やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

Do you love me? I miss you.

つい先日、たまたま買った500円の玩具が不良品だった。
接触不良なのか音声が鳴らず、電池交換したところでうんともすんとも言わない。
更に500円出してもうひとつ買うほどお金に余裕がある訳ではなく、かと言ってたかが500円のためにわざわざクレームを入れて交換して貰うかと考えるとそれも気が引ける。何より面倒だ。
となればすることはひとつ。
「何故こんなことになったのか。不良品があること自体"おかしい"のに、どうしてよりにもよって自分なのか。きちんと対価を払ったにも関わらず、こんなの理不尽だ」と、言っても仕方のない不平をTwitterに漏らすだけの、実質的な泣き寝入りしかない。


スーパーの鮮魚コーナーでのバイト中、値引きの担当だった僕は消費期限の近い牡蠣に半額シールを貼った。
すると、一人のお客さんが「これ、食べてもあたらないよね?」と訊いてきた。
個人的なポリシーで「変にかしこまらず、自然体で接したい」と決めていた(というか、それしかできないのでポリシーということにしていた)僕は、「少なくとも消費期限は今日までになってますけど……何事にも絶対はないので、運が悪ければあたっちゃうかもしれませんね」と答えた。
その人は「"運が悪ければ"? そんなこと言う店員初めてだよ」と驚きながらも、「まぁ大丈夫だよな、うん」と自分に言い聞かせて買っていった。
表示してある消費期限というのは、あくまで目安に過ぎない。全く同じ人間が二人としていないように、牡蠣もきっとひとつひとつ違う。他のが大丈夫だからと言って、今目の前にある牡蠣が大丈夫な保証にはならない。同じ種類の魚でも脂が乗ってる個体とそうでない個体がいるように、その牡蠣があたるかどうかは、その牡蠣を食べてみないと分からない。食べる状況にもよるだろうし。
また、バイトをしている最中色々なことがあった。正直「そんな適当でいいの?」と何度も首を傾げたが、1ヶ月ですぐ辞める予定だったので口は出さなかった。その牡蠣は外注商品だったが、同じ人間のやることなので、もしかしたら同じように適当な部分もあるかもしれない。「いつのやつか分かんなくなっちゃったけど、一番新しいのだった気がする」と、古いものに間違った表記をしていないとも言い切れない。
本当にそんなことがあるかどうかは分からないが、お客さんに対して「絶対にありません」と言い切る根拠を僕は持っていなかったし、その"絶対"だって所詮は「僕がそう思っただけ」で、勘違いかもしれない。

 

仕事という場においては、僕もパッケージングされたひとつの商品に過ぎない。
グラム売りされる細切れ肉のように、酷ければ1匹単位で並べられる魚のように、どんぶり勘定される。
お客さんに商品の場所を教えたらとても感謝されてやり甲斐を感じただとか、いつもよりうまくできたと達成感を覚えただとか、反対にミスをしてしまって注意されただとか、そんなあれこれとは全く無関係に、決まった金額が1時間に付き支払われる。
そこから見える僕というのは、生き生きとした人間ではなく、決められたタスクをこなすロボットと大差ない……などというとどこぞの小学生みたいだけれど、まぁ言いたいこと自体はちょっと似ている。
仕事の持つ「やって当たり前」という感じが僕はひどく苦手だ。成功報酬的というか、「0円でもいいならやらなくて(できなくて)いいけど、できたらできた分だけお金が貰える」くらいのスタンスなら気が楽なんだけれど。
僕の場合、本当に休みたいというよりは「休んじゃ駄目なのに休んでしまったらどうしよう」みたいな不安が強いので、「自由に休んでもいいけど(あまり)休まない」のが性に合ってると思う。
でも、今の社会は信用と責任で回っている。
雇う人は「これだけの成果は見込める」と信用できる根拠が欲しくてお金を払い、雇われる側はお金とそれに応える責任(重圧)を手にする。
「最悪できなくてもいい」なんて"無責任さ"は認められない。
本当のところを言えば、給料泥棒なんて概念がある通りお金を払ったからと言って必ずしも見込んだ成果が得られる訳ではないんだけれど、いちいちそれを言っては何もできないので「人は基本的に責任を全うする」という共有幻想の上に成立している。貨幣の価値と同じ。
「産休取りそう」みたいなのはまさにその弊害で、予想外の動きをされることを忌み嫌う。「これだけのお金払うつもりがあればこれだけの成果が返ってくる装置」という幻想を壊し得る不確定要素は排斥される。そこまで織り込んで計算するだけの余裕があればいいんだけど、現状はまだない。
給料自体は後払いなのに、"雇用契約"という手続きによってまるで既に貸付けを受けているかのような感覚に陥る不思議。


「500円払ったのにどうして音が鳴らないんだ」などと言っても仕方ないように、いくら「給料に見合った仕事」を期待されても、できないことはできない。
ちょっと極端な例が多かったのでもう少し共感の得られそうな話を探すと、「品切れ撲滅」への気持ち悪さが挙げられる。
お金を持って店に行ったけど商品がなかったとして、それって「運が悪かったな」の一言で済む話だと思うのよね。在庫を潤沢にした結果、廃棄となる商品が増えてしまう可能性を考えたら、少なくとも自分一人のために入荷数を増やせなどと言うほどのことではなくて、他の店を回ってあるところで買えばいい。
会社を休んだって、そのせいで何かを納品できなくたって、それで何かがうまくいかなくたって、実は意外と多くのことが「あーあ、がっかり」で済むのではないか。

だが人は、世界を不自然に捻じ曲げようとする。
それはひとえに、不安だからだろう。
とにかく予想外のことが起きて欲しくない。(暗黙の)約束を守って欲しい。
だからルールやマナー,常識,責任など、様々なかたちで人を縛り型に嵌め、画一化しようとする。
世の中には、「ぼぼぼー! ぼーぼー! ぼーぼぼ!」と突然叫ぶ人がいる。彼に対して抱くこの嫌悪感の正体は一体何なのか。「うるさい」という言葉ではとても表し尽くせているとは言えない。静かでなくてもいい状況ならば受け入れられるかと言えば、否だろう。
答えは「なんか怖い」だ。
自分の中に前例がないから、心の準備ができていないから、不安で仕方なくなる。
世界を自分の中にある型に当てはめて理解しようとし、はみ出す者の存在を「おかしい」と認定してしまう。

 

浮気って、悪いことなのだろうか。
いくら「病めるときも、健やかなるときも」と誓い合ったとて、自分の中に湧いてくる気持ちをコントロールすることはできない。
好きな人に交際相手がいたからといって諦めることも、する相手がいないからといって性欲をなくすことも、人生うまくいかないからといって生きたいという気持ちをなくすことも、意識にはできない。
自然と消えるのを待つより他ない。
それと同じで「他の人を好きにならないようにする」なんてこと、土台無理な話だと思うのだ。
「死ぬまで自分だけを好きでいて」なんて、「自分を好きになって」の比にならないくらい無茶苦茶な要求だ。
"約束"は、あくまで理性のできる範囲において意味をなす。
だが不安だから、どれだけ無茶でも人を縛ろうとする。そうしないとやってけない。
怖い。寂しい。すがりたい。
この気持ちのうまい収め方というのは、果たしてあるのだろうか。

 

"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として