やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

倍速視聴の否定派は感情論でしかない

僕は実際に倍速視聴をするタイプの肯定派だけど、単に自分がそうしたいからというのを超えた意味で「倍速視聴は悪くない」という明確な倫理観を持っている。
しかし、正直未だにまともな否定派の方を見たことがなく、誰も彼も「なんかイヤだから駄目」の域を出ていない。今回は何故そう思うのかを説明していこうと思う。

否定派の方は、大して長くもない記事なのでぜひ筆者の意図を尊重して飛ばさずにじっくり、最後まで読んでくださいね!

 


"10秒スキップ"との区別

ことの発端は以下の記事だが、10秒スキップと倍速視聴を並べて、特に大した峻別もしないまま「よくないよねー」なんて風に否定しているこの記事には聞く耳を持つ必要がないと感じる。

「倍速視聴」は進化か退化か。「プリキュア」「銭天堂」脚本家が抱く危機感(稲田 豊史) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

小林さんはこの問題について「金を払ったんだから、食べ残そうが、早食いしようが、どう食べようが自由」「お腹に入れば一緒」という比喩を否定的な意味で展開しているが、そもそも早食いってそんなに悪いイメージがあるか……? 少なくとも僕はないですね。
高級料理店≒映画館でならば確かにそのようなことはご法度、というかできないが、お茶の間で普通に食べる食事≒テレビ放送されたものや円盤,配信等について早食いをとやかく言う人など見たことがない。
第一、テレビ番組なんてかじりついて見るのが当たり前としてつくられてはないでしょ最初から。見てる途中にご飯食べたり携帯いじるのはスキップしてるのとほぼ同じだよ。そんなつまらないことで人に怒ってもいいのは一緒に暮らしている家族くらいのものだろう。

食べ残しの方がよっぽど広くマナー違反であって"いけないこと"のはずなのに、この記事は最初からここを敢えて一緒くたにすることで「倍速視聴も悪いこと」というイメージを刷り込んでいる。
タイトルに"倍速視聴"と掲げながら、否定する根拠に乏しいからより悪いと思われる10秒スキップと抱き合せにして批判してやろう、というのは呆れたレトリックだと言うほかない。

僕は早食いはしてもスキップ……つまり食べ残しはしない。少し目を逸らすとか、集中力が切れるとか、理解力が足りないとか、そういう事情で結果的に頭に入ってこないことはあっても、意図的に残すつもりはあまりないので、この批判には当てはまらない。

 

あと否定派の常套句として「"間"が味わえなくなる」というのがあるけど、そんなことは本当に全くもってありません。
それはふだん等速でしかものを見ない人間から見て間が詰まる(そしてその結果チャカチャカ動いてなんか変だと感じたりする)ということに過ぎなくて、倍速で見ることに慣れてる人がきちんと意味を受け取れないことにはならない。
前提として、等速でも作品によってテンポは違う。間を切り詰めてトントン話が進むものもあれば、じっくり無言の時間をつくるものもある。
だから"間を取る"というのは倍速云々を抜きにしても相対的なものであって、具体的にある秒数以上だなければ人間は間だと認識できないなんてことはなく、あくまで「それまでの描写と比べたら長い=間を取っている」ということに過ぎない。
だから「倍速にしたことが理由で"間"が分からなくなる」ということは有り得ないと思う。見逃したんだとしたら単にその人が集中して見てないだけで、それは等速だろうが同じこと。
1回や2回、しかもおそらく数秒や数分試してみたくらいで倍速視聴のなんたるかを判断するのは極めてナンセンスです。向き不向きはもちろんあるだろうけど、他のあらゆることと同じで慣れるまでやれば慣れるし、慣れる前にやめれば慣れません。当たり前のことです。

 

倍速視聴と理解度の深さ

そもそも作品を100%を理解できる,しようと思っている、また理解させることができると思っているのが傲慢ではないのか。

等速だろうが倍速だろうが理解力の低い人間はいるし、それはまた別の問題。作品に対して的外れな批判をしているならそれに対して直接反論すればいいだけであって「倍速してるから語る権利がない」というのは飛躍している。「倍速にしなければ理解できたはずだ」という根拠を示さなければこの話は成立しないし、少なくとも僕は等速で見てようが「よく分からん」と感じることは多々あるのでそこまで決定的な差はないように思う。
当然だけど、倍速にできるってことは10秒戻しとかも機能としてできる環境な訳で、今のどういうこと? って思ったら戻して何度か見たり等速にしてみたりもする。もちろん何度見たって分からないものもあれば、スローにしてみて初めて分かるときもある。
好きなドラマの小道具なんかで細々とした書類が出てくると一時停止して読みたくなるタチなんだけど、これらの情報は本来作者の意図としては「読めなくて当たり前」なものであって、本気で作者を尊重するなら「読んではいけない」ことになる。
当然素早いアクションシーンなんかも、スローにして「こうやって動いてたのか」と観察してはいけない……そんなバカな話があるか? ねぇよ。

逆に、倍速だからこそ分かることというのもおそらくある。僕は特に忘れっぽいので、シーンとシーンとの繋がりを把握するにあたって、等倍ではなく倍速にして詰めて見ているからこそ理解できていることもなくはないと思う。これは比較のしようがないが。


記事の話に戻るけど、"時間の芸術"があるなら空間の芸術の方がもっと顕著にあるはずだろう。テレビのサイズは家庭によってバラバラだし、映画館のスクリーンなんかとはハナから比べ物にならない。況してスマホタブレット,PCの画面なんかで好き勝手に拡大縮小して見られるのは黙認してる癖に、時間だけ圧縮されるのは嫌というのは理解に苦しむ。音質だって見るものによってバラバラで、本当にあなたが今見ている環境は作品の全てをありのままで受け取れる状態にあるんですか、と。
またテレビ番組については放送時間というのも重要なファクターのひとつだったりする。例えば僕の好きな仮面ライダーなどは、制作陣のインタビューから「"日曜日の朝に見たい内容"とは何かを考えてつくっている」という話が散見される。つまり、ゆっくり過ごしたい休日、或いは子供にとってはどこかへ遊びに行くワクワクした1日の始まりなどと言った精神状態で見ることを想定されていて、だからこそあまりにもヘビーな内容は取り扱わないと判断されることもある。

これは逆も然りで、大人しか見ない深夜帯だからこそエログロのようなキツい作風が成立するとか、冬に公開だから少し寂しげな雰囲気にしようとか、中高生に向けて恋愛ものにしようとか、この「本来想定されている視聴者の精神状態」と合致しない状態で見ることは、すなわち作品への無理解へと通じてしまう。

女の子向けのプリキュアを男の僕が見ても、お化粧の楽しさなどが理解できなくて面白くないと感じるのと同じように、例え等速だろうが映画館で見ようが、「つまらない」と感じたのならそれは等しく「制作陣の想定した客層ではなかった」というだけの話。
倍速視聴というのもそういう数多ある変数のひとつに過ぎなくて、本当の意味で制作陣の想定する客層にガッチリ100%一致する状態でなければ「つまらない」と言う資格はないことになってしまうのは、おかしい。
……裏を返すと倍速視聴以外の変数だけは「つまらない」と言ってもいいというのは、不合理極まりない。


「自分が倍速じゃ理解できないから全員そうに決まってる」とか「なんかイヤ」というだけのことを正当化するために"作者の意図"なんていう一見綺麗そうなおためごかしを利用しているのでないのなら、そういった他のズレもまた同様に批判するべき、少なくともこれはどうかと問われたら認めるべきでない。にも関わらずそうしないのは、自分のことを棚に上げた感情論でしかないからではないか。

まぁ"倍速"って表現があんまよくないのかもな、僕も流石に2倍速じゃよく理解できなくて基本は1.5倍なので試すならそれで試して欲しい。YouTuberの動画くらいなら2倍で何も問題ない。

 

作者の意図と敬意

以上にも見てきた通り「作者の意図した間やテンポとズレてしまい本来の意味を受け取れなくなる」というのが否定派の大まかな主張だけれど、僕としてはこれそのものにはある程度の正当性は感じつつも、自分としては「そんなこと言い始めたらキリがない」という立場を取っている。
先の記事でも言われている通り書籍なんかは特にそういうことの多い媒体だし、そもそも人が全て同じ時間の流れで生きている、そして自分がそれを操作できると思うこと自体が作り手の傲慢だと思う。

普段から早口に慣れている人もいれば、のんびりした会話をしている人もいる訳で、その2者間では明らかに「きちんと情報を受け取れる速度」や「心地よいと感じる速度」が違う。
例えば英語のリスニング問題について「もう少しゆっくり喋って欲しいのに」と思ったことがあるなら、それがこの実例となる。僕はリスニングを兼ねて洋画を見たいときは0.9倍速にして見る、という使い方もする。
また倍速にすることであまり興味がなかった作品でも見るのにあたって"気が抜けなくなる"から、結果的に等速でダラダラ見るより集中して作品と向き合っている気もする。少なくとも倍速で映画見ながら飯食おうとは思わない。
"作者の意図とズレる"という点から言えば高倍速も低倍速も等しく批判するべきだが、「より理解するためにいじる」というケースに関しては議論の余地がある。


……なんていうのは多少頭の回る人ならとっくに分かっていることだろうけど、それら全てを踏まえた上で、それでも"作者のペース"を尊重すべきだという意見は、まぁ分からんでもない。
要するに制作者サイドの言い分は「なんだか自分の作品を蔑ろにされている気がする」というものであって、この人たちは「相手を楽しませたい」のではなくてあくまで「自分たちの作品を見てもらいたい」のだろうと思う。
相手を笑わせるために話をするなら、相手が退屈そうにしていたら早めにオチを切り出すとかすると思うけれども、不快感を示す人たちはあくまで「ただ自分の話を聞いて欲しくて悩みや愚痴を喋っている人」に近いのかもしれない。
遮らず、結論を急がず、きちんと話を聞いて欲しい。
会話の目的が「聞き手が楽しむこと」ではなく「話し手が気持ちよく喋ること」にあるのなら、確かに倍速で話せと言う……況して「オチは?」と聞くのはナンセンスな話だろう。
倍速視聴をする人とそれに嫌悪感を抱く人、双方ともに「相手のペースを無視して自分のペースで進めようとしたがる」からこそ起きているのがこれらの齟齬なのだろう。

相手への"敬意"の表し方として「話の内容をきちんと理解すること」がポイントなときもあれば「ゆっくり相手の語りに耳を傾けること」が重要なときもある。
前者ならばその手段として早送りや10秒戻し,スキップ、要約して論点整理などをしてもよいが、後者なら例えよく分からないところがあったとしても相手の話を遮らずとにかく聞き役に徹するべきかもしれない。
作品鑑賞を作り手と受け手のコミュニケーションだと捉えた場合に、単に受け手の娯楽として自分の都合で消費するのか、音楽を聞くように"他人のペース"に身を委ねる体験こそが映像作品の醍醐味だとするのか、それはあくまで受け手の自由である。
「人の話をちゃんと聞いてくれない人」「愚痴聞いて欲しいのに勝手に要約してアドバイスしたがる人」みたいな風に周りから嫌われてもいいのなら、スピードにしろ画面の大きさにしろ時間帯にしろ、自分の好きなようにアレンジして楽しめばよいのだと思う。

僕が抱く倍速視聴に対する罪悪感っていうのは、例えば個人経営の八百屋さんとかでお店の人が奥に引っ込んでて、すみませーんって呼んでも出てこなくて、でも店は空いてるから中に入って商品を見ながら待つか……ってときに感じるようなもの。罪悪感こそあっても"本当に悪いこと"ではないと思っているので、やる。

 

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