やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

母親は我慢をすべきであるか

最初に述べておくと、筆者は高校生だ。経験不足や知識不足は否定できないし、する気もない。だがそれは「判断を間違え易いこと」の根拠にはなるかもしれないが、「判断が間違っていること」の根拠にはならない。

「母親ではない者が母親を語る」ことにも同じことが言える。父親でも、あるいは親ですらなくても、母親について正しいことを推察することはできる。もちろん間違えることもある。よってそういった先入観の類は捨てていただきたい。
(ちなみに題や文中で「母親」に限定されているが、それはこちらの方が多く話題となっているし通じやすいからだ。適宜父親なり両親なり読み替えて欲しい。同じく「育児」等も「仕事」等に読み替えて欲しい)

 

 

自分は「できないなら産むな」派だ。
先にも述べたとおり自分は高校生だが、育児が大変だということくらいはそれなりに聞いて、Twitter等を介して世の親達の愚痴もそれなりに目にしたし、知識として知ってはいる。
将来のことなど考えたこともないようなこの自分ですら知っているのだから、当然これから親になろうとする方も知っているだろうと思うのだが、なぜ後になって文句を言う人がこれほどにも多いのか、不思議で仕方がない。
もちろん意思に反して子供ができてしまうことなどもあるだろうが、ここではそういった例ではなく自分の意思で決断した人について扱わせてもらう。

 

文句を言うことが悪いと言う訳ではない。それを口にすることできちんとデトックスされ、健全に育児ができるのならば、むしろ言うべきだと思う。
だがそういう風には、あまり見えない。もちろんこれが自分の思い過ごしなら、それで良いのだ。
自分が質したいのは、「親となる資格があるのかどうか」である。
子供が欲しいという気持ち自体は、共感はできないが尊重すべきものだろうと思う。思うが、世の中「欲しい」と願えば手に入るものばかりでもないというのは事実だろう。

 

例えば自動販売機で売っている飲み物が欲しいと思ったら、対価としてお金を投入しなければ手に入れられない。
それと何が違うのだろう? 対比を分かりやすくするために子供をモノのように表現することを許して頂きたいが、「子供を手に入れる」ためには後払いで「子供を責任持って育てる」ということが付いてくる。
それは前述の通り誰もが知っている道理だと思う。にも関わらず、子供を産んでおいて対価の支払いを渋るのはおかしな話だと思う。

もう少し掘り下げると、無理をすべきだとは思わない。筆者は、「無理をすればできる」ことを「できる」とは見做さない。
よって、育児において無理をしなければいけない人は子供を産むべきでないと考える。
先程のように言えば、支払うことができないのに商品を注文するようなことだと捉えれば、道理が通らないことは分かってもらえるだろう。
その「商品」が実際は「モノ」ではなく、かつ取り返しがつかないことを思うと、より強固にそう感じる。
事前に、「子供が欲しい」という望みが自分の身の丈や置かれている環境にあっているのかどうか、慎重に考慮する必要があるだろう。

 

最後に、仮にこの意見が多くの人の賛同を得た場合、少子化が進むだろうという視点から批判が来るかもしれない。
それについては、個人が子供を産むか否かに直接関係することではないと思う。社会的要因による育児のしにくさ、ひいては出産のハードルの高さは、社会が改善すべき事柄だろう。
一人ひとりが考え意見を持つことは必要かもしれないが、少なくとも「少子化社会を改善するために子供を産む」という結論に至るのは不健全だと感じる。
本人がそれでいいというならそれでいいと思う方もいるかもしれないが、社会のために命を生み出すことが良しとされるならば、滑りやすい坂的に、人体実験を目的とした生命の誕生をも許してしまうことになりかねないのではないだろうか?
元々生殖は種の保存を目的としているのだから問題ないとも考えられるが、どうなのだろう。
本格的な生命倫理の話になってくると自分はお手上げなので、今回はこの辺りで切り上げることとする。

 

 

まとめ 親ならば、我慢するべきである。だが無理をしてはいずれ破綻するので、できないならばそもそも産むべきではない。