やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

進撃の巨人 1巻/1期1,2,4,5話 感想

※本記事は書きかけです

これを書いている現在は、アニメファイナルシーズン(4期)放送のおよそ一月前。世間的には今更感もあろうが、いつか必ず感想記事は書くつもりだったので気にせずいきます。
原作の方を初めて読みつつ、既に知ってるアニメも並行して見て思いついたことを横断的に語る。1期については、TVアニメシナリオ集ってのも副読本として読む。作品のテーマにかこつけて、『進撃の巨人』という作品の内側にこもるのではなく、他の作品や自分語り等の脱線話も多く盛り込んでいく予定なので、悪しからず。特に僕は普段仮面ライダーの感想を書いていて、アニメ版のメイン脚本家である小林靖子さんは仮面ライダーも手がけている方なので、絡めて話をすることも多いと思う。

 

『二千年後の君へ』

アバンタイトルは、巨人の出現など我関せずといった風に空を飛ぶ2羽の鳥からスタート。僕はずっとカモだと思ってたんだけど、調べてみると同じカモ科でもガンではないかという説もあり。確かにカモだと泳いでばっかで空飛ぶイメージあんまないけど、ガンなら僕でも知ってる渡り鳥だから"自由な存在"のメタファーとしてしっくりくるかも。更には小学校で教わる『大造じいさんとガン』ってあるよね。あれは食用に狩りをする大造じいさんが、巧みに知恵を働かせて仲間を守る"残雪"という名のガンを、ただ人間から一方的に狩られる鳥ではなく、人間と同じく尊厳を持った存在……すなわち対等なライバルとして認めるまでの話。まさに『進撃の巨人』という作品を象徴しているような、ぴったりの作品だ。
そしてその鳥を見つめる緑の瞳、有名な"嫉妬"を表す慣用句ね(Green-eyed-monster)。映像では鳥が目に映ってるんだけど、ここで本来エレンが見ているのは、鳥じゃなく超大型巨人なのが興味深い。後で触れます。
また、残雪ではなく大造じいさんが飼い慣らして狩りのための囮に使った方のガンだと思って見るなら、◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯(※1)の暗喩にも見える。
開幕いきなり脱線話だけども、こういう見方もなかなか面白いものでしょう? ちなみに僕は、自分の解釈が「正しい」かどうかにはあまり興味がない。もしかすると、制作スタッフのつもりとしてはガンとは別の鳥で全然違う意味を込めてたのかもしれないけど、勘違いだろうがなんだろうがあくまで「僕にはそう見えた、そしてそう捉えると面白かった」ということを重視している。


場面は一転、壁外調査の様子へ。シナリオでは"巨大樹の森"とされているんだけれど、劇中で印象的に出てきたのはウォール・マリア内にあるはずなので、少なくともこの時点でのライターの認識としては"巨大樹の森"は固有名詞ではなく、マリアの外にも似たような森があるということになるのね。知らなかった。
他にもこのシーンはキースやエルヴィン、ハンジにミケなどメインキャラばっかり出てるし、なんならこの後に名前だけ出てくるモーゼス・ブラウンにもきちんとセリフが当てられている。初見の時からずっと「単なる世界観説明のためのイメージ映像であって、明確にいつどこであったことなのかは設定されてない」ものだと思ってたのでびっくり。……いや、普通に考えて、あのかっこいい立体機動装置のお披露目からまさか負けるとは思わないじゃんね。「人類の力を思い知れ!」って言ってるし、興奮冷めやらぬままOP入るし。このセリフを言ってるのが誰あろうモーゼスその人で、付近に巨人はあの一体のみとのことなので、十中八九こいつに負けて死んだってことになる。にわかには信じられん。

 

「いってらっしゃい」と声をかけるミカサらしき影。家という壁から出ることを祝福する、非常に印象的な一コマ。だが同時に「帰ってきなさい」という強い意志も感じる、というか目を覚ました現実のミカサは実際そう言っている。
髪が伸びてるということはエレンが夢で見ていたのは過去の出来事なのかなと一瞬思うけども、髪を切るってこともあるので必ずしも過去とは限らない。まぁ見た感じそんな大人びてるようにも思えないけど。アニメでは食われるカルラのシーンがあるので、明確に未来ということになっている。或いはシナリオの記述にあるように過去も未来も現在も"ランダム"なのか。
気になるとこを細かく追って見ると、最初は目を覚ました後の風景にも映っている、風に揺れる青い花(シナリオ本によると紫)。それが血に染まって、開かれた巨人の口、持ち上げられる兵士、占領される原っぱ、そして食べられる。ここまではイメージとしてすんなり理解できるとして、次からがなかなか難しい。まず明らかなのは暖炉と偉そうな服。一見すると椅子か何かに服がかかってるのかと思ったけど、目を凝らすと首元に人の手らしきものが認められ、僕が椅子の肘掛けか何かだと思ってたところは腕の断面だろうか。次に映るのは散らかった子供部屋。カーテンの奥から肌色の何か(巨人の指?)が覗いている。泣きっ面に蜂、みたいなカットもあるね。雫は見えないので涙は枯れ果ててるみたいだけど。で、カルラが締め。
全体的な含意としては「女子供や身分の高い者も見境なく殺される」みたいな感じかな。偉い人は基本内地にいるはずなので、シーナにまで悲劇の波紋が広がった未来を予期させる。さっき言った首元の手が小さめの巨人のものなのか、それとも人間による殺害なのかは分からないけれど。
徐々に意識が戻っていた原作と違い、エレンがはっと驚いて目を覚ますと、2羽の鳥が飛び立つ。アバンのあいつらだとしたら、迫る危機を予知して空へ逃げたってことになるのかな。夢を思い出そうとしていると2人の上に雲がかかり、泣いていることに気付いた途端 一気に晴れる。夢というのが現実逃避を意味しているとするなら、"今ここにある現実"を素晴らしいものとして受け入れるようなテーマがなんとなく窺える。
プレゼント・デイ プレゼント・タイム Hahaha……

序盤は噂されてた通りループものっぽい雰囲気が確かにあって、ゼロワンであった"涙"をきっかけとして時間が"戻る"ような演出が想起される。

 

"845年"のテロップを挟み、画面には外へ睨みを利かす壁上固定砲が映される。原作でも見開きでウォール・マリアの大きさが描かれてから、同じく壁上から街を見下ろすような絵が差し込まれる。
固定砲のレールの向きが横と縦で異なっているのがなんか気になる。そもそも同じ壁でもシガンシナを挟んだ別物な訳なので、アニメで修正されたというよりは両立する描写なのかもしれないけど。アニメの方はシガンシナを背にしていて正真正銘"壁外"に対する砲台なのに対して、漫画のはひとつ内側なので両側に街がある。縦(前後)に移動できるということは、(万が一占領された)シガンシナに加えてマリアの内側、そのどちらもを砲撃対象としているような印象を受ける。矢印を砲台の射撃として、簡易に図解するとこんな感じ。
 アニメ
マリア内|シガンシナ⊃→巨人領域
 原作
マリア内←|→シガンシナ⊃巨人領域
普通に考えたらシガンシナ内の門を突破されたとして、壁の上からマリア内に向けた砲撃(←)というのは巨人をいたずらに内地に向かわせることになりかねない。巨人に通常兵器は効かないということになってるが、実際に壁外調査の際にはあの砲台を使って周辺の巨人を追い払っているはずなので、殺せはしなくとも威嚇する程度の効用はある訳で、そんなことをすれば巨人はマリアから離れる=ローゼに近付く。じゃあ逆にこれがうまい具合に機能するシチュエーションというのを考えてみると、壁外ではなくマリア内から突然巨人が現れ、壁内からシガンシナ区に入ろうとしてくる巨人を追い払いたいケースくらいのものだろうか。すなわち、こんな感じ。
ローゼ内|トロスト⊃→巨人領域←|シガンシナ⊃
まぁ、本当にその為にあぁいう構造になってるんだとしたら後で出てくるトロスト区の外壁も同じく縦であって然るべきなので、作者の意図とは多分違うと思うけど。

 

これまではなんとなく流してたんだけど、エレンとミカサはシガンシナから出てローゼ/マリア間(しかもシナリオによるとローゼの近く)にまで薪を集めに行っていたらしい。「現在公開可能な情報」によると壁と壁の間はおよそ100kmで、車飛ばしても1時間、フルマラソン世界記録で換算しても軽く4時間はかかる。子供の足で本当にローゼ付近まで歩いたとはとても思えないので(どんなおつかいだ)、流石にこれは誤植かもしれない。もし無料の公共交通機関が整備されてるんだとしたら、社会保障のレベルが高過ぎる。有料なら親から交通費を貰った可能性もあるが、前後の話の繋がりからして大して時間が経ってる様子もないので、やはり誤植説が濃厚。

ハンネスたちが番を務める門は、原作では馬車がすれ違ってもまだ余裕があるくらい広く描かれてるのに、アニメでは子供2人でも狭そうな小さいものに変更されている。というか全体的に町並みからは閉塞感を覚えるので、これもそういった演出の一環だろうか。エレンの家も平地から石段の上に変わり、画面の情報量が増えて同印象に一役買っている。
エレンが"イザッてとき"について語る合間に一瞬だけ入る、魚が殺される意味深なカット。しばらく意味するところが分かんなかったけど、これも慣用句シリーズで「まな板の上の鯉」だろうか。一般常識の範囲だとは思うけど、映像で見せられると意外と分かんないもんだな。拾いそびれてる小ネタもまだまだ沢山ありそう。
グリシャの功績について、原作ではさらっと触れるだけなのに対してシナリオでは詳しく言及されてるんだけど、映像では結局カットされてて情報量がそこまで変わってない。「確かに流行り病の時は(グリシャの受け売りで)エレンが言う通り、みんなが危機感を持たず状況を甘く見た結果として痛い目を見た。でも巨人はまた別でやっぱり大丈夫だよ」というハンネスの主張は、確かに文脈を逃さずひとつひとつ丁寧にきちんと追えば分かりそうでもあるけど、リアルタイムに流れていく会話劇から読み取るのは至難の業ではないか。少なくとも僕は分かんなかった。
「ヤツらにこの50mの壁をどうこうできるとは思えない」という説明は、素直に受け取ればただ巨人が来なくて安心だねって話なんだけど、同時に外へ出たいエレンにとってそれは絶望的なことでもあるのよね。だって15mの巨人がいくら中に入ろうとしても太刀打ちできない壁に、人間の中でも更に子供のエレンが勝てるはずもなくて、安心と不自由のトレードオフが強調されている。
エヴァの最終回で似たような話があったな。真の自由を手にしたとき、人は何をしていいか分からず不安になる。「不自由をやろう」てな風に束縛を受けることで、やることが明確になり安心できる。いきなり「好きなものは?」と聞かれると漠然とし過ぎてて戸惑うかもしれないが、「好きな色は?」なら選択肢が少なくなる代わりにイメージが湧きやすい。
人間には、壁≒ATフィールド≒細胞の壁が必要なのだ。でなければ、生命のスープ(L.C.L.)へと逆戻りしてしまう。

彼らのサボりを肯定するのとも違うが、現実問題として四六時中ずっと警戒している訳にはいかない(余談だけど4×6=24だからこれで常にって意味になるのか、一六銀行みたいだ)。母の胸に抱かれて眠る子供のように〜、リラックスして息をつく時間がないとやっていけない。「本気で殴り合えば多分お前のほうが強い、だがお前は俺には勝てない。なーんでだ? お前には遊び心がない、心の余裕がない。張り詰めた糸はすぐ切れる、そういうことだ」とえら〜い人も言っていた。
逆に張り詰める時間がないとどうだろう。ディズニーのSFコメディアニメ『ファイアボール』では、ロボットが支配するディストピアのいち形態として、ヴィントシュトレ卿(ドイツ語で凪)による"かゆいところに手が予め存在している"ような「完璧すぎる統治」が提示されている。求めるまでもなく全て与えられた結果、人は言葉を失ったという。『PSYCHO-PASS』におけるユーストレス欠乏症という概念も興味深い。これは人が生きるために最低限必要なストレスすらも失ってしまった結果として植物人間のような状態になってしまう病気で、まさに"凪"の極地と言える。
重要なのは適度な緊張と適度な安堵。両者のバランスが保たれることで、人は健康に生きることができるのだ。酒に酔うこともまた夢と同じで、そういった退屈でストレスフルな現実からの逃避と言える。
1話の時点でここまでテーマを掘り下げちゃって、後々書くことなくならないか心配だが、出し惜しみはせずに行こう。

 

鐘が鳴り、調査兵団が帰還してくる。万全を期しているだろうとはいえ、一旦は門を開けるということで警鐘を鳴らしてるのかな? 門の仕組みとしてはおそらく二重になってて、内側に通路がある形(図1)だと思われる。
図1 壁内|通路|壁外
図2 壁内|通路←壁外
図3 壁内←通路|壁外
まず外寄りの門を開けて、兵士が通路に入る。万が一ここで巨人の侵入を許してしまったとしても、内側の門が閉まっているので壁内には入り込めない(図2)。その一体なり二体なりを討伐したら壁外から巨人が入らぬように外門を閉め、通路内の兵士が壁内に入る。人数が多いと通路に入り切らないかもしれないが、その時は何度かに分けて入るのだろう。或いは、周囲に見当たらなければ両方開けてしまうか。
こうして改めて考えてみれば、門の部分が弱いというのは頷ける。他の部分と違って真ん中が空洞になっているのだから当然だ。

モーゼスは、腕しか帰ってこれなかった。やりきれない気持ちを合理化するために、彼の死にせめて"意味"を見出そうとする母親。キースの口ぶりからすると、壁外拠点の設置は結局進展しないままに敗走してきたのかな。
彼らの肩を持つと暗中模索って本当に大変で、先のことは分からない以上、どこまで行けば望むような成果が得られるのかというのは全くもって読めない。この間隣町のスーパーへ買い物に行ったら、自転車がパンクしたのよね。
モーゼス母「そんな、自転車が……でもキャベツは? キャベツは買えたんですよね!?」
キース「なんの成果も! 得られませんでした!」
……余談はさておき、「全てのカラスが黒いとは限らない」という保証が欲しいとき、一体何匹のカラスを捕まえて確認すれば十分だと言うのだろう? 500匹調べて全部黒かったとしても、日本中を調べても世界中を調べてもまだ足りない。何故なら過去や未来にいる可能性は否定できないからだ。
ちなみにネットで検索すれば白いアルビノカラスの存在はすぐに確認できるのだが、これは現実世界に引きこもらずネットという"外の世界"へ出て確かめたから言える結果論であって、調べる前には「検索すれば見つかるかどうか」は分からない。仮にネット上に白いカラスの実在を示す情報がなかったとしたら、結果論的には「時間の無駄だった」と評価されてしまう。厳密な話をすると今の時代には合成とかCGって可能性もあるので、ネット上で確認しただけでは確証とは言えない。まだ「白いカラスもいる」という命題に対する信頼は100%にはならないのだ。
例えば受験勉強でも、今では模試の判定なんてものがひとつの指針として設置されているが、その年の倍率がいかほどか分からない以上、全幅の信頼を置くことはできない。A判定だろうが落ちる可能性はゼロではない(どころかそこそこある)ので、不安ならばもっともっと勉強するしかない。例えFラン大学でも、東大レベルの学力を持った人が、家が近いとか遊びたいとか適当な理由で大勢受験しない保証はどこにもない。「そんなことまずないだろ」と余裕ぶっこくのも自由だけど、それは本作に準えるなら「50m級の巨人なんている訳ないだろ」に相当する。
抽象的になってきたので壁外調査に話を戻そう。100人以上いた兵士のうち80人ほどを殺されてしまったとき、指揮官は「近くにいた巨人はなんとか倒せて今のところ見当たらないが、もし2体同時に現れでもしたら我々は全滅してしまうだろう」と不安に思って、退却したとしよう。だが、「実は壁の外にいた巨人はさっき倒したので最後で、そのまま進んでいれば外の世界について知ることができた」という可能性はゼロではない。もちろん同様に「さっきので最後なんてことはなく、少し進めば依然として巨人がうじゃうじゃいる」という可能性も十分ある。
「仮に倒し尽くしたのなら次の調査で分かるだろうから、今は一旦退却するべき」というのは一見正しそうだが、巨人がどうやって生まれるのか分からない以上、次の調査に行く頃にはまたうじゃうじゃに逆戻りしているかもしれない可能性を考えたら、今のうちに少しでも情報を集めるべきだと言える。何が正しいかは、結局のところ進んでみないと分からない。
極論 壁外調査をしなければ、既に巨人は死滅しているにも関わらず、意味もなく「遠くにはまだいるかもしれない」と恐怖して壁の中に引きこもり続けるということも考えられる。そう考えると"やってみなくちゃ分からない"というある種無謀なチャレンジ精神は、完全に否定されるべきものではないだろう。
まぁ「折角壁を超えたのに、居眠りしてサボってた結果薪が全然集まりませんでした」ってのは同情の余地あんましないけどな(苦笑)

 

帰宅した2人を見て、エレンの嘘を見抜いてしまうカルラ。嘘つくと耳が赤くなるなんてなんだかピノキオみたいね。人に作られし存在はロボット三原則のように枷を背負わされてしまう……と考えると、メタフィクションの香りがする。
「ご飯を食べるのは背負子を片付けてからにしなさい」と叱られてエレンが聞こえないふりをするシーンは、カットされているけどかなり重要。これがあることで後の「最期くらい言うこと聞いてよ」の説得力がかなり違ってくる。告げ口したミカサもだけど、母親は子供の自由を抑圧する"壁"として描かれている。散らかすのも駄目、調査兵団に入るのも駄目、アレもダメ ダメダメ、これもダメ ダメダメ、君のタメ ダメダメ……「え、なんで?」。でも母親は、不自由と同時に安心も与えてくれる。先日読んだ『学問のすすめ』の現代語訳版にも似たよう話があって、曰く保護と命令はセットで行われなければならない。親子で言えば、保護とはその身を健康に保つために十分な衣食住や金銭などを与えること、命令とはそうして得たものの適切な使い方を教え指図すること。どちらかが欠けるとたちまちバランスが崩れ悪い結果をもたらす。
またここでは少し触れるのみに留めるが、エレンにとってミカサやカルラが「自分の自由を奪う壁」であるのと同様に、エレンもまた彼女らにしてみれば同様の性質を帯びる。「エレンの安全を確保したい」という2人の願いと自由は、エレンの求めるものとトレードオフなので。
何故外へ出たいのかと父に問われ「外の世界を知らずに過ごすなんて嫌だ」と答えるのは分かるとして、「先人の死に報いるため」というのは子供が言うにはいささかませてるというか、この頃のエレンにそんな使命感,義務感みたいなものがあるようには思えず浮いているような印象を抱いていたんだけど、今思えばこれもまた"原初的欲求"なんだなと理解できる。ようやく1話の半分に到達したくらいなのに文字数が8000字に差し掛かりつつあるので、前言撤回しもったいぶらせてもらおう。

 

話は絡まれてるアルミンのシーンへ。ここも象徴的で結構好きな部分。壁(家)の外には敵もいっぱいいるけど、助けるべき仲間もいる……それだけで危険を顧みず外へ出る理由としては十分よね。
これはアルミン本人が一番よく分かっていることだろうけど、彼の言っていることって実はめちゃくちゃブーメランなのよね。いじめっ子がアルミンの理屈に言い返せない(降参している)から殴ることしかできないのと同じように、アルミンは腕力では対抗することができないと負けを認めてるから、殴り返せず屁理屈を並べることしかできない。双方ともに、相手の土俵では勝ち目がないことを分かっているから勝負を自分の得意分野に持ち込もうとしている(自分の殻に閉じこもっている)という意味では、同レベルなのだ。それを自覚しているからこそ、ミカサやエレンの威を借りないといけない、頭でっかちで非力な自分が許せないのだろう。本当に強い人間は、相手の得意分野できっちり勝ちを収めて心身ともに屈服させることができる。『めだかボックス』の黒神めだかなんかはまさにそういうタイプだね。まぁ、力に見合う人間性も持ち合わせていたのなら、無理やり屈服させるなんて大人げないことはしないのが一番いいのだが。するべきは論破ではなく説得。相手に本心から「向こうが正しい」と思わせるのが本当の勝ちというものだろう。

彼ら3人は、主人公なので当然といえば当然だがエレンを中心として(殊にミカサ←エレン←アルミンの順で)並ぶことが多い。んだけども、アニメでは見栄えが同じになって退屈するのを防ぐためかアレンジを加えてあって、石段に座ってるシーンは画面の横で見るとミカサ←アルミン←エレンなんだけど、縦で見るときちんとミカサ←エレン←アルミンの順になっているのが面白い。
この順番になんの意味があるのかというのは、直後に分かる。アルミンは異変を真っ先に感じ取り、走った先で巨人を見る。それを見たエレンは「(ソコカラ)何が見える?」と後を追い、そのエレンの後を追うミカサ。
3人の関係はそれぞれ未来,現在,過去に対応している。未来に夢を見て予測能力も高いアルミンに、直情径行型で衝動的なエレン、そして過去に執着するミカサ。
画面には上手(かみて)と下手(しもて)があって、漫画だと顕著だが時間にも流れる方向というものがある。このブログは左横書き(→に進む)なのでそのまま未来→現在→過去の順に並べるとアルミン→エレン→ミカサになってしまうのだが、漫画は右縦書き(←に進む)なので、絵面としては「ミカサ←エレン←アルミン」の方が多い。もちろんこれ以降のあらゆる描写がこれに当てはまっているとは言わないが、なんとなくの傾向としてあるとは思う。

 

さて、ようやく先述した緑の瞳の話までやってきたぞ。オープニングでは自由に空を飛ぶ鳥に向けられているかのように描かれていた"嫉妬の視線"だけれど、このとき実際に見ているのは紛れもなく超大型巨人。これの意味するところはただひとつ、「あんなにでかけりゃさぞ自由だろうなぁ」だ。エレンにとってこの超大型巨人は、生まれて初めて見た"外の世界のもの"であり、クソ忌々しい壁をぶっ壊してくれた存在でもあり、その結果として口うるさく自由を奪ってくる過干渉な母親を殺してくれた大恩人、ということにもなる。だから彼は、人類の宿敵に対し羨望の眼差しを向けるのだ。
命の危機であることは事実だし、母を殺した仇としての憎しみも嘘じゃないはずなので、当然そんなことは口が裂けても言わないだろうが、ここでは言葉にせず映像(行間)でほんのり匂わすことで、あくまで無意識の奥底にある気持ちであることを表現しているように見える。漫画では色こそ分からないけれど、陰る目元とは対照的に瞳自体は不自然なほどに澄んでいてとても綺麗なのよね。そういう目線で見ると「その日、人類は思い出した。ヤツらに支配されていた恐怖を、鳥籠の中に囚われていた屈辱を……」というナレーションも、あくまで人類規模の話であって、エレンという個人の感情については触れていないと取れる。そもそもエレンは思い出すまでもなく忘れていなかったのだから、ここで言う"人類"に彼は含まれない。
恐ろしくて排除したい人類の天敵だというのは大前提として描きつつも、必ずしも巨人は忌むべき存在ではないということもまた、水面下でひっそりと描かれていると言える。

 

『その日』

100余年前、巨人に追い詰められた人類は強固な壁を作った。『ユトリ最強世代』じゃないけども、人間は根源的に"壁"を作りたがる存在なのよね。その結果として生まれたのが、論理と言語だろう。壁というのはひとつの比喩で、要は"あちら"と"こちら"ってな風に区別すること。そしてここが最重要なんだけど、何かと何かを別のものだと区別するということは、何かと何かを同じものだと見做すことと表裏一体を為している。
分かりやすさのために、物理的な壁に一旦話を戻そう。仮に、壁を挟んだ向こう側を西ベルリン、こちら側を東ベルリンとする。このとき、西と東を比べて別のものと見做しているのと同時に、"西ベルリン"と"東ベルリン"それぞれの中にある様々な人や集落などを一緒くたにまとめて同じものと見做していることが分かるだろうか。
犬と猫は違う、今どきはAIでもこの区別ができる。だがこの一言を発するためには、まず「ミニチュアダックスポメラニアンドーベルマンも全部同じ犬」「アメショもスコティッシュラグドールも全部同じ猫」という前提がなければならない。ポメラニアンドーベルマンはえらい違いだが、それでも僕らは"犬"という言葉で括って"猫"をはじめとする他の動物から切り離す。もしこの世にひとつも同じものがなければ、わざわざ取り立てて「違う」と言う必要もないだろう。
生き物はみな細胞膜などの壁を持っている。そうやって外界と内側を区別しリソースを囲い込むのは、生物が根源的に持つ衝動なのだと言える。無秩序へと向かうエントロピー増大の法則に抗うかのように、壁を作って世界を整理整頓し秩序付けようとする。

普段は意識しないが、こういった峻別は人間などが自然を見て勝手に(恣意的に)つくったものであって、決して絶対的なものではない。それが顕著に現れる有名な例が、色彩感覚だろう。虹は世界共通で七色ではなく、赤,橙,黄や青,藍,紫などを区別する習慣がなければ、色数は違って受け取られる。オレンジが赤色と黄色を分かつ壁を壊し得るどっちつかずの存在であるように、コウモリは鳥類と哺乳類の境界を曖昧にする。
人間と巨人はウォール・マリアによってきっちり区別されていたのだが、知性を持つと思われる超大型巨人の出現によってその常識の壁は壊されてしまった。理屈では分かっていたはずの他でもないアルミンが「巨人は最大でも15mのはず……」と呟いているのが皮肉で面白い。
「ありえない」なんてことはありえないし、この世には不思議なことなど何もない。
そもそも我々や過去の作中人類からすれば「3m級の人間≒巨人」からして十分"おかしい"訳で、でもどうしようもなく現在する(現に存在する)と認めたからこそ「巨人は3〜15m」という認識が生まれる。観察に基づく経験則を重んじるならば、目の前にいる60mの巨人も否定するのではなく受け入れるしかない。人間の予測にとらわれない超大型巨人は、やはり自由の象徴として機能している。
まぁアルミンは自分の目で見て確かめた訳じゃないので、すぐさまこの視座に立つことを求めるのは酷というものだけれど。

 

さっきの威勢はどこへやらと、アルミンに負けず劣らず狼狽えるエレン。なんかで読んだ人間の心理的発達段階の話に「親が見ていてくれて、帰る場所があるから探険できる」みたいな表現があったけど、まさにそれ。よくあるストーリーの類型として「行きて帰りし物語」ってのもあるね。安心(基本的信頼感)があってこそ、初めて外への欲求が生まれてくる。親がいなければ反抗もできない。
ちなみに、このシーンでもやはりミカサはエレンの後を追っている。純粋な身体能力で言えば追い抜いていてもおかしくないのにこうなっているのは、偏に彼女の低い主体性によるものだろう。

カルラは、飛んできた壁の破片によって壊れた家の下敷きになってしまっていた。ここで興味深いのは、壁と家と母親、どれも元来"安心"を司るものだと言うこと。保守的で安全をを求めるカルラは、同じく安全のためにつくられた壁と家によって"身動き"が取れなくなる、謂わば自縄自縛。実際、彼女のセリフは「(自分は助けずに)逃げなさい」「戦ってはダメ」「行かないで……」と、ネガティブで抑圧的≒保守的なものが多い。その結果として巨人に食べられるというのには、非常に強いテーマ性(安寧への忌避)を感じる。

「ママンが死んだ」とは今読んでいるカミュの小説『異邦人』の印象的なフレーズだが、ニーチェの「神は死んだ」を思わせる翻訳だ。思わせるというか、単に両方とも僕が最近読んだからそう思うだけかもしれない。まぁそれを差し引いても、母なる神という概念はありふれたものであって、繋げることはそう不自然ではなかろう。1話を見る限りではあまり関連性を見出せない「二千年後の君へ」というサブタイトルからも、やはり神の匂いがする。今の時代に二千年と言えば西暦以外にないし、西暦は言わずもがなキリストを基準としている。これらを元に、サブタイの発言者を仮にキリスト≒神的存在としたとき、"君"に何かを託しているような口ぶりから彼は既に死んでいると思われる。願いは呪いでもあって、託された者は責任という首輪を付けられる。この1話(漫画では2話目だが)で、何かを託すようなニュアンスを持ったものとは何かと考えると、ひとつしかない。だがそれが何かを明言するのは、もう少し後にしよう。

母を助けることに固執するが故に、あわや3人とも殺されそうになったところへ助けに来るハンネスさん。「カルラの言う通り見殺しにして2人と逃げるか、自分の恩返しの為に戦うか」という彼の葛藤は、6巻で描かれるエレンのそれを彷彿とさせる。他人の言うことを受け入れて従うか、跳ねのけて自分の意志を通すか……単純だが根深い。トロッコ問題にも似ているが、結局論点となるのは"意志と責任"だ。
アニメのハンネスからはその葛藤が取り除かれ、その代わりに「俺の恩返しを通す!」という迷いなき意志が巨人を前にしてあっさり折られてしまうという、落差による絶望感を強調した演出に変更されている。
おもむろに体を持ち上げ、口元に運ぶカルライーター。目を背けるミカサと、直視するエレン。舞う血飛沫。
この血、最初に「なんか流行ってるらしい」と聞かされて見たときには形も飛び方もヘンテコだなぁとしか思わなかったんだけど、こうやって細かな描写も見ていくと花びらをイメージしたものなんだなと理解できる。これはシナリオ本にも書いてあるのでおそらく公式見解で、1話冒頭(OP後)でも印象的に描かれていたし、分かりやすいのは主題歌の「踏まれた花の名前も知らずに」かな。アニメでは一貫して人を花に見立てていて、だから散り際には花びらが舞う。人間を植物に喩える表現と言えば、先述した植物人間もそうだが、一番はパスカルの「考える葦」だろう。こういう風にほんのり匂わされてるだけのことの方が、明言されたセリフよりも意外と重要なキーワードだったりするもの。
「綺麗だな」と思って花を摘む。巨人にとって人を食い殺すことは、そのような感覚なのかもしれない。脳内お花畑なのだと思えば、無邪気なのも頷ける。

 

アニメ2話、ウォール教徒は「罰を受けるのはそれまでに悪いことをしてきたから」と説く。これは一種の公正世界仮説という信念であり、道徳や倫理規範とは分けて考えるべきものだ。
だってこのウォール教徒は結局食い殺されていて、しかもこの敬虔さから考えるに"罪深き魂"を自称しつつもそこらの人よりかはよっぽど誠実に生きていたと思うのだ。つまりどういうことかと言えば、この仮説に目的があるとすればそれは「罰が嫌なら正しく生きよ」という前向きなメッセージを送ることではなくて、あくまで「自分(や他人)が受ける不幸に納得し受け入れる」ためのロジックなんだな。
もちろん副産物としては生まれ得るんだけど、副産物であることは揺らがない。どれだけ正しく生きたつもりでも、悪い結果が起きたなら自覚してないだけで自分の何かが悪かったのだと"解釈する"。本質的に諦め以外のものを導かないのがこの考え方の厄介なところ。

だが、じゃあハンネスに責任転嫁するエレンはどうだろう。大人であるハンネスは、彼に自己責任論を諭す。「この世のすべての不利益は、当人の能力不足で説明がつく」と言うが、これらにはきちんと「だから自分を改めよ」という願いが付属している。虚無感を超克しようという強い意志がある。ニーチェの哲学は進撃の巨人と強い関係があるので調べてみることをおすすめする。というか、進撃の巨人そのものが現代のニーチェとして機能していると言ってもいい。酷似しすぎててびっくりしたもん。

 

さながらノアの方舟のごとく、船で逃げる人々。グリシャも「2つ上の街」と表現していた通り、内地に行けば行くほど標高は高くなるのが進撃世界。当然川は上から下へ、内から外へと流れるはずなのに、船でどうやって内地へ行くんだろう? ……と思っていたが、よくよく見れば船の真ん中にロープがあって、それをローラーで手繰り寄せて上流する仕組みになっているらしい。なるほどな、100年もあったならそれくらいは整備されててもおかしくなさそうだ。
船で内地へ行けるのは分かったけど、そもそも壁に開閉門だけじゃなくて水門もあるというのはこれまでなんとなく見てるだけじゃ気付かなかったことなので、1話冒頭の見開きから「これ実質穴みたいなもんなのでは?」と疑問に思っていたのだけれど、事実なんとかやってけてることを考えれば、巨人は水にも弱いのだろうか。後々明かされる事実も踏まえるなら、巨人の体は◯◯◯に比べて◯◯が◯◯のでまず◯◯に◯◯◯◯◯◯◯というのと、どちらかといえば◯◯というよりは◯◯の◯◯◯◯◯◯みたいなイメージなので、水によって◯◯が◯◯◯と◯◯◯◯◯◯のかもしれない。これは◯◯◯◯◯◯ことにも関係しているかも?(※2)

あとこのシーンはもうひとつ分かりにくいポイントがあって、一番悪さしてるのは「停泊してる船で"シガンシナを脱出"するんだ!」と叫ぶフーゴ。このセリフのせいで、あたかもシガンシナから船が出ているかのように思ってしまうのだけれど、実際は内門を超えたウォール・マリアの中で、更に内側へ避難せよ(シガンシナから離れろ)という話をしている。前後の繋がりを考えればすぐ分かるんだけど、流し見だと難易度高い。だから船に乗っているということは、エレンとミカサはいつの間にかシガンシナからは出られていることになる。もしかすると門兵のハンネスが多少融通を利かせて優先的に逃したのかもしれない。カルラを助けられなかった後悔から、マリア内地を助けるためにシガンシナに取り残された人を見殺しにする決断に納得できない流れもいい。そのせいもあって、結局は救えたかもしれない大勢の人間が死ぬこととなる。

情報だけで実感が湧かないトロスト区の委員会。こういうの見ると東日本大震災を思い出すな。遠いとどうしてもそうなってしまうよね。僕も当時小学生だったので、その恐ろしさを感じたのは割と最近。というかさっきもYouTubeで映像を見たんだけど、絶望しかない。これがフィクションじゃないという事実に心底恐怖する。
しかし執拗に川を映すから連絡手段と川が何か関係あるのかと思ったら、普通に早馬らしい。うーんだとするとあれかな、壁内が基本トップダウン方式を採用しているが故に、僻地から内地への情報伝達が遅いことを川の流れ(上から下へ)に見立てているのかな? ちなみに僻地(へきち)と表現したのは壁に近いことと街はずれであることをかけたシャレです、今後も使うかも。
委員はウォール・マリア陥落に対し、自分たちでは責任を負い兼ねると判断を保留。こういう態度は自由、或いは意志を語る上では鍵になってくる。今僕が思い浮かべてるのはかなり後半の展開だけど、感想ではもう少し早い段階で触れることになりそう。単純にネタ切れで。


「どうして……! 俺が……人間が弱いから?」
自分の話をごく自然に人類規模の話に拡大させてしまうの、逆にリアルよね。人間は主語を大きくしがち(でかい)。人間の中にも巨人に勝てるくらい強いやつはいる、これからいくらでも出てくるので、エレンが勝てないのは「人間である以上仕方のないこと」ではない。
続く有名なフレーズ「駆逐してやる、一匹残らず!」。かなり強い彼の語気のせい(クチクがカチクに似てるので、屠殺的な印象もついてるかも)で、まるで"根絶やし"ほどに強いかのように感じるんだけれど、"駆逐"という単語自体の持つニュアンスはあくまで「追い払う」くらいのものらしい。
そもそもあまり馴染みのない単語なので、『舟を編む』的に言えば用例採集カードがエレンのこれと「駆逐艦」の2枚しかないような状態。さらに僕は駆逐艦については名前だけでどうしてそう名付けられたかまでは知らないので、実質的には1枚だけ。コーパス(覚えたてなので無理にでも使いたい)として心許ないことこの上ない。
「弱いやつは泣くしかないのか?」という疑問から導かれるべき結論は本当はもっと別なことだと思うんだけど、そこはエレンが生来持つ暴力性の成せる業だろうか。だって
"弱いやつ"が泣かなくて済むようにしたいなら、巨人を力でどうこうしても意味がない。巨人より強くなって追い払ったとしても、立場が入れ替わるだけで「強いやつが弱いやつを虐げる」構図自体は変わらない。

「お前のためなんだ」を押し付け無理やり予防接種(仮)を受けさせられるのなんかもまさにそうで、パターナリズムなんて呼ばれたりします。予防接種の痛み,怖さ<該当疾病の苦しみ、というのはあくまで親の価値観であって、物心ついた子供が本当に同じように思うかは分からない。虫歯の痛みと毎日歯を磨く面倒さとかね。
ところでグリシャが内地から帰るシーンだけど、これまでと一転して画面左側が"壁の外(シガンシナ方面)"になっているので、また非常に紛らわしい。わざわざそうするということは何か別の意図があると考えるのが自然で、いの一番に思い付くのはやはり上手/下手なんだけれど、これを意識する人がどれだけいるかと考えるとこのシーンくらいは逆にしても良かったんじゃないかなと思わなくはない。或いはちょっとダサいけど正面向かせるか。