やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

仮面ライダーゼロワン 第5話「カレの情熱まんが道」 感想

キャラクター

 飛電或人
・「変な顔になっちゃった……」
"倫理"を重視するならば、無視しては通れないセリフ。ルッキズムなんて風に言うとまた大仰な話になってきて僕も文脈を把握できていないのでやめておくけど(といいつつ消しはしない)、まぁ要するに容姿に対する美醜感覚をどう扱うかという話。
福笑いなんて文化が浸透していることからも分かるように、これはかなり我々の生活に馴染んでしまっている根深い問題。時間(年)に区切りをつける"正月"にそれをやると言うのもなかなかどうして面白くて、この遊びも 正常 な顔と おかしい 顔の"線引き"を無意識にかたちづくる(というよりは再確認する)ものと捉えることができる。
僕はよく思うのだが、一般的に言われている"容姿の良さ"というものには、何か実益があるのだろうか?
例えば"背が高い"という特徴には、なるほど高いところの食べ物などに手が届くという実益がある。キリンのように、それが生存競争に役立つこともあるかもしれない。ただし"生存競争に勝つこと"の益性はここでは自明とさせてもらう。
だが例えば目が一重か二重か、鼻が高いか低いか、眉毛が濃いか薄いか、などなど……と言ったそれなりの人が気にしている(と僕が聞き及んでいる)特徴には、生存競争に間接的にでも繋がるだろうか? 「異性に好かれる」というのは順序が逆で、本当にそうかは知らないが、ここでは僕の勝手な憶測に基いて「生存競争に有利な形質を持っているほど異性に好かれる(遺伝子を残しやすい)」のだと仮定しておく。
もう少し日常生活に寄せた例だと、例えば髪の毛が長くてボサボサだったり染めていたりすると、仕事の面接で悪印象を与える、とか。例えその仕事に髪の毛が関係なくても、だそうだ。
何故我々はそのような、どうでもいい情報に左右されるのだろう? 僕には分からない。生存競争に勝つこと以外の目的があるのか。その目的はさらなる目的の為の手段ではないのか……。
この「何故?」に対するひとつの回答として、ベビースキーマという概念を僕は知っている。
ざっくり言うと、猫などに対して「可愛い」と思うのは赤ん坊(本能的に守るべきもの)に似ているから、というような話。このロジックを使えば一見関係ない形質のいくつかを、生存競争という目的に繋げることができる。
だが、これが実際に(赤ん坊ではない人の)容姿に対する良し悪しの判定基準に関わっているとすると、それに基いた"良い"の感情は、似ているだけで本当は赤ん坊ではないのだから、ただの誤認でしかないことになる。
そろそろ、倫理の話に戻そう。
人の容姿に対して良し悪しといった価値判断を行うことは許されるのか、はたまたどのような特徴に対しても価値判断をせずフラットであるべきか。
この問いに対する僕の考えとしては、どちらかと言えば前者に近い。例え誤りであっても、目的を見失い、盲目的で非合理的であったとしても、人の心には豊かな色彩が宿るべきだと感じる。(参考:大自然がつかわした戦士『漫画 仮面ライダー』 感想)
ただし言うまでもないが、"悪し"と感じたからと言ってその対象を傷付けてもよいことにはなるとは限らない。それはまた別の問題。
ということなので、とりあえず存在しない顔を"ヘン"として嘲笑する或人は、僕的にはセーフとする。
・「先生はそれでお仕事が楽しいんですか?」
生計を立てる為の仕事は機械に任せて(実質的な不労所得)、自分は情熱を燃やせる趣味に打ち込む……というのは、ある種ひとつの理想的な未来の形ではあると思うんだけれど、今回の場合は確かに、石墨さんは豊かな生活を送っていたようには見えない。どちらかと言えばむしろヒューマギアの台頭で自分の絵や自分の存在そのものの必要性に自信を失くして、迷走しているだけのようにも見える。馬鹿みたいにお金を使う(豪邸)のも、満たされない人間のすることとして理解できる。
ただこのテーマと言うのは、1話で或人がお笑い芸人を諦めたこととあんまり相性がよくないのも事実ではある。"売れてる"という需要を無視してまで、作者一人(と読者としての或人)の"楽しい"を優先しても良いものだろうか。…………まぁ、或人は社長になってからも需要のあまりないギャグを披露してるけども。
ドラマに仕立てるのは難しくなるが、現実的な落としどころとしては仕事と私情を割り切って、『パフューマン剣』というもはや彼一人のものではないコンテンツ(タイムレンジャーの浅見グループみたいなもの。メディアミックスもされてるし関係者はさぞ多いことだろう)については、同一性が崩れないならという前提の元ではあるがヒューマギアに託し、自分の情熱は趣味としてネットに投稿するなどの小規模な活動で昇華するという選択の方が良かったのかな、というように僕は思う。以前にも言ったように、僕はどちらかといえば仕事と私情は必要に応じて分けるべきという考えなので。(参考:令和仮面ライダーゼロワン 制作発表記者会見 感想)
・家をぶっ壊したのは、製作者サイド的には怪人が現れたという緊急性と、大切なのは"金で買えるモノ"じゃないというテーマとで打ち消されるはずなのだろう。それにしたって後のトラちゃんのように、もう少し穏便に来れやしないのかと思うが。

 

 不破諫
・1話で A.I.M.S. の銃が効かなかったのに迅の銃で一撃だったのは、単純に A.I.M.S. がショットライザーを出し渋ってたのと同じで、あんまり強い武装を許されてなかっただけだと当たり前に思ってるんだけど、違うのか? なんでみんなそんな謎みたいに言ってるんだ。
それを踏まえた上で「それだけ慎重な組織が何故不破の暴走を黙認しているのか」と言うのなら分かるが、それも唯阿の上司? の意図が分からない現状では分かりようがない。まぁ別に、単に「ヒューマギアが本格的にマギア化しだしたから」でも僕はいいけどさ。

 

 石墨超一郎
・「線は正確だし、何より疲れない」
そんなに突っ込むことでもないけど、確かに一見そうかもしれないが、より広い視点から言えば金属だって疲れるし、劇中でもあったように処理落ちなんてのもある。彼がそこに利便さを感じる程度には疲れが見えてない、という程度の意味だろうから、別に彼に対してだからどうって話でもないんだけど、人間と機械の間にデジタルな境界線というのは意外となくて、同じ自然法則を背景とした出力のいち形態に過ぎない。『Serial experiments lain』の"お父さん"とか、感覚的に訴えかけてくるものがあるよね。(参考:現実と妄想、フィクション。そして自分『ビューティフル・マインド』『Serial experiments lain』 感想)
・ところで牙狼にも思ったけど、漫画家の描かれ方ってワンパターンじゃない? なんというかこう……それこそ個人の性格ではなく"女性"という属性をキャラクターの個性にするようなのと同じで、記号的だよね。
ゼロワンの話の組み立て方がそもそも"お仕事"に軸を置いてる(らしい)ので仕方ないと言えば仕方ない気もするが。
僕は"漫画家キャラ"の中では『バクマン。』の七峰透が群を抜いて面白いと思っているんだよね。一応結果としてはボロが出ているし動機は割と矮小なものの、言ってること自体は非常に現代的で考える価値のあるものだと思う。
最初に言っておくが、「この世は金と知恵だ」とかそういう部分のことではない。正義だ愛だってのも確かに嘘くさいけど、騙し合いだ殺し合いだってのも十分嘘くさい。世の中そんな性善とか性悪とか言い切れるほど単純じゃない。
前にもTwitterで言ったけど、人間を醜く描いてるだけの作品を"リアル"だとか言って持ち上げるのはあんまり好きじゃない。とはいえ、七峰自身も少なくとも作品内では結局"綺麗事"を描いてたりするので実際は意外とバランス取れてるんだけどね。取れてないのは見て持ち上げてる人。
で、じゃあ何がそんなに面白いかって言ったら、やっぱりその方法論だよね。真面目に是非を問うには難し過ぎる問題だからか、劇中では基本的に彼は自滅の道を辿る……というよりは、意図的に"落ち度"をつくられている。人を利用して使い捨てるモラルのなさがそれで、方法論自体はむしろ一貫して「否定しきれないけどなんか嫌」くらいの扱いになっている。
気持ち的な是非はともかくとして、世界は実際に、情報技術の発達によって七峰的な"システム"の世界へと向かいつつある。
検索しても見つからないので曖昧な記憶を頼りに言うしかないのだが、攻殻機動隊だったか何かで、世界の何処かで誰かがプレイしているシューティングゲームの入力に合わせて実際に兵器が人を撃ち殺している、みたいなエピソードがあったと思うんだけれど、そういった異なる動作をリンクするシステムを発展させることで、自覚としてはただゲームをプレイしているだけなのに、それが世界の何処かで何らかの生産活動に寄与していて、その対価によって生計を立てるなんてことが、いつか可能になるかもしれないのだ。
とはいえ、現状を見れば明らかなように、実現にはまだまだ解決しなくちゃいけないことが多くあるだろうことは想像に難くない。僕が拒否反応を示すように、仕事と遊びをリンクさせるという発想自体が割と理想的な机上の空論に近いものがあるのかもしれなくて、例えば所詮ゲームだからと適当にこなしてしまうことなんかは大いに考えられるし、それを"システム"としてどう処理するのかと言うのは、言葉にすると単純だけど、無数にあるすべての具体的状況に対応するのはかなり難しいことに思われる。
ゲームの良さというのは、手軽さというかリスクのなさが占めるところが大きいだろうからね。いくら真面目にやればゲーム内で有利になるよう設定しても、「所詮ゲーム内での有利」となってしまうかもしれない。だって「所詮ゲーム」ではなくなって生活するための一生懸命さが要請されてしまったら、それはもうこれまで通り労働しているのと同じことであって、ゲームプレイワーキングの良さがなくなってしまう。
この概念のキモは、「如何に働いている実感を減らすか」「如何に動作を変換するか」といった、"人の意志"と"行動の結果"の乖離にある。
それこそバタフライ・エフェクトのように、自分の行動が自分の制御を超えた結果をもたらす現象自体は、既にその端緒が見て取れる。Twitterの"バズ"なんかはその最たる例だろう。
僕はまだ気持ちがついていけていないが、時代は着々とそちらへ向かっている。のかもしれない。

 

 

需要と情熱のすり合わせに違和感を感じたのが今回は強いノイズになったなぁ。個人でヒューマギアを何体も雇える程度には、本人にヒットさせる実力(需要に応える力)はあったんだろうけども、それが(しばらく怠けた)今でも備わっている保証はないしな。
とはいえ、需要自体も変遷するものだし、それにヒューマギアが付いていける保証だってないと言えばないし、極論その変遷する漫画界に対する需要に答える存在は別に『パフューマン剣』でなくてもいいといえばいい、というか、ヒット作が廃れるのも仕方ない現象ではあるので、一概に否定もできないのだが。
脚本家が変わってもヒューマギアのちょっとしたズレによる笑いというのは一応おさえてあって、そこは僕の見るモチベーション的に安心した。

 

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