やんまの目安箱

やんまの目安箱

ドラマ(特撮)、アニメ等の話を中心に色んなことをだらだらと、独り言程度の気持ちで書きます。自分のための備忘録的なものなのですが、読みたい方はどうぞ、というスタンス。執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意。記事にある情報、主張等はすべて執筆時(投稿時とは限らない)のものであり、変わっている可能性があります。

アンチと呼ばれる自分の心理

僕はよく、作品の"アンチ"って呼ばれる。まぁ、仮面ライダーエグゼイドとかビルドの記事読んでもらえば「そりゃそう呼ばれるだろうな」と納得されてしまうんだろうけども、僕はイマイチこの言葉の指す意味を掴めていない。通じやすさを優先して自称してみることもあるけど、他人に対して「こいつアンチだな」というのを感じたことがないので自分への判断もうまく下せない。


そんな訳で意味を調べることが何度かあったんだけど、pixiv百科事典の説明が一番詳しく細かく書いてあるのね。そこで、これを中心に"アンチ"という言葉について思ってることを書いてみようと思う。たくさん引用することになると思うけど特に断りなければこの記事からです。編集とかされたら食い違う部分も生まれるかも。本日2018/08/17時点での内容を抜粋します。

dic.pixiv.net


本来の意味としてはそのまま『特定の何かに対して嫌悪感・反発心を抱く者orその感情』らしい。
で、ネットで主に使われるのはその中でも『特定の人物・団体・ジャンルなどを、理屈・他人への迷惑・ファンへの配慮を一切無視し、矛盾・暴論なんでもござれ、自分の感情の赴くまま叩き続ける行為やそれを行う人の事』らしい。
ちなみにそれらに則ると、この記事を書いた人は「アンチアンチ」ってことになるんだろね。期せずして、前から修飾するのが正しいのか後ろから修飾するのが正しいのかみたいな疑問が生まれなくなっていいね。
それはともかく1つ目の不満点。『他人への迷惑・ファンへの配慮を一切無視し』という部分。


 アンチは配慮に欠けているのか

 欠けていない……とするのは無理だと思う。でも、「自分が少し我慢すれば配れる気があることは知っているけどそうしない」ことって結構あるでしょ。例えばどんなシチュエーションがあるかな……道端に落ちてるゴミ、拾う? 僕はちょうどいい袋を持ってたら拾う(そして大抵レジ袋をいくつかリュックに入れて持ち歩いている)けど、拾わない時もあるよね。ゴミが落ちてるのを見て不愉快に思う人がいることは容易に想像できるけど、拾わない。
 とはいえまぁこれは比較的ハードル高めかな。多分アンチは他人からしたら「(ネット上に)ゴミ(不愉快なもの)をポイ捨てしてる側」だろうしね。"良いことをしない"は論点が違う。
 もっと適切な喩えないかなぁ……電車内での飲食とか? 例えば僕はおにぎりとか、ペットボトルや水筒に入った飲み物程度なら許せるけど、密封できないタイプの飲み物とかボロボロこぼれるもの、後はお弁当なんかを堂々と横で食べられたりしたらちょっと不愉快。

 この"不愉快な基準"ってのが一番厄介なのよね。食べてる人は「これくらいなら」とか「急いでるから仕方ない」とか思ってやってるんだろうし、或いはそもそも「不愉快だと思う人がいるなんて思いもよらなかった」って可能性もある。やられる側としてはおにぎりも水も嫌だって人もいるだろう。

 

 あ、もうひとついい例があった。"ネタバレ"だ。例えば映画なら、まぁ公開初日には僕でさえふせったーを使ったりと気を使うけど、流石にレンタル開始まで感想を言わないでおく人というのはなかなかいないだろう。だがレンタル派の人が少なからずいることは想像に難くないし、レンタル開始日にその全員が見るかといえばそれも違う。ネタバレを完璧に気にし始めると永遠に感想など言えないのだ。

 また、今言ったのは"時期"についての配慮だが、"どこからをネタバレとするか"にもかなり個人差がある。「予告などから分かる範囲ならいい」だったり、「予告から"想像"できる範囲ならいい」だったり、「核心(だと自分が感じるもの)に触れない範囲ならいい」だったり、「具体的なことを言わず"何か"や"誰か"とぼかせば何を言ってもいい」だったり……。
 この間「君の名は。」の感想を書いた(三葉は宇宙人?『君の名は。』 感想)んだけど、「今更ネタバレなんて気にする人いない」と思う人もいれば「まだ見てない」って人もいるだろう。まぁ僕の場合は、ブログの説明欄に「執筆時に世に出ている様々な情報(つまり僕が知り得るもの)は特に断りなしに書くので、すべてのものに対してネタバレ注意」というワイルドワードを載せているので、基本はネタバレに対する罪悪感というものはない。読まない方が悪い論ね。とはいえ、書いて損する訳でもないので記事の冒頭に書くときもある。最近だとマイティノベルの感想に書いたかな。

 個人的には前後関係を知らずに聞いたことはだいたい忘れちゃうので、ネタバレはほとんど気にならない派。


 これらを踏まえた上で言うと、アンチと呼ばれる人は確かに「作品に否定的な発言を見ると不愉快になる人」に対する配慮には欠けているかもしれないけど、逆にその人たちは「作品に肯定的な発言を見ると不愉快になる人」の存在を少しでも考慮したことがあるのか? と思うのよね。別に「お互い様だから我慢しろ」なんてことが言いたい訳じゃない。不愉快になったら文句や愚痴を言う権利くらいあると思うからこそ僕は日々そういうことを言ってるんだし。

 

 僕が言いたいのは「その人のできる範囲で配慮をするしかない」ってこと。"できる範囲"ってのは色んな意味を含んでて、例えば「想像できる範囲」かもしれないし、「自分が罪悪感を覚える範囲」かもしれないし、「これまで実際に文句を言われた範囲」かもしれない。
 ちなみに僕は基本的に2つ目に従って生きてます。自分のTwitterやブログで悪口雑言を垂れるのは気にならないけど、直接ファンの人にリプライとかで作品への文句を言うのは気が引けるからしない。引用元で言われてる『矛盾・暴論』に関しては、自覚がある場合は自重するか、「これは邪推だけど」や「妄想だからまともに取り合わなくていいけど」みたいな文言をつける。
 人は万能じゃないってのは当然のことなので、すべての"不愉快"に対応できるわけじゃないし、仮に能力的に可能であったとしても精神的な余裕とか時間的な余裕とか、そういうものが足りてないことも十二分にあり得る。僕がいちいち文句言うのは心が狭いからだって言われたらぐうの音も出ないしな。でもそれは別に悪いことではないと思うのよ。僕は自分の心が狭いことに罪悪感を覚えない。だから気にしないし謝らないし積極的に改善を試みたりするつもりもない。

 

 ちなみに、Twitterに関しては『ユーザーは、本サービスの利用により、不快(中略)な投稿に接する可能性があることを、理解しているものとします』(Twitter サービス利用規約より)となっている。もちろんそれに対する文句を言ってはいけないとは書いてないけど、もし「ネガティブな意見を(鍵もかけずに)垂れ流すのは自分の主観とは関係なくおかしいことだ」と思っているのであれば、それは違うよとだけ。
 とはいえ攻撃的なコンテンツはまた別の尺度で違反となる可能性があったりするし、利用規約なんて無視するのも「配慮する範囲」なので僕は強制できないんだけども、Twitterの運営にはルールを違反したツイートやアカウントに対して何らかの制裁を加える能力と権利を持っている。Twitterのルールというのは、運営が公言している「配慮する範囲」だ。法律も同様に解釈できる。『表現の自由に伴う責任』っていうのは、まぁこういうことだろうね。

 

 僕は基本的に「犯罪じゃないならやってもいい」という考え方なんだけど、それを補助する役割を持ってるのがこれらの考え方。補助っていうか、省略した部分かな。法律やその他の場に合わせたルールに反していない限り、何か(例えば転売とか)をするのはその人の判断次第だし、それに対する罰として勝手に該当人物を責める権利なんて誰も持ってないと思う。これは自分の中での微妙なニュアンスなので伝えにくいんだけど、「自分の権利の中で文句を言う」のは良いけど「その結果他人の権利を侵害する」のであればそれは駄目だと思う。だからブログの記事ではできる限り実在の人名を否定的な文脈で出すことは避けるなどの自分ができる範囲の配慮はしてる。仮にどんなつまらなかったり不愉快だったりしようと、それだけなら創り出すことに罪なんかないし、僕には裁く権利なんてない。いわゆる"社会的制裁"みたいなの嫌いなんだよね。スカッとジャパンとかあるじゃない、あぁいうのは見てて不愉快。個人のスケールでやったりやり返したりする分には全く構わないけど、それらのエピソードを晒し上げてみんなでケラケラ笑い合おうってのが気に食わない。

 要するに、個人には文句を言う権利はあっても罰する権利はないってこと。私刑ってやつ。ルール違反だと思うなら適切な場所に連絡するべきだし、そうじゃないなら不満を垂れるしかない。もちろん実在の人物なら名誉を傷付けない限りでね。

 まぁ、国からそんな権利を与えられなくても根源的に人は自由なので、物理的には勝手に罰することもできてしまうし、法律に違反することだってできるんだけど。

 

 当該記事の作為的な記述

『アンチコメを咎められ「感想を言っただけなんだが」とか「これは問題是正のための批判」等「感想」や「批判」という言葉を使ってアンチ行動を正当化するが、実際はせいぜいただの「不満」か「愚痴」、極端なもので「誹謗中傷」の方が正しかったりすることも多い。
そういう輩にはレスをした後100%反論されるのでその際に「ん?俺はお前のレス(コメント)を見た感想を言ってるんだが?感想なら何言っても良いんだよね」と返してやろう。』

 

 この『感想』も僕はよく言う。

  『何言ってもいい』という部分についてはさっき長々と語った通りとして、ここの表現ってとても悪意があるというか、僕は気に食わん。
 『せいぜい』って何よ。まるで感想と批判が不満と愚痴とは全く別物かつ上位にあるかのような。少なくとも『感想』はかなり広く受け取れる言葉でしょ。"否定的な感想"だって十分成り立つし、不満や愚痴、あとギリギリ誹謗だって対象に感じて想ったこと、感想だよ。中傷だけは悪意(あるいは勘違い)の上に成り立つものだから少し違うけど。ついでに言えば、読書感想文で「嫌いだ・不愉快だ」とか書いて金賞もらったことあるからね。マイナスなものもれっきとした感想だよ。それを取り上げてあたかも「(本来そういう意味ではないのに)感想という言葉を隠れ蓑にして自分を正当化している」みたいな文脈にするのはおかしい。
 『批判』に関してはまた少し趣が変わってくるというか、感想には正しい形みたいなものがなくて他人が何かを押し付けるのはお門違いなのに対して、批判は比較的正しさを求められやすい。だからもし何か言ってることに間違いがあれば「批判ではない」と言われてしまっても仕方ないとは思うかな。

 

 あと、『アンチのアンチ』という項にて『尤も、迷惑行為に対して嫌悪感を抱くのは至って普通の反応であり、一概に咎められるものではない』とあるんだけど、これも非常に気に食わない。それが分かってるならどうして『アンチ』と呼ばれる行為に対してここまで一貫して否定的な態度を取れるんだろう? 後の方で『例え本当にその対象の評価が低いものだったとしても、だからといってアンチ行為やそれに近いような過剰な批判、ネガキャン同然の言動が正当化されるわけではないことを念頭に置くべきである』とも書いてあるのに。
 まぁ、「自分がやる分にはいいけど他人がやるのは腹立つ」って言うならそれはそれで自由だと思うけどね。

 

 また『学術的な研究』の最後の方に、『本質的に有害な人たち』として『「何でも嫌う人たち」は、本能的に理由なく欠点ばかりに目を向けるのだそうだ』とあるけど、別にこれも悪くなくない? 欠点に気付きやすいだけのことのどこが『本質的に有害な人』とまで言わしめるのか謎。原典を読んだ訳じゃないからそりゃ分からなくて当然ではあるんだけど、引用するならきちんとそこもして欲しいな。記事の作成者が直接そう主張してるわけじゃないけど、この記事全体のアンチに対する否定的な文脈の中でわざわざ引用して示したってことは、同意見なんだと受け取って差し支えないよね。
 全体的に「アンチに対するアンチ感情」が執筆の原動力となっていることは想像に難くない。つっても結局は想像に過ぎないけど。百科感想ではなく事典ならばもう少しマシな表現方法があると思うよ。

 

 アンチへの対応

 僕がいつも気になってるのはここ。否定的な意見に対して「そういうのはアンチだから真面目に取り合う必要はない」みたいな風潮が理解できないのね。個人的な選択として「自分と食い違う意見は取り合わない」と決めてるならそれで全然構わないんだけど、考える余地を挟まずに「アンチとは取り合う価値のないもの」と切り捨ててる(ように見える)人の多いこと。
 こういう記事はそれを助長しているように感じるんだよね。『要するに構うだけ時間のムダ、逆にアンチを喜ばせることになる。弱い犬ほどよく吠える、蛙の面に小便とでも思って相手にせず無視するのがもっとも効果的である。あまり悪質な場合はブロックを推奨する』とあるけど、『効果的』ってなんだよ。そういう言葉は本来読者と目的(得たい効果)を共有していないと出てこないはず。にも関わらず一方的に無視を奨めるのはとても不思議だ。
 少なくとも僕は(たいてい)真面目に記事を書いてるし、Twitterでの発言はまぁ軽い気持ちのことも多いけど、貶すときはなるべく根拠をつけているつもり。それを偏見(この単語にも一家言あるんだけど今回は割愛)で価値なしと決めつけられるのは腹立つ。


 嫌なら見るな

『自分の嫌いなものにわざわざ触れない』
これについては過去に個別の記事を書いたので、そちらを読んでいただきたい。

86ma.hatenablog.com

 


 最後に

 さんざ文句を言ってきたけど、この記事『最後に』の項にはこれまで僕がうだうだ言ったようなこと(に近いこと)が書いてあるんだよね。

 

『アンチの存在そのものを一切許容せず「マイナスな意見は絶対に許さない」などという強固な姿勢も決して肯定され得る態度ではない。
往々にして世間一般的に「善」と論じられるもの、もしくは自分自身がよいと感じているもの・そう信じている事柄を盲目的なまでに賞賛し、それに敵対するものを「悪」とみなして排除しようとする風潮はバランスを大きく欠いたものであり、行き過ぎれば批判勢力の封じ込めや言論弾圧にも通じかねないからである。
もちろん、これは否定派の側にも当てはまることであり、自分の嫌いなものを手段を問わずに弾圧しようとする姿勢も決して許容され得るものではない』

 

だから尚更どうしてそれらを記事全体に少しずつ配置できなかったのかと。何故それが分かっているのに、最後まで読まなければ公平(というか肯定的)な意見を目にすることができない構成にしたのか、甚だ疑問。見出し機能がある分選択的に読むことはできるけど、アンチのページに来て積極的に『最後に』というタイトルの項を読む人がどれだけいるのか……と考えると、やっぱ平等ではないよ。せっかくなので構成を少し寄せてみたんだけど、全体的な印象として、あの記事に対して中立に見える? 少なくとも僕は見えないね。
 うちのブログ記事は「僕の思ったこと」を書くのが目的だからこんな風に偏った構成で書いても「偏った奴なんだな」と思われやすくなるだけで特に問題ないんだけど、"pixiv百科事典"への信用は僕の中で著しく下がったかなぁ。僕みたいにそれでいいならそれでいいんだろうけど。
 ま、そんな感じ。