やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

侍戦隊シンケンジャー 第五,六幕「兜折神/悪口王」 感想

キャラクター

 志葉丈瑠
・裏切りへの恐怖
彼は自ら殿のように振る舞う、高圧的な態度を取る、などのかたちで大口を叩くことで、自分を追い込み後に引けないようにしているのだろう。と同時に、後述するモヂカラの性質を利用して、自己暗示をかけているという側面もあると思われる。
ちょうど横の『ディケイド』でも描かれているように、演じていく中で定着させ、嘘から真を出すというか、たゆまぬ努力によって自信を付け、"有言実行"させていく。強さを演じられる強さという表現をするなら、むしろ士というよりは天道の方が近いだろうか。
こんな風に自分で自分を鼓舞するような強い姿勢には少し憧れを覚える。僕は自分に自信が持てないので、とにかくあらゆる期待や責任というものから逃げたくなってしまう。その極地が「給料を貰いたくない」という感情だろう。対価を受け取ってしまうと、必然的にそれに見合った働きをする責任が付随してくる。それをきちんと果たせる気がしないので、ただ働きを望んでしまう。丈瑠の姿勢をこのケースで例えるならば、わざと高時給のバイトに飛び込んで行くようなものだ。1時間で1500円とか、そんな平均以上の働きをせざるを得ない状況に身を置くことで自分を奮い立たせ、できる人間になりきる。
「そもそも新人が即戦力にならないのなんて当たり前なので、少しずつ覚えていく中で見合った働きをできるようになればいい」というのも分かるは分かるのだが、僕にはその将来性に対する期待でさえ怖い。むしろそっちの方が嫌だ。ゼロワンについて「五番勝負さえ終われば面白くなるはず」などの言説が飛び交っていたが、実際にどう感じたかはそれぞれだろうからさておき、そうやって"我慢"した末に裏切られたときの怒りや失望というのは、計り知れない。
学生時代の頃からずっとそうやって逃げてきた。まかり間違って「頭がいい」「運動できる」などと思われてしまったら、何か失敗した時の落差はきっとすごい。それが怖いので、常日頃から抜けている面を見せて自分へのハードルを下げることが癖になってしまっている。こう書くとむしろ逆で、「自分はできない」という自己暗示をかけてしまっているのかもしれない。自信というものはどこから生えてくるのだろう。この自信のなさはどこから生えてきたのだろう。人間って本当に不思議だ。

(参考:"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として)


 花織ことは
・自分を受け入れる優しさ
5話から続いて、6話も劣等感と強がりの話だった。最終的にはやはり他者との関係の中に落とし込まれていて、「自分で自分を褒めることはできないけど、自分を褒めてくれる他人(千明)を通して受け入れる」というかたち(6話 22:54)。
謙遜が嫌味に聞こえることもあるというのは知ってるので、自分は頭いいだとか言うことで逆に「自分のことを頭いいと勘違いしている馬鹿なやつ」だとアピールするなどの手法を僕は時々取るけれど、今回のことはのように素直には、なかなかなれないなぁ。
例えば知識量なんか、褒められてもそんなに嬉しくない。たまたま知る機会があったってだけのことだし、何かを知らないぶん、他の人は別の何かを知ってるはず。役に立つかどうかはさておきね。
テストの結果とかも結構褒められたものだけど、どんな場所でも順位をつければ必ず誰かは一番になる訳で、それがたまたま自分だったからと言って上には上がいるしなぁとしか思わないし、そもそも僕は努力をしないので、デフォルトで備わってる能力を殊更取り立てるのはナンセンス。人間と比べてチーターの足が生まれつき速いのは当然でしょうと。それより同じくらいの土俵に立つ者同士で努力の結果を比べる方が、よっぽど有意義だろう。
などと言った風に、何かと理由を浸けて否定したくなってしまうのよね。恥ずかしいというか照れるというか……。すごいと称賛されるより、ボケてるところを笑いものにしてくれた方が気が楽かなぁ、僕は。

 

設定

・モヂカラ
正直、ただ普通に現象のみを見ていたのでは、ヤナスダレ攻略のロジックには疑問が生じる。刀が通じないのは"受け流される"からであって、それはモヂカラを込め強くしたところで、或いは武器を銃(大砲?)に変えたところで変わらないのではないか、と。
ヒントとなるのはジイのセリフ(5話 08:25)だ。
最初の戦闘を見返してみると、攻撃が通じなかったのは「丈瑠が不在時の4人」と「一人で戦ってる丈瑠」であって、5人が力を合わせた際には傷を負わせられている、という描写になっている。これは後の「丈瑠が4人の心の支えになっている(丈瑠もまた4人がいるから頑張れる)」という話(5話 12:40)と合わせて考えると、攻撃が通じるか通じないかを分けているのは、ジイの言う通り彼らが「いける」と思っているか否かであり、そしてそれこそがおそらく、"モヂカラ"というものの真面目しんめんもくなのだと思われる。
モチーフとなっている言霊的な信仰の根幹にあるのは、言語と事物はどちらも同じ"コト"であるという価値観だ。
言語学にはサピア=ウォーフの仮説というものがあり、彼らによると、我々の認識する「現実」というものは使用する言語によって大きく規定されているそうだ。
必ずしもこれが正しいとは言わないが、シンケンジャーを読み解くという目的の元で援用するために必要な例を挙げるならば、やはり色彩感覚が分かりやすいだろうか。
日本では虹は七色とされているが、これは世界共通の認識ではない。6色だったり3色だったりする。緑を"アオ"と呼び青と区別しないことがあるように、どこからどこまでを同じ色と見做すかは、文化による。
このような「何と何を区別し、何と何を同じと見做すか」という社会的な"線引き"が如実に現れ、その記録装置として機能するのが、言語だ。
今でこそ別物だとされている昆虫と爬虫類は、古くは同じ"ムシ"として同一視されていたし、今でもその名残は字面に残っている(アマゾンも広義には虫という訳だ)。タブレットという言葉を知らないご老人からするとスマホも何もかも全部"パソコン"になってしまうのも同じような現象だと言える。
これをかなり一般化すると、例えば「花と車を別物するのも正しいとは限らず、同一であり得る」なんていうおいそれとは理解できない境地にもなってくるのだが、とにかく、客観的事実などというものはなく(少なくとも認識はできず)、言語こそが我々の"事実"を措定し生み出しているという観念こそが、言霊信仰の意味するところである。
ということは、モヂカラというのは根本的には「思いを具現化する力」であって、だからこそ「気持ちで勝てば勝てる」というロジックが成立する。「ノリのいい方が勝つ」とも通ずるものがある。
そういった視点で考えると、前回僕は「あの大仰な名乗りは果たして必要なのか」という疑義を呈したが、あのような演出には5人の心を鼓舞し自信を持たせる効果があり、するとそれがそのまま戦闘力に繋がるのだと捉えることができる。スポーツにおける応援団や横断幕のような存在だと言えば伝わりが良いだろうか。
本物の兜にしたって、実用性というよりは装飾としての派手さによる敵への威圧感や自己暗示的な側面が強く見える。よく敵が「見た目が変わったところでなんだ」などと言うが、実はそれって結構重要で、かっこいい冠を被ることによって士気が上がり本当に強くなるというのは、5話のロボ戦においても表れていた。
いやぁなるほど、説得力がある。
6話における悪口描写も、モヂカラの扱いに長けたシンケンジャー"だからこそ"、同じ種類であるズボシメシの攻撃には弱かったのかもしれない。言ってしまえば「思い込み」を糧に戦っているようなものだし。

 


面白いは面白いんだが、気になることもないではない。
かなり"作風"として食い込んだ部分の話になってくるので、もう少し様子を見て確信してから、或いはまとめで言及するつもりだけど。

 

前話

侍戦隊シンケンジャー 第三,四幕「腕退治腕比/夜話情涙川」 感想