やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

エゴとエゴの均衡『映画 聲の形』 感想

NHKでやってたんで見ました。結構面白かった。気分が落ち気味の時に見たら泣いてたんじゃないかな。つっても感動じゃなくて、悲しくて。感動するような話だったかといえばそうでもなかったと思う。少なくとも爽快感はない。

 

全体的には良かったので先に惜しかったところを言うと、小学校の担任と母親2人、それと島田。彼らの心情をもっと見たかった。特に担任はただただクズなだけで、なんの正当性もなかった。そこを描く時間がないなら、せめて顔と名前を映さないで欲しかった。他の人に正当性を感じるからこそ、そこが大きく引っかかった。

 

で、本題だけど、一言でまとめるならエゴのぶつかりあいかな。
正義とか道徳とか善とか、そういう押し付けがましい基準で見れば、まぁぶっちゃけほぼ全員クズよ。いじめる奴も、見て見ぬふりする奴も、被害者ヅラする奴も。
でも、誰もが最善の行動を取れる超人じゃない。っていうかそんな人間本当にいるのか怪しい。そういうのは目標とであって義務じゃない。理想を押し付けるだけじゃ何も始まらないんだよな。極論刑罰もそうだけど、罰を設けたからって犯罪がなくなるわけじゃない。悪を責めれば悪が滅びるわけじゃない。
"何故それが起こるか"という根本を見ないと、何も始まらない。

 

じゃあ、何故あのいじめが起こったのか。それは"誰かのせい"なんて簡単に割り切れる話じゃない。そういうことはなかなかない。
でも、有耶無耶にする訳にもいかないから、劇中でやったように誰かに"責任"を取らせる必要が出てくる。今書いてて、20世紀少年の1シーンを思い出した。カンナの誘拐に失敗して、信者たちが一人を燃やすとこ。今作で言えばその犠牲者は将也だった。
この例からも分かるように、"誰のせいか"を決めるだけじゃやっぱり何も変わらない。

情状酌量なんて言葉があるけれど、それを考えてみる。植野が一番分かりやすかったが、何も最初からみんな西宮に対して嫌がらせを行っていた訳じゃない。
むしろ好意的にサポートまでしていた。

 

気を遣うのは、疲れる。別に障害を持ってることが悪いとか、周りが怠慢だとか、そういう価値判断抜きの事実として、疲れる。
でもそれに対する報酬があれば、人は頑張れる。例えば僕の場合なら自己満足による自己肯定感の向上だったり、個人的に好きだからその人のサポートをすることそのものにやり甲斐を感じたりとか、給料が出るとか。

似たようなケースとして、最近読んだカフカの「変身」が挙げられる。

『変身』フランツ・カフカ 感想

 

僕は小学生の頃、委員会の仕事で走り回ってた時期がある。給食を食べる時間を削って、やるべきことをやらない連中のためにそのツケを自分で払ってた。
でも、僕はそれが気持ちよかったからやってただけで、善意とかでは全くない。そうすることで自分が人として上に立ててる気がしただけ。

むしろみんながやるべきことをやってしまったら、きっとその頃の僕はガッカリしたと思う。明らかに歪んでるし、だから自分が善だとは微塵も思わない。当時もそこには割と自覚的だった。
でもそういう歪んだ奴がいることで、委員会の仕事がきちんと回ってたのも1つの事実なんだよな。
だから僕は自分が"悪い"とは思わない。罪悪感はない。

 


少し話が逸れた。植野は「西宮をサポートするメリット」と「それによるデメリット」を天秤にかけ、デメリットが大きいと判断した。だから距離を置くようになった。植野の中での硝子が"変身"したからだ。
将也も忠告した。「もっとうまくやれよ」と。でも西宮は話を聞かなかった。後のシーンで語られるが、西宮は"聴覚障害者だから"いじめられたのではなく"周りを理解しようとしなかった"からいじめられたのだ。もちろんそれが原因の100%だと言うつもりも毛頭ない。いじめまでする必要があったかといえばそりゃなかった。

でも、誰かを嫌うこと自体が悪い訳でもない。それは仕方ない。

 

「硝子ちゃんは、手話を使ったほうが楽なんですよ」
「私は手話より書くほうが楽なんですけど」
この会話に象徴されているが、どちらかの"我儘"を優先する理由なんてない。でもどちらかだけが不満を覚える正当な理由もない。

だからこそ話し合って落としどころを見つけていかなくちゃいけないんだけど、それをしないから不満がたまる。いや、それをするためにそもそもどちらかが不満を覚えなくちゃいけない。手話で話し合うにせよ筆談で話し合うにせよ。それがこのケースの難しいところなんだよなぁ。
まぁ、イーブンにしたいだけならどっちも不慣れな方法でやるって手もあるけれど、それだと本題の話し合いが円滑に進まない。

 

こういう時に自分の不利益を被れる人というのは、"良い人"というよりは"余裕(ヒマ)がある人"なのだと思う。
余裕がないから、硝子は自分の主張を相手にぶつけないで貯め込むし、将也たちはストレスをそのまま硝子にぶつける。
逆に言えば、序盤の植野は余裕があったから硝子に優しくできた。
川井なんかは石田に「自分が可愛いだけ」と責められていたが、寄生獣を知ってる人にはこれが一番分かりやすいかな。初期のミギーが自分を守るために他を平気で殺すように、川井も自分の立場が危うくなると他者を傷付けることも厭わなくなる。


また将也の母親。息子が他人の心を踏みにじって、お金もたくさん払わされて、それでも死んでほしくないって言えちゃうのは、僕には理解できないけど、余裕がある人なんだろうね。
この間の進撃でヒストリアの過去語りがあったけど(アニメ派)、僕はあの母親の方が理解できる。「殺す勇気があれば」ってやつ。詳しい事情は知らないけど、迷惑してるならそう思うのが自然。

僕は昔の記事で「我慢できないなら産むな」って言ったと思うんだけど(母親は我慢をすべきであるか)、だから僕は子供なんか産むもんじゃないと思ってるよ。金かかるし時間もかかるし手もかかる。それを我慢して理想の親であるなんて人間業じゃない。それをやろうだなんて傲慢だとすら感じる。
それほどの精神的、金銭的、時間的余裕を持った人間なんて、実在するのかね。少なくとも僕にはそんな余裕はないな。

 


"余裕"については伝わっただろうか。そうなると、ラストシーンにも繋がってくる。
それぞれがそれぞれの余裕という手札を使って生きていくしかない訳で、各自自分の欠点を認識したが、それを改善するかどうかはやっぱりその手札次第になってくるんだよね。
多分植野は手話を勉強する程度の"歩み寄り"をする余裕があって、西宮はまだ謝り癖を直すには至らなかった。逆に植野には西宮を好きになるほどの余裕がまだなくて、西宮は植野を(多分)好きになれた。

"自分にできる範囲で"譲歩をすることで、全体のバランスを取り、より多くの人の負担を減らしていくことが重要なんだろうね。

 

先週覚えたばかりだけど便利なので使うと、そういうのをアサーションって言うらしい。
自分の主張だけして相手の話を聞かないのはアグレッシブタイプ。
相手の主張を聞いて必要以上に我慢し、時にそれを恩着せがましく思ったりするのがノンアサーティブタイプ。
その中間で、自分と相手の両方を尊重しバランスを取れるのがアサーティブタイプ。

 

このアサーティブな態度に必要なのは、意思表示。自分は勿論、相手もね。僕は自分の基準で配慮して生活しているけど、他人の基準を聞くことでそれが変化することだって有り得る。だから結局、伝えようとしなきゃ伝わらないんだよね。
どんな極端な意見でも、とりあえず言ってみることは必要かなって。その結果色んな反論とか同意とかが来たら、それを見て自分の意見を洗練していくことができる。まぁ、言う前に色々調べることも可能だけども、もしかしたらその発言者は自分が今言おうか迷ってる意見を聞いたら、考えが変わるかもしれない。自分の考えが変わらないようなら、発信してみるのが一番だと僕は思う。

 

批判として「顔が不細工だったら成立してない」ってのを見たけど、仮にどれだけ醜い容姿でも、結局は関わる相手の余裕によって決まるのであって"容姿が悪いことで必ずすべてが崩れる"ことはないし、それでこのテーマが描けなくなることはない。そもそもの話、「◯◯だったら」なんてのはナンセンスだけどね。「ピザの生地を食パンに変えたらピザじゃなくてピザパンになっちゃうじゃないか」って言ってるようなものじゃない?

あと、「硝子はいじめられてたのになんで将也を好きになったんだ」みたいな反応を結構見かけるけど、そもそも硝子はいじめられて悲しんでるシーンがないんだよな。将也たちを恨んでいたような描写もないし、何より最後まで「友達」と言い続けてる。

被害者が加害者を恨まなきゃいけない理由なんて全くない。むしろそういう恨み言を言わずに仲良しだと思い続けたからこそ余計に「気持ち悪い」と思われてしまったのであって。

ちなみに僕は、硝子が好きになったのはあくまで"最初の人だから"であって、これから色んな人と関わっていく中で、恋愛的な意味での"好き"は薄れていくと思ってる。

逆に石田が西宮を好きになる理由の方が難解。西宮と違って何度も後悔して自殺未遂のシーンまであって、その罪の象徴である西宮を直視するだけでも一苦労だろうに、好きになるなんて"許されない"と思いそうだ。

だから、物語として盛り上げるために恋愛のかたちをとったけど、互いに友達でいるのが一番綺麗だと個人的には思う。

「作者に言わせると『暴力』も自己表現の一種」ということを批判している人もいた……元の発言を見たことないからあれだけど、僕は概ね賛成。でもそれと良し悪しは別だし暴力でのコミュニケーションが嫌いな人ばかりでもない。僕は何も言わず自分の内に溜め込んである日突然予想外の形で爆発する人より、植野みたいなやつの方が"好感持てる"。とはいえそれは相対的な話で、結局嫌い寄りだけどね。

方法それ自体に良い悪いはないんだよな。それこそ漫画じゃないけど、殴って分かり合えるならそれもいい。でも相手が暴力を嫌っていたら、それはその"場"に適切じゃないってだけ。口での会話も、聴覚障害者がいる場では暴力同様に適切じゃないとも言える。

 

観覧車のシーンで植野が怒ったのは、小学生のときの反省をして、回りくどい方法じゃなく"分かりやすく、口で、ストレートに伝える"という方法をとったにもかかわらず西宮側が少しも歩み寄ってこなかったことに腹を立てたから。少なくとも僕はその気持ちを理解できるし、そこまで責める気にはならない。

そこを考慮すれば少なくとも「自分の主張だけをして周りのことは一切顧みない人」ではないし、そうやって歩み寄った部分を切り取れば褒めてもいいんじゃないかな。逆に結局は暴力を奮ってしまったことを切り取れば、悪く言われて当然。

聲の形の良さって、そういう一長一短な描き方だと思うんだよな。

 

永束なんかも、周り見てると川井と対象的に肯定的なものばっかだけど、僕は彼嫌いなんだよね。石田の目を見て「"誰か"助けて」なんて言えるふてぶてしさが気に食わない。そんなこと言われたら助けるしかないじゃん。自転車だって、どうせ探しに行くなら一度石田を人柱にするんじゃなくて自分の貸して自分で探しに行けよって思った。「親友にありがちだろ?」とか言いながら見ず知らずの他人(自分より弱そう)を恫喝したりするのも腹立った。そんなんだから友達いないんだろうなって。

 

感想を漁ってて気付いたことだけど、聲の形を受け入れられない人の多くは自分の経験と照らし合わせ過ぎてる気がする。感情移入し過ぎというか、キャラと自分を重ねずにすり替えてるというか。「自分をいじめたやつを好きになるなんて有り得ない」とか「不細工だったら」みたいなのは顕著な例じゃないかな。面白いからもっと否定意見を見たいな。

 

長々と書いたけど、この記事の結論は前に書いた記事↓に集約されちゃうんだよね。ここで言いたいこと大体言ったから。つー訳でこっちもどうぞ。

86ma.hatenablog.com

まぁそんな感じで、結構考えさせられて面白かったです。

 

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