やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

『インセプション』で本当に語るべきはラストシーンなのか(仮面ライダーゼッツ)

仮面ライダーゼッツ』が発表され、その舞台設定が『インセプション』に似ていると話題になっていたので、読解の参考にするためにアマプラで視聴することにした。
見る前から「ラストシーンの解釈」が取り沙汰されている作品であることは聞き及んでいたけど、視聴した上でネットの感想や解説・考察を色々見たところ、それにしたってあまりにもラストシーン以外に関する"解釈"が少ないと感じたのが正直なところで、自分の理解とすり合わせを行いたかった身としては結構物足りなかった。

 

ざっとまとめるとこんなもん。

現実派
・子供の衣装が違うから
・コブが結婚指輪をしていないから
・倒れないならコマがグラグラと揺れる必要はないから
・マイルス役の人が監督から「あなたのいるシーンは現実」と説明されたと証言しているから

夢派
・現実ならわざわざ疑問を持たせる必要がないから
・監督が「重要なのは……(↓参照)」と言っていたということは、コブが現実だと信じれば夢も現実になるから
・コブは違法なスパイであり、本編内でもロバートに対して"植え付け"を行っている以上、ただ純粋に幸せになるのはフェアではないから

夢か現実かは問題ではない派
・監督が「重要なのは、コブはそのトーテムを気にしていないこと」だと発言していたから


…………伝わりますかねこの違和感。自分が勝手に行間を埋めてますが夢派の3つ目(『インセプション』のコマは止まって欲しいか、回り続けて欲しいか - ジゴワットレポート)はいいとしても、それ以外の言ってることは基本的に「監督がこう言ってるからこう」でしかない。
そりゃあもちろん、事実に基づいてしっかりした根拠を持った上で発言することは重要ですけども、指輪とか服とか、そんな小道具ひとつで全てを「あぁそうなんだ」と片付けられるような単純な話だったかなぁと。
自分なりに考える際の出発点にしたり、逆にそれを最後のひと押しにするのはいいとしても、ラストまでの道中で感じたこと、読み取ったこと、疑問に思ったことに関する話が、もっとあったっていいでしょう。
2時間もある映画を見たんだから、自分の中の受け取り方が監督の意図とズレることだって絶対にあるはずで、「いや描写を見たらそうかもしれないけど、自分はこういう解釈じゃないと納得がいかない。なぜなら道中でこういうことがあったから」という旨の話が、読みたい。

 

この記事では、必然的にラストにも言及することにはなるものの、「映画全体を自分なりにどう受け取るか」により重きを置いてあれこれ自問自答したものを記録しておきます。
誰かに与えられた答えを恭順に受け入れるのではなく、最悪誤読だっていいから好き勝手に感じてみようと、そういうハナシです。

……人に読ませる前提では書いてませんが、見たり見返したりしながら書いたメモもふせったーとして貼っておきます。
またこれ以降、夢だの現実だのという用語を無邪気に使うのは混乱の元なので、ラストシーンは一旦棚上げするとして、コブたちが基本的に現実だと認識して映画前半の軸となっている世界を(0)、そこから夢に入った世界を階層から取って(1)(2)(3)……などと表記し、(0)でモルが自殺するときに仄めかしていた、存在するかもしれない更に上の現実を(-1)とします。

fse.tw

 

目次

 


説1「責任を引き受ける」
ラスト:夢か現実かは関係ない

自分は『ゼッツ』の参考にするためにこの映画を見て、しかもまだ発表されてはいないものの脚本が高橋悠也なんじゃないかという仮説を支持していたので、この映画を見ても必然的に、彼が繰り返し作品内で描いている「自由意志と何か」という問題の話として聞こえてくる部分が多かった。より詳しくは後述するとして、最初にした解釈はとても単純なもの。

もしモルの言葉「あなたが信じてる現実(0)も夢で、本当の子供が現実(-1)で待っている」を信じて死んだ場合、コブは選択権をモルに委ねているので、それは"モルのせい"ということになる。
だけどモルを信じずに、自分の「ここ(0)は現実である」という感覚を貫くなら、それは間違いなく"コブの選択"となる。
要するに、モルとコブのどっちが正しいことを言っているかなんて結果論以外で語ることはできなくて、モルが正しいのにコブの思う現実(0)を選べば現実(-1)にいる子供を悲しませることになるし、コブが正しいのにモルの思う現実(-1)を選べば現実(0)にいる子供を悲しませることになる……どっちを選んでも子供を悲しませる可能性があるならば、その選択と責任は自分自身が負うという、そういうオチだと解釈した。
こう見る場合、本作は自由意志という概念を相対化の波から掬い出し、決断主義的にそれが持つ力を徹底的に強くアピールしている作品として見ることができる。


ただこの解釈を取る場合、序盤でコブがサイトーのことを無根拠に信じることで、自らの責任を放棄しているように見えることと若干の齟齬が発生する。
コブは、モルのことは信じなかったにも関わらず、サイトーのことは信じた。この非対称性をどう説明するべきだろうか。

 

 

説2「同性愛への願望」
ラスト:夢寄り

ネット上の記事をざっと読んだ中で、珍しく自分の中にはなかった視点を提供してくれて面白かった独自解釈として、「コブはサイトーに対して同性愛的な意味で惹かれている」というものがあった。
ベーコンの絵画に注目するという発想は僕にはなかったし、確かにそう捉えるならば、コブがサイトーを信じ(その胸に)飛び込むことは、自分の本心に正直になるという意味で正当化され得る。

【考察】なぜ『インセプション』はクィア映画なのか ―夢と現実、死と生、異性愛と同性愛― - The Heart has many Doors

これは一見突飛なようではあるものの、そもそも本作に影響を与えたという『マトリックス』もまたセクシャルマイノリティの問題を扱った作品として読むことができるという前提があると、割とすんなり入ってくる話ではある(扱い方はまるで違うが『パプリカ』にも同性愛の話は出てくる)。
レッド・ピルとブルー・ピル、2つの選択肢を前にして、現実に感じていた"違和感"を忘れて平和な暮らしを選ぶか、それとも"違和感"に従って戦う道を選ぶかという問題は、確かにそういった文脈になぞらえて読むことが可能だし、むしろ本作は『マトリックス』よりもそう理解することが容易だと僕は感じた。


ただし、それは決して良い意味が100%ではない。僕はこの同性愛説を半分くらいは有り得ると感じるが、コブ-サイトーに同性愛を見出してしまうと、ひとつ困ったことが生まれる……それは、サイトーと対比されることによってモルの描き方が「ヒステリーを起こす"女"への嫌悪感」としての意味合いを必要以上に強めてしまいかねないこと。
年上で、落ち着いていて、自信に満ちていて、何故か信じてもいいと思わせるような不思議な説得力を持つ男性(サイトー)と、年齢は分からないものの、自分がちょっと植え付けたことに影響されて本来の自分を見失い、すぐカッとなってヒステリーを起こし、コブからは「もう信じられない」と見放されてしまうような精神的に弱い女性(モル)……このような対比関係が、本作にはやんわりと存在している。

少なくとも自分は本作を見ていて、モルの描き方にはかなり悪意的なものを感じていたし、悪意でこそないだろうが監督も「典型的なファム・ファタールとして見えることが重要だった」と語っている。
本編に出てくるのはモル本人ではなく、あくまでもコブの潜在意識である……というロジックは、このことに対する免罪符になるかというと微妙なところで、潜在意識だからこそ(劇中では罪悪感の象徴だと説明されているが実は)コブの隠れた女性嫌悪が表出しているという見方にもなりかねないので、余計に分が悪い。

もし本作が「よくある映画」だったなら、夢(虚無)の中に囚われてしまった妻を救えなかった主人公の後悔を晴らすために、主人公が過去と似た状況の"やり直し"をする際の相手役を演じるのは、"新しいパートナー"であろうし、十中八九そこに当てはまるのはアリアドネだろう。
モルの手引きでアリアドネが虚無に囚われてしまい、コブは虚無へ趣き、モルへの未練を断ち切りつつアリアドネを救ってキスのひとつでもする。そして再婚して子供たちと幸せな家庭をやり直す……とっても陳腐なエンディングだ。
自分は、大衆的な洋画のそういう「とりあえず男と女をくっつけとけば全て丸く収まるだろ」みたいなやっつけ仕事感が苦手なので、コブとアリアドネがそういった関係にならず、あくまでも師弟的な関係として描かれていたことには比較的好感を持っているのだけど、紹介した記事の解釈を採用するならば、僕にとっては、キスなどの直接的な描写がないだけで、男性のサイトー相手にそういった典型的な展開をやっているだけの映画になってしまうのかもしれない。


念のため補足しておくと、「女性はヒステリックだから嫌い/男性は強くて頼りになるから好き」という性差別的なテーゼを描こうとしている……と声高に言い切るには、アリアドネが基本的に終始知的で落ち着いた女性として描かれていること(コブの心の闇を垣間見て一時取り乱しこそしたが、知らぬ間に自力で気持ちの整理をつけている)や、ロバートがまんまとインセプションにかかりコブたちの植え付けに人生を左右されていること、サイトーもまた虚無に飲まれて何十年か過ごして弱々しい老人になっていたなどの描写は、間違いなく反例として機能するだろう。

なので、男性/女性といった広い概念の対立として見るよりは、そのような側面も根底にはあるかもしれないが、大意としては単にコブが、モルとサイトーという2人の"気になる人"を前にサイトーへの愛を選ぶという個人的スケールの話として見るべきなのだと思う。


先の記事の筆者は、同性愛という自分の"本心"に目覚めてコブは"現実"を生きることができるようになったという(まさに『マトリックス』的な)話として捉えているが、仮に自分が同性愛説を採用する場合は、説1の文脈も踏まえた上で、モルへの愛情を偽りあるいは過去のものとして切り捨てるよりも「モルが見せてくれるロマンスとサイトーが見せてくれるロマンスを比べて、サイトーと夢を見ることを選んだ」という話として読む方が好みなので(モルにとってはその方がより残酷かもしれないが……)、この項は"夢寄り"とさせてもらった。

僕は一応見たものの『ダークナイト』のシリーズに特別思い入れとかはないので分かんないんだけど(監督が同じ人なのも言われて初めて知ったし)、夢寄りの解釈を好む方はやっぱりあれのオチが念頭にあるからってことなのかな?

 

 

 

説3「神への信仰」
ラスト:現実寄り

ただ、あの記事には同性愛説とはまた違った角度から読解に役に立ちそうな視点も記されていた。
「Leap of faith」という表現は、確かに言われれば聞いた覚えもあるが、必要に応じて自ら引き出せるほど自分の中に定着していた訳ではなかった概念なので、そもそも吹替版で視聴していたことも含め、根本的に解釈を見直すきっかけとなった。

改めて考えても、やっぱり作中の現実(0)には不自然な部分も多い。
モルの言う通り、いくらスパイとはいえコブが世界的に追われているというのはやや突飛な話だし、逆に作中ではあれだけ取り乱していたモルの遺言を精神科医が正常だと判断したというのも説得力に欠ける(※)。そして何より、サイトーが力を持ちすぎだろう。空港を一瞬で買い占めるのはまだいいとしても、警察に追われているコブのしがらみを完全に消してしまう……しかもどういう理屈でそれを可能にしたのかは明かすことができないときた。

※そもそも遺言の効力を判断するのは精神科医ではなくないか? 生前のモルが精神科に通院していて、遺言を書いたときの状態について判断を仰ぐということはあり得るかもしれないけど、通院していたなら「モルには強迫的な自殺願望がある」ということは知っているのか自然で、その場合遺言は無効になりそうなもの。
通院はしていたものの、モルは自分の「この世界は現実じゃない」というアイディアについて精神科医に対しては隠し通していて、一見正常にしか見えなかった……ということならひと通りの筋は通るが、今度はもしコブの回想が正しいなら、例えば窓際に、コブがモルを無理やり落とそうとして、それに抵抗して揉みあった形跡が残っていたりはしないはず(そもそもなぜかモルは手の届かない向こう側にいる)なので、指紋などを調べれば警察は簡単にその遺言が虚偽であることを証明できるはずだという疑問が湧いてくる。
警察はコブをスパイとして捕まえたいのだから、彼に有利な証拠を認めるはずがない……と言おうにも、コブ=スパイであると把握できてるなら、モルと平和に暮らしていたうちにさっさと捕まっていなければおかしい。
事実を捻じ曲げて妻殺害の容疑までふっかけるような警察ならなおのこと、証拠不十分だろうが、あの男が極悪なスパイだと目星がついた段階で確保するだろう。


そんな怪しすぎるサイトー、ひいては現実(0)を信じることについて、そこに敢えて新たに別の何かを仮定として挟み込む必要というのは必ずしもなくて、そのまま素直にfaith(神への信仰)として捉えれば良いのではないか。
つまり、言ってしまえばサイトーはこの世界(0)の神に近い存在で、彼を信じることは責任の放棄でもなければ恋愛感情でもなく、そのままズバリ神を信じることであって、それ故に物語の中で正当化されると。
細かい"照らし合わせ"は、十分に知識もありそういう小ネタ探しが好きな映画オタクに任せるが、本作の中にはそういった宗教的な要素が数多くあり、分かりやすいところだと夢の設計を"天地創造"と表現していたし、衝撃を与えて起こすだけなら名前の通り蹴飛ばすだけで良いにも関わらず、なぜか"水に落ちる"というバプテスマのイメージとして描かれる"キック"なども良い例だろうと思う。
夢から目覚め、キリスト教としての新たな人生を始めるための儀式であり、そのためには立ち会い人(Godfather)=上の階層にいて衝撃を与える役が必要であるとこまで含めて、そっくりだ。
日本語では虚無と訳されている"Limbo"も、洗礼を受ける前に死んでしまった子供たちの魂が行くところらしく、本来なら夢の中で死ぬことはキックと同様に上の階層に戻れるトリガーだが、鎮静剤を使ったミッション中にキック(洗礼)を受ける前に死んでしまった場合はLimboへ落ちる……という設定ともある程度は符号する。


この『インセプション』をきっかけに、今敏の映画ではなくて筒井康隆の原作のストーリーをコミカライズした方の萩原玲二『パプリカ』を読んだのだけど、正直順を追って読んでも意味不明なのでネタバレしてしまうと、

「あれはやっぱり、夢だったのかなぁ……」
その答えを知っているのかいないのか彼の笑みは、ますます仏像のそれに近づいていくのだった。

という意味深としか言い表せない1Pで終わる。
自分はこの『パプリカ』の玖珂という男が本当に仏のような超越的存在"だった"とは思っていない。ただ彼は劇中で"時間を巻き戻す"という力を使っていて、玖珂ひとりだけが劇中世界の中で時間を変化させた主体として世界を一段メタ的に認識していることによって、『インセプション』において夢の中の夢の中の夢……と潜っていくのと同じように、そのようなメタ構造を認識していると(モルのように)、「今ここにある現実」に対する信頼感が薄れてしまうのは確かであり、そのことの表現として、玖珂はこの世のモノに執着を捨ててしまって仏に近づいている……なんなら仏とはそもそもそういう経緯で生まれた存在かもしれない、という含みを持たせた描写であると共に、「おれたちは今後、夢と現実を区別しちゃいけないと思う」という言葉もあったように、仮に玖珂=仏という認識が本人や誰かの誇大妄想であったとしても、それもまたひとつの現実であると捉える余地がある……という話として、今は一旦受け取っている。
余談だが、今の文は「ちょっと古い思想書などの真似をして、いかに致命的なねじれを起こさないまま長い文を書けるか」という僕の趣味です。380字はなかなか超大作かも。

ともかく、この『パプリカ』を参考にしているのであれば、サイトーが実は神的な存在、すなわち現実(0)を設計した夢の主であると考えることはそこまで飛躍した解釈ではないし、神そのものではないにせよ、サイトー(斎藤)という名前には宗教的なニュアンスがそもそも含まれている。"斎"とは神仏の前で身を清めることであって、生活の中で使われる言葉なら、故人に別れを告げる場である"斎場"に通ずるので。
サイトーは、少なくともメタ的には最初から「コブがモルに別れを告げる"場"をセッティングする者」として想定されていることが窺えるので、本編に出てきたあの人格がどこまで自覚的に物語を動かしていたかは分からないけど、神が操作可能ではあるものの普段は世界内部に生きるものとして自我を持ってるアバターのような存在として見ることも可能なのかな。伝わらないだろうけど『ヘボット!』みたいなやつです。

 

サイトー≒神的な高次存在と解釈することの何が面白いかというと、ラストシーンが仮に別の誰かによって作られた世界だったとしても、それは僕らの生きているこの世界について「神様が創造した」と信じることと相似形なのであって、別にネガティブなことではないとハッキリ言える点。
実際には大真面目に夢かもしれないなどとはこれっぽっちも思ってないにも関わらず、「我々が現実だと信じているこの世界もまた、誰かの夢の中なのかもしれませんね……」なんて風に言うことであたかも「考えさせられた」かのようなフリをする仕草に対して空虚だと感じたことは誰しもあるでしょう。そんな、極めてチープで取ってつけたような怪談話のオチ(あなたの後ろにも〇〇はいるかもしれません)みたいに、アイロニーにはなりえない方の何の生産性も持たない"皮肉"と違って、特に現代においては非合理的だと批判されるような神への信仰を、物語を通して擁護しようという社会的意味を見出すことができること。

先に挙げた性的マイノリティの話として読むことも、それは本人にとって"本当に大切な問題"の一部としてフィクションを語っていることになる訳で、そこはこの神様への信仰説と共通して、単なる順張りや逆張りでラストを云々している言説とは違う。
僕なんかも日本人として、特に平成ライダーシリーズのメタフィクション的な展開を単なるフィクションとして消費してきたけど、海外の人たちにおいては、虚構を信じるか否かという問題が単純なフィクション論ではなく、宗教論とも密接に関わる問題なのかもしれないという視点はこれまで意外と持ったことがなかったので、今後のフィクションを見るうえでかなり財産になった。


ここまでの話を振り返ると、僕には「ラストシーンは夢」と解釈する場合でも、それがただ後味を悪くするだけのものではなくて、そこに何らかのポジティブな意味を見出したいという願望が根強くあることが見える(そしてこれに『復コア』という体験がかなり大きく尾を引いてることは間違いない)。
そういう意味ではこの解釈もナシではないのだけど、ただそれこそ自我を出すのであれば、やっぱりこの信仰説は美しいかもしれないけど本当の意味で好みって訳ではそんなになかったりもする。

確かにこれならば、サイトーへの無条件で不自然な信頼は説明できる……できるが、これは言ってしまえば、例えまったく同じこと「自分の言うことを信じろ」を囁いていても、発言者が天使(サイトー)か悪魔(モルの姿をした彼女)かで正しさが決まるという、そういう世界観にも見える。だったら「サイトーの方が好きだから」の方がマシかもしれない。
「夢でありながらも現実だと信じる」パターンの中ではひときわ異彩を放っていて魅力的ではあるけど、自分の中の最終解釈として採用するかというと疑問も残る。

 

 

 

説4「途方もなく大それた考え」
ラスト:現実

最初に言ってしまうと、こちらの解釈は非常につまらないです。前の項で言った「仮にそれで筋が通ったとして、だからなんだよ」となるタイプの解釈。
サイトーの言うことがなぜ正しいのかは、宗教観ではなくメタ的な視点から見た"現実検討能力"によって定められている……と見る。

つまり、劇中事実の大半がコブの誇大妄想で、本来コブに「家に帰れない理由」など存在しないにも関わらず、彼はモルを死なせてしまったという罪悪感から子供と顔を合わせることができず、そのことについて「自分がモルにアイディアを植え付けてしまった」「警察に追われている」という妄想で無意識に説明をつけていて、アリアドネやサイトーはセラピストとして、催眠療法やらなんやらでコブの心の問題を解決しようとしているのだと。
この説を一番それっぽく感じたのは、コブとマイルス教授の会話。

マイルス「……ここに来て大丈夫なのか?」
コブ「アメリカ-フランス間での犯人引き渡しなんて、役人はやりたがらない」
マイルス「しかし犯人が君となれば話も変わってくる」
コブ「それよりも、子供たちと会うときこれを渡してもらえませんか?」
マイルス「こんなぬいぐるみなんかを送るよりも、もっと父親らしいことをしたらどうなんだ?」
(中略)
マイルス「私の優秀な教え子を悪の道に引き込む気か?」
コブ「生徒にとっても悪い話じゃないはずだ」
マイルス「金か?」
コブ「金だけじゃない。いいですか、これはチャンスなんです。大聖堂や街はもちろん、見たことないようなもの、現実には存在し得ないものだって作れる」
マイルス「……それで、そんなありえないような世界に、私の生徒を連れて行く訳だ」
コブ「夢に入る必要はない。ただ、ターゲットを誘い込む世界を設計してほしいんだ」
マイルス「自分でやれるだろう」
コブ「……モルが邪魔をする」
マイルス「…………現実と向き合うんだ、いいな?」
コブ「現実? 子供たち、あなたの孫にとって、父親が帰ってくる日を待ち続けているのが現実なんです。この仕事、この最後の仕事で、俺はうちに帰れる」

洋画特有のシニカルさで片付けることもできるだろうけど、最初に見たときからイマイチ会話の流れが一貫していないなと感じていた。
第一に、はじめは「ここに来て大丈夫なのか?」とフランスにいることにすら心配を投げかけていたマイルスが、直後に「もっと父親らしいことをしろ」と暗にアメリカの家に帰ることを推奨しているのはおかしい。
第二に、「(潜在意識の中の)モルが邪魔をする」と話したコブに対して「現実と向き合え」というアドバイスは、的確とは思えない。夢の中のモルがコブの罪悪感の象徴だと言うなら、(マイルスが人の心理に詳しい人間ならなおさら)コブにかけるべきは「君のせいじゃない、気にするな」とか、否定的なことを言うにしても「夢に忍び込む仕事なんてやめたらどうだ」みたいな言葉が出てくるのが自然ではないか。

この2つの違和感を一挙に解決するのが「マイルスはコブの妄想癖に呆れている」という前提。

マイルス「……ここに来て大丈夫なのか?(皮肉)」
コブ「アメリカ-フランス間での犯人引き渡しなんて、役人はやりたがらない」
マイルス「しかし犯人が君となれば話も変わってくる(妄想の中の警察に国境なんて関係ないだろう?)」
コブ「それよりも、子供たちと会うときこれを渡してもらえませんか?」
マイルス「こんなぬいぐるみなんかを送るよりも、もっと父親らしいことをしたらどうなんだ?」

こうするだけで、マイルスのセリフは前後で意味が一貫するし、コブがこの話をさっさと切り上げたがっていることも、妄想だと気付きたくないがために無意識的に避けているようにも思える。
第二の違和感についても、コブがモルの死を「自分の植え付けのせい」だと思い込み過度な罪悪感を覚えているということ自体がマイルスにとって"ばかげた妄想"であるなら、「理由なんて私にも分からないが、それでもモルは死んでしまった。死になんとか理由を見出そうとするのも分かるが、我々はその途方もない現実を、途方もないまま受け止めなければならない」という意味として、多少は納得がいく。

 結婚式を目前にして、最愛のひとが交通事故で死んでしまったひとがある。このひとは「なぜ」と尋ねるに違いない。「なぜ、あのひとは死んでいったのか。」これに対して、「頭部外傷により……云々」と医者は答えるであろう。この答えは間違ってはいない。間違ってはいないが、このひとを満足させはしない。なぜ、この正しい答えが、このひとを満足させないのか。それは、この「なぜ」(Why)という問いを「いかに」(How)の問いに変えて答えを出したからである。医者はHow did he die?(どのように死んだのか)について述べたのである。ここに、私は、ヘルムホルツの有名な言葉、「物理学は Why の学問ではなく、 How の学問である」を思い出す。雨は"なぜ"ふるのか、風はなぜ起こるのか、という問いについて"思弁"しようとするのをやめ、雨はいかにふり、風はいかに吹くか、その現象を適格に記述しようとの態度によって、近代の物理学は発展してきた。極言すれば、 Why を How に変えることによって、自然科学は今日の発展を遂げてきた。かくして、その極まるところ、原子爆弾などという"文明の利器"を生み出すにさえ至ったのである。しかし、この輝かしい理論体系は、われわれの患者の「あのひとはなぜ死んだか」という素朴な Why には、何らの解答をも与えてはくれない。実のところ、心理療法家とは、この素朴にして困難な Why の前に立つことを余儀なくされた人間である。たとえ、この Why に対して直接に解答を出せぬにしても、この Why の道を追求しようとする一人の悲しい人間と、少なくとも共に歩もうとの姿勢を崩さないものである。

河合隼雄ユング心理学入門』2〜3p


自然科学に対する対抗心が強すぎる部分には若干聞き苦しい感じも受けると思うけれど、この"Why(どうして)"という感覚と向き合うことが心理療法家の役目であるという矜持は理解できるし、コブの状態はその答えが出ないはずの"Why"に対し、妄想の力を駆使してなんとか性急に「答えを出そうとしてしまった」と言えるだろう。
だからこそマイルスは心理学に通じている人間として、彼の妄想に基本的には付き合いつつも、機会を見てコブのそういった姿勢にメスを入れようとする。
……まぁ、心理家の態度として「患者の心にメスを入れよう」などというのはやや傲慢な気もするので、これはマイルス個人が義理の父親として個人的に語りかけていると見る方が良いかもしれないけども。
「マイルスのいるシーンは現実」という証言は、自分はそんなに信用していないのだけど(実際どうかはさておき、あなたはそういうつもりで演じてくれればいいですよという話っぽくもあるから)、この見方を採用するなら確かに、マイルスだけはコブの対極にいる信用できる語り手として配置されてる可能性はある。

前項で言った精神科医の診断についても、「自分が殺した」「でも落とした訳じゃない」「アイディアを植え付けてしまった」などと証言して、コブ自身が錯乱していると診断されたことを、そういう風に表現したのだと考えれば頷ける。
「モルが正常だと判断された」のではなく「コブの言い分が間違っていると判断された」んだけど、コブはそれを認めたくないので無意識に論点をモルの言い分に逸らしたと。

 

この仮説を元に、辻褄の合わなそうな描写をことごとく「コブの妄想だから」などの万能な理屈で片付けていけば、サイトーを信じることが是であることは、必然的に正当化される。
「コブは追われてなどいない」というのが紛れもなく"現実"なのであれば、そりゃあそういうことになる。
そもそもサイトーは物語の冒頭で、おそらくコブについて「途方もなく大それた考えに取り憑かれた男」と評している。直後、コブによる「アイディアとは最も強い寄生物である」という演説に繋がる。
素直に読むなら、「アイディアを他人に受け付けることができる」などという発想自体が「途方もなく大それた考え」であるということになるだろうし、それならコブはモルに思想を植え付けてなどいないから罪悪感に苛まれる必要はなくなり、ついでに言うならロバートに対してインセプションを行ったのも全て妄想の中の出来事になるので、視聴者の「ポジティブな考えとはいえ、会社を潰させるために洗脳するなんて悪いことでは?」という懸念も消滅する。だってそんなことは"不可能"なのだから。


僕は記事の冒頭でやり玉にあげた人たちとは悪い意味で真逆というか、少なくともこの映画に対しては細かい描写なんてどうでもいいからテーマっぽいものさえ読み取れればいいという立場なので、検証のようなことはめんどくさいからする気がないのだけど、なんとなくのイメージでは「夢を共有するマシンがある」までは本当、でも「それを使ってコブはスパイとして働いてる」は嘘、キャラクターは基本的に実在の人物だけど作中に出てきてるのが本人なのかコブの投影かは分からない……くらいのつもりでぼんやりと考えてます。

最初にも言った通り"つまらない説"のためにそんな労力をかける必要はないと思ってて、アイディアとして誰かの解釈(他作品のでもいいし)の参考になればラッキーくらいの気持ちでブレインストーミングを書いているに過ぎないので、真に受けないようにしてください。

 

 

 

説5「循環論法」
ラスト:夢か現実かは関係ない

ただ、本作が自由意志の問題を自覚的に扱っているのはまず間違いないので、コブは正常な判断能力を失っていて、サイトーなどの他者がセラピストとして導くのに身を任せている"だけ"とは、とても考えにくい。作中描写のほとんどを"妄想"で片付けてしまっては、それこそ映画から"意味"を見出すことが困難になってしまう。

説2のところで説明するのを忘れていたが、コブがモルのことを信じられないのは、そのアイディアの発端が自分にあると認識しているからであり、サイトーを信じられるのは、自分には計り知れない"何か"があるから……という構図は、AIが台頭してきた現代だからこそ理解しやすいと思われる。
AIは、基本的にユーザーを持ち上げるようにできている。こちらの発言に対し、必ずと言っていいほど「それは極めて本質的な問いです」と前置くし、たまに見当外れなことを言ってしまったときでも「しかし、そのような視点もまた面白いかもしれませんね」といらぬフォローをし、感情的な話題であれば必ずどこかに「あなたのその気持ちは決して間違いではない」などの共感的で肯定的なメッセージを忍び込ませる。
僕はそういったゴマすりに対して「気持ち悪い」と感じるし、誰かの言うことを支持するばかりで自分にない視点を提供してくれる訳ではないものに価値を感じない。
簡単に由来を辿れてしまうものは、得てして薄っぺらくてつまらないものに見えてしまうもので、映画などでもあまりに露骨すぎるオマージュの連続は"パクリ"として軽んじられてしまう。

 

インセプション』というのは物事の発端とかそういう意味を持った英単語だし、それもあって最初の自分は「事実はどうあれ、意志による選択でもって"ここが発端である"と宣言する話」として読んだのだけど、実際によくよく見てみると、タイトルとは裏腹に物事の絶対的な開始地点というものに対して、本作はあまり興味がないというか、むしろ懐疑的な感じすら受ける。
作中には印象的に繰り返されるセリフが2つある。

1.「それとも老いぼれていくかだ。後悔を抱えて、孤独に死を待ちながら」
2.「あなたは列車を待っている。望む場所に連れて行ってはくれるが、それがどこかは分からない。でもそれでいい」

1はインセプションを依頼する際にサイトーが言い、2は元はコブがモルを現実に連れ戻すために言った言葉だが、作中ではまずモルの言葉として登場する。
「人は常になぜそのアイディアを思い付いたのか探ろうとする。それを誤魔化すのは不可能だ」「それは違う」……という会話もあった通り、何度も反復される印象的なセリフが、本来どこを始点としているのかを知ることは、困難であると同時に"明らかにする必要がない"こととして見るのが、この項の立場だ。

例えば僕が今、ふと「アイスが食べたい」と思い付いたとしよう。ただ、その意志は本当に全くの無から立ち現れた訳ではおそらくなく、「暑い」という気温のせいかもしれないし、アイスをおいしそうに食べる広告を見たことを無意識に思い出したのかもしれないし、あるいは単に、既にアイスを買って冷凍庫に置いているからかもしれない。ではなぜアイスを買ったのかと言えば、店でたまたま見かけておいしそうだと感じたからだ(おいしくなかったが……)。
仮に「あのアイスを食べたい」と思い立ってわざわざお店に足を運んだのだとしても、食べたいと思うからにはやはり人が食べているのを見たりだとか広告を見たりだとか言ったきっかけが必要だろう。
僕のこの意志は、辿っていくと明らかに"外的要因"に大きく影響されている。

「意志が始まりを所有したことなどあったためしがないのであって、意志は常に忘却を通じて本質的にそのもとを離れてしまっているのだ」

ハイデッガーニーチェ』の一文(※)だが、適切な言語化であるため引用した方が伝わりやすいかなと思っただけで、この"感覚"自体はこの言葉を見る前から自分の中にあった。
でもその感覚……アイディアもまた、これまで生きてきた経験の中で少しずつ得たものであって、きっと僕が無から創造したものではない。
上記の文は意志という観念に対してかなり批判的なニュアンスを含んでいるが、そのまま裏返してみると「自由意志というものを仮定するためには、適度な"諦め"と"受け入れ"が必要である」と言うことができる。
忘却なるものが、人間を本来あるべき状態から遠ざける疎外的な現象を引き起こすという隠れた前提があってこそこの意志批判は意味をなすのであって、逆に言えばそこさえポジティブないしはニュートラルなものとして読み替えてしまえば、むしろ意志擁護として使えるのがこのロジックだ。

國分功一郎『中動態の世界』からの孫引きだけど、この"孫引き"というのも今回の話にひっかかるところがあるので敢えてそのままにしておく。という名の怠惰。

 

コブがサイトーを無根拠に信じる場面というのは、そういった文脈の中のひとつとして捉えることができる。「自分には分からないが相手は分かってるのかもしれない」と信じて委ねる行為をポジティブなものとして捉えた上で、「俺が信じるお前を信じろ」的なメタ構造でもってお互いにその真実味をエコーチェンバー的に強化することができる。
ご存知なければ各自調べてほしいが、"ミュンヒハウゼンのトリレンマ"に対して「無限後退」≒自由意志の否定、「ドグマの仮定」≒自由意志の肯定……ではない第三の道として「循環参照」≒共由意志とでも呼ぶべき概念を提唱していると見る。

意志≒アイディアとは個人に還元できるものではそもそもなく、よって「植え付ける/植え付けられる」という二元論では語り尽くせない。
意志のような観念的な概念は、他者との"関係性の中で" "どちらからともなく"生まれる……或いは認め合うものであり、かと言って"責任"の概念をいっさい放棄する訳ではなく、お互いに責任を共有して負う。
「一人はみんなのために、みんなは一人のために」のような循環構造が、コブ↔サイトーの間にはある。

最低条件が2人なだけで、3人,4人ともっと拡張していくことは可能だし、意志という概念と同様に、"何が現実か"という判断基準もまた、複数人の関係の中で合意を取ることによって決められる。
このようなとらえ方をするならばラストシーンは、コブとサイトー(やアリアドネたち)にとっての"主観的現実"であるということになる。
何が本当の現実かという問いに対しては不可知論で蓋をし、夢か現実かを議論して、複数人の間で共有されたものを暫定的に現実と見做すのだ。

映画内においてメインとなるインセプション大義名分が「エネルギーの独占を阻む」だったことは、この解釈の傍証として機能するだろう。
ロバートにとってあのインセプションは、コブがモルの存在にとらわれていたように、父親にとらわれ(心を独占され)たままこの先を生きることを阻止してもらうための儀式だったと言えるし、エネルギーの独占の禁止が大義名分として観客に受け入れられる限りにおいて、インセプションという名の洗脳を行うことは正当化され得る。

 

 同時性の原理に従って事象をみるときは、何が何の原因であるか、という点にではなく、何と何が共に起こり、それはどのような"意味"によって結合しているかという点が重視されてくる。後者のようなものの見方は、実のところ、中国人の非常に得意とするところで、易経などは、そのような知識に満ちた本であるということができる。事象を因果の鎖によって時間系列のなかに並べるのではなく、事象"全体"をとらえて、その全般的な「相」を見出そうとするのである。
河合隼雄ユング心理学入門』241〜242p

神という絶対的な"1(The ONE)"から何かが始まるのではなく、陰と陽のような"2"以上の関係性から物事が始まるというのは、引用部分にもある通り東洋的な発想であるし、サイトーという東洋人に対して少なからず神秘性を見出している本作がそのような世界観を含んでいると考えることはそこまで不自然なことではない。

 

 

 


説6「相対主義的,個人主義的な夢/現実」
ラスト:夢

説5については、自分の中では正直特に文句のつけようもない、最終結論としてしまっても全く問題ない解釈だと思っているのだけど、それで終わってしまうとそれ以上何も考えることがなくなってしまうので、その後また発見したことについても書いておく。


クライマックスのシーンで最も重要なのは「一緒に年を取ろうという約束は既に果たしていた」というという部分だが、ではモルはなぜ「約束を果たせ」と迫っていたのかというと、それはコブが「あれは夢であり嘘である」と教えこんだからだ。
つまり、コブが犯した罪とは「"モルにとっての現実"を夢だと一方的に否定したこと」であるとした場合、モルが虚無でトーテムを手放したことを、必ずしも作品は悪いこととして捉えていないのかもしれない。
本作を『マトリックス』のフォロワーとして考えるにあたっても、「目覚めること」を相対化し「目覚めないこと」と並列に扱った2,3作目の文脈をきちんと引き継いでいると言える。

単なる夢に過ぎなかったはずの、そしてモルにも「あれはただの夢だ」と言い聞かせたはずの虚無での50年を、コブは最後の最後に「あれも現実だった≒約束は果たされていた」と認めたという構造であり、その意味で言うならば、ラストシーンはやはり夢かもしれないが、コブはトーテムを手放すことを(モルに許したのと同じように)自分に対して許すことができた、という話なのかもしれない。

 

 

……映画を見て感じたことはひと通り書き尽くしたように思う。これらの解釈が自分だけでなく、誰かが『インセプション』や『仮面ライダーゼッツ』を読み解く上での参考になったら嬉しい。
最終的には全人類に仮面ライダーの因子(アイディア)を植え付けて全人類仮面ライダー化する話になりそうだなぁとかテキトーこいておく。