やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

ブログ記事未編集ver.「仮面ライダーゼロワン 第6話」

本記事は先日投稿した仮面ライダーゼロワン 第6話「アナタの声が聞きたい」 感想のテキストを、書いた順に並べ替えたものです。え、手抜きだって? そうだよ予定があって感想書けないんだよ。一度読んだ記事を読み返す機会ってあまりないと思うし、僕がどんな風に記事を書いてるのか、編集してるのか、みたいなものを自分でも見てみたかったのもあって、ひとつの企画として昇華させてもらいます。

 

放送前

倫理に基く法律は正しいのか


ヒューマギアが人型であるメリットは、人間の社会に溶け込めてある程度の応用が効くことだよね。
絵を描くだけなら腕だけ、デジタルでいいなら実体すら必要ないかもしれないけど、それだとあんな風に買い出しには行けない。
買い出しに限れば実体のないお絵かき特化プログラムでもネット通販を利用する程度の応用はきくかもしれないが、重いものを2人で持ちたい時には明らか役に立たない。
普及可能なレベルまでローコストで実現できるならメリットは十分ある。
そうだよな、「人型である必要があるの?」という疑問は「人型でさえなければもっとコスパがいいかも」という思考を経ていて、例えば10円でヒューマギアが変えるなら"必要性"なんて厳密に気にせず少々無駄があろうと買うでしょ。10円は極端でも、ローコストでさえあればそんなものは気にならない。


「なんで人型なのか?」の問いに答えず続いてるガンダム

 


視聴1回目

「本人に無許可で酷似した容姿の人工知能搭載人型ロボットを作成及び使用してはならない」

髪の毛が違ったら別人に見える

生命の尊厳を冒涜する行為

あの年の娘がパパと呼んでいた可能性

3日? 責任ってどうやって

唯阿は迅がヒューマギアという話も聞いていた

すぐに廃棄すればこんなことなはならなかった 結果論

声だけならいいのか

 

 

視聴2回目

まずひとつ、おまかせやカスタムの結果として偶然似るのはアリなのかナシなのか。
これは今ある法で言うところの著作権とある程度似た議論になると思われる。即ち"依拠性"の有無が要点となる。依拠性とは読んで字の如く、よりどころとされているか否かということで、これがない場合は問題になりにくい。少なくとも僕は人間同士のそっくりさんと同じ扱いでよくて、偶然似ていることで互いの名誉を傷付けるような結果になってしまったとしても、それは過失としてすら責められるべきものではないと思う
。分かりやすい例を挙げるならば、『ONE PIECE』に出てくるデュバルに対してサンジは罰を受けるべきか、というような話。サンジ自身の海賊行為そのものはまた別の問題として解決すべきではあろうが、デュバルへの被害に限っては、あくまでサンジだと勘違いした海軍や賞金稼ぎ、その他の人々の過失であって、サンジの責任ではない。
また(一部を除き)著作権侵害親告罪であり、法的な制裁を加える為には著作権者が自らの意思で告訴するプロセスが必要になる。このような仕組みも、実害の発生していないそっくりさんに対する無意味な規制を抑止することができる。
故人はそのような判断ができないとしてそういったケースは非親告罪として設定しておくことは理解できるし、そうだとすれば今回のA.I.M.S. の動きは説明がつく。


背景の変更(なりすまし)


とはいえ本当の話をすれば、僕らに納得のいくかたちで説明がつく必要というのは、メタ的な視点で「作品世界に没入してもらう為」というのを除けば、なかったりする。
現実世界の現行制度に、幾らかの不満がある人もいるだろう。最近だと消費税が8%から10%への変化とか。それと同じで、法をはじめとするシステムもある目的に対する手段でしかない。それも人がつくり選ぶものなので必ずしも最も理に適っているとは限らない。その世界にいる人々がより適した手段を思い付いたり目的を変えたりすることによって変化するものであって、決して完成された絶対的存在ではないので、微塵もおかしいと感じないことの方がよっぽど不自然なのだ。
ここでは今の僕にとって妥当と思われる制度(人工知能特別法第六条)のあり方を書いたが、必ずしも劇中世界で僕と同じレベルまで洗練されていなくてもいいし、逆により洗練されてまた別の解を導き出していてもいい。僕やその他の人が気に入るかは別として、矛盾だとかおかしいだとかそういった類のものではないことは書いておきたい。


そもそも、これらの倫理的摩擦を生み出してまでヒューマギアを人型にする意味はあるのか? という論点もある。


声(音)を出すだけなら喉と口だけ、


以上はヒューマギアをあくまでも買う側の視点での話で、つくる側ならば身も蓋もなくなるが、「実現する金と技術があって人型にしたかったから」で済んでしまう。
必要性で説明できないものもある。まぁ「じゃあ何故人型にしたいのか」などと掘り下げていけば蓋然性は上げられるかもしれないが、それでも不確定性原理を信じてラプラスの悪魔の存在を否定するならば、やはりある程度の振り幅は生まれることになる。


僕はジオウ補完計画における葛城巧の、「世界は科学で割り切れない」という言葉が好きなんだけど、そういうこと。


「誰がどう見たっておんなじ顔だろ」
悪いな……僕は髪の毛が違ったら別人に見えてしまう病気なんだ。病気というのは比喩だが、このブログの横の方(スマホならば一番下の方)にあるプロフィールに追記したように僕は発達障害者で、ASDによくある症状としていわゆる相貌失認がある訳ではどうやらないんだけど、おそらく限定的興味のいち形態で、注目している部分が限定的(僕の場合髪の毛)な為に起こっていることかもしれない。
ある程度見慣れていれば注視することで分かるようになるけれど。
プロフに書いたのは、申請していた障害者手帳(精神障害者保健福祉手帳)の審査に受かったから。2級だそうです。


「何よりこれは生命の尊厳を冒涜する行為に当たるんだぞ」
エグゼイドの感想を書いていた頃の僕ならば、不破のアイデンティティはこれまでの情報ではデイブレイクに端を発するヒューマギアへの憎悪だけであって、倫理観については触れられていないので唐突だなんだと言いそうだな。特にそういった否定の仕方は大我に対してしてた気がする。
今の僕もそう思わないことはないが、それに加えて「全てに前振りが必要なら前振りの前振りも必要になってしまい無限後退に陥る」とも思うので、「これまでそのような情報はなかったが、いま分かった。これが後の前振りである可能性もある」と納得できる。
ただ、人間に尊厳なんか本当にあるのかね。いや、まぁ人があると思えばその人にとってはあることになるんだけれど。今の僕は人間とヒューマギアの間に決定的な違いというのを見出だせていないので、この立場にはあまり賛成しない。
何故"生命の尊厳を冒涜する行為に当たる"のかを一応きちんと説明しておくと、人間とヒューマギアを同一視することでそれらは価値的に横並びになり、まぁ要するに人間の価値が低俗なヒューマギアと同レベルになってしまう、みたいな話だと思われる。
逆に或人の立場は、(一部の)ヒューマギアは人間と同レベルに尊い存在である、ということになる。
この辺の話はカブトのワームや、ディケイドに顕著な仮面ライダーの変身者変更、更には悪者に"仮面ライダー"を名乗らせることの是非なんかにとても近かったりする。
剣がワームレベルの存在なのではなく、スコルピオワームが(ある人々にとって)剣レベルの存在である。片方に対する嫌悪感さえなければ、「どっちも尊いもの」で意外と平穏に片付く問題なのだ。
同じように或人が助けるヒューマギアを取捨選択するのも、天道が「アメンボから人間まで生きとし生けるものすべてを守る」とか言いつつ人を襲うだけのワームは平気で殺してきた(僕は実はあんまりここに納得いってないけど)ことと被ったりする。
だから或人のしていることが許されるという訳ではないが、天道を許すならば決定的差異を示さない限り或人も許さなければ一貫性は保たれない。一貫性を保つ必要があると感じるかはその人次第だけど。


オニコゼツメライズキーが再登場。マギアは毎回丁寧にキーを破壊して変身しているので、新たに作り直されたか修理されたことになる。滅自身にゼツメライズキーをつくる技術がなく、スコーピオンプログライズキーや迅以外のヒューマギア(おそらくアークも)と同様に他者がつくったものを盗用しているのだとすれば、彼は"データ収集"を終えたものだけつくり直すことができるのかな? まぁそもそも特に制限なくつくれますよってんならそれはそれでもいいけども。
逆にプログライズキーも制限なくつくれるのであれば、迅に奪われたファルコンキーもつくり直してゼロワンが使うことが(メタ的な違和感を除けば)可能ということになる。
まぁ、わざわざ「飛行能力がないが故に取り逃しました」ってシチュエーションさえつくらなければ(或いは2つとつくれない理由を視聴者が知るか、想像すれば)ナメプ呼ばわりされることはないだろうけど。


「俺のプログライズキー!」
良いかどうかは別として、犠牲になった幾人かのよく知らんヒューマギアよりも、"自分"という線の内側にある(言い換えれば所有物である)プログライズキーを優先するのは、或人の人間性としてはこれまで描かれてきた通りだし破綻はしていない。
所有物が"自分"の内側にあるという表現にピンとこない人はエヴァの最終回をチェック。


僕は放送前に「仕事に私情を持ち込むこと(に罰がないこと)が不愉快だ」という話をしたが、どうやら或人に対してはその種の気持ちが湧かない。


「結果が出れば、多澤さんも罰を受けるはずだ。ヒューマギアのことは俺が責任を取るから」
情に流されて甘い判断をするのはとりあえずいいとして、多澤さんにとってオーディションの結果が出ることは嬉しいこと……なのか? いや、実際喜んじゃいるけど、なんで喜んでんだ? 声優としての技能に関してはすみれさんとは似ても似つかないので、別に彼女が認められたことにはならないと思うんだけど、顔が似てればいいのか、それで。すみれとは別モノだけど、セイネはセイネで愛しい存在だから成功は嬉しいというなら分かるし、逆に離れるまでの間少しでも長く一緒に過ごしてもらう為の方便という解釈もできるけど。
「親が子供を守るのは当たり前のことだろ。子供を守るためなら死んでも構わない。そう思うのが親なんだよ!」
もちろん親に感謝してるが故のことだと理解できないこともないけれど、子供の立場で言うことではあんまりないよね。それも「死んでも構わない」とまで。多澤さんが愛情溢れる親というよりは子離れできないだけの親に見えるのも手伝って、ちょっと今回は或人に感じるズレが大きいね。


「なんでかは知らんが、罰がないなら上司(或人の場合は飛電のトップだが例えばスポンサーである政府など)に許されてるんだろう」という風に考えてるのかな。


「すべて破壊する」
言い回しから察するに、迅のこともヒューマギアだと認識している様子。トリロバイトマギアもこの時点では見当たらないし。つまり何らかの方法で滅のセリフを聞いていたことになる。どうやって見ていたんだろう? ヒューマギアに A.I.M.S. が違反を認知できるような何かが既に組み込まれているんだとしたら、ニギローの時の描写がちょっと分かりにくくなるし、単に通報を受け、該当場所の監視カメラか何かにすぐアクセスできるとかそんなところだろうか?
"すべて"の三文字がなくても、むしろないほうがより自然に成立する場面であるだけに、きちんとした理屈が背景にあると信じたいが、どうなんだろうね。
「あなたたちがすぐに廃棄すれば、こんなことにはならなかった!」
それはどうだろうね。別に実在する人間を模してなくてもシンギュラリティには達するし、違反ヒューマギアがマギア化したのはいわゆる結果論というもの。そもそもマギア化にシンギュラリティが必要らしいということから認識しているかどうかも怪しいし、偉そうにしてる割には短絡的過ぎる発言だなぁ。好きじゃない。


家族の愛情を自明のこととして扱うことは、そろそろやめた方がいいと思うんだよな。家庭のあり方ももっと多様でいい。


どうやら滅は迅の自我とやらをリセットしたらしい。今回の変身はそちらの意味の方が強いように見えた。とすると、マギアの方もそうだったりするのだろうか? トリロバイトには誰でもなれるように、シンギュラリティに達した個体を選ぶのは必要にかられてというよりはそうしたいから?
それか、やっぱりライズキーを使う為にはシンギュラリティに達したという事実が必要で、迅はただ想定より早くて戸惑っただけというだけなのか。
"親離れを許さない親"というのは仮面ライダーの敵としてはすごく真っ当な印象。迅が親離れすることはあるのだろうか。

 

コメント返信

>或人の見通しの甘さ

僕は前述の通りマギア化と人工知能特別法違反の間に直接的な関係はさほどないと思っています。ですのでマギア化する可能性を度外視した上での問題点というのは、あくまで「すみれさんの名誉への影響」という一点のみです。

ここをもう少し詳しく紐解きましょう。 まずすみれさん自身が声優としてどうやら無名(そっくりらしいセイネが出てきても、ただ"ヒューマギア声優"としてのみ話題沸騰中である)らしいことから、声優としての"多澤すみれ"の大きな名誉には殆ど影響がないことが分かります。ただし、今回のヒューマギア事件から遡って「そっくりな娘がいた」というかたちで話題になる可能性は否めません。 対して家族や友人間、声優業界の人間という小さな範囲での名誉ですが、ここについては既にセイネを見られているので取り返しは付きません。

整理すると、或人や不破がセイネに猶予を与えたことを原因として新たに起こると(少なくとも僕に)想像し得る事柄としては、「セイネが話題になってしまうと遡ってすみれさんとの関連もバレてしまう」ということのみとなります。 ここについては、あのときの或人が公開オーディションであることを知っていたかどうかにも依りますので、示された情報からは単に或人の見通しが甘いのか、啖呵を切ってしまった手前公開オーディションであることを知った後に覆せなかったのかの2パターンに揺れます。 そもそも、父親型ヒューマギアに育てられた或人の価値観では「そっくりなヒューマギアをつくること」自体を問題視できていない可能性すらありますし、その場合"見通し"の一言で片付けられる問題でもなくなります。或人自身というよりは生育環境(父親型ヒューマギアをつくった祖父か誰か)の問題になりますから。

>〜悪用の選択肢なんていくらでもありますし。

僕はそうは思いません。例えば著作権ならば、基本的には私的複製が認められているのですが、映画館に限っては海賊版(悪用)による著作権者への被害が甚大であるという理由から、私的であっても複製を許可しないという法制度になっています。僕はこれに納得できません。悪用を想定したらなんだって規制の対象になり得ると思います。車だって意図的に事故を起こそうとすればあれほど身近で強力な武器ってないと思いますし。 第一、"本人の許可"というのはそもそも「この人は悪用しない」という信頼関係の上に成り立つものであって、そこに第三者が首を突っ込むのは大きなお世話かと。制度としてはその許可を事後的に取り消せることにすればいいだけの話です。現実の例を上げるなら、臓器提供の許可なども生きているうちは自由に変更が可能ですしね。

>棒立ち

少なくとも今の僕は、そういった部分は自分の感覚の許す限り「(実際に起こったという設定の或人たちの事件を)フィクション作品として起こす際にできた隙」と見なし、或人やイズの人間性にフィードバックすることはしないと決めています。詳しくはゼロワン2話の感想を参照してください。そこでは「脚色された歴史」という表現を使っています。