やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

仮面ライダーゼロワン 第42話「ソコに悪意がある限り」 感想

キャラクター

 飛電或人
・AIは夢を見るか
一般に、人間の見る夢は無意識がつくりだす幻覚とされている。はて、無意識とは何か。
意識とは大雑把に言えば、人間の脳がその限られた処理能力で世界をやり過ごすために"節約"……(サボりとも言う)の為に入ってきた情報を取捨選択することだと思う。"注意"とも言う。
人には選択的注意という能力が備わっており、それが俗に言うカクテルパーティー効果(喧騒の中でも会話相手の声や自分に関連する誰かの声だけは比較的聞こえる)として現れる。ちなみに僕は障害特性なのか、この選択的注意力に乏しい。普通の人は無意識に、雑音ではなく話し声の方に"耳を傾け"て聞こえ方を調節することができる。しかしその機能がうまく働かないと、周りの人はどうやら会話できているようなのに、自分だけはうまく聞こえないだとか、名前を呼ばれてもなかなか気付かないとか、聞かなくていい雑音をいちいち拾ってしまって疲れるとか、そんなことが起こる。
多分視覚にも同じことが言えて、ウォーリーを探せみたいなのは苦手だったりするかもしれない。逆に言えば全体を見られるってことかもしれない(疲れるけどね)。
寄生獣のパラサイトもヒューマギアと同様、基本的には感情がなく、眠ることもない。何故かと言えば、彼らは情報の取捨選択を(人間と比べて)しない。言い換えれば"忘れる"ことがない。人は自分の記憶をデジタルデータベースのようにくまなく検索することはできないし、逆に未シンギュラリティヒューマギアには"自分"がないので、先程のカクテルパーティー効果が働かない。彼らの目に映る世界は、焦点の概念がなく、ただ平坦に全体が見えるのみである。だからこそ、感情も起伏なく平坦なものになる。「どこかを(よく)見る代わりにどこかを見ない」ということをしない"無欠"とも言える存在だが、だからこそ見えないものがある。それが夢だ。
"無意識"とは、意識の取捨選択からこぼれ落ちたものが行くところである。それは過去のことであったり、想像であったりするが、大した差ではない。今目の前にあるもの"以外"のことだ。ヒューマギアにはそれがない(少ない)。
目が2つ、耳が2つ、手足が2つ、脳も左右に2つあるように、自分の心を2つに分かち(≒相反する2つの立場を頭に置き)、意識/無意識という昼夜あるいは天地を創造して初めて、夢が生まれる。
滅亡迅雷の4人も、表舞台に立つ滅と迅、裏方に回りがちな亡と雷に分けられる。無意識を司る後者2人は、思えば早い段階から自らを分裂させていた。亡と不破(ZAIA/AIMSと滅亡迅雷)、雷と雷電(滅亡迅雷と飛電)といった具合に。もちろん影の話なので、目立つことはないのだが。
ヒューマギア全体にとっての無意識を司るのがゼアだが、網羅的で無機質だった彼女も、イズの形を借りて降臨するにあたって、物理的な処理限界から取捨選択を行った。というか当たり前のことだが、これまで宇宙からすべてを見渡していたのが打って変わってイズの視点しか見えなくなったのだから、自然とそうなる。
……何を話したかったんだっけ。ヒューマギアは基本的に夢見ないと思うよってことか。

・マギア化は解いたけど……
もし滅がハッキングをしていないなら、あのヒューマギア達自身が持つ人間に対する敵意は残っているかもしれない。急にふらふら歩いてったのでハッキングした説は濃厚(トリロバイトはそうだろうし)だけど、呼びかけをきっかけに一念発起しただけということもある。ホッパーブレードがリプログラミングのようにヒューマギアの思考まで変えられるとは、現状言われていない。でもできておかしくはないと思う。それを洗脳と取るのか、人間にも良いところがあると教えて滅亡までさせなくていいんじゃないって訴えてると取るかは、こちら次第。

・ゼロツー(善意)からアークワン(悪意)へ
(シミュレーションとはいえ)自分がやられる分には滅と分かり合えると信じ続けられるけど、イズを殺された悲しみから悪意に転じるというのはうまい描き方だなと思った。イズを人と認めるなら、一応動機は「他を思う心」と表現できる。2人の夢で手に入れた力は、1人になった悲しみに生まれ変わる。オーマジオウとも似てたな。

自分と他人の間には、良くも悪くもやはり"壁"があるのよね。自己犠牲はいくらでもできる人でも、他人が犠牲になることは耐えられない。ある意味多くのヒーローというのはそういった矛盾のようなものを抱えていて、それがかなり悪い形で浮き彫りになった(と僕が勝手に思ってる)のが『剣/ブレイド』。何度もしてる話だけど、あの作品は序盤で「ヒーローは自己犠牲して満足かもしれないけど、周りの人はそのヒーローを心配するんだ」という話をやっていて(4話)、にも関わらず剣崎は、誰に相談することもなく一人で勝手にジョーカー化してしまう。あの最終回を見た人なら、虚空に響く橘さんの悲痛な叫びを知っているだろう。

人が何故、自分が犠牲になることにこれだけ疎いかと言えば、よく死にかけの人間が言うような「自分のことは自分が一番分かってる」に類する思い込みが原因だと思われる。自分のつらさは我慢ができる。
裏を返せば、他人の苦しみは分からない。分からないから、「大丈夫」の一言を信じることができない。相手が一体どのくらいつらくて、どのくらい苦しんで、どのくらい悩んでるのか……それが"計り知れない"からこそ、人は人を(時に自分自身よりも)助けたいと思うのだ。イズは本当に感情を持っていたのか、死ぬことに悲しみを覚えていたのか。最期の立ち姿は或人を悲しませない為の虚勢などではなく、本当になんとも思ってなかったのかもしれない。翻って、やはりとてつもない恐怖を感じていたかもしれない。
死人は喋らないので、その答えを聞く事はできない。死の恐ろしさというのは、その想像力をかきたてるところであると思う。だから僕はビルド29話で戦兎の背中を押す青羽が嫌いなのだ。死者は人を(恨みもしないが)許さないのだから。

或人の悪意にフォーカスする展開自体はかなり既定路線というか、元々やってもおかしくない素地はできあがってたのよね。顕著なのは22話。
天津への敵対心から我を忘れ、「今あなたの心を支配するものこそ、紛れもない人間の悪意だ」と指摘されている。メタルクラスタに無理やり変身させられて、そのあまりの悪意の強さに「そこまでやらなくていい」と或人はブレーキをかける側に周り、有耶無耶になっていた。
あの時は相手がレイダーや天津という人間だったから本人も殺すまではしたくなかったんだろうけど、滅は所詮ヒューマギア。人間は世間で言われてるほど一貫性のある生き物じゃないので、その時その時で都合のいい立場に立つことはしばしばある。「イズを平気で殺すようなやつは、心のない機械だから壊してもいい」と、彼の中の悪魔はそう囁くのだ。奇しくも、滅自身もその行為をもって「自分に心はない」と表明していた訳だしね。不破をして「ゼロワンとは別の何か」と言わしめていたが、名実ともに別物となってしまった。
(参考:仮面ライダーゼロワン 第22話「ソレでもカレはやってない」 感想)

滅だってそうだが、本当の意味での"悪意"なんてものはこの世には存在しないというのが、僕の持論だ。「他人を傷付けようとすること」は悪意と言って差し支えないだろうが、自分や他人の幸せを願うこと自体は悪くない。では「自分や他人の幸せと無関係に、純粋に他人を傷付けたいという欲求」が生まれることなど、あると思いますか?
誰かの幸せを願うことが"副次的に"誰かの不幸を願うことに繋がることはあっても、それはないと僕は思う。
悪意は、善意からしか生まれない。
なんだかんだ言ったけど、今回或人は踏みとどまったのよね。滅を壊しはしなかった。次回から、悩みつつどういう行動を取るのかは知らないけど、そう解釈し得る。

(参考:悪者とは弱者である『語ろう! クウガ・アギト・龍騎/555・剣・響鬼』高寺成紀編 感想)


 イズ
・シンギュラリった結果
ゼアが乗っ取られたときに仕込まれてたのか知らないけど、彼女の中にもアズは偏在するらしい。これも"分裂"のひとつだね。
敬語が抜けてとてつもない違和感。
或人から滅を許す心もラーニングした結果、交渉を試みる(終盤のポピっぽい)……んだけど、みんな思ってる通り偏ったラーニングってのはどでかいブーメランよね。
でも僕に言わせれば、ブーメランってそこまで悪いことじゃないのよね。 自分が対象Aを批判しようと思ったなら、言えばいい。それと同じ立場で、批判者を批判してくれる人もいる(かもしれない)。
両方の役割を自分1人で担わなきゃいけない道理はない。
それよりも、せっかく気付いた欠点の情報が日の目を見ずに埋もれていくことの方が、よっぽど世界にとって損だ。実際今回のイズの発言は、ブーメランとしてイズ本人にも適用したくなるくらい「正しい」ことだったわけで。
もしかすると、その欠点には自分以外の誰も気付けないかもしれない。自分は自分のミスになかなか気付けない。だったらお互い教え合えばいい。みんなで"より良い世界"のためにできることをするべきだと思うわ。
・発言権
変身できない彼女には発言権がない。喋ろうとすれば、一歩間違えればすぐ攻撃されて死んでしまう危険があるからだ。視聴者も或人も、こぞって「戦場に出てくんな」と言って、彼女を抑圧しようとする。もちろんそれはその身を案じてのことではあるんだけどね。
(参考:仮面ライダーゼロワン 第33話「夢がソンナに大事なのか?」 感想)


 アズ
・神は心の中に宿る
これは友達のお母さんからの受け売りなんだけど、"精神"と言うくらいだから心というものは本来人の手に余るものなのよね。心自体も"シン"で神に通ずる。
ゴルドドライブにアークと声優のチョイスに意図が見えたので、先日『BLEACH』を読み返した。あれの主テーマはおそらく"自分との対話"である。先述したように、自分という個人(individual)を分割(dividual)し、自分の他に斬魄刀という存在を作り出す。それに名前を付け明確に「自分と区別した上で協力する」ことで、力を解放することができる。そして話が進むと、次は死神と虚(ホロウ)という全く相反する存在の垣根を取り払い、組み合わせることで更なる力を手に入れる。 象徴的なのはコヨーテ・スターク。彼はその強さ故に孤独で、弱さが欲しかった。虚から破面(アランカル)になる際、彼は自分の力を切り離し、もう一人の自分リリネット・ジンジャーバックを生み出した。あの作品における対話とは、基本的に"自問自答"だ。
だからこそ、一護はルキアの意見を聞かない。彼はあくまで彼の中にいる彼女、あるいは彼女の中にいる彼を助けるのだ。
これはあるブログの表現(記憶科学の言葉らしい)を借りるなら、"離散融合更新循環"となる。
この間自分のバイブルの一冊に加わった 井筒俊彦『意識と本質』の中で論じられていた禅の哲学にも繋がる。これよると悟りの境地に立つためには、我々の心が自分をちぎって生み出した片割れであるこの世界……すなわち花や鳥、風に月、その他すべてのものたちを「分節されていない同一のもの(≒梵我一如)」であると認識し、その上で再び分節を取り戻す必要があるのだと言う。
それでは元の木阿弥ではないかと思うかもしれない。
だが「1+1」と「2」が異なるものであるように、分離と融合を繰り返したものは質量としては変わらないかもしれないが、その本質に変化が生じる(更新)。
このよく分からない創発の神秘性こそ、意志と同じ無から有を生み出す神の居場所なのだ。

(参考:仮面ライダーゼロワン 第40話「オレとワタシの夢に向かって」 感想)

・ついでに
或人が見てたアズはワンチャン本物の幻覚だと思います。ゼロツーキーを使って自分でドライバーとキーを生み出したけど、それを意識しないために作りだした偽の現実。

 

 滅
・ホロビ! ザ・カメンライダー!
人間に生み出され、人間からラーニングした悪意でもって人間自身を滅ぼさんとする。「心など悪意を生むだけで必要ない、自分には存在しない」と仮面を被り、無機質な機械であることを自分に強いる。
今回の彼、めっちゃ仮面ライダーじゃなかった? ショッカーに与えられた力でショッカーを倒し、奴らと同類である悲しみを隠すために仮面を被る。広く言われているような仮面ライダーのイメージをギュッと濃縮したような感じ。自由意志に対して肯定的か否かって部分は反転してるけど、十分面影はある。SAが高岩さんだったり強化なしで立ち回ってたりと元々彼は古臭さを担うキャラなので、平成を飛び越えて昭和のテイストを投影する土台はある。そうなるとエイムズの2人が平成なのかな。
彼の願う"安息"とは、キリスト教で言う日曜日。ゼロワンが毎回放送してるのも日曜日。我々は彼らの求める安息を自ら捨ててバトルの中に心を投じているのだと考えると、いろいろ思うところがある。

(参考:"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として)


 与多垣ウィリアムソン
・変な名前
ヨタは単位です。でもそんなことはもう言われ尽くしてるのでどうでもいいです。
彼はウィリアム(意志)のソン(son)、つまり息子だ。マクドナルドやマクフライの(Mc)みたいなもんだと思う。よって、まぁ別に名前がそうでなくても自明のことではあるのだが、彼が"元凶"では有り得ない。
彼の主張は天津と大分違って、アークも滅もなくていいとのこと。正直天津のマッチポンプ経営が本気でうまくいくと思ってる人なんかいないと思うので、もしかするとただのまともな人なのかも知れない。あくまで「コントロールできるアーク」が欲しいのかもしれないが。
"サウザー課"という一見ただの馬鹿げたギャグについては、自己定義という一応申し訳程度のテーマ的意味が垣間見える。ゼロツーがグラスホッパーの力を借りずに"ゼロツーズアビリティ"で変身するように、わざわざ他に引用元を作らず自分で自分をつくるオートポイエーシスの感覚を、無意識に理解させるための演出のひとつだろう。


 不破/唯阿
・鶏卵
滅は呼びかけをしたけど、まだ手は出してなかった。イズのことは鬱陶しかったろうけど、変身してなかった。だが2人が明確に銃を向けたので、変身の動作に入った。すると2人も変身し、交戦が始まった。
この場において「どっちが先に手を出したか」を明確にすることは困難を極める。彼らが人間を守るためとはいえ滅に敵意を向ければ向けるほど、彼は悪意をラーニングしてアークに近付く。 迅が「これ以上戦うな」って言ってたのはそういうこと。
とても象徴的なシーンだった。
(参考:脳内補完と投影→ゼロワン 第39話「ソノ結論、予測不能」 感想)

 

 

ヒグラシが鳴いてたので、アークワンはセミモチーフのではないかと思った。根拠はないがそう思っちゃったので仕方ない。ずっと衛生として水中にいて、地上に出てくるのはほんの数話だけ。
セミの幼虫は別に水にはいないけど、ヤゴモチーフのドレイクマスクドフォームは配線が印象的でアークゼロと似てなくもない。
デイブレイク,ライジング(サン)と太陽はゼロワンのキーの1つでもあるので、日暮は適任。

 

 

ゼロワン感想一覧

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