いや、割と面白かったよ。
母が先に手を出したりソフビ壊したり、仲村はこれまで与えられてきたものを返す宣言をしたりと、気持ち悪いくらいに「仲村さんは(少なくとも母よりは)悪くない」と思わせるお膳立てがされてたから、そんなに主人公に不快感覚えることなく見られた。
何よりも、仲村と重ねられてるシシレオーがゲンカと同じ毒濁刀の力を使っているのが、きちんとどっちもどっち感を演出していて良い。
そしてそれは、言い方を変えれば"対等"ということでもある。
庇護下にいた頃とは違い、既に自立しているからこそ一人の人間として向き合うというのは、まさに扶養されている今の僕にはできないことなので、素直にすごいなぁと。
でも育ててもらったお金を返すって、捉え方によっては「老後の面倒を見る」という至極一般的な話にも聞こえたりする。こうやって上下関係が逆転して、今度は親が弱い立場……庇護される側になる。
そう考えるとすごく自然なことにも思える。
「大人にもなって特撮なんて」という価値観を一言で言い表すならば、"年齢に対する固定観念"ということになろうが、例えば「何歳になっても自立しないニート」に対しても"多様性"を盾に守るべきだろうか?
それを許容したとき、果たして趣味として働く人だけで世界は回るだろうか。
もしかすると、多様な存在は少数(マイノリティ)だったりそもそも大した差じゃなかったりと、"問題が小さい"からこそある程度の努力をすれば許容され得るものなのであって、マジョリティの抑圧された欲望は、現実的に受け入れがたい(コストを支払う者がいない)ものなのかもしれないと、最近思う。そういう意味で、以前話題になってた「LGBTばかりになったら国は潰れる」という発言は言い得て妙だなと。まぁ、ことLGBTの出産可能性に限っては、LGは代理出産や精子提供という方法で、Bは1/2で、Tも恋愛対象に依るんだけれど、だからやはり問題は存在そのものというよりはその"コスト"をどうするかと言う話だよね。まぁマジョリティならば費用対効果の関係でコストが支払われ安くはなるという側面もなくはないだろうけれども。
一番簡単で暴力的な解決法は、社会に依存せず"自立"することだ。自分のコストは自分で支払い、自分一人で存在として完結する。でも、永久機関が有り得ないらしいことからそれは無理だと分かる。
似たようなことを過去記事(エゴとエゴの均衡『映画 聲の形』 感想)でも書いたんだけども、コミュニケーションってこう……一種のゲームみたいなものだと思うんだよね。
例えば冒頭の茶番劇。仲村さんは恥を捨てて駄目元で「吠えてくれ」と頼んでみたら、相手は相手で"何か"を期待して、自分の利得のためにやってくれた。以前出た単語で言えば、利害の一致と言うやつ。
結果的に彼の期待は読み違いだったみたいで、彼は判断ミスによって恥をかいてしまう。
自分の手札(吠えてと頼む/頼まない)の中からカードを切り、相手もそれに対応してカードを切る。そこに善悪はない……というか、根本的には意味をなさない。善悪という概念は何もしてくれない。それに従ってプレイヤーがアクションを起こすだけ。
理由や価値を僕らが認識するかどうかと関係なく、現象(プレイ)は進んでゆく。
自分自身のことでさえ時としてコントロールできない。「特撮が好き」という現象は、おそらく意識としての仲村さんにはコントロールできない、自然でどうしようもないことだったのだろう。
そして母にとっての「特撮が嫌い」もそれは同様。
何故そうなってしまうのか、どうしたらそれを変えられるのか、分からないままに自分を含んだ"世界"は進む。
盲目なのだ。
さて、いつもの何も産まない虚無主義的な話も終わったところで、仲村さん個人の話としては、この辺りで「自分が苦しいことは、弱きものを見捨てていい理由にはならない」というのが自分に返ってくる。
つまり自分の"好き"が抑圧され苦しいことは、母の"嫌い"を抑圧していい理由にはならない……はずだけれど、この辺りをどう(自分の中で)擦り合わせ、着地させるのか。
「特撮が大切なことを教えてくれる」と言い張る彼女がどう自分を正当化するのか、あるいはしないのか……とても興味がある。次回が楽しみだ。
次話