第6章 陶酔の神威為士
影を奪われた者
・カメンズが既にカオスを完成させた人たちであることは9章で語られるけど、神威は一度カオスを完成させてるにも関わらず今もなおカオスワールドに入りたいらしい。
曰く「カオストーンが俺の本能をどう映し出すのか、興味があった」とのことだけど、今のところ描かれてる限りでは他にそんなキャラはいなかったはず。
6章の最後でカオストーンを手放していることから逆算するなら、ゲストの人々と同様にやっぱりそれも現実から逃避するネガティブな発想として位置づけられているのかな?
「俺の可能性の全てを見せてみろ」という表現もされているのを考えると、カオスワールドなどという"自分だけの閉じた世界"を自分の100%と規定してそれを求めた訳だけどそうじゃなくて、自分以外の他人と関わることで新たな刺激を得て、100%を超えて更に自分を高めていく姿勢を得るのが、今回神威に与えられた物語的な試練なのかな。
でも今回神威がそういう発想を示してくれたおかげで初めて分かったけど、このカオストーンの設定はかなり『ギーツ』に似てるね。
最初は『ギーツ』ってよりは、神威がカオストーンを開けない描写を見て鏡に映らない吸血鬼みたいだなって思ったのよね。実際の鏡に映らないって設定にするのはちょっとフィクショナルすぎるから、あくまでカオストーンという舞台装置を介してのみ反映されるかたちにするのは理に適ってるし。
吸血鬼が鏡に映らないのは、ユングが言うところの"影"の部分を彼が持っていないからと見ることができて、まぁ吸血鬼の場合はむしろ影の部分しかないと言った方が直感的ではあるけど、ユング心理学の文脈における"影"というのはその性質(善悪や明暗)に関わらず「表に出てきていない抑圧された部分」のことを指すので、夜に主に活動する吸血鬼にとって"昼の顔"がないことは、"影がない"と表現できる。
この話はライドカメンズにも応用できて、カオストーンは見る者が抑圧していた本能的な願望を映し出してカオスワールドを形作り、その欲動をカオスとして分離する。今まで見てきたジャスティスライドの面々が顕著だけど、カメンズたちはそういう無意識の領域をごっそり抜き取られていて、一面的な存在に作り変えられている。
陽真は泣いたことのない明るいやつに、紫苑は怒ることのない優しいやつになってしまったように、今の神威も本来あったはずの"本能"とやらが欠落していて、だから何も映らないし、カオスワールドを開くことができない(※)。
……で、これってかなり『ギーツ』の設定と同じだよねという。
デザイアグランプリの参加者は"理想の世界"を叶えるためにゲームに参加するんだけど、脱落してしまうと彼らは記憶と共に、その理想を願う欲望の源である"ギラギラ"を奪われてしまう。ただし再度IDコアに触れると記憶やギラギラは元に戻る。
前年の『ドンブラザーズ』は敵の目的がざっくり言うと「人間からそういった欲望を消して安定した世界をつくること」で、恐らく『ギーツ』も世界が滅びの道を辿らないように大局的にはそういう意味合いで欲望の消去を行ってるんだろうなと思うんだけど(強い欲望を持つ者が世界を救ってくれるヒーローになるならそれはそれで良いし)、本作の敵組織カオスイズムは、どちらかといえば「人が本能のままに生きられる世界」を作るために動いているという違いはある。
ただそのためにやってることがカオスの生成なことを考えると、デザイアグランプリがみんなの生きる現実世界そのものを理想的なものに変えようとしてるのと比べるとかなり消極的というか、個々人がそれぞれ理想的な夢を見られる仮想世界で生かすみたいなところを目指してそうではある。
最終的には創世の女神みたいに、集めたカオスの膨大なエネルギーで世界そのものを変えるつもりなのかもしれないけど。
※第2部では雨竜がカオスワールドを開いていたけど、あれはそもそも欠落しているはずの無意識を宿した本人の第二世代カオストーンを使ったケースなので、今のところこの解釈の反例はないと思う。つまり神威が見たがっている「自分の本能を映したカオスワールド」は、彼自身の第二世代カオストーンを手に入れることでしか見ることができないのだろうし、恐らくその世界は今の神威が思ってるほど美しいようなものではない。
『ライドカメンズ』と『ギーツ』
・ここからは作品の感想や読解とは直接関係なくなるけど、ライドカメンズってつくづく『ギーツ』の年にリリースする予定だったんじゃないかという気がする。
・武部直美プロデューサー×高橋悠也脚本であること
・過去に類を見ないくらい多数のライダーが登場すること
・カオストーンとIDコアが似ていること
・特定の仮面ライダーを"推し"と設定して応援する"サポーター"の概念がゲームのプレイヤーにそっくりなこと
・そのサポーターもジーン(感動),ケケラ(楽しさ),キューン(切なさ),ベロバ(愛憎)と"4色の感情"を当てられていること
財閥の跡取り設定な祢音/ノアの仮面が同じく猫……みたいな細かいものも含めると、『ギーツ』と並行して展開されていたら紐付けられて面白かっただろうなと思える要素が本当にたくさんある。
もちろん単純に同じコンビだから作風が似てきているだけという可能性もあるけど、そう仮定して見てみると、先日ギャンビッツインが登場したことがより興味深い。
(…………)同じくレジェンドライダーをモチーフとして採用しつつも独自のキャラクターとストーリーを展開した50周年記念作品『リバイス』放送中の5月にライドカメンズがリリース、9月に『ギーツ』が放送開始して、それに呼応するかのように高橋悠也執筆の本編軸イベント「SHOW MY CARDS」が実施、10月下旬に初の新ライダー ギャンビッツインが実装され、11月に初の強化アイテム フィーバースロットレイズバックルが登場するという流れになる。
色んな意味で、なんかめちゃくちゃ綺麗じゃないですか?
皇紀役の松岡禎丞さんがスエルや各種ドライバー、慈玄役の岡本信彦さんはニジゴン、ランス/Q役の天﨑滉平さんは冥黒王ジェルマンやエクシードファイター、颯役のKENNさんはビートルクスと、『ガッチャード』も含めた近年の作品に先駆けて参加していたのも、企画の走りが『ゼロワン』後なことを思うと案外ライドカメンズからの逆輸入だったりするのかもしれないし。
……もちろんこんなのは、仮にそうだったとしてもそうじゃなかったとしても特になんの役にも立たない世迷言だし、だいたい年明けくらいまでの展開は先に決まってるとしても、それ以降の展開においてはさすがにゲームと連動させることはできないことが分かった上で考えてるだろうから、『ギーツ』がこの時期にこうなってるからライドカメンズもそうなるかも!?みたいな予想の材料にも多分ならない。
今年リリースされたのだって言いようによっては、ライドカメンズの元ネタの雰囲気をざっくり把握したいなら、ちょうどエボルトが参戦した『アウトサイダーズ』を見るのが最高効率(黎斗,浅倉,海東,滅,エボルト)みたいなこと言ってる人もいたりして、それも確かになって思うし。
本当にたまたまこじつけられる感じだったから試しにやってみただけで、それ以上でも以下でもないんだけど、まぁ少なくとも僕にとっては、高橋悠也脚本なのに『ゼロワン』と違って全くと言っていいほど楽しめなかった『ギーツ』をちゃんと見返してみたいと思う強い動機になったかな。
・カオストーンを取り戻すために自作自演してノアを誘きだしたことをすぐバラしちゃう神威。普通に考えたら仮にも騙していることに罪悪感を覚えて……みたいな理由がまず思い浮かぶけど、単に本人の美学として嘘をついたりそれを取り繕ったりするのは美しくないからみたいな理由があるのかな。
ただ、僕は5話の荒鬼と神威どっちが正しいかって選択肢で「自分の部屋の壁に自画像を描くのは荒鬼への嫌がらせではないけど、神威が描いた絵を塗り潰すのは明確な神威への嫌がらせだから」って理由で神威の肩を持ちたいんだけど、そこで仮に荒鬼の方が正しいって答えても「確かに、俺の崇高な芸術を描くには、寮の壁は狭すぎたことは認めよう」って素直に受け入れてくれるし、「変態」って言われたときも気を悪くしてなかったしで、意外とノアのことを気に入ってるのかもしれない。
これはこういうたくさんキャラがいるゲームにありがちなことな気もするけど、出会って間もないはずなのに、一癖も二癖もあるキャラたちが主人公のことは主人公だからという理由で、強く否定したりはあんまりせず一応ちゃんと話聞いてくれがちなのが、やや気になる時はある。
神威に関しては、自分の中に『東京喰種』の月島習とホリチエっていう類似例(無害な愛玩動物みたいなものだと認識してる)があるから、なんとなーくあれに似た感じなのかなって思って普通に受け入れてるけど、例えば戴天さんまでもがエージェントは信頼できるからとか言って機密事項を共有してくれるのはちょっと甘すぎないかなと思ったりする。雨竜くん関連のごたごたで判断力が鈍ってたのかもしれないけどさ。
その点、宗雲さんは公私をキッチリ分けて客じゃない時は冷たいみたいな描き方が独特だったりして、全員が全員そうって訳じゃないしね。神威も、芸術なんかより命の方がって言ったときは「凡人と議論するつもりはない」と一蹴されてるし。
美しさへの執着
・5章のラストが印象的だったけど、神威の美に対する意識というのは"強迫観念"の域に達していると言っていい。本人はそれが自分自身の生きる目的だと思ってるけど(神威キャラエピ「人生の命題」)、どうしてそう思うに至ったのかという人生の経緯までは本人の記憶にはどうやらなさそうなので、やっぱりこれもカオストーンに奪われた「暗い過去」なんだろうな。
彼には"耽美主義"という言葉があまりにも似合いすぎるので、過去も理由も何もなくてただ美を追い求めるためだけに生まれてきた存在かもしれないけど、それだと話が広げられそうにないので一旦理由があることにさせてください。黎斗にも、最低限こちらが納得できる背景は(本人は否定しつつも)描かれてるしね。
自分の体をあんまり大切にしないことや、元ネタが『エグゼイド』の檀黎斗なことを踏まえると、完璧主義な親の影響って可能性はかなり大きそう。
そもそも神威が、自分のスタイルとかってよりは主には顔に執着しているのは、失われた記憶……特に両親の面影を心のどこかで追ってるのかなぁという気がなんとなくしてて、これは黎斗を重ねてる影響かもしれないけど、とにかくソリストを気取ってはいるけどその実はかなり寂しがり屋なんだろうなという印象が強い。
今念頭に置いてるのは『彼方のアストラ』に出てくるルカ・エスポジト。芸術家の親に、自分の理想とする"美"を実現するためにわざと男女両方の特徴を持つクローンとしてデザインされた出自を持つキャラで、神威もそうやって親が求める美しい顔であることを強いられてたのかなと。
父親が画家で母親がそのモデルだったから、2人の子供として生まれた神威は最高の画家でありモデルでなければならない?
あとビーズログの連載でも他のエピソードでも、神威を表す単語として"死体"ってワードは散りばめられてて、もちろんゲンム ゾンビゲーマーがモチーフだからというのは第一にあるとしても、例えば『アマゾンズ』のイユみたいに彼自身の過去に死体が関係している可能性も高い。
「モデルなんだから動くな」って言われ続けた先で「いっそ死体になれば動かない上に美しさも完成するのでは」とか考えた親に殺されたとか……さすがに悪趣味すぎるか……。ライドカメンズの感想、カオストーンのせいで気が付くとどこまでも胸糞悪い話を妄想してしまうの良くない。
「Search For The STARS」での老いが怖いって話もこの先入観があったので、死体だからこれ以上肉体的に良い方向へ成長することができなくて、劣化していく一方なのかなとか思った。
アカデミーで"訓練"してたじゃんとか辛いものを食べて老廃物を云々みたいな話もあるのでそことの整合性が厳密には取れないんだけど、筋肉を鍛えて体を内側から改造する荒鬼と、化粧などを施して外面的に整える神威みたいな対比として見えてて、自分にはできないことをやってて妬ましいから荒鬼とは反りが合わないのかなと思ったり。
その仮定で話すなら、神威が才悟のことを妙に認めてるのも、故人であるはずの誠実な男と何か関係がありそうなことに起因してたりするのかなーとも。
死を描く耽美主義
・既に命を失ってるからこそ見える生と死の狭間にある景色って、それは多分美しさとは相性がいい。しかもただの美しさというよりは、それこそ耽美主義が目指すようなモラルにとらわれない背徳感を伴うタイプの美。
近年で言うなら『夜に駆ける』の原作である『タナトスの誘惑』ってタイトルはかなりそれを適切に表してて、小説自体は正直曲がつくったハードルを超えてくるようなものではなかったというか僕の好みからは少しズレてしまったんだけど、この題は何度見ても素敵だと思う。
僕があの曲をすごくいいなって思うのは、自分のワガママを受け入れてくれる相手に甘えすぎることが、どれだけ相手の心を消耗させてしまうかってことを描いてるところで、「死にたい」とかじゃなくても頻繁に答えのない悩みを相談して他人に寄りかかりすぎてた中高生時代を思い出して、こうして支える側だった人の気持ちが少しでも想像できるようになったからなんだよね。
「もう嫌だって疲れたんだ」って
がむしゃらに差し伸べた僕の手を振り払う君
「もう嫌だって疲れたよ」なんて
本当は僕も言いたいんだ
つまり、僕にとって『夜に駆ける』のキモは「元々は人生うまくいってて死にたいなんて考えたことないし、剰え死のうとしてる他人を支えてあげるほどの精神的余裕を持っていた人が、病んでる人を助けようともがく内にで彼自身も心を病み始めてしまう様」で、ライダーで似たシチュエーションを挙げるなら『小説 仮面ライダーファイズ(異形の花々)』での長田と啓太郎だろうか。
他人に無理難題を突きつけて、それに付き合ってくれているうちは「自分にはそれだけの価値がある」「自分は愛されている」と確認できるから、延々とそれを繰り返してしまう。相手は「この無理難題に答え続けていたら、いつかきっとこの人は変わってくれるはず」と思って付き合ってくれるんだけど、やればやるほどエスカレートして逆効果になることも多い。
いわゆるリミット・テスティング(試し行動)というやつ。
僕のこの第一解釈においては、最後の心中は悲劇として捉えるのが自然だし、一般的な社会規範から考えても心中を良い結果として位置づけることはナンセンスだけど、先述の耽美主義的、あるいは退廃主義的な立場から見るなら、このラストは「それが例え死というかたちであれ、ようやく2人は心から分かり合うことができた」ということに美しさを見出すストーリーとして読むこともできる。
『夜に駆ける』は媒体をノリのいい音楽にすることで、大衆にそれと気付かせないままなんとなくハッピーエンドの曲として浸透させてしまったことが、また面白い。少なくとも僕は「なんか流行ってるな〜」くらいのノリで数回聞いてたときは、心中の話だなんて全く読み取れずにいた。
人々に意識させずに、モラルに反するものを美談として消費させるのって、とても怖いことのようにも思えるし、芸術がそれだけの力を持ってるというポジティブなことにも思える。
……なんだけど、原作の『タナトスの誘惑』を読んでみたら印象がガラッと変わっちゃったのね。文章量はかなり少ないんだけど、めちゃくちゃ重要なポイントが2点描かれている。
ひとつは、"僕"がブラック企業に勤めていて元から心が荒んだ状態であったこと。
もうひとつは「タナトスに心を支配された人間には"死神"が見えるようになり、死神はその人にとって最も魅力的な容姿をとっている」という描写。
この2つが開示されることによって、ショートショートのオチとしては「実は"君"なんていなくて、全ては"僕"の妄想だった」ってどんでん返しが自然に成り立ってしまう。
そうなってしまうと、僕の解釈は両方ともあまり意味を持たなくなって、試し行動の危うさを描いてる訳でも、2人が分かり合えたことの美しさを描いてる訳でもなくて、ただただ人が独りでちょっとおかしくなって自殺を選んだ様子を描いてるだけになってしまう。それもまたデカダンスってやつの範疇ではあるのかもしれないけど、僕の好みからはかなり逸れてしまうので、自分はこれからも曲と原作のタイトルだけ見て消費しようかなと思う。
なんの話だっけ? あそうそう、神威の言う「命すら超える美しさ」って、こういう視点があると多少分かりやすいよねっていう例を出したかったんだ。
テーマ的にはアニメ『バビロン』も、自殺を魅力的だと感じてしまう気持ちとの戦いを描いていてかなり好きなやつ。原作小説はいつか読もうと思ってるけどまだ未完らしいのもあって手を出せてない。
ナルシシズムの行く先
・さっきは神威の肩を持つと言ったけど、荒鬼は自分から喧嘩売る代わりに神威のことを守る描写もそれなりにあるので、そういうところでバランスが取れてるよね。
前回の荒鬼が「暴走してみんなを傷付けるのが怖い」って理由で逃げたことを後悔して、自分自身が後悔しないために変身した……つまり利他的→利己的に心境が変化したのとは逆で、神威は自分のためだけに変身しようとしてたところから、転落した鳶職を助けたいと願うことで変身できるようになったというのも対比になっている。
数年前、僕は『龍騎』への理解を深めるために"鏡像段階"っていう心理学的な概念を提唱したジャック・ラカンって人についての本を読んだんだけど、これがめちゃくちゃ面白かったのよね。僕が一目惚れして読むことを決断した概要だけでもうその面白さは十分伝わると思うので、紹介させてもらう。
人間は神経系が未熟なまま生まれてくるため、幼児は身体が寸断された不安定な状態におかれている。そこで鏡に映る自己像に同一化することで、統一性を獲得する。しかしその歓喜は、自己の統合性を他者に委ね、主人性を外部の何ものかに奪われる危うさと背中合わせの関係にある。――この鏡像段階論を出発点に、人が意味するもの(シニフィアン)の主人なのではなく、意味するもの(シニフィアン)の次元こそが人を人として構成してゆくとするラカン理論はその幕をあげる。
一応、噛み砕いて説明しておく。既に成長した僕らは手足の指の先に至るまで意識を向けて自由自在に動かすことができて、身体感覚として「この体はここからここまで自分のものである」ということを知っているけど、赤ちゃんはまだ自分の体をうまく動かすこともままならなくて、例えば舌ったらずだったり手先が器用じゃなかったりするから、自分の意志で自分の体を支配できている感覚というのが曖昧な状態であり、鏡に映った自分を見ることで、初めて自分の体がひと繋がりの物体であることを認識できるようになるのではないか……というのが、ざっくりとした"鏡像段階"という言葉自体の意味。
ラカンはそこからこの仮説を元に、精神病によく見られる被害妄想などと言った心の動きを理論的に説明しようとしていて、その際もっとも重要となるのが「人は鏡越しでしか自分を見ることができない」という部分で、特に赤ちゃんにおいては自分をそのまま自分として認識することができないので、他人を見るのと同じように、自分の姿を捉えることになる。
鏡によって人はひとりの人間として自分というものの統合的なイメージを獲得するんだけど、それは同時に「"ここ"にいる自分」と「鏡に映る自分」の二面性を孕むことと隣り合わせでもある以上、真の意味で"自己を統合できた"とは言い難く、無意識的に人は分裂した2つの狭間で葛藤することになる……みたいな話で、ラカンの理論においてはこの"鏡像"は、客観的な視点というよりは"理想化された自己像"のニュアンスを持つことが多いので、まぁだから要するに「理想(鏡像)と現実(実像)のギャップに苦しむ」という意味で理解すれば大意としては違いないと思う。
この話が念頭にあるので、僕は神威が死体だって説を推してるんだよね。
赤ちゃんでこそないけど、死体だからこそ自分の体が神経で繋がっている感覚が希薄で、そのせいで怪我や空腹を気にせず絵に没頭しちゃうし、辛いものを食べて痛みを感じることが好きだし、何より鏡に映る自分の像を見て自分が自分であるイメージを常に確認していないと落ち着かないのではないかなと。
あと最初に見たときは度肝を抜かれた"為士"って名前ね。黎斗モチーフで名前がナルシストって、確かにぴったりだけどそのまんま過ぎて深みがなさすぎないかとすら思ったりもしたんだけど(ゾンビだから"死"に為る、みたいな言葉遊びも込められてるのかもしれない?)、よく考えたらナルシシズムの元ネタになったナルキッソスの神話って、オイディウスの『変身物語』を主な出典としていて、そう考えたら仮面ライダーのネーミングとしては結構芯を食ってるのかもしれないと思った。
ナルキッソスがスイセンの花に変身してしまったことは『ゲンムVSレーザー』で黎斗にも輸入されてて、そちらでは悲劇としての側面よりも希望を感じさせるニュアンスの方が大きかったので、神威についてもナルシシズムをネガティブなものとしては捉えてなさそうなのは確かかな。
『現代思想の冒険者たち 鏡像段階 ラカン』では、ナルシシズムとは「幼児が全体性と自律性をあわせもつ完璧な理想像としての自己の鏡像へとベクトルを向ける愛着のこと」として定義した上で、「次のステップである対象愛へと向かうため、ある種外的なものを自己にとって内的な欲望の対象へと変容させる魔力」と表現されているのも、今回の神威の初変身と符号するよね。
つまり、一見なくても良さそうだし神話においても身を滅ぼすものとして扱われている"自己愛"なんてものがなぜあるかというと、ただの自分ではなくてあくまでも「鏡に映る自分」を愛することを通して、同じく自らの"視線の先"にいる「他者」を愛することを学ぶためなんだと、ここでは説明されている。
だから、神威が変身して次のステップに進むためには、自分ではなくて他人に意識を向けないといけなかった。
そこは黎斗が永夢という他者に目を向けることで自分の才能が絶対ではないことを知り、そこから更なるインスピレーションを得て自己陶酔に戻るってプロセスを経てたのとも同じだね。
そうやって変身した経験があってのことなのか、神威は例えば陽真が相手の気持ちを考えず一方的にスニーカー愛を語ってきたりしても、そこからアイディアを見出してほくほく顔で帰ってくみたいなエピソード(陽真キャラエピ「スニーカーマニア」)もいくつかあって、そういうとこが可愛くて比較的好きなんだよな……。
・ゲストの来夢くん、案内人がスプレーアートのドクロなのは、スケボーで挫折してグレた彼がやるせない気持ちをグラフィティにぶつけてたってことなのかな。
他のゲスト、例えば慈玄にとってのお巡りさんと違って、その心の動きがそのまま神威に当てはめられるとは思えないけど、挫折しつつもその気持ちを無視して蓋をするんじゃなくて、絵を描くという行為を通して社会に訴えるだけの根性がまだ残っていたから、その気持ちをまたスケボーに注げばきっとまた輝ける……って話なのかな? ドクロってのが神威のモチーフと重なってることの意味は、ちょっと分かんないけど。
さっき少し触れたフィーバースロットの話は自分が『ギーツ』の中では唯一楽しめた話なんだよね。諦めずに挑戦し続ければいつかは必ず成功するってテーマを、あんなに視覚的に分かりやすく描けるんだと感動した。
神威が言ってるのもまさにそういうことで、諦めて何もしなければ可能性はゼロだけど、自分を信じて進み続ければどこまででも行くことができる。
「漫画に限界ないしな」ってセリフが『バクマン。』にあるんだけど、神威の絵もそうだよね。決まった形の正解というものがないから、人が探求し続ける限り比喩じゃなく無限に発展していく。
・神威がノアに感謝してたのがピンときてなかったんだけど、彼一人だったら永遠に地下で絵を描き続けていたところを、ノアが外に助けを求めたから荒鬼が来てくれて助かった……って流れのことを言ってるのか。
それで、一人でこもりつづけるんじゃなくて外に出ること、他者と触れ合うことが大事だと気付けたから、もうカオストーンに自分の内面世界を見せてもらう必要はないと。
前回
ゼロワン好きの『ライドカメンズ』実況 第1部 5章 怒涛の荒鬼狂介
次回「執念の阿形松之助」
ゼロワン好きの『ライドカメンズ』実況 第1部 7章 執念の阿形松之助
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