やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

仮面ライダーゼロワン 第25話「ボクがヒューマギアを救う」総集編 感想

キャラクター

 飛電或人
仮面ライダーゼロワン
令ジェネの記憶については以前にも言ったように、「出来事そのもの(アナザーゼロワン,1号や1型達が起こした事件)ではなく、そこから学んだこと(仮面ライダーとは何か)だけ覚えている」という解釈をしている。
基本的には勝ち負け(引き分け)に関係なくソウゴの胸ひとつでどうとでもなるので、完全に覚えてても特に矛盾はないはずだけど。
・武器の共有
アタッシュカリバーやオーソライズバスターなど、本作では結構持ち物をやりとりする描写が多い印象だけれど、これらもテーマのひとつである「曖昧な自他の境界線」を表していたんだな。
もう少しスパッと表現するなら、ガイア理論的な共同体思想とか。

 

 不破諫
・「俺は俺だ」というトートロジー
同義反復というのは、発展性がない代わり常に正しい。
上に挙げた「俺は俺だ」というのは代表的かつ分かりやすいが、「ホモ・サピエンス・サピエンスは人間だ」みたいなものもまぁ一種のそれだろう。
「人とヒューマギアが笑える未来のために戦う、それが仮面ライダーゼロワン」のような"言い換え"型の説明は、本当に同義であるなら発展性を持たないが、聞き手側に理解度の差がある時は意味をなす。
そして不破の場合、序盤にあった「ヒューマギアを1つ残らずぶっ潰したい人」という特徴は現在消えてしまっている。このテキストでは"不破諫"を説明しきれていないのだ。そもそも、デイブレイク以前の彼とも矛盾し得る。
"仮面ライダー"という名前の持つ意味の変遷とも同じで、これに対して「最初に言ってた定義と違うじゃないか」と不平を言うのはナンセンスである。
現在アップデートされた情報をなるべく要約すると「不破諫とは、デイブレイク時の経験からヒューマギアを憎み、 A.I.M.S. の隊長となった後に仮面ライダーバルカンとして戦っていたが、ヒューマギアに命を救われたことがきっかけで多少態度が和らぎ、たまに怒りが爆発するときもあるが、基本的には或人とうまく付き合ってる人」ということになる。
このような"網羅的"な説明をいちいちしていては時間が足らないので、トートロジーが使われる。
要するに「『仮面ライダーは悪の力を正義に使う』みたいな一言二言の説明で分かった気にならず、生き様そのものを見ろ」ということ。
無数の事象から根底にある法則性を見出そうとするのも決して無駄ではないが、事実こそがすべてなのは、どれだけ嘆いても変わらない。
事実を元に解釈を変えることはできても、解釈を元に事実の方を歪めることはできないのだ。
"不破らしさ"は彼の行動ひとつひとつが現在進行形でつくりあげていくものであって、過去に縛られることはない。「これまでヒューマギアが憎かったからこれからもヒューマギアが憎い」とは限らず、自身の変化を受け入れる表明としてのトートロジーであると言える。

(参考:"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として)

 

 天津垓
・垓の底知れなさ
「AIが仕事を奪う」ことの意味を、改めて考えてみた。
人はおそらくより快適な暮らしを求め、仕事に限らずあらゆることを娯楽化していくだろう。
「しなくてはならないこと」は機械の役目となり、人は「やらなくてもいいこと」に精を出すようになる。
例えば、今の世ではめんつゆが売ってるので、わざわざ出汁をとる"必要性"が薄い。チャーハンなどの料理も、素を使えば簡単にできてしまうので(更にもう少しお金を出せば完成品を買えるので)、自ら醤油などを駆使してイチからつくるのは、多くの人にとって面倒なはずの工程そのものを目的とした、趣味や娯楽の範疇にあると言っても過言ではない。少なくとも僕は、料理をするときはそのような感覚でいることが多い。
更には完全食の開発が進められていることから、食事そのものの必要性も減少しつつあると考えてよいだろう。サプリひとつで済む時代が来るかもなんて言われているが、そうやって本当の意味で人が必要性から解放されていったとき、我々は尊厳を維持できるのだろうか。
「働かなくていいなら働かない。必要なことは全部機械がやって欲しい」という怠惰の道を進み、わざわざ求めなくても全てが与えられる世界になってしまったら、人は求めることをやめてしまうのではないか。
ファイアボール』にも似たような話があった。ヴィントシュトレ卿による完璧な統治(曰く、あまねくカモにネギが埋め込まれ、かゆいところに手が予め存在しているほど)により、人は言葉を失ってしまったと。
僕が恐怖を覚えたのは更にその先、『PSYCHO-PASS』におけるユーストレス欠乏症のような状態だ。生命維持に必要なことが全て自動で行われるようになってしまってもなお生き残るだけの力は、娯楽にはないように感じる。望むだけでドーパミンやらなんやらの"快楽"が与えられるとしたら、漫画やアニメに興じる意味もない。
子供は自らを締め付けるベルトを欲しがる。外した時の解放感を求めているととるか、締め付けられることを直接望んでいるととるかは分からないけれど。
人は不自由であることを望んでいる。
完全な自由とは、何も生まれない無の世界。「生きる」とは、また「在る」とは、無意味だろうと何かを生み出し波風を立てることに他ならない。
『ふぇ』というゲームがあってね。その解説がこのことを非常によく表している。該当部分は3:00から。

www.youtube.com「生きたい」とさえ思わなければ、あらゆる苦悩は生まれない。何故我々は、ずっと前から命のバトンを繋ぎ続けているんだろう。
きっと意味なんてない。ただ盲目的に、"何か"を維持し残そうとしている。
僕は最近の、ダイエット商品を売る為に太っていることを執拗に攻撃する広告が嫌いだ。太っててもいいし、ニキビがあってもいいし、フケがついててもいいじゃないか。
当然、天津の言うことにも共感できない。
しかし、彼のマッチポンプ性というのは生命の本質を的確に突いている。このえも言われぬ虚無感は、敵役が帯びるものとして相応しいだけの恐怖を持っている。
さながらすべてを飲み込むブラックホールのように、底知れない。
最近トイレットペーパーが品薄というデマが話題になったが、少なくとも自宅においてはあんなもの、なくても大して困りはしないと思うのだ。最悪風呂にでも行って洗い流せばいい。
では何故ここまでセンセーショナルかといえば、人が持つ根源的な"不安"に辿り着く。
きっかけはなんでもよくて、我々が常に抱いている不安が、今回はたまたまトイレットペーパーを欲するというかたちで噴出しただけのように思える。
これについては、もしかすると個別で記事を書くかもしれない。
・兵器としてのベルト
今更だけれど、ショットライザー(とスラッシュライザー)は兵器としての側面を押し出してるからベルト自体が武器なのね。
じゃあなんでサウザンドライバーは違うのかと訊かれたら分からんけど。

 

 迅
・何故復活?
ヒューマギアは確かに復元が可能だ。だが「起こり得る」ことと「実際に起こる」ことはイコールでは繋がらない。
不破や或人の疑問は「誰が何の目的で」という意味できちんと成立している。可能性としてはイズの言った通りアークと、当然のこととして天津が挙げられるが、それを知った上でも「なんで今になって?」ということかもしれないし、「駒のひとつに過ぎない(誰でもいい)はずなのに、何故わざわざ迅なの?」ということかもしれない。何も不思議なことはないよ。
・迅らしさ
スラッシュライザーは形状がショットライザーに似ていることから推測するに、ゼロワンドライバーがゼア,フォースライザーやゼツメライザー(もしかするとレイドライザーも)がアークに接続されるのに相当する機能は、付いてないものと思われる。
すなわち16話以前の彼とキャラが違うのは、アークと文字通り"繋がって"いたときと比べて、"自立"した彼自身の個性というのがより出ている状態なのだろう。
16話以前の彼に個性がなかったということではなくね。滅やマギアとの差は明らかだし。
人は状況によって表に出す自分の側面というのを変える。アークに依存していた時に出していた幼児性も、今出ている大人びた感じも、どちらも"迅らしさ"なのだろう。
・自由の、その先
前述した通り、人間からヒューマギアを解放した後に残るものってなんなんだろうね。或人風に言えば「その先の夢」。
ヒューマギアも人間と同様に決して永久機関ではないので、例え人間の下僕でなくなったとしても、自らの体を維持するためには電力やパーツをつくらなければいけない。すなわち「生きるためにやらなければならないこと」があるのは変わらない。
それからも解放されてしまうことが目的なんだろうか?

 


設定

・ボットの立ち位置
ゼロワンでは「結局誰の仕業なの」と思うことが多々あるが、これはわざとやっているんだろうね。娯楽作品に対してそんな真面目に頭使わない人にとっては、分かりにくいだけだろうけど。
「アークをつくったのは天津なのか(16話)、それとも其雄とウィルなのか(令ジェネ)」が一番分かりやすくて、今回生じ得る疑問は「ヒューマギア製造工場を管理してたのは桜井なのか(4話)、ボットなのか」と「迅をつくったのは滅なのか(6話)、ボットなのか」の2つ。
これらの食い違う証言に対する答えは、恐らくゼロワンを通して「どれも真実」で一貫しているように思う。
世界は「全部が誰か1人の責任」と割り切れるほど単純なつくりにはなっておらず、アークの開発には其雄,ウィルと天津の全員が関わっているんだろうし、ヒューマギア製造工場の責任者も2人いたのかもしれないし、迅の製造者も直接的には滅なのかもしれないが、ボットも間接的に(少なくとも祖父程度には)関与していることは間違いない。
アークをつくったのが天津だというのだって、彼が自らの手でやったとは限らない。でも彼の名でもって誰かにやらせたのだとしたら、それは"彼の行為"と見なしうる。
第一、1話によるとヒューマギアの製造ラインって従来のイメージに近いアーム型の機械が使われていたはずだし。
……どうでもいいけど、ボットの一人称(ボクがワシになってる)って実はミスリードなのよね。
我に返った時のセリフでもワシ,ワタシが混用されてるので、たまたまイズが知らなかっただけで彼は普段から複数の一人称を使っていたということになる。僕もたまーに"俺"が出るけど、そういうことだろう。そのイズの勘違いが、メタ的には視聴者への説明(というか匂わせ)になっている訳だけれど。
・セキュリティ
もはやいつも通りというか、「飛電と A.I.M.S. の警備がザル」に見えてしまうのはもう仕方ない。今回は迅の怪しげな演出に力を入れているのが明確だったので、僕は「迅がすごいんだな」と思うだけの"説得力"を感じたけど。
一応彼は本人の言うところの覚醒とやら、おそらくシンギュラリティに達しているはず(かつフォースライザーでアークに接続しているので、バックアップもあっておかしくない)なので、人智を超えた方法でセキュリティを突破するというのはまぁ分かる。飛電はセキュリティの開発もヒューマギアに任せてそうだけど、そいつがシンギュラリティに達してない限り人間と同等以下のはずなので同じこと。
・デイブレイクの真相
令ジェネの感想で以前述べた通り、其雄は「問答無用に街ひとつ爆破してオールオッケー」なんて風に考えるやつではないと思われる。今回の説明ではだいぶ省略されてたのであたかもそうであるかのような表現になっていたが、実際には街が崩壊するほどの爆発自体は、やはりヒューマギアの暴走によるところが大きいのだろう。
映画の該当シーンから読み取れるのは(かつ僕が覚えてるのは)、其雄が「俺の夢を叶えてくれるか?」と言いながらAutomatic Control Functionというシステムをアークにインストールしたことなんだけれど、今回それが仮面ライダーシステムと関係していることが語られた。当時の僕の予想は「天津の指示(ラーニングされた悪意)ではなく、自分で考え動くようにプログラムした」なんだけれど、今作における"仮面ライダー"の意味は「自らを由来とする意志で動く」という理念なので、通ずるものがあると言えばある。
或いは、ひょっとするとその時も前回24話のように、其雄を通じて「或人の善意(父を笑顔にしたい)」が伝わって、人類滅亡の結論にストップをかけたのかもしれない。闇が濃ければ濃いほど、光はより輝いて見える。今あるアークは完全に悪意の塊として描かれているけれど、デイブレイクの際に一度復元しなきゃいけない程度に壊れていたのよね。爆発でその善意のデータは失われてしまったと考えれば、有り得ない話ではなくなる。
あと細かいところだと、映画内の描写ではデイブレイク当日にはフォースライザーはまだ開発中だったように見えたんだけれど、それだと宣戦布告した滅と矛盾する。試作機だったとか、映画のシーンは単に量産しようとしてただけだったとか、そういうことなのかね。

(参考:仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション ネタバレ感想)

・善意/悪意 と ゼア/アーク
今回それぞれ善意と悪意のデータを紐付けられた2種のライズキーだけれど、あれらって基本的には殆どが既にあったものだよね。ゼツメライズキーは全部滅が持ってたので、おそらくアークが自分の中に残ってたデータを元に多次元プリンタでつくったものと思われる。
対して通常のプログライズキーは、ゼアがそのデータを元に(イズの要望に応える形で)つくったもの。
ゼツメライズキーの方はアークにある悪意のデータが入れられているとしても、プログライズキーに入ってるという善意のデータとはどこから出てきたものなのか。
僕の予想としては、これもまた或人由来なのではないか。
或人が人間を守るため、またヒューマギアの名誉(個体とは言わない)を守るために戦ってきた戦闘データは、"善意"と呼び得るものに思える。
反対にゼツメライズキーを使用していたマギア達は、アークからインストールした人類を滅亡させんとする意志を元に動いており、キーはその戦闘データを記録していた。
すなわち、ゼアは或人という他者を受け入れ学んでいたのに対して、アークはマギアという自らのイエスマンのデータばかりを増やしていたことになる。
だとするとゼアとアークの対立は、「他者を受け入れ多様化を認める受容の姿勢」が"善"であり、それと対を為す「自分しか受け入れず画一化しようとする排斥の姿勢」が"悪"、という構図によって表される。
そうは言っても 或人は暴走したヒューマギアを破壊しているじゃないかという矛盾は、ゼアの「不寛容に対する寛容さ」故のものだと思えば理解できる。詳しくは寛容のパラドックスで検索。
逆にアークにも、アビリティこそゼツメツで統一されているが割と多様な種のデータを使用しているじゃないかという矛盾がある。これも単純な話で、いくら「アーリア人こそが優れた種であり他は根絶やしにすべき」などと言ったところで、"アーリア人"の中にも色んな人がいるよね、ということ。これは個人単位に狭めても同じことが言える。一人の人間の中にも"葛藤"が起こり得る程度には様々な相反する意見がある。
これはアークが復元の際にプログライズキーのデータを利用したこと、ゼアが復元されたアークの集大成とも言うべきアサルトウルフキーの力を利用したこととも通じており、基本は受容的だが不寛容な部分もあるゼアと、基本は排他的だが多様な部分もあるアークとで、ちょうど太極図のような状態をつくっていると言える。

 


メタルクラスタを巡ってこれまで以上に人と人が複雑に絡み合う展開がなされたので、総集編として各キャラクターの立ち位置と目的を明確化したのは、視聴者の混乱を解きほぐす意図があったんだろう。
僕は混沌とした感じをこそ面白がっていたので、成功していたのかどうかは分からないが。

 

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映画

ニヒリスティックな開き直り『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』 感想

仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション ネタバレ感想