やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

ウルトラマンZ 第6話「帰ってきた男!」 感想

キャラクター

 ナツカワハルキ
・剣を握ったままでは……
1話の感想で「ハルキと融合すればタイマーを無視できる理由が分からない」という話をした。実はあの後すぐに自分なりの答えは見つけたものの、書くタイミングを逸し続けていた。今回は書きたいことがそう多くないのでこの機に書こうと思う。
一言で言うならば「ハルキが鞘になった」だ。
元々ウルトラマンの時間制限設定は作劇上の要請という側面が強く、特撮シーンの削減だったり完全無欠過ぎてはピンチを描けないという事情で付けられた設定だと聞き及んでいる。それはそれでひとつの事実なのだろうが、ここではこのカラータイマー設定をテーマ的な視点で捉えたい。
そこに隠されているのは、無秩序に力を行使し周りを傷付けることが「悪」とされるのに対して、秩序の下で力を奮うのが「正義」である、という無意識的了解であると僕は思う。抜き身の刀は危険だが、必要に応じて鞘に収めておけば安全だ。
怪獣は基本的に、ウルトラマンと違って無制限に暴れまわることができる。シンジがダミーシステムの所業に激怒し、私的にエヴァを動かしたシーンを思い浮かべてもらえば分かると思うが、あんな風に力に対する制限があれば、例え敵に回っても被害はある程度に収まる。だから、強大な力を以て正義を為す者は、自らの力に対し何かしらのリミッターを負う必要がある。
ウルトラマンにとってはそれがカラータイマーであり、それを無視するにはまた別の制限を設ければいい。あの場合、ハルキという人間と同化することが、その"鞘"に該当するのだと思う。違う生物である以上は意見が違うことも有り得るので、マックス3話のように互いの意見が一致しなければ変身できないというのは、枷と言って差し支えないだろう。 セブンガーやウインダムには、バッテリーの他に予算というしがらみもある。そうして様々な外的要因に配慮しながら戦ってこそ「正義」は成立する。

また似たような話として、ウルトラマンは必ず"飛び去っていく"ということがある。怪獣との共存が声高に叫ばれる昨今であるが、改めて考えてみると「ウルトラマンでさえもそのままの姿では共存させてもらえていない」のだ。
井上敏樹氏だったか忘れたが、どこかで「怪人を倒せるほどの力を持ったやつがそばにいたら、怖いじゃない。だからヒーローは必ずいなくならなければいけない」みたいな話をしていた。これはまさにウルトラマンに当てはめられるだろう。
怪獣が出現しなければウルトラマンも出現してはならない。怪人が巨大化しなければ戦隊もロボを出してはならない。怪人が出現しない間は仮面ライダーには変身せず人間の姿で暮らさなければならない。
ヒーローは得てして敵と同時に存在し、同程度の力で事態を収めるのだ。
怪獣は"帰ってくれない"から問題になる。住処で大人しくしている分には問題ないし、山からちょっと降りてきても、すぐに帰るなら別にいい。怪獣の破片をストレイジ隊員達がせっせと集めている様子が象徴的だが、怪獣はとにかく"いる"から迷惑なのだ。ベリアルの破片も同様。ウルトラマンのように跡を濁さず綺麗さっぱり消えてくれればどんなに良いか。

最近仮面ライダーゼロワンとの関連を模索して『BLEACH』を読んでいて、そこでは如実にこの価値観が描かれている。絶大な力を得る虚化だが、その為には仮面を付けなければならない。そしてその敵として立ちはだかるのは、仮面を壊し剥き出しになった破面アランカルだ。
実際にはもっと複雑に入り乱れていてこんな単純な二元論的にはできていないのだが、詳しく知らない人も対象に説明するならここでやめておくのがちょうどいい塩梅だろう。
この項の題はその『BLEACH』から取っている。「剣を握らなければおまえを守れない。剣を握ったままではおまえを抱き締められない」。守ることと戦うこと、ジレンマは終わらない……。

 


 朝倉リク/ウルトラマンジー
・存在の肯定
決め台詞たる"ジード"によく表れている通り、どうやらジードは"平和"を乱す存在らしい。元々ベリアルの息子というのもあって、デビルスプリンター同様にいなければいないに越したことはない。
でもそれって存在するものすべてに言えることで、迷惑をかけずに生きることなど不可能なのよね。ウルトラマンが街を壊すことについても言ったけど、物質は存在するだけで周りの時空を歪めてしまう。
ジーッとしててもドーにもならねぇ」が示しているのは、ギルバリスが望むような何も起こらない虚無的な"平和"を否定し、波風が立つことを望む姿勢だ。
1話でも行った通り、そもそも怪獣もウルトラマンも出現しないのが一番平和なんだけど、何もない0ではなく両方存在するプラスマイナス0を目指す。
このメッセージはコロナが猛威を奮っている今だからこそ輝きを増す。
本当は、家から出ず何もしないのが一番いいには違いないのよ。更に突き詰めると、生物がいる限りウイルスは増殖できるので、みんなで生きることをやめるのが一番いい。不要不急とは言うけども、人間が生きることに要も急もありはしない。人間が突然消えたら生態系が崩れるかもしれないが、生態系が崩れたらなんだと言うのだ。地球がなくなれば太陽系は乱れるが、それがどうした。この世界に本当の意味で必要なものなどない。ウイルスという小さきものの生きる権利を奪って生きる価値が、果たして人間にあるのか。
そんな理屈はさておいて、人もウイルスも盲目的に生きようとする。何もないよりは「どうにかなる」方がいい。

・過去作要素の扱い
ジャグラーについて「ヘビクラはヘビクラとして別人であって欲しかった」みたいな声があったが、僕は個人的に、本作は元より『ジオウ』と同様に過去作ありきな企画なのではないかと見ている。
そう思う一番の根拠は、ウルトラメダルだ。
特撮の企画段階において、玩具が先なのか作品自体のコンセプトが先なのか、或いは同時進行なのかは寡聞にして知らないが、あのウルトラメダルには非常に強い違和感を覚える。何がって、一貫して横顔なこと。これまでオーブのカードもジードのカプセルも基本的には正面を向いていたのに、ウルトラマンも怪獣も揃って、しかもなんと左を向いている。もちろん、メダルの顔と重なるようになっているアクセスカードの顔も、変身後は左向き。

人間社会において、左右には意味がある。例えば今回ゼットとジードが並んだ際、向かって右にゼットが立つ構図になっている。演劇文化の名残に「上手かみて/下手しもて」というものがあり、左右の立ち位置によって立場の上下を表している。この場合は主役のゼットが上、ゲストのジードが下(ちなみに怪獣を倒して振り返ったときは先輩のジードが上手になるようになっている)。概念としてはマナーにおける上座/下座と同じようなものだ。ウルトラシリーズに馴染み深い方なら「ウルトラマンの立つ方が上手で怪獣の立つ方が下手」と言えば伝わりが良いと思う。戦隊や仮面ライダーにおいても、この上手/下手文化は踏襲されている。ロッソとブルではロッソが、ルパレンとパトレンではルパレンが、翔太郎とフィリップでは翔太郎が、それぞれ上手に配されている。仮面ライダーは強者に対する反逆者なので、怪人と向かい合う際は下手に立つことも多いけどね。立ち位置だけでなく、向きにも意味がある。今読んでいるこの文章を見れば瞭然なように、右向きに進むほど未来へ、左向きに進めば過去へ行くこととなる。日本では縦書きする際に左へ進むことから逆とする場合もあるが、少なくともZにおいてはアクセスカードの名前も左から右へ進む横書きで統一されているので、描かれているウルトラマン達が左向きであることは過去を向いていると捉えて良いだろう。ちなみに、ジオウのレジェンドウォッチも左に向けて差し込むよね。
このことから、物語の描写以前に玩具の時点で既に本作は「過去志向」なのだ。唯一ゼットライザーの刃だけは、右に向かって動かすが。
だから僕は(ヘビクラと同一人物かはさておき)ジャグラーは出ると思ってたし、ジードが出てくるのもこれからいくつも出てくる過去作要素のひとつに過ぎないと予想していた。ゲスト怪獣もかなり古いものが多いしね。 「ジオウと違ってZはレジェンドものだとは言わずひとつの独立した作品であるかのようにPRしていたじゃないか」という声があるのも分かる。僕としては「ジオウですか?」が問題になったように、レジェンドものだと明言すると「出て当たり前」と捉えられてしまうことを危惧して、都度都度サプライズゲストという形式を取ることにしたのではないかと邪推している。来週は満を持してゼロが"参戦"する。これも発表当初の情報にはなかったことで、タイガにおけるタロウみたいな立場だと思われていたことだろう。

普通過去を向いてるというのはネガティブなことなので、敢えてそれをやっているのは、レジェンドを扱った企画だからなのではないか、というのが僕の考えだ。だから仮に「一見さんお断り」な作風になっても、あまり驚かない。その辺のバランスは気遣われるとは思うけどね。

(参考:Zはジオウと同じ「お片付け」ではないか→ウルトラマンZ 第4話「二号ロボ起動計画」 感想)

 

 ストレイジ
・模擬戦
今回ちょうどギルバリスが降ってきたのもあって、模擬戦なんてやって肝心なときに使えなかったらどうするのって危惧は頭を過ったよね。
僕は警察のパトロールにも同じことを感じてて、色んなとこを回って何事もないか確認するのはいいけれど、それでむしろ出動しなきゃいけない時に遠くにいましたってなったら意味ないんじゃいの、と。
でもこれって、未来が分からない以上は仕方のないことではある。バッテリー満タンのままずっと放置しとくのも時間がもったいない気がするし、車やバイクのように長時間動かさないままにすると不具合を起こす可能性もあると考えたら、ああやって怪獣の出る出ないに関わらず適度に動かすことは、理に適っていると言える。それにしたってどっちかは待機させておきたいと、不安性の僕なら思うけども。考えられる可能性としては、試運転もその後のメンテや充電も、別々に交互でやるより一緒にやっちゃった方が効率がいいとか。それで怪獣が出てしまったら、それはもう「ウルトラマンに頼らざるを得ない仕方ない状況」と言えるのかもしれない。
限られた予算や人員でやりくりすることを思えば、あれが最善なのかな。ユカがちょうど模擬戦前に予算の心配をしてたのも、たまたまじゃなくてそういう背景があってのことかもしれない。
ちなみにSTORAGEというのは電子機器のストレージと同じで、意味としては記憶装置。これはZが過去志向のレジェンドものであることの傍証のひとつだ。

 

 

先日『レディ・プレイヤー1』を見た。かなり普遍的なテーマを扱ってるので、オタク的な知識がなくとも十分楽しめると思う。意見の相違や諍いがあっても、一人ではなく複数人で。
「人類がウルトラマンに頼り過ぎてはいけない」ことを考えたらウルトラマンが2人3人と増えてしまうのは好ましくないはずだが、ジードはこっちの都合とは関係なく、自分がベリアルと決着をつけるために首を突っ込んでくる。
ウルトラマンがいなくても大丈夫なように」と同様、今度は「人間が自らに頼りすぎないようにという気遣い」がなくても自己研鑽を続ける意志が求められる。

 

前話

ウルトラマンZ 第5話「ファースト・ジャグリング」 感想