やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

『シン・仮面ライダー』 感想メモ

公開された『シン・仮面ライダー』の舞台挨拶ライブビューイング付きを見てきたので、取り急ぎ初見で感じたことを"ネタバレあり"でまとめておきたいと思う。
記事内で本編中のセリフを引用している箇所がいくつかありますが、当然確認する手段が限られているので記憶を頼りにした曖昧なものです、雰囲気であのシーンかなと汲み取ってください。

 

舞台挨拶

自分としては映画館でこういうものを見るのは初めてだったのでとても新鮮な気持ちで楽しませてもらったのだけど、主役の池松壮亮さんが全然乗り気じゃない感じで、まるで『復活のコアメダル』関連のキャスト座談会を見てるときと同じような感覚に陥ったので、せっかくの初回鑑賞なのにすごくモヤモヤしたまま本編に入らされるてそこそこ嫌な気分になった。
本郷やルリ子が死ぬんだろうかとか、終わり方に納得がいかなかったんだろうかとか、ともかく何かしらのひっかかりやしこりを残して終わる舞台挨拶だった。
一応、池松さん以外の面々はそういった素振りは見せず、特に手塚とおるさんは冗談言ったりして和ませてくれたし、柄本佑さんは初めて見たんだけどすごく魅力的な雰囲気をまとった方だなと言うことが分かったので仮面ライダー第2号への期待は増したりもした。


第一幕:クモオーグ

グロ! グロ! 血液ブシャー! …………PG12という時点で分かってたことだけど、やっぱりそっちに行くのかぁ別にあんまり求めてないけどなぁとも思いつつ、飛び散りやすいようになのか案外そういうもんなのかかなり水っぽくて薄い流血描写に対する気持ち悪さ,不快感が、そのまま本郷の暴力への嫌悪感に繋がって感情移入できるところはちゃんと意味のあるグロだったなとは思った。

 

実はというかなんというか、自分がネタバレをあまり気にしないタチであることもあり、待ちきれずに鑑賞前の待ち時間にパンフレットをチラ見してしまったんだけど、そこに書いてあった「体内とエナジーコンバーターに残存しているプラーナを強制排除すれば人の姿に戻る」という文言がとても印象的だった。玩具の名前も「DX仮面ライダー変身ベルトタイフーン プラーナ強制排出補助機構付初期型」となっていて、やはりそこに比重が置かれているのが分かる。
この話は本編の描写とは若干ちぐはぐになるので、せいぜい合ってたとしても「初期の構想ではそうだった」ぐらいのものとして聞いて欲しいんだけど、あのベルトは仮面ライダーという超人に変身するためのものというよりは、怪物である本郷が人間に変身するためのアイテムという側面が大きいように感じた。
クモオーグにも指摘されていた通り、再度バッタオーグになるために風を受けてプラーナを取り込まなければならなくなるデメリットを背負ってまで、わざわざ体内のエネルギーを放出して人間という弱い存在になるというのは不合理極まりなく、ライダーキックよりも何よりも変身解除が最も燃費悪い……。
でもだからこそ"人間に戻る"ということの方にカタルシスを設けて演出するというのは、自分としてはかなり納得感のある再解釈で良かった。

「変身」という行為は仮面ライダーにおいてかなり重要なファクターであることは間違いないので、その意味するところはしばしば考える。今のところの結論は「戦うという意思表示」だ。気合いを入れて叫び、時に長ったらしいポーズまで取ることには、偶発的なものではなく、それが明確に"自分の意思"によるものであることを強調する意味がある。
(中略)
ポーズをはじめとする派手な演出を加えることは「変身の特殊さ」……即ち変身後の仮面ライダーとしての姿が「特別で一時的なもの」だと訴える役割も持っている。
グロンギオルフェノクの変身は「本性を表す」感じがするのに対して、仮面ライダーはあくまで人間態こそが「本性」であると示すことで、人間のコミュニティに居続けることができる。
仮面ライダークウガ EPISODE2「変身」 感想 - やんまの目安箱

 

過去記事からの引用でオルフェノクの話が出たけども、今回の池松壮亮演じる本郷猛は全体的に『555』の木場勇治みたいな独特の喋り方をしているのが印象的だった。ナヨナヨした弱気さと根底にある自信が両立しているような、不思議な感じ。
対する緑川ルリ子はシンシリーズにも割と出てくるテキパキと男を引っ張っていく感じの女性で、浜辺美波さんになんとなく抱いていたかわいい系なのかなという思い込みをひっくり返されてびっくりすると共に、めちゃくちゃハマり役で見てて気持ちが良かった。気が強い感じの役で見たことあったは『約束のネバーランド』のエマくらいかな? 尤も他の出演作も『君の膵臓を食べたい』と『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』しか知らないけど。
で、そのルリ子が本郷にマフラーを巻いてあげるシーン。逆『進撃の巨人』かと思いきや「赤はヒーローの色」とかなんとか言い始めたからおったまげた。もし他にきちんとした特撮関連の元ネタがあるなら恥ずかしいので教えて欲しいけど、僕の世代的にはもうカゲロウプロジェクトの話にしか聞こえなくて。詳しくは次の項で。

youtu.be

 

アクションシーンは正直、このクモオーグ戦がピークだったかなぁ。サイクロンがガチャガチャと変形していくところは鳥肌必至だったし、仮面ライダーのほぼ初披露ということで、目新しさですごく満足ができた。
テレビ版の蜘蛛男が壁をのそのそと登っていく若干シュールなシーンを、スピーディーに壁を降りていく映像に変えるオマージュは一番シビレた。
昭和作品は実写だからキックに"重み"があるのがよく知らないなりに好きなポイントなんだけど、今作のライダーキックはCGが主体なせいなのかそれを感じなくて終始イマイチだった。平成の固定されたポーズのままエフェクトと共にスライドしてくだけのやつに比べたらずっとマシだけど、冗長さが追加されることで差し引きトントンだった。
あ、あと「しまりました!」は笑った、八九寺じゃん。

 

第二幕:コウモリオーグ

Sustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodeling(計算的な知を埋め込む改造による持続可能な幸福の組織?)……頭文字を取ってSHOCKER。どうせこじつけだろと甘く見てたけど、思ったより言わんとしてることが分かって良い。

このショッカーのやってることというのがさっき話に上げた『アヤノの幸福理論』と妙に近くて、指摘している人がいないので僕ならではの着眼点ということで与太話ながら続けてみようと思う。
カゲプロをよく知らない人でも、フードを被ったキャラが出てくるというぐらいの知識はどこかで聞いたことがあるだろうか。彼らの所属するメカクシ団というのはそれぞれ過去にトラウマ的な体験を持っていて、かつその際に目に関する特殊能力を埋め込まれたことで周囲からバケモノとして忌避されているのね。
アヤノの父親は死んだ妻ともう一度会うためにカゲロウデイズという異世界について研究していて、そのために特殊能力を持つ3人の子供を引き取って調べていたという設定で、さっきの曲は1番がアヤノが引き取られた子供たちの面倒を見る中でメカクシ団を結成する話で、2番が父親の暴走を知ったアヤノが自殺することで計画を止めようとする話。
シンのショッカーも最初はこのメカクシ団と同じで、不幸な子供たちを引き取る児童養護施設みたいなものだったんだろうなというのが次のハチオーグのエピソードからも見える。
加えてカゲプロの主人公シンタローはスポーツ万能でこそないもののIQ168の天才かつ"重度のコミュ障"だし、前田真宏さんによるシン・仮面ライダーのイメージイラストではタイフーンが赤くギョロっとした目玉のように描かれているし、メカクシ団と同じくフードを被ったライダーである『ゴースト』の年に映画『仮面ライダー1号』が公開されていたりもする。今ではそんな感じ全くしないけど、発表当時は前年にアニメ『メカクシティアクターズ』の放送があったこともあり少なからずカゲプロに乗っかってるんじゃないかという声があったのも懐かしい。
自分でも6割くらいは単なる偶然の一致だろうなと思っているけども、この『シン・仮面ライダー』をつくるにあたって幅広い客層に訴求しようと考えたときに、もしかすると〜20代後半ぐらいの原典を知らない年齢層にウケる要素として多少意識したという可能性もゼロではなかったりするのかな、だとしたらちょっと面白いな、と思っている。

 

またこっちは意識しているかもという話ではないんだけど、ショッカーの各幹部が自分の思う"幸福論"を掲げて戦っている辺りは『DEATH NOTE』『バクマン。』の大場つぐみ,小畑健コンビによる最新作『プラチナエンド』に似たものを感じる。
元々『龍騎』が、期待されるような13人のライダーがそれぞれの正義や思想によってぶつかりあうってことを実はほとんどしてないよねという前提があって、外枠を敢えて『龍騎』に寄せつつきちんと思想バトルをやったのが"生流奏編"後の『プラチナエンド』だと思っているので、おそらく平成以降も含めたライダー作品のエッセンスも吸収している今作がちょっと似てるのは自然なことなのかなと。

 

舞台挨拶で好印象だった手塚とおるさんのコウモリオーグ。CG? でブタ鼻になっててかなりブサイクに描かれてるのが良かった。
今作のオーグメントたちはおそらく怪人になる前から危険思想などのせいで人間社会の中では鼻つまみ者とされる人間ばかりで、そういう気持ち悪い連中がより集まって宗教みたいに閉鎖的で特殊なコミュニティを形成した末に"普通の社会"を脅かしてくるという、極めて社会的強者,マジョリティ側の視点に立った物語の構成になっているのが、白倉さん的な味も感じるグロテスクさで良い。
仮面ライダー本人は自らの手を汚して彼らを殺していくので、彼らなりの意志や思想,正しさがあったことを理解できるし、"最大多数の最大幸福"の名の下に少数を犠牲にすることに抵抗を覚えて悲しむことができるんだけど、おそらくライダーが戦った結果助かるごく普通の人たちからしてみればそんな葛藤はどこ吹く風で、ただキモくてワルいやつが消えてくれてよかったとしか思わないというすれ違い……。
コウモリオーグが等身大のサイズでありながらバッサバッサと忙しなく羽を動かしている様は滑稽極まりないんだけど、そのキモさがこういう味に繋がってて面白い。

撃破したあと、線路のシーン。
「僕は、自分の中の正義の心を信じる」? たぶん違う
「ことにしたのね」
のところで、キックして血が付き敵の死体の感触も残っているであろう右足じゃなくて、左足から歩き始めるところが細かい好きポイント。

 

第三幕:ハチオーグ

この辺からどんどん記憶が曖昧になっていくのでざっとさらうだけにしたい。
ヒロミというのは案の定、テレビ版ルリ子の知り合いの名前から取られているらしい。ぶっちゃけ昭和の女性キャラってとりわけ区別がつかない(こないだ話題に出したチョコだけは特例)ので別に誰だろうが興味ないんだけど、流石に今作のルリ子との関係は描かれな過ぎなので、テレビ版を見ることで多少は補完になったりするんだろうか?
まぁ、彼女のキャラ造形はほぼほぼ「他人の不幸は蜜の味」から広げられた側面の方が強そうではある。

 

長澤まさみ演じるサソリオーグの毒には対抗できないとのことだったけど、どういう理屈なんだろうね。パンフレットを確認したら化学兵器だということなので、「プラーナは生物に対しては万能(?)」らしいけど、サソリオーグの体内で生成されたものじゃないから駄目なのか、それともヴィルースは(生物学の定義とはまた別の理屈で)生物と見做しうるから無効化できるけど、どんな生き物の体内でつくられようと毒は生物じゃないので効くということなのか……まぁ下手の考え休むに似たりってやつだろうな。政府の組織がオーグを倒したのは若干『クウガ』要素だろうか。

フィクションの説得力という話でいくと、ハチオーグの「この刀は特別製、あなたの防護服もスパッと切り裂くわよ」みたいなセリフはとても優れていたと思う。"特別製"なんてまるで説明にはなってないのに、"スパッと"という小気味いい表現がそれ以上の説得力を与えている。"あらら"も、あの短い時間で「待ってました!」ってなったからやっぱりセリフのセンスって大切なんだなぁと。
逆に「スズメバチはバッタの天敵」なんて話は聞いたことがなかったしそうなのかぁ? と感じた。

 

「僕ではなく、僕のプランを信じてくれ」という表現はすごく庵野さんぽいよね。それに対するルリ子の返しもまた。

 

第四幕(前編):第2バッタオーグ/仮面ライダー第2号

一文字さぁ……期待通りとても良かった。彼がいるだけで場が楽しくなる。「しん・仮面ライダー」でもアフレコうまくていい味出してた。ただやっぱりTHE FIRST版の方が好みではあるかな……そもそも活躍シーンがそんなに長くなかったのもある。
ハチ戦もすごかったけど、この第2バッタオーグ戦もなかなか見ててキツかった。というかアクションで良かったなと思ったのは既に言った通り最初だけで、あとはずっとコレジャナイ感じの、良く言えば新しい映像が続く。
良いなと思ったのはマスクにこもって苦しそうな声の演出。ちょうど映画館まで自転車で行って、マスクしながらだと若干呼吸が苦しい感じも味わっていたので、仮面ライダーに自分を移入させやすかった。
あと第0号とのラストバトルはCG控えめだからそこも好きではある。


本郷奏多演じるカマキリ・カメレオン、K.Kオーグはかなり好き。オーグの中だと一番かも。
『東京喰種』のナキにもちょっと近いかもしれない。多分根はいいやつなんだろうけど、過去に何かあって価値観が歪んじゃったタイプに見える。今作のショッカー怪人はとことん"狂ってしまった人間"という描き方なんだなというのが分かる。
3種合成というのは、人間も含めてってことで合ってるよね?

 

「裏切りは人殺しより悪、敵討ちは人助けより善」と言い切る辺りもすごくいいキャラしてたよね。そしていくらかの説得力がある。
ちょうどこないだ『進撃の巨人』のFinal Season完結編(前編)が放送されたけど、4期終盤に『裏切り者』というエピソードがある。パラディ島を守るために島以外の世界全てを滅ぼすエレンに与するイェーガー派に対して、世界を守るという大義を掲げている以上人殺しはしたくないと考えているアルミンたちの葛藤が描かれているんだけれど、自分はここに若干の疑問を覚えていた。
アルミンたちは確かに命を奪わない選択を模索しているけど、その代わりとしてイェーガー派を"騙して"いる。ここがとても重要な部分で、命さえ奪わなければ何をしてもいいのか? と考えるとそんなことはないはずで、島を守るために世界を滅ぼしたいイェーガー派の気持ち或いは尊厳を踏みにじっていることになる。"魂の殺人"なんて表現があるけど、まさにそんなイメージ。

特に先日『ハイパーインフレーション』において、自分にも相手にも利益を与えるという完璧極まりない場の収め方を見ていたというのもあり、イェーガー派の求める利益を蔑ろにして一方的に騙し通すくらいなら、エレンのように同じ曲げられない思いを持っている者同士できちんと対等に殺し合う方が、よっぽど誠意のある対応に思えてならなかった。
なんだろうね、この感覚。僕にも「やぁやぁ我こそは」と名乗りを上げた日本人の血が多少は流れているということなのかもしれない。

 

どのタイミングで明かされた話だったか覚えてないのでここに書いておくけど、本郷の父親に対する感情は『東京喰種』の金木研のそれにすごく似ている。アニメ1期のクライマックス、死ぬほど好きなので是非見て欲しい。ライダーのフォロワーなのか、"仮面"の話でもあるしね。

 

第四幕(後編):チョウオーグ/仮面ライダー第0号

ここからは特に、言ってしまうと展開が漫画版に乗っ取られてしまったかのような印象を受けている。
確かに漫画版は、僕もたまたま父の蔵書にあったから読んだだけで、なんとなく接するのにハードルがある。そもそも話題に上がることがそこまで多くもない。だからこの機に映像化してしまおうというのも、まぁ分からんこともない。
なんかTwitterではみんな「庵野だった」って言ってるのが目に入ってくるけど、僕は全然そうは感じなかったのよね。パンフレットにも「自分個人のやりたい事ではなく」と繰り返し繰り返し書かれている。僕は比較的、本人の証言であっても違うと思ったら「嘘言うなよ」ってツッコむ方だと思うけど、これに関しては読んでみて納得しかなかった。
例えばみんなが幸せになれる理想郷である(かもしれない)ハビタット世界を否定して苦しい現実を肯定するのは仮面ライダーではずっと描かれてきたことだよね。

僕は常々、人類に与えられた自由があるとすれば、それは"最善を尽くさないこと"だと思っている。混沌や矛盾に満ち汚くもがく人間の愚行権こそが、自由の象徴であり、仮面ライダーの存在意義なのではないだろうか。
大自然がつかわした戦士『漫画 仮面ライダー』 感想

兄妹の物語なのは『龍騎』っぽいし、第0号がラスボスなのは『クウガ』だし、相変異バッタオーグに殺されかける本郷も、結局死んで一文字とひとつになって新しい仮面ライダーになるのも漫画版で知ってるし、なんだか既にあるものの再構成に過ぎなくて、この『シン・仮面ライダー』だからこそ得られる強い感動みたいなものを僕は受け取ることができなかった。

テセウスの船的な問題を孕む改造人間がアイデンティティを保つには、肉体とは別に"魂"のようなものがなければ説明がつかないよね、だから生命の息吹とも言うべきプラーナという概念が導出されます……これは『アギト』でも似たような再解釈がなされていた。

"生命はもともと海から発生した"ので、まず呼吸器としてエラ(ギルス)を獲得。そこから様々な進化を遂げた末に人間は口(≒顎=アギト)から呼吸をするようになった。だから、ギルスはアギトのより原始的な姿ってことになる訳だ。はー、なるほど!!!
(中略)
もうちょっと観念的な話をすると、空気って元々魂(目覚めろ、その魂!)の象徴みたいなところがあるよね。その視点に立つと、呼吸って行為自体が神秘的な意味を持つ。"プシュケー"って概念なんかまさにそれで、呼吸音のオノマトペがそのまま魂を意味する言葉になってる。英語のPsyche(精神,魂)の由来でもあるし、なんなら一足飛びに"サイキック(超能力者)"まで繋がる。
仮面ライダーアギト 11,12話「繋がる過去/湖の激突!」 感想

 

本郷が死んでしまうのは、原作者の石ノ森先生が亡くなっているのだから当然で、肉体は滅びてもその精神性(スピリット)は後のクリエイターが受け継いでいくということだろう。
途中で終わるのもそうで、シン4部作のうち『シン・エヴァンゲリオン』だけはシリーズを終わりにする真打ちとしての意味合いがあったけど、他3作はシリーズがこれからも続いていく。だからこそ、綺麗にオチを付けずに少し中途半端なところで切り上げることで、その映画を見て満足させてしまうのではなく、もっと見たいと観客に思ってもらう。
後のニチアサ仮面ライダーシリーズで、この『シン・仮面ライダー』のラストから続く人工知能アイとの戦いはきっとこうなるんじゃないか、みたいな思いを持ってつくられた作品が出てくるかもしれない。そういう未来への期待を込めて、続編がつくれそうな状態でどの作品も終わっているんだろう。

…………うん、理屈は分かる。納得もできる。だけど感動がない。
シン・ゴジラ』『シン・エヴァンゲリオン』、あとこないだ見た『式日』にはそれがあった。
僕がもしリアルタイムで漫画版や初代『仮面ライダー』を楽しんでいた世代なら、思い出補正で感動もできたかもしれないが、中途半端に知識としてだけ知っていたせいで、ただ「見たことある」としか思うことができなかった。
昔、井上敏樹の書く作品は終わり方に対して「妥当」とだけ感じてしまう、という話をしたことがあるんだけど、まさにそれに近い。
頭では楽しんでいても、心が楽しんでいない。これ以降の人生に響いて残るものがない……見終わったあと、そんな気持ちになる映画だった。

 

でも、ここまで書いてきたこと全てを踏まえた上でも、ただひとつだけ一切の曇りなく言えることがあるとすれば、かっこよさとか偉大さとか、孤高のヒーロー性とかそういったことじゃなく、いかなる美化も許さないただひとりの人間として生きた男が"そこにいた"ということ。
ここまで仮面ライダーを身近に思えた経験は初めてで、間違いなく「仮面ライダーを好きになれる映画」だったと思う。

 

"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として

 

前作

『シン・ウルトラマン』 感想メモ