やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

仮面ライダーディケイド 6,7話「バトル裁判・龍騎ワールド/超トリックの真犯人」 感想

キャラクター

 門矢士
・個性
数学に、多様性はない。「1+1」の答えは必ず「2」でなくてはならず、それ以外の答えは誤りとして罰(バツ)を付けられてしまう。猫も杓子も口を揃えて「2」だ。
2進数だったら10だとかそういうことを言ってるんじゃない。いや、まぁそれでもいいけれど、とにかく「正しい」という感覚は多様性を奪ってしまう。
「泥団子Aと泥団子Bを合わせたら、2つではなく大きな泥団子になる」というエジソンの有名な故事もあるけれど、これらが示すのは「数の表し方」「"たす"という行為の解釈」に「(必然的な)正しさ」がないということだ。
一般的な算数的には2が正しいが、2進数の立場からは10、エジソンの立場からは大きな1が正しい。
シンジは士のピンボケ写真を「個性的」と評した(6話 10:13)。
これは、普通に見れば「変だ」と言いたいところをぼやかしただけなのだが、それでもあれを"士の個性"と言い得る事実は、アイデンティティ不安をテーマとしている本作において重要でないはずがない。
確かに実際の風景とは違い"正しく"はないかもしれないが、その代わりに"個性"を手に入れているのだ。
猫は「みゃう」、杓子は「さくさく」と、それぞれ別々のことを言っていい。もしかすると「みゃうはともかくさくさくってなんだよ」と思ったかもしれないが、それこそこの表現のユニークさを証明する感覚だ。
人と違い、或いは間違っているからこそ、この"個性"という感覚は生まれるのだ。
その上で、士がうまく写真を撮れないのは「自分の世界じゃないから」であることも踏まえると、「異世界に入り込めばそれだけで"個性"が滲み出る」ということの現れに見える。日本に日本人がいても別に目にも止めないが、外国人がいたら一瞥する程度には気になるだろう。母国に戻れば没個性的に見える彼らは、日本にいることによって「外国人」というひとつ強烈な個性を手に入れるのだ。
Berserk
今回の士は鳴滝に言われていた(7話 07:38)ようにトリガーハッピーな感じというか、戦闘においてかなりイキイキしているように見えた。
詳しくは後述するが、素顔の見えないミラーワールドを「楽しい」と言っていたり(6話 12:00)、鎌田から戦いの打診を受け「待ってた」と喜んだり(6話 15:30)、インペラーを容赦なく叩きのめしていたり(6話 19:50)と、ディケイドとしての本来のムーブをかなり表に出していた。
彼は記憶を失くす前、ショッカーの首領として様々な世界を渡り歩き、"ライダー狩り"を行っていたと聞く。おそらく仮面ライダーとしての能力や武器,弱点などは把握していても、それに変身している人間がどのような存在なのかは知らないままに、そして知ろうともせず、ショッカーに言われるまま「倒すべき敵」とだけ認識して、深く考えず戦っていたのだろう。
そのことについてバーサークのようだと思って調べてみたところ、これも北欧神話に由来する言葉らしい。
ディケイドと北欧神話はかなり密接な関係があって、"九つの世界"というキーワードが共通していることは最も分かりやすい。
そしてベルセルクという人物は、獲った動物の毛皮を被りそれになりきって(乗り移られて)戦う狂戦士だったという。まさにディケイドを表すのに相応しい言葉だったみたい。
・チーム
最終的に士は「ユウスケを信じる」ことができた(7話 12:02)。何故かといえば、それはユウスケが自分のことを信じてくれたからに他ならない。「そこまで考えて(夏海のことを思って)ライダーバトルに飛び込んだんだろ?(6話 12:50)」というのがそれに当たる。
では何故ユウスケがそのように"勘違い"をしたかと言えば、自分のことしか考えられなかった士が、ユウスケやワタルに自分を投影して助けたからに他ならない。例え純粋な利他行動ではなかったとしても、「他人からそう見え」たのならそれは利他行動で有り得る。それが"解釈"だ。
少なくとも士は、ユウスケが自分にそのような善性を見出してくれたことが嬉しくて、実際に利他的な行動を取り始める。
卵が先か鶏が先か……とは有名な言葉だが、どっちでもいいんだよ。例え元は勘違いでも、そこから起こる現象は本当のこと。「嘘から出たまこと」というやつ。
士ひとりではただの戦闘狂かもしれないが、ユウスケとチームを組み解釈してもらうことで、士は正義のヒーロー足り得る。
この構造はまさしく、モモタロスと良太郎のコンビの同じものだ。モモは基本ただ暴れたいだけの怪人だが、良太郎が手綱を握ることでヒーローとして認知される。
これが今回の肝となる"チームワーク"だ。

(参考:侍戦隊シンケンジャー 第三,四幕「腕退治腕比/夜話情涙川」 感想)


 光夏海
・有罪か、無罪か
士は彼女を執拗に有罪(なんなら死刑)にしようとしていたが、ただの内輪の悪ノリギャグとは思えない。
彼女が変身する仮面ライダーキバーラは「ディケイドを止められる唯一の存在」らしいことを踏まえると、士は"ディケイドとして"夏海のことを危険視しており、夏海も「…………ディケイド(1話 02:18)」を危険視しているが、士があぁなるとは思えないので保留にしている(≒ツクヨミ)という構図になるのだろう。


 小野寺ユウスケ
・戦わない
士が蓮と重ねられていた(顔の縦線繋がりでもある)のと同様、今回の彼は真司の役割を負っていたように思う。グロンギやファンガイアとは戦ってきたが、人間であるライダーが敵となる龍騎の世界では、そもそも変身をしない。
・「勝てよ。……士(6話 16:04)」
ユウスケは士のことをディケイドとしては見ていない。最初こそ「悪魔」という情報だけを頼りに否定的だったが、彼自身と触れ合うことで認識を改め、ここまで信頼するに至った。この時の表情とタメがいいんだ。


 辰巳シンジ
・交換可能/不可能性
彼は他のライダーたちと違って、ディケイドが世界に来てから初めて変身したことになるんだよな。A.R.の『龍騎』はオムニバスなんだろうか。 
555ばかりが取り沙汰されてる印象だけど、本当の意味で「誰でも(どんな人でも)変身できる」のはむしろ『龍騎』の特徴なんだよな。3本のベルトはオルフェノクに近い存在じゃないと使えなかったりするけど、龍騎ライダーに必要な資格というのは精々「士郎に目を付けられること」くらいのもので、後は本当に誰でも変身できる。
アギトも一応全人類に種があるけど覚醒するのは限られた人間だけだし、クウガは……あれは一応ベルトさえ付ければ誰でもなれるのかな。でもなんか心が清くないと駄目とかそんな話があったようななかったような。
だが、龍騎になる存在としてのシンジにはいくらでも代わりがいるが、レンにとってのシンジに代わりはいない。それが例え城戸真司であっても、シンジの代わりとして"レンの相棒"になることはできない。


 鎌田/仮面ライダーアビス
・一致
鎌田が融合する描写、なんとなく流してしまいがちだが今一度その意味するところを考えてみると、過去の自分と未来の自分がひとつになるというのは"不変"をイメージさせる。
本来ならば昨日と今日の自分が全く同じく重なるなんてことは有り得ないはずだが、それが一致してしまう不気味さ。これは永遠に死ぬことがないアンデッドの特性も若干手伝ってのことだろうか。
そして勿論、"変化"というのは『龍騎』のテーマのひとつであるので、そのアンチテーゼとしての意味合いがあるのだろう。
・サメ
カードゲーム用語に"シャークトレード"というものがあるらしい。簡単に説明すると「相手を騙して、片方が一方的に得をする交換」とのこと。
相手に損をさせずに自分が得をしようと思ったら、価値観が違う人を選ぶのが手っ取り早い。
Aさんは仮面ライダーのベルトを偶然何かで手に入れたが要らなくて、Bさんはファンなので欲しい。このような場合において譲渡を行うと、Aさんは要らないを処理できて嬉しいし、Bさんもベルトを手に入れられて嬉しい。
だがこれが例えば互いに欲しいお金のようなものだと、Bさんが貰った分だけAさんは損失の感情を抱いてしまうので、それを補う対価を与えなければならない。
価値観が違えばこそ、互いに得をできる可能性は高いのだ。


 鳴滝
・にわか
夏海の意志とは反対に彼女を解放しようとしていたことから、やはり鳴滝はディケイドを"ディケイド"としてしか見ていないことが分かる。
そしてそれこそディケイドのディケイドたる所以であるという意味において、彼は自己矛盾を起こしている。
ディケイドの危険性は「仮面の奥の素顔を見ようとせず、ただ"仮面ライダー"としてしか認識しないことによる非情さ」である訳なので、鳴滝が執拗にディケイドを責めるのは、至極ディケイド的なことだ。
さっきは矛盾という言葉を使ったけれど、もし彼が僕の直感の通り(というかオーマジオウと同じ)士の未来の姿だとするならば、これは"葛藤"という表現になり、自己に対する嫌悪感や否定感の表れであることになる。
ついでに言えば、夏海とキバーラの関係性は士と鳴滝のそれと同型のように思える。夏海がディケイドを危険視することの裏返しとして、キバーラは戦いを推奨する。

 


設定

・プレイヤー
僕は"ヒーロー"について時々、ルーラー/プレイヤーの2種類による大雑把な分類を行っている。
前者は「絶対的正義を押し付ける超越的な存在或いは部外者」を、後者は「あくまで一人の当事者として"自分の正義"を行使する者」を指す。
LEGAL HIGHというドラマの感想でさんざん書いたけど、本当の意味でルーラーになることはとても難しくて、裁判官だって情に流されたり、見た目の印象が悪かったから若干扱いに差が生まれたり……みたいなことは有り得るので、結局のところは裁判も、大きな意味では「人付き合い」或いは「コミュニケーション」に過ぎないのよね。
検事(ゾルダ)が気に食わないから「無性に無罪にてやりたくなってきた(6話 12:40)」なんてのはかなり極端だけど、大なり小なり起こり得ることではある。それは「私情を持ち込むなんて」みたいな感覚ではどうにもできない、ほとんど無意識レベルでのことだと思われるので(ちゃんとしてる人なら尚更)、これはもう人間である以上仕方がないことだと言って差し支えないだろう。
何が正しいことかなんて分からないので、戦いに勝った者の意見が正しいということにする、というのは、合理的かどうかはさておき、弱肉強食的で"自然な"ことではある。
(参考:仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション ネタバレ感想)
・タイムベント
鎌田は2人いるのに、士とシンジにはその素振りがないことが不思議。
本来はタイムベントの能力の一部として、時間を戻す際に現在の自分で過去の自分を上書きするというものがあるんだけど、鎌田だけはシンジが知らない内に付いてきたためそれが行使されなかった結果分裂してしまった……みたいなことにすれば、筋は通るだろうか。

 

演出

・凶器
そもそもフォークで人を殺せるのか……については試す訳にもいかないので「ギリギリできそう」以上のことは言えないが、僕が最初に違和感を覚えた「血が付いてないのになんで犯人だと疑われたのか」については、拭き取ったということにすれば簡単に説明がつく。
また最も大きな問題である「回答編と明らかに演出の仕方が違う」だが、本音を言えば、今となってはこれも然程気にならない。
単純に"見せたいもの"が違うので演出も違う、のだろう。
僕の解釈では、回答編に当たる鎌田のカマイタチの方が大袈裟な演出であって、「衝撃の真実」感を出すために視聴者を驚かせただけ。実際はフォークによるものと見紛う程度の傷だし、窓ガラスもソファもあそこまで派手なことにはなってない。だからこそ、何事もなかったかのようにレンについての話を続行できたものと思われる。
あーでも、士もソウゴのように無意識に世界を歪められるんだとしたら、夏海に罪を着せるために・・・・・・・・・・・本当はカマイタチだったところを刺し傷に変えた……って可能性もなくはないか。
・カプッ
それはそうと、ちょうどキバの世界とクウガ2話を見たのも手伝って、"フォークによる首の刺し傷"に吸血鬼的な印象を受ける。容疑者たる夏海が後に仮面ライダーキバーラになったことも踏まえると、もしかすると意図的なものなのかもしれない。「ケーキを食べようとしただけ」というのも、吸血鬼の食事はそのまま殺人に繋がる訳なので(後述する通り人間もそうだが)、なるほどそういう視点からも補完をすると、この勘違いも多少は説得力が増す。
夏海の元いた世界がキバの世界だと言うこと(だから渡も現れた?)ことの暗示だろうか。

 

テーマ

・背景を辿る
全体を通して、龍騎本編と同じ――全く同じではないが少なくとも似ている――「疑問を持つ」ということがエッセンスとして散りばめられている。
特に顕著なのは、ローストチキン(7話 04:55)だろうか。
まとめにも書いた通り、ライダーバトルは「相手の素顔が見えない」ことによって、殺人に対する罪悪感が軽減されるようにできている。実際の蓮たちの苦悩を思えば説得力はないが、少なくとも士郎はそう意図していたと思われる。
普段は何気なくしている食事だが、生きている鶏を目にしてしまったことで途端に情が湧き出てくる士とユウスケ。この"気付き"に至るためには、「目の前にある"料理"は一体どこから来た何なのか」という疑問を抱く必要がある。
士郎から提示される「戦わなければ生き残れない」という前提を無批判に受け入れるのではなく、本当にそうなのかと自分の頭で考える姿勢こそ、龍騎という作品が50話に渡って描き続けてきたものだ。
……などという僕の解釈もまた鵜呑みにせず、きちんと自分の目で見て考えることをおすすめするが。
ちなみに、じゃあ料理をした栄次郎さんは血も涙もない人間なのかという話だけれど、これもまた面白くて、彼は"あの鶏"のことを「やっと手に入れた"地鶏"」として捉えている。これの意味するところは伝わるだろうか。できればここまでで伝わって欲しい。説明するのが難しいんだ。
仕方ないのでするけど、要はこの認識というのは「人間」や「オルフェノク」みたいなものと同じなのよね。人間にも色々いるし、オルフェノクにも色々いるのに、その個人がどういう性質を持っているのかというのを知ろうとせず、ただ「オルフェノクだから」という理由で殺すような。
栄次郎さんは「地鶏」という"ブランド"に目が眩んで「あの鶏そのもの」が見えていない。少なくとも「この鶏が憎いから、殺して食ってやろう」なんてことは思っていない。ただ「鶏=食べるもの」という認識で停止している。
この言葉の綾も一種の比喩的な"仮面"だ。
AさんBさんから個別性を奪い、代わりに「ユダヤ人」という仮面を被せ同じものとして見做す。
にゃんこAにゃんこBから具体性を奪い、「猫」という言葉で括りつける。
この言葉という仮面のせいで、人は"実感"……すなわち現実の現実性、或いは"リアリティ"から隔離されてしまう。
仮面ライダー(戦隊)ってどれも同じに見える」というのがそれをまさに示す現象だ。仮面ライダー(戦隊もの)という言葉で括って分かった気になってしまうせいで、個別具体的な彼らを見ようとしない。
仮面ライダーはみんな正義の味方」と言い表せてしまうと、なんだか分かった気になる。そうではなくて、悪行を為す仮面ライダーも存在し「仮面ライダーだからと言って正義の味方とは限らない」となることによって、「それぞれ実際に見て確かめないと本当のところは分からない」という状況が生まれる。
これこそが、ダークライダーを生み出す意義である。
そうすることで、少なくとも「仮面ライダーはみんな正義」という一緒くたの認識から、「1号は正義、2号も正義、王蛇は悪……」くらいのところまでは、認識がズームされることだろう。そこから更に、例えば「31話を見ると王蛇も必ずしも悪と言い切れなくて……」のようなプロセスも加わると更に物事の本質に近付けるのだが、まぁそこは順を追って少しずつやっていけばいい。
(参考:"仮面ライダー"の定義を考える/自然と自由の象徴として)
・或いは辿らない
示された前提に疑問を持ち自分の頭で考えることも重要だが、適度に考えないこともまた重要だ。そもそも時間は有限なので、考えてばかりもいられない。
自分で考えないということは、すなわち他人を信じることに繋がる。
今回の例で言えば、士は「本当にユウスケの言う通り、真犯人はレンの他にいるのかどうか」と考えることを放棄している。
常に方法的懐疑のようなスタンスでいることは現実的に難しいので、ある程度は"信頼する"ということも視野に入れ、バランスの取れたものの見方ができるといい。

 


JournalとJourneyって似てるなと思って調べてみたところ、Jourというのは同じ"日々"というニュアンスを持つ言葉らしい。そこから定期的に(毎日)出る出版物→新聞ということでジャーナリズムなどに派生したそう。
"旅"の訳としてはtravel,tripの2つがあるけど、違いは目的地が明確なのがtravelで、ちょっとした……みたいなニュアンスがあるとtrip、そしてJourneyは前述した通り"日々"的な意味を含むので、先が見えなくなるほど長く、旅の一日一日(過程)にフォーカスしたくなるようなイメージだろうか。
ディケイドにはぴったりの言葉だ。

 

 

前話

仮面ライダーディケイド 4,5話「第二楽章・キバの王子/かみつき王の資格」 感想

次話

仮面ライダーディケイド 8,9話「ブレイド食堂いらっしゃいませ/ブレイドブレード」 感想

 

過去作感想

終わりのない戦い『仮面ライダー龍騎』 本編感想