やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

『変身』フランツ・カフカ 感想

読書感想文って、あるじゃないですか。僕も夏休みなんかにはよく課せられたもので、一度か二度ほど、県内コンクールで金賞だか入選だかを貰ったことがある。確かひとつは人間失格を読んで書いたものじゃなかったかな。

 

周知のこととは思うけど、あぁいったものに求められているのって作品の"分析"とか"考察"、ましてあらすじ紹介なんかではなくて、極論"自分語り"なのよね。感想と言うからには主観的な世界の話であるのは当然のこと。

もちろん文を構成する上で分析的な視点が必要になってくることもなくはないが、それはあくまで手段であって、本旨は自分語りの部分にある。

 

こういう話はいずれかのタイミングで書こうと思ってたんだけど(例えば読書感想文の書き方みたいな記事)、いい機会なので軽く触れておくことにした。

 

 

さて、「変身」だけど、面白かった。っていう表現はあまりしっくりこないんだよな。"物語"というよりは"芸術作品"というような趣なので、僕が普段ドラマやアニメ、小説などに使う"面白い"とは少し意味が違う。

「スッキリする面白さ」と「モヤモヤする面白さ」っていう差なんだけど……。前者は主に構成のうまさであったりドラマ内での積み重ねが爆発することによるカタルシスが主な要因だけど、後者はより内面的な、自分の心の奥深くに入り込み心象をいじくりまわされるような感覚。モヤモヤの方が言語化することは難しいので、いつも以上に散らかると思います。

 

いずれも売るには売れず、さりとて捨ててしまうのも惜しいというような代物である。そういうものが全部グレーゴルの部屋に流れ込んできた

これは、終盤の一節だ。100数ページの文字群の中で、自分が最も印象強く感じた場面である。

テーマ……というのは押し付けがましいけど、「共生関係からの脱却」、「自立と依存のジレンマ」、自分はそのようなことを想起した。

 

作中では憂鬱な仕事を我慢してでも両親と妹を食わせていこうとするグレーゴルや、虫になったグレーゴルを見捨てられない両親、世話までする妹、そして自分が虫になったというのに尚家族を思うグレーゴル(虫)……等を通して、家族愛が描かれる。

だが正直に言って、言葉から受ける印象ほど美しいものでは決してない。むしろその家族愛に心身を絡め取られることで、互いに憔悴していく様は実に悲劇的であり、最終的にザムザ一家はグレーゴルを捨てることで幸せな人生を取り戻すこととなる。

徹底的にそれらは"自由への足かせ"として表現されているのだ。

 

自分はそういった"家族愛"的なものについて恐らく相当うとい。小説 仮面ライダーエグゼイドにおける永夢の見解である「家族というよりはただの同居人」という感覚に一定の理解を示すことができる。

以前、居候させてもらっていた親戚の飼い犬の死を目の当たりにしたことがある。幼少期に時々遊んでいた程度の関係だったが、周りの雰囲気につられたということもあり、その上"死"に対する恐怖も加わって、泣いた。

それから1年ほどして、祖父も死んだ。祖父とはそれなりに一緒に住んではいたものの特に仲が良い悪いということもなく、まさしく"同居人"という感覚が強かった。病院でも葬式でも結局悲しさから泣くようなことはなく、ただ死への畏怖のみをありありと感じた。カウンセラーを生業としている方と話す機会があって、「一般的に家族が死ぬと悲しいというのは、"家族だから"なのか、それとも"仲が良かったから"なのか」と問うたことがある。答えは後者だった。

 

少なくとも親よりはまともな関わりがあった祖父の死で泣かなかったということは、親が死んだときもきっと悲しくはないのだろうな、などと考えたものだ。

ところで今、この記事を書いているまさに今、部屋の中に光る虫が迷い込んできた。僕は寡聞にしてホタル以外の光る虫を知らないのでそういうことにするが、小3の頃、父に連れられてホタルを見せられたことを思い出した。夜中だったか早朝だったか、クソ眠いのに「親としてのふれあい」ごっこに付き合わされて不愉快だったのを覚えている。大して見たくもないのにホタルなんか見せられても困る。

 

まぁそんな感じで、家族に対する愛着みたいなものってなかなか感じたことがないんだよね。所謂無条件の、ってやつ。当然あまり良い関係ではない父に対しても、もらって嬉しいモノを貰ったときには感謝をするし、数日は懇意にしようという気分になることもなくはないが。だから本作での「家族のために身を粉にして働く」だったり「虫になった家族をそれでも見捨てられない」だったりの葛藤は終始理解できなかったし、結果的に悪い方向に転がるのもあってとても醜悪だと感じた。

共依存に少し近い気がするんだけど、ザムザ夫妻は借金等でグレーゴルの足かせとなり、グレーゴルは虫となってしまって家族の厄介者になり、またその背中には父に投げられたリンゴがめり込んでいる。しかしそれでも尚互いを見切ることができずにずるずると状況を悪化させていく様は、まさにそのように見えた。

 

ただし、100%悪いものとして描かれていたかというとそうでもない。最後のシーンで、ザムザ夫妻はグレーゴルの妹の結婚について思案をする。つまり、虫から逃れたハッピーエンドの先でまた新たな"愛"を育み家庭をつくることが示唆されているのだ。

まさに"変身"と言うべきかもしれない。この間アギトを見たのでどうしても絡めたくなってしまうんだけれど、これも立派な"居場所"の話だと思うんだよね。グレーゴルは虫になることで家庭内での居場所を失ったし、ザムザ一家はその事件によってそれぞれ立場が変わり、働いたり家に3人の男を下宿させたりし、最終的にはグレーゴルを見捨てる決断をするに至る。つまるところ"停滞と変化"。翔一くんの言を借りれば「誰も人の未来を奪うことはできない!」、木野さんの言を借りれば「人は……後悔しないように生きるべきだ。自分の思い通りに。自分の人生を狭くするのは他人じゃない。本当は自分自身なんだよ」となる。

"ある日突然異形の姿になってしまう"という点で言えば葦原が近いのかな。グレーゴルが終盤、妹を自室に置こうとするのだが、その際に彼女の「自由意志」を尊重する態度を見せている。そういえば葦原にも、「自分には背負い切れない」と電話口で吐露する真由美の意思を受け入れるシーンがあったな。

 

僕が本作を読もうと思ったきっかけは、まぁ以前買って家にあったというのもあるが、主には龍騎の東條悟が読んでいたというのが挙げられる。この回は井上脚本だし、葦原のことは実際に結構意識してつくられたのかもしれない。グレーゴルは家族のために死することを望んだ(受け入れた)が、葦原はどんな状況でも生きようともがいた。大きく違うのはそこかな。最期という意味では木野さんの方が近いか。そういや仮面ライダーって元々は"虫に変身"するんだもんな。共通点を感じるのは当然かもしれない。

 

 

東條にこの本を読ませた意味については龍騎の感想に書く予定なので、大分とっちらかったけど言いたいことは言ったし、今回はこの辺で締めることとする。