やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

仮面ライダークウガ EPISODE1「復活」 感想

クウガの各話感想です。ここ数年の作品が自分的にあまり見れたものじゃないので、まだ昔に一度見たきりの、平成初期の作品を見たくなったんですよね。遅かれ早かれ、最終的にはこのブログに平成ライダー全作品の感想がある状態にしたいなぁと思っているし。全話につき1記事書くかはまだ未定。2,3話分まとめるかもしれない。
途中にちょろちょろある数字は、特筆なければ話題にしているシーンのTTFCにおける位置です。2020年から追記を開始しました。

 

目次


キャラクター

 五代雄介
・なりたい自分
初っ端のシーン(03:30)、すごいなと。大人が子供に語りかけるとき、大抵どこかに上から物を言うようなニュアンスが入ってしまうんだけど、当人が子供の頃の話をすれば、同じ目線に立てるんだね。この間、高寺Pの話を読んだんだけど、子供に対する向き合い方がすごく真摯なんだよね。というか、たぶん何事にもそうなんだろうけど。カメラ目線で語りかけてくる演出も良い。
ジャグリング(娯楽)を利用して一人ぼっちの恐怖から目を逸らす(現実逃避)という行為自体も、"テレビ番組"のヒーローとしての本質を突いていて印象的。
それでいて、今後50話に渡ってずっと重要な意味を持つ部分でもある。彼が見せる笑顔の真意を、一番最初のセリフにぎゅっとまとめてある。明言してないとは言えこんなに分かりやすく描いてくれてるのに、自分ってば さらっと流して見てるんだもんな。もったいなさすぎる。
自分を投影して語りかけてるのが迷子ってのも意味ありげ。親を殺して由緒を失った仮面ライダーは、まさに迷子だと言える。

・野生
五代は、現代人の中では実はむしろグロンギに近い存在として描かれているフシがある。
大学の壁を登るシーン(05:33)に顕著だが、彼の野生的,冒険的側面は、理解不能で"不気味"なものとして描かれている。
五代「ここの校舎『のぼってくれ』って感じしない?」
沢渡「しないですぅ」
日本における"常識"がある人と五代は、決定的に「見えている世界が違う」のだ。
実際、現代人にとって自然はもはや不自然、非日常的な存在だよなぁ。僕はこの前、自転車めちゃくちゃ漕いで疲れたから、ふかふかの土と草の上で寝るなんてことをしたけれど、今では布団やベッドで寝るのが"自然"だもんな。外で寝るってことに対して人が抱く嫌悪感というのは、生命の歴史を考えればそれこそ不自然なことのはずなのに。
また調査隊が殺される動画を見る際(12:15)も、沢渡さんの方がはやく耐えられなくなり目を逸らしていたのに対して、五代はそれに気付いて少し驚き、自分も真似するように視線を外した。冒険することを"命知らず"と表現することがあるが、彼にとって死は常に隣り合わせの身近なもの(少なくとも現代人よりは)なのだろう。グロンギがただのゲームに簡単に命をかけてしまえるのとも通ずるものがある。普通、建物の壁を登るなんて危ないことはしない。

・考古学
桜子さんの大学に寄って、その後すぐ九郎ヶ岳遺跡に行くつもりだったらしい(06:30)んだけど、なんで? 個人的な興味……かな。沢渡さんと仲が良いのは、大学時代に似た分野を勉強していたからだったりするんだろうか。

・覚悟
死の危機を感じての、正当防衛的な変身だったね。予告を見る感じ、確固たる意思を持って変身すると赤くなるのかな?(16:30)

 

 一条薫
・ 偉そう
公務執行妨害で逮捕するぞ」って、これ脅迫だよね。調べてみたところ、公務執行妨害というのはドラマで使われてるほど幅広いものではなくて、あくまで「暴行・脅迫」というかたちで妨害を加える行為について適用されるらしい。
じゃあ五代がそれにあたることをしたかと言えば、思い当たるのは「死の警告」という発言が脅迫に該当するどうかってくらいだろうか。掴まれた腕を無理やり振り払うだけでも駄目らしいけど、劇中では亀山がびっくりして自然と手を離している。
むしろ暴行(足をすくう)や脅迫をしてるのは一条さんの方じゃないか。邪魔なのは分かるけどさ。
昨日街中でパトカーがサイレン鳴らして走ってたんだけど、最初は「止まって止まって!」って言ってたのが、次第に「止まれ! 止まれって言ってんだろ!」と口が悪くなっていったのよね。
そりゃあ止まらない方が悪いのは大前提だけどさ。
「自分は正しいことをしている」という思いのせいで心の箍が外れてしまっているのを見ると、なんだかなぁと思う。単純に焦ってたってのもあるんだろうけど。

マキャベリスト
前述に加えて、正規の手続きを踏まずに証拠品の鑑定依頼をしている(12:45)。
ここから分かるのは、彼の「正しい目的の為ならば多少汚い手段も取っていい(或いは取るべき)」という価値観だ。
公務執行妨害というのはあくまで妨害される公務が適法なものであったときに限り成立するものなので、道理で言えば、ルールを破る一条さんのような人にその罪を咎める資格は与えられていない。
これらの描写から、後半でヘリコプターを出動させてたのも、実は必要な手続きをすっ飛ばして無理やりゴリ押したんじゃないかと疑ってしまう。いいのか、それで。リアリティってそういうことなのか。

 

 グロンギ
・ベルト
ン・ダグバ・ゼバ? がアークルを叩きつけたらしいけど、なんでだろう(11:58)。壊せないのか、使える人間がいないと思ったのか。
リントの中でもクウガに変身できる人はかなり稀だったとかで、また出る訳がないと思っていたのかな。

 

 

設定

・集団戦?
冒頭の回想シーン(00:10)にいるのは、Wikiによるとグムン,ゴオマ,バヅー,ザイン,ダグバの5人だそうだが、何故大人数で戦ってるのか、何故このメンツなのかと、謎が多い。いや、普通に考えたら「現状スーツがある奴」ってだけなんだろうけど、リアルを謳ってたらそりゃ気になるよね。
「なんで敵怪人は一体ずつ出てくるの?(笑)」に対する理由付けとして「そういうルールのゲームだから」というのを提示したのが今作だったはず。何故そういうルールなのかというのは、ラ集団が監督しやすくするためだと解釈できるが、そもそもグロンギって復活した個体だけでも200近くいるらしい大所帯なのに、同時進行の発想がないってのは不思議だな。何かの儀式というか、神聖なものだと捉えられてるなら一回一回を大切にするのも分かるけれど、ただのゲームでしょ? 人間の感覚だと効率を求めそうなもんだけど。
単純に、自分がゲゲルに参加できなくなってまでラを務めようとするグロンギが少ないのが原因だったりするのかな?
話を戻して冒頭の集団戦だけど、ニコニコ大百科には「ダクバはグロンギを率いて、リントの国に侵攻」したと書かれているんだけれど、古代の彼らはゲゲルをしていなかったのだろうか。もっとも、ソースが示されていないので迂闊に受け入れられないが。
また戦ってる場所自体はどう見ても人工の祭壇である。ここがもし「グロンギの本拠地」で、先代クウガがそこへ乗り込んだのなら、メンツはともかく、多人数で戦ってることには納得の余地がある。なんとなく、東映特撮によくある敵組織がたむろってる場所に雰囲気が似てない?
逆にリントの祭壇なのだとしたら、やっぱりグロンギがルール無用で侵攻してたか、昔は多人数で戦うこともあるルールだったか。どちらも更に「何故?」と感じるけどね。

・謎の腕
OP直前(00:45)、クウガの棺に装飾品を付けた腕が触れる描写がある。発掘班はみんな手袋してるし、流れ的に古代での出来事だと思われる。「棺を閉じた人」だろうか? SICの公式二次創作では先代クウガ(リク)には五代と同様に妹がいたことになっているが、女性の腕に見えるし彼女なのかな。

 

 

演出

・禁忌に触れる
調査隊の人たちが棺に手を添えるところ(02:06)は"クウガ"って感じで笑っちゃった。演出家の呪いが解けて、何事もなかったかのように作業を再開する様子がなんともシュールで。
あくまで娯楽作品だから別に間違ってる訳じゃないんだけど、リアリティを重んじる一方でこういう誇張は良しとする心中ってのは気になる。ダクバに襲われて灯りが次々爆発する(07:12)のも意味分からないし。
・長野県、広過ぎ
駒ヶ岳インター付近(07:25/特別篇11:30)から九郎ヶ岳遺跡(08:25)に着くまで、なんと4時間半もかかっている。一瞬映ったあのパトカーが一条さんの乗ってたものとは限らないが、状況を訊ねているところから察するに着いて間もないものと思われる。
……なんで県内を移動するのにそんなかかるんだ?
仮に時速40kmだとしても、それだけあったら単純計算で180kmは進めるはずで、全長約200kmの長野県くらいは直線距離で端から端まで横断できる。しかも緊急車両でしょ? そもそも駒ヶ岳自体が長野の中でも端っこというよりは中央寄りの場所にあるので、そこから県内のどこへ行くにしても(九郎ヶ岳がどこにあるにせよ)全長の半分の100km程度しかないはずで、そんなにかかるとはとても思えない。早朝なので、道が極端に混んでるなんてこともあるまいし、わざわざ「道に迷ってました」なんて設定する意味も分からない。それならそれで、一条さんは「遅れてすみません」の一言くらい言いそうなもんだし。
信号機を使って五代と一条の立場の差が描かれていてオシャレなシーン(ただし通常版ではカットされてる)なんだけど、そこが気になって仕方ない。
いやね、理屈で言えば、異常に早く着いてるならともかく、遅く着いてる分には"矛盾"とは言えないんだけどさ。前述したようにいくらでも理由は付けられる。でも単純に、僕は見ていて「え?」ってひっかかった。
これまでは時刻表示なんてスタッフがきちんと計算してるもんだと決めつけて"脳死信者"として見ていたんだけど、意識してみて見ると結構な違和感がある。
遺跡調査隊の人たちとか、ダグバに襲われる夜の11時までずっと(休憩はあるにしろ)あの辺で作業してたことになってるし。大学のフィールドワークかなんかだと思ってたけど、そんな遅くまでやることってあるの?
リアリティを追求するのはいいけど、こっちにも分かるようにちゃんと説明してくれないと自己満足でしかない。「自分には分からないけどきっと正しいんだろうな」なんて見方をしてたんじゃ、(少なくとも視聴者にとっては)その辺の他の作品となんら変わらない。

・ワープ
これは逆にいい意味なんだけど、暴れているグムンの様子から長野県警にパトカーが突っ込んでくるまでの一連のシーン(13:22〜14:44)は、場所の表示が分かりにくいのが面白い味を出してる。
元々五代達がいたのは「長野県警察本部」として表示されてるんだけど、グムンが暴れてるところは「長野市南長野」となっていて、全く違う表記だからある程度遠いところにあるのかな……と思わせておいていきなり「ガシャーン!」と来るので、視聴者をびっくりさせる演出としてうまく使われているのよね。後から調べてみると長野県警はきちんと南長野にあることになっているので、本当にワープした訳ではないんだけど、そう見える映像の妙。
グムンが暴れてる場所は「長野県警付近」とした方が前後の繋がりが分かりやすいんだけど、敢えてそれをしない。これには一本取られた。

・恐怖
最近の作品じゃあんまり多くない、明確に人を襲っている描写があって、久しぶりにちょっと怖いなって思った。パトカーから降りるとき、まず手からつくっていうのも気持ち悪くて良かった。どう見ても同じ人型なのに、根本的なところで何かが違うんだなって(14:45)。
あと、高いところで戦ってたのも怖さに繋がってた。吊橋効果じゃないけどさ、そういうヒヤヒヤが怪人に対する恐怖と連動してた。あれうまいね(27:24)。

 

 

モチーフ

クワガタムシと作物
名前の由来は"鍬形"という兜(これいかに)であり、頭部のデザインにするのはすごく正当な感じがある。食べるものは樹液が主だと考えると、意外と大人しい方なのかもしれない。顎による戦いも、基本的には"投げる"イメージが強いし。
更にもうひとつ遡ると、当然農耕具の鍬(クワ)に行き着く訳だけれど、五代が遭難したアンナプルナという地名はサンスクリット語で「豊穣の女神」という意味だそう。
ダクバが同胞を蘇らせる際(07:35)に赤や青のイナズマが発生する描写もあった。漢字で書くと"稲妻"だが、これは稲の収穫時期に雷が多かったことから、「雷が落ちるお陰で稲が実る(=稲のいい妻)」と考えられていたことによるものだったはず。
今はまだ点と点の状態だが、クウガと植物の関係性については追々話すこととする。

・十字架
pixivによると、先代クウガはおよそ2000年前の人らしい。封印の際の十字架ポーズ(00:30)も踏まえると、どうやらキリストをモチーフとしているのだと思われる。考えてみれば、文字通り「時代(西暦)をゼロから始めた」人だ。クウガの変身、武器の生成、自然発火などに応用される「物質を分子,原子レベルで分解し再構成する能力」なんて、言ってしまえばもはや神の所業だもんね。

・ゾンビ
グロンギが復活する様は、どう見てもゾンビのそれだった(08:10)。ディケイド版のグロンギが明確に"感染"するような描写だったのは、ここを意識してのものと思われる。
確かに、死体が綺麗なうちは死んだ気って全然しない(寝てるだけのよう)し、また起き上がるんじゃないかという恐怖の発想は結構共感できるものではある。
ただ、実際には「ゾンビ化」という文化は本当に死者が蘇る訳ではなくて、「はみ出し者や落伍者に対する社会的な死」というスティグマ的な意味合いが強いのだと昔聞いたことがある。
「伝染する」という感覚も割と日常的にあるもので、小学生時代なんかまさにクラスという社会における"嫌われ者"が、菌がうつるなどと鼻つままれているのを見たことがあると思うが、これはまさにゾンビの文化であると言えるだろう。
クウガにおいてはその菌が「自己中心的な理由で暴力をふるう者」だと。暴力をふるわれた者が他の者に暴力振るうという負の連鎖をイメージさせる。
また仮面ライダーシリーズにとってもこの文化は非常に興味深いものがある。
虚淵氏によると、制作スタッフの間では「怪人になってしまえばゾンビと一緒(だから殺しても何してもいい)」という言葉が何度も飛び交っているらしい。僕はそれまで「なんでゾンビなんだろう、既に死んでるから殺してもいいってことだろうか」と思っていたのだが、これは暗に「嫌われ者だから」という意味なのだと思うと、ゾッとするものがある。
通常ゾンビは知能の低いものとして描かれる傾向があるが、これも「相手にも心があり、考えたり痛みを感じたりするものだ」という、いわば心の理論(相互理解)の"放棄"を端的に表していると言えるかもしれない。召喚ライダーとも関連付けると面白そうだが、それはディケイドの感想で考えることにしよう。
確かフランケンシュタインの怪物も、博士がつくった死体に雷が落ちたことによって命を得たとかそういう流れだった気がする。こちらはむしろ知力や体力は優れていたものの、外見の醜さによって迫害されてしまったのだったかな。そういう意味ではショッカー怪人とも通ずるものがある気がする。最後は父の死に悲しみ火の中に飛び込んで自殺したはずなので、クウガのラストとも被る。いずれ見たいな。
また、先代クウガの"ミイラ"は、むしろゾンビとは逆の心象を抱かせる。あちらが鼻つまみ者なのに対して、「ミイラにして後世にまで綺麗な形で死体を残そう」と思ってもらえることから、かなり重要な人物であることが窺える。現在の悪霊的なイメージは、その人の価値を知らない後世の人間が付け加えたものだと思われる。
実際、代表的なミイラと言えばエジプトの王ツタンカーメンだろう。
宇野常寛さんが「差別的な民族虐殺の話」と評する気持ちも分からないではない。

 


テーマ

・墓荒らし
フィクションにおける科学者って、悪く描かれがちよね。
本作でもイカロス同様、彼らが興味本位で遺跡を荒らしたからグロンギが復活したという流れになっている。これから無数に出てくる犠牲者を思えば仕方ないのかもしれないが、彼らは全員自らの死をもってその罪を償わされている。
五代が劇中では冒険らしい冒険をしないというのも含め、好奇心は"抑制すべき悪"として描かれているようにも見受けられる。
また、これらの"墓荒らし"描写は、おそらくそのまま石ノ森章太郎氏の没後に仮面ライダーを立ち上げるクウガ制作スタッフの写しでもあるようにも思える。
「罪悪感はあるけどやっちゃう。自覚してるから許して」ってことなのかね。

 

 


正直に言うと、前に一度見た時の印象だとそんなに好きって訳じゃないんだよね、クウガ。高寺さん自身も言われたらしいけど、地味っていうか。その時の僕はまだエグゼイドを経験していなかったから、それこそ適当にというか、表面しか見てなかったんだよね。今なら楽しめるかなって、期待してる。

 

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