やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

仮面ライダーゼロワン 第40話「オレとワタシの夢に向かって」 感想

キャラクター

 飛電或人
・ゼロツーは要らない
以前或人の人間性を見る上で重要な概念として「笑い」について話したことがあった。その文脈を踏襲しつつ、ここでは「2(に/トゥー)」という概念について考えていく。

タイトルでもある0と1。この2つの記号があれば、理屈で言えばすべての自然数を表すことができる。2=10,3=11……といった具合に。2進法というやつだ。つまり、2という記号は数を表すのに必要ではない。
余談だが、N進法のように数が"満ちた"際に桁を増やして記号を流用することで対処することには「位取り記数法」という名前が付けられているのだが、そう聞くとてっきり、Nが11以上の時のように桁数を増やさず、10=A,11=B,12=C……(12進法で1Aと書けば、1桁目のAは9の次の記号なので10、2桁目は12の塊が1つという意味なので10+12となり、10進法で言う22を指す)といった具合に延々と個別の記号を与え続けるような無茶苦茶な記数法があるのかと思ってしまうだろう。9+26=35なので、36進法までは英語アルファベットで足りる(個別の記号が9個あれば次の10で位が進むから10進法、なので1増える)が、そこから先は一体どうするつもりなのか興味がそそられる。だが実際のところ「位取りでない記数法」に該当するのは、例えば意外と身近な漢数字であるとのこと。確かに考えてみれば、位取りにならって表記しようとすると22は二十二でなく二二でなくてはおかしい。聞いてみればなんのことはない話だが、割と面白い。

今のは必要ない記号を無限に増やす例だったが、減らすベクトルに戻すと論理学に似たような話がある。人は通常、→(if…then…/ならば),¬(NOT/否定),∧(AND/かつ),∨(OR/または)という4つの論理記号を使うが、コンピュータに詳しい人ならご存知の通り、↓(NOR/否定論理和),↑(NAND/否定論理積)の2つの記号はそれぞれ1つだけで先程の4つが持つ意味を全て表現できる。この性質を完全性と言う。たったひとつの記号で全てを兼ねられるのに、何故か我々の素朴な感覚は敢えて分解して4つもの記号を前提として要求する。
また、全ての物質が元素……すなわち陽子と電子と中性子によってつくられていることも周知の事実だろう。構成要素は同じはずなのに、水素だの酸素だのと名を付け別物と区別する。

最も簡単な演算だと言われる「1+1=2」だが、僕は昔からこれに対してある種の欺瞞を感じている。だって本当にイコールなら、わざわざ2回書く意味がない。「青空は青い」みたいに過剰な重複表現(too)であり、オッカムの剃刀を適用するならこのような無駄はなくすべきだ。
では「1と1」と「2」の間に横たわる違いとは何かと考えると、その鍵は"ひとまとめ"にあると思われる。りんごAとりんごBを同一視し、一緒くたにまとめて「2つ(でひとまとまり)のりんご」と見做す。パラフレーズしたからと言って目の前の物体が変化する訳ではないが、人間の認識のなかでは情報の質が変化する(ように感じる)。イメージとしては、芸人さんの"コンビ"が近いと思う。ちょうどゼロワンに出ているので例に使わせてもらうと、児嶋さん(1人)と渡部さん(1人)を足し合わせることで、「児嶋さんと渡部さん」ではない「アンジャッシュ」という全く新たな概念(2人)が"創発"する。「小渕さんと黒田さん」ではなく「コブクロ」。まだ歌手というものを知らなかった小3の時に初めて聞いて、当然の帰結として小さな袋のことだと勘違いし全く話が通じなかったことを思い出す。
このように、足し算の左辺と右辺は同値ではあるが、見方が違うのだ。
以上を劇中の展開に当てはめてみると、それぞれ人間とヒューマギアである或人とイズが、同じ方向を向くことで一緒くたになり、その結果として創発したのがゼロツーだということになる。
ヒューマギアに精神的自由を認めるならば、人間とヒューマギアが同じ方向を見る"必要"はない。であるにも関わらず、敢えて(電気羊でなく)同じ夢を見るという奇跡が、無限の力を生み出す原動力となる。もちろん虐待などと解釈するのはナンセンス。敢えて01で書くなら、イズに自我がないのなら辛くもないし、自我があるのなら同意したのだから。

(参考:仮面ライダーゼロワン 第1章 VS滅亡迅雷.net編(1話〜16話) 感想)


 イズ
・"ある"と"ない"と
さっきは「或人とイズが同じ方向を向いた」と表現したけれど、じゃあこれまでは違ったのかという話に、当然なる。一応イズがシンギュラリティに達したのは今回ということになっているので、ただ指示に従うのではなく、反抗の余地がありながら自らの意志で従ったのはこれが初めてということになる、のかもしれない。
今までにも指示に反することはあったが、例えば5話の漫画家回で言うなら、命令違反をしたのはあくまで福添視点であって、大意としては是之助(より偉い方)に従っている。彼の意図が語弊なく伝わっていたかはまた別の問題であって、本人としては彼の意志に従っている"つもり"なので、あれは自我とは少し違う。

そもそも、感情や自我というのはpHジャンプのように突然現れるものなのか? と考えると、僕はそうは思わない。ディープラーニングをしている時点で、ヒューマギアの言動は「こうだからこう」と単純に説明できるものでは有り得ない。アキネイターが時々突拍子もない飛躍したこと質問してきたり、隔世遺伝で親とは似ても似つかない子供が生まれたりするのと同じで、目に見えない深層領域に様々な影響を受けた結果が出力される。
ディープラーニングの定義は、その見えない"中間層"が2つ以上であることだが、感情があるだとかシンギュラリティに達するなどと言った概念も、その中間層の多さ(の比喩で理解される何か)によって少しずつ現れてくるものであって、ある/ないで簡単に言い切れるものではないのではないか。

ゼロツーの装甲は、名をクォンタムテクターという。Quantumとは量子力学量子コンピュータなどに使われている"量子"を意味する。
シュレディンガーの猫という思考実験は、有名なので知っている人も多いだろう。ミクロの世界では量子の状態が確率的にしか定まらないらしいので、ではその量子の状態とマクロな猫の生死が連動するように設定したら(量子が放射線を発したら毒ガスが出る)、量子と同様に猫の状態もまた確率的に揺らいだり別の可能性が重ね合わさったりするのか、みたいな話。僕も正直厳密な数式的な意味はさっぱりだし、なんとなくのイメージしか知らないけど。

量子コンピュータというのは、量子のそういった性質を利用して、"0か1か"の二元論ではなく、2つが重ね合わせになったどちらでもあってどちらでもないような状態を扱えるようにすることで、更なる計算能力の向上を計るものらしい。「優れた知性であるとは、2つの対立する概念を同時に抱きながら頭を働かせられること」だとフィッツジェラルドは言ったが、量子コンピュータはまさにそれを体現していることになる。もちろん、人間の脳も基本的にはそのようにできている。
必殺技名にも使われている、宇宙創生の原因と目されるビッグバンだが、じゃあそのビッグバンはなぜ起きたのかという疑問はあって然るべきだろう。ここでは無限後退はしないが、調べてみた結果生まれた僕のふわっとした理解では、先述した量子ゆらぎのような確率的"曖昧さ"によって、ある時突然に"ない"から"ある"へ変化(これがビッグバン)した結果が、今の宇宙だということになっている。宇宙規模のマクロな視点に経てばゼロツードライバーの有無なんて些末なことで、シュレディンガーの猫と同様にあってもなくても(生きてても死んでても)同じようなものなのかもしれない。ちょうど猫くらいの大きさだしね。ゼロツープログライズキーに搭載されている「50cm^3ほどの物質を構築できる機能」とは、そういったゆらぎを利用して無から有を生み出している(ように見えることをしている)のかもしれない。

僕はゼロツーが発表された当初「ゼロスリーなら最強フォームとして分かるけど、ゼロツーはない」と思っていた。というのも、プログライズキーの丸い部分やゼロワンドライバーの白い部分に三角形があしらわれていたり、3つの勢力とベルトがあったり、三角形自体がドライバーに印象的に使われている"矢印"と密接に関係していたり(e.g.エレベーターのボタン)と、ゼロワンは最初から"3"を押し出していたからだ。核のマークも三枚羽だし、リスクを伴う技術のシンボルとしても通用する。アイアンマンとの相似はここが由来と思われる。
でもよくよく考えてみたら、0,1,2だからゼロツーはちゃんと"3"なのよね。そして三角形(デルタ)は、"微小な変化"を指すのに使われる記号でもあるので、量子ゆらぎとも繋がる。

ちなみにだが、この話は新作『セイバー』のコンビがつくった『ゴースト』にも通じるものだったりする。あれらのライダーシステムに使われている金属も、名前が「クァンタムソリッド」なのだ。クォンタムとクァンタムで表記揺れしているが(これも量子ゆらぎみたい)、指しているのは同じQuantum(量子)で間違いないはずだ。
「幽霊というからファンタジーの話かと思ったら実はれっきとした科学だった」みたいなことを誰かが言ってたと思うが、即ちあの作品における"不可思議現象"も、量子ゆらぎのような"科学的曖昧さ"に根差すものなのだと思う。

(参考:仮面ライダーセイバー/聖刃 制作発表 感想)

 

 

設定

シミュラークル
今回のエピソードは、概ねイズ目線でのシミュレーション(感情移入の邪魔になるので当然自覚はなし)という体で進むけれど、本当にそうなのだろうか?
具体的にどこがどうとはうまく言語化できないのだが、なんとなくそう捉えることに違和感がある。
じゃあ僕はどう捉えればしっくりくるのかと言えば、「今回描写されたことはシミュレーションではなく、すべて現実である」ということ。さっきも言った通り、今回の話は量子ゆらぎと密接に関係しているはずだ。それを踏まえて思うに、結果的にはイズのシミュレーションという"解釈"に収束したものの、あれらはすべて猫と同じ可能性世界での"出来事"なのだ。

或人に頼まれて同意したのか、イズも同じ結論に辿り着いて自主的にやったのか、真偽は定かではないけれど、でもそんなことは正直どっちでもいい。前回話したように、どっちが先に言い出したか(どっちが先に好意を抱いたか)なんてことは本当に些末な問題で、或人は確かに「自分が頼んだ」と言ったけども、"夢と現実がごっちゃになっている"のかもしれない。僕はともすると病的なまでに強固な確信を持ったデジャヴをよく感じるのだが、それと似ている。自分の考えていたのと全く同じことをイズがやっていたから、或人は自分が頼んだのだと解釈した。と同時に、イズもまた或人がそういうのだから頼まれてやったのだと解釈した。その確信は当然、イズが自ら思いついてやったという"記録"と共存している。いや、そもそもイズもシミュレーションなどしておらず、互いにシミュレーションをした夢を見ただけかもしれない。

ゼロツーの持つ「ゼアが予測する様々な可能性を同一世界上に展開させる次元量子跳躍装置」クォンタムリーパーの能力を本気で使えば、できそうな話ではある。形が変化する前とはいえ、おんなじものがイズの頭の中にあるんだから、わざわざできないと解釈する理由がない。イズはシミュレーションだと認識し、或人をはじめとする他のキャラたちは各々デジャヴなり夢なり予想した可能性(シミュレーションなんて大仰な表現はしないが、人もまた未来を予測する)なり、好きなように捉えたのだろう。あの可能性たちはシミュラークル(面影)として現実に重ね合わさるように存在し、揺らいでいた。メタ的な話をするなら、制作陣が展開を考える際に色んな可能性を考えることとも符合する。

そうだとすれば、ゼロツーが誕生するために「飛電インテリジェンスに協力してもらった」という事実を流用できるので、都合が良かったりする(飛電インテリジェンスズアビリティ)。本人たちの認識では、前にアークについて言ったように「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」の理屈で魔法のようなものだと捉えてるのかもしれないが、実はゼロツーのキーやドライバー自体は飛電の設備を使って(別の可能性で)真っ当に作っていたものが、諸々超越(次元量子跳躍)してやってきたと。

何を言っているのか分からない人も多いかもしれないが、わざとそうしているので安心して欲しい。分かった人は"優れた知性"を持っているのかもね。

 

 

ゼアとたかがいち個体のイズが同等ってことには違和感を覚えなくもないが、アークゼロが人型(滅亡迅雷を依代にしている)なのと結びつければあのサイズでもいいんだなって分かる。ゼアにおける滅亡迅雷の役割を果たしているのが、ゼロワン計画関連の個体だろうし。
これまでずっとなんだかんだでまばたきをして目を潤わせてきたイズが、遂に"涙"を流すところまできた。本来有り得ないはずのそれによって擬似的に時間が"戻"り、別の可能性世界に起こったことやあったものもバグとして混入した。
歪みを受け入れ進む姿勢はジオウを彷彿とさせる。

 

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