やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

仮面ライダーゴースト 第4クール 感想

第39話「対立!父と娘!」

・アデル「力の根源を手に入れるには、具体的にどうすればよい?」
ガンマイザー「それは、意志の力」
アデル「"意志の力"……だと……」
ここ何回見ても笑える。ゴースト的にはこれが精一杯の"具体的"らしい、そりゃふわふわした印象も受ける訳だよ……。
真面目に解釈すると、アデルはただ父の理想を完成させるという受け売りの目的しか持っていなくて、自分の強烈な願いというものが分かってないから、接触できないのだろう。グレートアイが強い感情の高まりに呼応して現れるのは、小説版で説明されている。

鬼のツノ(ウィスプホーン)の有無

・アリアが変身するダークネクロムピンク。イゴールがプロトメガウルオウダーを使うときは、いつも眼魔スペリオルを素体にして変身しているんだけれど、今回は何故かグレイトフルが召喚する英雄ゴーストと同じ"ツノのない目の紋章"が胸に書かれた素体が使われている。召喚ゴーストの場合は確かにツノはないのでそれで合ってるんだけど、ダークネクロムはツノあるので、この辺はただ"流用したから"ってだけでなく設定があったりするのかな?
そもそもツノの意味について考えたことなかったかもな。こないだの特撮雑談クラブ 第5回「邪鬼」では鬼の象徴として、ゴーストのライダーは"鬼"の本来の意味である死者の魂としてのニュアンスもありつつツノが生えてるから一種の鬼だよねって話をしたけども、死者であることの記号として見なすと、召喚ゴーストやアランが体を取り戻した後のネクロムがはみ出る。
ツノを動物のツノ、つまりオス同士が対決をしてメスを奪い合う、或いは見てくれの良さとして競い合うような"男性性"の象徴として見るなら、タケルに従うだけの召喚ゴーストにはなくてアデルにも果敢に立ち向かうアリアにあるのはまぁ分かる。んだけど、結局素体の胸に刻まれたマークについてはよく分からないまま。彼らに関しては公式読本にも記述がないので……。

・仕事を理由に約束を守るってのはおかしな話だよな。そもそも「この日は出勤、この日はお休み」という"約束"を会社側としたはずなのに、それを破って出勤を要請する会社もおかしいし、それを受け入れて娘との約束を破る(そして悪びれない)父親もおかしい。尤も、往々にして他の社員が急病とかで仕方なく約束を破った結果、そういう反故の連鎖が起こってるんだろうけど。
でも思ってたよりどうでもいい約束だったな。みんな毎日は思い出してられないから命日をきっかけにして亡くなった人に思いを馳せる訳だけど、別にその日じゃなきゃいけない訳では全くない。

・相反する2つの感情ってことで言うなら、ガンマイザーマグネティックブレード(ニュートン,ムサシ)じゃなくて、ニュートンとヒミコにしても良かったのでは? と思ったが、ヒミコに対応するガンマイザーはさっき出てきたプラネット……土属性っぽいやつだったらしい。"出土"とかその辺のイメージかもしれないけど、あのピンクだったヒミコ感はない……。

 

第40話「勇気!悲壮な決断!」

・タケル,マコト,アランの父親に対する価値観がそれぞれ違うところ、すごく良かった。それでこそ3人いる意味がある。

謝らないタケル

・「一気にトドメだ!」
ここ前に見たときからずっと引っかかってて、知らなかったとはいえおじさんの心が入ったガンマイザーを殺そうとして、作中キャラの何人かはそれに気付いて「やめて!」って言うんだけど直撃して、そしたら結果的に元に戻ったから謝罪の一言も何もないままなぁなぁになるっていうのが、話の運びとしておかしいだろってずっと思ってたんだよね。……何より娘の方が「いいよね、タケルくんは立派な父親がいて」って言ったことを謝ってたから、タケルの方から何もないことに疑問を感じざるを得ない。どう考えても「死んでたとは知らずに思いやりのない発言をする」よりも「入れ替わってるとは知らずに危うく殺してしまいそうになる」の方が、過失としての度合いが酷いのに、前者は謝って後者は謝らないという不平等感。
ただ「怪人のせいで起きたあれこれは怪人さえ倒せば全て解決する」という特撮のお約束に則って考えるなら、父娘の入れ替わりを戻すためにガンマイザーを撃つというタケルの判断は別に何も間違ってないから、劇中ではスルーというかたちになったのかな。だとしたらまぁちょっとは理解できた。

・ゴーストって、インタビュー読む感じ諸田監督の意向なんだろうけど、平成ライダーにしては割と戦う場所が単なる市街地じゃないというか、海辺とか岩場とか、昭和ライダーのようなロケーションを楽しむような見方が比較的できる作品なのかもしれない。勿論普段は市街地だけど。
戦闘も面白いな、グレイトフルの能力で敵を追い詰めて、必殺技はムゲン魂という風な使い分けがうまい。

 

第41話「激動!長官の決断!」

・これまではずっとコピーマコトの方から仕掛けてくるからそれを払うかたちだったけど、今回さらっとマコトの方からふらふら歩いてるコピーマコトを襲って狩るという流れになってたのが気になった。
軍服なんてそうはいないので、目立つが故に不可思議現象研究所に目撃情報が来てる可能性もあるけど、胸の痛みで繋がっているから自力で探知することもできるのかもしれない。自我同一性を守るために倒したくなる気持ちは分かるけど、あいつらも一応見てくれが同じだけでひとつの命というか、そのなり損ないなので、容赦なく倒してくのはなんだかなと思ったり。そっか、Vシネで言ってた罪ってのは主にこれのことか。作中で一番取り沙汰されてたのは「ダントンを信じたこと」だったので、いや別にそれ言うほど罪ではないじゃんってずっと思ってたので、ちょっと納得がいった。

長官と仙人の関係

・仙人とイーディスって、実は同じようで違う人物だったりするのか? 今回はドロンしてたけど、特に10年前なんかは今と違って龍,五十嵐,西園寺の眼魔侵攻を防ぐ研究に精力的に力を貸してたんだろうから、そううまく両方の世界で立ち回れる時ばかりではないだろうし、もしかすると彼だけアバターを2つ操作している可能性もあるのかもしれない。眼魔世界でのしがらみや体裁を繕う本アカのイーディスに対して、サブアカの仙人では眼魔を倒す算段を立てたり、時にはコスプレしておちゃらけたりと自由に過ごす。流石に研究のために体がいくつも欲しいからイーディスは何体もいるのだ……みたいなことは、意識がひとつな以上はコントロールしきれなくて無理そうだけど。

・アデルがアリアを活かしておくのは、もちろん彼の最後の良心というか捨てきれない家族への未練みたいなものもあるんだろうけど、ゴーストのテーマ的にも、例えアデルが世界そのものと一体化して完璧な存在となっても、それを目で見て観測するものがいなければ意味がないというか、仮にアデルの目指すものが神だとするなら、それを信仰する人間がいなければ神は存在できないのと似たような繋がりなのかな。

・イーディスが変身する「眼魔ウルティマ・エボニー」かっこいいよね。ジャイロあたりが使ってもっとかっこよく活躍してる姿を見たかった。
Ebonyというのは意味的には漆黒とか、黒檀という仏壇にも使われる木材の名前でもあるらしい。

・アランも元は弥生時代の人間だからヒミコは力を貸したのか? あんまりそうは思えないけど。


第42話「仰天!仙人の真実!」

・皆が口々に仙人を責めるとこで、元は眼魔として侵略してた側、もっと言えばタケルが死ぬ原因をつくった側とも言えるアランが何も言えずに黙ってるのいいな。彼は彼で、長官が仙人として人間界にスパイしていたと知って色々聞きたいことや問い質したいこともあるだろうに。

・タケルが仙人に感謝するとこ、もうまんま『ビヨジェネ』じゃん。一応仙人は世界を守るためだったのに対して、映画の百瀬はただのマッドサイエンティストとしての行動だったという大きな違いはあるけど、人外になったことでみんなを守れたんだから良かったという現実をポジティブに受け入れる姿勢は共通している。
この辺のロジックは弦太朗とも通ずるものがあるか。殺された本人が許しちゃうならまぁいっか、ってやつ。

正義から来る怒りは正義に帰すべき

・悪に対して抱く怒り……即ち義憤は、正義やヒーローという概念と近しいところにある。他人を利用し命を弄んだ仙人を、悪を許せないと思う心そのものは悪くないし、むしろ必要なものですらある。でもその感情に任せて敵を痛めつけるのではなく、あくまで正義という目的のために何をすべきかを大局的に考え、人間界のために技術を提供してくれる仙人を許し受け入れる決断をするというのは、ちょっと面白いな。陳腐な表現をするなら、罪を憎んで人を憎まずというか。タケルを利用してたことに怒ることと、仙人と和解することは矛盾しない。
仙人が悪をなしてでも叶えたかった眼魔世界の存続と、人間側がそれに対して怒る理由である人間界の存続……進撃の巨人でもアルミンが似たようなことを言ってたけど「みんなが平和になる道」を考えることこそ真の正義なのではないか。

・ただ、眼魔世界が完璧じゃなかったとかガンマイザーがいま障害になってることに関してはまぁ医療過誤というか、別に悪気があった訳じゃなくて最善を尽くした結果なんだからそう責めるものでもないけどね。
赤い空の影響で民が次々と死んでいくという切迫した状況の中で、ギリギリ導き出した答えなんだから。

・回想の中で、イーディスはどういう気持ちで龍と戦ってたのか全く分からなかったんだよね。あんたら仲間じゃなかったの? って。でも今回のテーマと照らして考えると、イーディスは眼魂システムによって人間性を捨て去ることで理想郷を実現したけど、それが不完全だと知った上で「もう引き返せない」と思ってしまったからこそ、人間界を侵略して民を、生命エネルギーを増やすことでしか解決はできないと諦めていたところを、龍と戦ってそれは間違いだと気付かされた……という流れなのかな。
そこは分かったんだけどさ、仮にも科学者なら奇跡奇跡言って思考停止しないでタケルの現状を解析して蘇る方法探せよって話なんだよな。眼魂システムに頼らずとも、人間界を侵略せずとも何か方法はあるはずだと気付かされたのなら、もっと研究しろよって。
あー、でもそっか。10年前の計画では「英雄眼魂でガンマイザーを無効化してグレートアイに接触すればあとはなんとでもできる」って感じだったんだろうから、元々イーディスは最終的に、奇跡というか解析不可能な神秘に頼りがちな人なのか。眼魂システムもガンマイザーも、確かグレートアイの力を借りて開発したって話だったはずだし。

・細かい話だけど、七つの大技は基本形態でのオメガ○○という技とそれぞれ対応していて、今回初めて使ったイカリスラッシュはガンガンセイバー 二刀流モードで放つオメガスラッシュに当たるものなんだけど、何故か二刀流モードじゃなくブレードモードとサングラスラッシャーの二刀流でやってるのよね。まぁアイコンタクトでやってる訳じゃなくてあくまでレバー操作でムゲン眼魂の方から武器に力を注いでるんだろうから、そういうこともできるのかなで済む話ではあるんだけど。

 

第43話「接続!天才少年!」

スタッフのリサーチ

・天才少年が読んでる『P≠NP予想へのアプローチ』という本、これみよがしにタイトルが見えてるので気になったので調べてみたら、いわゆる数学のミレニアム懸賞問題についての話題だった。難し過ぎて、解けたら100万ドル貰えるというアレ。
P≠NP予想というのは計算理論に含まれる問題だそうで、チューリング完全がどうこうみたいな話題が出てくる計算可能性の分野はなんとなく色んなとこで聞いたことあるけど、計算複雑性についてはあんまり聞き馴染みがない。
まぁこの問題自体はともかくとして、気になるのは眼魔文明はこのような問題についての答えを既に導き出した上で、デミアを使うことで人間にもそれが解けるようになるのかを試してるのか、それとも眼魔世界でも解けてないからデミアの実験をするついでに何かしら進展があればいいなぐらいのノリなのかってとこ。
本編を見ている限りでは、一般大学生であるアカリでも中和剤をつくれる程度の赤い空に苦しめられてたらしいので、グレートアイがすごいだけで文明としてはまぁ弥生人にしては何百年もかけて発展したんだろなってぐらいで、現代科学とそこまでの大差はないのかなって気がするので、僕は後者かなって思うんだけど。眼魂システムも仮面ライダーも、多分イーディスがゼロからつくったというよりはグレートアイの力添えがあって初めて成せたことなんじゃないかな。
・それとはまた別の話として、こうやって小道具として出すからにはゴースト制作陣はこの作品をつくるために計算理論というコンピュータについての研究分野をきちんと調べたと見ていいのかなと思う。元々プロデューサーとかやるような人はいい大学出てる人が多いから既に知ってたのかもしれないけど、オカルトに見せかけて実はSFであって、ゴーストになるというのは要するに精神をデータ化することで……みたいな設定を考えれば、コンピュータの可能性と不可能性は確かに知っとかないといけない。
それが悪いとは言わないけど、僕ら視聴者はそういうベースの知識とかないまま「これ意味分からん、おかしい」とか簡単に否定する訳で、なんかそれは悲しいことだよなと思うのよね。他の作品でもそうだけど例えばゼロワンとかも、AI開発についての本とか読み始めると「あの展開はこの話が元ネタだったのか」みたいなことがボロボロ出てきたりして、なるほどなぁってなることも多くてさ。
そりゃあ、作品だけを見てる視聴者にきちんと伝えられてない制作陣が悪いということもできるし実際そういう側面もあるんだけど、せっかく真面目にリサーチして作品にフィードバックした努力が報われないのはあんまりなので、なるべくその溝を埋めたいなと思って僕はこうやって、色々調べながら感想書いてる訳なんだけど。
…………とかせっかく書いたのに、天才少年が語りだしたのはなんとフェルマーの最終定理についてで、ご丁寧にポアンカレの名前まで出してるから、単に数学における未解決問題のひとつとして持たせただけかもしれない。まぁ、もしフェルマーの最終定理をコンピュータに計算させることで解く方法を模索してるんだったら繋がるのかもしれないけど、コンピュータ特有の可能性をひとつひとつ潰していく方法は有限の時間では不可能なので、僕にはイマイチ想像できない。

 

第44話「起動!デミアの恐怖!」

・デミアという世界と繋がる革新的なデバイスを、お母さんではなく子供だけが使用してるって状況に違和感しかないんだけど、どういう流れなんだろうね。世間の声も聞かないまま子供に使わせるには、眼魔云々を抜きにしても得体が知れなすぎるし、子供に使わせるほどいいものだと思ってるなら買い与えた本人が使ってない理由が分からない。
考えられる可能性としては、父親がデミアをいいと思ってて子供にも与えたものの母親だけは訝しんで使わなかったというパターンだけど、母子家庭なのかなというくらい父親の話が全くと言っていいほど出てこないので納得感はあまりない。だってその場合、父親も変になってるはずだし……。

御成の変身願望

・御成に変身願望があるのはパンクロッカーだったことや、仏になることが最終目標な修行僧であることからも分かるって話をずっと前にしたな。3話か、あのときタケルが変身するのを見て羨ましがる様子が描かれていた、そういえば。
そういえば繋がりでいくと夢の世界の回で御成がアランの顔に落書きをするシーンなんかもあったけど、今回は体を乗っ取って変身までする御成って、アランのこと嫌いなの? 確かに敵ではあったけど、別にアランが御成を個人的にいじめたことはなかったはずで、だってアランがネクロムになって本格的にドラマに絡んできた時期には、ちょうどイゴールが出てきて御成はそっちと主に関わってたので、アランとは多分直接会話したこともそんなにない。
大天空寺の住職代理の座をジャベルに奪われたりして御成の最後ってなんでか結構不憫でそこがずっと謎だったんだけど、アランに対して心の奥底では眼魔だからと差別する気持ちがあって、それに対する罰としてあんな最後を与えられた……いやいや、なんでわざわざそんなことしなくちゃいけないのか分からないな、それは。アフロになったのは単純に、ジャベルに対して言ってた「生きる意味とは色んな経験をする上で探していくもの」ってセリフと繋がるんだと解釈する方が遥かに納得感はある。

 

第45話「戦慄!消えゆく世界!」

深淵もまたこちらを覗いている?

・確かにディープスペクターと一連のコピーマコトの件は「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている」という有名な言葉に似ているものがある。『善悪の彼岸』読んだことないけど、どうやら怪物を倒そうとして同じにならないように注意しろ、ミイラ取りがミイラになるなみたいなニュアンスで受け取られることが一般的らしい。そう言われてみるとアデルが世界と一体になるというまさにグレートアイと同じ道を辿ろうとしていることや、それに対抗するために様々な人の心と繋がり半グレートアイ化しているタケルと、ギリギリその一線を踏み越えていないディープスペクターとの対比というか構図が、その理屈を当てはめると結構分かりやすく整理されて理解できるかもしれない。
……んだけど、僕はどうもその解釈があんまりピンとこないのよね。だって、この格言の中で一番ショッキングというか強調されてるのって「深淵もまたこちらを覗いている」の部分じゃん。でも深淵を見ることで自分の中にその情報がラーニングされて、それで自分の方が怪物になってしまうんだから、「自分が怪物(深淵)と同じになるなよ」と警告したいのであれば、強調するべきは"自分が覗いている"行為の方だよね。
だから元の文章のキモというか重点が置かれてる部分は、むしろ「怪物の方が"自分"を見ることで人間に近付いてくる」という、つまりコピーマコトがガンマイザーのようにマコトと戦うことで戦闘データなどを学習して、本物のマコトと遜色ない存在になってくる恐怖の方のはず。ゼロワンでいうならAIがより人間に近づき、もしくは人間を超えるような状態。
まぁ強いて言うならドライブの「人間じゃないやつがこんなに優しいのに……(それに比べて人間のなんと醜いことか)」というセリフのように、そうやって「あれ、いつの間にか入れ替わってる?」という極端な状況を想像させることでより、人間が怪物になることに対する戒めを強めているという見方もできなくはないか。

・サブタイを見て、別に世界は消えてないよなぁと思ったけど、世界とひとつになりつつあるタケルが消えたことでそれを表現してるという解釈でいいのかな?


第46話「決闘!剣豪からの言葉!」

・世界と同化して遍在する存在になりかけているタケルを描写するのに、これまでに英雄だけでなくゲストとして心を繋いできた今を生きる普通の人たちを例として出すのは分かりやすくていいな。

武蔵の言う"空"の心

・空の如く……。本を読んだ限り、武蔵の二天一流というのは、二本の刀を太陽の月の二曜に見立てた上でのネーミングらしい。
それと関係あるかは分からないけど、剣術の心得として"有構無構"ということを言っていて、ざっくり要すると「型にとらわれてはいけない。上段,中段,下段などの"構え"とはあくまでも特徴的なケース別にまとめたものに過ぎず、本来の戦いにおいては相手の出方によって臨機応変に変えるものであり、そのどれとも取れないような構え方をするのが世の常だ」みたいな意味だと思うんだけど、剣術書に書いてあること(見えるもの)を鵜呑みにするのではなくて、そこには常に書いてないこと(見えないもの)があることを意識せよみたいな話だと理解すると、彼の著作である『五輪書』の「空」の巻で言っていることとも通ずるかなって感じ。
本編の流れと合わせて考えるなら「お腹空いたな」とか「明日休みだー」みたいな声はあくまで"意識"のものであって、そうじゃなくて言語化されていない無意識の、海や大地や動物が発する静かな声というものもある。そういうものにも耳を傾けたことによって、ガンマイザーに乗っ取られて本来聞こえるはずのないゲスト3人の助けを求める声が聞こえるようになった……ということなんだろう。
見えるようになったのはイマイチ分かんないけど、不特定多数と溶け合うことでタケルのアイデンティティが不安定になったから見えなくなってたのが、空即是色みたいな理屈で自分を取り戻したから、みたいなことなのか。知らんけど。

 

第47話「呼応!それぞれの覚悟!」

不殺生を説く仏教と、人を斬り殺す武蔵

・今回のタケル殿は、僕ちょっと嫌いだな。アデルは嫌だって言ってんのに無理やり心の中を覗いて、剰え「お前はいいよな、母親の記憶があって」みたいなことを言い出すのは、神経逆撫でしてるというか……無意識に性格悪いよ。
大切な人を殺されたことに激昂するのはまぁ一般的な感覚ではあると思うけど、今回のファーストインプレッションがこれだったので以降も冷めた目で見てしまう。
なんだかなぁ〜! 脚本上のフォローの入れ方が「代わりに御成がアデルを殺せ派になって、タケルは多少落ち着いてアランの気持ちも汲む」っていうコントラストのつくりかたで、あまりにも御成が汚れ役すぎる。「拙僧は修行が足りないので仕方ない!」って、一番言っちゃ駄目なことじゃない? 御成が修行に勤しむ様子をめちゃくちゃ描いてきたならともかく、不可思議現象研究所としての活動を「これも修行」と言い張るだけで所謂修行のようなものを積んでる描写はそれほど多くない。1話で座禅してたとか、12話で滝行してたとか、そのくらい。
「あんなに修行してたのにそれでも許せないなんて、相当龍さんのことを慕ってたんだね……それはもう仕方ないよ……」じゃなくて「……うん、足りないね」ってなって終わりじゃん。

・話はズレるけど、たまたま最近読んだ寒川恒夫『日本武道と東洋思想』で勉強した内容と通ずるものがあったので紹介しておく。まず仏教には"非行非坐"といって、日常で行う全ての行為が修行であるという考え方をする派閥もある。たぶん、修行ってのは滝行や坐禅のようなものに限らないよってことで非行非坐という表現なのだと思われる。
でもってこの本の取り扱う一番面白いところは、本来"不殺生"を重要な戒律として設定している仏教の教えや精神修行のメソッドが、人を殺すための技術である武道……剣道や弓道などに取り入れられたという矛盾。
宮本武蔵なんかが顕著な例だけど、彼の著作『五輪書』はまさに仏教用語から引用されているし、内容そのものも軽く解説を読んだ限りかなり仏教……というか禅の思想に影響を受けていることが見て取れる。その一方で彼は嘘か真か吉岡道場というところで百人斬りをしたという伝説もあれば、佐々木小次郎の決闘でも明らかに敵を殺している。
現代に伝わっているようなドラマチックな展開だったかはさておき、彼がまだ生きるか死ぬかの時代に身を置いていた上で、仏教の教えを取り入れていたことはおそらく確かだろう。
全ての行いが修行ならば戒律を破って殺生をしてしまうこともまた修行の一貫だと考えることもできる。理性を手に入れた後の人間が暴力の罪悪感や葛藤を鎮めるために宗教を利用するようになって、時代が進むにつれて暴力を正当化するために様々な思想が生まれていく様子は非常に面白かったので、2章まででいいから読んでみて欲しい。

 

第48話「終結!悲しみの連鎖!」

・アカリも御成も普通の人間なんだから、眼魔世界に行ったら赤死病になるんじゃないのか? それは分かりきってるから最初から中和剤のSHIKIを貼ってるのかもしれないし、わざわざ劇場版とのリンクに言及したからにはラストで霊体化してタケルと一体になってたから2人とも"普通の人間"ではなくなってたりするんだろうか。

すれ違いも認める

・目の前でアランが「兄上を殺すなんてできない……」と崩れ落ちてるのに、そこから「絶対に許せない! (殺してやる!)」ってなるのは流れとしてあまりにもおかしすぎない? 案の定アランは「やめてくれ!」って言ってるし。
まぁこの辺はあれかな、アデルのように全人類が統一された存在にならず、各々の考えでもって勝手に動くからこそのすれ違いというか、それも含めて素晴らしいよねってことを描きたいのかもしれないけど。マコトが頑なにタケルを頼ろうとしないとか、アランが一人で勝手に眼魔世界に行っちゃうとか、もちろんアデルがアドニスからの愛を受け取れてなかったとかその辺の流れも含めて。

・っていうやりたいことは分かるけど、分かりながらも「随分あっさりと済ませたなぁ」という印象は拭えなかった。
本末転倒を起こした結果グレートアイに乗っ取られて、でも命は無限に繋がってるから殺すことで救済する……という流れはまんま『セイバー』のメギド3人衆と同じだな、今思うと。「死は終わりじゃない、だから殺す」っていうのはなかなかヒヤヒヤするロジックではあるんだけど、まぁなんか作風的にそんな重たい感じにはならないから見れるものにはなってるな。

 

第49話「無限!人の力!」

ゴーストと釈迦力=シャカリキスポーツ

・『エグゼイド』から先行登場、仮面ライダーゲンム。
あんまり意識したことなかったけど、よくよく考えてみればシャカリキスポーツの"シャカリキ"って、漢字表記をすると"釈迦力"……つまり仏教に関係してる用語な訳で、実はゴーストからのバトンタッチとして先行発売されるアイテムとしてはなかなかマッチしてるのか。

先週分でも話題に出した『日本武道と東洋思想』からまた引っ張るけど、そこで遊戯というものについても論じられていた。
仮面ライダーで"遊戯"と言えば『クウガ』のゲゲルに始まり、『アギト』こそ翔一くんが割となんでも楽しんで世界は素晴らしいと考えるタチだったけど、続く『龍騎』『555』ではやはりライダーのバトルは真剣勝負であって、そこに楽しみを見出すのは悪であるという扱いがなされていた。
その構造を大きく打ち崩したのは『電王』辺りからなんだけど、要するにメイン視聴者である子供はただの遊戯として仮面ライダーになりきり、ごっこ遊びをするんだから、そっちに寄り添った方がいいんじゃないかという流れでもあると思うのよね。もちろん、命をかけた戦いってものにリアリティが感じづらくなってきてると云う側面もあると思うけど。

遊戯(ゆげ)というのは仏教用語で、何ものにも束縛されず自由自在にことをなせる悟りの境地のことを指し、『ゴースト』の文脈で言うならOPにおける「思いのままに」がそれにあたることから考えても、本来とてもポジティブな言葉。
これはそう書いてあったんじゃなくて僕が思ったことだけど、武力を正当化して自分たちの葛藤を解消するために思想を取り入れて武道に昇華していくうちに、典拠である仏教の念願叶ってなのか最終的にはやっぱ「殺さないのが一番いいじゃん」ってことに落ち着いたんだろうね。元は平和を勝ち取ったり維持したりするための手段だった暴力が、完全にスポーツとしてそのものが目的にすり変わりつつあるのが現代な訳で。
「全ては所詮遊びに過ぎない」という感覚は色即是空的な世界観に通ずるところがあるし、sportの語源は「(心を苦しめる事柄から)離れる」という意味のラテン語deportareらしいことを考えるとやはり煩悩をなくすことで救済されることを目指す仏教とスポーツは似通っていると言える。
仏教モチーフといういいパスを貰ったからこそ、ゲームやスポーツがモチーフで"究極の救済"を意味する『エグゼイド(EX-AID)』が生まれたのかもしれない。


・母の愛を知って再起する展開、正直今見ても分かんないっちゃ分かんないんだけど、少しは分かったような気がする。
タケルの中にはまだ自分が人でなくなることに対する葛藤があって、そのせいでムゲン魂の本当の力を引き出せずにいたんだけど、人の声が聞こえたりとおかしな能力を使えるようになってもなお、息子として呼び掛け続けてくれる母の声で吹っ切れて、例えどれだけ人の域を超えた化け物になったとしてもタケルはタケルであり龍と百合の子供……"オレはオレだ"ということに気付いて、思いのままにリミッターを外すことでアイザージャイアントやグレートアイザーを倒すまでの力を発揮できたという流れなのかな。なるほど。


最終話(特別編)「未来!繋がる想い!」

清濁合わせ飲む

・13話の仙人の話では「眼魂を集めれば龍の魂も助けられるかも」ってことだったけど、結局あれは「闘魂になって融合したときからもう訳分からんのじゃー」って言ってた時点で白紙になってたのかな。まぁどっちにしろそれはグレートアイならなんとかしてくれるかもってことだったんだろうから、龍はタケルがそこまでは願わなかったから生き返らなかったということになる。当然、アデルも。
この辺のバランス感覚は、まぁ難しくて当然だよな。『ゴースト』のテーマである生きることの肯定っていうのは、その時点で既にいつか死ぬことの肯定でもあるので矛盾を孕んでるし、ご飯を食べたいっていうのも他の命を殺して食べたいってことなので、やはり"純粋な命の尊重"ではないことが分かる。
清濁合わせ飲んでこそのテーマなので、救われない部分があるのは仕方ない。
御成がひとりぼっちになって終わるのも……。

 

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