やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

仮面ライダークウガ EPISODE2「変身」 感想

キャラクター

 五代雄介
・苦手
相手があの化物でも、殴るのは嫌なんだ(03:19)。すごいな……正義のためなんておためごかしじゃなくて、自分が生きるためっていうエゴであると認めながら、それでもやっぱり罪悪感っていうか、そういうのはあるんだな。
これがグロンギに対する同情なのか、グロンギ関係なくただ殴るという行為が嫌なのかによって、大きく意味は変わるけれど。

・リアリティ
ちょっとした子供の話し声から様子を見に行く(07:29)とか、まさにヒーローって感じ。頼りがいがありすぎる……。
でも、さも当然のように不法侵入してたのは笑っちゃった。高寺さんはインタビューにて"番組内特殊暴力"という言葉を使ってるけど、これって結局のところ「リアリティの追求に対する(意図的な)敗北宣言」なんじゃないかとも思うのよね。意図的ということを強調するなら"妥協"という表現になるかな。
クウガって世界観こそリアル寄りだけど、登場人物に関してはすごく嘘くさい」と昔の僕は言っていた。五代のような浮世離れした"いい人"の存在は、むしろ現実味がない。
今回ライフルを勝手に持ち出した一条さん(特別篇 50:20)もそうだが、誰かの笑顔のためという「動機の善性」と、暴力をはじめとする「行為の悪性」を背中合わせにするマキャベリズム的な描き方は、どちらも"非現実"的であるが故のことなのだろうか。
僕は性善説と同様、極端な性悪説も嘘くさいと思うのよね。ほとんどの人はきちんと罪悪感みたいなものを持っていて、私欲を剥き出しに騙し騙されなんてことは日常において滅多にない。
或いは、そういったヒーローもののもつ根本的な非現実味(極端な悪と、極端な善)を真っ向から描くために、世界観のリアルさでコーティングしているのか?

・怒り
グロンギに父(夏目教授)を殺された実加の涙を見て、壁に"拳"を叩きつけていた。これ、怒りだよね。後ろの炎(五代が乗ってきたバイクが爆発し、大火事になった)も相まって、かっこいいというよりは、少し怖くなった。グムンに勝った後に流れるBGMも、なんだか切ない。


 一条薫
・必死さと遊び心
軽率だと責めながらも、一人の市民として五代のこともちゃんと心配してるの、とても好印象(05:18)。
「中途半端に関わるな(13:04)」ってのも、裏を返せば一条さんはそれだけ本気で向き合ってるってことの説明にもなっててうまいなぁ。
"義務"という言い回しも、ゼロワンを見ている今だとまた違った見え方をしてくる。
AIが仕事を肩代わりするようになると、人は働く義務から解放されるという。これの問題点として「文明を発達させる推進力の低下」がひとつ挙げられる。単純な話で、やらなくても生きていけるのなら何事に対してもモチベーションというものは下がってしまう、ということ。今娯楽が重要な位置にいるのは、その反対の労働で溜まった憂さ晴らしという側面がそれなりにあるだろう。その反発力なくして、人はやる気を捻出できるのかどうか。
子供の頃のように「どうでもいいこと」を面白がる心を取り戻すことができるかどうかが、鍵になるのかな。

・独断専行
目撃者の話を聞き教会へ向かうが、なぜたった一人で? そもそも敵うはずがないから周りを巻き込みたくはないが、自分はじっとしてられないから例え無駄死にしようとも行く……ってことだとしたら、相当ヤバい。
ラブラバが緑谷のことを「手を壊しながら戦ってたクレイジーボーイ」と称していたのが"まさに"って感じで好きだったんだけど、それと似ている。あ、ヒロアカの話ね。


 沢渡桜子
・"変身"の意味
「変身したまま戻れないかも(02:54)」って、そうか、全く無知だとそういう発想になるのか。自分が思ってたより"お約束"として流してることって多いんだな……。
「変身」という行為は仮面ライダーにおいてかなり重要なファクターであることは間違いないので、その意味するところはしばしば考える。今のところの結論は「戦うという意思表示」だ。気合いを入れて叫び、時に長ったらしいポーズまで取ることには、偶発的なものではなく、それが明確に"自分の意思"によるものであることを強調する意味がある。
1号はその辺かなり曖昧で、バイクに乗ってることこそ彼の意思だろうけど、長い映像で徐々に、それこそ表現するなら"自然と(自ずと)"変身するのよね。実際にそういう意図があったかとは関係なく、後に本郷も変身ポーズを取り始めたことは「改造された体を受け入れ、自分のものとして納得した」ことの現れと捉えることができるかもしれない。
また、ポーズをはじめとする派手な演出を加えることは「変身の特殊さ」……即ち変身後の仮面ライダーとしての姿が「特別で一時的なもの」だと訴える役割も持っている。
グロンギオルフェノクの変身は「本性を表す」感じがするのに対して、仮面ライダーはあくまで人間態こそが「本性」であると示すことで、人間のコミュニティに居続けることができる。
紘汰が鎧武の姿で日常を過ごしている映像に対するある種の"気持ち悪さ"みたいなものは、おそらくこの感覚に端を発しているのではなかろうか。
本当に最善を尽くすなら常に変身している方が隙を狙われるなんてことがないはずなのにそれをしない、ゼロワンの不破達が火災現場に突入する際に変身しない……みたいなことには、こういった社会的な要因が深く関わっているように思われる。


 グロンギ

・乱入
グムンどっから出てきた。びっくりしたよ、急に出てきてやられるんだもん。
特別篇では少しゴオマと喋ってて随分マシになってるけど、本編だとまるで大した知能のない再生怪人かのように見えてしまう。

・半端者
なるほど、覚悟を決めた五代に対しての、どっちつかずのコウモリ野郎としてのゴオマなのか。戦闘をグムンに任せて逃げ出したことがそれを顕著に表している。
光に弱いというのも吸血鬼あるあるとして流してたけど、その文脈で見ると"照らされて白黒ハッキリする"ことが苦手、という風にも捉えられる。この前言った"アギト的な理解"ね。

(参考:仮面ライダーゼロワン 第22話「ソレでもカレはやってない」 感想)

 

設定

・一貫性のなさ
1話ではベルトが入ったときに五代の服が破けていたが、出てくるときにはそういった様子が全く見られない。物質再構成能力の賜物だと捉えればなんとでもなってしまうので矛盾というほどではないが、五代が自らの意思でそこまで力を制御できているとはとても思えない。アマダムが気を利かせてくれた……というのはどうにも突飛な気がする。「アークルがお腹に吸い込まれる」ことをCGで表現するのが難しかったが故の演出だったのだろうか。でも出てくるときは普通にCGだったしな。
ゴオマも不気味さを出すためにわざとやってるのか、文字通りワープしているかのような動き(15:52)をしていた。グムンの時は最低限の理屈が通ってたけど、今回は通そうとすると一条の目を節穴にするしかない。なんだそれ。

・ゥ
五代は覚悟を決め、赤のクウガになった。だが、暴力をふるいながらも殺しはせず封印してきた先代リクが赤い姿になれていたのは何故だろう。それこそ"中途半端"というものじゃないのか。
ここで重要なのはあくまで戦う意思であって、それこそさっき言ったような気合いを入れた「変身」が必要だったとか、その程度の話なんだろうか。

・なんで爆発するのか
前から思ってるけど、「封印エネルギーがグロンギのベルトに伝わって爆発する」って全然説明になってないよな。
調べたところゲゲルの時間切れで爆発することもあるそうだけれど、それがどうして封印エネルギーとやらによって作動するのか分からん。
特別篇は翻訳してる人がいないので合ってるか分からないけど、グムンのセリフ(57:45)は文脈からすると「まさかラガバこんな馬鹿なことがボンバダババボドグ……割れたパセダ」だろうか。パセザにしか聞こえないし直後の"クウガ"とも繋がらないけど、それだと「われはクウガ、殺してやるクウガ」で意味が分からない。それよりは「〜割れた! クウガ……殺してやる、クウガ!」と区切ったほうが自然に思える。文字単位ではともかく、グロンギ語のイントネーションやアクセント,区切り方などが日本語に直すとき割と適当なのは、聞いてればなんとなく分かる。
ここからどうにか読み取れるのは、ベルトが割れたことと爆発(≒死)が何かしらの連動をしているらしいということと、クウガによってそれが引き起こされるのは彼の知る限りこれが初だということ。
つってもこれだけじゃよく分からないままだけど。
ブウロの描写を思い出すと、逆に言えばベルトにさえ届かなければ爆発はしないはずで、となると先代のしていた封印というのは、ベルト以外の部分にだけエネルギーを入れていたということになるのだろうか?
もしわざとベルトを"避けて"いたのだとしたら、「殺すという概念がなかったから殺せなかった」という理屈とは噛み合わなくなる。「殺しを避ける」という発想のためには「殺す」が先立ってある必要がある。
とするなら、物理的或いは技術的にベルトにまで到達させることが"不可能"だったにも関わらず、五代はそれができたということになる。これについてはまぁ、それこそ殺すほどの思いがあったからでなんとなく分かるけれど、ちょっと待って欲しい。
そもそもグロンギクウガと同じく霊石ゲブロンのベルトをつけた人間のはずで、リント達もクウガを利用できる程度にはそのロジックを理解していたはず。だとするなら、何故「ベルトを攻撃する」という発想に至らないのだろう。
それが正しいかはさておき、メモリブレイク的に「ベルトが壊れ元の人間に戻る」ようなことが起こるとは、誰も思わなかったのだろうか。むしろベルトに侵食された"元人間の体"をわざわざ選んで攻撃する理由ってなんなのか。
説明したつもりで新たな謎を生んでしまうのなら、"中途半端"に説明なんてしない方がいいのではないか。


演出

・燃える教会
サンマルコ(聖書の著者聖マルコ)については少し調べた程度じゃ本編と関連付けられるようなキーワードは出てこなかったけれど、教会というのはなんとなく分かる。
少なくとも僕が連想するイメージは「許し」。キリスト教では神父に自らの罪を告解し、許してもらうという文化がある。日本人にも伝わりやすいところで言うと『ホーム・アローン』の1シーンが挙げられるだろうか。ケビンとおじさんが教会にて出会い、互いの後悔(家族との不和)を告白しあって、決意を固めるところ。あんな感じ。いや、実際にそうなのかは知らないけど、僕はそう捉えてる。
その象徴たる教会を炎上させながらの変身が示す意味とは「五代が振るった暴力は許して貰わなくてもいい」だ。
許しを貰って心の平穏を取り戻すことなく、その罪を背負い苦しみ続けることの表明に他ならない。

・日の出
空の色は制作陣にはコントロールできないので、昼と夜の区別くらいは簡単にできても、夜が明け白む空の中で戦闘シーンを撮るのは、いつも以上にリテイクができなくなって難しいものと思われる。それを解消するためなのか、夜が明けている途中は終始建物の中で戦闘し、外に出ると既に太陽がのぼりきっている……という工夫がなされている。
なるべく日の当たらないところに行きたいというのは作中のゴオマの心情としても理解できるし、膝を打った。
そうは言っても、その後のグムンと戦う映像を見て「明けたばかりにしては太陽が高過ぎるだろ」と若干の違和感を覚えたけれど。

 

 

なんか、すっげー今更だけどさ、"未確認生命体第◯号"っていう呼び方が、昭和の仮面ライダーを1号,2号って呼んでたものを意識してるんだって初めて知ったよ。
この1,2話では一貫して、"敵を殴ると徐々に変身する"という演出がなされている。暴力を振るうとグロンギと同じ存在になっちゃうってことに見えた。"見ててください"ってのも、自分の正義が暴走しないか見張っててくれ、みたいな意味に聞こえたり……穿ち過ぎかな。暴走してるか判断するのが暴走し気味な一条さんでいいのか、とも思うけど。

 

クウガ感想一覧

前話
仮面ライダークウガ EPISODE1「復活」 感想

次話
仮面ライダークウガ EPISODE3「東京」 感想