やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

男女問題についてまた考える(1/2) 五輪森会長の女性蔑視発言編

一時期は積極的にフェミニストの方をフォローして話を読み、自分なりの考えをツイートするなどしていたことがあったけれど、こうして単発の記事にするのはそれなりに久しぶりのこととなる。
これを書いている現在僕は精神科へ入院しており、コロナとの兼ね合いもあって面会や外出が全面的に禁止され、インターネットを含め外界との接触機会がほぼなくなっているのだが、唯一あるのは病棟ラウンジのテレビ。一人になりたい訳でない場合は大抵ラウンジでそれを眺めているのだけれど、丁度僕が入院した頃から連日に渡り、オリンピックの森会長についてのあれこれが取り沙汰されていることが非常に多い。正直「ウンザリ」という言葉が最もしっくりくる。僕の精神衛生上、非常によくない話題だったので、その鬱憤を晴らすためもありこうして筆を執っている。
もうひとつ、たまたま患者仲間から借りて読んだ小説『82年生まれ、キム・ジヨン』もまた似たような話題だったのだけれど、こちらは結構面白かったのでその感想という側面もある。
この2つを混ぜ合わせて、全体として男女平等について改めて考えていきたい。
普段ならある程度するであろう下調べや裏取りができないので、投稿前に一通りチェックはするものの、この記事に正しさのようなものは期待しない方が良い。


森さんの会見後、僕の記憶が確かならば当初論点はそこになく、「コロナ禍においてオリンピック開催を断言したこと」に対しての批判が飛び交っていた。僕は先述の理由から彼の発言を、気まぐれに流れるテレビから断片的に読み取るしかない訳なので、そこのもどかしさはありつつも、概ね「聞く限り具体的な方法については言及されていないし、開催できる道を模索することはいわゆる"新しい様式"の文脈に沿っているし、ニュースタンダードをこの機会にうまく提示できれば、滅多にない日本開催のチャンスを印象的なものにできるという意味で理に適っている」と感じたので、まず"森さんを批判的に取り上げるメディア"に対して悪感情を抱いていた。もし僕が知らないだけで彼が方法について述べていたのなら、「開催宣言なんてありえない」「これに問題を感じないのが問題」なんていう表面的で同調圧力だけやたら出すようなやり口じゃなく、何故駄目なのかきちんとその方法の是非を問うべきだとイライラした。


そしてそのうち、話題は"女性蔑視と取れる発言"へと移った。本題である開催するのかどうかを知ることができないままだったこともあり、「そんなのどうでもいいよ」という気持ちが正直あった。露悪的にそのままにしておいてもいいが一応書いておくと、女性が差別されることがどうでもいいのではなく(じゃあ非常に心を痛めたかと問われるとそんなこともないけども)、差別がいけないなんて当たり前のことをわざわざ今言わなくてもいいから開催の是非を教えてくれ、みたいな気持ち。まぁ五輪も興味ないっちゃ興味ないが、新しい様式になるならそれはちょっと気になる。
普段も割とそうだけどこの記事においてはより一層、理性で濾したものだけをアウトプットするのではなく、敢えて"思ってしまったこと"も含めて素直に書こうと思う。傷付いた方がいたら申し訳ない。


男女を問わず"フェミニスト=女性主義者"を名乗る方のお話には納得のいかないことも多い僕だけれど、おそらくこの件もその界隈で大きく賑わっている、のだろう。
何が気に食わないかと言えば、主には平等主義(男女平等と書くと順序が問題になったりするし、別に性別の問題に限定する必要もないのでこう書く)ではなく"女性主義"という表現を選び、実際そういう言動が見られること。
ニチアサ界隈を超えて「男がプリキュアになったっていい(観てもいい)」というエピソードが話題になった際、「結局救われるのは男の子であって女性じゃない」とか不満を言っていた人がいたけれど、あれは傍目に見ていてもとても腹が立った。抑圧されていた人が救われることは喜びこそすれ、僻むものではない。フェミニストの方が言う不当な逆差別認定と同じ種類のものだろうに。そういった気持ちが湧いてきてしまうこと自体は仕方ないにしても、理性のフィルターを通してなおその感情に正当性めいたものを感じているように見受けられた人については理解に苦しまざる得ない。もし僕の勘違いで身に覚えのある人がこの世に一人もいなかったなら良いと思う。
まったく言わなくていいことだが、僕自身は「プリキュア(や、女の子がいっぱい出てきてそれを楽しむ種類の作品)を見ている大人の男性」に対して言い知れぬ気持ち悪さを覚えてしまう方の人間だったりする。性嫌悪にも近い感情だが、加えて「男性がたくさん出てくる作品を見ている女性」にはそこまで強い拒否反応がないことを鑑みるに、男性嫌悪的な感情であるとすることもできると思う。トクサツガガガに出てくる任侠さんとか、そんな目では見ていないのかなと頭では理解できるけど、やっぱりちょっと嫌だと思う。フィギュアとかポスターとか部屋に置いてあると特に。僕も化物語とか好きだけどね、けいおんも面白かったし。
誰が悪いかと言えばたぶん僕の心が狭いのが悪い、ごめんなさい。これはプリキュア好き男性の件に限らず、同調圧力だけやたら出す人やフェミニストの方など、このテキスト内に出てくるものに限らず、僕の嫌なこと全般に言えるけども。


話を森さん問題へのイライラに戻そう。あの発言は僕の中では「本当に女性が嫌いで抑圧したいというよりは、主には会議の進行を妨げる行為に対して鬱憤が溜まっていた(それに誘発されて女性嫌悪的な感情が漏れ出た)」と認識している。彼があの場で「女性は話が長い」のようなかたちで自分の鬱憤を表現してしまったことは、起こらないに越したことはないと思うし、そういう表現をしてしまったのは意識的にか無意識的にかは問わず事実として彼の中に多少なりとも女性嫌悪的な感情があったからであると理解することができるのも分かる。
だが表現が不適切だからといって、不適切なことをやり返すことに正当性は感じない。多くの番組では"女性蔑視発言"という表現が使われていたけれども、口頭では「女性蔑視"と取れる"発言」とされていることも多かった印象を受けた。そう認識しているのなら、例えば女性蔑視"的"発言、不適切発言などとやわらげて表現すべではないか、そうしないのは"不適切な表現"ではないのか。
謝罪会見かなんかで記者の言った「女性は男性と比べて発言を控えるべき立場だと思っているということですか?」なんかは、僕が該当部分を聞いてないだけかもしれないが明らかに「そこまで言ってない」と感じた。そう解釈するためには「たまたま彼の周りで女性の話が長いことを女性全体のことのように誤解している、のではなく、森さんは男性の話の長さだけ不当に(例えば内容の重要性とは無関係に)許している」ことが読み取れないといけない訳だけれど、飛躍しているというかやはり意地悪な見方のように感じる。不適切な表現と不適切な読解でお互い様、むしろ謝ってないぶん後者のほうがタチが悪い。こういう輩がいるから「面白おかしくしたいだけなんだろ」という反省しているとは思えない発言にも、ある程度の同情をしてしまう。


「やられたらやり返す」じゃないけども、悪いことをした人間に対しては悪いことをしてもいいという感覚は根強くある。ミラーリングなんて用語が存在するくらい、フェミニズム界隈ではそういう事案をよく見かける。『キム・ジヨン』185pの解説では、韓国の女性は結婚して子供が生まれると名前ではなく「誰々の母親」といった役職で呼ばれるようになる文化に対するミラーリングとして、本書では主人公の夫以外の男性に名前が設定されていないことを指摘し、「男に名前は必要ない」と当て付けられている。僕は平和への手段として報復(罰)は適当ではないと思っていて、ミラーリングにも同様にモヤモヤを覚えることが多い。アナーキーに開き直って「やり返されてもいいなら何してもいい」とするならそれはそれで全然構わないのだけど、一応法律では私刑は禁止されていることもあり、されたら傷付くと分かっていることはやらないに越したことはないと思う。「男は生物的に加害性を持っているのだから配慮しろ」という言説は僕にとって女性関係の問題に興味を持つきっかけのひとつだったと思うけど、今思えばミラーリングの一種だったのかもしれないと分かるものの、当時は非常に不快感(正確には罪悪感)を覚えた。自分の中にある性嫌悪的感情は幼少期に継母から去勢されそうになった経験に由来するものと思っていたけれど、今思えば存外その件も影響しているのかもしれない。
余談だが、普段韓国ドラマにもK-POPにも触れない身からすれば、韓国人の名前というのは見慣れなくて覚えにくいので、役割で記載し固有名詞が必要最小限に抑えられているのは『キム・ジヨン』が読みやすい一因であり長所であると思う。


あるコメンテーター(?)は、「あれは表現が不適切だっただけの"本心と違う失言"ではない。事前に予防線(こういうことを言うとまた…)を張っていたのだから意図的な発言だった」と言っていたのだけれど、言ってはいけないことだと自覚していたのなら、それこそミスであることの表れではないのか。「これだから女は」みたいな本心があったとしても、取り繕おうという気持ちもまた本心としてあった。だが結果として嫌悪感が多めに表出してしまった、或いは表現自体は本人の意図通りだったが思っていたよりも悪く受け取られてしまった、という意味でのミスである。僕はそういう理解をしたのだが、彼はそうは捉えなかったらしい。
僕の認識では、"女性蔑視発言"のようなキャッチーだが僕にはイマイチ的確だと思えない言葉や、微妙に無理を感じる解釈でもって批判的に報じたメディアもまた、その伝達ミスの共犯者である。当初はそこまで女性関連の部分は注目・問題視されていなかった(ピックアップして報道されていなかった)というのは、発言そのものではない外的要因が多少なりとも印象や解釈を悪く誘導していた側面があったことの傍証ではないかと思っている。
僕の目が森さんを責める側に厳しいのも、自由に情報収集ができない状況で的の外れたような報道ばかりしていることに対する苛立ちという側面、つまり精神科へ入院中であるという極めて個人的な事情に由来するところが大きいと思う。まぁ森さんばかり責められて一方的だと思うので、こういう声もあってよかろう。
しかし僕も大概話が長い。まだ続きます。


ここまでは森さんにも非があることは自明のこととして無批判に受け入れて話をしたけれど、そこにも疑問を向けてみたい。果たしてあの発言は本当に不適切だったのか。

まず思うのは、先程も少し触れたがくだんの会議における"長い話"というのがどのようなものたったかがきちんと分からない以上はなんとも言えないという点。森さんへの否定的態度とともに「本当に必要な話は会議が長引こうがしないといけない」なんてことを言っていた人がいたけども、そんなことは少なくとも僕にとってわざわざ言うまでもない当たり前過ぎること(そりゃあ、会議を長引かせてでも話すべきことは会議を長引かせてでも話すべきだろう、トートロジーだ)であって、森さん自身も謝罪会見で「(性別によってではなく)場に即しているか否かで発言を控えるべき」と言っていたように自覚しているところであると思われる。僕は法律における推定無罪の考え方が好きなので、彼についても相応の根拠がなければ本人にとってなるべく都合の良いように解釈していることが多い。

可能なのであれば実際に会議に参加していた他の人がどう感じていたか、場に即していたのかを吟味したいところ。ただ、世論が森さん批判一色に染まってしまっては彼に有利な証言は心理的にしにくくなってしまうので、なかなか難しいけれど。話の内容をよく吟味する前に、森さんに肯定的か否定的かという態度だけで「じゃあお前も女性の敵だな」と思われて曲解されてしまうことが怖くなる。すると何を言うにもまずは「自分も彼は悪いと思う」という枕詞で意思表示をしなければという気持ちになって、また"世論"の壁が大きくなる。『キム・ジヨン』に至ってはこの本を「読んだ」とツイートしただけで、おそらく「(各々の思う悪い)フェミニズムに賛同なのだ」と受け取られたのだろう、大炎上したらしいことが帯に謳い文句(?)として書かれている。沈黙は共犯なんて風にも言うけれど、それもあって、大した根拠なく悪い方へ捉えることはあまり良いことではないと思う。


次に考えたのは、話の長さと女性であることの関係。オリンピックなんて20数年生きてきても未だまともに見たことないほど興味がないので認識が間違っていたら申し訳ないが、"オリンピックの精神"は性差までを否定するものではないはず。男女や身体障害の有無でもって枠を分けているのは、もしかすると表向きには深い意味はないとされているのかもしれないが、やはりそれらの間に横たわる厳然とした"特徴の差"を意識したものに思えてならない。女性よりも男性、障害者よりも健常者の方が身体能力が高く、同じ土俵で戦わせるのはある種不公平である、という肌感覚。
実際、保険の授業では男性の方が筋肉質に育つとかなんとか聞いた気がするし、そういった性差は事実であるとの認識は一般的なものだと思う。
では当然、身体的特徴はそうだとしても、精神的特徴はどうかという話になる。僕は体が男性/オスなので(握力が20もないような雑魚だが)体験したことはないけれど、聞くところによると女性の生理は精神にも影響を及ぼすらしい。健康な精神は健康な肉体に宿る、と言ったりするけれど、体の調子が悪ければ自然と不機嫌になるというのは生理とは分けて考えても理解できる。
そうでなくとも、普段から薬物によって精神的安定を得ている身からすれば、こころを肉体的,物質的なあれこれからまったく乖離させて考えることには、無理を感じるものがある。
ただ公平を気取って「話が長いかどうかは個人の特徴であって人それぞれ、女かどうかは関係ない」と言うのは簡単だけれど、例えば女性ホルモンなどの身体的女性性と話の長さの因果関係について本当に"ない"と自信を持って言い切れる人がどれだけいるだろうか。仮に因果関係があったとして、それは必ずしもただちに「すべての女性は話が長い」ということにはならない。別の要因によって打ち消されることもあるかもしれないし、故に裏を返せば「事実、女性の話が必ずしも長いとは限らない」ことだけから、因果関係がないことを証明はできない。


更に言えば森さんの場合、両者の間に因果関係がある(女性であることが話の長さを引き起こしている)ことを強調するものではなく、あくまで相関関係がある(理由はさておき女性は話の長いことが多い)ことを言っているように受ける。
女性ホルモンなどの身体的女性性と無関係だったとしても、たまたまそういう女性が多いということは有り得る。それらを見て「女性はおしゃべり」「電話も長い」のようなイメージが流布し、自分は女性であると自認している人の中で暗示のような効果を発揮して、余計に話の長い女性が増える……とか、そういうことはないとも限らない。なんにせよ、「女性のいる会議は(多く,一般に)長引く」ということは少なくとも森さんの周囲だけで言えば事実であり適切な表現なのかもしれないし、ひょっとすると世界規模でデータを取ってみても案外そのような結果が出るかもしれない。勿論、そんなことない可能性もある。たまたま自分の周りがそうじゃないだけであることを完璧に否定するためには、女性が出ているすべての会議をリサーチしなければならない。少なくとも半数以上かな? でもまぁ、結局全部でいくつ会議があるのか分からないと半数がどのくらいなのかも分からないか。


本当に性別(ここでは生殖機能を指す)を考慮せずにオリンピックを開く場合、もし筋肉量云々の理由で枠が分けられているなら実際の筋肉量によって区別すべきだろう。邪魔な胸の有無が争点なら、胸が小さくて筋肉量も遜色ない女性は男性と一緒に競うべきかもしれない。
だいたい、国別に代表を決めることからしてどうなのだとみんな薄々思っているのではないか。例えば、本当なら世界で3位になれる実力のある人が、一国からの出場人数が2人以下であることによってその栄冠を得る機会を奪われているかもしれない。
あの国はこの競技が強いとか、あの国の女子は強いとか、僕の見てきた「オリンピックの楽しみ方」はそういうものだった。代表になった僅かな人数だけを見て(無意識に)その国に対する内的イメージを形成する。
もっと言えばこれは、スポーツそのものが孕んでいる特徴でもあると思う。普段から身近にいる人はこの限りではないけども、多くの人は試合という限られた場だけを見て選手のすごい/すごくないという評価をする訳だから、どうしても"偏見"のそしりは免れない。練習の時の記録なら、相手の調子が悪い時なら勝ってたかもしれない。そういった不確実性を努力によって埋めようとしているのだろうけれど。少なくとも僕の周りにおけるオリンピックの受け取り方とは、"偏った見方でそのものの特性を推察すること"は矛盾しないどころか相性がいいと感じている。


これは僕が昔から言っていることだが、偏見それ自体は悪くない……というか、全知になれない以上は仕方がない。ただ、それを弁えずに広い範囲の話をすると「違うんじゃない?」と言われたり、「こうある"べき"なのだ」と主張したりそれをもって抑圧したりすると初めて問題視される。
悪いのは偏見それ自体ではなくて、そこから発生する(多く無自覚的な)強制,抑圧の方だ。「男性は一般に力が強い」だけならまぁ自分は違うがそうなのかな、で終わるけれど、「男性ならば力が強くなくてはならない」と言われたらちょっと待ってくれ、となる。同様に「女性のいる会議は時間がかかる」が、もし「だから女性は会議に参加できない、発言できないようにしよう」とでもなれば、これは確かに立ちたがって抵抗するべきかもしれない。だが彼にそこまでの意思があったか? 僕には「自分は不適切だと感じることが多いので、場に適しているかどうかもう一度よく考えてから発言して欲しい」程度の意図であって、ただ女性だからというだけの理由で何かを抑圧する旨の意思は感じられなかった。女性に限定する必要があったかと言えば、実際その会議に出ていた話の長い女性たちに自分のことかもしれないと思い自省してもらう為には意味のあることだと思う。確か前の方で「うちの恥を言います」みたいなことを言っていた記憶もあるから、その文脈を適用すればあくまで「(多くの女性は長く話したくても場を弁えているだろうに、うちの)女性は話が長い」という意味だったと理解できなくはない。
勿論、そう言いたかったのに現実としてうまく伝わってないのだから、彼のその発言自体「場に適しているかもう一度よく考えてからすべきだった」ことではあるんだけれど(つまりメディアはキャッチーで分かりやすい表現を使ったり面白おかしくするためにわざと意地悪な解釈をしたりするので、そこまで考慮して慎重に発言すべきだった)、ブーメラン発言であることは必ずしも主張が間違っていることを意味しない。「お前はどうなんだ」と問いたくなるということは、その主張自体の正しさをある程度は認めていることになる。だって「差別はするべきです、私はしませんが」なんて言ってる人がいたとしたら、「じゃあ差別しろよ」より「なんでするべきなんだよ」が先にくるのではないか。仮に「じゃあ差別しろよ」と言ったとしても、十中八九は皮肉であって「差別はよくない」というニュアンスを含むと思われる。
ということなので、森さんの「空気を読もう」という主張自体はそれなりに真っ当なものだったと思う。

 

正直旬も過ぎてしまったし、続き(キム・ジヨン編)は書かないかも……。

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