やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

仮面ライダーゼロワン 第32話「ワタシのプライド! 夢のランウェイ」 感想

キャラクター

 飛電或人
・救う対象の取捨選択
デルモのバックアップがあったことで、少なくとも「自分の知ってるヒューマギアだけバックアップを取ってある」という訳ではないことが明かされた。……とはいえ、そうでもないと今後一切新しいヒューマギアを出せなくなってしまうので、なんとなく予想はついてたけども。
一応博士ボットを復活させてゼロから新たな個体をつくる可能性というのも全くない訳じゃないけれど、ヒューマギアの基本たるゼアからの高速ラーニングができない今、既存の地上にあるデータでやりくりする必要があるため、すぐに個性が生まれることは考えにくい。
それはそれでいいとして、だからと言ってじゃあ「全てのヒューマギアのバックアップを所持している」かと言えば、そうとも限らない。すると再び「知り合いだからと言って優先してバックアップを取るのは差別的ではないか」という問題が浮上してくる。
これに対するひとつの回答として、26話の感想でしたような「救う価値の有無」という話を挙げることができる。
龍騎』の40話にて、浅倉のことをよく知らない弁護士が捕まっている彼を助けようとし、その結果本当に脱獄してしまったというエピソードがある。まぁ視聴者としては脱獄してくれた方が面白いという気持ちはあるだろうがそれはさておき、犯罪者と善人だったら善人をこそ優先して助けるべきというのは分かる話ではあると思う。
その上で考えると、或人が知らないヒューマギアというのは彼にとって本当に完全なブラックボックスなので、ひょっとするとチェケラのように自ら悪意を抱いた個体かもしれないというリスクがある訳だ。
そうでないことを彼が知っている(すなわち助けるリスクが少ないと思える)個体を優先するというのは、私情の一言では片付けられない説得力を持つ。
もちろん結局は彼の価値観次第ということになるのだが、何度か繰り返している通り助かることは当たり前ではない。或人が救える存在には限りがあるし、自分が誰に助ける労力を割くかを決める権利くらい、彼にはある。
自らの実子或いは養子を養っているAさんに対し、全く無関係な立場から「人助けだと思って、自分のことも養ってくれ。あんたは子供と俺を差別するのか」などと言うことがどれだけナンセンスなことかは、言うまでもあるまい。

(参考:侍戦隊シンケンジャー 第三,四幕「腕退治腕比/夜話情涙川」 感想)


 不破諫/亡
・垣根を超えて
人間だとかヒューマギアだとか、不破なのか亡なのかとか、そんなくだらない線引きを超越して、「自分は道具ではないという気持ち」という本質的なところで通じ合い協力する姿は、素直にかっこよかった。
「男はスカートなんて履いてはいけない」「女は化粧くらいしないといけない」「日本人ならば韓国式のお辞儀なんてしてはいけない」……逆に「女性は必ず男性に逆らわなければいけない」なんてのも含めて、全部くだらない。
これからも亡の思考が完全に不破と一致することはないかもしれないが、その時は喧嘩すればいい。良太郎とモモタロスのように。逆に溶け合ってひとつになったとしても、それはそれでいい。

スピンオフ見ないと亡がどんなやつか分からない……って感じた人はこちらをどうぞ。

(参考:仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション ネタバレ感想)


 デルモ
・美顔ローラー
ヒューマギアなのにアレをやって意味があるのかという点については、まずあくまで"キャラ付け"というか、自身のトレードマークとして利用している可能性がある。
トクサツガガガの「イクトゥス作戦」……とはちょっと違うけれど、職場や学校で敢えて趣味をオープンにする(グッズを普段使いするなど)ことによって、あまり話したことがないの人からも「あぁ、あの人ね」と認知して貰いやすくなる効果がある。
「最近デルモがこんな面白いこと言っててさ。知らない? ほら、いつもローラー持ってる子」と言った風に。それを良しと取るか悪しと取るかは人それぞれだろうが、モデルという職から考えて目立つのは好きそう。周りの人間の性格次第では悪目立ちという結果になることも当然あるだろうが。
もうひとつの解釈は、後述もするがやはり自我同一性の問題だろうか。
整形なんかはとても分かりやすい例だが、あまり一度にパッと変えてしまうと、脳内で連続性が保てない。「髪を切った」くらいの変化は社会的に「よくあること」として受け入れる土壌ができているが、顔のパーツがいきなり大きく変化することはその限りではない。
逆に髪が伸びたり成長したりといった風に少しずつ、徐々に変化していく場合は、そもそも変わったことに気付けないことすらある。前身が廃棄されてしまったという緊急事態においては仕方ないとしても、日常範囲内の「美しくなりたい」という願望については、連続性を保ったまま自らの手で少しずつ積み上げていきたいスタイルなのかもしれない。「自分らしさ」を大切しているのは、本人も言っていた通りだしね。
・わたし、は、誰?
デルモの心情とよく似たものを、僕は知っている。『ハイキュー!!』の主人公 日向翔陽だ。
彼は身長が低いが、だからこそ空中戦で戦いたいという信条を持っており、"小さな巨人"になれる……「小さくても飛べる」ということを示したいのだ。
障害福祉におけるピアサポーターという存在にも、同じことが言える。「(本来支援される側の)障害者でも、人を支援する側に回ることができる」という事例となることそのものが、他の障害者たちを勇気付けるのだという。
漫画に障害者とかなり狭いコミュニティでの例が続いたのでもう少し広く通じるものを挙げるとするならば、「非白人としてのオバマ大統領」や、「女性天皇を」と声高に叫ぶ声などがそれに当たるだろうか。
これらの文脈で見ると、おそらく彼女も「(本当ならヒューマギアなんかにできる訳がない、という前提の下で)ヒューマギアでもできる」という、劣等感と自信が背中合わせに張り付いているような複雑な気持ちを抱いていたのだと思われる。だとするならば、自分ではないが同じヒューマギアであるイズがランウェイを歩く姿を見て(100%ではないにせよ)満足感を得たことは、理解できる。
彼女の抱く劣等感に関しては、実際に劣っている必要というのはなくて、ただ周囲から「ヒューマギアであること」を理由に否定された経験さえあれば、感情としては成立する。
もちろん、これらの話は亡にも通じる。

 

設定

・転身
前回に続いて、全く関係のないボディにデータを入れたヒューマギアの同一性について、もう少し掘り下げて考えてみようと思う。
が、その前にまず119之助についての話を整理しておきたい。
僕は27話の感想にて「消防士ヒューマギアなのに他のと(見たところ)変わらない素体を使ってるからすぐに焼け壊れてしまったのだ」という見方に対し、「見た目が同じだからと言って性能も同じだとは限らない」という可能性を示した。
もし仮に僕の言う通り、見た目は同じながらも職業ごとに性能の違う(匠親方はパワー系だけどスマイルはそうでもない、みたいな)ボディを使っているのだとしたら、これは転身ヒューマギアの同一性にそれなりの摩擦を及ぼす。
簡単に言えば、耐火性能の低いボディに119之助を転身させてしまったら、それはもはやまともに仕事を果たせないのではないか……という話。
僕の立場としては、やはりこれも「大した問題ではない」ということになる。
前回半身不随になった知り合いを例に出したが、それと同じようなことだと思えば分かりやすいだろうか。以前と全く同じような消防士としての働きはできないかもしれないが、経験を活かして裏方に回るとか、新人の指導に当たるとか、新しいボディを踏まえた上で"自分なり"の生き方を選択することが、新119之助にはできる。
またそもそも、ボディに差がない可能性もある。というのは、元々全てのヒューマギアが同一の素体を使っているということではなくて、プログライズキーの機能としてそういうことができる、という話ね。
シェスタが祭田ゼットに転身するくだりにおいて、ゼットが自らの着ていた法被を脱いで或人に着せるという描写がある。これについて「その服はどこから出てきたんだよ」とツッコんでいる人を見かけたが、僕は仮面ライダーの強化スーツと同様プログライズキーが出現させていてもおかしくないように感じる。とするならば、ヒューマギアのボディ自体も"変身"の応用でカスタマイズできて不思議はない。或人がゼロワンに変身して超パワーを発揮するように、貧弱なスマイル素体も119之助に転身することで超耐火性能を手に入れることができるかもしれない。
そうなってくると、彼らの同一性に対する疑念というのはかなり抑えられるのではなかろうか。
(参考:仮面ライダーゼロワン 第27話「ボクは命を諦めない」 感想)

・全は一、一は全
先日「一緒に花を植えないか」と誘われた。しかし、実際に渡され植えたのは球根だった。では「花を植える」という表現が嘘だったかと考えると、そうは感じなかった。これは、球根には"花"と呼んでも差し支えないだけの花性が備わっていたということだ。
最も日常的な例としては「ご飯を食べる」が分かりやすい。パンでも麺でもフレークでも、全て"ご飯"で表すことができる。
これを単に「言葉の綾」で片付けるのは簡単だが、僕の今読んでいる井筒俊彦さんの『意識と本質』にならってもう少し踏み込んで考えてみたい。
「Xであるか、ないか」ということは、普段我々が意識することはないものの、実際にはそこまでデジタルなことではない。
「花のように笑う人」という表現があるが、じゃあ花はどのように咲くのか。答えは「花のよう」だ。花も人も「花のよう」であるなら、本物とそれ以外を分かつものとはなんなのか。
形式的な循環参照を嫌うならば、自由にパラフレーズしても良い。我々がXを花だと認識する際に使っている条件(例えば綺麗だとか色鮮やかだとか、ぱあっと開くイメージだとか)の総体をAとしたとき、タンポポも人も程度こそ違えどAだから"花"という表現を与えられたのだ。このAを便宜的に"花度"という言葉で表すとき、「花度がいくつ以上なら本物の花で、いくつ以下なら花に似てるだけの別のもの」という普遍的で明確な尺度は、我々の直感に反して、ない。更に言えば、"花"という表現こそ与えられないものの、花であるために必要な条件を共通して満たしているものはいくらでもある。例えば靴は漢字が似ているし、一見関係なさ気なネジだって"この世に存在するもの"という点が共通しているという意味において花度はゼロではない。
このような視点に立つと、全てのものが連続的に繋がり、あまねくものを花の延長線上にあるものとして捉えることができる。
ここで更に話を一般化すると、花は花でありながら鳥でもあるし、鳥もまた鳥でありながら花である。猫も、しゃもじも、すべてのものがすべてのものに対して、井筒氏の表現を借りれば"透明"で開かれた状態になる。
このような認識こそ、上述した『鋼の錬金術師』にも引かれている梵我一如(宇宙と自分は同一のものである)的な悟りの境地だろう。僕の理解度と表現力の低さによって幾分ぼやけているとは思うが、その一端くらいは伝わるはずだ。
科学っぽい話が好みなら、反復説なんかは特にこの思想の影響を思わせる。個体発生(人間が受精卵から人の形になるまで)が進化の過程をなぞっているのではないかというアレ。
聖闘士星矢は見たことがないけれど、"小宇宙"という表現もこれに似たものを感じる。個人の中に宇宙の真理のようなものがあるような感覚。
長々と話してきたが、要するに言いたいのは「花が鳥であれるように、スマイルが匠親方であることもできる」ということ。
スコルピオワームが剣であり得るように、"似ている"ことと"同じ"ことの間に決定的な差異はない。何故なら、この世に完璧に同一なものなどないのだから。あくまで"モノ"のレベルでは、だけどね。
(参考:"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として)

・頭痛
唯阿が天津の指示に対していちいち頭を抱えているのはチップのせいと見てもいいが、単純にストレス性の頭痛としても捉えることができる。この辺りは敢えてどちらとも取れるようグレーにしてあるように感じる。
公式サイトでは「グレーにしてます」なんて言えないからか、分かりやすく「チップのせい」ということにされてるけどね。

 

 


僕にとってゼロワンの魅力というのは「そのとき自分が考えてるよしなしごとを投影し、参考にすることができる」という点なんだけれど、そういう意味で今回の不破はとても"ガチッ"とハマった。
いやぁ、世界って本当に面白い。

 

 

ゼロワン感想一覧

前話

仮面ライダーゼロワン 第31話「キミの夢に向かって飛べ!」 感想

次話

仮面ライダーゼロワン 第33話「夢がソンナに大事なのか?」 感想