーム内での有利」となってしまうかもしれない。だって「所詮ゲーム」ではなくなって生活するための一生懸命さが要請されてしまったら、それはもうこれまで通り労働しているのと同じことであって、ゲームプレイワーキングの良さがなくなってしまう。
この概念のキモは、「如何に働いている実感を減らすか」「如何に動作を変換するか」といった、"人の意志"と"行動の結果"の乖離にある。
それこそバタフライ・エフェクトのように、自分の行動が自分の制御を超えた結果をもたらす現象自体は、既にその端緒が見て取れる。Twitterの"バズ"なんかはその最たる例だろう。
僕はまだ気持ちがついていけていないが、時代は着々とそちらへ向かっている。のかもしれない。

 

 

需要と情熱のすり合わせに違和感を感じたのが今回は強いノイズになったなぁ。個人でヒューマギアを何体も雇える程度には、本人にヒットさせる実力(需要に応える力)はあったんだろうけども、それが(しばらく怠けた)今でも備わっている保証はないしな。
とはいえ、需要自体も変遷するものだし、それにヒューマギアが付いていける保証だってないと言えばないし、極論その変遷する漫画界に対する需要に答える存在は別に『パフューマン剣』でなくてもいいといえばいい、というか、ヒット作が廃れるのも仕方ない現象ではあるので、一概に否定もできないのだが。
脚本家が変わってもヒューマギアのちょっとしたズレによる笑いというのは一応おさえてあって、そこは僕の見るモチベーション的に安心した。

 

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キャラクター

 飛電或人
・今回のゲストである桜井郷くんがそれだけ責められてたなら、社長たる是之助の孫なんてもっと言われてそうなもんだけど、そんな素振りは全く見えなかったね。あくまでデイブレイクが工場側のミスということになってるにしたって、郷の父親は責任者であってミスの当事者であるとは考えにくい。つまり責められてるのは"責任者だから"ということになる訳で、それでいうなら是之助も責められて然るべきに思えるが……単にあの学校のあのクラスにたまたま意地悪く頭も悪いやつが集まってただけなのかね。ヒューマギアの使用をやめようって運動は見える範囲では起こってないし、政府の後ろ盾もあってかずいぶん信頼されてるんだな。
・「正しいことがホントのことなのかなぁ?」
言い回しの問題だけど、逆じゃない? 「本当のことが正しいことなのかなぁ」なら、なんとなく意味は分かる。本当かどうか(事実の問題)と正しいかどうか(倫理や道徳の問題)のズレっていうのは、例えばWの"少女A"のエピソードみたいなさ。まぁあれも例として出すにはちょっと特殊だけど。
でもこの文脈だと、正しいも本当も両方事実について言っているようにしか聞こえないし、実際そうな気もする。とするとちょっと意味が分からない。変にひねってあるだけで「それって本当なの(正しいの)?」ってだけの意味なのか?
・「飛電の社長として誓う。隠し事なんて、俺はしない」
2話でばりばり嘘付いてたけどね。まぁ当人の意思表明としては今回が初なので矛盾ということにはならないのだが、他人から見た信用の問題として、諫がそれをノーカンにして信じるというのは多少都合が良いようにも感じる。最後に情報公開したことでチャラにしたというのも分からないではないけど。なんかこの記事に「〜ないでもない」って書くの3度目くらいな気がするぞ。
・或人とはあんま関係ないけど、鳥が空を飛ぶ様子を"自由"の象徴と見なす文化があるよね。「仮面ライダーは正義の為じゃなく、自由の為に戦うんだ」というセリフがあるが、それと合わせて考えると、敵であるショッカーのシンボルが鳥なのは不思議にも思えるなぁと。対してバッタは今回の描写にもあった通り、鳥と比べると空に対しては不自由。
ただ、公園でバードウォッチング(なんて洒落たもんじゃなくただぼーっと見るだけだが)してると、思ってたよりあいつら自由じゃなさそうなのよね。風とか、それ未満の空気の流れとか、何なら雨とか、すごく色んなものに左右されてて、飛んでるというよりは落ちてないだけみたいな風に感じた。行きたいところがあるなら行けばいいのに、どこへ向かうでもなくぐるぐるぐるぐると飛び回ってることもよくある。あれはひょっとすると、風とかの関係で行きたいところへ行けなくて苦労している姿だったのかもしれない。鳥に"行きたいところ"があるほどの知能があるのかは知らないが。カラスは頭がいいって聞くけど、鳥頭という表現も聞くしな。

 

 不破諫
・彼はそろそろ疑問を覚えないのだろうか。武器を没収されないことに。
まぁ、脳筋だから仕方ないと取ってもいいし、考えたって分からないし訊いたって答えてもらえないだろうからとりあえず受け入れるってのも分からんでもないからそこまで考えているという選択肢も一応つくっておくけど。
・「今日、俺は非番だ」
これもどういう意味なんだろ。ただ茶化しただけ? 後の行動を見る限り、彼は個人的なヒューマギアを1つ残らずぶっ潰したいという願望を抑えて"回収"すると言っているので、きちんと唯阿に言われた通り「自分の仕事」を遂行しているように見えるのだが、非番だと言うし、しかも現状明言されているA.I.M.S. の仕事はあくまで"破壊"だけのはずだったりと、今回一番の見どころのように思えるがなかなかどうして釈然としない。

 

 刃唯阿
・不破にも言われてたけど、あの言行不一致はなんなんだ? 自分の責任ではないということにしたいんだとしてもなんの脈絡もなくゴリラを渡すのは流石に無理があるでしょ。不破が勝手に持ち出すのを黙認するとかならまだしもさ。それとも「そういうことにして」っていう不破に対する遠回しなメッセージなのか? そもそも、あれを渡す意味がまずもってよく分からんのだけれど。「デイブレイクタウンは危険だから気を付けて」ってところまで暗に含んでるのか? っていうか、実は言行不一致とも言い切れないのよね。「使いこなせないと思われる」ことと「渡す」ことは別に矛盾しない。「本当は渡しちゃいけない」んだったら話は通るが。まぁこの辺の細かい言葉選びというのは、メタレイヤーでは推敲可能な"文章"だけどキャラレイヤーでは考えながら話さなきゃいけない"会話"なので、多少の不備は仕方ない(むしろリアル)とも言えるけども……。
脳内補完してあげるつもりはあるけど、劇中の描写から離れれば離れるほど自信がなくなるのは当然のことなので、やっぱりできることなら分かりやすく描いて欲しいわ。特に福添のあの見るに耐えないシーンなんかよりはこっちを優先して。
・銃ライダーなのになんで刃なんだろうとずっと思ってたが、your刃ってことか。ギルクラ的な比喩だとするなら確かに刃の方がしっくりくる。
ヒューマギアを道具だと言い張る彼女自身あの男の道具として動いてるということになるのかな。自覚した上でやってることなのか、紗羽みたいに後から泣き言を言い出すのか……どっちなんだろう。ドラマのつくりやすさで言ったら後者のほうがAIに対する関わり方の変化も描けて楽なんだけど、想像がついてしまったのでそれだとつまらない気もする。

 

 滅
・僕が制作発表の感想で"ハエ"って言ったライダー(であることは公式サイトにて明言されました)のアクターさんは高岩さんらしい。前回の感想で言ったように彼らはジオウ的な要素を象っているのでその配役は適任中の適任と言えるだろう、多分。
・OPについて、戦隊を意識しているとしか思えなくなってきたので、戦隊を参考にする理由としてひょっとするとそちらの方が視聴率高いのかなと思って調べてみたら全然そんなことはなかった。枠移動前から仮面ライダーより下。
今のところ雰囲気でしか喋ってない薄いキャラクターである滅亡迅雷の2人が、既にOP(キービジュアル)に映るくらい早く横に並び共闘するんだとしたら、改心のエピソードまで急ぎ足でやっちゃ絶対つまんないよな。例えば環境保護とか何かしらの共感ポイントを見せつつ人間襲うのは続けるとか、そういう塩梅になるのかな。

 

 福添准
・「記憶にございません」ってのは真面目な風刺のつもりなのか旬のネタをなんとなく入れてみた(三谷幸喜さんの映画がつい先日公開)のかよく分からんが、相変わらずおやっさん枠(?)の扱いが雑だよなぁ……。芸人を起用してる時点で滑稽味以外の魅力をつくるつもりはないのかもしれないけど、まず一連のやりとりのテンポが悪過ぎるし、結局滅亡迅雷の仕業ならそうまでして隠す意味がよく分からん。或人と違って、他人のせいとはいえ自社製品が暴走すると知れたらまずいという感覚がきちんとあるんだろうか。受け入れられたのは結果論?
あと彼の話ではないが、イズとアンナのヒューマギアコンビはなんで急に暴走の話に信憑性を感じたんだ? あの時点では不破の証言だけだし、その証言を否定したのは他ならぬ彼女たちじゃんね。セリフを聞く限り"疑いを持った"なんてレベルじゃなくて、明らかに記録が間違ってる前提で話してる。或人の様子を見て判断したんだろうか。うーん、分からない話でもないか。AIである自分たちの頭で考えず人間の判断を信じるというのは理に適ってるといえば適ってる。

 


設定

・デイブレイクタウンをうろついてたモブマギアは普段からいるのか、それとも今回のオニコが生み出したやつなのか、これも微妙なとこよね。どっちとも受け取れる。ただおそらくタウンの中でも外れに位置するであろうところにいつもいるんだとしたら外から見てもヒューマギアが暴走してるのは明らかだよな。……あー、どっちでも変わらないか? 暴走と言いつつも滅亡迅雷がきちんと制御しているのであれば、侵入者が来たときだけ襲わせれば目撃者も殺せばいいだけだし大した問題ではないか。
・見たところ、映像を記録していた"旧型ヒューマギア"とやらはどう見ても暴走してない。「全てのヒューマギアが暴走」というセリフとは矛盾するが、人は「ほぼ全て」を「全て」と言うことがあるのは確か。真後ろに暴走してないやつがいてもそうかは微妙だが。
ただ、そいつがどう見ても暴走していないという事実と、アンナが暴走しなかった事実を組み合わせると、ワクチンプログラムか何かが仕込まれていたのかもしれないという仮説を立てることができる。或いはワクチンではなく、一度暴走した個体を鎮めたか。それなら前述のセリフも間違いではなくなるな。
この仮説自体は一周目で既に直感した(読み取った?)ことなので、僕にはもうそうとしか思えなくて、後からそれに合うように理屈を合わせてるだけなんだけどね。
・クラスメイトの手のひら返しは絶対意図的だよね。人間の心もヒューマギアと同様、簡単に覆る。というのはまぁ、あくまで物語のキャラ(人工レイヤー)の話なので、我々人間があそこまで極端に振れるかはちょっと別問題だが、まぁ示唆する価値はあるだろう。(参考:A Clockwork Organ『時計じかけのオレンジ』 感想)
しかし、その人間でさえ手のひら返しができるのに、機械であるヒューマギアができない(マギア化したら戻せない)というのはどういうことなんだろうな。人間と違ってモノだから、"事故物件"的な意味でもう使えないってことなのか? だとしたらマモル2号とかも縁起悪そうだけど。

 


ゼロワンのサブタイはそれこそこそあど言葉でいくのね。ビルドのカタカナ縛りは緩いくせにめっちゃ被ってたけど、今回の縛りはひょっとするとドライブよりキツいのでは。
アレソレコレの中にオレを持ってくるのは普通に面白いけども、そんな洒落たことが何度もできる訳じゃないだろうし……とか言ってたら今度はカレだそう。この緩さは面白いので許す。アルトじゃないよ。

 

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仮面ライダーゼロワン 第3話「ソノ男、寿司職人」 感想

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A Clockwork Organ『時計じかけのオレンジ』 感想

小説かなんかでタイトルだけ読んだことがあっていずれ見ようと思っていた本作『時計じかけのオレンジ』。
なんと近くの図書館で貸し出していた。これはメディア良化委員会があったら真っ先になくなってしまうタイプの作品だよな……なくてよかった。
という話から分かるように、非常にインモラルな映像が繰り広げられる。僕は事前情報をほとんど入れていなくて(入ってたかもしれないが綺麗さっぱり忘れてた)、SFチックな時間ものを想像していたのもあってちょっと度肝を抜かれた。


まず思ったこととしては、やっぱり僕にとってin-outは謂わばフィクションなんだなということ。あ、便利なので単純に隠語として使わせてもらいます。
これまでにもTwitter等で何度か言っているように、僕はこのin-outを現実味を持って「したい」と思ったことが未だにない。
僕のこの感覚を表すアナロジーとして現状最も適していると感じるのは、常人の"グロさ"との関わりな気がする。
フィクションとして見ることは(幾ばくかの嫌悪感を覚えつつも)できるし何なら好む人もいるかもしれないが、実際に人の四肢や首を飛ばしたり「したい」と思う人はなかなかいないだろう。それに似ている。
この年にもなると、知り合いの割と現実味のあるその手の話題を聞くことがあったりして、みんなおとぎの国の住人になってしまったような感覚に襲われる。同い年の人に伴侶と子供がいるとか未だに信じられん。

中高になるとそういった話を(それこそアレックスのように馬鹿みたいに「In-out! In-out!」と連呼したり)してゲラゲラ笑う下品な輩が現れたものだが、面白さが全然分からなくて付いていけなかった。
彼らを見ていて思うのは、それこそ"時計じかけ"だ。
僕は彼らがどういった感覚であのような行動を取っているのか詳細に聞いたことはないので違うかもしれないが、傍から見ている限りではとても動物的というか、本能とでも言われているものに支配されている感じがある。
このような前提を持つ僕は、英語だとcureとfixで違うのだろうが、日本語訳ならではの受け取り方として、最後のセリフである「"なお"ったね」が非常に皮肉的に感じた。


また作中に地獄型人間動物園というワードが出てきたが、これまた有名なれるりり氏のコンピレーションアルバムの元ネタなんだろうか。
僕は普段音楽を聞く際に歌詞の意味を意識することってあまりなくて、声のことを最も手軽な楽器くらいにしか思っていないのだが、改めて聞いてみて思ったのは確かにどれも余裕のない女の子の話になっていて、余裕がないと人は行動原理が単純化し、それこそ動物っぽく、in-outやultraに積極的になる感じが通じているように思った。
「音楽は意味をバイパスする」とは伊藤計劃虐殺器官』にある一文だが、意味を意識しない曲の聞き方は素読的な効果を感じる。実際に素読の場で音楽に乗せている話も聞いたことがある気がする。平家物語を語った琵琶法師とか、仏教の御経とか、似たような性質を持っているんじゃなかろうか。
"子供向け"作品のあり方は一旦おいとくとして、子供の(言語的)作品への関わり方は、そのようなものでいいように思う。


折角いいタイミングなので『仮面ライダーゼロワン』についても触れると、本作を見た時点での最新話である第3話にて、人間とヒューマギアにそう差がないことを示唆するエピソードが描かれた。(参考:仮面ライダーゼロワン 第3話「ソノ男、寿司職人」 感想)

まごころ寿司を営む魚住はこれまで多くの弟子をとったが、誰一人として彼の握り方に込められた"まごころ"を感じることはできず、「意味分かんない」と一蹴され受け継がれることはなかった。
彼らは人間でありながら他人の心を(部分的に)理解できない者として描かれてるように見えた。陳腐な言い方をするなら、慣習などに共感せず合理性を求める"最近の若者"だ。ヒューマギアに心があるかどうか以前に、人間にだって完全に心があると言い切ることは難しい。

似たような話は前述した『虐殺器官』にも見られる。
僕は勝手に本作の重要なあるファクターのことを"文学"だと思ってるのだが、それに限らず色んなものに影響され、人の性質は容易に変貌する。

ハッキングによる暴走の危険があるのはヒューマギアだけではない。
人間も、立派に"時計じかけ"なのだ。

 

 

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仮面ライダーゼロワン 第3話「ソノ男、寿司職人」 感想

キャラクター

 飛電或人
・前回「腹筋崩壊太郎は気にしないのか」という話をしたが、それ以前に更にモブの名前もないヒューマギアがたくさんいるのを忘れていた。僕自身がその存在と死(?)を忘れておきながら或人を責めるのは変な話だよな。
・唯阿「例え壊しても作り直せば済む話」
或人「そう簡単に割り切れるかよ……」
今回のスレスレポイント。前回はマモル2号を受け入れてたじゃないか! というツッコミが予想される、というか僕は一瞬思った。前回と今回の明確な違いは、壊す前か後か。葛藤しつつも壊してしまった後に同型のヒューマギアをその代わりとして受け入れるのと、「代わりがあるから」という打算的な思考の下で壊していいと思うのとは意味が結構違う。飼っていたペットが死んでしまった(より本編に近付けるなら殺してしまった)悲しみを新しいペットで埋めるのと、新しいペットを買えばいいからと見殺しにする(同じく殺す)、の差と言い換えれば分かりやすいだろうか。
この説明で僕は納得できたが、できない人もいるはいるだろうな。

 

 不破諫
・この間ちょっとだけ見たネクサスでは、凪さんがいちいちネクサスを攻撃することにすごくストレスが溜まったんだけれど、今回のバルカンの描写は普通に見られた。不自然にゼロワンばかり狙わず、たまたまネオヒマギアの近くにいるからどっちに当たってもいいやくらいの気持ちで撃ってる感じというか。

 

 刃唯阿
・「ヒューマギアとどう付き合うかは、要は人間次第」「道具だ」
彼女の立場には共感できるな。倫理的な(感情的な)問題はさておき、ヒューマギアの特徴がバックアップ可能なことはひとつの事実なんだろうし(何故か最初からだったが)、プログラムをいじっただけで暴走してしまうのも特徴としてある。その事実を一旦受け入れることとどう利用するかはまた別問題だけれど、受け入れないのはただの現実逃避でしかない。
これは根本的な話だけど、わざわざAI技術を発展させて感情を芽生えさせるよりも、感情が備わってる人間を一人雇うほうが圧倒的に安上がりなんだよ。そうまでして感情を持たせる理由がない。少子化対策でもした方が遥かに歩留まりがいい。
実際に、スパムによるアカウントの自動登録を防ぐために使われているシステムとして有名なCAPTCHA(歪んだ文字を読み解かせるというヒューリスティックな処理を求めるもの)などを乗り越えるためにスパム業者が発案したもので、俗にエログリッドコンピューティングと呼ばれているらしいアイディアがある。これは(同スパム業者が関係している)ポルノサイトの閲覧者にCAPTCHAの入力部分のみを肩代わりさせるというもので、要は機械に出来ないなら人間にやらせてしまえという発想である。
だからまぁ、あくまでAIにとって感情の芽生えというのは副次的なものであって目的ではない。むしろ消すべきバグですらあるかもしれない。今回のエピソードはまさにそれで、感情がないからこそのメリットというのがピックアップされていた。
人間の利点と機械の利点でそれぞれ住み分ければいいものを、その境界を脅かす"怪人"としての発達したAIがある。
…………なんか似たような話を最近聞いたな。
あぁあれだ、ピアサポーター。病気や障害に対してあくまで"知識"としての理解に留まる医療従事者とは別に、患者としての"経験"を活かして活動するピアという存在がいる。僕はそれを聞いて「経験のある人が知識も備えたらもっといいんじゃないですか?」と言ったんだけれど、「それは違う」と言われてしまった。
まぁ、確かにpeerという姿勢からは離れるものの、支援者の1つの形としてそういうジャンルもあっていいと思うんだが、あれはそこまで含めて否定されたのかな。
・ところで彼女、仮面ライダーバルキリーは「史上初の最初からレギュラーで登場する女性の仮面ライダー」として話題になっているんだけれど、僕はこれに対して微妙な気持ちを抱いている。
"女性仮面ライダー"を特別視することが既におかしいと思うんだよな。確かに珍しいことは事実だけれど、だからなんだって言うんだろう。
男の子がプリキュアを見てもいいし女の子が仮面ライダーを見てもいいならば、女の子は女性にしか感情移入できないという前提もなくなるので、"女性仮面ライダー"という存在の必要性は軽くなる。
例えば胸が重くて……みたいな悩みはすらっとした男性じゃなかなか描けなかろうけども。実際邪魔じゃないのかな。見てる側からするとすげぇ邪魔そう。
性別によって全く何も違わないと言ったら嘘になるけど、性別による差別化をしようとすると大抵生々しくなって気持ち悪いと思う。
あー、ONE PIECEのたしぎとか、メジャーの涼子とか、意外と例はあるな。あれらは気持ち悪くない代わりに、幼い僕には理解ができなかったけど。 

 

 滅亡迅雷.net
・後述する聖書の話を踏まえると、迅の明らかに初対面なヒューマギアへの「君は僕の友達だ」も、隣人愛的なそれに聞こえないこともない? 彼らがヒューマギアならよりしっくりくるけど。

 

 一貫ニギロー
・「私の心は折れません」「一万回でよろしいんですね」
空気読めてないというか、ちょっとズレたやりとりが好き。これからもこういうのが見られるなら、それを楽しみに見続けるだけの価値を感じる。言葉の捉え方って本当に人それぞれで面白いよなぁ。
何か頼まれごとをしたとき、僕はよく反射的に「なんで?」って返すんだけど、それを「やりたくない」という意味に捉える人が多くて困ることが多い。僕の心持ちとしては理由に納得できれば承諾するしできなければ断る、というつもりなので、否定ではなく保留のニュアンスなんだけど、その交渉の余地を飛ばして受け取られてしまう。確かに開口一番「いいよ」の快諾よりは比較的否定的だけど、逆にこれを否定と捉えてしまったら、もはや快諾以外は許されなくなってしまう。別に僕も不用意に人を傷付けたいと思ってる訳じゃないからさ。
まぁ、この例で言えば「いいけど、なんで?」という表現に変えればいいんじゃないかという解決策が既にSSTで得られたんだけどね。

 

 

設定

・滅「我らがアークの完全復元は近い」
アーク……最後の方でも出てきた方舟を指す言葉として有名だね。わざわざ説明する必要があるか分からないけど一応しておくと、旧約聖書(ざっくり言うとキリスト以前のことを書いたもの)に書かれているエピソードの1つで、楽園から地上へ追放されたアダムとイブから繁栄した人類達を、神が気に食わないからと滅ぼそうとしたが、信心深いノアの一家だけは助けるためにまぁお告げみたいな感じで「家族と地上の動物の番いを全て乗せられる船を造れ」と指示したら、周りの人間に馬鹿にされながらもやり遂げて無事生還した、みたいな話。確かその後に前回触れた"見るなのタブー"に該当するちょっとした話もある。
聖書は解説本を読もうとしたことが何度かあるけど、「どうして神様ってあんなに偉そうで我儘なんだ」と腹が立って何度も挫折してるんだよなぁ。知り合いに言ったら「そりゃ神様だからだよ」と言われたけども。彼女が言うには新約聖書の方が面白いらしい。
OPテーマ『REAL×EYEZ』の歌詞にもあるアーカイブ(Archive)と音が似てるのは綴りが違うので偶然かもしれないけど、役割としてはまさにそれで、生物たちの"保存"(と管理)を象徴するものがこの"アーク"。今いる動物だけでなく絶滅した動物のデータも今作には登場してるのが更に興味深い。
例えばキバが前作電王を越えようという意気込みの表れとして1話の怪人であるスパイダーファンガイアの裏モチーフをソードフォームにしたという話があるけれどそれと似たような感じで、宇野常寛さんが「Wのダミードーパントはディケイドだ」みたいなことを仰っていたんだけれど、それを言うなら本編の敵たる"ミュージアム"もまさにディケイド的だよね。そういう流れを踏まえた上で、20作記念かつ平成ライダーを総まとめしたジオウの次の作品でこのキーワードが出てきたというのはもうそれだけで「面白い」と言ってもいいくらいの価値がある。いや、まぁ、ただの二番煎じになったらつまらないんだけど、だからこそどう扱うのかが非常に楽しみ。……現状は、まだこの分析を踏まえた上でWを見返せていないので、二番煎じでも分からないんだけど。
・イズ「心はデータ化できません」或人「ヒューマギアにも心があるように見えるのは、俺だけ?」
前回触れたキャラクターのリアリティという概念は、"心の理論"とも通ずるものがあるかもしれない。サリーとアンとわたし(視聴者)。
僕はASDとはいえそれほど重度ではないしIQも平均なのでこのテスト(サリーがボールをカゴの中にしまって部屋を出た後に、アンがボールを別の箱の中に隠した。帰ってきたサリーは、ボールを取り出すためにまずカゴと箱のどちらを探すか)くらいはパスできるし、"そのテストを受けて間違えてしまう人"という存在を想定することも一応できる。
物語のキャラクターとAIはレイヤー的に似ているんだよね。どちらも"人がつくった人のような動きをするもの"。僕がエグゼイドやビルドのキャラクター達に、「(誤)信念がない」と感じるのは、AIに心がないと感じるのと似ている。(参考:現実と妄想、フィクション。そして自分『ビューティフル・マインド』『Serial experiments lain』 感想)
そもそも、人間が相手でも心があるかどうかというのは確信が持てない。チューリング・テストとかで検索すれば色々出てくるだろうけど、例えば"中国語の部屋"という有名な思考実験がある。サリーとアンの問題は、あくまで「他者に実際に心があるかどうかはさておき、自分が他者の心を想定できるか」という話である。
心の理論がある人は、そうして自分の心を他者に投影して"分かり合った"ということにする。その立場からは、人間とAIに実質的な違いはない。(参考:A Clockwork Organ『時計じかけのオレンジ』 感想)
・今回滅亡迅雷.netに続いてA.I.M.S. にまでプログラムをいじくられてたけど、飛電のセキュリティがガバガバととるか他2者の技術力が(飛電もすごいが更に)すごいと取るかは、まぁこちら次第だよね。
エグゼイドでは感染症だったけど、じゃああなたたちは少しも「自分だけは大丈夫」と思わずに最悪の事態を想定して対策するんですか、という話。ヒューマギアに限って「リスクがあるなら使わない」と簡単に言えるのは今この時代にヒューマギアがないからという要素を多分に含んでいる。最近電車の事故起こったけど乗るでしょ?
例えばスマホの爆発とかなら点検くらいはしてもらうだろうけど、ヒューマギアの場合それで解決することではない、というか、変なベルトさえ巻いてなければ大丈夫なので一目瞭然。
まぁだから要するに不安になって飛電社に問い合わせても「(今のところ)大丈夫ですよ」以外の返事は返ってこない。それで大丈夫なんだと思う人は思うだろうし、思わない人もいるにはいるんだろう。それで今のところの話が成立しなくなることはない。

 

 

ニギローの項でも書いたけど、あぁいう描写はすごく好みなので今回でゼロワンにグッと心を掴まれてしまった。
相変わらず映像の盛り上がりも保たれてるし、期待できそう。

 

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仮面ライダーゼロワン 第2話「AIなアイツは敵?味方?」 感想

キャラクター

 飛電或人
・イズ「ただし、A.I.M.S. に正体がバレないようお願いします」
仮面ライダーがやたらと正体隠したがるのはなんでなんだろうな。怪人みたいに何やってもパッと見で怖いような見た目なら分からんでもないが、基本カッコいいじゃん。一応デザイナーの意図には不気味さも入ってることが多いんだろうけど、ゼロワンについては1話で既に園長の根津さんが抵抗なく受け入れてたし……。一応ここではA.I.M.S. に限ってるので、文脈を踏まえると、暴走したAIを木っ端微塵に(?)爆殺することが"隠蔽"にあたり得るからややこしくなる、みたいな話なんだろうか。
僕は昔から、ツルが恩返しよりも正体バレの方を気にしてどっか行ったのが不思議だったんだよな。約束破られたことで恩はチャラになったと思ったんだろか。ツルだとバレちゃいけない理由をというのが分からない。
極端な話、「のび太さんの〜」みたいなのも見られることによる不都合ってあんまり思い付かないな。なんで恥ずかしいんだろう。(参考:トランス女性(MTF)は女風呂に入れる?/性別とは一体何か)
なぜかは分からないが、こういう話の類型は"見るなのタブー"と言って、世界中に散見するらしい。
クウガでも隠す理由が判然としないなどと文句を言ったが、そういう原型的な何かが作用していると思えば納得できない話でもない。
・それはいいとして、前回の変身は別に全く隠れてなかったので、防犯カメラか何かに映ってても全くおかしくはないと思うんだけど、どうなんだろ。あー、まぁマギアが暴れて壊れてたってことで通るは通るか。
あと或人が「一度暴走したヒューマギアは壊すしかない」ことを、前回のラーニングで知った訳じゃなかったという点。そういうことにしても繋げようは割とあると思うんだけど、敢えてせずに視聴者と同じタイミングで知ったことにするのが、エグゼイドで見たなぁって感じ。まとめ感想にて「登場人物たちが視聴者目線で視聴者のために動いている」と書いたことに対してそれの何が悪いんだと訊かれたことがあるが、簡単に言うならリアリティが薄れるということ。「そのキャラにはそのキャラの人生や思想、価値観がある」という前提がなく、あくまで作者や視聴者の存在ありきであると意識させられるのは、"メタネタ"に対して幾らかの人が感じる不快感と似たようなものだと思われる。即ち何でもアリ感。
ただし今の僕にはこれらを許容する心の準備がある。偉大なる我が魔王『ジオウ』のおかげでね。
つまりどういうことかと言うと、Over Quartzerにおける「脚色された歴史」の文脈。実際に起こったこととしてはきちんと整合性が取れていて、例えば或人は今回初めて知って葛藤した訳じゃないかもしれないし、前回の変身も実はイズに言われて隠れて変身したかもしれない。でも"それ"を参考に、尺だったり見せ場の配置だったりの都合で編集を加えた結果出来上がった、多少歪だがエンタメ性に溢れたものこそが我々の見ているドラマである、という解釈。これはもうそれこそ何でもアリでしかなくなるんだけど、クウガにおいて僕は「リアルさのつまらなさ」をしっかり学んだので、ゼロワンについてリアリティの視点から文句を言うことは少なそう。設定云々よりもまずは"面白さ"が大事。
必殺技の文字演出なんかもそういう意味では明らかに"視聴者"にしか見えないものだしね。
面白いなって感じればこのロジックを利用して脳内補完することにやぶさかではないし、逆につまらないなって思ったらその手間をかけず見たままを言うかもしれない。今のところはジオウの直後であることも手伝って寛容ムード。
・「ヒューマギアのおかげで今の俺がある……」
自分のことをヒューマギアだと思ってる様子はないし、父親を"ヒューマギア"と呼ぶのは違和感があるので、"お父さん"というのはひょっとすると言葉の綾かもしれないな。少なくとも或人の認識では、其雄は"育てのお父さん"なのかもしれない。実際にどうかはともかく。
・これは初代ライダーにも言えることなんだけれど、脚力がウリの仮面ライダーがバイクに乗ってしまうのはなんだか変な感じがするよね。「必要があるから乗るんじゃなくて乗りたいから乗るんだ」っていう白倉さんの話の応用で僕は納得できるけど、他の人はどうだろう。
逆に、「ライダーなのにバイクに乗らない」って文句を言ってる人の中に、本当にバイクが大好きで見たいと思ってる人ってどれくらいいるんだろうね。僕には「馬鹿でも見ただけで分かる簡単な仮面ライダーの評価基準のひとつ」くらいにしか思えない。
僕は何度も言ってるようにバイクのかっこよさは普通にブゥンって走り抜けること以上でも以下でもないと思うので、下手にアクションとかするくらいなら乗らなくていいと思ってる。龍騎の玩具になってない方のバイク描写が好き。
ビルドとかもさ、バイクに乗るからライダーなんじゃなくて、ライダーだからバイク乗ってるじゃん絶対。それよりは「ドライバーじゃんw」とか言われようと車に乗ったドライブの方がよっぽど好きだね。
・「お前を止められるのはただ一人……俺だ!」
ここ、良かったと同時に悪かったところ。思い入れのあるヒューマギアだからこそ破壊するしかないならその荷は自分が負う、というのはかっこいいんだけど、前述の通り前回の腹筋崩壊太郎や今回のオクレルは思い入れがないからいいんだ? という気持ちになってしまう。いや、それが悪いかって言われるとそうは言えないんだけどさ。どこの誰とも知らない人より、そりゃあ知り合いが死ぬ方が大きなイベントですよ。祖父の死だってそんなに気にしない人だし。でも、でも、やっぱり第三者の視点から見ると、愛着を持ってもらえなかった方が可哀想に見えてしまう。
あとマモル2号ね。あれもこっちからするとどうなんだって気持ちもあるが、「或人はそういうヤツ」なのだと言われたら返す言葉がない。
この話はあれだな、さっきした"登場人物にとってのリアル"の話と噛み合わないな。この現象はちょっと面白いかも。

 

 不破諫
・「A.I.M.S. の隊長は俺だ」
刃「そのA.I.M.S.武装指揮権は私にある」
このやり取りを見る感じ、どちらかが上司とかそういうことじゃなく、権力の分散的な意味合いがあるっぽい。シンゴジの前半について「会議ばかりで何も決められず後手後手に回る政府の無能さがリアルで面白かった」などと言う人が僕は嫌いなんだ。対処スピードだけを重視するなら例えば独裁政権とかがいいんだけれど、じゃあそうなって欲しいのか? 僕は別に独裁制に絶対反対ということはないんだけれど、それと同じくこの分権主義にも理を感じる。
……とはいえ、いきなりそういった理屈をすっ飛ばして変身しちゃったんだけどね。だからこの話はどちらかというと僕がしたかったからしただけです。一応彼がバルカンになることは想定の範囲内っぽい描写もあったし、保留。
・「ひとつ残らずぶっ潰す!」
ヒューマギアは暴走の危険があるのにどうしてまだ流通しているのか……その答えは僕としては簡単で、犯罪者がいるからと言って人間を滅ぼそうという話にならないことと同じ。実際にこの理屈が社会に受け入れられるかはまた別問題としてあるけど、僕個人としてはだから現状の"なぁなぁ"に違和感がない。プログラムと自由意志の差なんて、僕には分からない。生物用語としてエグゼイドにも出てきた"リプログラミング"なんてものがあるように、ヒューマギアが滅亡迅雷.netから破壊プログラムをインストール(?)することと、例えば人間が幼少期から暴力に晒されることで自分も暴力を奮うことに抵抗がなくなることに、一体どれだけの違いがあると言うのか。僕には"同じ"に見える。
・あれは怒りに震えてたんじゃなくて笑いを堪えてたのね。なんか違和感あるとは思ったけども。ちなみに今回のギャグは僕も割と好きです。でも対立構造を壊すほどに強いものではないように思えるので、ちょっとしたアクセント程度に収まるのだろうか? 対象的な2人ではあるが、だからこそ根本的なところは似てるのかね。

 


設定

・マモルは既に或人を社長だと認識してるのに、指紋認証がパスできなかったのはなんなんだ? ヒューマギアと違って"機械的"で問題ない仕事についてはゼアを使っていないんだろうか。それにしたって情報の共有くらいはしそうなもんだけど……。
・前回は書きそびれたんだけど、人工衛星ゼアというのは、日高さんのザットと組み合わせて考えると、there(そこ/あそこ)とthat(それ)なんだろうね。で、コレ之助とソレ雄。落ちてた衛生はヒアかウェア? これらの言葉はまぁざっくり言うと話し手との"距離"を表現する言葉で、おそらく人間とAIの立ち位置などを暗に示唆してるんだろう。
・技術的シンギュラリティというのはあくまでAIが人間の知能を超える点なので、感情に目覚めるかどうかはそんなに関係ない、或いは前段階(人間と並ぶ)に過ぎない気がするんだけど、そこのところどういう認識なのか気になる。
単なる事実処理においては既に人間を超えてるから、そこに感情が加われば……ということなんだろうか。でも感情を生み出す意識や自我というのは、その事実処理とも密接に関わってる気がするんだよな。劇中で出てきた物体認識という言葉について検索してみると、ディープラーニングというキーワードが出てくる。こう、僕のイメージなんだけど、"今ここには必要のない連想"を多分に含んだ対象の認識というのが我々の言う意識や自我であるような気がする。
狂人と言われてしまうような状態にある人は、"今ここ"についての認識には問題ないことが多いという話を聞いたことがある。人が現在を重視し、過去や未来の価値を割り引く傾向があるという話(「例えば、ですね、今一万クレジットもらうのと、一年後二万クレジットくれると約束されるのでは、人はどちらを選ぶでしょう」ハーモニー)も有名だけれど、感情のある常人であるために必要な要素としてやはり過去の経験や将来への期待や不安、またここではないどこかについての思案というのも必須なのかもしれない。それらが自我を形づくり、意識は今ここを処理する?
・また"同じ"というのも人間の認識を語る上で非常に興味深いテーマである。
この物質世界において完全に同質というのはほぼ有り得ない。我々は近所の山などを見て「変わらないなぁ」と思うことがあるが、昨日の山と今日の山は違う。こうして言葉の上で区別することができるという点でもそうだし、実際に植物は絶えず代謝をして自らをアップデートしている。生き物も同様で、昨日の或人と今日の或人では微妙に髪が伸びていたり寝不足だったらクマができていたり服装が違ったりと、全く同じということは有り得ない。いくつかの間違いを見過ごすことで、微妙に違うが同一性を持った"或人"である、と認識することができるのだ。マモルがやっていた、にらめっこのつもりなのか顔を歪める或人を「そっくりさんではなく、或人その人だと認識する」ことというのは、機械にとっては本来難しいことのはずなのだ。もちろん実際に我々は"人違い"を起こすことがある。
こういった、ある程度の"間違い"を許容するシステムのことをヒューリスティクスという。
僕のような自閉傾向のある人間(厳密には違うがそれこそヒューリスティックに表現するならば"アスペ"と呼ばれる人たち)にとっては決して他人事ではない身につまされる話なんだよね。定型発達の方も今一度、自分の思考を分析してみると面白いだろう。

 


んー、まぁまぁ面白かった。
中途半端に段取りくさかったのが嫌だった。世界観説明という理由はあるんだろうけど、エンタメに振るなら振るでもっとグングン進めてもいいんだけどなって気持ちになった。或人が社長室を見て回るくだりとかさ、あった方が自然だけど見てて面白い訳では別にないから。

 

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仮面ライダーゼロワン 第1話「オレが社長で仮面ライダー」 感想

キャラクター

 飛電或人
・寝坊……ということは、祖父の告別式とやらにも行ってないことになるのか。
まぁ僕もじいちゃんが死んだとき悲しさというのが湧いてこなくて驚いたのでそれについてとやかく言うようなつもりはない。僕と同じく関わりが薄かったんだろうか、とは思ったが、遺志を継げないことについて謝る描写もあるので微妙なところ。社長ってくらいだからなんか忙しそうだし、思い入れなくても別に不思議ではない。
・「アルトじゃないと!」
Alternateキーが由来のひとつなんじゃないかって話は既に色んなとこで出てたけど、このセリフを聞く感じやっぱりそうらしいね。実際にはセリフとは裏腹に、ヒューマギアに取って代わられちゃうのが切ない。"仮面ライダーゼロワン"について、視聴者にそう思わせるような魅力あるキャラになって欲しい。
・本作のテーマである"仕事"についてだけれど、僕は子供と仕事という概念はなかなか相性が悪いと思っていて、仮面ライダーの影響でなりたい職業ランキングがどうのこうのみたいな話題にもあんまり興味が湧かない。
だって、子供の言う「将来就きたい仕事」ほどアテにならないものってないじゃない? 僕なんかも年少さんくらいの頃には「ケーキ屋さんになりたい」って言ってたんだけど、明らかに自分がケーキを食べたいだけじゃん。だいたいケーキ屋さんって別にケーキ食う仕事じゃないし。
仕事というのは自分の"やりたい"という気持ちだけでは成立しなくて(それは趣味や遊び)、その価値の受け取り手……つまり"需要"がなくてはならない。まだ自分本位にしか物事を考えられない子供にはそういった発想がなかなかない。
僕のお気に入りだった絵本に『ゴリラのパンやさん』というのがあって、この中ではきちんと"買い手"に寄り添う姿が描かれているんだけれど、どうやら当時の僕はそこまで理解してはいなかったらしいね。売れ残ったパンを食べてるシーンが一番印象的だったくらいだし。
そういう文脈で今回のゼロワンを見てみると、思ったよりきちんと"仕事"を描いてたな、と。
或人の本来やりたかったことというのはお笑いで人を笑わせることなんだけど、彼のギャグには需要がない。それを受け入れた上で(ここは明確なセリフはないが、きちんと映像で表現されている)、必要とされ得る仮面ライダーとしての活動を自分の"やりたいこと"と統合して、納得する。この流れが非常に大人っぽいというか、予告などから想像してたよりもよっぽど成熟した精神を持っているようで、ちょっと安心した。
・彼は全体通してミスの多いキャラクターとして描かれている。寝坊したりサムかったりコケたり。
僕は「仮面ライダー」の示すものとは多様性であって、秩序を壊すバグであるという立場をとっているんだけれど、それとこの"ミス"というのは親和性が高い。ショッカーの目指す感情のない完全調和の世界では、きっとミスが許されない。それを許容する愚行権の象徴が他ならぬ「仮面ライダー」だろう。だからイズに対して「大丈夫大丈夫」と言うシーンがすごく好きだったりする。

(参考:大自然がつかわした戦士『漫画 仮面ライダー』 感想)
・スタッフが「白倉三原則から離れたい」と言っているゼロワンについてこの話をするのは不適切かもしれないけれど、逆に、「AIをつくる企業の社長が暴走するAIを壊す」というのは子殺し的であって、むしろ構造としてはショッカーのそれに近い気もする。其雄がヒューマギアっぽかったことと親殺しという点を繋ぐと、或人に"正体"なんてものがあるとしたら、僕には単なるヒューマギアというよりは、「ヒューマギアによってつくられたヒューマギア」のように思える。ヒューマギアが、人間よりも「人間らしいヒューマギア(強いAI)」をつくる能力に長けているとしたら、それは確かに技術的シンギュラリティと言えるかもしれない。

 

 不破諫
・今回の軸は彼にはなかったのに、思ったより情報が明かされたね。察するにデイブレイクタウンの出身だからAIを憎んでるんだろう。逆にそれ以上何を語ることがあるのかよく分からないので、次回は一体何するんだ……?

 

 イズ
・彼女の由来は十中八九「-ise,-ize」だろう。主題歌にもなってるrealise(現実化する)とか、フォーゼで聞いたmaterialize(物質化する)とか、単語の後ろにくっついて(だから"接尾")、「〜化する」みたいな意味にする。最近だとルパパトのイメージが強いな。マスカレイズ,パトライズ,エックスナイズなど。これだけ具体例を挙げれば帰納的にイメージを掴めたんじゃないだろうか。
ゼロワンの変身音だけ切り取っても、「ライジングホッパー!」を含めて類型が4回も出てくるほど押し出されている概念で、それを名前に冠する彼女というのもきっと重要な位置にいるのだろう。具体的に何化するのかはこれからの話を見ないとなんとも言えないけど。
僕はパソコンを使う習慣がないのでなんとも言えないが、Altキーには同時に押したキーの役割を変化させる機能があるらしく、これともちょっと似ているように思う。
というようなふわっとした話しか今はまだできない。

 

 腹筋崩壊太郎/べローサマギア
・「私の仕事は、人を笑わせることだから……」
彼のギャグで笑う観客の後ろに、彼のギャグで居場所を奪われた或人もいる。それに気付かず満足気に笑う彼の姿というのが非常に矛盾してて面白い。そしてこの構図はそのまま社長に就任した或人と福添准にも当てはまる。と考えると、これからの或人と准の関係に期待したくなるが、エグゼイドの灰馬を思えば、准にまともなエピソードは望めないか……? あったら嬉しい。
・或人「笑うなよ」
彼のキャラクター性にこの話が合っているかは分からないが、思い付いたので書いておく。
僕は基本的に「人を笑いものにする」という行為があまり好きじゃない。以前どこかで、「笑いとは"間違い"を発見した報酬」であると読んだ気がする。笑うというのが対象について何らかの"間違い"を見出していることだとするならば、それを相手に帰属させるのが嘲笑にあたるもので、それ以外のものは自嘲にあたるものと解釈することができるかもしれない。
腹筋崩壊太郎の例で言うと、彼のネタは分類するなら「予想外のことが起こる」パターンの笑いに見える(正直に言えばどこが笑いどころなのかピンとこないけど)。この場合、"彼のおかしさ"を笑う人と、"その可能性を知らなかった自分のおかしさ"を笑う人に二分される。
おそらく僕が不快に感じてるのは前者で、他人の自虐ネタなんかは不愉快になる(お前は人を馬鹿にして笑うんだろ?と思われてると思うと腹が立つ)んだけど、自分の自虐を言うことには抵抗がまるでない。
お笑い芸人になる人というのは、"笑いもの"になる覚悟を決めた人であって、その人たちにはその人たちなりの誇りなどがあるのだろうし、僕が一概に否定できるものではないのは分かる。だが例えば『月曜から夜ふかし』という番組がやっているような、そういう覚悟を決めていない一般の方を、本人の意図していないところでイジって笑いものにする態度というのが僕は許せない。面白い部分もあるので以前はよく見ていたんだけどね。
で、この腹筋崩壊太郎が自分で納得してこの仕事を選んだのではないとしたら(仕事が決まった後に自我に目覚めたなら)、ひょっとすると笑いものにされることに腹を立てるかもしれない。実際に彼がそうだったかはさておき、そういう可能性もある。
言葉遊びや機知などという知的な笑い(おそらくこれらはさっき挙げたところの後者、自分の無知を笑う種類に思える)という選択肢もあるにも関わらず、嘲笑タイプに甘んじるというのは、笑う側としても低俗だし、笑いをとろうとする側としても志が低いように僕には思えてしまう。人を馬鹿にするなんて小学生でもできる。
……小理屈をこねたところで結局は「僕が気に食わないのでなくなると嬉しい」という一言に集約される話ではあるんだけれど、何かの参考になれば幸いだ。

 


設定

・今回の映像などから読み取れて、かつ言葉になっていないことを挙げると、デイブレイクタウンに落下していた衛星というのは多分ゼアの前身で、ゼロワンドライバーがゼアと繋がるのと同様に、滅亡迅雷.netのベルトも装着者の思考回路をあの衛星とリンクさせる機能があるのだろう。
デイブレイクタウンにはバリケードみたいなものがあったけど、多分スカイウォールと同様に外に行ける方法が割とあるんだろうね。迅が出てこれるくらいには。
しかし、山寺宏一さんがナレーション務めるって聞いたときからそうだろうなとは思ってたけど攻殻機動隊とか絶対意識してるよね。そんな話あったもん、AI(タチコマ)の母艦である衛星が墜落って。意識といえばPSYCHO-PASSのドミネーター役、日高のり子さんもだよね。僕としてはどっちもあんまり覚えてないけどなんとなく好きな作品だし悪い印象は特にないけど、真似に収まることはして欲しくないな。
あと、大森さんって多分『555』好きだよね。好きというか評価してるというか。あ、そういや「当時の東映で一番面白いことやってた」とかなんとか言ってたな。色々似てる。
・敵であるマギアのモチーフは、どうやら絶滅した生き物らしい。対してゼロワンたちが使うのは、今も生きてはいるけど、人間の繁栄によって肩身が狭くなりつつある生き物たち(を模した機械だけど)と表現することもできるように思う。
うちの近くに

猫にエサをあげないでください

お腹を空かせた猫にご飯をあげる気持ちは人として大切なものだと思いますが、増え過ぎた野良猫たちの糞尿によって近隣住民が迷惑しています

という看板があってさ、「猫の命<糞尿による不快さ」なのかと思うと、見る度になんだかちょっとやるせない気持ちになる。でも蚊とかは「かゆいから」ってだけで平気で殺してるし、命の重さというのはよく分からない。
強い者が生き残るのが自然の摂理。僕はよく人間も自然の産物なのだと言うんだけど(先日見た『崖の上のポニョ』からもそのようなメッセージを感じた)、人間が追いやられる側になってもそれを言えるのかは我ながら疑問。
プログライズキーがなんの鍵なのか、なぜ生き物の力を使うのかは今後考えていく議題。

 

 

ジオウはあくまで2話完結なので1話単体の満足度はそこまで高くなかったのと、難解さのせいで爽快さが少ない。それに比べると、今回のゼロワンの1話というのは映像的な盛り上がりをとってもかなり良い。
ただ何度か見てるとアギト編に似てるような印象も受けてきたので、仮に予算的に続いたとしてもワンパターンに感じるかもしれない。牙狼(最近配信されてる魔戒の花を見てる)くらい映像を見てるだけでも楽しめるといいな。

 

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仮面ライダーゼロワン 第2話「AIなアイツは敵?味方?」 感想

ブログで感想を書きたい方へ

「創造は破壊からしか生まれない」

 

この記事は、ブログを始めようとする人たちへのある種のブレーキとして作用するものとして書くつもりでいる。短めにね。

前提として、僕はより多くの人が自分の考えていることを発信するようになれば良いと思っている。



だが最近の"感想ブログ"を見ていると、全く価値を感じないものが多過ぎる。それに対する警鐘を鳴らしたい。

 

感想というコンテンツの特性として、感想を抱く対象となるものの存在が必要不可欠だ。だと言うのに、それの価値を下げてしまうような"感想"を多く見かけるのが腹立たしい。
ここで言うのは、主に「作品の中で起こったことや語られたことをそのまま羅列するだけ」ということ。
この記事の冒頭に載せたセリフは、紅渡とオーマジオウが発したものである。
正確にはどちらも微妙に表現が違うのできちんとした引用ではないのだが、合いの子だと思ってもらいたい。

 

僕の知っているあるブログ(流石に名指しは控えておくが)は、仮面ライダーのストーリーをト書き的に書き起こし、合間合間に「好き」だの「驚いた」だのという申し訳程度の感想を差し込んだだけのものを"ネタバレのある自分の感想"として出している。もちろん当人は盗作に近いような自覚は持っていないのだろうが、読む側としては本編を見ずともそれを読めば話がおよそ分かってしまう。剰え画面の写真までところどころに貼っている。
そのような感想には、作品への最低限の敬意というものが欠けているように思えてしまい、見ていて腹が立つ。作品は我々にネタを提供してくれるものではあるが、それを調理もせずただレンチンした程度のものを「自分の料理」として出すのはいかがなものか。
とはいえ引用が成立していると思うに足る割合のラインというのも人それぞれだろうし、僕も古い記事についてはあまり自信がない。ちなみに僕は"ブーメラン"というのは説得力を削がれはしても論の持つ正しさは削がれないと思っているので、これを書くに当たり過去記事を修正するなどのようなことはしていない。「お互い気をつけよう」みたいなスタンスだと思ってもらうとより受け入れやすいかも。
まぁ、少なくとも単純な時系列順にはしていないし、なるべく元の形とは離すようにしているつもりだ。それによって新たな発見もあるということは、他ならぬ僕自身が何度も体験している。

 

ただの同意や共感ならば、極端な話その作品を見てもらえばよいのであって、別のコンテンツとして起こす意味が薄い。
抽象化してみたり、趣旨に沿う具体的なエピソードを足してみたり、意外なものと組み合わせてみたり、否定的な内容を書いてみたりなど、何かしら「その作品そのものではなくその感想だからこそ得られるもの」があると、価値は増すし、本文の価値が増せば相対的に引用に対する許容範囲も広がる。
(というのは意見が分かれるかもしれないが、僕個人としては単純な文量だけにとらわれず、それの持つ価値と引用したものの価値の比で考えても良いとは思う)
このような作品に対するある程度の"破壊"をしなければ、その価値を盗用しているも同然の、縮小再生産品にしかならない。
破壊という表現が強くて気に入らなければ、変化とかでもいい。要するに"そのまま"に近い形で出すのはどうなんだ、ということ。ちなみに本記事はこちらの発展記事というか、ある部分にフォーカスしたものなので、ほぼ同じテーマを扱っていてもこれだけ差別化できるという点で参考になるかもしれない。まぁ自分の記事なので別にパクったっていいし繰り返したっていいんだけど。

86ma.hatenablog.com

 

最後になるが、価値がないことを書いてはいけないとは言わないし思わない。ブログは好きなことを好きなように書けばいい。昨日食べたご飯のメニューでも今日見た雲の形でもなんでもいい。
ここまで書いてきたのはあくまで、他者の価値を借りるならという前提の話である。
感想を書くにあたって軽いあらすじ紹介をするにしても、公式のそれを参考にして書く情報を制限するなどの配慮をすると良いかもしれない。

 

他人の価値観でしか見出せない価値というのはあるので、自分で勝手に価値がないと思い込んで発信をしないことは非常にもったいない。だからこそ僕たちは発信を促す。
だが他の価値を侵害する発信はその限りではない。
僕の言ったことが絶対に正しいとは思わないので、自分の道徳に従って、各々楽しんでブログ記事を書いて欲しい。間違えたらごめんなさいして改めればいい。

 

 

参考

www.jigowatt121.com

www.jigowatt121.comちなみに、僕もこの方がきっかけ(のひとつ)でブログを始めたクチ。もう1年くらい前になるけど。