やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

ニートによる「仕事論」

僕はニートだ。
高2で体調を崩して受験を諦めてから、アルバイトも1ヶ月以上続けた試しがないまま20歳になり、先日成人式及び同窓会に参加して「今何してるの?」「何もしていない」というやり取りを繰り返し、自分の無職ぶりを痛感している。

ギリシャの哲学者達は、奴隷に労働させて空いた時間を思索にあてていたと聞く。
そんな彼らよろしく、僕も父のおかげで持て余した暇をもって日々色々なよしなしごとについて考えさせてもらっている。僭越ながら、少しでも労働に従事している多忙な方々の"代わり"になればと思い、こうしてブログというかたちで発信をしていたりする。
自分の生活や経験から得た知見なので、いわゆる自分語りが必要に応じて挟まることは先に断っておく。

 

目次

 

労働の義務は何のため

当然といえば当然のことだが、金銭的な意味で親にすべてを頼っている生活をしている(そしてそれを肯定している)と、色んな人から「お前はクズだ」などと言われることがある。
その際に根拠とされるのは、概ね「勤労の義務を果たしていない」ということだ。
ただ、ここでは実は国家に対する義務であるとかいった細かい解釈の話は一旦置き、多くの人がイメージする「人は働かなければならない」という道徳律に近いものを扱うこととする。

「その義務は何の為にあると思うか」と問うと、大抵はまず「納税の義務を果たさせるため」だと返ってくる。
だが、僕は別に脱税をしている訳ではない。国の定めるところに従い、所得税は所得が基準を越してないので払わなくてよいし、住民税などは父がではあるがきちんと払っている(はず)。ちなみに年金はとりあえず納付猶予ということにしてもらっている。納税の義務を根拠に、「ニートたる僕に対する嫌悪感」を説明することはできない。


僕自身は、労働の義務とは「社会の構成員として、何らかのかたちで社会に貢献する(働きかける)義務」だと感じている。
そしてその意味では、微力ながら僕も"働いて"いる。
まずこのブログ。自分自身に収益が入るようには設定していないが、表示されている広告によって"はてな社の広告収入"の一助となっているはずである。Twitterでの活動も同様にカウントできる。
また、僕は日中「地域活動支援センター(通称地活)」という障害者のための施設に通っており、むしろ利用料100円を払った上で、皿を洗ったり洗濯物を畳んだりといった簡単な作業を好んで手伝っている。他の利用者にスマホの使い方を教えたり、勉強中の手話で聴覚障害者への簡単な通訳をした場面もある。
あと細かいところだと、道に落ちてるゴミを拾うことも割とする方だと思うし、スーパーや本屋で陳列が乱れていたりすると直したくなる性分なのでそれもよくやる。この間は道に迷った観光客を、30分ほどかけて駅まで案内してあげたりした。
文章の執筆や家事めいたこと、手話通訳にゴミ拾いに陳列棚の整理など、有り余る暇を利用して"仕事"となり得る活動自体は、人よりは少ないかもしれないがしているし、僕はこれらの行動に少なからず"やり甲斐"を感じて、そこそこに充実した日々を送れている。

 


抑圧されるマジョリティの悩み

話を「ニートに対する嫌悪感の根拠」に戻すが、僕に思い付くのはあと2つ。
まずひとつは「みんな我慢して働いてるのにお前だけズルい」という嫉妬。

これはここで扱うには根深過ぎる問題だ。
正直、「働きたくない」なんて全人類が思っていてもおかしくないだろう。
よくマイノリティがマイノリティ故に苦労するという話が取り上げられる。これは言わずもがな「少数者のためにわざわざコストをかけることに対する抵抗感」がもたらすものであるが、見方を変えれば対象が少数ならばかかるコストも高が知れており、その気になりさえすればなんとかなる可能性が高いということにもなる。
逆にこの「働きたくない」という悩みは、マジョリティ故に抑圧されてしまう。そう思う全ての人がいきなり働かなくなったら、この社会は立ち行かなくなってしまうだろう。
マイノリティは「みんな我慢してる」の"みんな"に含まれていないという点でこれを逃れ得るが、マジョリティに逃げ場はない。
ニートに限らず不労所得や莫大な富を得た故に働く必要がなくなった人たちにまで、その「ズルい」の牙は向けられる。

余談だが、以前プリキュアシリーズにおいて初となる"男の子が変身するプリキュア"が生まれたことがあった。その際、一部フェミニストから「結局救われるのは(男児向けアニメを好む女の子ではなく女児向けアニメを好む)男の子で男尊女卑的」という声が上がったのを覚えている。
女性仮面ライダーは一応だいぶ前からいたなどという話はさておき、差別されてきた誰かが救われることに対してまで「ズルい」は付きまわる。
女性が救われるまで他の誰も救われたらいけないって一体どういうことなんだろうね。できるところから少しずつ助けていけばいいのに。
性別にとらわれない生き方をできる人が生まれたことは、少なくとも男女平等を願うなら喜びこそすれ、批判するようなものではないと思う。僕はそういう意味で、自らを平等主義ではなく"女性主義"と呼ぶ人たちのことをあまり好んでいない。

 

おそ松さん現象」

これらの「ズルい」という感情に対する根本的な解決は、技術の発展に期待するしかないように思う。
世界の需要と供給の接続効率を高めていくことで、まずはやりたい仕事に就きやすくする。例えばギターを求めているバンドと、バンドを探しているストリートミュージシャンを繋ぐようなイメージ。従来あった物理的な距離の問題なども、通新技術の発達によって解決し得る。北海道にいながら沖縄の会社に務めるようなことができるようになれば、就ける職の選択肢は広がり、仕事への不満は徐々に減っていくことだろう。すると「自分は我慢している」という感覚が緩和され、働いていない人への嫉妬心も減る。

最終的には、"仕事"という概念自体の解体が予想される。
上述した需要と供給の接続効率が極限まで高まると、「おそ松さん現象」とでも言うべきことが起こる。
おそ松さん』とは赤塚不二夫の『おそ松くん』を原作とし、ニートとなった6つ子の日常を描くギャグアニメであり、かなりの人気作となった。
もちろん『おそ松さん』自体はアニメスタッフが仕事として意図的に人気を取ろうと制作したものではあるが、例えとして「ニートの日常風景に需要が生まれる」というのは非常にキャッチーで分かりやすいのでこう呼ばせてもらう。
人の好みは千差万別なので、あなたの声や容姿、挙動や発言に至るまで、全てのものに「誰かが好む可能性」はある。
既にYouTuberなどというかたちで一般の人がアイドル的な人気を得る事例は起こっているが、それがもっと日常に溶け込むイメージ……というのは逆に分かりにくいだろうか。
「好きなことをして生きていく」なんて標語の通り、自分がやりたいことをやっているだけで、誰かがそれに価値を感じ、面白がったり必要としたりしてくれるようになったら、きっとみんな幸せだろう。
イメージはしにくいだろうが、例えるならば障害者アートの方が適切ではある。
重度の知的障害がある人でも、何らかの生産的な活動をすることはある。絵を描いたり砂場で山か何かをつくったり、気に入ったものを集めて"巣"のようなものをつくったり。そういったものを取り上げてみんなで面白がろうという取り組みだ。それが健常者にまで一般化されるような感じ。
趣味で書いた絵などに誰かが投げ銭をしてくれて、自分も気軽に他人の何かに投げ銭をする。
絵でもまだハードルが高く感じるなら、最近あったエピソードなんかでもいい。「今日こんなことがあってさ」「昨日こんなミスしちゃったんだ、笑えるよね」なんて他愛のない話にだって価値は生まれ得る。場合によってはそういう細かなエピソードを創作のネタとして買う人も出てくるかもしれない。実際、実話を漫画とかにしてる人いるものね。『私のおっとり旦那』とかかわいくて好き。
"苦労して我慢して手に入れたお金"でないのなら、そういったものに払う抵抗も減ることだろう。
詳しくは鈴木健さんの『なめらかな社会とその敵』という本の、中でもゲームプレイワーキングという話題についてを読んでみるといい。

 


プレゼントは一方通行

次に検討したいのは、当人が働かないぶん他人……親だったり国だったりが負担を被ることに対する義理の感情。

親に(強い)自由意志というものを認めるならば「義務の範疇を超えて養うのは個人の自由であり、他人が口出すことではない」で片が付いてしまう。国についても自ら勝手に社会福祉という制度をつくり、対象者も自ら吟味しているのだから同様のことが言える。
だがそれで終わってしまってはつまらないので、ここでは返報の是非について取り扱ってみることにする。


お返しをすることに非などあるのかと思われるかもしれないが、少なくとも僕は日頃から感じている。
至極単純な話だが、せっかくあげた厚意を、何が悲しくて熨斗つけて返されなければならないのかと、そう思うのだ。
例えば誕生日プレゼント。"交換"してしまうと、どうしても"チャラ"になってしまう感じがする。「それなら自分で買えばいいじゃん」なんて言う人(僕だが)が出てくるのが何よりの証拠。
「今月ちょっとお金ないからプレゼントってことで買ってもらって、相手の月までにゆっくり貯めよう」
「今月ちょっと余裕あるからプレゼント買って、忘れた頃に返してもらって喜ぼう」
みたいな風に考え始めると、実質的にやっていることは"お金の貸し借り"でしかなくなってしまう。


プレゼントとは本来、相手に得をさせたいという感情から発生するものであり、対価を求めると意味が違ってしまう。
もちろん、お互いがお互いにプレゼントしたい気持ちを持った結果として交換のような様相を呈すことはあろうが、重要なのは本人たちにその意図があるかどうか。
それが本当にプレゼントであるならば、その矢印は一方的なものでないといけないのだ。
だから……という訳ではないが、僕は昔から人からの厚意(特にモノ)に対しては、少なくとも意識的にはほとんどお返しをしてこなかった。
バイト先で差し入れを貰ったときも「ありがとうございます、いただきます!」以上のことが湧いてこない。今度は自分が……なんて、何年経っても出てこない気がする。
そろそろシーズンのバレンタインチョコなんかも、考えてみるとお返ししたことが滅多にない。人生で一回だけかもしれない。まぁ大抵はあげようかって言われたときに「ありがとう。でも、何も返せないけどいいの?」って言ってるからいいんだけどさ。……いいのか? 僕にとってはそれが普通なんだけど。おいしくいただいて、嬉しいなって感じて、それを伝えて終わり。
まぁ、くれるって言われたときの第一声が「何も返せないよ?」なのはちょっとオカシイ気もするけど。相手が見返りを求めてる前提の返事だもんな。ホワイトデーという文化があるとは言え。
でも見返りもなしに何かをもらえる前提なのも傲慢だし、ここは悩ましいところか。


そのような対応をしていて相手にどう思われてきたかは僕には想像することしかできないが、少なくとも僕が相手に厚意を与えた際は、それを返されてしまうと自分の厚意をなかったことにされたような気がしてモヤモヤする。
分かりやすさを重視して現金な表現をすれば、相手に5000円分の得をさせたかったのに3000円分のお返しをされてしまっては、相手の得は2000円に留まってしまう。それは自分の本意ではない。
上述した皿洗いや洗濯物、手話通訳に道案内などと言った行為がいい例だ。僕は直接的なお返しを得ないからこそ、そのような小さなことに"やり甲斐"を感じられる。これは相手から与えられるものではなく自分の中から湧き出るものであるので、「相手に得をさせたい」という目的に反しない。
あと、「ありがとう」も別に言って減るようなものじゃないので、僕はここで言っているような"お返し"には含めて考えていない。

うちには祖母がいるのだが、最近人並みにボケてきている。そんな彼女も必要とされたいのか、僕の洗濯をやりたがる。ボケのせいなのか彼女に任せると高頻度で靴下や肌着がなくなってしまうので、正直に言えば自分でやった方がはやい。だから彼女に任せる際は、自然と「やらせてあげてる」という認識になる。
父もそうだ。彼は僕の苦手な食べ物を知らないので、食事の用意をしてもらうとこちらも不満が溜まるし向こうもせっかくの厚意が無駄になってしまう。そういった理由から普段は食費という形で貰って自分で用意しているのだが、時たま「食費を与えた上で用意したがる」時がある。自分の子供の食べるものを管理するというのは、支配欲を満たしてくれるのかもしれない。ここでも僕は「やらせてあげてる」と感じる。食べられない訳ではないのなら、我慢して食べてあげる。
僕がやり甲斐を得たくてやっている行為と同じように、「本人がしたくてしていること」ならば、見かけの恩に関わらず負債の感情を負う必要はないだろう。
有り難い(≒珍しい)ことだとは思うものの、仮に相手が対価を求めていても、これらに関してはとても返す気にはならない。

 

以上の内容を踏まえて考えたとき、対価を得て相殺されていない分、ひょっとすると僕はそこらの働いている人よりもむしろ社会に対し"生産的かつ貢献的"に活動していると言えるかもしれない。
さながら、無償で僕の生活費を負担してくれている父のように。

人は誰しも、20年近く与えられっぱなしで生きる。その負債の感情を、今度は自らが次世代を育てることで精算しようとする。
そんなような話を、この間ご老人から聞いた。
人と人との支え合いというのは必ずしも2者間で循環させるだけではなく、よりマクロな視点で人から人へ、更に人から人へと巡り移ろってゆくものなのではないだろうか。

 


"働く"とは

現在市場にある多くのものは、生きることに必要とは言えない嗜好品である。
そういった重要度の低いものを生産することに価値が見出され、あなた方の"働き口"が確保されているのは、緩やかな「おそ松さん現象」によるものだ。社会の余裕が増えれば増えるほど、それまで価値が見出されなかったものにも目を向けるようになる。
髪の毛にフケが付いてるなんて、シャンプーなどなかった昔にはきっと誰も気にしていなかったことだろう。放置したからといって大した害がある訳でもあるまいし。
しかしそれを勝手に取り沙汰してお金をかけるようになる。
化粧などもそう。自分たちで「やらないといけない」という空気を醸成してお金を浪費する。
人の需要なんてその程度のくだらないマッチポンプなのだ。
たまたま今の時代に必要とされていない、日の目を見ていないだけの生産活動はごまんとある。それらを「価値がない」と切り捨てることは、諸刃の剣だ。自分たちのやっていることも、他人からそう言われてしまえば簡単に瓦解してしまう砂上の楼閣なのだから。


「生きるために、生きるのに不必要なことをする」というこの大きな矛盾が、当たり前のこととなって久しい。
今日の食料を求めて狩りをするような、従来確かにあったはずの必然的な結び付きに基づいた生活に戻ることはもはや不可能と言っても過言ではない。
であるならば、まだ価値を見出されていないだけの人々をむやみに否定せず、無意味なことにも意味が生まれ得るということを認めていくほかない。

 


働いていないことの何が悪くて、働いていることの何が善いのか、少しでもこれまでと違った視点を提供できただろうか。
最後に、何故僕が働いていないかという話をしよう。
スーパーでアルバイトをしていた頃、自分の働きに時給800いくらの価値が果たしてあるのかと自問自答した。
正直、ないと思った。
ミスも多ければ手際が良い訳でもない。障害特性によって自覚なく迷惑をかけているかもしれない。
お金が欲しいだとか親に対する申し訳なさを解消したいとか言った自分の都合を職場に押し付けておいて、自分は一体何を返せているのかと。
給料という形で対価を求める限り、自分はそれに見合った働きができているのかという悩みはついて回る。
そこから逃れようとした結果が、対価を得ないという比較的な安全圏から人の役に立ちそうなことをするという現在の状況になる。
祖母や父のエピソードのように、「相手のためだと思っていても実はありがた迷惑かもしれない」という不安は残るものの、大分気持ちは楽になっている。

僕にとっての「働かないこと」というのは「自分が得をしないこと」であって、それすら責められるといよいよもう行き場がなくなってしまう。
これまで綴ってきた内容は有り体に言えば、僕がそういった罪悪感から心を守るための詭弁に過ぎないのだが、そういったものにだって幾許かの価値は見出されるかもしれないという期待を込めて、記事として残しておく。