やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

ウルトラマンZ 第3話「生中継! 怪獣輸送大作戦」 感想

キャラクター

 ナツカワハルキ
ロケットパンチと分解
言わずと知れた、マジンガーZ発祥のロボット文化だ。生体としての腕はなかなか取り外せないが、機械ならば比較的容易に交換可能だ。「ロボットならでは」の魅力としては申し分ない。壊れたからパーツを換えるなんてことも気軽にできてしまう。
ロボット工学に限らず、科学という体系は全体としてぼんやりと還元主義的な傾向があり、"事象の分解"を以てして"理解"したとすることが多い。前回ユカが嬉々としてネロンガを解剖しようとしていたのがいい例である。構成する要素をバラし、部分単位で得られた知見を継ぎ接ぎすることによって全体を知ろうとする立場。それが還元主義だ。これを突き詰めると、『鋼の錬金術師』における人体錬成の理論のようになる。人体をかたちづくるパーツ(元素)さえ用意すれば、全体としての「人間」を再現できるという思想。だが同時にハガレンは賢者の石がなければ命を吹き込めない(そしてその賢者の石は人間の魂からつくられている)としている通り、還元主義の限界を示してもいる。
全てのパーツを交換してしまったらそれは元の船と同一のものだと言えるのか、というテセウスの船という話があるが、これに対して人間が感じるパラドックスというものは、事象の交換不可能性を生み出す。
腕を失った人が、仮に手術によって元のものと全く遜色ない腕を手に入れたとして、果たしてその人はそれを"同じ腕"だと認識するだろうか。おそらく多くの場合「新しい腕」と思うことだろう。
だが不思議なことに、アンパンマンが顔(人間で言えば脳という最重要器官)を交換することに対しては、そのような隔たりは感じなかったりする。
人間ならば、アンパンマンが顔を分け与えるように皮膚を剥がして別の人に移植しても、また新しい皮膚ができる。しかしパンはモノなので(厳密には菌だったり小麦だったりするが、モノか生き物かといえばモノで間違いないと思う)、代謝ホメオスタシスが働かず"自然治癒"ができない。よって、駄目になったら全く別のモノで代替するより他ない。この自然治癒の可能性がないことが、アンパンマンの同一性を担保しているのではないかと僕は睨んでいる。
紆余曲折を経たが、このような要素に還元しきれないものを、複雑系と言う。多くの人に聞き覚えがありそうなところだと、マクロ経済学とか、あとは『ジュラシック・パーク』で出てきたカオス理論の話とかだろうか。生物学における分類(カテゴライズ)という行為もまたそうだ。人間が恣意的にやっていることなので、「トゲアリトゲナシトゲトゲ」みたいな概念が生まれる。これは仮面ライダーウルトラマンの定義にも通ずる。『Over Quartzer』において「凸凹」や「芳醇」という言葉で表される概念が、この"複雑"と類する。
話はかなり逸れたが、ロケットパンチの「腕を分離して飛ばす」という発想は、科学の分解的なイメージに由来するものと思われる。

(参考:"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として)

・考えなしが過ぎる
1,2話は大目に見ていたが、そろそろ酷くないか? 観測所があるとは聞いていたはずで、人はいなかったそうだが、それを知っていたなら逆に「人さえいなければ最悪壊してもいい」と思っていることになってしまうので、本人の意識としては「人がいるいないに関わらずうっかり壊してしまった」と見るのが妥当だろう。……どうなの。
一応避難が徹底されているということは描写されているが、それだって絶対じゃない。そのうっかりで避難区域を出てしまったらその時点でアウトだし、逃げ遅れた人もいるかもしれない。
エレベーターなどの狭い場所においては、太った人はただいるだけで邪魔になるという話があるが、巨人ともなればその害は比にならない。質量は存在するだけで周りの時空を歪めてしまう。きちんとそれ相応の配慮ができて初めてパイロットの資格というのは与えられるべきなのではないか。子犬を助けた描写とも噛み合わせが悪いしね。
巨大戦で街が壊れる描写というのは、僕的には本当に必要最小限であって欲しいというのが正直なところ。
とは言え、人間大でも意識しないままにアリやその他の微生物を踏み殺すことはおそらくあって、それを棚に上げてウルトラマン達だけを責めるというのは若干気持ち悪いものがある。でもハルキ、1話もだったけどケツ叩かれるまで自分から謝らないのはかなり印象悪いよ。つーかマスクしろよマスク。そうでなくてもせめて手で覆えよ。撮影時はまだコロナが流行ってなかったのかもしれないが、平時でもそれくらいは当然のマナーでしょ。
あとクリヤマ長官ね。言いたいことは分かるけど、怪獣を倒すのはよくて建物を壊すのは駄目という、まぁ言っちゃえば典型的な人間中心の考え方なのはちょっと引っかかるところがある。自覚的にも思えるようなセリフだったけど。それに捉えようによっては部下のミスは上司の人選ミスだからな。
ハルキのことで言えば、彼の言う通り予算は限られているので、一方でロケットパンチ搭載を頼みもう一方で防げた被害を出して金を浪費するというのは、普通にわがままというもの。「10万が欲しい」という要望を上げるのも結構だけど、金は湧き出てくるものじゃないので(湧き出られたらインフレになって困る)、どうせなら「ここの予算をカットして10万給付して欲しい」みたいにもう少し具体的に主張してみると良いんじゃないかなと思う。まぁ間接民主制ではそこまで具体的に政治をコントロールすることは難しいけど。どうして未だに政策そのものじゃなくて人に投票する制度なのか、理解に苦しむ。
愚行権
前項では配慮が足りないとかマスクしてないとかって責めたけど、別の視点から見るとまた話が変わってくる。
今回の花粉症をはじめとするアレルギー疾患の遠因のひとつとして挙げられているのが、世に言う衛生仮説というやつ。綺麗すぎる環境で育つと免疫が過剰な清潔を保とうとしてアレルギー反応が起こるのでは、というアレ。似た概念として『PSYCHO-PASS』にユーストレス欠乏症がある。病気は架空のものだがユーストレス自体は実在の概念で、生きるために最低限必要なストレスのことを指す。
今流行りのコロナも、免疫力の強い人は感染しても発症に至らないケースがある。それがまた無自覚な感染拡大を招いて大変だったりするのだが、人類の進歩という長い目で見れば、こういった災禍も糧となっていくのだと言える。つまりハルキがクシャミを撒き散らすのも建物を壊すのも、綺麗過ぎる世界を汚してちょうどいい塩梅に戻すことに一役買っている……と取ることもできる。アレルギーから衛生仮説を連想するのは全然無理やりではないと思うので、この解釈はそれほど的はずれなものではないと思う。
色々と敏感な今の状態を踏まえた上でクシャミのシーンだけ撮り直すなりカットするなりテロップ等で注釈するなりという配慮をせずそのまま出すというのは、普通の感覚で言えば正直有り得ないほど非常識なもののように感じる。だからこそ何かしらの意図を持って敢えてやっていると僕は考えるし、だとしたらそれはこの線しか思い付かない。
障害者の為の施設に通っていると、スタッフさんは基本的に僕ら利用者のストレスを取り除こうと尽力してくれるんだけど、僕は割とつらかったり落ち込んでる気持ちに浸るのも嫌いじゃないタイプなので、逆に息苦しさを感じることがあるのよね。幸せでいることを強いられている感じというか。
今週月〜金の5日間、ダイエットでもデトックスでもなんでもなく、本当になんとなく断食をしてたのよね。水しか飲まないってルールで。普通に考えれば馬鹿げてるかもしれないけど、僕としては達成感があったし面白かった。誰がなんと言おうと、これが僕の"幸せ"だ。
愚行権というのは、このような行為を許容する概念のこと。建物を壊したみたいに、人に迷惑をかける場合は通常越権していると見なされるんだけど、人類全体を俯瞰してみれば、これもひとつの愚行権の行使だと言える。
歩留まりが悪くてもロマンのある人型決戦兵器に投資する……ってのもそうだね。


 ウルトラマンゼット
・ボディランゲージ
最初見たときはこのシーンだけなんか浮いてるなぁと思ったんだけど、よくよく考えてみるとアメリカ人の偉い人とロボットへのロマンを通して通じ合うというエピソードな訳で、非言語コミュニケーションというのは流れにきちんと沿っている。
若干、クウガ的な「人間同士ならなんとか分かり合えるけど怪物は無理」っていうのが透けて見えるけれども。
・It's Ultraman!!!
ヨウコや事務次長がゼットのことをウルトラマンとして認識できていたのには納得。割とみんな同じ顔だもんね。小さい頃は仮面ライダーと違ってイマイチ区別が付かなくて、似てる中でも異彩を放ってた銀一色のネクサスが好きだった。食玩のエボルトラスターを予防接種受けたご褒美で買ってもらった記憶はあるけど、本編を見たことあったかは謎。うちの地域そもそもやってない(やってても遅れてる)ことが多いからな。
あんまし関係ないけど、パワードの「ウルトラヒーロー……いやウルトラマンだ」「確かに女性には見えないわ」ってくだり大好き。


 怪獣
ゴモラ
お腹がどうしてもマツボックリに見えてチャーミング。今回の花粉症というテーマに合わせて(松も花粉出すからね)リファインされたデザインなのかと思いきや、元からあの造形なのね。偶然というよりは、だから今回のエピソードにゴモラが選ばれた(或いはゴモラだからテーマが花粉症になった)のだと思われる。
ゼットは割と容赦なく怪獣を殺すので、そこに対する違和感を時々見かける。確かに今回のゴモラはそこまで酷いことはしていなかったし、むしろ花粉症に苦しんでたりと可哀想な側面もあった。
ひとつ考えられるのは、先述の通りでかい存在というのはいるだけで大分迷惑だということ。ゴメスがおそらく住処に戻されたであろうことを考えると、ゴモラが倒されたのはトンネルをつくる関係で居場所がなくなってしまったから、ということになるのかな。
ウルトラマンは必ず"帰って"くれるので、人々に受け入れられている。他の怪獣も、自分たちのテリトリーで大人しくしている分にはウルトラマンや科特隊も手を出さないのではないか。ゴモラの寝床を荒らした人間が悪いと捉えるか、トンネルつくりたいところに居座るゴモラのが悪いと取るかは、見方次第だけど。
もうひとつは、演出通りプロレスとして見て欲しい可能性。あくまでエンタメのための出来レースであって、爆殺もテレビ番組としての誇張表現であると。これは言い出すとなんでもアリになってしまうが。

 

 

小説版クウガの話だけど、人間ではない部外者のクウガが戦ってくれるおかげで、人間は暴力を振るわずに済んでるのよね。扱いとしては未確認同士の仲間割れということになってるから。にも関わらず警察が武装を強化していった結果、バルバに「リントも変わったな」と言われてしまう。
ウルトラマンと怪獣も世間的にはそれと同じで、対怪獣の名目とはいえ強力過ぎる兵器を開発し所持することに対して、普通に考えれば抵抗は大きいはず。エヴァではバチカン条約(一国のエヴァ保有数を3機までとする)という形で制限がかけられていたように。描かれるかは別として。
人間がウルトラマンに頼らず自立するというのは、いいことばかりではない。まぁ、そこへのフォローとしての、外国人との絆だったのかもしれないけどね。

 

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