やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

トランス女性(MTF)は女風呂に入れる?/性別とは一体何か

最近Twitterでずーっとあーだこーだ言ってる性別について、そろそろ記事にできそうかなと思ったので。
前提として、ここで扱うのは社会正義ではなく、あくまで筆者の認識や考え方です。社会正義的な、または全く別の意見を聞き、それを取り入れるのは僕の自由なので、もし何か思うところがあれば聞いてみたいです。

 

基本的には、性別とは身体的な特徴……敢えてこの表現をすると、"オス/メス"のことを指すと思ってる。
定義としては、生殖機能の在り方になるのかな。あんまり生物には明るくないけど。
だから正確には、オス/メス/間性の3種類に大別されるのかな。まぁ、もっと言えば間性にはどちら寄りとかあるだろうし、オスメスで性器は定型だけど不妊みたいなトラブル? のある人もいるらしいから、そういうところで更に分類することは可能かもしれない。

 

はい、既にややこしいね。何故なら"分類"というのは恣意的なものというか、特に"名付け"と深く関わってくる行為なので、自然とこうなる。
分類の参考にする事実は確固としてあるものの、実際としては全て別個のものであり、全く同じものは(たぶん)ない。クローンにしたって、形や性質こそ一緒でも、存在する位置とか時間で究極的には"区別"ができてしまう。
それをグループ分けし"同じと見做す"ことに摩擦が生まれるのは、まぁ当然といえば当然。
養老孟司さんが『文系の壁』で、生物の分類について語っていたのが僕としては記憶に新しい。詳しくないので雑な、しかしイメージしやすい例を挙げると、アシナガバチってのがいるじゃない。あれが仮に足が長いだけのスズメバチだとして、それを"スズメバチ内の個体差"と捉えるのか、それとも"別種"と捉えるのか、という話ね。
例えば足の長い個体の量が多ければ別種として認めようという話になったとして、"量が多い"と感じる基準も一定ではない。必然的な基準はないんじゃないかな。

 

昨日、性の多様性についての理解を深めようと、マイノリティもマジョリティも価値判断もなく考え得る可能性を列挙してみようと試みたんだけども、

体の性(男/女/間性(男寄り/女寄り/中立)/無性)×ありたい体の性×心の性×ありたい心の性×性的指向(体の性×心の性を軸に指向なしと人外を加え、複数持ちとその強弱関係を考慮)×ありたい性的指向×不妊か否か×結婚や交際、子作りをする意思の有無……

でゆうに億通りを超す勢いだったので諦めた。ちなみに性的流動性というものを考慮してないのは、ある時点に限定してるから。期間を指定しないと、全員が流動予備軍になっちゃうし。


ここで重要となるのは、たぶん「性別という基準を設ける目的」だ。
例えば「ある個体が子孫を残すために交われば良い個体を見分けるため」とするならば、生殖機能の種類(精子卵子)と実際に機能するかどうかで分けるのが適切だろう。
もしその目的の元にオスメスを分類するならば、不妊の方などはオスでもメスでもないということになる。別に差別してる訳じゃなくて、大した意味を伴わない"形式的な言葉"の話ね。
もし「おおよその性格を知るため」ならば、理屈っぽいことを男性、感情的なことを女性と名付けてみることもできる。こうすると、例え男性器(と一般的に名付けられているもの)を持っていても感情的でさえあれば、その文脈では女性扱いとなる。
性別で分けることそれ自体に本質的な意味はなく、目的に合わせて使い分けることができないならばそのような分類は議論の邪魔にしかならないだろう。

 


僕がこういう話題を考え始めたのは「性同一性障害で男性の体を持つ女性が公衆浴場にて女風呂に入ることを許容すべきかどうか」という議論を見かけたことに端を発するので、これについて取り扱ってみる。
僕のこの目的論でいくなら、まず「公衆浴場を分ける目的は何か」を紐解く必要がある。
僕に想像できる範囲で考え得る可能性を挙げると、

1.自分と違う形の体を持つ(主に外性器や乳房を指す)人について、裸を見られたくない/見たくないという通念があり、それに配慮する(のが経済選択として合理的な)ため
2.自分と違う性自認を持つ人に対しては、裸を見られたくない/見たくないという通念があり、それに配慮する(のが経済選択として合理的な)ため
3.指向対象の裸を見る/見られることにより性的に興奮する/されることがあるが、それを避け互いに落ち着いて風呂に入りたいという通念があり、それに配慮する(のが経済選択として合理的な)ため
4.上記の可能性やその他の社会通念とは全く別な、経営者の個人的な価値観に基いているため

の4つになる。

1ならば体の性と違う方へ入りたい方が不満を持ち(ただし"体の性"は要定義)、2ならば1,3を求める方が犠牲になり(ただし"性自認"は要定義)、3ならば同性愛者の方の扱いが困難になる(ただし"同性愛"は要定義)。
4については経営者次第と言う他ない。

ついでなので女子大へのトランス女性の入学についても少し考えてみる。さらっと調べたところ、"女子大"ができた理由は大雑把に言えば「昔は女性が普通の大学になかなか入れてもらえなかったため、女性の学ぶ場としてつくられた」とのこと。だとするならば、男性の体を持つ彼女らにわざわざ女子大に入る理由はないのではなかろうか。「自分も同じ女性として差別されたい」というなら話は別だけどね。

同性に囲まれて生活したいってんなら、逆に男子大というのを聞いたことがないのが差別的と捉えることすらできる。一対一で勉強を教える大学だって必要になる。

 

ここで少し話題は変わるが、「経営方針に合わない人が出てくることを差別と呼ぶか」という問題がある。
例えば僕なんかは、そもそも「他人と一緒に風呂に入りたくない」タチなので、"公衆浴場"という時点でほぼほぼアウトなんだよね。
公務? 公営? ならばいわゆるポリコレに従いすべての人に不満が出ないよう、僕のような者向けの個室も含めた選択性である必要があるかもしれないが、例えばじゃあ"施設の場所"について、「遠いから我々は差別(軽視)されている」と言うことも可能なため、公衆浴場という存在自体が有り得ないことになる。技術の発展で空間の概念が変わり「どこにでもあってどこにでもない」みたいなことが可能になれば話は別だが。公平や平等を突き詰めると、まぁ何もできなくなるよね。僕らが生きているのだって、何億っていう精子の中から不平等にも選ばれたからだし。

また、マイノリティとマジョリティの扱いの差を完全になくそうとすると、例えばある個人の「自分は神でありすべての人間は自分に従うべきである」みたいな妄想を現実としてきちんと取り扱ってあげなきゃいけなくなる。僕らは共通認識が得られるものを現実、そうでないものを妄想とか記憶違いとか夢だと切り捨てて生きてる訳で、だから証拠を出すなりなんなりしてそれは間違いだと本人に認めさせ、自主的に取り下げてもらうとかしなくちゃいけない。大変だろうね。

 

まぁそんな訳で、全てに配慮するのが無理難題なのを前提として考えた時に、どうしても"不満を持つ人"が出てくるのは仕方ない。
いわゆる「嫌なら使わなければいい」ということになってくる。
経済についても自然淘汰が働くという説があるが、それに従って考えるならば、例えば不満を口にする人やそれを支持する人が増え、「その声に従ったほうが経済的に有利であり合理的だ」という風に"自然と"変わるのを期待して声を上げたりすることは好きにすればいいと思うし、その結果としてもし公衆浴場を運営しようという人が一人もいなくなったのならばそれはそれで自然なことだろうから仕方ないんじゃないって感じ。
なんか投げやりに見えるけど、僕の基本スタンスは「なるようになるから好きにしろ」なので、どうしてもこうなっちゃうんだよね。あと、なるべくニュートラルに表現するよう心がけたけど、性についての単語を入力するのはなんとなく抵抗があった。ので、なんかさ、公衆に見える形でそんな破廉恥な単語を書くなんてセクハラだーとかはできれば勘弁してね。この議題を考えるために避けて通る方法が思い付かなかった。


うーんこれじゃ締まらないな。まともに締まることなんて僕のブログじゃ滅多にないけど。
どうしても僕は虚無主義的になりがちなんだよなぁ。それが良いことか悪いことかなんて考える気にもならない。今の僕がこう考えているというのは事実で、それ以上でも以下でもない。みんな一体何考えて生きてんだろね。

 

過去の僕の思考記録を読みたい方はこちらをどうぞ

86ma.hatenablog.com