やんまの目安箱

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ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

悪者とは弱者である『語ろう! クウガ・アギト・龍騎/555・剣・響鬼』高寺成紀編 感想

※本記事には、度々仮面ライダーの話題が出てくるが、仮面ライダーをご存知ない方がそこを適当に読み流してもある程度は主張が分かるようになっている、はずです。

 

タイトルに冠したのは、最近の自分の所感だ。

どうしてこんな記事を書こうかと思ったかといえば、響鬼を見るに先立って『語ろう!』の寺成紀プロデューサーのインタビューを読んだところ、その善悪観に違和感を覚えたからだ。

余談だが、この多少なり特定の個人に対し否定的な意味を持つ記事を書くに当たって、僕にできる配慮として、決して良いことではないけど、ネットで高寺さんの顔写真を見て、YouTubeに転載されていた彼のラジオ番組を少し聞いた。
僕が向き合うものは変わらず『語ろう!』のインタビューなんだけれども、相手の顔と声を知った上で読むのとそうでないのとでは、読み味がだいぶ違う。特にこれは、インタビューだから話し言葉だし、これだけでも文章は少し息を吹き返す。人を相手にしていると意識して物を言います。と言っても、明らかに歯に衣着せるとかそういうことではないから、僕の自己満足ではあるんだけど。

 

 自分の中では、大岡裁き的なスタンスで、強者から弱者を、悪意から善意を、現実から理想を、守ることなんじゃないかと思ってます。(クウガ・アギト・龍騎 P222より)

これはクウガを見ていて感じたことなのだが、あの作品は「弱者に厳しい」。
ここで言う弱者とは、主に蝶野のことだ。詳しくは本編のまとめとか各話感想に書いたから省くが。
またグロンギを"相互理解不可能な者"として描く(実際その気があったかは分からないが多くそう捉えられている印象)のも、悪人を"人でなし"と呼んでしまうような心理に似ている気がする。
僕はきっと蝶野に近い人間なので、単純に、彼が責められるのは見ていてつらいのだ。

……そうだな、そういう意味ではむしろ、クウガ性善説的ではないかもしれない。
蝶野のことを"最低"と罵るクウガが描いていたものは、とても極端に言えば「人間の本質は善である」ではなく「本質が善でないものは人間ではない」なのかもしれない。対偶だから両方同じように見えるけど、"人間"の定義が違う。
前者は「悪人も心の奥底では善人である」、後者は「悪人は人間ではない」みたいなニュアンス。

まぁ、僕は人間の本質が善だなんて思ってないけど、かと言って悪だとも思ってない。僕の善悪観についてこれから話していく。


善なるものとは強いものであり、悪なるものとは弱いものである

僕の考えは一口で言うとこうだ。

種明かしと言うほどのことでもないが、結局どちらも形のない仮想的な概念なので、言い換えることで定義が明確になったりすることはない。
では何故わざわざ言い換えるかというと、まず強弱の方がグラデーションで想像しやすい。そして、これも表現が難しいんだけども、"仕方ない"感がある。
すぐには伝わらないと思うので、そう思うに至った過程を少しずつ話していく。

 
そんなに大したことじゃないが、僕は幼少期に継母から虐待と呼べるものを受けていた。"虐待"という言葉にも各々の定義があろうから、苦痛を感じていた事の具体例を挙げさせてもらう。

日常的にあったこと
1. 叩く,引きずる,投げるなどの暴力と暴言,無視
2. 食事を抜かれる
3. 家から閉め出される
4. 何時間も歯磨きをさせられる
5. 納得させられる反省文を書くまで寝ることを許されない
6. 罰としての手伝い(食器洗い,風呂掃除,草むしりなど)
特に印象に残ってること
・秋か冬に裸で閉め出される
・風呂場で性器をちぎられそうになる(副次的に溺れる)

箇条書きにすると本当に大したことないな。
大抵は、冷蔵庫の中にある食べ物……ナゲットとかソーセージとかアメリカンドッグとか、レンジでチンしてすぐ食べられるようなものをよく勝手に食べていて、その罰としてこういったことをされていた。またその頃は吃音のきらいもあったので、宿題の音読などで吃った時も「隠しごとをしている」と見做され、同じことをされた。

細かい補足をする。2は、学校のある日は給食を食べられた。3は、記憶に残っているのはおおよそ20:00〜2:00くらいまでで、継母が土曜日に仕事だったりすると、帰宅する17:00まで玄関の前で待っていたりした。いわゆる"鍵っ子"……正確には「"留守家庭児童"だが鍵を持たされていなかった」ので、学童を辞めてからは学校が終わってからの時間も外で待っていた。4については、いつも歯垢検査薬(赤くなるやつ)を塗られて、完全に色が落ちたと継母が認めるまで、何度も磨き直しをさせられていた。時間がない場合はえづくほど乱暴な"仕上げ"もあった。
頻度等については記憶が曖昧なので言及しないが、小学校1〜3年くらいの期間はそのような生活を送っていた。

もうひとつ、こちらは実母との話。
5歳くらいの頃の離婚から、およそ10年ぶりに向こうから連絡があり、虐待の話などもしていく上で精神的に依存するようになっていった。
ただ、実母は新しい子供の世話をしている上に(たしか)躁うつ病も患っており、あまり僕に割く余裕がなく、色々と僕が負担をかけた末に無視されるようになった。

 

さて、誰が「悪い」だろうか。 

僕の善悪については自分では判断しかねるので保留として、それ以外で最も責任を取らせるべきは誰かと、自分の胸のうちに溜まった泥を誰にぶつければ良いのかと、しばらく考えていた時期があった。

実母に対して、病気で余裕がないことを責めるのは筋違いだ。
継母も、はじめての育児……しかも自分が産んだ訳でもない子供で戸惑っていたのだろうと考えられる。別に、僕が憎くて嫌がらせをしていたのではなく、ただどうすれば僕を躾けられるのか分からなかったのだろう。聞いたところによると、彼女もそうやって育てられたという。

そこで初めて、自分に"害意"が向けられていなかったということに気付いた。
そして、自分が抱いていた「泥をぶつけてやろう」という気持ちこそが"害意"だということにも。

母達の行為に対し、自分はひどく被害を感じたものの、それは事件ではなく事故と呼ぶべきものだ。
だが僕が例えば継母に報復をしたとすると、それは事件であり分かりやすく"悪い"。

ここで、自分の罪を減らすような言動をするのは変な感じなので代わりに同じ境遇の別人(クウガで言えば蝶野)を想定したとき、僕は少なからず同情をする。


そもそも悪意……もとい害意とは何かと考えたときに、純粋に言葉通りな"害意"というものは存在しないのではないかと思い至った。自分の利を求める気持ちのうち他人の損を伴うものをそう呼ぶだけであって、「(それによって自分には何も得はないが)害を与えてやろう」というケースは、少なくとも自分には想定し得なかった。

ここまでこれだけのんびりと語っておいてなんだが、どうやらここから思考が少し飛躍している(というか過程を覚えていない)。多分、『寄生獣』とかを見ていた影響なんだろうとは思うが。

えーっと、結論としては、「自分の利を求めるのは自明として、他を害してまでそれを求めるのは余裕がないから」ということになる。

報復をしないという善さというのは、胸のうちの泥を背負って生きられる強さ・余裕のことであり、報復をしてしまう悪さというのは、それを背負い切れない弱さ・余裕のなさと同義なのだと。
ミギーは別に、悪いことしてる訳じゃないよねって。

近年では、以前感想を書いた『聲の形』なんかもそこのところをうまく描いてたかな。

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だから、僕は高寺さんが難色を示していたライダーバトル……争いの権化とも取られやすい浅倉のことを「作中最も弱い人物」として捉えてるんだよね。
五代が泣きながらも暴力を振るうしかなかったように、浅倉は浅倉でああせざるを得ないほどに余裕がないんだろうなって。それを井上さん的に描いたのが、「暗い過去のトラウマ(泥の味)から逃れようとしている」という感じになるんだろうけども。
度々ファイズに襲いかかる木場だって仲間を守ろうと必死なだけだし、仲違いを画策する草加だって母親を求めてもがいているだけ。
剣で言えば、利用されてしまった橘さんや操られた睦月なんかは分かりやすく被害者だよね。

 

反対に、弱い者を悪だと捉えることもできる。そういう意味で、子供って"悪"だと思うんだよね。

椿秀一「未確認達が自分の笑顔の為だけにあんなことをしたおかげで、あいつは自分の笑顔を削らなければならなくなった」

子供は自分の笑顔の為に、他人……主に親の時間や心、体力を蝕む。もし彼らが「生きていてくれるだけで嬉しい」的な、"愛されている"が故に生きることを許されているのだとしたら、グロンギ達は愛してもらえなかったから殺されたことになる。

ペットで考えるともう少し分かりやすいかな? 可愛がっているうちはいいけれど、愛がなくなれば金はかかるし家を汚すしで害獣でしかない。

 

グロンギはただ「遊びたい」だけだ。その結果、人間からすると加害に見えてしまうというだけの話。
子供で例えるならば、興味本位で火遊びをして家が燃えてしまったとか。その時、子供をキックで爆殺して大団円となるだろうか。

愛されない獣から愛されている獣を守ることが、正しいことなのか? 不公平じゃないか?

五代はこれに自覚的だった。と思う。五代をはじめとする人間にグロンギを愛し許してやる度量がないせいで、グロンギに負担を押し付けてしまった形になる。……別に責めてはいない。だが五代はそれを悲しみ、涙を流していたのだと信じている。

 

『555・剣・響鬼』のインタビューではより多様な正義やグレーな状態などといったワードも出てるし、響鬼では結局怪人に負担のほとんどを背負わせてしまったクウガから進化した作品が見られるんじゃないかと、今は期待してるかな。とは言え途中降板云々という話は当然知ってる訳なんだけれども、少なくともそういった「相対的でよりベターな答え」を描いてきたのがアギト・龍騎・555なので、実は後半も意外とうまくいくんじゃないかなと密かに期待してる。

 

あ、ちなみに、タイトルに「高寺成紀編」と付けたけど、今回は彼についてしか書かないというだけの意図で、特に他の方について別に記事を書く予定はないです。でも書かないと決めてるわけじゃないので機会があれば或いは。 

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