『正義はどこへ行くのか 映画・アニメで読み解く「ヒーロー」』 感想
リクエストに応えて河野真太郎『正義はどこへ行くのか 映画・アニメで読み解く「ヒーロー」』を読んだので、その感想を残しておく。
新書には時たまとんでもないハズレもあるので、そもそも匿名の誰かからの推薦ということと、集英社新書という初めて読むレーベルなのもあってやや心配してたんだけど、その意味ではちゃんと面白かった。自分的に得るものはそこまで多くはなかったが、その分だけ多くの人にとって読みやすい本だと思う。
興味深かったのは『風の谷のナウシカ』と『エターナルズ』『アベンジャーズ』のサノスを比較するくだり。
僕はジブリはそれほど通ってきてなくて、近年になってから義務として一度見たくらいなんだけど、漫画版の話はかなり勉強になったし、読んでみようかなと。
ラピュタの有名な「バルス!」のことを何かヤバいことを起こす呪文だというくらいの認識でいたので、当然悪役が言うもんだと思って見てたら主役2人がせーので言ったのでぶったまげたんだけど、ナウシカがやったという墓所破壊の話を聞くと少しは腑に落ちた。今を生きる人間が、古い文明を破壊する類型として理解すればいいのねと。
それに加えて、仮面ライダー555のことをその文脈で読むとまた少し違った見え方になるかもなと。
「滅びゆく種」ってサブタイもあって、オルフェノクは短命という運命を受け入れて滅びていく話として素直に受け止めてたけど、そもそも突然変異した種なんだから、そこから更に適応して長生きする個体が出てきたって全くおかしくないし、そう見るとパラリゲのアレも意味合いが180度変わってしまい得る。
方舟なんかなくたって、大洪水という自然災害の後にも生き残ってる命は必ずあるし、そいつらがまた種を残していくんだという強い確信を感じた。ナウシカは一回見たきりだけど、そういう力強さを感じた記憶はある。
555には切なさを強めに感じたから、そんな風に捉えたことは全くなくて、20年越しに大きなパラダイムシフトが起こった感覚。
本の話に戻ると、僕で言えばこのナウシカのような、自分が知らないジャンルについてはある程度までの基礎知識を得られるが、知ってる作品について見た以上のものは得られない、総集編みたいなタイプの本と言えば伝わるだろうか。
『ジョーカー』と『龍騎』に顕著な、テキトーに見てると陥りがちな誤読……「ジョーカーは社会的強者や、貧富の差を生む社会そのものに反旗を翻した」や「龍騎はゼロサムを奪い合うバトルロワイヤルものとして、競争社会の残酷さ(だけ)を描いている」はきちんと避けてたので、ただ自分のしたい話をするために適当に見て援用してるんじゃなくて、最低限ちゃんと作品を見て楽しんでる人なんだなという信頼は持てた。
(悪い例 映画『ジョーカー』が描いた賛否両論の「弱者男性像」は現代社会に何を突きつけたのか? | 文春オンライン)
でもそれゆえというか、(僕らが普段してるような)ファン語りの域は出てないような気もしてて、ヒーローものなんて興味ないやという人が読んで正義について何か知見を得る……みたいな読み方はあまり想定されてないし、それを期待するのも筋違いなように思う。
特に最後の「シン・仮面ライダーと宗教二世問題」なんかは「こいつシン仮面の話したいからってかなり無理なこじつけしたな……」って感じがした。全体の構成として必要なパーツにも思えないし(既にした話の繰り返し)、ただ好きだから或いは旬だから名前を出しただけっぽかった。
多分本の内容的には、本来扱うべきはむしろ『仮面ライダーBLACK SUN』の方だったのではないか。
政府への信頼と新自由主義
そこまでの話の流れからすれば、シン仮面における正義というのは結局、社会の幸せのために殺人を行うという点でショッカーと政府の男たちというのは大した差がないのだから、庵野監督が抱える官僚社会への信頼(したいという欲望)の発露でしかなくて、要するに「政府のやることが正しくて、民間が勝手にやることは間違ってる」という世界観から脱却できてないみたいな批判に繋がってもよさそうに思えたけど、特にそういう話はなかった。ここまで結構、筆者が好きなのかなって感じに熱く語っておきつつも最後に批判的なことも付け加えるってバランスが続いてただけに、あまりにもあっさりで気が抜けた。
シンの仮面ライダーたちはあくまで民間人として自分の意志で政府の男に従っているので、官僚的なものと民間的なものの中間に位置する存在なのだ……みたいな擁護を繰り広げるでもなく、旧統一教会と自民党が繋がっていたという現代的な問題にちょっと掠ってる、という全然成立しないこじつけをした後で(だって作中でショッカーと政府にはなんの繋がりもないんだもん)、あくまで宗教二世が袂を分かつだけの私的な物語になっているという、やっぱりこれまでの話とあんまり関係がなさそうな指摘しか行っていない。
僕自身は宗教二世だったりするが、マジでここについて筆者は何も言ってないに等しい。本の終わりが近いからなのか、極めて投げやりな話運びに感じる。
ニヒリズムに片足つっこんでる宇野常寛の限界を越えるためには、ポストモダンという比喩を変えて、資本主義とジェンダーを導入する必要があるのだーって言ってたし、アイアンマンのくだりからずっとその話は出てたので、自分としては資本主義と正義の問題をもっと掘り下げてほしかったんだけど、認識を改めるようなことは書いてなかったかな。
それこそ新興宗教なんて金儲け至上主義の権化みたいなもので、「市場こそが正義」となりうる現代においてはそれってじゃあ不正義として問えるの? という疑問は容易に浮かんでくる。
投票による選挙という政治のシステム自体、票や席を奪い合う市場みたいなものなんだから、そこが(思想そのものというよりは)金儲けに比重を置いた新興宗教とはむしろ相性が良さそうですらある。
僕のような何も知らないし調べる気もない門外漢に入ってきてる情報だけでテキトーこくと、オウム真理教以降の宗教というものに対する日本人のプリミティブな嫌悪感(差別感と言っても十分によいと思われる)を利用して、メディアがスキャンダルとして盛り上げてる……という印象なんだけど、このケースにおいては一体どこに主軸をおいて"正義"が議論されているんだろう?
裏を返せば、この問題を深く掘り下げた先にこそ「市場がすべて」というニヒリズムに陥らないための、現代に残された正義の欠片みたいなものがあるのではないかという気が、何となくする。
いや、結局のところは何か一貫した正義なんてなくて、「なんとなくでも大衆に嫌われちゃダメ」というだけの市場の論理の範疇という気も普通にするが。
だがただ競争に勝てばいいというような開き直りにはまだ人類は至ってなくて、なんらかの「これ(ある手段)はズルいから駄目」というような何かしらの倫理が働いているのは確かなように思える。
正義から倫理へ
本の中にも"ケアの倫理"というワードが、先程も話に出した『龍騎』は「戦わなければ生き残れない」というテーゼを肯定してはいないというくだりで出てきている。
龍騎において戦って他者を蹴落としてでも生き残ろうとした仮面ライダーは総じて死んでしまうバッドエンドを迎えるのであって、「13号ライダー」のエピソードでも描かれている通り、戦うことが時代の流れだからなどという理由で受け入れてなどいない。
「見ろ。これが……これがライダーの戦いなんだ。面白くなんかない。痛くて苦しくて、それでもゲームみたいにスイッチを切れない。ずっと戦うしかないんだ……」
「お前は……絶対誰とも戦ったりするなよ」
ただこの真司の訴えを"正義"と標榜することをせず、あくまでも番組を見た子供たちへの"願い"として表現するのが、最終回における「この戦いに正義はない。そこにあるのは、純粋な願いだけである」というセリフだ。
僕もいま見返して理解が深まったのだが、その後には「その是非を問える者は……」という言葉が続く。字面だけで捉えるなら、いかにも「すべては相対化されたものなのだから、是非を問えるものなど"いない"」と続きそうな気がするが、実際には満足そうに事切れている蓮の顔がアップで映されている。
つまりここで示されているのは、どんな些細な願いでも相対化され堕落しきった正義モドキと肩を並べられるニヒリズム的な思想ではない。
他人が他人に対し絶対的な正義を掲げて何かを押し付けられる時代が終わった後に到来するのは、自分自身が"鏡"の前に立ち、自らの正義を吟味する社会なのだ。
期せずして話が繋がったが、僕がこの本を読み終えて最初に思ったのがそれだった。
本のはじめに立てられた「多様性の時代に悪はどこにいるのか?」という問いに対し、本の中ごろ(第四章)では「多様性そのものを否定する者」もしくは「自然や環境を支配下に置こうとするもの」という一応のふわっとした答えを出したものの、書籍自体の末尾においては「悪」に対する問いは実質的にどこか彼方へと雲散霧消してしまっている。
しかし、ここまで読み進めてきた中で答えはハッキリ出ていたように思える。
五,六章で論じられたヒーローと老いの問題や、八章におけるパロディにしかなり得ないニヒリズムとの戦い、九章でのゼロサム的な二者択一への疑問、そして十章のポストフェミニズム社会における女性の息苦しさ……そのすべてに共通して言えるのが「敵は自分自身では?」という素朴な感覚だ。
「老いてもかっこよく活躍したい(のに、うまくできない)」「仕事も育児も美容も、全てを手にしたい(のに、うまくできない)」という状況においては、自分の限界を超えるべく戦うもしくは自分の欲求そのものを別の何かに昇華できるよう戦うことが必要だろうし、自分のやっていることはパロディに過ぎないのではないかという劣等感や、自分の願いのために他者を蹴落とすことが本当に正しいことなのかという迷いにも、自分で考えて結論を見つけるしかない。
「そこにある願い」に対して是非を問えるものは、願いを持つ自分自身を置いて他にいないのだ。
蓮は、最後に勝ち残って恵里を生き返らせたことに対し満足できたようだし、逆に北岡は死を前にして、永遠の命を得るためのライダーバトル自体は、虚しいと感じ放り出してしまった。
「価値観は人それぞれ」という語句が、ある種の諦念や自己正当化のための便利ワードとして使われるようになって久しいが、物事の価値を決められるのは本当の意味では自分だけだからこそ、その行いが本当に正義と呼ぶに足るものなのかという問いは、自分の中に反響する。
蓮は「人を殺してでも恋人を助ける」ことは正しいことだと思えたから満足したのだろうし、逆に北岡は「人を殺してでも永遠の命を手に入れる」ことを正しいとは思えなくなってしまった。
自分さえ満足できればそれでいいという考え方を誰も強くは咎められなくなった代わりに、問題はそのような手段で願いを叶えて「"本当に"自分は満足できるのか」という、良心や罪悪感のレイヤーへとスライドした。
正義という普遍的なものから、倫理という個人的なものへ。
ここで言う倫理とは、ニーチェとかカントあたりが言ってそうな、誰かから強制されたものではなく、その人自身のうちから湧き上がり守ろうと思える自発的な道徳感情を指す。
仮面ライダーシリーズにおいては2000年代初頭に既にこのような結論が出てしまっているために、或いは初代からして自由のために戦うと宣言しているために、声高に普遍的な正義を叫ぶことはほとんど例がない……はずだ。それは龍騎に特別限った話ではなく。
その極北が僕の一番好きな仮面ライダーゼロワンである。AIの台頭によって人間らしさというものさえ相対化されてしまった世界で、何にも立脚することなくニヒリスティックに無根拠な主張を叫び、極めて刹那的個人主義的な「自分が納得できるかどうかの戦い」を繰り広げた末に、主人公が謂わばラスボスのような存在となり、最終的に乗り越えるべき敵は自分自身の中にある悪意であるという結論に落ち着く。
似たようなことをやった前例はいくつかあれど、ここまで見た目にも分かりやすくその構図を描いたのはゼロワンが最初だと言って良いと思う。
正義/悪はどこへ行ったのか?
資本主義の視点から考えた正義は(今回理解を深められなかったので)どうか知らないが、ジェンダーの問題、特に筆者のいうポストフェミニズム的な状況における敵は自分自身以外にないと思うのだが、結論として陳腐すぎるからなのか、あくまで普遍的な正義を追い求めているからなのか、自らを問い直すことを現代の正義に据えるような議論は本の中には書かれていないもしくは感じ取れなかった。
ただその視点からあえて見るなら、無粋だから書かなかっただけで、「"どこ"へ行くのか」という問いから始まった本が「私たちの現在地」という場所を示す表現の章タイトルで終わっていることや、おわりにが筆者個人の願いで締められていることをもって、正義/悪はどこでもない"私たち"の中にあるのだと結論付けられていると見ても良いように思う。
