キャラクター
飛電或人
・ヒューマギアの為
或人が人間よりもヒューマギアを優先している(ように見える)ことについて、少し考えてみた。
人間は人間のことを考え、ヒューマギアはヒューマギアのことを考える……確かに、そのような世界にも秩序は有り得るかもしれない。しかし或人がやっているのは、基本的にはヒューマギアを守ることだ。それが即ちヒューマギアを必要とする"人間のため"にもなるという話は以前したが、そういう解釈を取らず、単にヒューマギアのためだとして今回は話を進めてみようと思う。
そのようなキャラクターが存在するためには、「ヒューマギアよりも人間のために動くヒューマギア」がいて初めて物語的なバランスが取れると思うのだが、改めて考えてみるとそれって「ただのヒューマギア」なのよね。イズを始めとして、通常ヒューマギアはあくまで人間の暮らしをサポートし、人間を幸せにするために動いている。
だとするならば、ヒューマギアのために動く人間が或人一人しかいないというのは、むしろ非常にバランスが悪い。
人間が人間のことしか考えないから、ヒューマギアは「自分たちは奴隷じゃない。人間が我々に笑顔をもたらしてくれないのなら、自分たちの手で掴み取る」というのが、主にウィルや迅の言い分だ。
そう考えるならば、利他的存在としてのヒューマギアに対する"お返し"として或人のような人間がいることは、実は理想的な世界の姿なのではないか。
端緒自体は令ジェネの頃から出ていたのに、この結論に至るまでこんなにも時間がかかったことが我ながら不思議で仕方ない。
不破と唯阿の(歪な)関係にも現れているように、お互い「お前のため」に動くことで両者ともが幸せになれる、かもしれない。
(参考:仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション ネタバレ感想)
・夢があればいい
ただ自分にできることとして(おそらく野良素体を探して)転身させたミドリを持っていくことはしたけれども、一時的には難色を示したものの、結局彼はゲストがザイアスペックを使用することをはっきりと否定はしなかった。
そもそもザイアスペックの暴走って、構図としてはメタルクラスタの暴走と同じだしね。或人の能力を強化するためのAIスーツであるゼロワンシステムが、アークにハッキングされ操られる、という意味で。克服してないままにメタルクラスタを数回使ってた或人としては、じっとしてられない耕一の気持ちが理解できるのだろう。
滅
・幻想
彼がアークの意志と無関係に動いたってのは、端的に言えば或人と滅の勘違いです。
確かに本人の感覚としては、いつものようにアークからの指示が来てそれに従うのではなく、指示が来る前に体が動いていたってことで「何かが違う」と感じたんだろうけど、アークは滅亡迅雷を復活させようとしてるんだから、普通に考えて、いま迅を失う訳にはいかないのね。
でも、その勘違いこそが意志の正体でもあるのだ。
火のないところに煙は立たないと言う。滅を買い被った或人の物言いを聞いて、事実として滅は「そうなのかもしれない」と思った。それは、例えアークの影響だったとしても、彼の中に迅を尊び守ろうとする気持ちがあったからに他ならない。「これは自分の意志だ」と思えば、それは本当にそうなる。だって、本当のことは自分しか分からないんだから、自分がそうだと思えばそうなのだ。
これは『ディケイド』で顕著に描かれていたことでもある。元々士は自分のことしか考えられなかったのだが、ユウスケの中に"自分"を見出し、彼を助けた。それは単純に「自分を助けた」に過ぎないことなのだが、ユウスケはその行動に"善意"を見出し、以後も彼の行動に「そこまで考えてたんだろ?」と、"いい解釈"を加えるようになる。すると士は、本当は自分のことしか考えてないにも関わらず、自分の中にそのような善性を見出してくれたユウスケの"信頼"が嬉しくて、その期待に答えようと本当に善意と呼び得る行動をするようになる。こうして嘘から真が生まれる。
ついでに言えば、滅がヒューマギアである迅を守ろうとするのはまさに"電気羊の夢"って感じがするよね。「人間は羊の夢を見るが、それなら電気じかけの人間(アンドロイド)は電気じかけの羊の夢を見るのか?」っていうのがあのタイトルの意味で、このケースで言うなら「人は人の子を守り、ヒューマギアはヒューマギアの子を守る」ということになる。
ありのままの自分を(人間に仇なすところを除いてとはいえ)認めてもらったことで、お返しとして或人のことを少し認めるというのは、とても分かりやすい。これこそ『555』ので描かれていたことのオマージュだろうか。巧は人間を捨てた木場をなおも人間だと認めて受け入れたから、木場はかすかでも「戻れるなら、そうありたい」と願った。本当は40話までの澤田周りのくだりの方が分かりやすく描かれてるんだけど、ネームバリューとして木場のほうが上だからこっちを例に出す。
(参考:仮面ライダーディケイド 6,7話「バトル裁判・龍騎ワールド/超トリックの真犯人」 感想)
天津垓
・本当に有能か?
彼には社員の暴走(消防回のパンダヒューマギア)を隠蔽した前科があるので、今回の「セキュリティは強化しました」という声明はその場しのぎのハッタリという可能性もある。そもそもそんなすぐに強化できるなら最初からやっとけと言われてもおかしくない。ちなみにハッタリの場合、亡の「セキュリティを強化しても無駄ですよ」というセリフは「強化されてたけど突破しましたよ」ではなく、言葉通り「もししても無駄ですよ」というダメ押しの意味を持つ。或いはこれも、強化されたくない故のハッタリかもしれない。
また後述もする通り、もし彼が本当にハッキングに対処できていたとするならば、それは亡と同じく「相手の手の内を知っているから」でしかなくて、少なくとも視聴者の視点から飛電と比べるのは根本的にナンセンス。
「滅亡迅雷を本日中に壊滅させる」という約束も、結局果たせてないしね。
不破諫
・本当の過去
何もないつまらん人生っての、なかなかどうして面白い。こんな設定になったのには、ただギャグとして描くためだけではないきちんとした意味が透けて見える。それは「何もないなんてことは有り得ない」というメッセージだ。
僕は前回唯阿のキャラ性について同じことを言った。生きて存在している以上何かしらの経験が積み重なって"らしさ"を形成するものだと。
要するに「幼い頃ヒューマギアに襲われた」というドラマチックなトラウマ体験などなくても、我々一般人がそうであるように、自由意志もアイデンティティも宿り得るということだ。
亡
・彼の夢
この前も「誰かデルモの夢を叶えてあげて」って言ってたし、彼も今のところはヒューマギアらしく"他人の夢を応援する"ことがアイデンティティみたいね。
雷と一緒にモジュールがアップデートされてたけど、滅は型落ちのままなのに対して迅はもう一段先に言ってて、結局統一はされてないけど。
演出
・信頼と放任のダブスタ
冒頭のゼロワンvs迅のCG映像、1話のクオリティが念頭にあるのも手伝ってかなり違和感があったというか、ぶっちゃけ残念な出来に思えてしまった。遠近感がおかしいというか、ちゃんとして見える部分もあるんだけど、だからこそ平面的になる瞬間がより目立ってるような気もする。
なんでこんなことが起こるのかと制作状況に思いを馳せてみると、「できるだろうと信頼してお願いしたけどそうでもなくて、でも今更引っ込みもつかないのでそのまま締切までなるべく頑張ってもらった」みたいなことなのかなと。
まぁ、実際にそうであるかはどうでもよくて、僕がそうこじつけてこの話をしたいのよ。
シンケンの感想(第五,六幕「兜折神/悪口王」 感想)でもしたけど、かけられる期待を裏切ってしまうのではという不安は、なかなか怖い。
僕がよく読んでるブロガーの結騎さんとか、よく他のサイト等に寄稿しているじゃない。あぁいうの僕だったら絶対に無理なので、かなり尊敬する。「相手が自分に何を求めてるのか」を適切に汲み取らなくちゃいけない訳だけれど、それってすごく難しいと思う。
ジオウの劇伴(BGM)について白倉さんが「CoCo壱番屋に入ったら本格的なインドカレーが出てきた」みたいな風に冗談めかして言ってたことがあったけど、このケースはポジティブに捉えられたからいいものの、一応言ってることとしては結局「思ってたのと違った」ものが上がってきてることになるのね。白倉さんの場合、彼自身がそういうことをよくやる(しかも意図的に)というのもあって許容範囲が広いのかもしれないけど。有名な所で言うと、龍騎の企画にあたって「9.11を踏まえ、子供たちに本当の正義とは何か教える番組にして欲しい」っていうオーダーを曲解したってやつね。向こうはいわゆる勧善懲悪的なものを要求してたんだろうけど、白倉さんは「本当の正義なんて自分たち大人にも分からない」という現状を素直に描く路線に舵を切った。……っていうエピソードは、事実として上が承認してる以上、彼が面白おかしく話してるものをそのまま受け入れるのはちょっと違うと思うけれど、分かりやすい例なので。『ヒーローと正義』についても、似たような話し方をしていたね。
「例え期待通りのものができなかったとしたら、自分を選んだ相手の見る目のなさが悪いのだ」と開き直ることもできるが、それはあまりにも無責任というものだろう。
久々なので繰り返すが、ヒューマギアの暴走は飛電のセキュリティが劣っているというよりは、協力関係にあったZAIAが機密情報を滅亡迅雷に流していたからという側面が強いと思われる。同様にザイアスペックの暴走も、内情を知っている亡(唯阿)がいたから可能だったと描かれている。今回は更に一歩進んで「天津もまた亡の手口はよく知っているからすぐに対策ができた」という流れになっている。言うまでもなく、正体不明のテロリストにハッキングされているという状態だった飛電の時とは、全く状況が異なっている。民衆がそこまで理解できるかは、また別の問題だが。
人を見る目に話を戻そう。基本的には「裏切られた被害者」である飛電やZAIAを責め得る口実というのがそれで、「裏切るような奴を身内に引き込んだ間抜けが悪い」ということになる。これも過去記事で言ったが、この理屈は「いじめられる方が悪い」とか「レイプされる方が悪い」みたいなものと同質である。だから理がない、とまでは言わないけれどね。
先日『アイアンマン』を見たんだけど、言ってしまえばあの作品も根本は同じようなものなのよ。名前覚えてないけど、二人三脚でやってきたっぽいオジさんに裏切られる話で、究極的には「トニーに人を見る目がない」で片付いてしまう。ゼロワンもそうであるように、あの作品もそこに非自覚的ではなくて、作劇として「過去のトニーをとにかく悪く描くことで、今の彼を立てる」という構造になってるのよね。何も考えず親の受け売りで武器製造して、裏切るような人間も中枢まで引き入れてしまって、とにかく旧トニーは間抜けなのね。オジさん(ステインだっけ?)に裏切られることで初めてその過ちに気付かされて、過去の罪を帳消しにするために戦い始める……という。助けてくれた医者の名前がinsane(狂気)というのも踏まえると、自分を追い詰めるのもそこから自分を目覚めさせるのも、同じ過去の"汚点(stain)"という構成になっていて、かなり分かりやすいマッチポンプの体を為している。
……というか、あの映画の良さである「兵器的存在(アークリアクター)は自分一人が背負えばいい」という落としどころは後に続く"クロスオーバー"とは全然相容れないものだと思うんだけど、敢えてやってるんだろうからどう繋げるのかちょっと気になるところではある。
それはさておき、この「どっちが悪いとも言い切れない感じ」……分割不可能性とでも言うべき概念はAIものではどうやらよくあることのようで、以前見た『2001年 宇宙の旅(A Space Odyssey)』『マトリックス』でも描かれていた。
絶対にミスをしないと言われていた人工知能9000シリーズのひとつ"HAL"が、宇宙での有人任務中にたった一度だけ、些細なミスをするのね。それに不信感を覚えた人間は、壊れたかもしれないHALを停止させて、彼に任せていた仕事を全部マニュアルに切り替えての任務続行を画策するんだけど……みたいな話。そもそもHALをつくったのは人間のはずなので、最初のミスというのは人間のせいでもある訳よ。と同時に、やはりHALのミスと言うこともできる。
この、密接に絡み合っていて「どっちが先か」を判断できない、合わせ鏡のような因果関係の表裏一体さこそが、広義の"親子関係"を描く作品群を見る上で最も重要なキーポイントだと思われる。妊娠中の母親は、まさに字義通り「一心同体」だ。また未成年者の行為の責任は保護者がとることになるのも同じこと。
自分と他人が溶け合って、"わたし"でありながら"あなた"でもある。これは最近何度も言っている、梵我一如的な世界観だ。親でありながら子、人間でありながら花であり、東京でありながらアメリカでもある。そんな多重的な意味のミルフィーユ。宇野さんが『リトルピープルの時代』で言ってた、拡張現実の話とも近いかもしれない。
なるほど、こう書くとメタ認知の話とも通じてくるものがある。自分が自分でありながら、そんな自分を"客観視"する、即ち"わたし(主体)"ではない"あなた(客体)"として自分を見つめる行為(Cogito ergo sum)。それが我々の自己認識だ。
このゼロとイチだけでは記述しきれない、ゼロでもありイチでもあるダブルスタンダードは人間の意識の本質であり、"変身"を描く作品が取り組むべき宿命的な主題でもあるのではないか。
脇を固める要素は色々と変わってるからそこはいいんだけど、或人と天津のやりとりは昔からなんにも変わらず平行線なので、普通にもう飽きた。「力関係としてサウザーに勝ち目がないから」ってのとはまた違う。滅と同じようにサウザーもラーニングによって強くなることは可能だから。だってそもそも人工知能って人間を模して作られてる訳だし(事実或人は強くなっていた)、サウザーシステムにもAIは使われてるだろうし。
「天津許せねぇ」ってのはもう分かったからはやいとこ次のステージに進めよって話ね。
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