やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

ニヒリスティックな開き直り『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』 感想

公開日はクリスマス会があって行けないものかと思っていたんだけれど、上映スケジュールを確認してみたところなんとか間に合う回があったので、見てきました。
この記事はネタバレなしで、映画を見ていない人でも読めるような内容になっていますが、映画を見ていればより深く分かるようになっています。
映画を既に見た人向けの感想はこちら。

仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション ネタバレ感想

 

86ma.hatenablog.com

 


正直、めちゃくちゃ楽しかった。
唯阿をはじめとする(ちょっとくどい)ガンアクションやウォズも含めたキャラクターたちの派手な戦闘シーンはもちろん、其雄を中心とした、或人が"仮面ライダー"とは何かを知り名乗るまでのドラマも非常に面白かった。
こう書くとプロット自体は平ジェネfinalと似てるんだな。


以前、こんな記事を書いた。

JIN-仁- 第一期 まとめ感想:エグゼイドとの比較『面白いと楽しいの違い』
ざっくりとまとめると、

意味などの内面を見るのがドラマ、見た目などの外面を見るのがアトラクション。
ドラマは"面白い"もので、アトラクションは"楽しい"。
例えばジェットコースターが上がったり下がったりすることに意味などないが、それ自体を楽しむもの。

なんてことが書いてある。
1年半前の自分の雑な話の展開に我ながら恥ずかしくもなるのだが、荒削りながら興味深い点もある。
カイヨワの遊びの分類と通ずるものがあると思うのだ。
まぁ彼の著書は読んだことがなく、あくまでネットで調べて出てきたものからの孫引きなので、彼の主張にこだわることなく、あくまでそれをきっかけに引き出された僕の中にあるイメージの話として捉えてもらいたい。
要するに、秩序と無秩序のそれぞれに人は違った快感を感じるということだ。
ただ少しややこしくて、要素が繋がる構成の妙や制限をうまく利用する工夫などは秩序的な快感をもたらすが、これは同時に無秩序的でもある。新たな秩序の"発見"は、それまでの自分の秩序を乱すものであるからだ。
本当に秩序的な快感というのはもっと静的で、それは例えば、子供が同じ本を何度も何度も繰り返し読むようなものであるように思う。
とすると、普段我々が意識する快感の多くは"楽しい"に属するものなのかもしれない。


それを踏まえた上で今回感じたのは、自分の作品への向き合い方に、意識的な"信頼"が芽生えているということ。
「僕が気付く程度の作劇上の粗(違和感)は制作側も承知の上である」という、作品に対する基本的信頼感とでも表現すべきもの。
ジェットコースターの例で言えば「無秩序に振り回される乗り物に乗る」という時点で必要な、安全面への信頼。
これによって普段感じるあらゆるノイズが無効化され、おそらく広く言われているような意味で"純粋"に作品を楽しむことができた。

(参考:"純粋"と呼ばれる子供はサンタや仮面ライダーの実在を信じているのか?)

 


……しかし、それで本当に良いのだろうか。
仮面ライダーの映画として数えて前作である『Over Quartzer』で描かれたものは、我々ひとりひとりが誰かの支配を受けることなく、自分自身の王として君臨することではなかったか。

(参考:玉座を空ける『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』 感想)

 

ゼロワン14話の感想で書いたように、他者を信じて任せるということは自分の責任を、そしてその王権を放棄することでもある。
"純粋"とは自分という色眼鏡の喪失を意味する。
空っぽの自分で作品を見ることを、果たして向き合っていると言って良いのだろうか。

自らの目で見て作品を解釈し、切り取り編集し、異なる意見とは例えその作品そのものであろうと拳を交える。他力本願ではなく、自分の笑顔は自分の力で掴み取る。
……そういう姿勢でこそ、きちんと"向き合っている"と言えるのではないだろうか。
衝突を避けていては何も生まれない。事なかれ主義は何も生まない。


あまり共感を得られるとは思っていないが、僕は暴力もあくまでコミュニケーション方法のひとつだと思っている。
話し合う気にもならないくらい腹が立ったなら、それを伝えるために殴るなり蹴るなりすればいいと思う。それとは別に政府や警察は、暴力を振るった者を捕まえて罰を与えようと努力することを公に発信しているが、それを踏まえた上で自分がどうするかは自分で決められる。
殴られた相手も、殴られた事実を踏まえて暴力を振るうに至った理由を問うこともできるし、殴り返すこともできる。
暴力に訴えなければならないケースが少なくなってきたことで、近年では話し合いばかりが殊更推奨される傾向があるが、極端な話 言葉でも人は傷付くし、死ぬことだってある。
記号表現という意味では、殴るという行為も「イヤダ」という発声も、同じ「嫌だ」という意味を持ち得る。
日本語の持つ暗黙の了解を解さない人には「イヤダ」の意味が伝わらないように、「殴るほど嫌だったんだ」という意味を受け取ることができない人もいるだろうが、そこは発信する際に相手を考慮し、伝わりやすい手段を選べば良いだけの話。
手段は発声や暴力に限らないが、何らかの発信をしなければ相手には伝わらない。
もちろん程度問題ではあるが、自分の中で勝手に完結してしまうのと比べたら、暴力というかたちでもコミュニケーションを計る方がよい場面というのは、あると思う。

 (参考:エゴとエゴの均衡『映画 聲の形』 感想)

 


ここまでは"確固たる自分"というものがある前提で話をしてきたが、僕は過去の記事でも何度か言っているようにそれにも懐疑的だ。
僕の文章を読んで、きっとあなた方は何かを思ったことだろう。
僕がこの記事を書かなければ、あなたが今そう思うことはなかったという意味で、僕やこの記事は紛れもなく「今のあなたの構成要素」のひとつになっていると言える。たとえ何も思わなくとも、黙読しているだけでも同じことだ。
更に言えば、僕がこの記事を書いているのは、当然令ジェネという映画を見たからだ。
そうやって、我々は絶えず相互作用を及ぼし合っている。
自分で閃いたと思っていた意見が、よくよく思い出してみると意識せず誰かや何かの作品の真似だった、なんて経験があるだろう。口調や口癖がうつるなんてのもそうだ。
多くの場合は複雑に絡み合っていて明るみに出ないが、"自分"というものが無数の他人の切り貼りで隅々まで構成されているのは、間違いない。
人と人とがコミュニケーションを取るのと同じように、一人の人間の中でも葛藤という名の殴り合いが行われている。

大きな目で見たとき、影響の元を辿ろうとすることはあまり意味を為さない。「彼の成功は親の七光りだ」としたところで、その親の成功もまた誰かの影響下にあるのは既に言った通りだ。
その調子で遡っていくと、この世のすべてのことは全部ビッグバンのせいということになる。更にその原因である量子ゆらぎだかなんだかのせいかもしれないが、もはやここまで来るとどちらでも大した差はないだろう。
「表現上は受け売りだけど、一度自分の中で咀嚼して出てきたものだからもうこれは"僕の言葉"だ」と、僕はたまに言う。
例え誰かの物真似でも、その時に数ある表現の中からその言葉を選んだのは紛れもなく自分自身であるという意味で、もはやそれは自分の言葉なのだ。
この感想にしたって、ネタバレに配慮という体裁で映画の内容に直接関係する話は、最初の数行を除けば意識的にしていない。
映画を見ていない人からすると、ひょっとすると見た人からも、「映画と関係のない話ばかり」だと思われるかもしれない。
だが間違いなく関係はあるのだ。
逆に、どれだけ「全く同じ物真似」に見えても、真似している人の影響が皆無ということも有り得ない。


誰もが誰かの模倣であるし、同時に唯一無二のオリジナルでもある。
そしてそれらは善悪に関係なくぶつかり合う。
この情報過多な時代には、そんなニヒリスティックな開き直りこそが相応しい。

 

 

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