やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

トクサツガガガ 7話「スキナモノハスキ」 感想

最終回って言われてもあんまりピンとこない(ベースが現実なので盛り上がり……特に映像的なものが少ないのは仕方ない)けど、それでも面白かった。

前回のラストが話題を読んだのか、うちの感想もかなり検索から読まれたんだけれど、そのボルテージの高さに反して素朴というか、"しれっと"進んで行ったのがポイント高い。
現実はその場の勢いで何か大きなことが起こってもしれっと続いていくんだっていうのがよく表現されてる。
僕は衝動的に行動することが結構あって、突然の思い付きで山登ったり歩いて遠出したりするんだけど、1時間くらいすると「なんでこんなことになってるんだっけ」みたいになることが多い。「なんでこんなの買ったんだっけ」とか。
「縁を切ってはいおしまい」とは、そう簡単にはいかない。現実は夢や物語と違って、"続く"から現実足り得る。
僕の記憶が正しければ、継母と父の離婚は僕が(僕も)望んだものだったはず。
「私とあなたは元々血が繫がっていない他人なんだから、あなたが『このお母さんは嫌だ』と言えばまた他人に戻れる」
そう言われて、「嫌だ」と言った気がする。もちろん実際に僕の一存で離婚が決まった訳ではないだろうけれど、少なくとも幼い僕は「自分の選択によって継母と離れられた」と認識していた。でも今でも僕にとって彼女は"元継母"であって、"他人"ではない。まぁ表現自体はなんでもいいんだけれど、記憶というのは都合よく無くなりはしないということ。
劇中の仲村さんのように不仲に対して「どうにかしなきゃ」と感じるようなかたちでなくても、何らかの影響は残る。
好きな気持ちがなくならないように、どんな経験も無意識の中で生き続けて、自分を形成する。


具体的な描写としては「仲村さんが母の"好き"を認める」という感じだったけれど、"かわいいもの"を介して、多分仲村さん自身への愛情を認めるって流れでもあるんだよね、多分。
"嫌い"に直接フォーカスしないのはちょっとモヤったけど、まぁまぁいい塩梅だったんじゃないかな。

エゴとエゴの均衡『映画 聲の形』 感想」でも言ったけど、暴力もれっきとした(というと角が立ちそうだけど)コミュニケーション方法のひとつなんだよね。
少なくともこの2人のケースでは、結果的に、あの感情のぶつけ合いがそれなりに良い(かどうかは捉え方次第だけど、あのような)方向へ転んだ。


ふと考えると、僕はむしろ"母親"側の人間だなと。僕は両親の宗教(っぽい会)を忌み嫌っていて、"グッズ"を捨ててやろうと思ったことも何度かあるし、はっきりお金の無駄だからやめればいいのにと思ってる。
「仲村さん(はじめとするオタク)が絶対正義で母親が絶対悪」と思っている人が母親側に感情移入する比喩構造として、宗教というのはなかなか良いコンテンツのように思える。1話にて隠れキリシタンの話が出てたように、親和性は意外と高い。
「こんなもんがなんになるのよ」のソフビを壊す様は、まさに神様っぽい像を壊してやろうと思った僕のそれとそっくりだ。
この辺はRADWIMPSの『洗脳』という曲に詳しいのでそちらを。

youtu.be

 

もうちょっとマイルドで分かりやすいところだと、SEKAI NO OWARIの『Death Disco』とかもそんな感じかな。懐かしいなぁ。

youtu.be

 


本作を見て「趣味に寛容であれ」と声高に叫ぶ人たちは、例えば(元?)清水富美加さんの出家騒動のときに、どんな態度をとっていたんだろうね。
ちなみに僕は前述の文脈もあって"宗教"というだけであまりいい気はしなかった。でもまぁユウキとは別人だし、なんでもいいかと。

主題歌に「別に迷惑かけてないのに〜」ってフレーズがあるけど、そんなことはない。母親は仲村さんが特撮好きなことをきちんと不愉快に思ってるし、恥ずかしいとも思ってる。僕にとっては、神を信じているというのもそれだけで不愉快だ。

また、僕の部屋は汚いとよく言われる。でも僕は気にならない。「あなたが気になるならあなたが掃除すればいい。僕は困ってない」と思ってる。まぁ勝手に捨てたり変なとこに仕舞われたりしたら多分怒るけど。
ゴミ捨てとかも、忘れてたら自分の部屋に平気で溜めておくし、むしろ両手いっぱいに持って行った方が効率がいいと思ってる。でも家族はそうではないので、「仕方ないなぁ」とか言いながら勝手に捨ててくれる時もある。
似たようなことが、もしかすると「旦那が家事をやらない(し感謝もしない)」的な案件にも言えるのかもしれない。

 

 

 この(ヤング?)ブラック・ジャックの字幕写真にも以前ツッコんだけど、「お前の主義主張は否定しないが押し付けてくるな」というのも主義主張の1つでしかない。「自分の主義主張を押し付けてやる」という主義主張の人と対面したら、どうしようもない。
殴り合いでもコイントスでも何でもいいけど、何らかの形でどちらを優先するか決めなくちゃいけない。
どちらかの利益を取ればどちらかが不利益を被るようなトレードオフという状況は、それなりに多くある。
ちなみによく言われる"棲み分け"というのは明らかに「押し付けるな」寄りの発想なので、この件においてあまり意味はない。


世界は寛容であるが故にどちらが正しいかを決めてはくれない。
僕は自分が正しいと思ってる。誰かに対して「間違ってる」と思うこともあるし、それ自体が自分の間違いだとしても、それでいいかなって。
間違っちゃいけないなんて道理は少なくともこの世界にはない。"世界にとっての間違い"なんてものはこの世界に有り得ない。存在するからには、それは世界に許されている。
"僕にとっての間違い"は、僕が納得するか説得するか、それ以外の選択肢だって選べる。
ショッカーのように何かをこの世界から排除しようとする動きや、仮面ライダーのようにそれを排除しようとする動き、更にそれを阻もうとする動き(ショッカーライダーやダークライダー)すら世界は許容してしまう。
だからこそ「自分の目、見ている景色だけを信じてるしかない」。

『EGO~eyes glazing over』

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