やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

『復活のコアメダル』のラストを受け入れるためのひとつの解釈

大筋は前回の記事(仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル 具体的感想)にある内容なんですけど、思ったことは全部漏らさず書きたい性分なせいでまとまりがなくなってしまったので、ここでは"ラストシーンの解釈"に話を絞って、必要な話題のみを簡潔にまとめたいと思います。
結論から言いますと、自分は色々考えた結果「映司は死んでいない」「アンクも満足している」という解釈に落ち着きました。映司の死を受け入れられない多くのファンのために、そこに至るまでの思考過程として欠かせない論点を3つ、まずは紹介します。

 

 

アンク復活の是非

そもそもの話として、僕は最終回における「いつか、もう一度……」や『MEGA MAX』において明確に提示された"いつかの明日"という概念についてやや懐疑的でした。何故か。
まず言えるのは「死ぬことによってようやく満足することができたアンクを眠りから起こすのはどうなのか」という点。
アンクに対して再びただのメダルの塊・グリードとして、アイスの味も感じられず巨大な欲望だけを抱えたまま不死身の怪物として生きるという十字架を背負わせることを、無邪気に肯定することはできません。
映司や比奈、知世子さんを始めとした「自分をひとつの命として認めてくれる存在」がいるうちはいいかもしれませんが、人間である彼らが死んでしまった後はアンクの居場所はどうなってしまうのかと考えると、なかなか難しいものがあります。もちろん、怪物だからといった偏見や差別に晒されずにアンクが安心して暮らせる人間社会をつくることまで含めて"いつかの明日"であると考えるならば問題は半減しますが、やはり「世界を感じられない」というグリードが抱える悲しみは無視できません。


もうひとつの論点として、アンクに限らずグリードという化け物を復活させようとするのは人間社会にとってどうなのか、ということもあります。
メダルの研究を進めていけば、その過程で再びグリードが生まれ、また本編や『MEGA MAX』のような戦いが始まってしまうという危険性は十分にあり、『ゼロワン』においてヒューマギアは根絶するべきだという声があるのとと同様に再び世界を脅かすことになりかねないというのは、まず考慮するべき事柄でしょう。
そして他ならぬアンク自身に関しても、本編終盤まで一貫して「完全復活した上でメダルの器になり、完全な命を手に入れる」という目的のためなら手段を問わないところがあります。1年を通して利用するという名目で映司と力を合わせていた一方で、真木率いるグリード側に寝返ったり、人質である信吾の肉体にもコアメダルを入れる(映司と同じようにグリード化してしまうリスクがあるにも関わらず)という蛮行をした前科があります。
アンクというのはアイスさえあげておけば大人しくしててくれるだけのキャラでは決してなく、映司との関係も8割が「メダルを集める」ための利害関係によってギリギリのバランスで成立しているものなのであって、仮にメダルを集めきってしまったとしたらこの利害関係は瓦解してしまうでしょう。
あの2人が仲良く共存できるのは、あくまで"メダル争奪戦"によって世界が混沌としているわずかな間……「メダル集めと、アイス1年分」の契約が切れるまでの話なんです、本来は。尤もその1年の中でも利用価値なしと見れば裏切るし、「あいつとは最初からそういうことになって」いる。
既にある程度は信頼関係が構築できている映司や比奈にとってはまだしも、あの世界の一般人からすれば十分以上に危険な存在であることは疑いようがない。そんなアンクを野放しにしてしまうのは、いかがなものか。
これがひとつ目の前提です。


映司の背負った業

次は映司という人間について考えていきます。
序盤でこそ「明日のパンツと少しのお金」さえあればいいという無欲なキャラだったけれど、その本質は「俺の欲望は、これぐらい(全員家族として助かる)でなきゃ満たされない!」「どんな場所にも、どんな人にも絶対に届く俺の手、力……俺はそれが欲しい」と言い切るほど強大で底のない欲望を持っていたことが明らかになります。
脚本家・毛利亘宏氏の言っていた「火野映司という人間が背負った深過ぎる業」というのはこれのことだと僕は思っていて、本当に本気で「どんな場所にいるどんな人でも助けたい」と思っているのなら、裏を返すと世界中のどこかにたった一人でも不幸せな人がいれば、映司は本当の意味で"満足"できないことになってしまいます。
彼は決して「アンクひとりが蘇ればそれでいい」なんて矮小な願いで満足する器ではないということです。
そんな満たしきれるはずのない欲望を持ってしまった火野映司にとって、真の意味での"満足する終わり"……すなわちハッピーエンドは「原理的に有り得ない」ということになります。世界の全てを平和にしたいのであれば、それこそ真のオーズとして覚醒し"都合のいい神"にでもなるしかありません。


話を進めるにあたって、映司の欲望から生み出されたというグリード・ゴーダについても読み解く必要があります。
違和感はありつつも10年後の映司としてギリギリ振る舞っていたゴーダが出した決定的なボロと言えば「(少女は)死んだよ。そういう運命だったんだ」という驚愕のセリフでしょう。
映司だったら絶対に言わないであろうことは言わずもがなですが、実際に少女が生きている以上、映司にとってもゴーダにとっても「(その後どうなったかは知る由もないが)少なくともあの場はなんとか逃げられた」という認識はあるはずです。
ゴーダは"表面的な映司らしさ"を犠牲にして正体がバレるリスクも厭わず、助けられたはずの少女を死んだことにしてまでも、このセリフを言い放ったということになり、仮にそうだとするならばそれ相応の"信念"や"本心"が込められていると見るのが妥当でしょう。
ゴーダという存在は、原理的に満たされるはずのない映司が無意識で抱いていた「死を受け入れて満足したい」という欲望の表れだと自分は解釈しています。アンクにしろ少女にしろ、世界中のどことも知らぬ誰かにしろ、「助けたい」と思うから「助けられなかった」と苦しいのであって、始めからその死を受け入れ「運命だった」と諦めてしまえば、映司という個人は楽になれる。
映司はそんなこと思わない! と感じた方もいるかもしれませんが、実際に本編の映司は内戦で少女を助けられなかった苦しみに耐えられず、基本的には平和で人が死ぬことなどない日本に帰国しています。
「休憩中」「しばらくは日本にいる」というセリフからも分かる通り、少なくとも少女を救えなかったトラウマが回復するまでの間は、世界中で今も苦しんでいる人々からは目を背け、比較的平和な日本で手の届く範囲の人を助けるだけで満足しようという非常に大きな"絶望"が見て取れます。
「映司くんは神様じゃない」ので、彼にもまたそういう人間らしい矮小な部分があることは間違いなく、それを凝縮して「人助けなんかやめて、アンクと楽しく戦いたい(前半)。或いは本当に世界の全てを救ってしまえるだけの力を手に入れたい(後半)」という欲望の塊として生まれたのがゴーダなのだと思われます。
以上が2つ目の前提です。


オーズは欲望を全肯定したか?

最後に確認するのは、オーズは何も犠牲にしない、映司もアンクも死なない都合のいい欲望を肯定したか? についてです。
確かに、セリフの上では肯定されています。「映司くんとアンクちゃんどっちかは戻ってくるなんて、そんなの認めちゃ駄目よ。(中略)映司くんもアンクちゃんもお兄さんもって、ちゃんと欲張れるのは比奈ちゃんだけよ」と知世子さんが比奈に対して諭すシーンは、とても印象的でした。
……ですが、実際の展開としてそうはなりませんでした。比奈はその後、アンクのメダルが壊れつつあることを知っていたにも関わらず、アンクから口止めされた通り映司に伝えることもできず、最終的には助けられずにアンクは死んでしまいます。
彼女は自分には何もできないことを噛み締めて、ただ2人と手を繋ぐこと"しか"できなかった。繋いだからアンクが助かる訳でもなく、なんの意味もないかもしれないけど、それでも繋ぐ。
アンクが死を覚悟していること、映司もまた死を覚悟していること。胸のうちに秘めたお互いの思いを察した比奈が仲介して手を繋ぐことで、言葉にはできずともなんとか2人にお互いの現状を伝えたい……そういう切ない思いを経て、それでも与えられた結果が「アンクの死」でした。


最終決戦においても「世界を救うためには怪人になることを厭わず戦うしかない」「そうならないためにはアンクを犠牲にするしかない」というギリギリの駆け引きが展開され、アンク復活に関してもあくまで"いつか"であって、今すぐ欲しいとまでは欲張らない。そのビターさこそが最終回の評価を高めている大きな一因のはずです。
これは余談ですが、映司は世界を救うためにウヴァを始めとするグリードや、人間であった真木博士のことも犠牲にせざるを得ませんでした。彼らの持つ「完全体になって世界を食らいたい」「世界を終わらせたい」という欲望は作中できっぱりと、明確に否定されています。また本当に全てを欲張るのであれば、内戦で救えなかった少女もアンクと同じように生き返らせようとしてもいいはずですが、そんなことは倫理的に許されるのか。許されないとしたら、アンクだけを蘇らせることは彼の尊厳を踏みにじることになるのではないか……。
そういった危険や問題点を孕むものまで含めた"欲望"そのものを肯定し賛美していたのは、作中でも唯一鴻上だけであって、その鴻上はグリードやガラの復活、ポセイドンを生み出したメダルの研究など、欲望のままに動くことで直接的ではないにしろ様々な災禍の元凶となった結構アブない人です。映司を「神にも等しい真のオーズとしての器」にしようとしたりね。

その彼が何の贖罪をするでもなくのうのうと暮らしていることは「欲望を肯定している」と言えるのかもしれませんし、当時はそううまくはいかなかったかもしれないけど映司や我々ファンは10年も待ったのだから、代償なく報われてもいいじゃないかという声があるのも分かりますが、少なくとも最終回や『MEGA MAX』においては「全てが都合のいいハッピーエンド」は肯定されていなかったというのが事実でしょう。


映司は死んでいない

・アンクをグリードとして復活させていいはずがない
・映司はアンク復活だけじゃ満足できない
・最終回では結局代償を支払う必要があった
以上3つの前提を踏まえた上で、僕から導き出された結論が「映司とアンクはひとつになり、完全な命を手に入れた」という解釈です。
今回復活したアンクは正確にはグリードでも人間でもなく、人間のように五感や感情を持った上で、グリードのように永遠に生きられる……いわゆる人間が欲するところの"完全な命"、錬金術が追い求める最高到達点になったのだと思います。
せっかく命を手に入れられて、満足して安らかに眠ったアンクを墓から掘り起こすのだから、映司は復活させるにあたり"それ以上の満足"を与えられなければアンクに対しても筋が通らないですし、先述の通り人間である映司が死んだあとのフォローもきちんとしなくては無責任です。
だとするなら、そんなことが果たして可能なのかという問題は一旦さておき、理屈としては「映司もまたアンクと一緒にお目付け役として永遠に生きる」以外の選択肢は有り得ないと思います。
ちょうど『仮面ライダー剣』における「永遠の切り札」と似たような構図ですが、今回の結末は一心同体のまま永遠に生き続けるので、かなりのハッピーエンドなのかなと。


正直「明確にそうだという描写」はあまりないので妄想だと言われればそれまでなんですけど、そう解釈すると腑に落ちることがいくつもあるんですよね。
一番大きいのは"エタニティ"なのにどうして死んでしまうのかという疑問が解消されること。
加えて、変身音を映司がコールしたこと。最終回のタジャドルはまぁ、アンクの意志が宿ったメダルの力を開放した訳だからアンクの声がするのはまだ理解できるとして、映司の声が鳴るのはおかしい……仮におかしくない(演出の都合でない)とすれば、エタニティメダルには映司の意志が宿っていると考えるのが自然です。
更にはエンドロールで映された"明日のパンツ"。「今日をちゃんと生きて、明日へ行くための覚悟」の象徴がこれみよがしに映されている以上、映司がただ死んで終わりだと解釈することは非常に強いノイズを生みます。バラードの後から流れ出した、いつも通りのアップテンポな『Anything Goes!』も映司が死んでいないのであれば不似合いでもなくなります。


今作のテーマ的な辻褄から考えても、映司の中にあった「大きすぎる欲望を諦めて、満足する終わりを迎えたい(≒真木の思想)」という欲望を担うゴーダを否定するということは、映司のした選択は「全ての欲望を諦めることなく、アンクの体を通して永遠に満足できる明日を求めてもがき続ける」という、文字通り修羅の道だったのでしょう。
みんなと手を繋いでいけば、その手はどこまでも届く……この結論は美しいですが、現実的に考えたとき、比奈がそうであったように手を繋いだだけで助かるとは限らないし、仮に助かるとしても全世界の人と手を繋ぐためにはとても人の一生は短すぎるでしょう。小説版においても、映司は安易にオーズの力に頼って自分ひとりの力で解決するのではなく、なるべく人と人との関わりによって内戦を終結させようとしているのですが、なかなかうまくはいかず、結局最後は一度だけオーズに変身して手助けをするが、後は関わらずにその国の人たち自身に任せるという、まるでウルトラマンのような距離感で描かれていました。
そういった理想と現実のギャップに10年間揉まれた末に出した結論が「オーズの力で何でも解決するのではなく、永遠に手を繋ぎ続けることでいつか訪れるかもしれない真に満足できる"明日"をつくる」なのでしょう。


アンクはどう思ったか

翻って、これはアンクにとってもメリットのある"契約"だったはずです。アンクは最初から、不死身の体を持ちながら世界を確かに味わえる「命」を欲しがっており、そのために信吾の体を利用して、完全復活するだけでなく器として他のグリードのメダルまで欲していました。
最終回における彼はその本来の欲望を"妥協"することで逆説的に"満足"できた訳ですが、これはまさにゴーダが背負っているテーマと同一であり、今回の映画はそういう意味で本編のビターなラストを否定し、真に"欲張る"ことを肯定する道を示したと言えるでしょう。

自分の命を譲渡した映司に対して「なんでそんなことした!」と、アンクが怒りを顕わにするシーンがあります。
最初は「最終回での自分の思いを無駄にしやがって!」という意味だと思ったのですが、冷静になってよくよく思い返してみると、あのときアンクが"したかったこと"というのは、映司がまたプトティラの力を使ってグリードになってしまうことを防ぐためにタジャドルに変身させたかったということのはずで、映司が本当にその思いを"裏切った"のだとしたら、それは「人間として死期を迎える」ことではなくて「不死身の怪物になる」ことの方なのではないかと考えたとき、あのときアンクがキレていたのは映司が自分と一体化して"不死身の怪物"になってしまったからだと解釈した方が、筋は通るなと思いました。
もちろん、人間としての映司が肉体的な意味で死んでしまうことは悲しいんだろうし、「なんで死んでしまったんだ」というニュアンスとは感情として共存が可能です。

今回のアンクには僕はセリフ回しから根本的にずっと違和感を感じていて、変に"人間らしい"なと思っていたのですが、復活した時点から映司とほぼ一体化していて人間のような感性を手に入れていたのだと考えれば、なんとか納得ができます。
映司がアンクを突き放したのは、あのままアンクが憑依することで映司の肉体が蘇ってしまったら、先述の通りアンクはただのグリードに逆戻りして、アイスの味も感じないまま、いつか映司とも死別してしまう未来が待っているからこそ、"一緒にいるために敢えて突き放した"のだと思われます。
余談ですが『MEGA MAX』における未来から来たアンクは映司の姿にも変身していました。僕の解釈ではあのシーンは意味深だなと思う反面、今回映司が死んでしまったからこそアンクは未来からやってきて「最後にしたくなかったらきっちり生き残れ」と伝えた結果、映司とアンクが共存できるまた別の未来に分岐する……という他の方の解釈も割と好きです。


この解釈で唯一不思議なのは、仮にそうだとしたら何故制作陣はそれをハッキリと描かずにぼかしたまま、映司の死というシーンで幕を引いたのかという点。
「明言するのではなく、明日のパンツを映すことで暗示するのが物語として美しい。成長したファンなら汲み取ってくれるはず」と思ったのか、それとも本編で「アンクは死んだまま希望は匂わすだけ」だったのを尊重してのことなのか……ここはまだ自分の中でも整理できていないところです。

また、同じ毛利脚本,田崎監督かつ本作の執筆の合間に入ったというSH戦記で「こんな舞台設定にしなければみんなハッピーなのに、登場人物を苦しめてるのは作者である俺自身だ」って話をやってたけど、あれは毛利さんの復コアに対する葛藤でもあったのかもしれないと考えるとまた面白い。
「俺には物語の世界のほうが辛い。でも物語の登場人物が、物語から逃げちゃ駄目なんだ!」……。

夏にはTTFCで『バースX誕生秘話』が配信されますし、各種インタビューなどで意図が説明される可能性もあるので、気長に待とうと思います。

 

二次創作

独自解釈で『復活のコアメダル』の脚本を書いてみた

86ma.hatenablog.com