キャラクター
飛電或人
・勝負に賛成? 反対?
冒頭では、まだ訓練だとは言われてないにも関わらず受けて立ったのに、後半では「命が脅かされてるんだから勝負どころじゃない」と言っていた。これは矛盾に見える。
僕が思ったのは、まず「倫理的に有り得ないので、本当の現場で勝負するという発想がそもそも浮かばなかった」のではないか。口に出して確認するまでもなく、訓練に違いないと。
まぁ提案者が天津(それも弁護士対決の前科あり)なので本当に少しもその可能性を疑わなかったのかという疑念はありうるんだけど、一応社会的な体裁を気にする(面もある)人だしない話ではない。実際訓練だった訳だし。
似たような話として、前回或人がトリロバイトマギアになった奴らを爆破しているシーンがあった。或人の基本スタンスは「ヒューマギアは助けたいけど、助けられないなら仕方なく壊す」であるはずなので、それを信じている視聴者には「或人が直せるはずのヒューマギアを壊した」という発想がそもそも出てこない。これは僕がエグゼイドに対して散々言った「11話で永夢は黎斗を殺してるよね?」という話とも繋がってくる。永夢を信じている人は、彼が人を殺すとは思い至らないし、その見方を提示されてもなお擁護する。
今回の僕はそちらに回ろうと思う。
まず、既に述べたように「ハッキングによる暴走は元に戻せるが、本人の意志によるマギア化は戻せない」のだとしたら、あのトリロバイト達は救えない個体だったのかもしれない。
以前白倉さんが似たようなシーン(無数のアナザーアギトが爆発し消える描写)について、Twitterにて「彼らは画面外で助かりました」ということを言っていた。
Those who were Another Agitos returned to ordinary people outside the TV frame.
— 白倉伸一郎 Shin-ichiro SHIRAKURA (@cron204) 2019年4月26日
或人の放った"ファイナルスラッシュ"によって、特撮のお約束としての爆発は起こってるし、元に戻ったヒューマギア達も見当たらないけれど、制作側の認識としてそれでもなお助かっているつもりで描いてることがある。つまり助かっている可能性はある。爆破に紛れて画面外まで移動しただけってことね。死んでないのに爆発することはマジでよくあることなので僕は気にならん。
そんな際どいことする理由は単純で、素面ヒューマギアの描写を成立させるのに必要なものを用意するコストの節約と、敵を倒すという爽快感の演出。(児童誌にて)100人斬り!とか言ってて、明らかにそういう意図のあるシーンだし。
ここまで懇切丁寧に脳内補完してあげてもなお、シャイニングアサルトの状態で1体(以上)倒してる描写があるのは正直「手がかかるなぁ……」って感じなんだけど(擁護ならぬ介護でもしてるのか僕は)、改めてそういう目で見てみると、不破にオーソライズバスターを渡したことに思わぬ意味が発生してくる。
つまり、前回確立された「暴走前に戻すプログラム(?)」が既にホッパーブレード以外でも使えるようになっていて、不破に渡したのは「これなら(ショットライザーや必殺キックと違って)壊さずにマギアと戦えるからよろしく」ということだったのだと解釈できる。仮に不破が壊さずに済むことを知らなかったとしても、彼にとっては現状における最強武器であり使わない手はないので自然と救われるし、そもそも不破が壊すのは或人の責任ではない(と見なせる)。
我ながらなるほどなぁ。
……話を訓練の是非に戻すが、やはり僕は「実戦だったとして、それってそこまで駄目なことなの?」と思う。
そりゃあ、協力して救助に当たる(こともできる)のが最善ではあるけれど、ライバルがいた方が速く走れることもあるし、結局は悪い結果が出たかどうかじゃない? 下手に連携しようとして失敗することだって考え得る。
・自分で助けるべき?
ゼロワンとして火災に対応しろという声もいくつか見かけたけども、氷で消火ができるかについてはなんかできそうな気もするからさておくとして、これって簡単な問題ではないよね。
「門外漢の自分が介入することで余計に状況を悪化させるかもしれないのに、それでも自分で助けようとするべきなのか」というのは、至極まともな考えではある。
でもそれっていうのは、例えばマギア化騒動も本来ならば A.I.M.S. という組織に任せるべきなんじゃないかとか、飛電社の経営も引き受けるべきじゃなかったんじゃないかとか、そういうことにも繋がってきてしまう。
単純な話として、これらを分けるのは或人本人が「やりたい」と思ったかどうかなんだろうけど。より正確には、「悪い結果になった場合自分の責任になるかもしれないという不安よりも、やりたい気持ちが勝った」かどうか。
火災現場に関してだけ及び腰になること自体は、別に悪いことではないだろう。次回やるかもしれないし。
天津垓
・勝負の結果に意味はない?
今回はややヒューマギアに有利に見える勝負だが、まぁ第1回の生花対決が人間に有利だった(そして勝った)ので、フェアプレーの精神で説明は付くかなと。フェアっぽく見せることはイメージダウンを防ぐ目的に沿う。
まぁそもそもこの五番勝負、なくてもTOB自体はできるところを、その成功率を少しでも上げる(ついでにザイアスペックのプロモーションの)ためにやってることなので、実はZAIAが勝っても「株主は飛電を見捨てなかった」ということにすれば買収は成功しないし、その逆で飛電が勝っても買収されることはあり得るのよね。それで視聴者が納得するかはさておいて。でも実際、未だに飛電が潰れてない現状を思うとない話ではない。
そういう理由があるので、ヒューマギアに対するネガティブキャンペーンという意味で、マギア化はやり得というか、百利あって一害なしなのだ。いや、まぁ前にも言ったようにわざと暴走させてるのバレたらそれは害のはずなんだけど、あそこまで気にしてない以上、本当に揉み消せる算段があるんだろうきっと。
・100%?
迅が復活したこと自体は完全にシナリオ通りだけど何か違う部分もある、ということなんだろう。察するに、製作してたスラッシュライザーを持ってかれたこと、またそれによってアークに接続していないこと、かな。
人類滅亡以外の選択肢を考えられるようになったら、天津の望む"人類に対する驚異"としての役割は果たせなくなっちゃう訳だから。或人と仲間になることだって今なら不可能じゃない。
迅
・あの鎖……
どう見ても、おもちゃ屋さんでよくある試遊できるアレだよね。そのまま持って帰れないようになってるやつ。特に僕はあれでショットライザーを遊んで購入を決めた人なので、もうそうとしか。
簡単に外れたのでただのファッションなんだろうけど、"自由,解放"を表すために鎖をわざわざ付けてるの、前回話したマッチポンプと通ずるものがある。
ゲスト
・好色消防士と無能アナウンサー
救う相手が男か女かで明確に態度を変える消防士や、突然振られたからという理由でパニックに陥る(バカっぽい)女性アナウンサーの描写に対して「旧時代的な価値観に囚われている」との難色を示している人が多く見られた。
前者についてはいつものゼロワンというか、ただ"ギャップ"を駆使して後半の消防士達をかっこよく見せようという意図であって、つまり制作側の意図としては「訓練だからあんな風にふざけてたけど、実際に被害に遭っていれば平等に助ける人」として捉えて欲しいんだろうけど……あれを例えば"公私"がハッキリしてると捉えるのは流石に無理がある。どっちも仕事中でしょうと。
でも逆に、人間そう簡単に平等にはなれないよとも思う。
常日頃から趣味のように「あの子はかわいい」だの「あれはブス」だのと人を評価している男や、勤務中に「あのハゲ親父マジでキモかった」などと愚痴る女を僕は見てきた。そこまで悪し様でなくとも、ほとんど平等な2人の要救助者を前にどちらかを優先しなくてはならないとき、絶対に好みが出ないかと言えば、それは難しいだろう。本当に自分の意思とは違うところで判断したいなら、コイントスでもして決めるしかないけれど、それこそなんだか不謹慎だ。
「命を賭して人を救う」なんてこと、やって当たり前じゃない。救えないことをマイナスと捉えるのは厳しい。誰か一人でも救われるならそれはいいことだと、今の僕は思う。
仕事なら対価を貰っているのだから果たすべき責任があるというのも分かるが、給料は後払いなのだからこれは順序が違う。働いた分だけ雇用主に金を払う義務が発生するのであって、前借りでもしない限りその逆はない。
「給料貰えなくていいからやーめた」「辞めさせられてもいいから適当にやろ」と仕事を放棄する権利は、誰にでもあるのではないか。
(参考:ニートによる「仕事論」)
アナウンサーの方に関しては、正直更に厳しい。
「火災現場を前にして取り乱すな。冷静でいられないなら無能だ。女性をそんな無能として描くなんて許せない」って、無茶苦茶でしょ。いや、冷静でいられる人はすごいと思うけど、それはその人がすごいのであって、それができない人を責めるのは違うんじゃないかと。新人だったのかもしれないし、火災関係のトラウマがあったのかもしれない。
ぶりっ子を演じているようにも見えるが、もし素であぁなのだとしたらむしろ可哀想だな。めちゃくちゃ見え方悪いよ。僕の心が汚れてるだけかもしれんが。
アホな女性がいることの何が悪いんだ? 「(物語の中の)女性は全て、既存のジェンダーを肯定する道を選んではいけないし、聡明であり、活躍していなければならない」って、どんなディストピアですか。
スイーツ云々も「予想外のことでパニックになってる」演出の一部だろう。"スイーツ"って部分と、その後の"頭悪そうな感じ"を、彼女個人じゃなくて女性全体の特徴として描かれてると捉えてるのは視聴者の方であって、制作側がどういうつもりで入れたかは現状分からないので責めようがない。
僕がクウガに対して「かっこよくて尊敬できる人ばかりで、息苦しい」と感じたのと似ている。「女性をアホに描いているのが名誉を傷つけるので悪い」という主張そのものが、現実にいるかもしれないアホな女性に対する侮蔑だよね。アホで何が悪い。「スカートを履きたいので、私は性同一性障害、つまり心が女性なんだ」というロジックそのものが、「男性はスカートを履いてはいけない」という価値観を元にしているのとも同じ。
要するに僕が言いたいのは「不愉快だったなぁ」ってだけなら別にいいと思うけど、「制作陣許せねぇ」ってのは早計でしょと。
僕はこれまでのゼロワン見てきて、既存の倫理観への問いかけは意図的にやってる部分が多いと思ってるし、これもジェンダーバイアスなしで見ることを要求してるだけに見える。
(参考:トランス女性(MTF)は女風呂に入れる?/性別とは一体何か)
設定
・ザイアスペックの有用性
本編ではあんまり実感することないけど、その理由って明快だと思うのよね。
すなわち「基本スペックで言えばヒューマギアの方が圧勝に決まってるところを、互角以上にまで持っていく為の舞台装置」がザイアスペックであって、その"良さ"はこれまでヒューマギアを使って描いてきたものとほぼ同じなので、わざわざピックアップする価値がない。しかも天津は(ヒューマギアよりは)人間の可能性を信じている立場なので、ザイアスペックの描写はあくまでサポートにまわされる。描きたい構図はAI vs 人間であって、AI vs AIではない訳だから。
1回戦が生け花だったから分かりにくいけど、例えば不動産対決において顧客の求めてるものを探す為に、ライズフォンに含まれてる「公開可能な全データ」を閲覧,処理できるというのはAIだからこその利点だろうし、それは裁判対決においても同じこと。
人が口で望みを伝えようと思ったらかなりの時間がかかるところ(書類にまとめるならなおのこと)を、データという形で普段から記録しておけば、ライズフォンをかざすだけで複製も転送も容易にできる。
でもこれらの機能はあくまで「人間がヒューマギアと対等のリングに立つため」に使われ、その上で浮き彫りになる"人間らしさ"こそを描く。だからこそ、ザイアスペックの有用性が犠牲になろうとも、1回戦は芸術分野での対決だったのだろう。
レイドライザーによって負の感情が増幅されてるというのは、平成2期でよくあったロジックだ。メモリやスイッチの毒素ってやつ。「風都の女はみんな悪女」なんて冗談はよく聞くが、ゼロワンのゲストの扱いもそれらとそう差はないように思う。「現実にはこんな悪い人なかなかいないよ」と思うけど、「ドラマに出てくる強調された人」としては十分理解できる。
・守るべき自分
それを踏まえた上でも、今回の描写では「人間に見つけられなかった要救助者をヒューマギアが見つけた」かのように見える。
これは単に、「同じだけの分析力があってもどこに注目するかは人によって違う」ということでいいのかね。
要は、119之助が心肺停止の人を見つけられたのは"たまたま"に過ぎないと。完全な偶然と言うよりは、穂村が最初に目に入った一人の対応をしてたから、彼に他のところを見渡す余裕ができた、みたいなことでもいいと思うけど。
問題なのは、その後の判断の相違。
穂村はザイアスペックが出した結論を無視したのか、それともザイアスペックもその結論を出したのか。
もし後者なのだとしたら、考えられる可能性がひとつある。
『日々救命の現場で働く看護師や救命士であれば、典型的な場合の迅速・確実な判断ができると思われるが、医師のような正確な診断は困難と思われる。「黒」はすなわち「死亡」「助けられない」として切り捨てる判断そのものであり、死亡の診断を下すことが法的に許されていない救急救命士がトリアージで「黒」を付ける決断が難しい、特に善きサマリア人の法が存在しない日本では誤った判断をした場合に重過失とみなされ法的責任を負う可能性がゼロではないため、心理的な負担が医療関係者以上に大きい等の問題がある。』
ザイアスペックはあくまで人をサポートするためにある(そしてヒューマギアよりもその側面が強い)機械なので、"穂村の立場"を考慮した上で、見過ごすのは悪手だという結論を出したのかもしれない。
119之助には「守るべき自分」がない、という問題については次回扱われるようだし、意図的にそういう演出になっていてもおかしくない。
一方的にどちらが正しいという話ではなくて、実際穂村の判断によって他の助かる人が助からなかった可能性は十分にある。でも、どちらの人だって誰かにとってはかけがえのない人かもしれないし、ひょっとすると、Aさん一人を見捨てた結果B,Cさんの2人を助けられたとしても、B,Cさんは生きてても誰も喜ばないクソニートで、反対にAさんは社会的に重要なポストにいる価値のある人かもしれない。
結局誰かは死んでしまうのだとしたら、どのような決断をしても「本当に良かった」とは言えない。
だが、「目の前の命が助かった結果」を見てモブと同じく「よっしゃ!」と思ってしまった僕に、彼を責める権利はない。
仮に来週協力して窮地を乗り越えた場合、"引き分け"ということになるのだろうか。すると飛電に勝ちはなくなる訳だけれど、まさか白黒つけるためにもう一戦とか言わないよな。ただでさえ不評なのに。
僕はどっちでもいいけどさ。
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