やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション ネタバレ感想

こちらはネタバレありの、既に映画を見た方向けの感想となっています。まだ見ていない方や、より抽象的かつ簡潔にテーマについて語る内容をお求めの方は、こちらをどうぞ。

86ma.hatenablog.com

 

キャラクター

 飛電或人
・寝坊していないケースが取り上げられることは(絵面として普通で面白くないから)ないので、寝坊ばかりしている印象になってしまうのはある種仕方のないことなんだけど、一応目覚ましを増やすという対策をしているというフォローがされている。
逆に考えると、13話にて「終了時間は未定です」とのセリフがあることから、遅刻してるのと同等かそれ以上の残業をしている可能性もなくはない。ゼロワンとしての業務も昼夜関係ない(劇中で明確に夜中戦ってる描写はないけど)し、多少は大目に見てもいいのかも。
・それはそうと、開始早々以前と全く同じシチュエーションでバイクを使っているシーンがある。本っ当に面白いよな。「遅刻しそうだけど雷電のことを思い出して使うのをやめておく」みたいな描写にしようと思えば作者には簡単にできてしまうのに、敢えてそれをやらない。
寝坊に共感を示した身としては、これにも共感の意を書いておきたい。人との約束ですら忘れてしまうことってあるのよね。健常者がどうかは知らないが、少なくとも僕はそう。「バイク(関連するもの)を見たら思い出すだろ」と思うかもしれないが、そうとも限らない。パッと思い付く例だと薬の飲み忘れくらいしか出てこないけど、薬自体は目に入ってても、「飲まなきゃ」というところまでは意識に上がってこない。まして遅刻しそうで焦ってる時ならなおさら。
ここからは少しずつ好感度を下げた解釈をしていく。

・バイクを呼び出してから約束を思い出したが、既に地上に降りてきてしまっている以上仕方ない(後でまた謝ればいい)と割り切った
・バイクを呼び出してから約束を思い出したが、『わざわざ衛生に戻さなくていいよ』と言えば万事解決すると思い、割り切った
・バイクを呼び出す前から衛生に戻す必要性に疑問を感じていたので、約束を気にせず呼び出した。『次から気をつける』はその場しのぎ
・約束を守る気はあったが、当の雷電が壊れてもういないので、守る必要を感じなかった

……ちなみに僕が一番に思い付いた解釈は最後ので印象最悪だったんだけれど、僕が思い付く程度のことを制作側が分かっていないとは今の僕は信じていないので、"敢えて"やってるんだと思えばこれくらいのクズさは全然アリ。「お前が父さんをハッキングしてるんじゃないのか!」という衝撃の発言についても同様。
ソウゴの"魔王っぽさ"と同じで、そういうものとして受け入れることで魅力にも転じ得る。僕はその抜き身な言動にゾクゾクしたね。
・其雄が或人の「父さんを笑わせたい」という言葉を曲解したのもそうなんだけど、今作においては勘違いというのがひとつのキーワードになっていて、本来其雄の夢というのはあくまで「自分と或人が笑う世界」でしかないんだけど、或人はそれを「人間とヒューマギアが笑う世界」だと拡大解釈する。これが勘違いであることは、其雄が或人に反対し戦ったという事実から明らかだろう。
この拡大解釈とか勘違いって部分こそが、其雄に直接由来しない"或人由来の夢"という描き方なのよね。 
仮面ライダーに原点も頂点もない」というセリフもある通り、"仮面ライダー"から学び取り受け継いだものはキャラクターによってそれぞれ違うし、勘違いや伝達ミスもたくさんあるかもしれないけど、それこそが仮面ライダー本人ではないそのキャラの"個性"であり"自由意志"なのだと。
例えば王蛇は原典の"仮面ライダー"とは定義も何も違う悪人かもしれないけど、"仮面ライダー王蛇"の原点であり定義であり、正解なんだよね。
同じ仮面ライダーという記号が使われていることを根拠に同じくあることを求めるなら、例えば仮面ライダーも元ネタたる『月光"仮面"』に忠実でなくてはならない。というのは多少無理があるかもしれないが、仮面ライダー自身だって何の背景もなく突如として現れた訳じゃあるまいし、更に遡るべきルーツ,原点があるはずなのだ。……そういえば昆虫は実際に生物史においてそのような存在だと言うような話がテラフォーマーズまことしやかに書かれてたな。まぁそれにしたって結局宇宙から来たなりなんなりという背景があるはずなのだが。
でも、そんな風に過去ばかり見ていてはキリがないので、今目の前にあるものを見ればいい。
月光仮面』を見ずに『仮面ライダー』を見てもいいし、『仮面ライダー』を見ずに『仮面ライダーゼロワン』を見てもいい。
エピソードゼロである本作を見ないままに『ゼロワン』を見てもいいし、『ジオウ』や『ゼロワン』を見たことない人が本作を見てもいい。
それこそが、或人が自分にとっての"仮面ライダー"とは何かを知り、名乗るまでの物語である本作の描こうとしたものだろう。

こちらも参考のこと。

86ma.hatenablog.com・これは完全に聞き流してもらって構わない余談なんだけど、「違う……俺が望んでたのは!」ってところ、時期も相まってクリスマスプレゼントで欲しかったのと違うものを貰った子供みたいだな、と。そうやって感情移入することを想定してたりして。僕も、誕生日やクリスマスで欲しいって言ったものもらえた試しがあんまないんだよなぁ。そもそも何が欲しいか訊かれた記憶もほとんどない。

 

 常磐ソウゴ
・「彼の言う"過去"ってなんなの?」というのは、多分多くの人が思ったことだろう。
僕もじっくり考えてみた。出た答えとしては、「タイムマシンを持っている人にとって過去や未来というのは相対的で、時間移動することで容易に変わってしまうので、"過ぎた過去"というのは実質的には『変えようという気にならない事実≒受け入れられるもの』ということになる」。
ソウゴにとって見れば、或人の苦悩は言ってしまえば他人事なので、受け入れることは容易なのだろう。だから過去認定。でも或人はどうしても納得がいかない様子で、話を聞いてみると「自分のせいで世界がめちゃくちゃになっている」ということだった。そうなってくると話は別で、ソウゴ自身にも似たような経験があって他人事ではないので「そう思うなら(自分の手で)変えればいいんじゃない?」と提案する。まぁ簡単に言えば、「勘違いされてたならこれから正せばいいじゃん」って話。
・それまではただの他人事として聞いていた"歴史"だったけど、努力した結果としてアークの発射を止められなかったという"現実"を目の前にしたら受け入れる気分になった(「手遅れだ」)というのも、分からないではない。
・ゼロワンライドウォッチが欲しくてゼロワンドライバー買った人間なので、ゼロワンアーマーが出てくれたら嬉しいと思っていたんだけど、予想通りというか出なかったね。その代わりと言ってはなんだけど、ゼロワンとのダブルライダーキックの表記が「ライジングタイムブレーク」になってたので、多少満足したかな。前まではジオウがレジェンドに成り代わるかたちだったけど、そうじゃなく並び立って協力するというのは、本編後としては確かに筋が通ってる。
・ラストのソウゴが或人の前に立ちはだかるシーンの意味を理解できてない人って、其雄が或人の前に立ちはだかるシーンのことはどう思ってんだろ。どっちも意味としては同じだと思うんだけど。
違う人間である以上、どこかで意見が食い違うことはある。ディケイド的に言えば、自分を成立させる世界観(宗教観とも言う)もソウゴと或人では根本的に違うので、共存はできない。となれば、戦って白黒つけることになる。
劇場で売ってるパンフレットには奥野さんの解釈も載ってるので、参考にしてみるといいかも。
まぁ、そんな小理屈をこねなくても「戦いたかったから戦った」で悪い理由はないんだけどね。

(参考:仮面ライダーディケイド暫定的まとめ)

 

 飛電其雄
・全体を通しての話なんだけれど、彼のスタンスというのは一貫して「力こそすべて」の一言に集約されると思っている。意見が食い違ったら殴り合って、それを制したものの意見が正しいという考えの持ち主。
その上で、ヒューマギア(自分)の発言権を確保するための力(サイクロンライザーとフォースライザー,ゼツメライザー)は当然として、それに対して人間(或人)が対抗するための力(ゼロワンドライバーとショットライザー?,フォースライザー?)も同時に用意して、どちらかがどちらかを一方的に抑圧することなく、対等に接するための環境をつくろうとしていたというのが、僕の感じた彼の目的。
以前から"変身"の意味ってなんだろうとぼんやり考えているんだけど、今のところの答えは「戦うという意思表示」なのよね。其雄は、神崎じゃないけども、ヒューマギアにも人間にも「自分の笑顔のために戦え」と言っている。ちょっと強引かもしれないけど、これはあくまで彼にとっての"道徳/モラル"の話であって、「俺が笑い、或人が笑う世界にしたい」という個人的な夢とはまた別のものだと捉えている。サイクロンライザーとゼロワンドライバーというかたちで、自分と或人だけには特別な力を用意していたのだともとれる。
また、社長になろうとしなかったことや或人と戦う前提だったことから、其雄が追求しようとする"自分の笑顔"と"或人の笑顔"はハナから共存し難いものだったと思われる。例えば分かりやすい例で言えば「世代交代したくない、いつまでも現役でいたい」みたいな思いがあったとか、或人の「暴走したヒューマギアは(葛藤しつつも)壊す」という立場に反対だとか。ゲイツとウォズがマギアを破壊した際に、ショックを受けるような描写があったし。
ただ、ショットライザーの開発に携わっていた根拠は作中にはなかったと思うので、もしかすると人間を守ると言いつつ人間のために用意してるのはリスクの伴うフォースライザーだけ……なんてこともあるかもしれないが、それはそれでそういう人なのだろうとしか言えない。
或いは、元々はそうだったんだけど、或人の「自分が望んでいたのはそういうことじゃない」というのを聞いてから、ショットライザーの制作を開始したのかもしれない。
・ウィルの解釈では其雄がアークに爆破プログラムを仕込んだということなのだけれど、彼がアークの中で操作していた画面には「Automatic Control Function」とだけ書かれていたように見えた。直訳で「自動制御機能」だけれど、これがどう爆発に繋がるのだろう。
相手にも力を与えて対等に殴り合おうとするスタンスと、暴走したヒューマギアも壊したくないという思い、そして1型に備わった暴走を止める機能を合わせて考えたとき、「街ひとつ爆発させて解決」とはならないと思うのよね。
アークが自分たちのプログラムと違って悪意を持つよう成長していることに疑問を抱き、細工をしている自分たちでない誰か(天津)の指示に従わず、自分で考えて作動するようにしていた……? 情報が少な過ぎてちょっと分からない。
あと其雄がアークの開発に関わっていたんだとしたら、アサルトウルフキーをショットライザーでも(そしてシャイニングアサルトとしても)使えた理由が、天津じゃなくて其雄にある可能性も出てくる。人間がヒューマギアに対抗するための力としてショットライザーを開発する過程で、対応させたのかもしれない。
・其雄がハッキングを免れた理由というのはなんなんだろうね。モブ達がアークからの指示で次々とマギア化する中で、イズとシェスタだけがそのままの姿を保っていたことと何か関係があるのかね。だとするなら、それが"ゼロワン計画"に関係あるのかは分からないけど、社長秘書などの重要なポジションにいるヒューマギアは特別なつくりになっているのかもしれない。
・これは其雄の人間性とは少し違う話なんだけれど、最後にロッキングホッパーキーが消えたことも踏まえると、"仮面ライダー1型"は正史のデイブレイクにはいなかったんじゃないかと思う。オーマジオウには"仮面ライダーの力を与える力"がある(世界の破壊と創造能力の応用かもしれないが、普通に奪う力の反対だと思う)ことがツクヨミの件で判明しているので、そんな感じでこの映画の事件に用意されたオリジナルライダーだと思っている。劇中でさらっと披露された暴走するヒューマギアを元に戻す(?)機能も本編の時間軸には存在しないものなのかも。シンギュラリティに達していた其雄には理論上はつくれたはずだが、記録が残っていなかったので再現不可能、とか。

 

 ウィル
・人間が自分たちを笑顔にしてくれないことに苛立ちを覚えるというシーンは結構今作のテーマ的には重要で、そこからウィルは他人任せにせず、自分の力で自分を笑顔にするべく、手を上げ声を上げ、力を振るうことを決意する。結局彼の意見は別の力(エイムズライダー)によって封殺されてしまうのだが、その姿勢自体は肯定されていたように思う。
・其雄とウィルがアークをプログラムし、そのアークの意思もまた2人に影響を及ぼす。
この循環の構図って、人間の創作活動全般で起こることで、一度自分の外に出力することでまた違って見えたりする。ストーリーに限らず、Twitterのようなものでも同じことが言える。ジオウで描かれてきたタイムパラドックスとも通ずるものがあるし、其雄と或人の"夢"もそう。或人は其雄と関わる中で「笑わせたい」と思って、それを聞いて其雄は「自分も或人も笑える世界をつくりたい」と願った。そしてそれを誤解した或人は、「自分も人間とヒューマギアが一緒に笑える世界をつくりたい」と決意する。
卵が先か鶏が先かという01じゃなくて、両方が模倣であり、同時にオリジナルでもある。
実際には、本当に其雄とウィルだけでやってた訳じゃなくて、単に責任者だったみたいな話なんだろうけどもね。本編で明かされた通り、天津も関わってたんだろう。
・彼がリンカーンの真似をしていたのと同様に、「ヒューマギアの言動は名言のコピペばかり」なのは事実ではある。ただ、僕らが普段使っているこの名言でも何でもない言葉のひとつひとつだって、元をただせば誰かが使っていたのを真似している模倣品の切り貼りに過ぎないのよね。にも関わらず、あるいくつかの場合(よくパロディと呼ばれているケース)においてのみ"軽薄"な印象を受けるのはどうしてなんだろう。これについてはまだ考え中。

 

 フィーニス
・或人の項で書いた本作のテーマに照らし合わせると、「どういう経緯があってかは分からないが、『仮面ライダーは本来人類を滅ぼす悪の存在である』という信念の元に、新時代をつくろうとしているキャラ」として今目の前に存在していることが全てでいい

「男である」とか「女である」という背景を無視するキャラであるのもミソ。

 

 飛電是之助
・あくまで大衆に向けた発言であり自分の意見とは違うかもしれないが、彼はヒューマギアのことを「人間を労働から解放し笑顔にしてくれる存在」として表現している。
ウィルの質問をはぐらかしたことも手伝って、意外と多くの人から「印象が悪くなった」と言われているように見えるし、実際僕もそう思った。
ただ、流石にそういうことについて何も考えてない無能だと決めつけるのは可哀想なので、その問題の難しさ(特に、自分はヒューマギアに対価を払う気があっても、それを他の人間に共感してもらうことの難しさ)を理解した上で、あのような言動をとっていたのだと、とりあえずは理解しておこうと思う。
ヒューマギアに対価を求める意志が芽生えるのと同様に、人間にもそれを拒む意志がある。拒まれたら、今度は労働を放棄するとか、暴力に訴えることができる。それが"コミュニケーション"というものだ。
(参考:エゴとエゴの均衡『映画 聲の形』 感想)

・そもそも、基本的に人間は生活費を稼ぐために労働をしている訳で、それで言うならウィルを始めとするヒューマギアは充電(食事)に困るような生活を送ってる訳じゃないだろうし、つまり彼が対価を求めてるのはあくまでも過去の労働者階級とヒューマギアの類似に気付き猿真似をしてみただけで、彼の中に"対価として欲しいもの"のビジョンが恐らくない。
ただ機械的に平等性,対称性を適用して「ヒューマギアにも笑顔を」と言うけども、其雄の言う通りヒューマギアには基本的に心がないので、笑顔にはしようがない。本当に笑顔を欲してるのかも定かではない。ヒューマギアの求める笑顔のかたちは、ヒューマギア自身が見つけるしかない。
そういう意味で、ウィルの発言はあくまで"勉強"したことをそのまま受け売りしているだけで、本人に心や自我が芽生えた上での本気の要求ではないと捉えるのが自然なので、是之助はさらっと流すに留めたのだとも言える。

・其雄型のヒューマギアをつくることは人工知能特別法第六条に反しているだろうという点については、当時はまだ黎明期で、そういった法整備が追いついていなかったのだと思われる。道徳的にはともかく、法的には遡及処罰(その行為が違法だと定められる以前に行われた行為について遡って処罰すること)は現実世界と同様に禁止されていておかしくないので、問題はない。
テレビ本編の時点でも「似た声のAIはいいんかい」というツッコミが可能なように、また現実世界の法律にも抜け穴があるように、法は完璧なシステムではない。其雄のような例が及ぼした影響を鑑みて、実在する人に似せたヒューマギアをつくることが問題視されていったという順序なのだろう。
・本編ではゼロワンドライバーは是之助から送られていたが、正史ではどういう流れだったんだろう。其雄が開発していたものを見付けて、その思想(何が正しいかは戦って決めろ)に共感した……のかまでは定かではないが、それでそのまま或人に託したんだろうか? それともそこから"ゼロワン計画"とやらを立ち上げて、何か手を加えたんだろうか。

 

 不破諫
・或人に対して「ヒューマギアをつくった人間の家族だから」というだけで敵意を向けていた。それ自体は本編でも同じはずなんだけれど、本編では確かそんな様子はなかった気がする。ヒューマギアの脅威が本編よりも差し迫ってるからかな。
・物語(或人)は人間とヒューマギアの共存という目標に向けて進んでいくけど、彼は変わらずヒューマギアぶっ潰すマンだったし、唯阿もヒューマギアは道具マンだった。こういうのを「物語の都合でキャラがブレてない」っていうのかな。当然のトレードオフとして、「テーマに逆流しているので邪魔だった」という感想もチラホラ見かけたけど。

 

 刃唯阿
・本編ではなんかイマイチ締まらない印象があったんだけど、この映画ではすごく頼り甲斐もあってかっこよかった。
銃弾をスローで捉える演出はそんな何度もやるもんじゃないだろと思ったけど(だって銃の強みのひとつは速さじゃない)、そういうくどさを抜きにすれば、彼女に対するプリミティブな好感を抱くに足るものだったと思う。
まぁ、人間がかっこよく見えれば見えるほど、変身しないで欲しい気持ちになってしまうのが仮面ライダーのややこしいところなんだけれども。

 

 ゲイツ,ウォズ,ツクヨミ
・誕生を祝いたくないだとか自分たちの世界を取り戻すだとか、分かりやすい老害ムーブしてて笑った。どんなに優しかった仮面ライダーも、ライダー大戦の世界では自分の世界を守るために他の世界を犠牲にしようと戦ってしまうのと似ている。
ジオウは過去のキャラたちに散々自己解釈を加えてきたので、今度はいじられる側になってるというのがもう面白いよね。

 

 モブたち
株主総会のヒューマギア達やレジスタンスの面々がどのように生きてきたのか、どのような性格でどのように物を考えているのか、我々視聴者にはほとんど分からない。でも、この無根拠性こそが本作のテーマなので、立派に作品を構成する重要なピースとして成立しているのよね。

 


設定

・人間をサポートするAIとしては必要性がない子供のヒューマギア。まぁ、子育ての予行演習みたいな使い道はあるかもしれないが(書いてみて思ったがあるとなかなか有益そうだな)、"未熟なAI"という意味では必要がない。ヒューマギアが支配権を握ると、そういったヒューマギアの愚行権が認められるというような描写なのかな。

(参考:大自然がつかわした戦士『漫画 仮面ライダー』 感想)

・ソウゴ達がウォッチを手にしたのは本編と同じでウォズが時間を止めて(というよりは作者特権で)渡したのだろう。
ここから察するに最終回でのソウゴは、自分たちの力と記憶の与奪権をウォズに託したということになるのかな? 完璧になかったことにするのではなく、可能性や余地を残しておくような感じ。僕の好きなディズニー作品『ファイアボール』に、「概ね万事においてそれほど完璧にしない法案、略してオバカン法」というのがあってね。ゼロワンについて考える上でも参考になるので機会があればぜひ。
・根本的な舞台設定として、ゼロワンの過去にタイムジャッカーが介入するという時点で(後のタイムマジーゲイツ機も含め)、既にジオウとゼロワンの世界が融合していないと成立しないのよね。
これについては、またソウゴが敵を倒す"仮面ライダーごっこ"をしたくなったから無意識に引き寄せたか、OQで言うところのSOUGOにあたるポジションとしての「令ジェネの作者」がソウゴの能力を利用したと取るかのどちらかが自分的には収まりのいい解釈。ウォズの本を真逢魔降臨暦に変えたり、そこに始まりのライダーについての記述を加えたりしたのも同様。
或いは、最終回の世界がそのままゼロワンの世界(とゲイツマジェスティに分岐する世界)だったと見ることもできるか。
ウォズが使っていた"元の木阿弥"という表現が気になったので調べてみたところ、庶民だった木阿弥さんという人の声が死んだ偉い人に似ていたということで影武者として取り立てられたんだけど、正当な後継者が育って必要なくなった途端に元の庶民に逆戻りしたという故事が元になっているらしい。この場合はむしろ逆というか、ソウゴは魔王(替え玉)としての権力を得ているところが面白い。
・アナザーライダーが生まれたのに何故ゼロワンライダーたちの力が消えていないのかという点は単純な話で、消えていたとしてもその改変された歴史の中で新たにつくられているので、消えていないように見えるだけ。
例えばソウゴが過去に戻ってバス事故を防ぎ、両親の死をなかったことにしたとする。でも、仮にその直後や何年後かにまた死んでしまうような目に遭ったとすれば、結局現在のソウゴに両親がいないという結果は変わらない。
本編で同じようなことが起こらなかったことや、今回だけそうなったことに対しては理由なんて要らないと僕は思うんだけど、どうなんだろうね。
・或人に正史の記憶が残ってたのは、イズの言う通り単なる"バグ"でもいいと思うんだけど、彼女はポンコツなので(いい意味で)鵜呑みにはできない。例えば或人にブランクウォッチを渡しておけば、ゼロワンライドウォッチという形で記憶を保持して置けるかもしれない。ゼロワンの力自体はさっき行った通りアナザーゼロワンと共存できてもおかしくはないように思う。劇中では一応アナザーゼロワンの(一時?)撃破と入れ替わりに変身してたけど。
・ゼアがシミュレートの参考にしたという"歴史の綻び"というのは何なんだろうね。
綻びのひとつとして考えられるのはやっぱり、歴史改変当事者ウィルの記憶。と言っても今回のウィルは未来から来た訳ではないんだけど、フィーニスから聞いた正史世界の情報をゼアに伝わる形で(例えば裏切る前のイズの前で)口にしていたとしたら、そこから逆算することは可能かもしれない。
・しかしもっとも大きな違和感は、偽史において或人が何をしていたのか、という部分にある。まるで世界五分前仮説のように、或人は冒頭のあのシーンではじめて(正確には幼少期以来に)あの世界に姿を表したかのような扱いを受けている。
ソウゴが"そういう舞台"を用意したととるか、或いは融合したジオウ世界の「主人公の夢が現実になる」というルールが或人に適用されて、今回は或人がジオウたち先輩ライダーを夢見たととるか。
・フィーニスがソウゴから「全てのライダーの力」を奪った結果何故アナザー1号になったのかというのは、僕には割と自明のことだったので説明が難しいんだけれど、例えば「あるものについて連想するものをたくさん羅列していって、元になったものを当てるクイズ」のようなものだと言えば伝わるだろうか。
バッタ,バイク,変身,仮面,触覚,Oシグナル,クラッシャー,涙,本郷……ここまでくればほとんど1号が絞り込まれ導き出されることだろう。そしてここに挙げた要素たちは、一人ひとりは部分的にしか持っていないこともあるが、全員から抽出していけば元の仮面ライダー1号帰納的推論によって逆算してかたちづくることは不可能ではないだろう。まぁ、元より完璧に再現なんてできずに歪んだ1号なんだけれども。
というか、そもそもアナザーライダーになるために人から直接力を奪う必要というのはないはず(ほとんどの場合遠隔)なので、全ライダーの力を奪ったのとはまた別に、世界の何処かにいる1号から力を奪ったのかもしれない。
ゲイツやウォズが基本フォームのままで戦ってたことに対して、というかそれに限らずライダーに対して"ナメプ"という評価を下している人をよく見るけれども(もちろん昔の僕も含め)、「必ず全力を出すべき」というのは、正しいけど人の自由を奪う考え方なのよね。理屈を通してしまうとこれも結局正しさに含まれてしまうのだけれど、例えば徒歩5分の場所へ行くのに車を使うかどうか。10分ならどうか。また自転車という選択肢もある。車は徒歩と比べて速度が速いぶん、流れていく視覚情報を処理する負担が大きいと聞く。僕は免許持ってないので知らんけど。
それと同じで、大きな力を使うのは僕らが思っているよりも気を遣うものなのかもしれない。人には"慣れ"というものもあるし、必ずしもスペックという視点で使うフォームを選ばなきゃいけないという考え方は少しかたいように思う。
・「全ライダーの力」を奪われたにも関わらず、終盤にてジオウがグランドジオウに変身したのも、テーマと合わせて考えれば答えは見える。
過去ライダーの力(元ネタ)は奪われたかもしれないけど、グランドジオウは過去作にではなく、『ジオウ』という作品に出てくるフォームとして存在している。故に"ジオウの力"という解釈の元に歴代平成ライダーも召喚できる。
……と思ってたんだけど、変身する直前に金色の光が降ってきて力が戻っているような描写があった。OQ的な感じで「溢れ出し」たのかね。
・ウォズは或人たちに記憶があるのはゼアと繋がっているからだと解釈していたけど、アナザー新1号を倒して世界が戻る際に、オーマジオウの創造の際に現れるコインみたいなエフェクトが出ているので、ゲイツのタイムマジーンを壊したから云々というのとはあんまり関係なく、ソウゴが満足したから事態を収めたのだと僕は勝手に思ってる。
だってそもそも、ゲイツがタイムマジーンを2007年に置いていく為には、フィーニスが過去に介入したという事実が先にないとおかしい。まぁ、こういう厳密な後先の理屈は、「未来は不確定で揺れ動くもの」だとされているジオウにおいてはあまり意味をなさないんだけれど。
で、ソウゴは2人の記憶をわざと残し、自分と戦って勝てば忘れないでいられるという選択肢を設けた。
結果としては「起こったことをはっきり覚えている訳ではないが、そこから学んだ"仮面ライダーとは何か"ということだけは覚えている」というような塩梅なんじゃないかな。

記憶消去能力なんてオーマジオウにあったっけ、なんて言ってる人もそこそこ見かけるけど、世界そのものを変えられるのに逆に何故一人の人間の記憶は変えられないと思うのかよく分からない。

 

 

 

なんだかんだでもう年末。僕はあまりそういうのを気にする方ではないんだけれど、世間的には大掃除とかほにゃらら収めとか言って区切りを付けたがる時期よね。
このような心の動きも、人間の認知能力の限界による"背景のリセット"機能だ。
過ぎゆく時間の中に本当は壁なんてなくて、そのまま地続きのはずなんだけど、歴史をひとつながりのものとして認識するのは非常に負担が大きい。故に我々は線を引き、1時間,1日,1年……更に平成や令和のような年号を使って"個別のもの"として捉える。
個人や作品も同じこと。
目黒の児童虐待死の件で、母親だけ「旦那からDVを受けていたから同情の余地がある」みたいな報道をされていたことに対して僕は腹が立ったのよね。
そんなこと言ったら父親だって小さい頃に虐待されてたかもしれないし、仕事で何か不運があったのかもしれないし、子供からのストレスだって実際相当あったんだろう。
そういった背景事情を気にしないために使われるのが、"自由意志"という幻想だ。
「由来を辿るとキリがないから、とりあえず個人(個体)を最小単位として認識しましょう。"わたし"の決断は、他の誰かではなくわたし自身に由来し湧き上がるものです」という暗黙の了解。それによって、父親は「何故かは知らないが、自由意志の元に子供と妻を虐待した」という解釈をされる。
全知ではない僕らは、意識しきれない背景を切り捨てて"自由意志"というブラックボックスに閉じ込めてしまう。
逆に、他の何かに責任を転嫁する立場は"自由意志"の存在を否定する。「ロイミュードや滅亡迅雷は人間の悪意に影響されただけなので、被害者みたいなもの」という主張は、ロイミュードや迅が自分の頭でものを考えているということを考慮していない。
分かりやすさ重視で言えば、自由意志という幻想を信じて行為主体である個人の責任を追求するのはアメリカ的、他からの影響を重視し責任の所在を曖昧にするのは日本的な立場だと言える。国境も幻想のひとつなんだけどね。
本作のテーマでもある前者の「背景をリセット(無視)する」方向の力というのは、さっきも言った通り人間の能力的な限界による自然なものなので、仕方ないなと"許容"はしてもいい。
でも、許容はその限界を受け入れ諦めることにも繋がる。
元ネタを知らずに楽しむことが駄目だとは言わないが、開き直って「背景を知ろうとする姿勢を捨ててしまう」ことはして欲しくない。という気持ちを最後に記して、筆を置きたい。

 

 

86ma.hatenablog.com

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ニヒリスティックな開き直り『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』 感想

公開日はクリスマス会があって行けないものかと思っていたんだけれど、上映スケジュールを確認してみたところなんとか間に合う回があったので、見てきました。
この記事はネタバレなしで、映画を見ていない人でも読めるような内容になっていますが、映画を見ていればより深く分かるようになっています。
映画を既に見た人向けの感想はこちら。

仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション ネタバレ感想

 

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正直、めちゃくちゃ楽しかった。
唯阿をはじめとする(ちょっとくどい)ガンアクションやウォズも含めたキャラクターたちの派手な戦闘シーンはもちろん、其雄を中心とした、或人が"仮面ライダー"とは何かを知り名乗るまでのドラマも非常に面白かった。
こう書くとプロット自体は平ジェネfinalと似てるんだな。


以前、こんな記事を書いた。

JIN-仁- 第一期 まとめ感想:エグゼイドとの比較『面白いと楽しいの違い』
ざっくりとまとめると、

意味などの内面を見るのがドラマ、見た目などの外面を見るのがアトラクション。
ドラマは"面白い"もので、アトラクションは"楽しい"。
例えばジェットコースターが上がったり下がったりすることに意味などないが、それ自体を楽しむもの。

なんてことが書いてある。
1年半前の自分の雑な話の展開に我ながら恥ずかしくもなるのだが、荒削りながら興味深い点もある。
カイヨワの遊びの分類と通ずるものがあると思うのだ。
まぁ彼の著書は読んだことがなく、あくまでネットで調べて出てきたものからの孫引きなので、彼の主張にこだわることなく、あくまでそれをきっかけに引き出された僕の中にあるイメージの話として捉えてもらいたい。
要するに、秩序と無秩序のそれぞれに人は違った快感を感じるということだ。
ただ少しややこしくて、要素が繋がる構成の妙や制限をうまく利用する工夫などは秩序的な快感をもたらすが、これは同時に無秩序的でもある。新たな秩序の"発見"は、それまでの自分の秩序を乱すものであるからだ。
本当に秩序的な快感というのはもっと静的で、それは例えば、子供が同じ本を何度も何度も繰り返し読むようなものであるように思う。
とすると、普段我々が意識する快感の多くは"楽しい"に属するものなのかもしれない。


それを踏まえた上で今回感じたのは、自分の作品への向き合い方に、意識的な"信頼"が芽生えているということ。
「僕が気付く程度の作劇上の粗(違和感)は制作側も承知の上である」という、作品に対する基本的信頼感とでも表現すべきもの。
ジェットコースターの例で言えば「無秩序に振り回される乗り物に乗る」という時点で必要な、安全面への信頼。
これによって普段感じるあらゆるノイズが無効化され、おそらく広く言われているような意味で"純粋"に作品を楽しむことができた。

(参考:"純粋"と呼ばれる子供はサンタや仮面ライダーの実在を信じているのか?)

 


……しかし、それで本当に良いのだろうか。
仮面ライダーの映画として数えて前作である『Over Quartzer』で描かれたものは、我々ひとりひとりが誰かの支配を受けることなく、自分自身の王として君臨することではなかったか。

(参考:玉座を空ける『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』 感想)

 

ゼロワン14話の感想で書いたように、他者を信じて任せるということは自分の責任を、そしてその王権を放棄することでもある。
"純粋"とは自分という色眼鏡の喪失を意味する。
空っぽの自分で作品を見ることを、果たして向き合っていると言って良いのだろうか。

自らの目で見て作品を解釈し、切り取り編集し、異なる意見とは例えその作品そのものであろうと拳を交える。他力本願ではなく、自分の笑顔は自分の力で掴み取る。
……そういう姿勢でこそ、きちんと"向き合っている"と言えるのではないだろうか。
衝突を避けていては何も生まれない。事なかれ主義は何も生まない。


あまり共感を得られるとは思っていないが、僕は暴力もあくまでコミュニケーション方法のひとつだと思っている。
話し合う気にもならないくらい腹が立ったなら、それを伝えるために殴るなり蹴るなりすればいいと思う。それとは別に政府や警察は、暴力を振るった者を捕まえて罰を与えようと努力することを公に発信しているが、それを踏まえた上で自分がどうするかは自分で決められる。
殴られた相手も、殴られた事実を踏まえて暴力を振るうに至った理由を問うこともできるし、殴り返すこともできる。
暴力に訴えなければならないケースが少なくなってきたことで、近年では話し合いばかりが殊更推奨される傾向があるが、極端な話 言葉でも人は傷付くし、死ぬことだってある。
記号表現という意味では、殴るという行為も「イヤダ」という発声も、同じ「嫌だ」という意味を持ち得る。
日本語の持つ暗黙の了解を解さない人には「イヤダ」の意味が伝わらないように、「殴るほど嫌だったんだ」という意味を受け取ることができない人もいるだろうが、そこは発信する際に相手を考慮し、伝わりやすい手段を選べば良いだけの話。
手段は発声や暴力に限らないが、何らかの発信をしなければ相手には伝わらない。
もちろん程度問題ではあるが、自分の中で勝手に完結してしまうのと比べたら、暴力というかたちでもコミュニケーションを計る方がよい場面というのは、あると思う。

 (参考:エゴとエゴの均衡『映画 聲の形』 感想)

 


ここまでは"確固たる自分"というものがある前提で話をしてきたが、僕は過去の記事でも何度か言っているようにそれにも懐疑的だ。
僕の文章を読んで、きっとあなた方は何かを思ったことだろう。
僕がこの記事を書かなければ、あなたが今そう思うことはなかったという意味で、僕やこの記事は紛れもなく「今のあなたの構成要素」のひとつになっていると言える。たとえ何も思わなくとも、黙読しているだけでも同じことだ。
更に言えば、僕がこの記事を書いているのは、当然令ジェネという映画を見たからだ。
そうやって、我々は絶えず相互作用を及ぼし合っている。
自分で閃いたと思っていた意見が、よくよく思い出してみると意識せず誰かや何かの作品の真似だった、なんて経験があるだろう。口調や口癖がうつるなんてのもそうだ。
多くの場合は複雑に絡み合っていて明るみに出ないが、"自分"というものが無数の他人の切り貼りで隅々まで構成されているのは、間違いない。
人と人とがコミュニケーションを取るのと同じように、一人の人間の中でも葛藤という名の殴り合いが行われている。

大きな目で見たとき、影響の元を辿ろうとすることはあまり意味を為さない。「彼の成功は親の七光りだ」としたところで、その親の成功もまた誰かの影響下にあるのは既に言った通りだ。
その調子で遡っていくと、この世のすべてのことは全部ビッグバンのせいということになる。更にその原因である量子ゆらぎだかなんだかのせいかもしれないが、もはやここまで来るとどちらでも大した差はないだろう。
「表現上は受け売りだけど、一度自分の中で咀嚼して出てきたものだからもうこれは"僕の言葉"だ」と、僕はたまに言う。
例え誰かの物真似でも、その時に数ある表現の中からその言葉を選んだのは紛れもなく自分自身であるという意味で、もはやそれは自分の言葉なのだ。
この感想にしたって、ネタバレに配慮という体裁で映画の内容に直接関係する話は、最初の数行を除けば意識的にしていない。
映画を見ていない人からすると、ひょっとすると見た人からも、「映画と関係のない話ばかり」だと思われるかもしれない。
だが間違いなく関係はあるのだ。
逆に、どれだけ「全く同じ物真似」に見えても、真似している人の影響が皆無ということも有り得ない。


誰もが誰かの模倣であるし、同時に唯一無二のオリジナルでもある。
そしてそれらは善悪に関係なくぶつかり合う。
この情報過多な時代には、そんなニヒリスティックな開き直りこそが相応しい。

 

 

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仮面ライダーゼロワン 第15話「ソレゾレの終わり」 感想

キャラクター

 飛電或人
・或人がまともかどうかはさておき、福添がまともってのもだいぶおかしいと思うけどな。山下は立場上あぁ言ってたけど、自社の利益のためにヒューマギア暴走の事実を隠蔽したりする方針で完全にうまく行くと思ってるのか? それはそれで社会正義に反しているという点で不満を覚える社員が出てきてもおかしくはない(特に、実際或人の方針でここまでなんとかやってこれてることからも、自分たちの利益より社会正義を重んじる社員が多いと想像することすら不可能ではない)ので、内部告発のリスクもあれば普通に隠し通せなくなって余計印象悪くなることも考えられる。
「或人は会社の利益じゃなくより広い視点での利益を選択してるって言うけど、身内贔屓なとこもあって矛盾してるよね」というのも最もだけれど、それは身内であるイズ(や或人)を切り捨てようとしてる福添も同じこと。どっちもどっちだよ。
福添が指揮とってれば根本的にマギア化を防げますってんなら話は別だけど、そうじゃないなら誰がどうやったって飛電はいずれ落ちて当然だよ。もしゼロワンとして社長自ら対処してることを公表してるのであれば、むしろ交代する方がまずい気もする。

(参考:仮面ライダーゼロワン 第13話「ワタシの仕事は社長秘書」 感想)

・今回イズを直そうとすんのはこれまでのヒューマギアを壊してきたことと何も干渉しないでしょ。マギアは元に戻らんらしいけど今回は別にそうじゃないんだから。迅も明らかにハッキングじゃなく攻撃を目的にしていたし。

・ギャグ披露の前後で感情の落差が大きいことに苦言を呈してる人も見かけたけれど、あのギャグは「イズを助けたいと思うのは素晴らしい」という意味なので、その後の「イズが助からなかったらどうしよう」と全く別の感情ではないのよね。むしろ根本は同じ「イズ大好き」でブレてない。ブレてるとするならむしろその後のゼロワンとしての出撃で、これはイズが心配な気持ちを抑えて人々を守るため判断をしている訳なので悪いことじゃない。敵討ち……って感じでもなかったしな。
本人も「俺が悪い」と言ってたように、あれが果たして"スバルらしい"のかどうかは微妙なとこだけども。ギャグを成立させるために現実の方を改変するの、意外とあるあるだよね。
適当な料理を前にして「これはまずいだろ」のフリがあったら、そんなでもなくても「めちゃくちゃうまい」と言うのが芸人。或いは「まずい! うまいってフリじゃないのか!」とするか。
・完全にこれまで積み上げてきた不破との関係が功を奏してパワーアップする流れだと思いこんでたけど、全くそんなことはなく、普通に落ちてたのを拾ったね。度肝を抜かれた。確かに見え見えの展開ではあるし、ありがちな上に去年もトリニティでやってる。平成のまとめでは「友達っていいよね」って話をやったから、令和では「力こそ正義」を押してくんだろうか。僕は虚無主義は嫌いじゃないがドラマにして面白いもんだとは思わないよ。まぁ、だからこそそれをやる作品が少ないから珍しくて逆に面白いという側面はあるけど。
基本的には、虚無主義が視聴者を満足させられるはずないもの。

 

 イズ
・彼女はある種典型的な意味で、"ポンコツさ"が魅力に直結しているタイプのキャラクターのように見える。似たような話は"人が嫌われる理由"と題して昨日のポケモン感想でもしたね。「ハザードみたいな暴走するフォームが好き」なんて人がいるのと同じ。

(参考:ポケットモンスター(2019) 第4話「行くぜガラル地方! ヒバニーとの出会い!!」 感想)
僕は別に特別好きだとは感じないけれど、「ポンコツでもいいじゃない」というメッセージ自体はまぁまぁ好き。イズは結構走ってるので、ポンコツなりに頑張ってるような印象もあるし。
全然関係ないけど、うちの書庫に『ロボットポンコッツ』って漫画があったなぁ。タンサンが好きだった。
・戦えないのにのこのこ出てきて犠牲になって……馬鹿じゃんという気持ちは分かる。僕も一昨年、エボルドライバーを奪われた美空に対して似たようなことを言ったっけな。「父親にショックを受けて奪われるのは仕方ないとしても、なんでお前が出しゃばって首相の送迎やってんだ」と。
でもまぁ、イズが戦いの場にいること自体はいつも或人に(あんまり役に立ってるイメージはないが)戦闘の指示をしている描写からそれほど不自然なことではなくて、襲われた理由である「同じピューマギアである滅が倒れたのに喜ぶ」ということにも不自然さはない。ところでピューマギアって誤字なんか笑えるから直さないどこ。
……要するに、この場で不自然さを感じられるのは視聴者だけなんだよね。「それまで"画面内"にいなかったのに突然出てきてやられた」ことに対する違和感でしかない訳で。
視聴者のためを思うなら何かクッションになるシーンを入れることは尺のことを考えなければそう難しいことではないはずなんだけれどそれを敢えてしないというのは、或人が自分の個人情報を気にしていたことや前回の突然キレる不破と同じで、開き直り的な清々しさを感じる。
どんなに取り繕っても結局「イズがピンチになる」という結論ありきなことは変わらないだろうし、作者という立場を長らくやっていれば、そういう虚無主義的な気持ちになるのも分かる。
でもじゃあそこを省いたぶん今回は何に注力してたんだ? というのは重要な部分なんだけれども……そこに納得いくかはそれこそ人それぞれだろうね。僕はもはやこの程度の雑さじゃ怒りを覚えないので、シャイニングアサルトホッパー変身シーンの神々しさは良かったなとだけ思うよ。釣り合わせるべきマイナスポイントがないので話にならないけど。

・あまり関係ないけど、イズのアレが雑だって言う奴はこれまでそんな素振り見せなかったのに急に音楽に詳しい(革命の曲名だけならともかく楽譜まで詳細に覚えてた)ことが発覚した一条さんの描写にも雑って言えよな。

割とマジで、ゼロワンとクウガはある部分で通ずるところがあると思ってる。
「ともかく"こう"なんだよ」と押し付けられるイメージ。

クウガはバックグラウンドできちんとシミュレーションされてるのかもしれないが、視聴者にはその途中式は公開されないので結局「作者への信頼」の上に成り立ってる。

(参考:ニヒリスティックな開き直り『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』 感想)

 

 滅亡迅雷
・墓ねぇ。正直、僕は祖父が死んでも我ながらびっくりするぐらい何も感じなかったのよね。そもそもそんなに関わる方じゃなかったというのもあるし、脳卒中で倒れてからは病院でずっと寝たきりだったので「いない」ことが普通だったし。
まだ生きてはいる頃にお見舞いへ行った際は、ストレスで何度か倒れそうになったり(おそらく血管迷走神経が云々ってやつ)とかしたんだけれど、祖父への個人的な思いというよりは"病気"だとか"死"に対する恐怖からというのが大きかったように思う。無意識ではどうか知らないけれど。
死んだ後も、葬式とか墓参りとか、まぁ面倒だとまでは言わないけども「これは何のためにやってるんだ?」と問いただしたい程度には共感できなかった。土の中に埋めることが故人を偲ぶこととは直接繋がらないように思うし、むしろ埋葬のルーツって「怖いから復活しないでくれ」って気持ちじゃなかったっけ。
「みんなやってるから」なんて理由で高い金出してやることにはあまり思えない。少なくとも僕は自分の大切な人にそんな無駄遣いをして欲しくはない。
でもまぁ、"家族"じゃなく"大切な人"が死んだとしたら、どうしたらいいのか分からなくなる気持ちは理解できなくもない。別に死んだからと言って何かをしなくちゃいけないなんてことはないはずなんだけれど、じっとしてはいられないような気はする。まだそんな経験したことないかは分かんないけど、好きな人に死にたいって言われた時とか、母さんが一家心中を計ってたと知った時とかは、少なくともそうなった。
そういう理屈(正しさ)で割り切れない部分というのは、ひとつ重要なテーマかな。
・逆に滅の言ってたような「計画通りに使命を果たして死んだのだ」という合理化は、これと食い合わせが悪い。
意味ある死と、無意味な生。
無意味な死と、意味ある生。
なんの意味もなく生きて死んだら駄目なのか?
この世に神様がいて、何らかの目的の元に筋書きを決めていたとして、その役に立てていなかったとしたら。
僕の父や育ての母は極端な運命論者で、「病気になったり事故に遭ったりするのは必ずそれに値する悪さをしているから」と、割と本気で信じている。そしてその善悪の基準は神様にあり、例えば「神様が応援している企業の商品を買う」ことが良いことなのだそうだ。当然その教えを布教している団体の会社は神様が応援していることになっているので、何かにつけて関連商品を買うし、他人にもすすめる。
それに従うことだけが本当に意味あることなのか?
或いは、受け手に媚を売り好かれることだけがキャラクターにとってのすべてなのか。
……などと言わなければならないということは、僕個人としては今回あまり気に食わなかったということなんですけれどもね。
僕はぶっちゃけ、AIはただAIのままでいればいいと思うし、作品はシンクロニシティ的に色んな要素が"繋がる"面白さがある方が好き。悪いやつ(少なくともその作品のテーマにそぐわないやつ)が死ぬなどの痛い目にあうのも度が過ぎなければいい。
・滅が「迅……!」って一瞬取り乱した後に冷静になる描写、良かった。理性の対としての感情の役割って「即座に対処しなければいけない時のためのもの」なイメージが強いので、人間の何倍ものスピードで思考できるならばそれだけ感情の必要性というのは薄れていく。
逆に或人がその機能をあんまり使ってない(ように見えるだけかもしれないが)のは感情があるが故に「この件はよく考えなくていいや」と即座に判断しているからとも言える。

(参考:"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として)
・滅を迅を守ったということは、「守らなきゃいけないほど弱い」ということになる。覚醒ってのがなんなのかはよく分からんが、なにくそ精神で強くなったんだろうか。
・アサルトウルフキー拾う素振りがなかったね。雷と滅を倒した憎きアイテムだからだろうかね。

 

 

設定

・其雄が法律違反ってのも、そもそも或人は法律に関係なく「あまり問題ない」という立場だし、法律と違う信念を持ってたら悪いなんてことはない。法律は法律のやりたいようにやってるだけで、「問題が起こったら面倒だからそもそも似せること自体禁止」にしてるだけであって。
そもそも其雄制作当時にその法が整備されていたとも限らない。遡及処罰(まだ違法とされていなかった時期の行動に罰を与えること)は現実世界同様に禁止されていておかしくない。
「映画の録画録音を防ぐために携帯電話は使用禁止」と同じで、少なくとも或人にとっては、似せたヒューマギアをつくること自体は問題ではない。「信号無視は法律違反かもしれないけど、明らかに車が通ってないんだから本来の目的である安全は守られてるしいいよね」とも似ている。

・今更ギーガーのセキュリティがガバガバとか言ってる人は流石に話ちゃんと見てないでしょ。ここまで来て天津のマッチポンプ以外の選択肢ある? セキュリティとかそういう話ではもう既にないよ。
まぁ、人を見る目という意味でのセキュリティ(警戒心)はどうなんだってことだけれどね。飛電も A.I.M.S. も、ZAIAを信用してしまったという点は甘いと言えるかもしれない。世論的には「それでもやっぱり騙す方が悪い」「セカンドレイプ反対」の方が強い印象なのであんまり言わないでおくけど。

 

 

「血液型なんかで人の性格は分かるはずがない。人はたった4種類には分けられない」「昔から少女漫画読んでても『こんな男子はいない』って思ってしまう」と漏らす人を、「頭いいんだね。私なんてもの見てて否定しようなんて思わないもん。ただなんとなく『あーそうなんだー』って見てるだけ」と褒めちぎる人がいた。
これは極端な例だけれども、ただ否定することが頭のいいことなのか?
本当に血液と性格に連関があるかどうかはともかく、そうやって理由付けすることで心の平穏を保てる人がいるのは事実だし、少女漫画だって楽しんでる人は普通にいる。僕も小さい頃ミルモとかちびデビとか見てたしな。
自分の視点からしか物事を見られないなら見られないで、そのぶん深く思索してないと僕には「頭いい」とは思えない。

 

前話

仮面ライダーゼロワン 第14話「オレたち宇宙飛行士ブラザーズ!」 感想

次話

仮面ライダーゼロワン 第16話「コレがZAIAの夜明け」 感想

 

映画

ニヒリスティックな開き直り『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』 感想(ネタバレなし)

仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション ネタバレ感想

ポケットモンスター(2019) 第4話「行くぜガラル地方! ヒバニーとの出会い!!」 感想

この間は朝起きることの話から入ったので、今回はもちろん(?)歯磨きの話から。
正直ねー、苦手なんだよねー。
理屈をこねるならば、育ての母さんと暮らしてた頃に、毎回赤くなる歯垢検査薬を塗られて綺麗になるまで1時間も2時間も磨かされてたりとか、時間がないと「仕上げはお母さん」てなノリで喉にささる勢いのブラッシングをされたりとかっていう経験から嫌いになったんだと、あるいは障害特性の感覚過敏からそもそもあのブラシの感覚が苦手だとか言えるかもしれないんだけれど、まぁ普通に嫌い。
明らかに挟まってて違和感があるならともかく、放置してても実害ってそんなないんじゃんね。虫歯も痛んできたらそりゃすごく後悔するけど、タイムラグがありすぎてあんまりそこの因果関係にピンとこない。
口臭がどうこう言う人もいるけど、口のニオイなんて嗅がれるシチュエーションが全く分からん。そんな顔と顔が近付くことなんてまずないし、仮にあったとしてもその時は鼻呼吸するだろうし。ニキビがどうとかフケがどうとか、みんななんでそんなに他人に興味があるのかね。近くにいるだけで体から不快な匂いがするとかはまだしも、他のことって不都合あるか? 「髪になんか付いてるよ」ってどうしていちいちそんなこと気にするの。毛づくろいしたがりのゴリラかよ。……いや、この場合僕がゴリラ以下の清潔感覚なんだろうけれども、ゴリラ以下でも問題なく生活できてますから。

いい機会なので言うけれど、僕はオタクかもしれないし、これまた障害特性なのか水に濡れる感覚が苦手でお風呂もあんまり入らなくて、友達に「汚物」だとか言われた記憶があるほど不潔だった時期もあるんだけど、それでもなお(我慢してまで?)友達として関わって貰えてたのよね。
だから、ある人が嫌われる理由は「オタクだから」とか「不潔だから」とかそんな単純なことじゃないんじゃないのって思う。
もっと色々なことが複合的に絡み合っていて、どうしても一言で表すなら、「お前が嫌われる理由は"お前だから"」となる。
すごく煽りっぽくてキャッチーで面白い表現なのでそのまま載せたけど、実際の意味としてはただのトートロジーに過ぎない。「お前(嫌われる人)が嫌われる理由は"お前(嫌われるような人)だから"」と書けば、なんの発展性もない無意味な文章だと分かるだろう。
例えば「顔が良ければ多少のずぼらさはむしろ魅力に転じ得る」としたとき、ある人が嫌われるのは「不潔で、そのうえ顔が良くないから」となる。或いは「多少顔が良くても、もっと良い人がその人の近くに多いから」なんて可能性も考えられる。周りの環境まで含めてその人を構成する様々な要素が複雑に作用して、好かれたり嫌われたりという結果が生まれる。それを一言で表そうとすることがそもそも無理な話で、敢えてやるならやはり"嫌われるような人だから"というようにふわっとせざるを得ない。
僕が(万人からは)嫌われない理由ひとつとっても、僕には複雑すぎて全然分からん。僕自身はお風呂に入らないことが原因で嫌われるならもうその人とは合わないから嫌われても仕方ないと思っているんだけれど。友達になってくれる人からよく言われるのは「かわいい」ということなんだけれども、容姿について言ってるとはどうも思えないのよね。僕は髭も剃らないし、剃ることをすすめられたことから似合ってるという訳でもないらしい。それもある年に限った話じゃなく、これまでの人生で適当に時間を潰し合う仲間に困った時期はほとんどない。うーん、不思議。

 

まぁいわゆる"子供向け"の作品として、劇中ではサトシが歯磨きの中にも楽しさを見出すって描写だったけど。
ヒバニーにカバンを盗まれるのも、「海外では日本よりはスリが横行している」というイメージを暗に感じる。そういう先入観を植え付けるのは良くないという立場がいるのも分かるけどね。
昨日までの3日間、歯磨きをしなかった代償として大量の虫歯を抜くために入院してて、待ち合い室に『かいけつゾロリ』シリーズがあったので読んでたんだけれど、コレクトコールに悪いイメージを付けるような描写があった。これは果たして功を奏したのか分からないけれど、良くも悪くも子供向け作品の役割ってこういうことだと思うんだよね。理屈とは少し違う、前回言った"無意識レベル"での学習。
ポケモンスタッフのインタビューにとてもいい言葉があったので引用させてもらう。

たとえば「ミュウツーの逆襲」(1998年)では、ミュウツーの言っていることをサトシは半分も理解できていないと思うけど、気持ちだけでなんとなく通じ合っていく。言葉で納得し合うわけではなくて、“どこかで通じ合う”というところが表現したいんです。

ピカチュウがモンスターボール入らない!? シーンに隠された意味|ウーマンエキサイト(1/2)より

僕が言いたかったことというのは、これにとても近い。言葉的な思考だと本当は微妙にニュアンスが違うと注釈したいところなんだけれど、気持ちは通じてる。


盗む側も生きていくために必死なんだってところも、通じていたら嬉しいポイントかな。

(参考:悪者とは弱者である『語ろう! クウガ・アギト・龍騎/555・剣・響鬼』高寺成紀編 感想)
人に言ったら怪訝な顔をされるんだけど、僕は「人から盗むほどお金に困ってる人になら盗まれてもいい」と思ってる。もちろん完璧に許す訳じゃないけど、ある程度は仕方ないかなと思う。裏を返せば、僕も盗むくらい困ってたらきっと盗むだろうなと思ってるというのがあるんだけれどね。
まぁ、盗む前に駄目元で「恵んでください」と頼んでみるだろうけど。意外と世の中には優しい人がいるもんよ。
山の中を通るバイパスの麓を自転車でちょろちょろしてたら「この道は自転車じゃ通れないけど、回り道してたら日が暮れるぞ」と言ってトラックの荷台に自転車ごと乗っけてってくれたおじさんとか、単純に疲れて道端に座ってたら「帰りの電車賃ないのか?」って言って断ったのに400円置いてったおじさんとか、ここ1年だけ振り返ってもめちゃくちゃ親切してもらった。もちろん「老後の面倒を見る気はありませんよ」と言ったのに未だに養ってくれてる親もそうだしね。


最後のゴウの語りかけは色々と不思議な部分があった。
サトシが「最近気付いた」って言ってたけど、これまでの劇中にそれらしい描写が見当たらない。世界の広さを知ったという意味でしっくりくるのはミュウとの出会いだし、恐れずやってみるというのも「ミュウを捕まえる」という目標を思えば分かるんだけど、最近の話ではとてもないどころかサトシは知らないはず。
強いて言えば、友達なんかいなくてもいいと諦めてたけどサトシに出会えた……みたいなことだろうか? 
あと「ヒバニーの足には幸運が宿る」って言ってたけど、あれ"高温"の間違いじゃない? いや、聞き違いならそれはそれで面白い(前回話した"自分だけの図鑑"の文脈)と思うんだけど、いかんせん配信には字幕がないので確信が持てずちょっとモヤっとした。本当に幸運なんだとしたら、元ネタか何かあるんだろうか。気になる……。

 

 

僕のポケット

『ティラミス』
チゴラス-ガチゴラス
名前が"チゴ"ラスだからなのか妙においしそうだと感じていたのがまずあって、更にニックネームをつける前に性格を確認したところ"さみしがり"だったということもあり、ティラノサウルスのティラとI miss youのミスで「これしかない!」と。寂しがりやと稚児(チゴ)もリンクしてるし、かなり気に入ってる。
こういう要素と要素がつながる気持ちよさというのは、やっぱり脳の処理が楽になることに起因してるのかね。

仮面ライダーの定義の記事では「孤高の存在」という表現をしたけれど、実際他の情報とリンクしない全く未知の情報というのは、そのまま受け入れるより他に処理しようがない。「誰々の子供」だったり「何々に似てる」だったり、必ずと言っていいほど過去に知った情報と結びつけて物事を捉えたがる。それがすなわち悪いとは思わないけど、自分にとって未知に見えるからと言って勝手にマイナスなイメージを抱いて排斥しようとするのはいかがなものだろうね。

 

第1話「ピカチュウ誕生!」 感想

第2話「サトシとゴウ、ルギアでゴー!」 感想

第3話「フシギソウってフシギだね?」 感想

仮面ライダーゼロワン 第14話「オレたち宇宙飛行士ブラザーズ!」 感想

キャラクター

 飛電或人
・また遅刻。永夢の時には既に否定の感情が先行しているきらいがあったので「やる気なし」との評価を下したけれど、今の僕は特になんとも思わない。むしろ「分かる、朝起きるのって大変だよな」とすら思う。きちんと対策した上での朝寝坊は当人の責任じゃない。詳しくはポケモンの記事で話したけど。

(参考:ポケットモンスター(2019) 第2話「サトシとゴウ、ルギアでゴー!」 感想)
まぁ、寝坊とは一言も言ってないし、対策してたとも言ってないけど、僕は勝手にそう思ってます。
ところで或人の出社時間は9時なのね。福添たちは既に出社してたけど、そういう勤務時間なのか自分の自由で早く来てたのか。
あと、まだドードーキーを求めてたところから察するに、窃盗団は白状してなかったみたいね。前回一段落ついたように見えたからそう予測したけど。
・たくさんの人が思ってるだろうけど、ライズフォンをわざわざ衛生に戻す必要あるのかね。携帯モードがある意味についてもつっこまれてたけど。
管理統制という意味で言うなら、長らく放っておくとヒューマギアのように制御できなくなる可能性があるので、できるならそれを防ぐためにゼアの元に直接戻しておくのが安全、というのは分からんでもない理屈。以前ローカルネットワークの話をしたがそれと同じで、距離が近ければ近いほど手の中に収めやすい。
少し話は変わるけど、"片付け"ってなんのためにやるんだろうね。
僕はこれが大嫌いで、服とかをタンスの中にしまってしまうと完全にその存在を忘却してしまうんだよね。おもちゃも同じ理由で滅多にしまわないし、しまったら滅多に取り出さない。だからいつも容易に目につくところに置いとくんだけれど、家族からは「散らかってる、片付けろ」と言われるのよねぇ。
フライパンみたいな調理器具も、水につけとくくらいはするが、大抵片付けはしないでそのまま放置しとく。洗うのは次に使うときの直前。仮にもう二度と使わないなら洗う必要がないし、洗っても放置してたら結局ホコリとかは付く可能性があるし、だったら使う直前に洗う方が理にも適ってるよね。
場所がなくて困ってるんだったら確かに整理して収納する必要はあるかもしれないけど、そうでもないなら、よく使うものは結局すぐ出すんだから出しっぱなしでよくない?
きちんとした理由があるというよりは、なんとなく定着してしまっている形式的な習慣のように思える。
或いは、目に入る"雑情報"を減らしなるべく脳が楽できるようにしたい、というのが目的なのか。だとすると僕とは根本的に話が噛み合わないけれど。
・自我が芽生えたことを、飛電は感知できるらしい。でも、これって別に「できるなら最初からやれ」とはならないんだよね。
滅亡迅雷が自我に芽生えたヒューマギアを狙っていると明かした7話以降、8,9話は自我に関係なく(?)明確に"病院"を狙っていたし、10,11話の俳優は8話以前と同様、探すまでもなく(偶然)或人たちの近くにいて即座に対処できている。
予防はできないのかという意見もあるだろうが、滅亡迅雷が自我に目覚めている者全員を必ずマギア化している訳でもどうやらなさそう(必要なゼツメライズキーの種類に限りがある)なので、調べていれば必ず防げるとも言い切れない。むしろ下手に先回りして別の場所に駆け付けたことでマギア化した者への対処が遅れる可能性すらあることを考えると、僕的にはトントンに思える。
同じ理由で、パトカーの巡回みたいなものの必要性もあるのかなって疑問。見た人の道徳心を刺激して襟を正させることが主目的だとするなら分かるんだけどね。
或人自身が「自我に目覚めることが必ず飛電にとって損であるとは限らないからわざわざリセットしにいく必要はない」と思ってるのも手伝って、自我の目覚めに関係なく、コービーのように使用者が不具合を訴えてきた時と、マギアが暴れ出した時にだけきちんと対処すれば(少なくとも或人的には)何も問題はないんだよな。
飛電の制御下に置きたい理由というのは人に害を加えさせないためだろうから、裏を返せば害さえなければ制御下になくても別にいいのよ。
ただ、自我が芽生えることの"メリット"が劇中であんまり描かれてないというのは、見る側としては不満かもしれない。一応、腹筋崩壊太郎に人々が感じるような「健気さ」みたいなものはメリットにはなり得るけれど、実用的なメリット(しかも、命令を聞かなくなるかもしれないことを超えるメリット)は今のところピックアップされてなかったんじゃないかな。
ドードーキーより不破と自分を優先させることについては、前回長々と語ったからいいよね。


 不破諫
・昔の僕に言わせれば"唐突"に、或人のギャグを否定し初期に戻ったかのような言動をし始めた不破だけれども、思ったより嫌な感じは受けなかった。
むしろ怒りということでいくと「エボルトー!」とか「何笑ってんだよ!」みたいな感じで、変に正しげに描写されると逆に「でも結局やることは怒りに任せて敵をボコるんでしょ?」とモヤモヤすることが分かってるので、今回敢えてそうやって正当化する様子がないのが、潔くて好印象だった。
14話を見てるだけだと完全に突然キレてる危ない人なんだけど、感情に理屈はあまり通用しないからな。好印象のお礼に好意的な解釈をしておくと、前回滅が「恐ろしい存在になってきたな、ゼロワン」と言っていたのが「知るか、お前のことなど」と対比になってて、不破が焦りを覚えたきっかけのひとつはそれだったんじゃないか、ということを書いておこう。普通に虫の居所が悪かったってのでもいいけど。

(参考:ポケットモンスター(2019) 第3話「フシギソウってフシギだね?」 感想)
・ただ、パワーアップとしてはまたしても「過去からの贈り物」パターンで、あんまり面白味がない。或人と違ってフォローらしきものも見当たらなかったし。
来週が総決算だとするなら、1クール目で積み上げてきたものというのは或人と不破の関係性ということになるんだろうから、強いて言えばオーソライズバスターを借りれたこと(そして次回のシャイニングアサルトホッパー)が不破の"遊び心"の賜物ということにはなるんだろうけれど。

 

 滅亡迅雷
・迅もハッキングできたのね。それとも最近それについてのラーニングが完了してできるようになったのか。どっちにせよ彼は子供なので「できるなら最初からやれよ」みたいな理屈の通じる相手ではないんだけれど。
・迅「デイブレイクから生き残っただけあって」
やっぱり4話で少年のお父さんが言ってた"すべて"は本当じゃなかったのね。それか雷電は工場の中にいなかったってだけなのか。
それはともかく、この説明セリフって本当は全く必要ないのよね。今回の中で「実はハッキングされてた」って明かされるし、これまでだってなんの説明もなく耐えてた(アンナ,オミゴト)んだからさ。そんな時間があったらもっと他のこと説明した方がいいんじゃないのってちょっと思ったけど、長期スパンでの身心地よりも今回の雷電に対するびっくりを優先させるなら、これが最善策なのかね。
仮面ライダー
仮面ライダーの名前を冠しながら悪事を働く存在……いわゆるダークライダーに対しては僕は寛容だけれど、今回の雷のように、これまでのゲスト怪人程度のモブと言ってもいいキャラクターにまで仮面ライダーの名が付き始めたら、僕も流石にちょっと抵抗感を覚えるなぁ、と。
まぁ、僕にとっての"仮面ライダーらしさ"のひとつは見た目のカッコよさなので、扱いとしてはシザースも似たようなもんだし雷はまだ全然アリなんだけれど、これから先更に仮面ライダーの名前が氾濫していくと思ったら、ちょっと不安になった。
逆にね、これまで怪人だったところが全部シザース程度にはカッコいい仮面ライダーに変わるんだとしたらそれはむしろ僕にとっては喜ばしいことなんだけれど、(見た目が)怪人っぽい奴が仮面ライダーを名乗ることに社会的抵抗がなくなってしまうのは、たぶん嫌だな。
シリーズ自体はマンネリに抗い市場に適応するという必要性にかられて多様になって、受け手もその多様な作品を目にして「〜なのに〜らしいと思えない」という状況に適応するために、自然と寛容になる。
そこに「寛容/不寛容だから良い/悪い」とか、そういった価値判断が入る余地はない。むしろ龍騎かなんかの記事で言ったように、寛容であるというのは何かを諦めているという表現もできる。こう書くとむしろ寛容さのほうが悪く見えるかもしれない。善悪なんてその程度のものなんだから好きなようにすればいいのよ。

(参考:"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として)

 

 福添准
雷電に「社長の教育がなってない」と責められてたけど、まぁそういう見方もできるよな。「全部或人がやったことなので私に責任はありません」というのは「滅亡迅雷の仕業だから飛電は何も悪くありません」というのと大して変わらない。
責任という概念は、"確固たる個人"を前提にしている。
「自分の責任」と言えば自分以外は無関係であるというニュアンスがつくし、逆に「あいつの責任」と言えば自分は無関係だというニュアンスが付く。
でも、この世の中において本当に"無関係"であることなんて果たして可能なんだろうか? 濃い薄いはあっても、本当に関係(責任)が無いなんてことは、ないと言っても過言ではないと思う。6次の隔たりと言って、ある人の知り合い(1次)の知り合い(2次)の知り合い(3次)……という風に辿っていくと、6次目ではやくも世界中の人間が繋がるという話がある。
0と1だけでこの世を捉えようとすると、必ずどこかで歪みが起きる。
福添ほど或人に近い人間が無責任であることなんて、ほぼ無理だろう。実際、「或人が会社に損害を与えればクビになって自分が社長になれる」なんて言ってたこともあったし、関係は普通にあるでしょ。それが悪いことかどうかはさておき。
また先月やったバイトの話なんだけれども、僕は仕事の1つとして見切りをやってたのよね。賞味期限が近い商品に値引きシールを貼るの。
で、基本的には品出しの人が賞味期限の近いものをより手前に陳列するように決まってるので、仕事を教わった際には「手前らへんを一通りチェックすればいい」という風に言われた。んだけれども、僕は不安性なので指示を無視して奥の方までチェックしてたところ、賞味期限の近い(特に生鮮コーナーなので当日とかの)商品がボロボロと出てくるのよ。
確かにお客さんが見たときに順序が入れ替わる可能性はあるので、そもそも絶対に信頼できるようなものではないんだけれど、それを加味してもなお明らかに、期限を気にせず適当に品出しをしているらしい。
品出しの人を信頼して無責任に手前だけチェックすれば、値引きの仕事は早く終わってそのぶん別の仕事ができる。
でも品出しの人を信用せず責任を持って全部チェックしてると、とても時間がかかってしまう。品出しの人がちゃんとしてた場合、二度手間でもある。
どこまでを"相手の領分"として切り捨てて自分は無関係だと言い張るのかというバランス感覚が、非常に難しい。
もちろん、どれだけ責任感を持って自分事として仕事に向かおうとしても、単純に物量の問題として一人で全部の仕事をやることはできないので、どこかで他人を信頼し役割分担をする必要は出てきてしまう。
今度はこれまた何度か話に出してる障害者のための施設での話で、そこにはく希望する人たちが200円ずつ出して集まり、一緒にご飯を食べるという場がある。
メニュー決めやら調理の分担やらで互いにコミュニケーションをとり交流を深めるというのが一番の目的で、あとは単純に200円で1人前を用意するより1000円で5人前つくった方がコスパがいいというのもある。
僕は他の人にやらせることを申し訳ないと思うタチなので何でもかんでも自分でやりたがってしまうのだが、そうすると本来の目的であるコミュニケーションが取れなくなってしまうのよね。
この間、ある人が料理を残して「どうしても食べ切れないから捨てる」と言うので、それを許せなかった僕が代わりに食べるということがあった。
僕は人の食べかけを食べることはかなり嫌いな方なんだけど、それ以上にまだお腹に余裕があるのに目の前で食べ物が捨てられるのを無視するというのが不愉快だったし、食前に食べきれるかどうか訊かなかった僕にも責任の一端があると思ったので。
多分多くの人は「自分で食べきれるかどうか判断して申し出なかったその人の責任」だと思うだろうね。というか僕も途中までそう思って腹立ってたし。
でも「その人の責任」ということにしたからってその人が食べられるようになる訳じゃないし、食べ物を粗末にしないことを僕にも相手にも共有の目的だとするなら、僕もその目的のために相手に食べきれるか確認した方がよかったというのは事実。相手も相手で、食べ切れると見誤ってしまったのかもしれない。それを責めても仕方ない。
「なんの為に責任の所在を明らかにするのか」を見失ってはいけない。
自分の利益が目的なら、いかに自分に落ち度があろうとも誰かに責任をなすりつけることが合目的的だし、逆に自分を含めた集団全体(例えば会社)の利益が目的で自分に余裕があるなら、いかに落ち度がなく見えても「自分にも責任はあった」として被るのが合目的的。
"落ち度"や"関係度"の高い人に責任を被せるのは、あくまで「誰に事の対処をさせるか」を決めるためのひとつの手段に過ぎなくて、それが絶対じゃないということは意識しておいた方がいい。

 

 

設定

・「目的の数」
べローサ,クエネオ,エカル,ネオヒ,オニコ,ビカリア,ガエル,マンモス,ドードー,アルシノで10本。
対してプログライズキーはコング,シャーク,ベアー,タイガー,ウルフ,マンモス,ファルコン,スコーピオンの8本。仮に唯阿のチーターとホーネットのデータは既に送られているとすると、ホッパーを除いた変身(フォームチェンジ)に使われたキーが一通りということになるのだろうか? それを集めることにどんな意味があるんだろ。うーん保留。
・ゼアの情報を自動転送するプログラム……どこかで聞いたことがあると思ってたけど、3話で唯阿がニギローに仕込んだものと似てないか? もうここまできたら十中八九、滅亡迅雷は天津の下にいるので、「 A.I.M.S. にも滅亡迅雷にも突破されるガバガバセキュリティ」じゃなくて、「開発に協力していた企業が裏で糸を引いていた」という筋書きになる。
ポケモン剣盾のリーク情報が云々みたいなのが最近話題だけどそれと同じように、そろそろ「飛電の情報管理が甘い」んじゃなくて「機密情報を悪用したZAIAが悪い(飛電はゲームフリーク同様被害者)」という認識にアップデートした方がいいんじゃないかな。少なくとも制作側はそう認識して欲しそうに見える。
・滅亡迅雷の基地にザットに似た構築装置があるのは、まぁさもありなんって感じだよね。キーのケースみたいなのも同じだったし、ゼツメライズキーもあれでつくってたんだろう。

 

 

シャイニングホッパーと違って面白い演出が見られる訳でもなく、新フォームの登場としてはあんまりワクワクしなかった。攻撃をものともせず突っ走るとこくらいかな。
そのぶん次回で盛り上げてくれることに期待しよう。

 

前話

仮面ライダーゼロワン 第13話「ワタシの仕事は社長秘書」 感想

次話

仮面ライダーゼロワン 第15話「ソレゾレの終わり」 感想

ポケットモンスター(2019) 第3話「フシギソウってフシギだね?」 感想

開始早々、バリヤードがパントマイムのエア掃除機で本当に掛け布団を吸い込んだことに驚き、でもエスパータイプだからできんこともないかなどと納得したのも束の間、今度はエアバナナを食べ始めてもう一度びっくり。
調べてみたところ、見る側が本当にあると信じると、それは本物になるらしい。ご飯もらえてないのかと心配になったけど、それで腹が満たせるなら食費かからなくていいね。
「パントマイムなのに本当にあるように見える!」とは思わなかったけど、一瞬違和感を感じなくてスルーしそうにはなった。というかサトシ達が普通にスルーしてるからさ。

 

一緒に住んでたらそのうち見慣れてくるんだろうけど、前回サトシがバタフリーに新鮮味(?)を感じていたことに感心したのよね。バタフリーもそんなに珍しい訳じゃないし見慣れてておかしくないと思うんだけど、パッと見は同じなように見えても、人間と同じく一匹一匹個性があって、新しい発見をしようと思えば何かしら見つかるはずなんだよな。勝手によく見る前から同じだと思い込んでるだけで。
今の土地には合計で10年ちょっとくらい住んでるけど、意識して散歩してみると、意外と知らないことが多いと気付く。「この細道の向こうにあんな家があったのか」とか、「ここ駐車場だったのか」とか、未だに新しい発見をする余地がある。
世界は情報で溢れていて、作品に対してもなんでもそうだけど、"退屈"を感じるのは見る側の問題なんだなと最近常々思う。前回みたいに、他の人はわざわざ取り立てないような、ただサトシが寝坊するだけのシーンを見て、僕は2500字ものことを考えて書けた訳だし。
外界から入ってきた情報を意識して処理するために必要な"受容体"とでも言うべきものは、その人の心の豊かさと深くリンクしている。
何見ても感想を書けるほど豊かな知識と知恵を身に着けられたら、毎日が楽しいだろうなぁ。

 

 

今回からスマホロトムが登場。
ロトム好きなんだよねぇ。ポワルンとかもそうだけど、フォルムチェンジっていうシステムそのものが好き。仮面ライダーみたいな変身ものとか、変形する玩具とかが好きなのとも重なってくると思うんだけど、どうやら僕は多面性に魅力を感じるタチらしい。
フォルムチェンジが公開された当時の情報源は主だって、図書館で読めた小学館の雑誌『小学◯年生』シリーズかなんかだったと思うんだけど、ゲームをプレイしないなりにライブ感を伴ってワクワクしてた記憶がある。それまで「そういうもの」だと受け入れていたところから変わって、初めて"新しいポケモン"という認識を持って接したのが第四世代……ゴンベとか、マネネとかウソハチとかなので、いちいち新鮮で楽しかった。
……新鮮? 幼ければ幼いほどより新鮮なはずなのに変だな。ちょうど「見るものすべてが新鮮だから"新鮮"だと意識しない時期」から「新鮮に感じないものが増えてきて"新鮮"を意識する時期」への過渡期だったんだろうか。
っていうか言ってて気付いたけど、新世代への入り口,緩衝材として、既存ポケモンの進化前や進化後が用意されてるのか。
特にピチューのような進化前は「その存在がなければ既存のポケモン(ピカチュウ)はいない」というロジックを組むことで「こんなのポケモンじゃない」と言いたくなる気持ちを封じ込める効果が高そう。
逆に第5,6世代に感じてた異質さはそれがないことだったのかもしれない。

 

ポケモン、特にゲームをやっていて感じることとして、「本当に未知な状況下での冒険」というのがないことに違和感を覚えることがあるのよね。
メタ的に言えば制作者がいるんだから当然ではあるんだけど、"図鑑埋め"という言葉が如実に示すように、僕らが旅するのは常に「既に誰かが体系立てて整理した世界」なんだよね。
博士の図鑑づくりを手伝うという体裁をとってることが多かったと思うんだけど、一度捕まえただけで詳細な解説が出てきてしまうのは、それはそれで魅力ではあるんだけど、その魅力というのは"冒険"が持つそれとは相性が悪い。
他人の図鑑をなぞることはできても、自分で図鑑を書くことはできない。
特に伝説みたいなレアポケモンですらその範疇にあるのはちょっと萎えるところがあるよね。まぁ、よく考えたら"伝説"のポケモンなんだから知名度やエピソード自体はあっておかしくないんだけども。

 

この違和感に対する回答は色々ある。
例えば、作中の図鑑を特別視せずあくまで博士たちの勝手な私見,偏見に過ぎないとした上で、それにとらわれない全く自由な図鑑を自分でつくることは別に不可能ではない、とすること。ゲンガーの正体はピクシーだとかガラガラのお母さんがガルーラだとか、そういう都市伝説も自分がそう"信じる"なら事実として図鑑に起こすことができる。
例えば、博士たちの認識も尊重すべきものと認めた上で、主人公はそれの反証がないという確認、あるいは反証があるのなら発見して図鑑にフィードバックする役割を負っているのだとすること。ポケモンGOでは時々「こんなに大きな/小さな◯◯(ポケモン名)は見たことない」みたいなことを言われることがあって、僕はこのセリフで"図鑑づくりに協力してる実感"というものをポケモンにおいて初めて感じた。ついさっきまで、GOの図鑑の体重や高さの欄には、自分が発見した範囲に限ったデータが表示されてるもんだと何故か勘違いしていた程に。
また、アニメはゲームと違ってつくりながら少しずつ公開されていくものなので、当初の予定と変わることもあるだろうし、そのぶん新しい発見もしやすい。ゴウのスマホロトムの声なんかも、新鮮で面白いよね。
あとはまぁ、パッチールの存在を示すだけでもある程度の効果はあるだろう。
最初に挙げた「自分だけの図鑑」というのは、そこまで極端なものではないが、「思い出」というかたちで誰もがつくっているものだしね。ポケモン研究者の掌の上にないものの筆頭は、やはり僕らが付けるニックネームだろう。
恒例にしていきたいニックネーム紹介も、このアニポケ感想自体も、実はそういう意図の元で書いている。
このブログは"僕の世界"図鑑なのよね。

 

 


やっと作中での本題であるフシギソウ大量発生についての話に辿り着いた。いつも通りのことながら寄り道しすぎな。
うちの近くにも「野良ネコに餌を与えないでください」っていう看板がある。まぁあれは「増え過ぎてフンが迷惑だから」だそうだけれども。
フンもそうだけど死体もそうだよね。
このまえ轢かれたネコの死体を見かけてさ。女子高生2人がいて気まずかったので一旦家に帰ってゴミ袋をとってきたら、路上にいたのが道端に移動されてた。
ネットで調べたところ、世間的には死体を見かけた場合は役所の衛生課に連絡することが推奨されているらしい。そうすると回収しに来てくれるそうな。
接触るのは嫌だからってわざわざ持ってきた袋を使う必要もなくなったので、普通に電話だけして帰ったんだけどね。あの女子高生達が直に移動させたんだろうか。確かにまた轢かれそうで可哀想ではあったけども。
ハトの死体は僕は特に連絡しなかったけど、行きに見かけて帰りにはもうなくなってたし、結構速やかに処理されてるみたいね。
僕もそうだったように、「道端に死体が落ちている」ことが多くの人にとって結構な異常事態だから、すぐさま連絡が行くんだろうな。

「今日もあちらこちらで命は消える はずなのにどこを歩けど落ちてなどいないなぁ 綺麗好きにもほどがあるよホントさ なんて素晴らしい世界だってなんでなんだか」

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今回もうひとつ特筆したい点は、「なりきり」。
ミミクリとも言って、ミミッキュの由来でもある。仮面ライダーだとカブトで「アンチミミック弾」ってのが出てきてたね。
以前「変身ベルトは特殊なおもちゃ」という記事も書いた。
YouTuberであるヒカキンさんがちょうどこの間"成功論"と称して、まぁざっくり言うと「トップの真似をしろ」という話をしていたのよね。僕は正直「それさえしてれば成功する」とまでは全く思わないんだけれど、参考にする分には有益なことではあると思う。

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仮面ライダージオウ』の玩具は種類毎に一通り集めたんだけど、何故かって言うとヒカキンさんが言ってたのと同じで「彼らが普段使っているもの(感じている感覚)を共有することで、彼らについてより深く理解するため」。
人間はそんなに単純じゃないので、同じものを使っていたからと言って突然同じ思想になったりなんてことはしないけれど、仮面ライダーは基本毎回1度は変身するし、となると何十回何百回と触ることになる。演者さんは更に何テイクも多く扱っているだろう。それだけ多くの時間触れていれば、極端ではなくとも影響がない方がきっと稀だろう。
例えば、ブーバ/キキ効果(ブーバとキキという音では、ブーバの方が丸みを帯びた、キキの方が角ばったイメージを抱きやすい)みたいな感じで、丸っこいものを多く触っている人は、ひょっとするとカクカクしたものを多く触っている人よりも、まるい性格になりやすいかもしれない。そんな気、しない?
もうちょっとだけ分かりやすい例を上げると、素読に期待される効果と似たようなものなんじゃないかな。意味の理解はさておいて、とりあえず同じ音を発してみる。御経を読むのとか、「南無阿弥陀仏(なんまいだー)」って唱えるだけで救われるみたいな大乗仏教的な思想も多分そう。
じゃあなりきり玩具で遊ぶことから具体的に得たものを挙げろと言われたら閉口してしまうんだけれど、無意識レベルでは僕もしっかりと影響を受けて、相手を理解するための地盤みたいなものが比較的形成されていると思う。
それこそ前半に話した"心の豊かさ"にも繋がってくる。そういった経験が幾重にも積み重なり折り重なって、僕らの心はできている。

 

自然と人間の関わり方やロケット団についてはこれからまたたくさん語れる機会があるだろうから、その時でいいかな。

 

 

僕のポケット

『ちょうはつ』
ラルトス-キルリア-サーナイト
『まがお』
ニャスパー

単純に、パッと見で「髪長いな」「真顔だな」と思ったので。
弟には「そんなの名前じゃない。酷い、かわいそう」とか言われたんだけれど、付けた僕はそれなりに愛着を持ってるんだよね。確かにポケモン世界であることを踏まえると技名の"挑発"と誤認してしまうことには後から気付いたけど。
キラキラネームを糾弾される側ってこういう気持ちなのかな、などと。
そりゃ本人に「嫌だ」って言われたらちょっと考えるけど、言っちゃえばゲームな訳だからその心配もない。姓名判断師もどんな名前付けようが「いい名前だ」と言ってくれるし(その後すぐ変えるけど)。
言うて種族名も「クサイハナ」とか散々なのおるしな。
でも、くさいことが悪いこととはひとことも言ってないよね。そう思うのは聞く側。この『ちょうはつ』も『まがお』も、僕はそこがチャーミングな特徴だと思ったから名前にしただけで悪意はないし、クサイハナもひょっとするとそうなのかもしれない。……それはないか?

 

第1話「ピカチュウ誕生!」 感想

第2話「サトシとゴウ、ルギアでゴー!」 感想

第3話「フシギソウってフシギだね?」 感想

ポケットモンスター(2019) 第2話「サトシとゴウ、ルギアでゴー!」 感想

朝起きるのって難しいですよね。
サトシは前回に続いて3回目の寝坊をした訳だけれど、僕も朝にはかなり弱い。
そもそもの話、入眠も覚醒も意識的なものじゃなくて、無意識の領分じゃない。朝の起床に限らず、僕の無意識は非常に頼りない。
ぼんやりした頭で「起きようかな、もう少し寝ようかな」なんて風に思考できればまだマシな方だけれど、そんなことを考える余地なく「起きてみたら時間を過ぎていた」というケースについては、もはや自分の力でどうこうできる問題ではないと思うんだよな。
忘れ物なんかも同じで、別に僕だって忘れたくて忘れてる訳じゃないし、できることなら覚えていたいけれど、気が付くと忘れている。自分の「覚えていよう」という意思と結果が連動しない。
間抜けすぎてもはや笑い話にもならないんだけど、中学時代、絶対に忘れ物をしないようにと前日から何度も何度もチェックをして、当日の朝にも最終チェックとしてカバンの中のものを一度全部出して確認した後、全部出しっぱなしにして登校したことがあるくらい、忘れ物が多い人間だった。

 

例えば最近だと毎日薬を飲んでいるんだけれど、飲む時間にアラームをかけておいても、何かに夢中になっているとアラームに気付かないか、無意識にアラームを止めてしまう。アラームを時間差でいくつもかけることで、そのうちのどれかが意識にあがってきたとしても、まず薬を出して、水を用意し、飲むまでの間に、他の何かに気を取られてしまってそのまま……ということもままある。僕の持ってる発達障害というのは、主たる診断的には一応ASD(自閉スペクトラム/アスペルガー症候群)というコミュニケーションに関するものなんだけれど、いわゆるADHD(注意欠陥・多動性障害)的な症状も併せてあるのよね。
僕の記憶の中で一番古いそういう感覚は、おねしょについてのことかなぁ。あれも夜中に都合よく目が覚めてくれればいいけど、それって自分の意識で選択できることじゃない。体が勝手に学習してくれるまでの間、親から恥ずかしいだの洗濯が大変だのと文句を言われ続けることに耐えなければいけない。
無意識も確かに僕を構成する要素のひとつではあるんだけれど、意識としての"僕"には当然含まれていないので、「しっかり起きなさい」「忘れ物をするな」などと叱責されても、自分の落ち度というものが見当たらないし具体的に何か策を講じることもできない(できることはすべてやってても忘れるときは忘れる)ので、自分事として捉えられないんだよな。
吃音症と言って言葉を発せなくなる障害も持ってたので、小さい頃からそういう「自分が自分の思い通りにならない感覚」がずっと積み重なっている。

 

ゼロワンの感想でした話とも少し繋がる。
赤ちゃんは、泣けばご飯を持ってきたりオムツを変えたりしてくれる親を自分の一部,手足だと思い込む(錯覚)。でも成長していくと思い通りにならないこと……例えば抱っこを求めても「自分の足で歩きなさい」と言われるなどの体験が増えていき、親と自分は違う人間なのだと気付き始める(脱錯覚)。

(参考:仮面ライダーゼロワン 第9話「ソノ生命、預かります」 感想)
この話になぞらえるなら、僕は自分のことも他人であるかのように捉えてきたことになる。
まぁこれに近い感覚というのは、誰の中にも少しはあるのではなかろうか。同時に両立しない願望を抱いて葛藤したことや、過去の自分の言動に対して「どうしてあんなことをしてしまったのか分からない」と後悔したことくらいあるだろう。

 

Individual(個人)とはin-dividual、"これ以上分けられない"という意味を持つ。inは単語の頭に付いて否定の意味を持たせる接頭辞と呼ばれるもので、分かりやすい例だと他にin-finity(終わらない→無限)などが挙げられる。
これに対して、"一貫していてそれ以上分けられない個人"など幻想であるとする立場、分人主義(Dividualism)というものがある。
ふつう個人主義といえば全体主義と対置されるものだが、この分人主義から見れば個人主義も一種の全体主義だと解釈されることとなる。
個人の損得を犠牲にして集団の利益を追求するのが全体主義であるのと同じように、我々はおおむね"全体としての自分"の利益のために一部の自分の意見を犠牲にしている。

例えば何かを食べたい気持ちと、健康や美容のためにやめておきたい気持ち。
例えば何かが欲しい気持ちと、買ってしまったらお金が足りなくなるからやめておこうという気持ち。盗むのは申し訳ないのでやめておこうという気持ち。
(対価を払わずに)目の前のものを手にしたいという欲求に至っては、ある程度成熟した人であれば超自我によって強く抑圧され、もはや意識されることは滅多にないだろう。
まぁ、いくら意見がたくさんあったところで、体がひとつしかないことは変わらないので、結局は取捨選択と言う名の犠牲をなくすことはなかなかできないんだけどね。
だから分人主義というのは現実的には、主に選挙などの場において、自分の持つ1票を対立する候補者や政策に対し何%かずつに分けて投票することができるようにする、などのかたちになるだろうとは思う。詳しくは鈴木健さんの『なめらかな社会とその敵』を参照。

 

対象を"ひとまとまりの集団"として捉えることにはリスクが伴う。十把一絡げに「男は云々」と言うと、「ノットオールメン」という批判が飛んでくる。
それと同じく、僕もこうして喋っていることが僕の全てではない。
種々ある壁の中で皮膚だけを特別視する理由というのは、実はないのではないだろうか。
"生き物"の中にも様々なものがいるし、"人間"の中にも色々いる。"男"の中にも犯罪に手を染める人と染めない人がいるし、"個人"の中にも犯罪になりうることをしたい気持ちとしたくない気持ちがあり得る。
一見同じに見えても、よくよく見てみるとまるいやつやほそいやつなど違いがあるもの。だとしたら無理に区切る必要は果たしてあるのだろうか。

(参考:トランス女性(MTF)は女風呂に入れる?/性別とは一体何か)

(参考:"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として)


たかがサトシが寝坊しただけのシーンについてこんなに長く語ることになるとは思わなんだ。内容自体は、ポケモンについて話すとなればいずれ触れることになるだろうとは思っていたけども。
作品を見て「何も言うことが浮かばない」のって、それだけ自分が空っぽでつまらない人間なんだってことなんだよな。

寝坊するシーン見たくらいで突然こんな長々と自分語り始めるのもそれはそれで変だけれど、少なくとも読書感想文みたいなものが求めてるのはこういう自分語りなので、「こんな個人的なエピソード誰得だよ」とか思わずになんでも書いてみるべし。

(参考:ブログで感想を書きたい方へ)

 


突然現れたルギアに対していきなりバトルを、しかも大人数で仕掛けたことについて、いわゆる「動物虐待」的な色が強く見えて自分の中でモヤっとしたので、少し考えてみた。
前提として、草むらを歩いていると襲われるというのがポケモンの世界の常識だ。どれだったか忘れたが、「最初のポケモンをもらってバトルできるようになるまでは、危険だから草むらに入っちゃいけない」というような描写があったはず。手持ちが全滅した場合はどうするんだという疑問はあるものの、そういうことになっている。
つまり、ポケモン側は昔っから人間に突然襲いかかってきたんだよな。

それだけなら「だから襲いかかっていい」という話にはならないけど、ポケモンは多くの場合において擬人的に表現されていて、人と同じく喜んだり悲しんだり、怒ったり泣いたりするし、それなりに知性も備えているように見える。
ならば、人が草むらを避けて歩くように、ポケモンにも人の生活圏を避けるという選択肢があってもおかしくないのではないか。
特に今回のルギアのような伝説ポケモンに関しては、これまでも顕著に知能の高さが強調されてきた。その後サトシとゴウを乗せて飛び回ったことと合わせて考えると、トレーナー達が変わったポケモンに胸をときめかせているのと同じく、ルギアの方も好奇心から人間とじゃれあいに来ていたように見えた。
そういう地盤の上でなら、納得できるかな。

(参考:「ポケモンは動物虐待では?」という指摘に思うこと - ジゴワットレポート)

 

 

僕のポケット

『コロル』
フラべべ-フラエッテ

コロボックルの語感と、colorの読み替えから。かわいい感じがあるので、フラージェスにしてしまうとちょっとしっくりこないかもしれない。幸いレベル進化ではなく石が必要なので、どうするかはゆっくり考える予定。
コロボックルといえば『ハチミツとクローバー』だなぁ。元々僕は西尾維新が好きで、『本題』での羽海野チカさんとの対談を読んで「この人の作品絶対面白いな」と惚れ込んだのが出会い。『3月のライオン』と一緒にまとめ買いして、思った通り見事にハマった。
割と"空気系"な側面が強くて、キャラクターたちのかけあいをずっと見ていたくなるタイプの作品。
またその後双方ともに作品内で「明らかにあの対談の影響だよなぁ」と感じる展開があるのも密かな面白ポイント。現実世界でいわゆる"伏線"を見つけたような体験ができる。

 

 

第1話「ピカチュウ誕生!」 感想

第2話「サトシとゴウ、ルギアでゴー!」 感想

第3話「フシギソウってフシギだね?」 感想

仮面ライダーゼロワン 第13話「ワタシの仕事は社長秘書」 感想

キャラクター

 飛電或人
・「俺みたいなダメなやつ」
そういえば或人は、"ゼロワンとして戦う覚悟"は決めたけど、"飛電の社長になる覚悟"については微妙なとこなんだよな。実際に社長として会社の利益を第一に考えるなら、不利益のある情報は隠した方がいいし、9話でも再起動しない方が「ヒューマギアが暴走した」という実例を増やさずに済んだ。5話で漫画家にヒューマギアを送らなかったのも、太い客を失うという意味で会社にとってはマイナス。
イズも言っていた通り、或人は会社に損害を与える言動はたくさんしてると言えばしてる。社長としては失格かもしれない。
でも今ここで挙げたいくつかの例については、会社に得があるかどうか以前に、もっと広い視点でより良いと思われる方を選んでるよね。
ヒューマギアが暴走してるのは事実なんだから、客にはきちんとそれを踏まえた上で「自分だけは大丈夫」と思って使い続けるのか、はたまた使用をやめるのかを判断する権利があるし、自分のゼロワンとしての努力で助かるかもしれない命があるからそれに賭けること、ヒューマギアが普及することで人類全体が怠慢になることへの危惧。
……結局は良いか悪いかの判断の話になってくるので、実際に或人の行動が適切だった(良い)かどうかというのは、受け手側の価値観に委ねるしかないんだけれど、少なくとも「会社の利益を優先して世間に迷惑をかける」のと比べたら、きっと多くの人が"良い"と感じるものであるように思う。例えば僕のバイト先では、会社の利益のために(?)ちょっと床に落ちたくらいの商品はささっと洗って詰めるようなことが見られた。
どちらも回り回って会社の評判が落ちるかもしれないという点では"目先の"利益と注釈すべきかもしれないけど。
もちろん会社というのは人の集まりなので、社長が世間の為とは言え"自己犠牲"のノリで会社に損害を与えてしまうと、社員という他人にも迷惑がかかってしまう……という問題はある。最終回の剣崎に対して僕が「お前はそれでハッピーエンドのつもりかもしれないけど残される人達が可哀想だろ。秘密にする必要性が分からないし、きちんと話して納得してもらってからで良かったんじゃないのか」って思ってしまうのと似ている。
でもまぁこの辺は難しいとこだよな。剣崎で言うところの仲間や友達と違って、会社というのは社長(ただし是之助)ありきのものではあるし、だとするならばその社長の理念(是之助は或人に託した)は会社という領域においては何を置いても優先されるべきものにも思える。
「ここはそういう目的の集まりなので従ってください。嫌ならあなたがここから立ち去ってください」という話。"病院ではお静かに"というのも、極論そういうこと。病院内で静かにして欲しいのは一体誰で、静かにする当事者はその目的を共有してくれるのかどうか。
場を弁えるならば、或人が気に食わない社員は飛電を辞めるか、或人を直接説得するしかない。
或人は社長としては駄目なやつかもしれないけど、人として悪いやつであるとまでは、今の僕は思っていない。
・もう少し踏み込んで共感の得られなそうな話をすると、そもそも個人とか会社とか病院とか、そういった"壁"……鈴木健さんの表現を借りるならば細胞膜の"膜"というものは、人の認知が生み出している仮想的なものに過ぎない。というのが持論ではあるんだけどね。
いくら「"会社"の成員は社長の理念に従わなければならない」「社長は会社の利益のために尽くさなければならない」「"病院"の中では静かにしなければならない」という規律をつくって定義づけ、「会社→社長の理念に反さない」「社長→会社に損害をもたらさない」「病院→静か」と物事を一面的にしようとしても、本質的には意味を為さない。

(参考:"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として)
「或人は隠し事をしない」というのも同様で、「隠し事をしたくない」と思いながら同時に「何かを隠したい」と思うこと、また滅亡迅雷との共闘は拒みながらドライに唯阿(ZAIA)と組むことは、不思議なことながら人間の脳にはできてしまう。これを読んでいるあなたも一度くらいは、意識していなかった自分の矛盾点を他人に指摘された経験があることだろう。後から解釈を加えて辻褄合わせをすることはできるが、どうやら人の無意識は(意識が感じる)矛盾を問題にしていないということは、認めたくないだけで実は明白なのではないだろうか。
世の多くの視聴者がそうであるように、僕も「悪人でも命は大切だと言っていたはずなのに、11話で永夢が黎斗を"殺している"」という点について、何度も見返すまでは全く気が付いていなかったし、当然矛盾しているとも感じていなかった。「あれは正当防衛だ」などという弁解の入る余地がない純粋な"受け入れ"。それこそが無意識の持つ曖昧さである。
「本編と映画はパラレルなのか地続きなのか」問題も同様で、そもそも多くの人(オタクではない人、または子供など)は、そのような理屈を必要とせずに曖昧なまま"そういうもの"として受け入れている。
疑問視している人たちにしたって、本編だってエピソードやカット毎にパラレルかもしれないという可能性についてはまるで意識していないことが多い。設定や登場人物の言動が矛盾して見えるのなら、それは「パラレルだから」で説明がつくかもしれない。『ディケイド』はこの態度を体現する存在で、因果関係という繋がりを破壊し全てを並列化する。そうすれば矛盾など起こり得ないという意味で、完璧な"説明"と言える。その説明は意味(物語)を持たないが。
対して『ジオウ』は全く逆のアプローチ、曖昧さを真正面から受け止め矛盾も許容するようなイメージ。
……話を戻すけれど、個人とか会社なんてものはあくまで我々の目に映るインターフェイスに過ぎない。
"わたし"という心の壁は実態を持たないので、"わたしたち"という概念が成立し得る。「性暴力は加害者と同じ男性が自分事として解決すべき問題であり、我々女性は他人事である」なんて意見がほんの少しでも正しげに見えてしまうことがそれを顕著に物語っている。なぜ「同じ人間として」捉えることはしなくてもよいのかをきちんと説明している人は見たことがない。
或人が社員たちを"わたし"の中に含めて自己犠牲的な行為をすることも、逆に会社という繋がりを断ち切り或人の行動と社員が被る損を無関係とすることも、結局は捉えようひとつなんだよな。或人個人の言動を飛電社全体に逆流させることが正しいわけじゃない。
・「不破……さん」
何気に人のこと名前で呼ばないんだよな、或人。エイムズとか滅亡迅雷とか、所属で呼んでることが多い。やっと一人の人間として不破を意識したんだろうか。
・"ゼロワンとしてマギアを倒すこと"に限って言えば、彼の功績を否定する人はなかなかいないんじゃないだろうか。社長としてどうかはともかく、マギア掃除屋としてはほぼ失敗なしと言ってもよかろう。
その経験が糧となって今回のパワーアップに繋がるというのは、僕としては割とアリだった。ただの七光で終わるんじゃなく、これまでの努力という意味での"過去"が力をくれるというのは、ちゃんと因果応報してる。
・でもって今回、ゼロワンとして戦って満身創痍ながらも文句1つ言わず社長としての業務をこなそうとする姿が描かれていて、そっちの面でもきちんと好印象を受けた。前回がつまらんかったから不安だったけど、いいんじゃないの。

 

 ワズ・ナゾートク
・彼が死んでお涙頂戴というよりは、単に「イズが死ななくて良かったね」と強調する話に見えた。僕がワズ嫌いだからだろうか。別にイズも大して好きじゃないけど、ワズよりゃ愛着あるなって思わされた。

 

 警察
・そもそもは「暗殺ちゃんと同型のヒューマギアを飛電がつくった証拠がないので、暗殺ちゃんが自らの意思で犯行に及んだとしてもその責任(過失か、ともすると飛電社が故意に襲わせたのでは、という嫌疑)を追求できない」というところから今回の探偵編は始まっていて、それでいくと前回暗殺ちゃんは盗まれた上に改造された機体であることが発覚しているので、つまり既にほぼ解決してるんだよな。
今回は窃盗団がまだ証言をしていなかったので別の証拠としてドードーゼツメライズキーが必要だった、と見るべきか。まぁそのままでも「疑わしきは罰せず」なので、実害はイメージダウンくらいしかないんだけど。
……流石にヒューマギアを盗まれたことに対して「ちゃんと管理しておかなかった飛電が悪い」とか言い出す奴はいないよな? 改造にしたって、バカみたいに普及してるiPhoneですら脱獄なんて言葉が普通に飛び交ってるんだぞ。こじ開けて爆弾仕込むことだってきっと簡単よ。危険だから使わないほうがいいと思うなぁ。
・正直どうでもいいんだけど、警察から逃げることの何がそんなに悪いのか僕にはイマイチピンとこないんだよな。悪いことしてるかどうかが問題なのであって、してないなら別にいいんじゃね。更に怪しまれたって、潔白の事実は変わらないんだからさ。僕が警察の仕組みについて、特に捜査の任意と強制の差に詳しくないというのもあろうけど、警察というものにあまり特別な権威を感じていないというのがあると思う。
つーか照井もこの間のVシネで全く同じことしてたろ。
強いて言うなら警察の捜査を不必要に撹乱することは社会に対する損害かもしれないけど、そもそも見当違いに疑ってる警察が無能なんであって、ことの証明責任は(世間のイメージ的にどうかはともかく法的には)警察にあって飛電にはないはず。

 

設定

・バックアップができなければコピーもできないってのは分からんでもないが、"摘出"なることができてしまうなら結局セキュリティとしての意味はないのでは。ワズも活動停止してたはずだから、戦闘データはどこかしらと同期して手に入れたはず。
そもそも飛電がセキュリティのためにバックアップとれなくしたんだろうから、それを解除すればいいだけだろとも思うんだけれどさ。
「自分ですら破れない(ただし破れる)セキュリティ」って、もうすごいんだかすごくないんだかよく分からん。
ファルコンキーが要らなかったのは「要らなかったんだね」としか言えないけど。

 

 

なんと次回は仮面ライダー雷なるキャラクターが出るらしい。思うところがあるが今回は字数がちょうどいいので、このネタは次回へ持ち越し。

 

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仮面ライダーゼロワン 第12話「アノ名探偵がやってきた」 感想

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ポケットモンスター(2019) 第1話「ピカチュウ誕生!」 感想

今回からアニメ『ポケットモンスター(2019)』の感想を書いていけたらいいなと思ってます。ゼロワンと同時進行するのは難しいかもしれないけど、まぁできる範囲で。

 

僕はそんなにポケモンにどっぷり浸かってきた方ではなくて、というのもゲーム機を買ってもらったことがなかなかないので、友達の家に遊びに行ってもみんなが通信対戦とかしてるのを見てることが多かった。
アニメはまだそれなりに馴染みがあって、一般的な「小さい頃に見てた」くらいの距離感。AGあたりから見てた記憶はあるんだけど、一番印象に残ってるのはDPがやってたか少し前かくらいの時期に学童保育……学童クラブとか児童クラブとか呼ばれるところにあった、ミュウツーの逆襲のDVDかな。
そんなに豊富な種類があったわけじゃないので、暇になると自然とそこにあった作品、例えば『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人(ずっと四人だと思ってた)』とか『爆転シュートベイブレード』のサイバーブレーダー編とかと一緒に繰り返し繰り返し見ていた。
1話にも出てきたミュウだけど、子供心には彼女(に見えたのでこう呼ぶ)は戦いを好まない"いいもん"に見えてたのに、ある程度物心ついてから見たところ全然そんなことはなくて、むしろ「本物が偽物に負けるわけねーじゃん」と煽り散らかして話ややこしくしてたと気付いてびっくりしたなぁ……。
あの映画で扱われてる「コピーへの嫌悪感」って、そもそもポケモンは種族間での見た目同じで性差すら少ないし、どころかコピーポケモンはむしろ外見的には差別化されてて食い合わせが悪くないか? って思ってた時期もあったんだけど、今思い返すとコピーであるかどうかはあんまり関係なくて、「自己嫌悪感」を投影できる相手ならなんでもよかったんだろうなと。


あんまり映画の話するといつかそれ単体で記事書こうと思ったときにネタなくなるのでこの辺でやめとこう。
今回はほとんどがピチュー視点で、ゴウはともかくサトシはほとんど空気だった。でもタイトルはあくまでポケットモンスターなので、ポケモンが主役なのは納得がいく。同時上映の短編映画っぽくもあって、懐かしさも感じさせる。
確かピチューって本来マサラタウンにはいないんだよね。後から発見されたんだもんね。だから一人ぼっちだったのか。
あの辺のピチューはすぐ進化しちゃうのか、それともピカチュウとして生まれてくるのか?

ガルーラとガラルが似てるのはたぶん偶然だろうけど、ガラル地方に行くことはないのかな。剣盾は今のところプレイする予定がないので、アニメで見たかったんだけどな、新ポケモンとか。一応ヒバニーとワンパチは既に出ることがわかってるけど。
っていうか、ガルーラの子供は別ポケモン扱いじゃなくて単に"ガルーラの子供"なのね。「こどものすがた」みたいな扱いでもないし。でも「ルーラ」って呼んでるように聞こえた。
……あーそうか、ピチューが拾われるポケモンって何でもいい気がしてたけど、"ポケット"だからガルーラが選ばれたのか。
ポケットとは、主に自分の"所有物"を入れておく袋。そこに入っている"モンスター"。身近さと縁遠さを兼ね備えた、矛盾をはらむ存在なんだな。ポケモンというのは。
ガルーラは、僕から見ると別個体に見えるだけで、タマタマみたいな"いち個体"なのかもしれない。タマタマがいち個体というのがしっくりこない人もいそうだけど、僕はなんか納得してる。

一応前作のアニメSMもたまに見てて、キテルグマロケット団を手元に置きたがってたのもなんとなくは知ってるんだけど、あれって人間とポケモンの関係が逆転してると考えたら面白いな。キテルグマロケット団をゲットしてブリーディングしている……不思議な感覚だ。

 

ゴウが「はやく10歳になりたい」と言っていたけれど、僕はあんまりその方向の気持ちを抱いたことがないんだよな。お酒を飲みたいと思ったこともないし、タバコを吸いたいと思ったこともない。だからはやく大人になりたいと思ったこともない。
いつまでも学校での楽しい毎日が続けばいいと、ずっと思ってきた。今はむしろ、体だけ大人になり過ぎてしまったことに残念さを覚えている。
ポケモンは「やりたいのにできないこと」だったけど、子供だからできなくて大人になればできる、という風には捉えていなかったし、できないならできないで別にいいとも思ってた。
最近常々思うことだけど、僕は自分の中から湧き出る欲求というものが少し希薄な気がする。
ゴウの「ミュウを捕まえたい」、サトシの「ポケモンマスターになりたい」みたいな、"どうしても譲れない願い"というのがなかなか思い付かない。諦めがいいというかさ。
平成ライダーを見て感想書くのも、やってて楽しいけどできなくなったらできなくなったでやってけると思うし。
他の人は何かあるんだろうか。

 

今回のクライマックスであるピカチュウへの進化。
ポケモンは人の言葉を喋らないので、『仮面ライダークウガ』のグロンギと同じく何言ってるかも何考えてるかも本当は分からないんだけど、なんとなく分かった気になってしまうのは、投影だろうか。
知ってる人は知ってると思うけど、このブログを書いている僕は、まぁ簡単に言えばニートなんだよね。この間少し短期バイトをしたけど、基本的には親に生活費を払ってもらってる。自分の分の食事の用意や掃除洗濯なんかは自分でやってるけど(というよりは親にやらせてはいないだけだけど)、もう20歳で同い年の人も働き始めてるし、親に迷惑をかけているような、「自分なんていない方がいいのでは」という感覚は皆無ではない。
というか実際に「もう養わなくてもいいんじゃないか」と言ったんだけれど、好きでやっているとのことなので、とりあえずはもらっておこうかなと思っている。
親に対してもそうだけど、職場でも同じことが言えて、発達障害だったりその二次障害だったり、或いは性格の問題だったりと原因は様々だが、色々な形で迷惑をかけてしまうことが多い。
障害についてはオープンにしてるので、一応向こう側も分かった上で雇ってるはずなんだけど、「思ってたより酷かった」と思われているんじゃないかとか、店長やチーフは知ってても普通の仕事仲間にまでは伝わってない(しかも彼らには店長と違って「障害者でもいい/障害者は嫌だ」と選択する権利はない)ことだとか、色々と考えてしまう。
「人手が足りないから助かってる」と言われても、「面と向かって迷惑だとは言いづらいよな」と感じてしまって信じられない。
障害者のための福祉施設(地域活動支援センター)に行ってもそうだ。向こうは暖かく迎え入れてくれるが、やはり自分がいなければスタッフさん達の気苦労が減ることには違いない。


ピチューは自己否定の気持ちをバネにして、強くなる道を選んだ。弱かったピチューはいなくなり、一人前かどうかはまだ分からないが、少なくともガルーラに頼る必要がない程度には強いピカチュウとなった。
僕はどうなるんだろうな。

 

 

僕のポケット

一応アニポケの感想だけど、せっかくなのでミニコーナーとして、僕の気に入ってるポケモンの紹介とそれにまつわる雑談をしようかなと思っている。
記念すべき1匹目は「しろまる」。
現在プレイ中(とは言いつつも数週間放置してるが)の『Y』で選んだ御三家である、ケロマツ-ゲコガシラ-ゲッコウガ
鼻の白いまるがチャーミングだったのと、忍者といえば「〜丸」なイメージなので。
僕にとっての忍者と言えば、まずはハリケンジャーに始まり、忍たま乱太郎ぜんまいざむらいの豆丸ときて、なん者ひなた丸シリーズだろうか。見習いの"なん者/さのび"、現役の"にん者/しのび"、引退の"ぬん者/すのび"という言葉遊びが秀逸で、とても好きだった記憶がある。
忍たま乱太郎は今でも時々見てるんだけど、面白いんだこれが。特撮を見る人なら知ってるかもしれないけど浦沢義雄さんという方が関わっていて、シュールというか不条理というか、そのなんとも言えないおかしさが魅力。1話10分とかそこらなのでぜひ気軽に見てみて欲しい。

 

第1話「ピカチュウ誕生!」 感想

第2話「サトシとゴウ、ルギアでゴー!」 感想

第3話「フシギソウってフシギだね?」 感想

第4話「行くぜガラル地方! ヒバニーとの出会い!!」 感想

仮面ライダーゼロワン 第12話「アノ名探偵がやってきた」 感想

キャラクター

 飛電或人
・「なんでそんなこと警察が知ってんだよ」
秘密はつくらない主義だったはずでは。そういえば8話でエイムズが入ってきた時も抵抗を示してたけど、ゼロワンの正体同様そもそも隠さなきゃいけない理由がよく分かんないんだよな。唯阿に対しては確かに技術を盗まれることが怖いかもしれないけど、警察は別にいいだろ。誤魔化し方もヘッタクソだしさ。普通に「強いヒューマギアに対抗する為のプログライズキーをつくってるので待ってくれ」でいいじゃん。これ以上暗殺ちゃんによる被害者が出ることは警察も避けたいだろうし、警察に彼を止めることはできないだろうし。既に被害者が出てる事件の詳細を明らかにすることと新たな被害者を出さないことなら、優先すべきは後者だと思うんだけどなぁ。
ゼロワンの正体を世間に隠してるなら(今度はそれがなんでかって話になるが)分かるけど、そういう訳でも全くないらしいし。
小説版クウガでは、「警察はクウガの戦闘を未確認生命体(害獣)同士の争いと見做して、法的に人間として取り扱わないという立場をとっていた」ことが明かされているのだけれど、ゼロワン世界の警察はいち会社の経営者が暴力をふるっていることに対してどういう認識なんだろね。普通に正当防衛とかが妥当なとこだろうか。
・社長室を壊さずに出現するバッタ。僕はぎりぎり「社長室はゼアと直接繋がってる(プログライズキー作成)から特殊」で納得できないことはないんだけれど、それが駄目なら周囲を破壊してた描写の方をOQで示された「誇張/脚色」と解釈する。例えば漫画回の或人に家を壊すほどの動機ってないと思うし、2話では飛電のビルもぶっ壊してたし。壊さないことができるならしたいはず……だろう。
・今回のパワーアップは予想してた通り「過去からのおくりもの」型で、なんのひねりも面白みもなかったな。
一番分かりやすいのは闘魂ブースト魂だと思うけど、他にもクウガの力(古代文明)とかWのメモリ(記憶,恐竜)なんかがこれに当てはまって、何故だか"過去"は、力に対する説得力を持っているらしい。ディケイドやジオウは言わずもがな。
"輝かしい過去"とか"過去の栄光"とか言われるやつね。果たしてシャイニングホッパーくんは七光を脱することはできるのか。おんぶに抱っこ……まで言うと流石に説明し過ぎて無粋?

 

 不破諫
・わざわざライダーバトルする必要あったかぁ? 確かに不破は私情を抑えて仕事をこなす描写(4話)もあったので命じられればゼロワンに襲いかかるかもしれないけど、全体の流れ(不破がヒューマギアや或人に協力的になり始める)をぶった切ってまでやるほど意味のあるシーンには見えなかった。

 

 滅亡迅雷
・暴走するマギアを相手に戦うシーンは目新しくて良かった。でも戦ってどうするつもりだったんだろうね。ゼツメライズキーにあるバックアップデータを一部消去して戻す……とか? でもラーニングが目的だったはずで、親を離れようとするのも「素晴らしい」ことじゃなかったのか。相手が自分となるとまた話が別ってことなのかね。でも暗殺ちゃんは放っとけば人を襲いそうな気がするのでそれでいいんじゃないか? 5号と接触したことから、暗殺ちゃんにはまた何か別の目的があるのか?
・僕『進撃の巨人』が結構好きで、仮面ライダーとも通ずるものがあると前から思ってて、先日ようやくコミックスを買って読んでるんだけども、腰のアレだけじゃなく全身のベルトも立体起動に必要なものなのね。部分的に見えてはいたけど意識したのは初めて。この間「鳥は不自由」という話をしたが、鳥のように飛び回る兵士たちもベルトでがんじがらめになってるんだな。フォースライダーに似てるよね。
・カラーリングはまんまエグゼイドとゲンムだけど、これもなんか意図があるんだろうか。
アンダースーツが黒系じゃないのってちょっと珍しくて、平成ライダー的にはクウガアギトときての龍騎が派手に見える(龍騎内でもナイトゾルダ以外は黒で目立つようになってる)のと同じで、なかなか目を引く。1号2号からのV3もそうね。
でも「平成ライダーが全員並ぶとエグゼイドに目が行く」ってのには同意できないんだよな。黒系が多いからか、僕には白いフォーゼが一番浮いて見える。
・ベルトのアクションとして右に動かすってのも珍しい気がする。パッと思い付くところだと、まずゲーマドライバー。あとはブレイバックルとカブトのキャストオフくらいだろうか。
対して左に向かって動かすのはファイズギア,カブトゼクター,電王ベルト,オースキャナー,フォーゼドライバー,戦極ドライバー,ゴーストドライバー,ゼロワンドライバーと、枚挙に暇がない。
いくつか「それ右か?」って思う人もいるかもしれないが僕はそう感じるんだ、ごめんな。だからなんだって部分についてはまだよく整理できてないけど、字数が足りんので無理やり足したぜ。そろそろネタのストックが尽きそうだ……。

 

 暗殺ちゃん
大和田伸也が死んでいないのは、意図的なものなのかね。「暗殺を極めた」というのがただの驕りではなく他人から見ても共感を得られるようなものだとしたら、まぁあれが果たして"暗"殺なのかという疑問はさておき、わざと急所を外したことになる。
でも滅亡迅雷への反抗的な態度を見る限り、「親だから殺したくない」と思ったようにもあまり見えない。
僕に思いつく可能性は4つ。
「滅亡迅雷よりも大和田伸也の方が親として好きだった」
「反抗の意思こそあるが本当に殺すほどではない」
「暗殺は極めたけどあれは(暗殺ちゃんの思う)暗殺じゃないので、勝手が違い失敗した」
「暗殺は極めたけど、それでも弘法筆の誤りということはある」
3つ目以外は僕はどれもそこそこの説得力を感じるかな。
・「そろそろ飽きた」
サンドバッグとして何度も出てきたドードーマギアに対して抱いていたこっちの気持ちを逆手に取ってこういう風に言わせるのは皮肉っぽくておしゃれ。今回の中で唯一面白かった部分。

 

 ワズ・ナゾートク
・「見ての通り」
ナメた発言だなぁ。新フォームを楽しみにしてたのに今回のメインはほぼほぼこいつだったという肩透かしもあってちょい嫌い気味なんだけど、ここも嫌味で腹立つ要素の1つ。
探偵かどうかと服装はぶっちゃけ関係ないだろ。探偵じゃなくても買えばあの服は着れる。仮にワズが本当に頭がいいキャラだとすると、その程度のことが分からないはずはないので、それを分かった上で「相手の知能を考えたらこのレベルの説明でいいや」と判断して言っていることになる。しかもこれはそのまま作者も同じことを思っている可能性がある。
まぁでも実際この発言が説得力を持ってしまうくらい適当に物事を捉えてる人が多いのは、僕が生きてきた20年を参考にすると事実ではあるんだけど。何より僕自身そういうとこがあるから図星で更に腹立つ。
これも"意味の逆流"の一例ではあって、「"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として」や前回の記事で言った役者のキャラへのフィードバックについては一応肯定的に語ったんだけれど、無自覚な場合は混乱を招くので厄介なものではあるのよね。リーゼントの例がそう。

「ワズ(作者)は人間の頭の特性をうまく利用してスムーズに話を進めている」と表現すれば肯定的になるんだけれど、結局馬鹿にされてることには違いないからな。「言っても無駄だろうな」と言う一方的な諦めの姿勢が気に食わない。僕もそういう風に思うことあるけど、それでも話し合うことを諦めるのってそれこそその人を全否定してるようなものだからね。僕に言わせれば、面と向かって否定するよりタチが悪い。
・ロボットに兄も妹もないだろって思ったけど、人間でも同じだよな。血が繋がってるからって例えば必ず仲がいいかと言えばそんなことはない。一緒に暮らしていたらある程度うまく付き合っていかないといけないという面はあるだろうが、それが全てじゃない。「兄弟だからどうこう」という思考が意味をなすのは、前回の「ヒューマギアだからアドリブがきかない」と同じようなものだ。
その意味では、「そう思ったほうがロマンチック」というのは的を射ている。実際に兄妹かどうか、兄妹は仲がいいのかどうかはさておき、そう思うことをきっかけに親近感が湧くなどして関係がなめらかになるなら利用すればいい。
ただ今回の場合はイズが嫌がってるので逆効果ですけどね。

 

設定

・「暗殺ちゃんは滅かZAIAがつくった。ヒューマギアはいくらでもつくりなおせる」ってことで十分に納得できてたからこれ以上の説明なんか求めてなかったのに、謎として上から"真実"を教えられて、率直に言えばすげぇ不愉快だった。
ゼロワンに対して僕はどちらかといえば"協力的"な態度で見るようにしてるんだけれど、それがこんなかたちで仇となるとは思ってもみなかった。
説明が足りてない余白部分を自分で納得のいくように埋めていけば「意味が分からない」という状態は少なくなるけど、それと引き換えに「お前の解釈違うから」と正面切って言われるかもしれないストレスに耐えなきゃいけないんだな。
まぁ今回イラついてんのは単純につまんなかったのが大きいんだけどさ。
・第一筋が通ってるようで通ってない。祭田ゼットが同じ顔で5体いたからって窃盗団がその5体だけを同じ顔に加工する理由はない(元の顔を活かしてるならともかく、改造過程を見るにそんなことは全くない)し、むしろ5体も同じ顔なら他の盗んだヒューマギアも同じ顔に加工している方が自然。祭田ゼットが5体いたことと暗殺ちゃん顔のヒューマギアが5体いることに因果関係がまるでない。
もっと言えば滅亡迅雷がその暗殺ちゃん顔だけを利用する理由も(顔への愛着を除けば)ない。最初の一人を選ぶときから全員同じ顔にすると決めていたのか? というか毎回壊される前提で考えてたのか?
そもそも謎でもなんでもないことを取り上げて偉そうに説明してるにも関わらずこんなお粗末な理屈披露されたら、イライラしても仕方ないよなぁ?

 

 

僕には三条陸さんの何がすごいのかよく分かってないんだよな。
キョウリュウジャーに感じてる魅力は100%竜星涼さん個人のものだし、Wやドライブも嫌いじゃない(ただしきちんと見返してないので今見たらどうか分からない)けど、むちゃくちゃ面白いってイメージもない。両作品も今回もそうだけど、謎解きものとしては成立してないと思うんだよな。こっちが知り得ない新情報を出して説明してみせてるだけのことが多い印象。パズルじゃなくてクイズ、と言えば分かりやすいかな。クウガの"捜査"とも近い。いや、でもこっちが解けちゃったらそれはそれでつまらないか? 難しいとこではあるか。
あ、ビギンズナイトは、ディケイドと同時上映ということを多分に加味した上で、なかなか面白かったけどね。
"王道"って評価もピンときてないしな……誰か分かる人いたら教えて。

 

前話

仮面ライダーゼロワン 第11話「カメラを止めるな、アイツを止めろ!」 感想

次話

仮面ライダーゼロワン 第13話「ワタシの仕事は社長秘書」 感想